第三十四話 「潜行」
百三十三



 NERV・更衣室。
 
 A-17の発令により、準備も慌ただしく浅間山へ直行することになった三人は、それぞれプラグスーツに着替えていた。
 
 
 
 アスカは手首のボタンを押して、シュッとスーツを体にフィットさせる。
 
 そして、なんとなく居心地悪そうに、体を見回す。
 
 「……ファースト」
 
 脇の下などを覗き込みながら、アスカが呟く。
 
 「……なに?」
 
 答えながら、レイは手首を押さえる。空気の排出音と共に、プラグスーツがレイの肢体を浮かび上がらせる。
 
 アスカは顔をあげると、くるっとその場で回転した。
 
 「なんか、いつもと違う?」
 
 「いいえ」
 
 「……よねぇ」
 
 怪訝そうな顔で首をかしげると、アスカは更衣室を後にした。レイも、その後に続く。
 
 
 
 エヴァのロッカールームに入ると、既に書類を手にしたリツコとプラグスーツを着込んだシンジが待っていた。
 
 「遅いわよ、ふたりとも。エヴァのキャリア搭載が完了したら、すぐに出発します」
 
 「ねぇ、リツコ」
 
 アスカが、リツコの前に駆け寄って、声をかけた。
 
 「耐熱仕様のプラグスーツって、何が違うの?」
 
 「わからない?」
 
 「わからないって……何も違わない気がするけど」
 
 言いながら、もう一度その場で回転する。
 
 途中でシンジと目が合い、シンジも慌ててアスカのスーツを観察した。
 
 「同じに見えるね」
 
 「でしょ」
 
 
 
 しかし、シンジは覚えている。
 
 あの、物凄く変化した耐熱仕様のシルエットを……。
 
 
 
 リツコは、アスカを一瞥すると、平然とした表情で口を開いた。
 
 「手首のボタンを押してご覧なさい」
 
 「手首?」
 
 アスカが怪訝な表情で、自分の手首を見る。
 
 「いつもの……フィットボタンよね?」
 
 「そっちじゃないわ。反対側」
 
 「反対側……?」
 
 言われて左手首を見ると、確かに、今までなかったボタンがある。
 
 アスカはチラ、とリツコを盗み見るが、リツコはごく普通の表情でこちらを見ている。おずおずと、アスカはそのボタンを押した。
 
 
 
 プシュゥッ!!
 
 
 
 ばいいい〜〜ん。
 
 
 
 「……いやぁぁぁぁぁぁ〜〜〜! なによこれぇ!」
 
 アスカが情けない声を上げるのを聞いて、シンジは思わず、プッと噴き出してしまった。
 
 アスカのプラグスーツは一瞬にして膨れ上がり、風船に手足が生えているような姿になってしまったのだ。
 
 
 
 「いやぁぁぁ! カッコ悪ぅぅぅ!」
 
 手足をパタパタさせながら、眉をしかめて叫ぶアスカ。
 
 「ボール……」
 
 レイがボソッと呟く。
 
 シンジも苦笑して続ける。
 
 「転がりそうな気はするよね」
 
 「そこ! なに勝手なこと言ってンのよ!」
 
 ビシ! と仁王立ちで二人の方を指差すアスカ。
 
 しかし、その恰好では、どんなポーズも間抜けに見えると言うものである。
 
 
 
 「弐号機の耐熱仕様も、完了済みよ」
 
 その場の騒動なぞどこ吹く風と、リツコは真面目な表情のまま、手にしたボールペンで上の方を指差した。
 
 言われて、アスカが上を見上げる。
 
 「……いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! なによコレぇぇぇぇ!」
 
 アスカの、またも情けない声が響き渡った。
 
 
 
 キャリアに搭載するために、三体のエヴァは、ロッカーの天井レール上のロックボルトにぶらさがっている。
 
 その、三番目。
 
 弐号機は、まん丸の耐熱スーツを着込んで、巨大な相撲取りと化していた。
 
 ……細身の零号機・初号機と並んでいると、ますますその滑稽さが引き立つ。
 
 
 
 アスカは、泣きそうな顔で、呆然とその愛機の姿を見上げていた。
 
 まさに、「ぼ〜ぜん」という体である。
 
 その後ろ姿を、シンジは苦笑して見つめていた。
 
 アスカは一拍のタイムラグの後、ババッとリツコの方を振り向き、頭上のエヴァを指差しながら、眉をしかめて叫んだ。
 
 「カッコわるぅ〜い! あれ、とって!」
 
 「標準装備でマグマに潜る気?」
 
 リツコは、淡々とした口調で答える。
 
 「熱いわよ」
 
 熱いなんてもんじゃないよな……と、シンジは心の中で思う。
 
 経験者は語る、である。
 
 しかも、シンジの時はごく一瞬の出来事だったが、アスカは使徒を捕獲するためにかなりの深度まで潜行するのである。
 
 大体にして、標準装備では、目的深度でマグマの圧力に耐えられるはずがなかった。
 
 「そんなぁ〜……もうすこし、なんとかならなかったわけぇ?」
 
 アスカは、口を尖らせて文句を言う。
 
 「デザインとかぁ、なんつーか、その……機能美って言うか」
 
 「マグマの奥で、どなたにお見せするつもり?」
 
 リツコは、書き込んでいた書類を閉じて、アスカに答えた。
 
 
 
