第三十七話 「想い」
百四十八



 NERV・資料室。
 
 そこで、葛城ミサトは、じっと考え込んでいた。
 
 
 
 彼女の目の前にあるのは、今までの戦闘の記録。
 
 正確には、以前アスカが見ていたレベル1のものではなく……多岐に渡る分析の詳細までが掲載された、レベル3の記録である。
 
 モニタ上を流れる、映像による記録と数々のデータ……それを、ただじっと見つめ続けている。
 
 
 
 ミサトの脳裏に浮かぶのは、同居人であり、部下であり……愛しい弟のような存在でもある、少年の姿。
 
 碇シンジ。
 
 ミサトは、彼と出会ってから今までのことを、ゆっくりと記憶の底から引き揚げ続けていた。
 
 
 
 不思議な少年だ。
 
 
 
 誰もが、事態を畏れ、パニックに至るような状況でも、彼は自分を見失わない。
 
 それは、極限状態に近付けば近付くほど、顕著になっていくような気がする。
 
 日常生活で時折見せる、あの、歳相応の姿……ミサトにからかわれて慌てたり、レイを前に真っ赤になってしまったり。
 
 その人物像と、およそイコールで結べないほどに……戦闘中の彼は、冷静だ。
 
 そして、類い稀な洞察力……
 
 いや、そんな言葉では、説明がつかない。
 
 「事態を知っていなければ、対処できない」と思われるようなことを、彼はやってみせる。
 
 
 
 ミサトの思考経路は、リツコとは、根本的に違う。
 
 ミサトは、シンジを「敵」だとは微塵も思わない。
 
 シンジは、忌むべき存在ではない。
 
 たとえ、その正体が謎に包まれていて……説明のつかないことが多すぎるとしても、ミサトは、シンジを信じていた。
 
 
 
 彼は、味方だ。
 
 我々の……
 
 そして、人類の。
 
 
 
 ミサトはもう一度、書類をめくり始める。
 
 
 
 浅間山での一件以来、彼女の頭には、あるプランが浮かんでいる。
 
 それは、シンジを「ブレイン」の一員と見なす、ということだ。
 
 現在、ブレインは作戦部の面々、そして上層部の人間に限られている。
 
 具体的には、ミサト、リツコ、冬月、ゲンドウ。
 
 それに、オペレーターたちも、作戦の立案を補佐する。
 
 
 
 ……ここに、シンジを加えたい。
 
 ミサトは、そう考えていた。
 
 
 
 大体、前線に出て闘うのは、彼ら子供達である。命をかける彼らの意見が聞き入れられることは、自然なことだ。
 
 彼らが、意見を言う機会を与えられていないことは……要するに、作戦立案能力には秀でていないと、考えられているからだろう。
 
 だが……
 
 シンジは、違う。
 
 それは、数々のデータが証明している。
 
 
 
 ミサトは、モニタを切って、椅子から立ち上がった。
 
 書類をまとめてバインダに綴じ込むと、きびすを返してドアへと向かう。
 
 自動ドアが開くのと同時に、部屋の電気が消えた。
 
 
 
 廊下に出て、資料室の扉のスリットにIDカードを通した。
 
 プシュッ。
 
 空気の排出音がして、ドアが圧着される。
 
 ミサトは、手の中に収まったIDカードを、じっと見つめた。
 
 ミサトの顔写真と、名前。所属。IDナンバー。
 
 そして……右隅に、4本のライン。
 
 「レベル……4」
 
 小さな声で、呟く。
 
 レベル4。
 
 そこまでは、さすがに許可がおりることはないだろう。
 
 ……だが、3なら?
 
 
 
 シンジをブレインに登用するのであれば……彼が、作戦の考案のために資料を閲覧する権利を得るのは、当然のことだ。
 
 
 
 「レベル3……申請してみようか」
 
 もう一度呟くと、ミサトはカードをポケットにしまって、廊下を歩き出した。



百四十九



 授業の終わりを告げるチャイムと共に、一気に教室は喧噪に包まれた。
 
 シンジは、教科書を鞄の中にしまっていく。
 
 
 
 リュックを背負ったトウジとケンスケが、シンジのそばに駆け寄る。
 
 「シンジ!」
 
 「え? なに?」
 
 かばんをパチン、と閉じながら、シンジは二人の顔を見上げた。
 
 トウジはニカッと笑って、言葉を続けた。
 
 「シンジ、ゲーセン行くで!」
 
 「え? これから?」
 
 「当たり前や! ワイはな、今日っちゅう日を待ち焦がれとったんやぁ!」
 
 握りこぶしで意気込むトウジを、シンジは怪訝な表情で見る。
 
 「……なんか、えらく気合いが入ってるけど……どうしたのさ?」
 
 そのシンジの言葉に、横にいたケンスケが苦笑して応えた。
 
 「実はな……今日、『スト9』があの店に入荷されるはずなんだよ」
 
 「ああ……なんだ、また新しいのがでたの、アレ……」
 
 シンジも、やっと合点がいって、苦笑いとともに応えた。
 
 
 
