第三十三話 「計画」
百二十七



 「ええ〜ッ! 修学旅行に、行っちゃだめェ!?」
 
 その晩、葛城邸に、アスカの叫びが響き渡った。
 
 
 
 いつものように、レイとアスカが葛城邸で夕食を済ませ……食後のお茶をすすっているときの出来事であった。
 
 
 
 シンジたちの通う、第三新東京市立第壱中学校は、修学旅行を数日後に控えていた。
 
 行き先は、沖縄。
 
 日頃、戦闘の続く地域のお膝元で、常に避難警報に注意を払わなければいけない生活をしていた子供達にとって……この修学旅行は何よりの「命の洗濯」である。
 
 出発の何日も前から、生徒達の間はこの話題で持ち切りとなり、その当日を今や遅しと待ち構えていたのである。
 
 
 
 もちろん、アスカもそのひとりであった。
 
 デパートで水着も新調し、準備万端で臨んでいたのだ。
 
 
 
 だが、そのわずか二日前になって、ミサトから無情のお達しが下る。
 
 「エヴァンゲリオンの専属パイロットは、有事に備えて第三新東京市を離れてはならない」
 
 アスカが、これでもかとばかりに顔の筋肉をひきつらせる横で、シンジとレイは、向かい合わせで静かにお茶をすすっていた。
 
 
 
 「なァんで、そんな!」
 
 テーブルに両手をダン! と突いて、アスカはミサトの方に、ずいいっと顔を寄せた。
 
 怒りで眉毛がピクピクと動いている。
 
 対するミサトは、片手でビールを飲みながら、まったくの自然体だ。
 
 一気にビールをあおると、空になった缶をテーブルの上にタン! と置き、反対側に積んである新しいビールを手にとってプルタブを開ける。
 
 カシュッ!
 
 ちなみに、すでにミサトの横には、5本近い缶が空いているが……彼女にしてみれば、まだ序盤戦というところだろう。
 
 
 
 ミサトは缶に口をつけながら、片目でアスカを見る。
 
 「戦闘待機だもの」
 
 「そんなの、聞いてないわよ!」
 
 「いま、言ったわ」
 
 「誰が決めたのよ!」
 
 「作戦本部長である、この私が決めました」
 
 ぐいっ、と缶をあおる。
 
 
 
 ミサトが喉を鳴らしてビールを飲むさまを、アスカはひきつり顔のまま、ヒクヒクと見つめている。
 
 そして、バッとミサトの隣に座るシンジを睨み付けた。
 
 湯飲みを片手にボーッとやりとりを見ていたシンジは、キョトンとしてアスカを見る。
 
 「なに? アスカ」
 
 「なに? ……じゃぁ、ないわよッ!」
 
 アスカが、吐き捨てるように言う。
 
 「アンタも何とか言いなさいよ! 沖縄、行きたくないワケ!?」
 
 「う〜ん……」
 
 ボーッとした表情のまま、シンジはポリポリと後頭部を掻く。
 
 「……どうせ、こうなるだろうと思ってたから……」
 
 「諦めてたってわけ!?」
 
 「……諦めてたって言うか」
 
 シンジは、言葉を選ぶように、言う。
 
 「今回は、仕方ないかなって……無理して頼めば沖縄に行けるかも知れないけど、そのせいで人類滅亡なんて、シャレにならないもんね」
 
 「……フン!」
 
 アスカは眉をしかめて、そっぽを向く。
 
 「飼いならされた男って、サイテェ!」
 
 「そんなつもりはないけどな……」
 
 特にムッとすることもなく、ボーッとした顔で、シンジは呟いた。
 
 
 
 実のところ、シンジも残念だったのである。
 
 前回の人生では、修学旅行のことは早々に諦めていた。
 
 その理由は、もちろん、「戦闘待機になるだろう」と予想していたせいもあるが、それ以上に「修学旅行が大して楽しみではなかった」ということがあった。
 
 すべての日常に、どうも現実感をきちんと持つことが出来なかったシンジは、「どっちでも別にいいや」という気持ちでいたのである。
 
 
 
 だが、今回は違った。
 
 それを、はっきりと自覚していた。
 
 学校生活や友達との遊びを楽しんでいる現在のシンジは、修学旅行もまた、楽しみだった。
 
 もちろん、行けないのは分かっている。
 
 待機を命ぜられることは分かっていたし、何より、サンダルフォンが出るのである。
 
 たとえ、行って良い、と言われても、行くわけにはいかないのだ。
 
 
 
 だが、そうわかっていても……心のどこかで、修学旅行を待ち望んでいた。
 
 それゆえ……ミサトの口から実際に「待機」を命ぜられて……予定通りなのに、やはり落胆したのである。
 
 
 
 シンジの「ボーッとした態度」は、主にそれが原因だった。
 
 
 