 アスカはブーブー文句を垂れていたが、シンジはあえて、「じゃあ自分が代わりに」とは言い出さなかった。
 
 作戦にさえ気を配れば、サンダルフォンは強敵ではない。
 
 相手の、はっきりした弱点も分かっているのだ。
 
 アスカのプライドのためにも、ここでまた自分が最前線に出るのは、避けた方がいいとシンジは思ったのだ。
 
 (それに……弐号機に乗せてくれるワケ、ないしね)
 
 初号機は耐熱装備に適さない。
 
 誰が出るにせよ弐号機を使うことになるわけで、結局その時点で、アスカが出撃する以外の選択肢など、無いのだ。
 
 
 
 そのとき、レイが一歩、前に出た。
 
 「じゃあ、私がやるわ」
 
 シンジは、驚いてレイを見る。
 
 
 
 レイは、考えていた。
 
 今までの使徒も、ほとんどいつも、シンジが倒したものばかりだ。
 
 ガギエルはレイとアスカが倒したが、あれは、その場にシンジが居あわせなかったからに過ぎない。
 
 できればこれ以上、シンジを危険に晒すまねはしたくないし、助けになりたいとも思う。
 
 ……もちろん、今回の場合は、このままいけば前線に出るのはアスカであり、シンジが危険にあうわけではない。
 
 だがレイは、経験が足りないことが不安だった。今回に限らず、これから先……いざと言うときに、足手纏いにはなりたくない。
 
 レイは、シンジの助けになるだけの力が欲しかったのだ。
 
 
 
 アスカは、クルッと振り返ってレイを睨んだ。
 
 「なによ、ファースト! アタシが出るって言ってるでしょ!」
 
 「嫌なんでしょう……」
 
 レイが真顔で答える。
 
 「あんたねぇ……」
 
 アスカはたたたたっと走ってくると、レイの鼻先にズイッと顔を近付けた。
 
 ……はずだった。
 
 
 
 が、何しろ風船と化したアスカである。その距離まで一気に詰め寄られたレイは、そのまま、ぼいいいい〜〜んとアスカの腹に突き飛ばされてしまった。
 
 そのまま、ごろごろっと後ろ向きに回転すると、シンジの足に当たってやっと止まった。
 
 ぺったりとお尻を床につけた状態で……シンジの足を背もたれにして、キョトンとしている。
 
 
 
 「あら? この服、結構便利じゃない」
 
 ニヤニヤしながら、アスカは腕組み……しようとしてできないことに気付き、両手を腰に当てて仁王立ちになる。
 
 ……ちなみに、このスーツでは、仁王立ち以外の立ち方はできないのだが。
 
 シンジは、自分の足許に座るレイを見下ろして、思わず笑ってしまう。
 
 
 
 ……かわいい。
 
 ……いや、この場の感想としては、不適当かも知れないが。
 
 
 
 アスカは、ててててっとレイの前まで駆け寄ると、かがんでレイの前に改めて顔を突き出す。
 
 「いい? ファースト。今回の作戦は、ア・タ・シ・が、やるの! アンタは、黙ってアタシの掩護してりゃいいのよ!」
 
 「………」
 
 「なによ? なんか、文句ある?」
 
 アスカが、レイを睨む。
 
 
 
 レイは、座ったまま両手を前に突き出した。
 
 どん、とアスカの胸の辺りに当たる。
 
 「あっ」
 
 かがみこんでいたアスカは、バランスを崩して後ろに倒れ込んだ。
 
 
 
 ごろごろごろっ
 
 
 
 何しろ、これ以上に無いくらい、回転に適した体型なのである。
 
 アスカはごろごろ転がって、数回転ののちにようやくと停止した。
 
 
 
 「……ファァァァァ〜〜ストォォォォォ」
 
 アスカは目を回しながらよたよたと立ち上がると、レイを睨む。
 
 レイも立ち上がると、アスカを見た。
 
 「……アタシとやろうっての? いい度胸してんじゃないの!」
 
 
 
 アスカはレイの近くまで走ってくると、バッと地面を蹴ってレイに体当たりをかます。
 
 ばいいいいい〜〜ん。
 
 レイはモロにくらって、ごろごろと転がっていく。
 
 「まだまだぁ!」
 
 レイが立ち上がったところに、続けてアスカが飛び込む。
 
 ひらり。
 
 ごろごろごろ。
 
 今度はレイがかわし、アスカはそのまま壁に当たるまで転がっていく。
 
 「くっ……なかなかやるわね」
 
 アスカは頭をくらくらさせながらよたよたと立ち上がると、またばよばよと走っていく。
 
 
 
 ばいいいい〜〜ん。
 
 ごろごろごろ。
 
 ひらり。
 
 ごろごろごろ。
 
 ばいいいい〜〜ん。
 
 ごろごろごろ。
 
 ひらり。
 
 ごろごろごろ。
 
 
 
 離れたところで、そんな二人を見ているシンジとリツコ。
 
 シンジは、苦笑いしながら口を開く。
 
 「……アスカ、結構気に入ったみたいですねぇ」
 
 リツコは、溜め息をついた。
 
 「……はやく、キャリアの搭載、終わらないかしらね……」



百三十四
 
 
 
 移動司令車の中で、ミサトはマコトのモニタを覗き込んでいた。
 
 「パイロット及びエヴァ、到着です」
 
 マコトがインカムを外して言う。
 
 ミサトは頷くと、「あと、よろしく」と声をかけ、車から外に出た。
 
 
 
 そこは、浅間山の火口付近。
 
 ゴツゴツとした岩肌が荒涼とした雰囲気を与え、吹きすさぶ風とは裏腹に、火口のマグマがじっとりとした熱気を放つ。
 
 
 