 「スト9」……正式には、「ストリートファイター9ファイナルエディション」と呼ばれる格闘ゲームである。
 
 第一作は、セカンドインパクトよりも、更に数年前に作られたと言われている。
 
 根強いファンの人気に支えられて、セカンドインパクトの空白期間を挟みつつも、今回、また新作のお目見えとなったのである。
 
 ……ちなみに、「9」といっても、途中に「ZERO」やら「X」やら「SUPER」やら「R」やら「S」やら「HYPER」やら「MEGA」やら「ULTRA」やらいろいろ出ているので、正確には21作目にあたる。
 
 「ファイナルエディション」という名前も、なにが「ファイナル」なのか、もうファンは誰も気にしていなかった。
 
 
 
 「……マンネリだよなぁ、いいかげん、あのゲームもさ」
 
 ケンスケが肩を竦めて答える。
 
 トウジは、ケンスケの胸ぐらを掴んで睨み付けた。
 
 「なんやと、ケンスケ! あの名作に、ケチつける言うんかい!」
 
 「世の中、3D……もっと言えば、ゴーグルつけて疑似体験までできる時代だぜ。スタイルだかなんだか知らないけど、いつまでもアニメ調もないと思うけどな」
 
 「じゃかぁしい! なんでもリアルにすりゃええってもんやないやろ! アレは、アレだからええんやないかい!」
 
 トウジの言うことも、まぁ、もっともだ……と、シンジは思う。
 
 
 
 とは言え、基本的に格闘ゲームをしないシンジには、あまり関係のない話だ。
 
 シンジは、鞄を手に立ち上がった。
 
 
 
 「ゴメン、ふたりとも……今日は、訓練なんだよ」
 
 「あ? ……ああ、なんや、そうなんか」
 
 「残念だな」
 
 睨み合っていたトウジとケンスケが、シンジの顔を見る。
 
 「綾波や惣流も、一緒か?」
 
 「そうだね」
 
 言いながら振り返ると、すぐ後ろに、レイが立っていた。
 
 「碇君……行きましょう」
 
 「うん、行こうか」
 
 頷いてから、シンジは改めて二人の方に向き直った。
 
 「スト9は、また今度にするよ。じゃあ」
 
 軽く手をあげて、シンジはきびすを返した。
 
 「ああ、またな、碇」
 
 「また明日な、シンジ」
 
 二人が、シンジの背中に声をかける。
 
 
 
 「綾波、アスカは?」
 
 「……あそこ」
 
 シンジの言葉に、レイが手をあげて指差す。
 
 見ると、教室の戸口の辺りに、こちらに背を向けたアスカが立っているのが見えた。
 
 「へぇ……待っててくれたのかな」
 
 「………」
 
 「じゃあ、行こうか」
 
 「……ええ」
 
 シンジとレイは、アスカのそばまで駆け寄った。
 
 シンジは、アスカに声をかける。
 
 「アスカ、訓練だよね? 行こうよ」
 
 「え? ……ああ、シンジか」
 
 アスカが振り返ってシンジの顔を見ると、足許に置いてあった荷物を手にとった。
 
 「じゃあ、行くわよ」
 
 「アスカ、待っててくれたの?」
 
 「……バカじゃないの。今、授業が終わったところでしょ? で、私達の行き先は同じ。……って言えば、待ってなくても一緒になっちゃうことだってあるわよ」
 
 「そ……うかな?」
 
 「ホラ、ボ〜ッとしてんじゃないわよ! キリキリ歩きなさいよ、キリキリ」
 
 バン! と背中を鞄ではたかれて、シンジはよろよろと二三歩前に出ると、苦笑して歩き始める。
 
 それを追い抜くようにアスカが前に立ち、レイがシンジのすぐ横に続く。
 
 
 
 そのやりとりを見ていたトウジは、肩を竦めて呟いた。
 
 「ケンスケ……ああいうの、待ってたって言わんか?」
 
 「言うだろうね」
 
 ケンスケも、呆れた顔で答える。
 
 「素直やないな、惣流も」
 
 じっと、出口の方を見ながら、トウジが言う。
 
 
 
 「そういうこと、言わないのよ」
 
 いつのまにか、二人の後ろに立っていたヒカリが声をかけた。
 
 トウジとケンスケが振り返る。
 
 「なんや、委員長」
 
 「黙って見てるものよ、こういうことは」
 
 「? ようわからんの……」
 
 「それより」
 
 ヒカリは、トウジの前に、ズイッとモップの柄を突き出した。
 
 怪訝な表情をするトウジを、ヒカリが睨み付ける。
 
 「……週番でしょ、鈴原!」
 
 「ゲッ」
 
 思わず、情けない顔をするトウジを横目で身ながら、ケンスケはひとり、達観するのであった。
 
 (素直じゃないのは……委員長も、トウジも、いっしょだよな〜)



百五十



 ミサトの申請したシンジのカードは、ほとんどタイムラグもなく却下された。
 
 NERVはもともと、書類の処理が素早い団体だ。だが、それにしても、異例と言って良い反応の素早さだった。
 
 ミサトは、却下された申請書を手に、立ち尽くす。
 
 この場合、どうしたら良いか?
 
