第三十六話 「昼食」
百四十五



 シンジが校門をくぐったのは、実に1ヶ月半ぶりであった。
 
 
 
 ユニゾン訓練が始まったところで学校に行く時間が無くなり、そのまま過労で倒れて三週間に渡る入院。
 
 その直後に、今度は学校の方が修学旅行に行ってしまい、登校する機会を作ることが出来なかったのである。
 
 シンジは、今日という日を心待ちにしていた。
 
 別段、なにか大事な行事がある訳でもない。
 
 だが、久しぶりの学校は、それだけで、シンジの心を踊らせていた。
 
 なかなか夜眠れなかったせいで、シンジにしては珍しく、朝、寝過ごして朝食を作ることが出来ず……思わずミサトに体の心配までされてしまった。
 
 
 
 シンジ、レイ、アスカの三人が教室の扉をくぐると、お喋りをしていたトウジとケンスケが気付き、手を振った。
 
 シンジも、笑って手を振り返す。
 
 
 
 シンジが自分の席につくと、トウジとケンスケが近寄ってきた。
 
 「おはようさん、シンジ」
 
 「おはよう、碇」
 
 「おはよう、ふたりとも」
 
 トウジが、シンジの前の席に腰を降ろすと、ぐるりと反対向きに椅子に腰掛けて、背もたれに肘をつく。
 
 「シンジ、もう体の方はいいんか?」
 
 「うん、もう平気だよ。結構前に退院してたんだけど、訓練とか色々あって来られなかっただけなんだ」
 
 「ああ、なんや……そうやったんか」
 
 トウジが応える。
 
 
 
 「二人とも、修学旅行は、どうだった?」
 
 シンジがノートパソコンのメールをチェックしながら言う。
 
 「いやぁ、楽しかったぜ」
 
 ケンスケが、ビデオカメラを取り出して、ニヤリと笑った。
 
 「たくさん撮影したからさ……あとで、碇にも色々、ビデオを見せてやるよ」
 
 「本当? ありがとう」
 
 「なんや、ケンスケ。何を撮ったんや?」
 
 トウジが頬杖を突いて聞く。
 
 
 
 「まずは、嘉手納の米軍基地だろ〜。あそこに、最新の◯×型が12機もあるんだけどさぁ、あれが編隊で飛んでたんだよ。あれは感動ものだったね! それから、普天間の基地ね。あそこは、今は戦自の基地だけど、2翼の◯×△があってさ、それに△××◯! 信じられないね。それから、これは偶然だったんだけど、◯×△△×の◯◯×△×◯があったんだよ! 旧型だけど◯△×△◯△の◯◯◯×◯△が2丁、しかも、◯◯! あれ、カスタムかな? ビックリしたね! しかし、美的感覚からいくと、◯×△×××◯は◯◯×か△△×◯×◯の××から△×あたりのタイプに絞るよなぁ。大体、◯◯すぎるんだよ。××△が弱いっていうか……それから、◯◯×△×の××△◯がさぁ、◯×△×××◯◯◯×◯△◯△×△◯△……」
 
 
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……トウジ、わかる?」
 
 「……ワシはあいにく、日本語しかワカランのや」
 
 
 
 「ホンマに、よく姿が見えなくなるンでどこに行っとんのかと思うとったら……そないなことしとったんかい」
 
 溜め息をついて、大袈裟に肩を竦めるトウジ。
 
 シンジも、苦笑気味だ。
 
 ケンスケは、そんな二人に気分を害したように視線を向けた。
 
 「……いいじゃないか、好きなんだから。
 
 それに、せっかく当て込んでた三人が揃って来なくなったんじゃ、他に撮る物なんて無いよ」
 
 「は?」
 
 シンジが、良く分からない表情で問い直す。
 
 
 
 「碇と、綾波と、惣流だよ」
 
 ケンスケが、憮然とした表情で言った。
 
 「僕らが? ナニ?」
 
 依然として、察しの悪いシンジ。
 
 トウジが、「こらアカン」という表情を見せる。
 
 
 
 「ええか、オキナワやぞ? ……青い海! 白い砂浜! 抜けるような空! ……そして、そこに弾ける健康的な肉体言うたら、ケンスケが黙って放っとくワケ、ないやろが」 
 
 「……あ、ああ……」
 
 トウジの身振り手振り付きの説明に、ようやく合点のいくシンジ。
 
 しかし……
 
 「まあ……綾波やアスカは、なんとなくわかるとして……僕なんか撮ってどうすんのさ」
 
 「ええかげんに、学習せえよ、ホンマ!」
 
 「売るに決まってるだろ? かなりの高額商品なんだからさぁ」
 
 トウジとケンスケの言葉に、シンジはう〜んと首を捻る。
 
 
 
 ……そんなに、売れるのかなぁ?
 