 ミサトが見上げると、ちょうど、NERVのキャリアが三機、視界に小さく現れたところだった。
 
 零号機、初号機、弐号機。
 
 その弐号機の下に、長めの棒のようなものがぶらさがっている。
 
 使徒捕獲用のケージ……通称、「使徒キャッチャー」である。
 
 ちなみに、この名前を聞いたアスカの第一声は、「カッコわるぅ」であった。
 
 
 
 その光景をじっと見上げるミサトのところに、一人の青年が駆け寄ってきた。
 
 国立地震観測所・臨時所長、大野技師である。
 
 
 
 彼はただの技師であり、観測所では「主任」というポストに就いていた。5人ほどの観測チームを指揮していただけで、中間管理職としてもまだ駆け出しだ。
 
 だが、先日の機敏な判断をミサトが認め、A-17発令中に限り、臨時に所長としてミサトの指示に従うように命じたのだ。
 
 ちなみに、本来の所長は、ちょうど出張中であった。そのため、どちらにせよ誰かが代役に入る必要があり、この人事はすんなり通ったのである。
 
 
 
 「作業観測機の準備が整いました」
 
 そばまで走って来た大野が、ミサトに声をかける。
 
 ミサトは微笑んで答えた。
 
 「了解、大野所長」
 
 「よしてくださいよ」
 
 大野は赤くなって頭を掻く。
 
 「正直、戸惑ってるんです。なぜ、僕がこんなことをしてるのか……まあ、今日だけのこととは言え」
 
 「けっこう、似合ってるわよ」
 
 ミサトが言う。
 
 「指示を出せば、的確に、しかも2倍の結果を返してくれるし、速い。
 
 技術職より、管理系が合ってるんじゃない?」
 
 「専門分野だからですよ……」
 
 大野が、照れて笑う。
 
 ミサトも、微笑む。
 
 「もちろん、そうよ。あなたに、作戦を立てろなんて言わないわ」
 
 「………」
 
 大野は、首まで赤くなって、俯いてしまった。
 
 
 
 「さ……持ち場に戻ってください。今日一日だけの所長なら、今日一日、その能力をフルに発揮してもらうわ」
 
 「ハ、ハイ!」
 
 慌てて、大野は頭を下げると、もといた方にバタバタと走っていった。
 
 いかにも、一本気で、融通がきかなそうだが好感が持てる真面目さだ。
 
 ああいう姿は、働く者として好ましい。
 
 ミサトは、もう一度軽く微笑むと、表情を引き締めて、振り返る。
 
 
 
 エヴァ三体が、キャリアから外れ……地表に着地するのが、数キロ先に見えた。



百三十五



 司令車の前に、ミサト、リツコ、そしてシンジたち三人が集まった。
 
 赤茶けた岩肌の上には、他に人影はない。
 
 「今回の目的は、殲滅ではなくて捕獲よ。そこのところ、注意してね」
 
 「任せなさいって」
 
 ミサトの言葉に、アスカが自信満々で答える。
 
 「ヘタをすると、セカンドインパクトの再現ってことにもなりかねないわ。捕獲最優先、でも、うまくいかなかったらすぐに殲滅にシフトよ」
 
 「それこそ、任せなさいよ」
 
 アスカは笑う。
 
 
 
 「何ですか、アレ」
 
 シンジが、空を見上げて言う。
 
 見ると、青空に幾つもの飛行機雲が走り……陽光を銀色に煌めかせた機体が、何機か飛来しているのが見える。
 
 「UNの戦闘機よ」
 
 ミサトも空を見上げて答える。
 
 
 
 ああ……そういえば、そうだったな。
 
 シンジは、心の中で呟く。
 
 UNの、戦闘機。
 
 ……彼らの、目的は……。
 
 
 
 「何のために?」
 
 アスカが不思議そうに聞く。
 
 「まあ、失敗したときの後始末のためね」
 
 「後始末?」
 
 ミサトのセリフに、アスカが怪訝そうに返した。
 
 「爆雷で、使徒を殲滅するのよ。私達ごとね」
 
 ミサトが、こともなげに答えた。
 
 
 
 アスカは、軽く目を剥いた。
 
 「私達ごと……?」
 
 ミサトは、黙って肩を竦める。
 
 
 
 レイは、冷ややかな視線で、上空の機体を見つめて……
 
 それから、シンジに視線を移した。
 
 もっとも、愛しい少年……。
 
 
 
 シンジを消し去ることなど、万が一にも許されない。
 
 彼らが手を下すことなど、あってはならないことだ。
 
 
 
 アスカは、憮然として呟いた。
 
 「フザけて……そんな命令を出してンのは、どこのどいつよ?」
 
 
 
 「……父さんだね」
 
 
 
 呟くシンジの言葉に、アスカやレイは驚いて振り向き、ミサトやリツコも思わず顔を上げた。
 
 シンジは、黙って上空の戦闘機を見つめている。
 
 残りの4人は……だが、シンジのその視線に妙な鋭さを感じ、声をかけることが出来なかった。
 
 
 
 父さん……。
 
 シンジは、思う。
 
 
 
 父さん。
 
 その選択は、きっと、正しいんだと思う。
 
 
 
 僕らが失敗したそのときには……人類が滅ぶ。
 
 ここにいる幾人かの命と引き換えに、人類が救われるのなら、安いものだろう。
 
 
 
 でも、僕はそんな道は選べない。
 
 
 
 もちろん、人類は、救ってみせる。
 
 人類を滅ぼすなんてこと……補完計画を成功させたり、あるいはサードインパクトを起こしたり……そんな結末を、黙って迎える気はない。
 
 でも……
 
 
 