 ……簡単に思い付くのは、意志決定の最高機関……要するに、NERVの頂点たる碇ゲンドウに直談判することだ。
 
 
 
 だが、ミサトは頭を抱えた。
 
 正直なところ、もっとも避けて通りたいコースだ。
 
 「司令に、なんて説明すりゃぁいいのよ……」
 
 苦手意識バリバリである。
 
 
 
 結局、ミサトが取った手段は……二番目の意志決定機関、冬月コウゾウに許可を求めることだった。
 
 
 
 冬月は、ゲンドウの執務室にいることが多い。
 
 だが、ゲンドウが横にいる状態で冬月と話をしたのでは、わざわざゲンドウを避けた意味がない。
 
 そのため、ミサトはまず、冬月の個人士官室を訪れた。
 
 
 
 冬月は、副司令という肩書きを持つ、NERV重要人物のひとりである。
 
 当然のことながら、個人の士官室を所有している。
 
 ……だがそこは、NERVの内部では、密かに「ゴーストルーム」と呼ばれていた。
 
 
 
 ……所有者である冬月が、ほとんどそこにいないからである。
 
 
 
 ミサトはエレベーターに乗ると、上向きのボタンを押す。
 
 ゲンドウが、最上層に、例の広大な執務室を所有しているのに対し……冬月の士官室は、ミサトやリツコのそれと同じ階にあった。
 
 部屋の広さも、二人の部屋と変わらない。
 
 勿論、NERVとしては、冬月に大きな部屋……「副司令執務室」とでも言うべき物を用意することはやぶさかでない。
 
 しかし、それを、冬月は辞退した。
 
 理由は知らない。だが、彼の人柄の一端を、そこに見て取ることができるような気がした。
 
 
 
 ミサトが、ゲンドウではなく冬月に申請を出そうとしていることは、そういった違いのせいもあるだろう。
 
 
 
 最初、ミサトはインタホンを押しながら、すでに「次はどこに探しに行くか」に思いを巡らせていた。
 
 冬月がそこにいる確率は、ほとんどないと思ったからだ。
 
 だが、冬月とて、時には士官室で仕事をすることもある。
 
 スピーカから冬月の「なにかね」という言葉が聞こえてきた時、ミサトは仰天してしまっていた。
 
 
 
 慌てて、ミサトは返事をする。
 
 「あっ、あの、副司令、葛城ですが……」
 
 『わかっとるよ』
 
 「あ、え? ……あ、はい」
 
 そう、扉の外は、カメラを通じて確認することができる。
 
 同じタイプの士官室を使用していながら、ミサトは思わず失念していた。
 
 「も、申し訳ありません」
 
 『どうした? 何の用かね』
 
 「あの……ちょっと、お時間を頂きたいのですが」
 
 『ああ、構わんよ』
 
 同時に、ブシュッ、と自動ドアが開かれた。
 
 ミサトは、その中に足を踏み入れる。
 
 
 
 冬月の部屋に入るのは初めてだ。
 
 ミサトは辺りを見回すが、特に珍しいものはなかった。
 
 壁の本棚には、バインダーやファイル、書類などが綺麗に整理されて並べられている。
 
 机の上には、小さな地球儀が置いてあった。
 
 ふと見ると、その横に、フォトスタンドが置いてある。
 
 中に映っているのは……冬月と……小さな少女だった。
 
 ミサトは、横目でそれを見ながら言う。
 
 「お子さんですか?」
 
 冬月は、書類から目をあげてミサトを見て、それからフォトスタンドに気付いて少し微笑んだ。
 
 「……まぁな」
 
 そして、再び、書類に目を落として、ペンを走らせる。
 
 「かわいいですね……おいくつですか?」
 
 「いや、セカンドインパクトで死んだ」
 
 「えっ……」
 
 こともなげに言う冬月に、思わずミサトは言葉を失う。
 
 しばしの沈黙……。
 
 やがて、ミサトは俯いて頭を下げた。
 
 「申し訳ありません、副司令」
 
 「気にすることはない。あの時、実に多くの人間が死んだ。珍しいことではない」
 
 そう……
 
 葛城ミサトの父も、あの時、死んだ。
 
 
 
 珍しいことでは、ないのだ。
 
 
 
 ……だが、同時にミサトは、微妙な違和感を感じた。
 
 ……冬月は、結婚していないはず……
 
 「なにか、話があったのではないのかね」
 
 冬月の言葉に、はっと我に帰るミサト。
 
 そうだ。
 
 いま、ここに来たのは……
 
 「実は……サードチルドレンのレベルを上げたいと思いまして」
 
 ミサトは、静かに切り出した。
 
 
 