 僕の水着姿なんて、見て何が楽しいんだ?
 
 ……僕なら、絶対にいらないけどな。
 
 
 
 ……そりゃ、そうだろう。
 
 
 
 「そういやぁ……」
 
 トウジが、思い出したように、口を開いた。
 
 シンジが、トウジの顔を見返す。
 
 「え? ナニ?」
 
 するとトウジはシンジの耳許に顔を近付けると、小さな声で話し掛けた。
 
 「……おまえら、今年はどこにも行かんのかいな?」
 
 「は? おまえらって?」
 
 「おまえら言うたら、シンジと綾波に決まっとろうが! せっかくのオキナワもフイになってしもうたんやし、海とか行って水着のひとつも拝まんとアカンやろ」
 
 トウジの言うことを理解し、シンジは苦笑した。
 
 「アカンってことはないと思うけど……綾波の水着ならもう見たよ」
 
 「「なんだってぇ!!」」
 
 トウジとケンスケの、完璧なユニゾン。
 
 シンジは、思わず仰け反る。
 
 
 
 「な、な、なにさ、二人とも」
 
 「いつ! どこでや!」
 
 「どこでって……NERVのプールだよ。職員は予約すれば使えるから……」
 
 「……あ……ああ……なるほど」
 
 トウジとケンスケが、ようやく合点がいったという表情で頷いた。
 
 「一体いつ、海になんか行ったのかと思ったよ」
 
 「行ってないって」
 
 ケンスケの言葉に、シンジが苦笑して答える。
 
 
 
 ケンスケがデジタルビデオのレンズを磨きながら、溜め息をつく。
 
 「ああ〜、クソ……綾波の水着か……ああ……羨ましいなぁ。撮ることができなかっただけに、ますます羨ましいよ」
 
 トウジも、大袈裟に肩を竦めて天井を見上げた。
 
 「まったくな……綾波の体なんて、シンジは見飽きとるやろうしの」
 
 「ちょッ……ちょっとちょっと」
 
 「冗談や」
 
 ピキーン、と真顔で答えるトウジに、シンジは疲れたように肩を落とした。
 
 
 
 「ま……ワシらもオキナワで泳いで来たんやしな。シンジたちも、プールででも泳がんとやっとられんやろ」
 
 トウジが、笑って言う。
 
 シンジも、微笑んで軽く頷き返した。
 
 「うん……アスカなんか、修学旅行に期待して水着を新調したみたいでさ、泳がなきゃ気が済まない! って主張してね……」
 
 「ちょっと待て」
 
 シンジの言葉の途中で、トウジとケンスケが、同時に手を伸ばしてそれを遮った。
 
 怪訝な表情をするシンジ。
 
 「なに? ふたりとも」
 
 「……今、なんちゅうた?」
 
 「……つまり、惣流も一緒だった、と?」
 
 「え? うん……そうだけど」
 
 シンジは、よくわからない、といった表情で答える。
 
 
 
 「お・ま・え・は〜! 綾波っちゅうモンがありながらッ!」
 
 「え!? え!? なにが!?」
 
 「こぉの、万年美少年! 何人の男を敵に回すつもりだよ!」
 
 「な、なんだよ万年美少年って! ……じゃなくて、なにがァ!?」
 
 トウジとケンスケが、シンジの顔の前に、ずいいいっと顔を近付ける。
 
 ケンスケが、眼鏡をキラリと光らせた。
 
 「まさか、さんぴ……」
 
 「やッかましいいいいい〜〜〜〜ッ!!」
 
 
 
 バガアァァァァァンン!!
 