 人類は、それが一つの固まりじゃない。
 
 
 
 綾波も……アスカも……
 
 ミサトさんも、リツコさんも、みんな人類の一員だ。
 
 それは、全くの等価値で……
 
 人類よりも個々が軽いなんてことにはならないはずだ。
 
 
 
 ひとり一人を救えないなら、人類を救うことなんて出来ない。
 
 たとえそう見えても、それは、人類全体を救ったとは言えない。
 
 
 
 ……僕だって、どうしていいかわからない。
 
 僕らが犠牲になることで人類が救われるような場面にでくわせば……どうするかなんて、わからない。
 
 悩んだ末、結局、人類のために……
 
 僕らが犠牲になる道を、選ぶのかも知れない。
 
 
 
 でも、あきらめたくない。
 
 どんなときにも、全員が助かる道を選びたい。
 
 どんなに、それが狭い道でも……
 
 
 
 はじめから放棄するのだけは、嫌なんだ。
 
 
 
 「リツコさん」
 
 ややあって、シンジが口を開いた。
 
 その場にいた全員の空気が、動き出す。
 
 アスカも、レイも……わけのわからぬまま固くなっていた体から、ようやく気が付いたように力を抜いた。
 
 
 
 「なに? シンジくん」
 
 リツコが、変わらぬ風情で応える。
 
 シンジは上空からエヴァの方に視線を移すと、じっと見つめて繰り返した。
 
 「プログナイフの装着を見直した方がいいんじゃないですか」
 
 「え?」
 
 思わず、リツコが聞き返した。
 
 残りの三人も、怪訝な表情でシンジを見る。
 
 リツコは、黙ってシンジを見つめると、間を置いて口を開いた。
 
 「なぜ、そう思うの? 技術部の計測データでは、問題はないはずよ」
 
 「いえ……ただ、不安なんです」
 
 シンジに言われて、リツコもエヴァに視線を移す。
 
 
 
 火口付近に鎮座している弐号機。
 
 耐熱装備の外側……太ももの部分にぐるりと固定帯を巻き、プログナイフが装着されている。
 
 
 
 じっ……と、その様子を見つめていたリツコは、やがてシンジに視線を戻した。
 
 「不安な気持ちは分かるわ。一部だけ、外側ですしね。……でも、どちらにしろここではどうにもならない。時間も、装備もないもの」
 
 「……そうですか」
 
 シンジも、短く答える。
 
 
 
 もっと、早く進言したかった。
 
 だが、実を言えば……先程まで、完全に忘れていたのだ。
 
 火口付近の暑さを感じ、そのそばに鎮座する耐熱スーツを実際に見て……それで、ようやくと「プログナイフが落ちる」という事実を思い出したのだ。
 
 
 
 悔やまれるが、仕方がない。
 
 シンジにとって……今起こっている出来事は、同時に、全てを覚えているには難しい……はるか以前の出来事でもあるのだ。
 
 
 
 プログナイフを投げ込むタイミングを見誤らないように、感覚を研ぎすませておかなくちゃな……。
 
 
 
 「……碇君」
 
 レイが、シンジの横に立って、小さな声を出す。
 
 シンジは気付いて振り向くと、心配そうな表情のレイに微笑んだ。
 
 「何でもないよ、綾波……気のせいみたい」
 
 「……そう」
 
 シンジの言葉に、レイは少しだけ表情を和ませた。
 
 
 
 なんだかわからない。
 
 だが、シンジがこういう表情をするとき……
 
 暖かいけど、痛くなる。
 
 
 
 微笑んでいる表情の裏側に……
 
 何か、隠れている気がする。
 
 
 
 だが、まだ人の心を読むには経験が不足しているレイには、その「隠れたもの」を読み取ることは出来なかった。
 
 日頃、注意して視線を注いでいるシンジが相手だからこそ、かろうじてそれを感じることができたのだ。
 
 
 
 胸の奥の……チクリとした痛みに、レイはそっと手を握り締めた。



百三十六



 「アスカ、準備はいい?」
 
 「いつでもオッケーよ」
 
 アスカの声と共に、弐号機を吊ったウインチが、カラカラと音を立てて降りていく。
 
 ぐつぐつと、泡沫を浮き立たせる溶岩……
 
 見ているだけで熱気を感じるかのような光景に、アスカは眉をしかめた。
 
 「あつそォ」
 
 
 
 シンジとレイは、それぞれエヴァに乗り込んで、火口のフチに立って降りていく弐号機を眺めている。
 
 
 
 やがて溶岩の中に沈んでいく弐号機。
 
 
 
 司令車のスピーカーからアスカの声が聞こえて来る。
 
 その音声は、零号機・初号機にも伝わっていた。
 
 「現在、深度70、沈降速度20、各部問題なし。視界ゼロ……何も分からないわ」
 
 マコトの前のモニターには、ただ真っ赤な色が浮かび上がっているだけだ。
 
 「CTモニタに切り替えます」
 
 アスカの声に続き、モニタが真っ赤な色から、微妙に流動する橙色の光に切り替わる。
 
 
 
 「これで透明度120? なんにも見えないなぁ」
 
 アスカは、回りを見回しながら、呟く。
 
 
 
 司令車の中では、マヤが計器を見ながら、カウントダウンを繰り返す声のみが響いていく。
 
 「深度400、450、500、550……」
 
 ゆっくりと、沈降していく弐号機。
 
 シゲルがキーボードを叩きながら、前方のモニタにめまぐるしく映る数値を目で追う。
 
 「地震観測所の観測機も、特に新しい情報はキャッチしていません」
 
 「そう……やはり、目標深度までは、いくしかないようね」
 
 ミサトが、小さく呟いた。
 
 
 