 アスカは、シンジの腑抜けた顔をしばし睨み付けると、バッと自分の横に座ったレイのことを見る。
 
 レイは、この場の騒動などどこ吹く風、といった風情で、ゆっくりとお茶をすすっていた。
 
 「……ファースト、アンタはどうなのよ!」
 
 レイは、瞳だけ動かして、横のアスカを見る。
 
 それから、再び元に戻した。
 
 「……別に……待機は当然だわ」
 
 「アンタは、修学旅行が楽しみじゃないわけ!?」
 
 ……と、アスカが詰問して……それから、天井を見上げて溜め息をつく。
 
 「……楽しみなわけ、ないか」
 
 「……いいえ」
 
 
 
 アスカが再びレイを見た。
 
 ミサトも、ちょっとだけ眉を上げてレイを見る。
 
 シンジは、何食わぬ顔でお茶をすすっている。
 
 「……どこかへ行くのは、楽しいわ」
 
 「……へぇ……」
 
 アスカが、少しだけ驚いたような表情で、レイを見ている。
 
 「アンタに、そんな感覚があったなんて、思わなかったわ」
 
 「……でも、碇君と一緒じゃないと、意味がないの」
 
 「……はぁ?」
 
 レイの言葉に、アスカが間抜けな表情で答える。
 
 ミサトは、やれやれと言った顔で苦笑。
 
 シンジは、顔を赤くして、横の方を向いていた。
 
 「……碇君と一緒なら、どこかへ行くのは、楽しい……。
 
 でも、ひとりだと、どこへ行っても楽しくないもの」
 
 わずかに頬を染めて、俯き加減に……小さな声で、レイは答えた。
 
 
 
 レイの脳裏に浮かぶのは、あの……青空をバックに微笑む、シンジのポートレイト。
 
 
 
 アスカは、がっくりと肩を落として、力なく椅子に座り込み……テーブルにゴン、と額をつけた。
 
 「……アンタに聞いたのが、間違いだったわ……」
 
 ミサトは、空になった缶を片手でブラブラと振りながら、微笑んで口を開く。
 
 「ま、気の毒とは思うけど……使徒が来たとき、チルドレンが全員沖縄じゃ、困るでしょ。かと言って、誰か一人だけ行かせたり、残したりするわけにもいかないしね」
 
 「……そりゃ、そうだけどさぁ〜……」
 
 両足をブラブラさせながら、顎だけをテーブルの上に乗せて、アスカが恨めしそうにミサトを見る。
 
 シンジは、そのポーズが妙に可愛くて、思わず苦笑する。
 
 「それに……特に、アスカ。アンタは、やることがあるのよン」
 
 「へ?」
 
 アスカが間抜けな声で返すと、ミサトがニンマリと笑って、フロッピーを取り出した。
 
 ラベルに、「成績表 惣流・アスカ・ラングレー」と書いてある。
 
 
 
 「げ!!」
 
 
 
 ミサトはフロッピーをピラピラさせながら、ニヤリと笑う。
 
 「言わなければバレない、と思ったら大間違いよ。テストの点数程度の情報ぐらい、筒抜けなんだから」
 
 そりゃそうだ、とシンジは思う。
 
 「ええええええ……アタシだけ?」
 
 アスカが、憮然とした顔つきで言う。
 
 
 
 前回のアスカは、成績表を出されても「それが何?」というような対応だった。
 
 今回、リアクションを見せているのは……
 
 どうも、「点数が悪い」ということよりも、「自分だけ」という点が気になっているからのようだ。
 
 
 
 ミサトは、フロッピーの角で、トントンと自分の鼻の頭を叩きながら言う。
 
 「レイは、成績優秀だし……シンちゃんだって、別に悪くないわよ〜」
 
 ……そう、今回は、シンジの成績は悪くはない。
 
 「アスカだけが、赤点なのよねェ」
 
 フロッピーの動きを止め、ニヤ、と笑う。
 
 アスカは、口を尖らせて抗議した。
 
 「ミサト、アンタねぇ……アタシの成績、知ってるでしょ? ドイツで大学出てるンだからね」
 
 「ほほう……だったら、なんで赤点なのかしら?」
 
 フフン、と笑いながら、ミサトが聞く。
 
 アスカは腕組みをすると、胸をはって答えた。
 
 「問題が読めないんだもの」
 
 堂々と答えるようなことかなァ、とシンジはお茶をすすりながら考える。
 
 ミサトは、ニヤッとすると、もう一枚のフロッピーを取り出した。
 
 「フフン、そう言うだろうと思ったわよ」
 
 「? なによ、ソレ?」
 
 怪訝な顔をするアスカ。
 
 ミサトはニンマリすると、フロッピーをくるりと回した。
 
 ラベルに書いてあるのは……
 
 
 
 「漢字読み書き一千問」
 
 
 
 「ゲッ!」
 
 ひきつるアスカにフロッピーを差し出しながら、ミサトは微笑むのだった。
 
 「みんなが修学旅行から帰って来る前に、終わらせるのよ。
 
 逃げちゃダメだかんね〜」



百二十八



 バッシャァァァァンン!!
 