 冬月は、書類の上に走らせていたペンを止め……ゆっくりと、ミサトの顔を見た。
 
 「……ほう……何故かね」
 
 「彼は、的確な状況判断や洞察力などに、目を見張る物があります。私としては、彼に、作戦について、発言権のある待遇を与えてみたいと思っています」
 
 「………」
 
 「そうなると……彼自身、様々な資料に目を通す必要が出て来る事態もあるでしょう。彼のレベルでは、ほとんど何も分からないに等しい。せめて、レベル3程度の資料を閲覧できるように、はからってやりたいのですが……」
 
 
 
 冬月は、ゆっくりと背もたれに体重を預けた。
 
 ミサトの瞳を見つめ……それから、目を閉じて、静かに息をついた。
 
 そして、再び瞼を開く。
 
 ミサトを見る。
 
 口を、開く。
 
 「……それは、できないな」
 
 「……何故です?」
 
 ミサトが、静かに応える。
 
 冬月はもう一度座り直すと、机の上に肘をついて言葉を紡いだ。
 
 「NERVの与えるレベルとは……伊達や酔狂でつけられているわけではないよ。MAGIが綿密なシミュレートを行い……その人物に妥当な、しかるべき数値をつけているのだ。
 
 シンジくんがレベル1なのは、必然だ。そう容易く、レベルを上げるわけにはいかない」
 
 「……しかし」
 
 「……それに、他のチルドレンは、どうするのかね」
 
 「………」
 
 「レイやアスカは、レベル1のままなのだろう? シンジくんのレベルだけ、上げるわけにもいくまい。特に、子供の頃からNERVに所属していたアスカが、ずっとレベル1なのだ……彼にだけ、そんな待遇を許すわけにはいかんよ」
 
 
 
 ミサトは、それ以上反論することが出来なかった。
 
 冬月の言うことは、理に適っている。
 
 「……わかりました」
 
 ミサトが、静かに言った。
 
 「まぁ……葛城君、作戦について彼の意見が聞きたいのなら、個人的に聞いてみたらいいのではないかね」
 
 「そうですね……そうするしかないでしょう。わかりました」
 
 ミサトはそう応えると、ゆっくりと外に向かって歩いていく。
 
 バシュッ
 
 自動ドアが開いた。
 
 「……失礼します」
 
 ミサトは、出て行った。
 
 
 
 冬月は、小さく、溜め息をついた。
 
 「……認めるわけにはいかんよ、今は」
 
 呟く。
 
 「彼が、何者なのか分からないのだ……
 
 彼に、レベルを与えることなど、できはしないよ」



百五十一



 ミサトは自動ドアをあけると、中にいる人物に声をかけた。
 
 「こんちは、リツコ」
 
 リツコは、目線だけ出入り口の方に向ける。キーボードの上を踊る指は止まらない。
 
 「ヒマそうね、ミサト」
 
 「そう見える?」
 
 ミサトは言いながら部屋の中に入ると、手前にあった椅子にどっかりと腰を降ろした。
 
 
 
 「はぁ〜あぁ……」
 
 盛大な溜め息。
 
 
 
 リツコは、そんなミサトを横目でしばし見つめて……小さく溜め息をつくと、キーボードを叩く指を止めた。
 
 椅子を回して、立ち上がる。
 
 「……コーヒーしかないわよ」
 
 「さんきゅぅ〜」
 
 顔を上げて、満面の笑みを浮かべるミサト。
 
 リツコは軽く肩を竦めると、ビーカーのセットされたランプに火をつけた。
 
 
 
 ……数分後、二人の手許には、暖かな湯気を上げるマグカップがおさまっていた。
 
 
 
 「……で? なにか、話があるんじゃないの?」
 
 リツコが、コーヒーをすすりながら言う。
 
 ミサトは、あっけらかんとした表情で、リツコの顔を見た。
 
 「わかる?」
 
 「そりゃね」
 
 リツコの言葉に、ミサトはマグカップを机の上に置いた。そのまま、大きく仰け反り、背もたれに体重を預ける。
 
 「シンちゃんにさぁ……」
 
 「シンジくん?」
 
 「……レベル3の待遇をあげようと思って」
 
 「………」
 
 「却下されたけどね」
 
 「……でしょうね」
 
 「なんでかしら? いや、副司令にも説明してもらったし、言いたい意味は分かるのよ……でも、もっと柔軟に対処してもいいと思わない?」
 
 ミサトは、天井を見上げながら言う。
 
 
 
 「……そんなに簡単には、いかないことなのよ」
 
 リツコが、呟くように言う。
 
 ミサトは、リツコを見た。
 
 「どうして?」
 
 「……ミサト……あなたにも、わかっているでしょう? ……彼には、分からないことが多すぎる」
 
 「……それはそうかも知れないけど、でも」
 
 「高いレベルを与えるということは、それだけ、NERVの内部に深く入り込んで動きまわれるということよ。レベル3程度なら、まぁ、できることにも限度があると思うけど……それにしても、レベル1に抑えておけるのなら、それにこしたことはないわ」
 
 「……シンちゃんは、敵じゃないわよ」
 
 「……そんなこと、誰に分かるの」
 
 「………」
 
 「私もね……シンジくんが、私達に敵対しているとは思い難い面を感じるわ。でも……プロっていうのはね、そう思い込ませることから、作戦が始まるのよ」
 
 「……スパイだと言うの?」
 
 「可能性のひとつよ。もちろん、そうでない可能性もある。スパイだっていうだけじゃ、説明のつかないことも多いしね……。
 
 でも……我々に敵対する可能性が1%だってある限り、高いレベルは与えられないのよ」
 
 
 
 部屋に、静寂が訪れた。
 
 
 
 ややあって、ミサトが口を開く。
 
 「少なくとも……」
 
 「………」
 
 「シンちゃんは……レイのことは、本気で愛しているわよ」
 
 「……そう」
 
 「嘘じゃないわ!
 