 ミシミシと、軋みをあげる装甲。
 
 アスカの顔に、滝のような汗が流れる。
 
 「アスカ、暑い?」
 
 「天然サウナね。痩せていいわ、こりゃ」
 
 ミサトの言葉に、アスカは前方を睨んだまま、不敵に笑みを浮かべて答える。
 
 「余裕があるようね〜」
 
 「アッタリマエでしょ! 誰だと思ってんのよ、アタシを」
 
 「ハイハイ。期待してるわ、アスカ」
 
 「任せなさいよ」
 
 アスカは短く返すと、再び視界の向こう、見えない使徒を睨み付けた。
 
 
 
 んっとに……
 
 まじで、痩せるっての。
 
 なによ! この暑さはぁ!
 
 
 
 「深度、1020。安全深度オーバー」
 
 マヤの声が響く。
 
 
 
 「観測機の情報は?」
 
 「ありません」
 
 シゲルの返事に、ミサトはただ黙って頷く。
 
 
 
 ビシッ。
 
 破裂音のような軋み。
 
 アスカは後方に視線だけをやって、小さく舌打ちする。
 
 「単なる軋みです……破損箇所なし」
 
 マヤの報告に、ミサトは、軽く息をついた。
 
 「大丈夫なんでしょうね、リツコ」
 
 ミサトが、横目でリツコを見る。
 
 リツコは、マヤの後ろに立って二言三言指示をだし、それからミサトの方に視線をやる。
 
 「理論上はね」
 
 「何よそれ」
 
 「何があるか分からないのは、確かよ。それを否定する気はないわ」
 
 「………」
 
 「やめる?」
 
 「ジョ〜ダン」
 
 ミサトは、再び腕を組み、前方のモニタを睨み付けた。
 
 
 
 「深度1300。目標深度に到達しました」
 
 マヤが言う。
 
 「使徒、確認できません」
 
 日向が、片手でダイヤルを回しながら、切り替わる数値を見つめる。
 
 「溶岩の対流が、予測値よりも速いようです。流されてしまったようですね」
 
 「再計算、急いで」
 
 ミサトは、コンソールに手をついてマイクを取る。
 
 「アスカ、いける?」
 
 「行くしかないんでしょ」
 
 「御名答」
 
 ミサトは微笑んで体を起こすと、マヤの方を振り返った。
 
 「作戦続行。沈降続けて」
 
 
 
 「初号機、シンクロ率上昇!」
 
 突然、マヤの声が響く。
 
 ミサトとリツコは、呆気に取られたような顔で、マヤを見た。
 
 「……初号機?」
 
 「弐号機じゃないの?」
 
 マヤは、キーボードを叩きながら答える。
 
 「ああ……いえ……違います、初号機です。シンクロ率……96……97……98……」
 
 
 
 ミサトは、驚いて車外モニタを覗き込んだ。
 
 
 
 そこに映っていたのは、何の変哲もない光景。
 
 火口付近に、臨戦体勢で構えて待機する、零号機と初号機の姿が見える。
 
 だが、それだけだ。
 
 何も変わったところはない。
 
 
 
 「シンちゃん? どうしたの?」
 
 ミサトは、マイクに呼び掛けた。
 
 だが、返答はない。
 
 ミサトがマヤの顔を見ると、マヤは困惑した表情で見返した。
 
 「回線を一時的に切断しています」
 
 「な……なんですってぇ!?」
 
 
 
 初号機……その、エントリープラグの中。
 
 
 
 シンジは、じっと火口の中を見つめていた。
 
 
 
 シンジの感覚が、研ぎすまされていく。
 
 集中力が、糸のように、細く寄り合わされていくのが分かる。
 
 
 
 失敗しても、まだ綾波がいる……。
 
 前回の、あのタイミングは、遅かった。
 
 結果は使徒を倒して終わることができたが、どちらに転んでもおかしくなかったと思う。
 
 少しでも危険を排除するために……やる価値はある。
 
 
 
 レイのエントリープラグには、司令車のやり取りが全て聞こえている。
 
 レイは、驚いて初号機を見ていた。
 
 
 
 自分のすぐ横に、初号機が立っている。
 
 それは、外から見ると、何もおかしなところはない。
 
 だが……
 
 シンクロ率の上昇。通信回線の遮断。
 
 何が起こっているのか?
 
 
 
 シンジは、集中をかき乱されたくなかった。
 
 それで、今だけ、通信を遮断したのだ。
 
 
 
 皆が注視する中……
 
 
 
 初号機が、プログナイフを抜いた。
 
 
 
 「シンジくん?」
 
 唖然とした表情で、ミサトが初号機の後ろ姿を見つめた。
 
 なぜ、この場で、プログナイフを抜く必要がある?
 
 火口で待機している初号機や零号機には、戦闘体勢に入る必要は、今のところ、ない。
 
 
 
 シンジは、ゆっくりと腕を振り上げて……
 
 
 
 「ふんッ」
 
 
 
 プログナイフを、溶岩の海に投げ込んだ。
 
 
 
 「……シ、シンジくん!?」
 
 司令車の中は、唖然とした空気に包まれた。
 
 何が、なんだか……
 
 シンジの行動の意図が、全くわからない。
 
 プログナイフを、捨てたのか?
 
 なぜ?
 