 
 
 トウジとケンスケの後頭部を襲ったリュックは、盛大な音を教室中に響かせた。
 
 
 
 頭を抱えて蹲る二人。
 
 その後ろに、ひとりの少女がずいいっと立ちふさがった。
 
 
 
 「……黙って聞いてりゃ、ナニ言い出すのよ、バカども!」
 
 「あだだ……そ、そ、惣流!!」
 
 涙目で二人が振り返ると、アスカが劫火を背中に背負いまくりながら二人をヒクヒクと見下ろしている。
 
 「じょ、ジョ〜ダンやて、ジョ〜ダン!」
 
 トウジが頭をさすりながら、慌てたように苦笑いする。
 
 「フン!」
 
 アスカはそんなトウジとケンスケを一瞥すると、プイッと横の方を向いてしまった。
 
 
 
 「全く……アタシは今、猛烈に忙しいんだから! 下らないことで邪魔しないでくれる!?」
 
 「……なんだよ……だったら気にしなけりゃいいじゃないか……」
 
 「ナニ!?」
 
 「な、なんでもありません、惣流様!」
 
 「フン!」
 
 アスカはケンスケを視線で一蹴すると、クルッときびすを返して自分の席に戻り……紙の束を前に頭を抱え出した。
 
 
 
 ……なにやってるんだ、アスカ?
 
 
 
 シンジは不思議に思い、席を立ってアスカのところまで近寄った。
 
 「何やってんの、アスカ?」
 
 「……見りゃ、わかんでしょ!?」
 
 ギン! とシンジを睨み付けるアスカ。
 
 
 
 その手許に置いてある紙の束には、ギッシリと漢字が並んでいる。
 
 
 
 シンジは、ようやく理解した。
 
 ああ……例の、ミサトさんの宿題ね……。
 
 やっぱり、終わらなかったか……。
 
 苦笑するシンジ。
 
 
 
 「ナニ、笑ってンのよ、シンジ」
 
 「え? いや、べつに」
 
 アスカのジト目に、慌てて平静を装うシンジ。
 
 アスカは紙の束から半分ほどつかみ取ると、シンジの前にずいいっとそれを突き出した。
 
 怪訝な顔をして、アスカを見返すシンジ。
 
 「……なに? これ……」
 
 「アンタのぶん!」
 
 「……ぶんってねぇ……」
 
 アスカの突拍子も無い思考経路に、唖然とするシンジ。
 
 「自分でやらなきゃ、意味ないだろ?」
 
 「そんなモン、わかりゃしないわよ!」
 
 「そりゃ、今はわかりゃしないかも知れないけど……次回のテストも赤点だよ」
 
 「ぐッ……」
 
 シンジに正論を突かれて、ぐっと言葉に詰まるアスカ。
 
 
 
 「頑張ってね」
 
 シンジはニコッと笑うと、きびすを返す。
 
 アスカは肩を落として、はぁ〜あ、と溜め息をついた。
 
 
 
 席に戻ると、レイが手許の本から顔をあげて、じっとシンジを見つめていた。
 
 シンジが席に座ると、レイが口を開く。
 
 「……何を、話していたの」
 
 「え? いや、どうでもいい世間話みたいなものだよ」
 
 「そう……」
 
 レイは、それだけ答えると、再び手許の本に視線を戻した。



百四十六



 授業は滞りなく経過していく。
 
 約一月ぶりの授業、と言うブランクも、シンジが身構えていたほどには大変ではなかった。
 
 
 
 シンジにとっては、既に一回、履修済みの内容である……ということもある。
 
 それに、もともとシンジは、頭が悪い訳ではないのだ。
 
 一ヶ月間のブランクは、おそらく数日のうちに解消されるであろうことは、なんとなく予想することができた。
 
 
 
 横に座るレイを見る。
 
 レイの場合は、シンジが入院していた間も、学校に出席していた。
 
 授業に対する遅れはない筈で、心配する必要はなかった。
 
 視線を泳がせて、桂馬とびに斜め横……少し離れた位置に座るアスカを見る。
 
 がむしゃらに授業の内容をノートに書き写している……
 
 ……ようだが、良く考えたらノートパソコンがあるので、基本的に板書の必要はないはずだ。
 
 ……と思って良く見ると、アスカが格闘していたのは、例の漢字書き取りの宿題であった。
 
 ……リミットは、今夜……まだ半分以上残っているけど、本当に終わるのかなぁ?
 