 ……あんなこと、演技でできやしない。
 
 それなのに……私達を、裏切るわけ、ないわ」
 
 「……そう……そうかもしれない」
 
 「シンちゃんは……敵だとは思えないわ……とても」
 
 「ミサト……私は、客観的に判断しているだけよ」
 
 「……わかってる」
 
 「いずれにせよ……おそらく、申請が通ることはないわね」
 
 「……そうね……わかるわ……ごめんなさい」
 
 「いいえ」
 
 
 
 ミサトは、机の上のカップを見る。
 
 湯気は消えていた。
 
 ミサトはそのカップを手に取ると、一気に飲み干した。
 
 冷たく苦いコーヒーが、喉の乾きを、むしろ促進させるような気がする。
 
 
 
百五十二



 今日の訓練は、シンクロテストだった。
 
 講評を終え、三人は、ブリーフィングルームを出た。
 
 
 
 アスカは、いつものことではあるが……やはり、機嫌が悪い。
 
 アスカ自身のシンクロ率が決して悪くないにも関わらず……一向に、シンジのそれに追い付くことが出来ないからだ。
 
 ある程度の数値に達してしまったシンクロ率は、以後、それ以上に数値を伸ばすためには、本人の努力だけではどうにもならない部分がある。
 
 いわば、「無意識下の動き」のようなものに左右される世界になり、単に「やる気」や「集中力」を意識的に発揮しただけでは、数値をあげることが出来ないのである。
 
 
 
 「二人とも、このあと、どうするの?」
 
 シンジは、振り返ってレイとアスカを見る。
 
 アスカは憮然とした顔で、シンジを睨んだ。
 
 「……着替えるわよ」
 
 「……いや、そういう意味じゃなくてね……」
 
 三人とも、まだ、プラグスーツに身を包んでいる。
 
 アスカは、ツカツカと歩いてシンジを追い抜くと、くるっと半身を翻した。
 
 「別に、どうでもいいでしょ。適当にぶらついて帰るわよ」
 
 言い切ると、そのまま回転して、もと向いていた方に向き直り、大股で歩いて行ってしまった。
 
 
 
 シンジは、苦笑してその後ろ姿を見つめると、横に立つレイを見る。
 
 「じゃあ綾波、ふたりで帰ろうか」
 
 「うん」
 
 レイは、ニコッと微笑んで、シンジのそばに寄り添う。
 
 シンジの手を握る。
 
 「帰りましょう」
 
 シンジは、レイの行動にちょっとだけ驚いて赤くなると、鼻の頭を掻いて照れ笑いをした。
 
 「あの、綾波……まだ、着替えてからだよ」
 
 シンジの言葉に、レイは、ほんの少し寂しそうな表情を見せる。
 
 「………」
 
 「また、エレベーターの前で待っててくれたらいいから……」
 
 「……更衣室も……同じだったらいいのに」
 
 「そ、そ……それはちょっと……」
 
 
 
 更衣室。
 
 シンジは靴ひもを結ぶと、立ち上がってロッカーを開けた。
 
 更衣室にはロッカーが幾つか並んでいるが、男のチルドレンはシンジひとりしかいないため、実質的には貸し切り状態である。
 
 シンジは、脱いだプラグスーツを適当に畳んで、ロッカーの中に放り込む。
 
 こうしておけば、次の時にはクリーニングされている……というか、おそらくは、替えの物と交換されるのだろう、と、シンジは思う。
 
 荷物を手に持つと、自動ドアを開けて、廊下に出た。
 
 
 
 エレベーターホール。
 
 レイは、長椅子に座って文庫に視線を落とし、シンジが来るのを待っていた。
 
 やがて、エレベーターの到着を知らせる電子音が響く。レイは文庫を閉じて立ち上がった。
 
 エレベーターの扉が開くと、中から愛しい少年が、微笑みを浮かべて出てくる。
 
 レイは、それを想像していた。
 
 
 
 「!」
 
 
 
 エレベーターから出てきた人物。
 
 その姿に、レイはその体をこわばらせた。
 
 その人物は、レイを一瞥して、箱の中から歩みでる。
 
 その背後で、エレベーターの扉が閉まる。
 
 
 
 その人物は、レイの前で、直立不動の姿勢で立っていた。
 
 レイも同じく、じっと立っている。
 
 しばらくの沈黙のあと……
 
 その人物は、ゆっくりと、口を開いた。
 
 
 