 呆然とする面々の中、突然、アスカの声がスピーカーから流れ込んだ。
 
 「あッ」
 
 アスカの短い声に、現実に引き戻された面々が、慌てて計器の確認をする。
 
 ミサトが、マヤの計器を覗き込む。
 
 
 
 「どうかしたの? マヤ」
 
 「いえ……あ、ハイ、あの……弐号機のプログナイフ固定帯が……融解。プログナイフをロストしました」
 
 
 
 ミサトとリツコは、顔を見合わせた。
 
 続けて、初号機の背中を見る。
 
 
 
 まさか……
 
 そんなことがあるか?
 
 
 
 ロストを……予測していたと?
 
 そう言えば、さきほども、プログナイフの再点検を進言していた。
 
 だが……
 
 
 
 一介のチルドレンに、なぜ、それがわかる?
 
 単なる不安?
 
 だが、それならば、今の、プログナイフを投げ込むという……「不安」程度では起こし得ない行動は、何か。
 
 
 
 彼にとって、プログナイフのロストは……予想ではなく、確定した未来だったというのか?
 
 
 
 「し、しかし……」
 
 マコトが困惑した表情で、ミサトを振り返る。
 
 「現状では、弐号機の両手は塞がっています。受け取れませんよ」
 
 「ナイフの到着まで、どれくらい?」
 
 「ええと……約1分半です」
 
 「使徒、発見!」
 
 ミサトとマコトの会話に、マヤの声が被った。
 
 
 
 アスカの前方に、赤黒い固まりが見える。
 
 透明度の低いマグマの対流と、高温による屈折の歪みで判然としないが……
 
 間違いなく、使徒だ。
 
 「アスカ、用意はいい?」
 
 スピーカーから、リツコの声が聞こえる。
 
 「オッケーよ」
 
 言いながら、前方を睨み付けた。
 
 「あっつぅ……」
 
 
 
 アスカが、使徒キャッチャーを構えた。
 
 ゆっくりと、ウインチが位置の調整をしていく。
 
 「使徒、予測軸線に入りました」
 
 マヤが言う。
 
 アスカは、手許のスイッチを押した。
 
 
 
 ガビュン。
 
 
 
 弐号機の持つ細長い棒の両端から光の筋が走り、四角い枠を作ると……箱のような形になり、中にスッポリと使徒を包み込んだ。
 
 
 
 「使徒、捕獲成功です」
 
 マヤの報告に、司令車内には安堵した空気が流れた。
 
 
 
 ホッと息をついて微笑むミサトに、リツコが声をかける。
 
 「何とか、なったわね」
 
 「まぁね〜、まだ気は抜けないけど」
 
 ミサトも言葉を返す。
 
 
 
 「ミサト……あなたも、不安だったんでしょう?」
 
 「そりゃね……さっきリツコも言ってたけど、セカンドインパクトはイヤよね」
 
 「そうね……二度と、ゴメンだわ」
 
 言いながら、リツコは視線を移す。
 
 
 
 前方のモニタに映る、初号機の姿。
 
 「それに……シンジくんの心配も、杞憂に終わったようね」
 
 リツコが呟く。
 
 
 
 「使徒に変化!」
 
 マヤの叫びが響いた。
 
 マヤの方を振り返る、ミサトとリツコ。
 
 
 
 「ちょっとォ、なによこれェ!!」
 
 アスカが、困惑とも驚愕ともつかぬ叫びをあげた。
 
 使徒キャッチャーの中で、使徒の影が蠢いている。
 
 「孵化が……始まったの!?」
 
 リツコが、めまぐるしく変化する数値を睨んで、驚きを含んだ声で呟く。
 
 もしも使徒が覚醒すれば、キャッチャーでは、到底抑えきれない。
 
 
 
 アスカは、どうしていいかわからずに、戸惑いの声をあげた。
 
 「一体、どうすりゃ……」
 
 「アスカ! 手を離せ!」
 
 「えッ!? シンジ!?」
 
 
 
 シンジの突然の交信に、ミサトが驚いて顔をあげた。
 
 「シンジくん!?」
 
 「回線、回復しています!」
 
 マヤの報告。
 
 ミサトは、マイクに飛びついた。
 
 「シンジくん! 勝手なこと……」
 
 「間に合わない! アスカ!」
 
 立て続けに発せられた、シンジの言葉に……
 
 
 
 アスカは、使徒キャッチャーを、手放した。
 
 使徒を内包したまま、使徒キャッチャーは、ゆっくりと弐号機を離れていく。
 
 
 
 アスカは、自分の行動に戸惑う。
 
 いつもなら、シンジの言うことなど、素直に聞けない。
 
 だが、今のシンジの声には、そういった類いの、個人的感情の挟み込む余地を許さない何かが、あった。
 
 
 
 「右手を伸ばせ!」
 
 続けて飛ぶシンジの指示に、アスカは間髪を入れずに従った。
 
 「ナイフを掴むんだ!」
 
 「えっ」
 
 「掴め!」
 
 「ハ、ハイ!」
 
 何かが右手に当たる感覚に、アスカは慌ててそれを握り締めた。
 
 
 
 ミサトとリツコは、信じられないものを見るような表情で、それを見ていた。
 
 「……初号機のプログナイフ、到達です」
 
 マコトが、押し殺したような声で、呟く。
 
 
 
 弐号機の右手には、初号機のプログナイフが収まっていた。
 
 
 
 「アスカ! くるぞ!」
 
 シンジの声に、アスカは自分自身の感覚を取り戻す。
 
 初号機のプログナイフを構える。
 
 「フン……上出来! 相手になってやるわよ!」
 
 アスカは、前方を睨み付けて、舌舐めずりをした。
 
 
 