 シンジは、他人事ながら不安になったりしていた。
 
 
 
 4時限目の授業が終わった。
 
 
 
 シンジは、財布を持って立ち上がる。
 
 今朝寝過ごしたために、弁当を作るヒマがなかった。アスカとレイの弁当も用意することが出来なかったのだが、アスカはいちはやくミサトから昼食代をふんだくっていたようだ。
 
 「たまには、学食で食べるのも悪くないわ」
 
 そんなことを言って、アスカはさほど気にしていなかったようだ。
 
 もしかしたら、いつも早起きして弁当を作ってくれるシンジを、アスカなりに気遣ってくれたのかも知れないが……本当のところはまだよく分からない。
 
 
 
 少し意外だったのは、レイが、弁当がないことに全く動揺を見せなかったことだ。
 
 ここ最近、特にシンジの食事に愛着を寄せていたような印象があったので、寝過ごした時には「しまった!」と、まずレイの顔がシンジの脳裏に去来したのだが……
 
 (まあ、たまにはいいか、と思ってくれたのかな?)
 
 レイにはまだ裏表がそんなにあるとも思えないので、日頃あれだけシンジの料理に喜びを見せていて、急に関心を失ったと言うことはあるまい。
 
 毎日シンジが早起きして作ると言うことに、レイが体の心配をしてくれたのかも知れなかった。
 
 
 
 「さて……」
 
 シンジは、ゆっくりと教室を見渡した。
 
 どうしようかな?
 
 学食に行って食べる、という手もある。
 
 購買でパンでも買って、どこかでゆっくり食事、という手もあるな……。
 
 
 
 などと漠然と考えているときに、横にレイが近寄って来るのが見えた。
 
 そうだ、綾波はどうするんだろう?
 
 綾波の弁当も、ない訳だし……
 
 学食にしろ購買にしろ、誘ってみようか。
 
 シンジがそう思い、レイに話し掛けようと口を開いた時、レイがシンジの目を見て言った。
 
 「行きましょう、碇君」
 
 
 
 「え?」
 
 シンジが呆気にとられるなか、レイが先に立って、教室の出口に向かって歩いていく。
 
 シンジは慌てて、その後を追った。
 
 
 
 中央階段を上りながら、シンジは前を行くレイの背中に、慌てたように声をかけた。
 
 「綾波、どこに行くの?」
 
 「……屋上」
 
 レイが、少しだけ振り向いて答える。
 
 「綾波、お昼はどうするの? 僕、まだ買ってないんだけど……」
 
 「大丈夫……碇君の分も、あるから」
 
 「えっ」
 
 良く見ると、レイは手に鞄を持っている。
 
 
 
 (ああ……なるほど。
 
 パンかなにかを、朝、来る時に買っておいたのかな。
 
 ん……?
 
 でも……朝は一緒に家を出て来たし……どこにも寄らなかったよな。
 
 いつ買ってきたんだろう?)
 
 
 
 屋上に出ると、二人の顔を優しい風が通り過ぎた。
 
 
 
 「ん〜〜……」
 
 シンジは、屋上に出たところで、大きく伸びをした。
 
 実際には大差ないのかも知れないが、教室の空気よりも、屋上で吸う空気は格段に綺麗な感じがする。
 
 
 
 そういえば……学校の屋上も、久し振りだよな。
 
 シンジが回りを見渡すと、広い屋上に、それぞれ幾つかのグループが数人、車座になって食事している。
 
 シンジは、レイに振り返った。
 
 「……じゃあ、食事にしようか」
 
 「……うん」
 
 レイが、小さく頷く。
 
 シンジが、片手を後ろの方に回しながら言う。
 
 「どこがいい? 適当なところで……」
 
 「どこでもいいわ。……碇君と、一緒なら……」
 
 「そ、そう?」
 
 赤くなって答えるレイに、シンジも伝染したように赤面した。
 
 
 
 しかし、そのままいつまでも、ずっと立ち尽くしていても仕方がない。
 
 シンジはレイに微笑みかけると、給水塔の方を指差した。
 
 「あの裏で、いい?」
 
 そこは、トウジやケンスケと来る時に、よく利用する場所だ。
 
 混んでいる時もあまり人目につかない場所なので、大体、いつも空いていた。場所探しなどが面倒な三人は、自然と混んでいる日だけに限らず、いつもそこを利用するようになっていたのだ。
 