 「……レイ」
 
 「……はい」
 
 「最近の調子はどうだ」
 
 「問題……ありません」
 
 「そうか……ならばいい」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……レイ」
 
 「……はい」
 
 「シンジから……何か聞いているか」
 
 「何をでしょうか」
 
 「何でもだ」
 
 「……何も」
 
 「……そうか」
 
 「………」
 
 「レイ……何故、実験に姿を見せない?」
 
 「………」
 
 「レイ……わかっているはずだ」
 
 「………」
 
 「おまえがいなければ、ダミーの開発は進まん」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……レイ」
 
 「……はい」
 
 「……おまえは……シンジとともに生きられると思うか?」
 
 「!」
 
 
 
 ゲンドウが現れたその時から……その顔から全ての表情を消し去っていたレイが、激しい感情の渦を瞳に垣間見せた。
 
 動揺。
 
 動揺。
 
 動揺……。
 
 そんなレイを見つめるゲンドウは、全くの無表情だ。
 
 「……シンジに、自分の存在の全てを、語れるか?」
 
 「………」
 
 「シンジは……受け入れることなく、おまえを拒絶するかも知れん」
 
 動揺。
 
 「レイ……お前の生きていく道は、幾つもありはしない。実験を行なえ……計画の礎たる自分を、自覚するんだ」
 
 動揺……。
 
 
 
 乾いた電子音が、ホールに響いた。
 
 
 
 「綾波、お待た……せ……」
 
 シンジの言葉は、急速に空気の中に掻き消えた。
 
 シンジに背中を向ける男。
 
 顔は見えない。
 
 だが……それが誰なのか、シンジには、見間違うはずがなかった。
 
 
 
 シンジは、ホールに足を踏み入れた。
 
 その背後で、エレベーターの扉が閉まる。
 
 
 
 「……父さん」
 
 シンジは言いながら、ゲンドウの横に歩み出た。
 
 そのまま、ゲンドウの顔は見ずに……ゲンドウと対峙しているレイの顔に、視線を動かす。
 
 シンジと目が合い、バッと俯くレイ。
 
 激しい困惑と動揺。
 
 
 
 シンジは、立ち止まらなかった。
 
 そのまま、まっすぐレイの前に行くと、その手を握り締めた。
 
 
 
 ビクッ、と硬直するレイ。
 
 その手から、小刻みに震えるその両手から……
 
 レイの不安が、シンジの心に伝わってくるのを感じた。
 
 
 
 シンジは、レイの両手を握り締めたまま、口を開く。
 
 「帰ろうか、綾波」
 
 「………」
 
 レイには、返事が出来ない。
 
 
 
 ゲンドウが、そのままの姿勢で、言葉を発した。
 
 「シンジ」
 
 「………」
 
 シンジは答えない。
 
 ゆっくりと……レイの手を握ったまま、振り返り……ゲンドウの瞳を見据えた。
 
 
 
 「シンジ……レイは、これから用事がある」
 
 「……何のさ?」
 
 「おまえが知る必要のないことだ」
 
 「そうかい? ……そうじゃないだろ?」
 
 「………」
 
 「綾波を連れていって……どうするんだ」
 
 「レイは……おまえとは違うのだ。レイにはやらねばならんことがある」
 
 「必要無い」
 
 「それは、お前が決めることではない」
 
 「じゃぁ……綾波に決めてもらおうか?」
 
 「……なんだと?」
 
 「父さんが……決めることでもないんじゃないか」
 
 「おまえは何も分かっていない」
 
 「分かっているさ」
 
 
 
 シンジは、レイの方に振り返った。
 
 レイは俯いたままだ。
 
 シンジは、そんなレイの頬に、そっと指をふれる。
 
 「綾波……」
 
 「………」
 
 「綾波……どうしたい?」
 
 「………」
 
 ふるえが……全身に広がっていく。
 
 
 
 どうしたい……?
 
 
 
 私は……
 
 
 
 どうしたいの?
 
 
 
 ………
 
 
 
 碇君と……
 
 
 
 ……いっしょに、いたい。
 
 
 
 でも……
 
 
 
 ………
 
 
 
 私は……
 
 
 
 計画の……ために……生きている……。
 
 
 
 ………
 
 
 
 ………
 
 
 
 ………
 
 
 
 ……それに……
 
 
 
 ……碇君に、拒絶されたく、ない……。
 
 
 
 ………。
 
 
 
 ………。
 
 
 
 ………。
 
 
 
 きょ……ぜ……つ……
 
 
 
 される……くらい……なら……
 
 
 
 ………
 
 
 
 ………
 
 
 
 ………
 
 
 
 ………な……ら
 
 
 
 「……わ……た……し、は……」
 
 
 
 こわばって、潤いを失った唇から、掠れるような声が、かすかにこぼれる。
 
 レイの足が、ぎこちない一歩を踏み出そうと……床に貼り付いた足の裏を、無理矢理引き剥がそうと……苦しい力をこめた……
 
 そのとき。
 
 
 