 レイは、火口に立ってマグマの中を見つめていた。
 
 他の誰よりも、驚きが少なかった。
 
 
 
 シンジがナイフを投げ込んだ、そのときから……
 
 こうなるような、気がしていた。
 
 
 
百三十七



 使徒キャッチャーが破壊されるのと同時に、使徒は驚くべきスピードで、弐号機に襲い掛かった。
 
 アスカは咄嗟の機転でバラストを放棄。
 
 浮き上がった弐号機の体の真下を、使徒が駆け抜けた。
 
 「……速い!」
 
 アスカが、使徒を睨み付けながら言う。
 
 
 
 使徒は、古代の海を泳いでいた原生動物のような姿をしていた。
 
 弐号機を睨んで、口を開く。
 
 
 
 「この環境で、口を開くなんて……」
 
 リツコが、驚きを含んだ声で呟く。
 
 使徒が飛び掛かり、アスカは咄嗟に、持っていたプログナイフを薙いだ。
 
 ガギン!
 
 鈍い音と共に、辛くも使徒の攻撃を払う。
 
 
 
 「プログナイフ……」
 
 ミサトが呟く。
 
 その言葉の後を、リツコが継いだ。
 
 「……使徒が覚醒してから投げ込んでたら、まだ間に合ってなかったわね」
 
 「……ええ」
 
 ミサトは静かに応える。
 
 
 
 今、使徒の攻撃を避けられたのは……アスカの手に、プログナイフがあったからだ。
 
 でなければ、きっと、喰らい付かれていただろう。
 
 
 
 ウインチは、カラカラと音を立てて弐号機を引き上げる。
 
 だが、その速度は遅く、すぐには上がることが出来ない。
 
 
 
 「こッの……」
 
 アスカは、プログナイフを構えた。
 
 
 
 使徒の上部に、コアが露出している。
 
 今までの使徒と同じように……あそこを、プログナイフで突けば……!
 
 
 
 「それじゃダメだ、アスカ!」
 
 シンジの声が、弐号機のプラグに響いた。
 
 「え!?」
 
 アスカが、言葉を返す。
 
 
 
 「この圧力、この高温に耐えてるんだ……
 
 プログナイフは、攻撃を払うぐらいには使えるけど、コアは壊せない」
 
 「……じゃ、どーしろッてのよ!」
 
 「熱膨張だよ」
 
 「え?」
 
 その瞬間、使徒は、口を開いて弐号機に飛び掛かった。
 
 
 
 「アスカ! よけてッ!!」
 
 
 
 ミサトの叫び。
 
 だが、アスカはよけなかった。
 
 使徒が飛び掛かるまでの、その、わずかな間……
 
 アスカの脳細胞は、シンジの言葉を一瞬にして咀嚼し、理解した。
 
 
 
 熱膨張!
 
 
 
 ナイフで、腕の冷却パイプを切る。
 
 そして、そのまま……開いた口の中に、その腕を突っ込んだ。
 
 
 
 「冷却剤、3番に集中!」
 
 シンジの言葉に、ミサトやリツコの言葉を待たず、思わずマヤは反応した。
 
 間髪を入れず、冷却剤の行路を変える。
 
 
 
 それらの一連の動きが、全くの無駄なく行われて……
 
 
 
 使徒は、アスカの腕の中で、グズグズと崩れ去っていった。
 
 
 
 使徒の内部に放出された冷却剤が、周りの高温に晒されて、一瞬にして激しく膨張したのだ。
 
 そのため、使徒は腹の中に巨大に膨れ上がる風船を詰め込んだような状態になり……
 
 内部から、裂けてしまったのである。
 
 
 
 「ふぅ……」
 
 アスカは、どっと吹き出た汗を拭った。
 
 何とか、使徒は殲滅。
 
 作戦は、終了した。
 
 
 
 マヤは、心配そうな表情で、ミサトを振り返った。
 
 最後の瞬間……思わず、シンジの指示に従ってしまった。
 
 正式な命令を待たず……作戦に手をくわえてしまった。
 
 これは、重大な規約違反だ。
 
 
 
 だが、ミサトはマヤを一瞥すると、何ごともなかったような表情で、再び前を向く。
 
 マヤは、ホッと小さく、安堵の溜め息を漏らした。
 
 
 
百三十八



 ミサトは、じっと初号機を見つめていた。
 
 
 
 今回の使徒の殲滅は……
 
 弐号機が殲滅したものだが、どちらかと言えば、初号機に功績がある。
 
 ナイフの投下から始まり、キャッチャーを手放しての臨戦体勢、冷却剤による攻撃。
 
 一連の指示が全て的確に働いた。
 
 もしかすると悪い方向に転がりそうだった事態を、防いだのはシンジだ。
 
 
 
 だが、これでいいのか?
 
 シンジのやっていることは、わざわざ言うまでもなく、越権行為だ。
 
 だが、それとて……結果を伴ったもので、罰するには気が引ける。
 
 
 
 シンジの行動を、制約しない方がいいのか?
 