 レイが頷いたので、二人はそこに向かって移動した。
 
 
 
 給水塔の裏は、表側から想像するほど悪い場所ではない。
 
 建物の裏側だが、ちょうど、目の前には小さな裏山と街並が広がり、決して見晴しが悪い訳ではない。
 
 風通しもいいし、何より食事を終えた生徒達の興じるバスケットボールなどが飛んで来ることもなく、食後を怠惰に過ごす質の人間には都合が良かった。
 
 給水塔から突き出た低い基礎石に、並んで腰掛ける。
 
 
 
 「ごめんね、綾波……何を買って来たの?」
 
 シンジは、レイに尋ねる。
 
 「………」
 
 レイは答えない。そのまま、鞄のなかをごそごそと漁り出した。
 
 (ん?)
 
 シンジが見守るなか、レイが鞄から取り出したのは……
 
 大きな、アルミの弁当箱。
 
 
 
 レイは、その箱をおずおずと、シンジの方に差し出す。
 
 耳まで赤くなりながら……消え入りそうな声で、呟いた。
 
 
 
 「……これ……今朝……つくったの。
 
 ……た、べて……」
 
 
 
 シンジは、驚きの余り、硬直していた。
 
 大きく見開いた目で、レイの顔を見つめて……それからレイの手の中の弁当箱を見て、またレイの顔を見た。
 
 
 
 「こ……これ、作ったの? 綾波が?」
 
 「……そう……」
 
 
 
 シンジは、おずおずと手を伸ばすと、レイの手から弁当箱を受け取った。
 
 「あ……ありがとう……綾波」
 
 驚いたような表情のまま、弁当箱を見つめてシンジが礼を言う。
 
 レイは、小さく首を振って俯いた。
 
 
 
 シンジは、そっ……と、弁当箱のフタを開けた。
 
 
 
 弁当箱の中は、仕切りで二つに区切られていた。
 
 大きいほうにはご飯に海苔を敷いたもの。
 
 小さいほうにはおかずが詰まっていて、その内訳は、ふんわりとした卵焼きとホウレンソウのおかか和え、マカロニサラダにめんたいフライ、ジャーマンポテト、アスパラの塩茹で、ブロッコリーとちりめんのマヨネーズ焼きに、ミニトマト……という献立であった。
 
 
 
 シンジは、更なる驚きと……何とも言えない喜びに包まれていった。
 
 
 
 感動していた。
 
 
 
 夕食を、いつもレイは手伝ってくれている。
 
 だが、実際に最初から最後まで、通してレイが作っているところを、まだシンジは見たことはなかった。
 
 
 
 間違いない。
 
 レイは……自宅にいる時間に、練習を繰り返していたのだ。
 
 横で見ているのと、実際にやってみるのとでは、感覚が違う。
 
 どうしたって、これだけの品目を、イキナリぶっつけで作れるはずがなかった。
 
 
 
 そして、もう一つ……
 
 シンジに鮮烈な感動を与えていること。
 
 
 
 それは……弁当の中身が、シンジの好物で構成されているということだ。
 
 
 
 余り好き嫌いのないシンジだが、それでも好みはある。
 
 この弁当は、そうしたシンジの、好きな物ばかりが詰まっていた。
 
 
 
 レイは……シンジが何気なく口にした「これが好き」とか「これが嫌い」という言葉を、覚えていたのだ。
 
 おそらくは……こうして、自分の料理をシンジに振る舞う日のために……。
 
 
 
 「ありがとう……綾波」
 
 シンジは、レイの顔を見て……もう一度、礼を言った。
 
 巧く言葉に表現することが出来なかったが……シンジはその短い言葉に、精一杯の気持ちを込めたつもりだった。
 
 レイは、薄く頬を染めて、目を細めた。
 
 「ううん……いつも、碇君は、私の食事を作ってくれる……。……その、おかえし……」
 
 そう言って、柔らかく微笑んだ。
 
 
 
 シンジは、ふと……レイが、鞄を再び閉じていることに気がついた。
 
 取り出したのは、シンジの弁当箱だけ。
 
 シンジは、レイの顔を見て、その疑問を口にした。
 
 「綾波……」
 
 「……なに?」
 
 「……綾波の、食事は?」
 
 レイが、ピクッ、と肩を震わせた。
 
 
 