 レイの目は、大きく見開かれた。
 
 頭の中が、真っ白になった。
 
 狂おしく渦巻いていた全てが、一瞬、一気に消し飛んだ。
 
 
 
 シンジが……
 
 力の限りを込めて、レイの体を抱き締めていた。
 
 
 
 「……い……か……り……く……」
 
 掠れた声のまま……レイが、つぶやきを発する。
 
 シンジは、レイの頭を抱えて、自分の首筋に埋めてやると、更に腕に力を込める。
 
 
 
 「綾波……
 
 綾波……
 
 僕は……
 
 綾波を、護るよ。
 
 
 
 ……綾波。
 
 綾波は、何も違わない。
 
 僕は……綾波から、離れていくことなんて、ない」
 
 
 
 レイの耳から、染み込むように入っていく、言葉。
 
 
 
 レイの視線は、空中の一点に、凝固されていた。
 
 脳細胞の、すべてが……シンジの言葉だけに、集結していく。
 
 
 
 シンジは、言葉を紡いだ。
 
 
 
 「綾波……約束を、覚えているかい?」
 
 しばしの、静寂……。
 
 シンジは、もういちど、ゆっくりと……レイの腰を、抱き締めた。
 
 
 
 シンジの脳裏に浮かぶ、忘れがたい光景。
 
 レイの心を表していたような……薄暗く、寂れた部屋。
 
 何も感じることの出来ない……固い壁に囲まれた、四角い箱。
 
 
 
 あの部屋で、レイが見せた感情。
 
 レイの瞳からこぼれた、涙。
 
 レイが自分を見つめる、瞳……。
 
 
 
 そんなレイに誓った、決して忘れてはならない、言葉……。
 
 
 
 シンジは、強く、そして……優しく、レイの耳元で呟いた。
 
 
 
 「そばにいるよ……綾波」
 
 
 
 レイの両目から、涙がこぼれた。
 
 前触れなく。
 
 嗚咽することも……まばたきすることもなく……ただ、その紅い瞳から、涙があふれた。
 
 
 
 その言葉は、トリガーだった。
 
 過去に戻ったかのように固くなっていた彼女の心の壁を、打ち壊す、トリガー。
 
 その銃を握っていたのは、綾波レイ。
 
 その撃鉄を起こしたのは、碇シンジ。
 
 そしてトリガーを引いたのは……二人の心。
 
 
 
 涙に溢れるレイの瞳に、消えていた感情が渦巻いた。
 
 垂れていた腕が、ふるえながら……シンジの背中に回った。
 
 
 
 「う……あ、あ……あ……」
 
 レイは、シンジを抱き締めた。
 
 弱々しい、小さな、力で。
 
 しかし……しっかりと……。
 
 抱き締めても……
 
 抱き締めても……
 
 まだ足りない。
 
 その全てを、身体中で感じ取りたかった。
 
 
 
 この少年への愛は、嘘で塗り固めることの出来ないものだった。
 
 自分を騙しても……心がそれを、拒絶した。
 
 何物にも変え難い……
 
 想い。
 
 
 
 レイは、何も言えなかった。
 
 ただ、シンジを抱き締めて……シンジの胸に縋り付いて……涙を流し続けた。
 
 
 
 シンジは、泣き続けるレイをきつく抱き締めたまま……ゆっくりと、ゲンドウに向かって言葉を紡いだ。
 
 低く……
 
 強く。
 
 
 
 「父さん……
 
 綾波は、父さんの人形じゃない。
 
 
 
 彼女は……まだ、自分では、決められないかも知れない。
 
 でも、選択肢はひとつじゃない。
 
 彼女の道は……全てに、開けている。
 
 
 
 誰にも縛られない。
 
 誰にも拘束されたりしない。
 
 ……彼女は、自由だ。
 
 
 
 ……それが、人間なんだ」
 
 
 
 ゲンドウは、答えなかった。
 
 何も、言わず。
 
 その表情にも、何も見せずに。
 
 
 
 数分ののち……その場から二人が去った後も……
 
 ただ、じっと、その場に立ち尽くしていた。



百五十三



 ……綾波には、決めることが出来なかった。
 
 ベッドの上で眠るレイの横顔を眺めながら、シンジは考える。
 
 
 
 ここは、レイの家。
 
 帰り道……ずっと、声を押し殺して涙を流し続けていたレイは、帰宅するなり、疲れたように眠りに落ちてしまっていた。
 
 シンジは、そのベッドの横に座って、ずっとその寝顔を見ている。
 
 レイが目覚めた時に……そばに、いてあげたかった。
 
 
 
 結局……
 
 綾波は、明確な拒絶の意志を、表わすことが出来なかった。
 
 シンジは、考える。
 
 
 
 僕を抱き締めることで……今日は同行しない、という意志を示すのが、精一杯だった。
 
 ……それはある意味、仕方のないこと。
 
 生まれてから、今までずっと……教えられ続けてきた、自分の唯一の存在意義。
 
 そこから離れることは、咄嗟には難しいだろうし……頭で納得していたとしても、そう簡単に切り替えることができない問題でもあるだろう。
 
 いわば、刷り込まれた意義のようなものだ。
 
 
 
 あの時……自分があそこに行ったとき、綾波は動揺していた。
 
 父さんに何を言われたんだろう?
 