 
 
 以前から、薄々と感じていた。
 
 シンジの、作戦時における行動は、常軌を逸している。
 
 勘がいい、とか、飲み込みが早い、とかでは、説明がつかない。
 
 
 
 事前に彼が、作戦について進言することがある。
 
 そしてその多くは、今回のように、あまり受け入れられることがない。
 
 それは、彼の言うことは一面的で、根拠が説明されないからだ。
 
 
 
 だが……
 
 結果として、彼の進言をなぞるように、事態は進行する。
 
 
 
 天才とは、人に物を教えるのに、不向きだと言う。
 
 天才と証される数学者は、理論の発見はできても、試験に答えるのは難しい。
 
 ……それは、問題を見た瞬間に、その答えが閃いてしまい……
 
 正解を答えることができるのに、そこにいたる道筋を説明できないからだ。
 
 
 
 シンジは、それにあてはまるだろうか。
 
 
 
 作戦部長として……問題を感じないわけではない。
 
 それに、ただでさえ、つらい道を歩いているシンジに……さらなる負担を、強いることになる可能性もある。
 
 
 
 だが、ミサトは、ひとつの方向を、心の中で決めていた。
 
 
 
 次回以降の、使徒との闘いでは……
 
 シンジの意見を容れてみよう。
 
 その、価値はあるかも知れない。
 
 
 
 リツコは、何も言わなかった。
 
 ただ、じっと初号機を見つめていただけだった。
 
 
 
 ウインチで引き上げられる弐号機。
 
 使徒の殲滅を終了し、アスカはプラグのシートにどっと体を預けて、目を瞑っていた。
 
 
 
 複雑な心境だった。
 
 
 
 言われなくても、今回の殲滅の立て役者は、むしろシンジであることがわかる。
 
 自分も勿論働いたが、その指示を出したのは、シンジだ。
 
 
 
 怒りの感情は、さほどでもなかった。
 
 あまりにもスムーズに事態が進行し……流れに不自然さを感じられなかったからだ。
 
 それに……シンジの指示には、有無を言わせぬ……何と言うか、迫力(とも少し違うが)のようなものがあった。
 
 
 
 それが逆に、シンジの指示に従ったことに、憤りの感情を抱かせにくくしていた。
 
 
 
 アスカの心……
 
 今は、むしろ別な方向にある。
 
 
 
 「これが……そうか……」
 
 アスカは、小さな声で呟いた。
 
 シンジの、記録に残らない力。
 
 リツコやミサトに、あそこまで言わせる能力。
 
 今回、アスカは初めてそれに触れ……しかも、それがまだ、シンジの能力の一端に過ぎないことも、おぼろげに肌で感じていた。
 
 
 
 じっと、マグマの海を眺めながら……
 
 アスカは、身じろぎせずに、シートに体を埋めていた。
 
 
 
 シンジは、ゆっくりと……身体中に張り巡らしていた緊張を解き放った。
 
 そっと、息を吐く。
 
 
 
 何とか、うまくいった。
 
 本当は、もっと先手先手を打てたかも知れないし、そういう意味では綱渡りだったかも知れないが……結果は悪くなかった。
 
 一番危惧していた、ラストでの、弐号機のライフラインの切断……
 
 もともと、あのときの……初号機による弐号機救出のタイミングは間一髪だった。それに、沈降は救ったが、D型装備は圧壊し始めていたし……数秒のタイムラグで、最悪の結果を迎えてもおかしくなかった。
 
 
 
 今回、それは避けられた。
 
 使徒が取り付く前に冷却剤での攻撃を開始し、3番への集中も即座に行われたため、使徒がライフラインを攻撃する暇がなかったからだ。
 
 
 
 自分の行動は正しかったか?
 
 それは、わからない。
 
 だが、正しかったと、信じたい。
 
 
 
 それが、自分の望む道だからだ。
 
 
 
 レイは、じっと初号機を見つめていた。
 
 その瞳には、不安と哀しさがほのかに宿る。
 
 
 
 シンジが、無理をしている。
 
 それが、痛いほど感じられた。
 
 
 
 それがわかっていて……
 
 こんなにそばにいるのに、力になれなかった。
 
 
 
 どうしたらよかったのか?
 
 だが、今回の一連の進行に対し、自分が手をだせる余地は、全くなかった。
 
 
 
 どうすれば……
 
 どうすれば、碇君の力になることができるだろう。
 
 どうすれば、碇君の苦しさを……救ってあげることができるだろう?
 
 
 
 何も思い付かなかった。
 
 自分の力不足を、レイは痛感していた。
 
 
 
 もっと……
 
 もっと、頑張らなければいけない。
 
 私は、碇君の半分だって、頑張っていない気がする。
 
 
 
百三十九



 火口から数百メートル離れた岩場に、一人の男が座っている。
 
 
 
 加持だ。
 
 
 
 加持は、頬杖を突いて、火口付近を眺めている。
 
 気の抜けた……面白そうな表情。
 
 
 
 「狙ったわけではないだろうが……
 
 レイちゃんの出番はなかったな。
 
 これで、今回は報告には、初号機の記述しか載らない。
 
 
 
 いつまでも、こういう訳にはいかないだろうが……
 
 まずは、何とかなったなぁ」
 
 加持は、小さな声で呟く。
 
 
 
 加持は立ち上がってズボンを払うと、上着を肩にかけて、火口に背を向けた。
 
 そして、ゆっくりと歩いていく。
 
 
 
 風が、加持の髪と襟を揺らした。
 
 空を見上げる。
 
 雲が、千切れるように流れていくのが見えた。
 
 
 
 「行くがいいさ……シンジくん。
 
 君が何者か……たぶん、まだ、誰にも分からない。
 
 もちろん、俺にもね。
 
 
 
 だけど……
 
 君を見てると、思うときがある。
 
 
 
 もしかしたら……
 
 
 
 世界は、滅びなくても済むんじゃないか?
 
 
 
 ……って、ね」