 明らかに、なにか、言われたくないことを指摘されたような反応。
 
 レイは、膝の上に置いた自分の手を見つめて俯くと、しばらく、もじもじとして……やがて、小さく口を開いた。
 
 「……ないの」
 
 「えっ?」
 
 「時間……間違えて……碇君の、お弁当……作るのが……精一杯で……」
 
 「……ええっ!?」
 
 シンジは、驚いて目を見開いた。
 
 レイは、自分の手を見つめたままだ。
 
 シンジは、自分の手の中にある弁当を見て、慌てて再び顔をあげた。
 
 「そ……そんな、綾波、僕だけこんな……」
 
 レイは、バッと顔をあげて、シンジを見る。
 
 「気にしないで……碇君。私は……碇君に……料理を作ってあげたかった。碇君に……私の料理を、食べてほしかったの。だから……
 
 ……気にしないで」
 
 
 
 ……シンジは、何とも言えない、複雑な気持ちに包まれていた。
 
 嬉しさと、感動と……申し訳ない気持ちと、心配な気持ちと。
 
 レイの想いは、裏がない分、いつでもまっすぐシンジを貫く。
 
 そのたびに、シンジの心は思いきりノックアウトされてしまうのである。
 
 
 
 ……とはいえ、そのまま放っておくことは、とてもできない。
 
 レイの気持ちは理解できるし、物凄く嬉しいが、だからといって……食事をしないレイの前で、弁当をかきこむような真似はできるわけがなかった。
 
 
 
 ……だから、シンジは、弁当をレイの前に差し出した。
 
 レイが、ビクッ……と不安そうな表情を向ける。
 
 「…………たべて……くれない……の」
 
 「違うよ」
 
 シンジは、微笑んだ。
 
 「食べないわけないよ。せっかく作ってくれたんだし……喜んで、食べる」
 
 レイは、ホッとしたように、こわばった表情を解いて、微笑んだ。
 
 ……そして、再び怪訝な表情をする。
 
 「……じゃあ……?」
 
 シンジは、その疑問に答えるように、もういちど微笑んだ。
 
 「一緒に食べようよ、綾波」
 
 「……えっ」
 
 レイが、驚いたように、シンジの顔を見る。
 
 シンジは、軽く首をかしげた。
 
 「ね? 綾波……」
 
 「……それは、碇君のために……作ったの。私は……食べなくても……平気」
 
 「ううん」
 
 レイの言葉を、シンジは優しく遮った。
 
 
 
 「綾波……僕は今、綾波と一緒に食事がしたいんだ。
 
 そのほうが、美味しく食べられるからだよ。
 
 ……食事は、美味しい方がいいだろう?
 
 これも、綾波の料理の一部だと思ってよ」
 
 
 
 レイは、俯いて、口の中で小さく……シンジの言葉を反芻した。
 
 「……私の、料理の、一部……」
 
 「ね?」
 
 しばし、逡巡して……
 
 レイは、おずおずと、シンジを見て……微笑んだ。
 
 「……うん……
 
 ……一緒に……食べましょう……」
 
 
 
 シンジも、ホッとしたように表情を綻ばせた。
 
 「じゃあ、食べようか」
 
 「……うん」
 
 隣り合わせに座っていた二人だが、レイがすすっと横に移動してきて、おしりとふとももを、ぴったりとシンジのそれにくっつけた。
 
 相手の息が頬にかかるほどの、距離。
 
 シンジはどきっとしたが、確かにこうでなくては食べにくい。
 
 だからそのことについては何も言わず、そのまま、弁当箱を二人のつけたももの上に置いた。
 
 「さて、じゃぁ、いただき……あっ」
 
 いざ食べんとした瞬間、シンジが何かに気付いたような声を出す。
 
 レイは、怪訝な顔でシンジを見る。
 
 「? ……どうしたの」
 
 「綾波……箸がないや」
 
 「……あ」
 
 そう。
 
 箸は、シンジの持つ黒塗りの箸しかなかった。
 
 弁当自体が一個しかないのだから、考えてみれば当然だ。
 
 「しょうがない……じゃあ、順番に食べようか」
 
 シンジが、頭を掻きながら言う。
 
 
 