 綾波が、最近いつも、僕と一緒にいることは感じていた。
 
 少なくとも、前回は、綾波の姿を見ない時間の方が、多かった気がする。
 
 父さんやリツコさんと、何かしていたんだろう。それは、想像に難くない。
 
 
 
 ダミーシステムの開発かなにかだろうか?
 
 パーソナルパターンは、セントラルドグマにいるクローンたちからでも、読み取ることができるはずだ。
 
 不確定要素を取り去るために、人格を持つ存在である、この綾波を使いたいのかも知れない。
 
 
 
 横に眠る、レイを見る。
 
 乾いた涙の跡が、頬にかすかに残る。
 
 
 
 綾波……。
 
 今は、まだ、いいよ。
 
 ずっと、信じてきたこと……。
 
 それを切り離すことは、多分、まだできないだろう。
 
 すっかり吹っ切れたような気がしてたけど……まだ、時間が必要なんだ。
 
 
 
 いつか、自分で、自分の道を決められる時が来るだろう。
 
 それは、父さんやリツコさんや……委員会や、ゼーレの決めた道ではなく。
 
 ……そして、もちろん、僕が決めた道でもない。
 
 
 
 僕が手を引いてあげるのは、簡単だ。
 
 綾波は……僕を信頼してくれている。
 
 僕が意見を言えば……ついてきてくれるかも知れない。
 
 
 
 でも……
 
 それでは、だめだ。
 
 この重要な選択を……僕の意志で決めてしまっては、きっと、このあと……彼女は何も決められなくなってしまう。
 
 僕の意志なしでは、歩くことが出来なくなってしまう。
 
 
 
 それでは、だめだ。
 
 
 
 父さんの人形だった……昔と。
 
 何が違う?
 
 役割が、変わっただけだ。
 
 
 
 綾波……ずっと、そばにいるよ。
 
 道を踏み間違えることのないように……ずっと、見てる。
 
 でも……
 
 その道を決めるのは、綾波自身なんだ。
 
 
 
 それができるまで……
 
 ずっと、支えている。
 
 
 
 シンジは、眠るレイの右手に、自分の右手を重ねる。
 
 レイの右手が、握り返してくる。
 
 左手で、レイの髪の毛を撫でつけると……額に、軽くキスをした。
 
 
 
 レイが……かすかに、微笑んだ気がした。
 
 
 
 姿勢を直したシンジは、レイに右手を握らせたまま……ぼんやりと考える。
 
 
 
 いつ……秘密を語る時が、来るだろうか……。
 
 
 
 本当は、言うべきなのかも知れない。
 
 綾波の中で……綾波自身の存在意義が、不安定になっているのは、わかる。
 
 僕が、彼女についての多くを知っていて……それでいて、決して拒絶していないという、事実。
 
 それを伝えることで、彼女の心の重荷が、かなり取り払われることも、わかる。
 
 
 
 でも……
 
 ……それで、いいのだろうか。
 
 
 
 この事実は、かなり重い事実だ。
 
 僕が語って……彼女が解放されて……
 
 その場では、それが一番、いいことなのかも知れない。
 
 
 
 だけど、彼女の心はどこにある?
 
 
 
 ユニゾンの時のことを、シンジは思い出す。
 
 ベランダで……レイと語り合った、あのとき。
 
 月の光に、柔らかく包まれた、あの瞬間……。
 
 
 
 レイは、勇気を出して、僕に聞いた。
 
 拒絶される恐怖を……彼女は、瞬間でも、越えたんだ。
 
 
 
 あの力が、必要だ。
 
 越えられる、その、ちから。
 
 彼女には、それが、あるんだ。
 
 
 
 ……僕は、ひどい男だと思う。
 
 綾波を……苦しめている。
 
 苦しんでいるのを知って……それを救うことなく、見ている……。
 
 
 
 でも……
 
 
 
 今が、一番、大事な時だ。
 
 
 
 彼女に、その力がついたとき……
 
 
 
 僕は、語ろう。
 
 
 
 彼女に、謝ろう。
 
 
 
 たとえ、恨まれ、嫌われようとも……
 
 
 
 シンジは、ギュッと左手を握り締める。
 
 
 
 たとえ……
 
 恨まれ、嫌われようとも。
 
 
 
 綾波の、心に、必要な、力だ。
 
 一番、大事な、力……。
 
 
 
 ……人間である、綾波に、必要な力なんだ……。
 
 
 
 シンジの手を握り締める、レイの右手に力が篭った。
 
 シンジが、顔をあげる。
 
 見ると、レイがかすかに、両目を開いていた。
 
 
 
 レイの双眸に映る……愛しい少年の姿。
 
 
 
 シンジは……レイの右手を握り返すと……
 
 今できる、最高の微笑みで、彼女を見た。
 
 
 
 「おはよう……綾波」
 
 
 
 ずっと……そばにいるよ。