 実はこの時、シンジの頭には、「間接キス」という単語が飛び交っていた。
 
 いいのかな? と、不安な気持ちになるが……おそらく、レイ自身には、そうした発想はないだろう。
 
 変に気にしなければいいんだ……と、シンジは、ことさら普通に、同じ箸を使うことを提案したのだ。
 
 
 
 「お箸……貸して」
 
 レイが、突然、白い手を伸ばした。
 
 シンジは、驚いたようにその手を見てから……慌てて自分の持っていた箸を、その手に渡した。
 
 「綾波、先に食べる?」
 
 「………」
 
 レイは、答えない。
 
 レイは箸を持ち直すと、並んでいる料理の中から、卵焼きをつまみ出した。
 
 そして、それをシンジの前に突き出す。
 
 
 
 「碇君……くち、あけて」
 
 
 
 シンジは、硬直していた。
 
 レイの突然の行動にはいつも驚かされるが、今回も、まったくシンジの予想していなかった展開だ。
 
 シンジの頭の中は、真っ白だ。
 
 即座に、返事をすることも、口を開くことも出来ない。
 
 レイは、シンジの顔の前に箸を出したまま、じっとシンジの顔を見つめている。
 
 
 
 「……碇君……くち」
 
 レイが、もう一度、繰り返した。
 
 シンジは、思わず、言われるままに口を開く。
 
 レイは、シンジの開いた口の中に、卵焼きを入れた。
 
 そのまま、じっと動かない。
 
 シンジも、動かない。
 
 数秒後、レイが、怪訝な表情で声を出した。
 
 「……碇君……くち、しめて……」
 
 「……はぇ」
 
 ぱくっ。
 
 シンジが箸ごと口を閉じると、レイはそのまま、箸だけをシンジの唇から引き抜いた。
 
 「……碇君……かんで」
 
 もぐもぐもぐ。
 
 シンジは、卵焼きをゆっくりと噛みしめた。
 
 
 
 口の中に、卵焼きの甘さが広がっていく。
 
 その美味しさは、シンジの心を包み込むと同時に……固定されていたシンジの時間を、ようやくと動かし始めた。
 
 
 
 シンジは、思わず、真っ赤になってしまった。
 
 今のは、まさに、ラブラブに漬かり込んだカップルの定番……「はい、あ〜んして」状態、そのものである。
 
 しかも、間抜け極まりないことに……「あ〜ん」だけではなく、「ばくっ」「もぐもぐ」まで、レイの言葉にしたがっての行動である。
 
 照れと、恥ずかしさで、シンジは身体中の毛穴が締まったような感覚を覚え、真っ赤になってしまっていた。
 
 
 
 「碇君……おいしい?」
 
 レイが、おずおずと、シンジに尋ねた。
 
 シンジは、慌てたように答える。
 
 「あ、え? ああ……うん、その、すごくおいしいよ」
 
 「よかった……」
 
 レイが、顔を綻ばせる。
 
 
 
 実際のところ、厳密に評価すれば、レイの料理は中の中……ごく、普通の料理と言えるだろう。
 
 それは、料理人の舌を持つシンジにも、当然のごとく感じられた。
 
 だが……シンジには、このうえなく美味しく感じられたのだ。
 
 
 
 それは……使い古された言葉を引用すれば、「愛情というスパイス」のもたらすものだった。
 
 「愛情というスパイス」……それは、ポエムの中だけの存在ではない。
 
 同じ料理を、ケンスケやトウジが食べても、感じることは出来ないだろう。
 
 また、シンジが、レイが作った弁当だと知らずに食べれば、やはり何も感じないかも知れない。
 
 「シンジのために、レイが作った」料理を、「シンジが食べる」。
 
 それは、本来の何倍も、シンジの心に美味しさを感じさせていたのだった。
 
 
 
 レイは、弁当から、他の惣菜を取り出して、再びシンジの口の前に差し出した。
 
 「碇君……くち、あけて」
 
 シンジは、その言葉に、思い出したようにもう一度頬を染めて、慌てて言葉を紡いだ。
 
 「い、いいよ、綾波。自分で食べるから……」
 
 「なぜ?」
 
 「な、なぜって」
 
 「毎回、箸を手渡すよりも……こうしたほうが早いわ」
 
 「い、いや……その……」
 
 「……それに……」
 
 「え?」
 
 「……なんだか……楽しいの。……こうして、碇君に食べてもらうのが……」
 
 「え……え?」
 
 「だから……このまま、させて」
 
 「………」
 
 「はい……碇君、くち、あけて」
 
 「………」
 
 「碇君……くち、あけて」
 
 「………」
 
 「碇君……くち、あけて」
 
 
 
 結局……。
 
 弁当箱が空になるまで、シンジはずっと、レイに食べさせてもらったのだった。
 
 
 
 弁当箱にフタをしながら、レイは柔らかく微笑んだ。
 
 「……楽しかった」
 
 「そ……そう?」
 
 シンジは、どうしていいかわからないような曖昧な表情で、赤くなりながら応える。
 
 レイは弁当箱を包んで鞄にしまうと、シンジに向き直って微笑んだ。
 
 「……これから……夕御飯も、みんな食べさせてあげる」
 
 「ダ、ダ、ダメ!」
 
 シンジは、大慌てでブンブンとかぶりをふった。
 
 
 
 ミサトやアスカの目の前で、まさかそんな真似ができるわけがない。
 
 
 
 レイは、哀しそうな表情で、俯きがちにシンジの顔を見る。
 
 「……なぜ……させて、くれないの」
 
 シンジは、あたふたしながら、レイの顔を覗き込む。
 
 「あ、あのね……ああいう食べ方はね、その、なんて言うか……ええと、人前では、あまりしないほうがいいんだよ」
 
 「……そうなの?」
 
 「う……うん」
 
 怪訝な表情のレイに、シンジが頷く。
 
 
 
 レイは、しばし逡巡したあと……
 
 再びシンジの顔を見た。
 
 「じゃあ……ふたりだけのときは、私が食べさせてあげる……これで、いい?」
 
 「え……えと……」
 
 「……だめなの」
 
 「……………………………………………………わ……わかったよ」
 
 レイの、哀しそうな瞳に……シンジは、頷かざるを得なかった。
 
 
 
 まぁ……誰もいないところなら……いいか。
 
 
 
 と、どうせ近い将来に誰かに見つかるに決まっている状態を、思わず受け入れてしまうシンジであった。



百四十七



 結局、アスカは漢字の宿題を全部は解くことが出来ず……やむなく、見兼ねたシンジが、全体の五分の一ほどを受け持って、なんとか事無きを得た。
 
 そのまま、アスカはぐったりとして……夕食後、リビングでクッションを抱き締めたまま、ぐぅぐぅと眠りに落ちてしまった。
 
 叩いても揺すっても起きないアスカを無理に起こそうとして、シンジは寝惚けたアスカに蹴りを食らう始末。
 
 ……結局、アスカをムリヤリ、ミサトが引きずり上げ、空いている(ユニゾンの時に彼女が使った)部屋のベッドに放り込まれた。
 
 
 
 ……という状態を、レイが黙って見ているはずもなく。
 
 レイも、何時になっても自分の家に戻らない。
 
 仕方なく、レイはまた、ミサトの部屋に誘われて、彼女の部屋で眠ることになった。
 
 ……実際には、レイはシンジのベッドを希望したのだが、シンジが必死の形相で反対したため、やむなくこういう布陣になったのだ。
 
 
 
 そして……それぞれの夜が更けていく。
 
 
 
 この日を境に……シンジの弁当は、レイが作るようになった。
 
 レイの弁当は、今まで通り、シンジが作る。
 
 
 
 レイは、幸せだった。
 
 ずっと、念願であった……シンジの食事を作る、という夢がかなった。
 
 しかも、それをシンジは美味しいと言ってくれ……毎日、レイが作ることができるようになった。
 
 そして、レイはこれからも、シンジの美味しい料理を、ずっと食べることができる。
 
 シンジが毎朝早くから支度していたことは知っているので、その負担を減らすことができたのも、嬉しい。
 
 
 
 そして……なによりも幸せだったのは、あの、「シンジに食べさせてあげる」という行為だった。
 
 
 
 なにが、そんなに幸せなんだろう?
 
 ミサトの腕に抱かれながら、レイは静かに考える。
 
 ……さっぱり、理由は分からない。
 
 だが、確かに、幸せだった。
 
 ものすごく……。
 
 
 
 (明日から……昼食は……誰もいないところで、食べよう……)
 
 レイは、ゆっくりと睡魔に包まれながら……満ち足りた気分で、考えていた……。