 
 
 アスカが思いきり飛び込んだその飛沫を浴びて、シンジは情けなく顔を背けた。
 
 「ぅわっぷ、やめてよアスカ」
 
 と、言ったはいいが……
 
 見回すと、アスカの姿がない。
 
 「あれ? アスカ? ……ってぁわあああ!!」
 
 急に足首を掴まれ、そのままズバッと高らかに持ち上げられた。
 
 もちろん、シンジは一回転。頭から水の中に突っ込む。
 
 ズバッシャアアアンン!!
 
 「あばらがぼばがばぼばぐべば」
 
 水の中でガボガボともがき苦しみ、シンジが涙目で水上に顔を出すと、目の前でアスカが仁王立ちで笑っていた。
 
 「あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ」
 
 「ごぼ、ひっ、ひどいよアスカ……ゲホゲホ」
 
 「アンタ、そんなに鈍くてよく今まで勝てたわね! 水中から来る敵くらい、気付くようじゃなくっちゃ……ってぁわあああ!!」
 
 シンジの目の前で、急にアスカが頭から水に突っ込んだ。
 
 ズバッシャアアアンン!!
 
 「あばらがぼがばがばがごぼ」
 
 アスカが必死にもがいて水面から顔を出す。
 
 「ぶあッ、げほッげほッ」
 
 シンジは、呆気にとられたようにアスカを見ている。
 
 アスカは顔を赤くしながら、ギッと背後を睨んだ。
 
 「ファーストッ! アンタねぇぇぇ!!」
 
 
 
 倒れたアスカの後ろでは、レイがアスカの足首を離した時の状態のまま、両手を上げて立っていた。
 
 水面から顔だけ出すアスカを冷ややかに見下ろす。
 
 「碇君に……ひどいことしないで」
 
 
 
 ……しばし、静寂が訪れ……
 
 
 
 「……ぷっ」
 
 シンジは、思わず吹き出す。
 
 「ぷあっ、あははははは……」
 
 「な、なに笑ってンのよシンジ!」
 
 「だ、だって、あは、あははははは……」
 
 
 
 説明が遅れたが、ここは、NERV内のプールである。
 
 所員の健康管理のために、予約制で開放されている福祉施設の一つだ。
 
 
 
 今日は、シンジたち三人の貸し切りとなっていた。
 
 他の子供達が沖縄の海で泳いでいる。そこで、待機を命ぜられた三人も、せめて気分だけでも味わおうという計画である。
 
 詳しく言えば、これはアスカの発案……というか強硬な要望であった。
 
 新調した水着を、せめて着なければ気が済まない! ということであろう。
 
 さすがにミサトも、待機で修学旅行に行けないということに、申し訳ないという気持ちがあり、プールの貸し切りには快く応じてくれたのだった。
 
 
 
 アスカの水着は、ツーピース。上は赤と白のストライプ、下は白色である。
 
 レイの水着は、白のワンピースだ。
 
 シンジは、膝より少し裾の高い、灰色のトランクスタイプのものを身につけていた。
 
 
 
 ひとしきり騒いだ後、シンジはゆったりと水面に浮いて、天井を見上げていた。
 
 
 
 (このあと……)
 
 
 
 サンダルフォンが出るんだよな、と、ぼんやりとシンジは思う。
 
 
 
 今は、まだその片鱗は見えない。
 
 だが、そのうち召集がかかるだろう。
 
 誰かが本部に残って、残りの二人は浅間山へ。二人のうち一人がマグマに潜る。
 
 
 
 どういう布陣が効果的かな?
 
 ……いつものように、シンジは作戦に思いを巡らせる。
 
 一見、ゆったりと水に浮いて、取り留めなく天井を見上げているようで……その脳細胞は、激しく回転を始めていた。
 
 
 
 僕は、必ず行かなければいけない。
 
 何か起こったときに、本部で待機じゃお話にならない。未来を知っている人間として、何としても現場にいる必要がある。
 
 問題は、残りの一人だ。
 
 綾波とアスカ……
 
 前回は、アスカが行ったな。
 
 それは、まず……D型装備が、制式タイプの弐号機にしか装備できなかったから。
 
 そして、アスカが作戦への参加を希望し、綾波が異論を挟まなかったからだ。
 
 だけど……
 
 
 
 ……正直、今回も同じ展開ってわけにはいかないんじゃないかな……。
 
 その……
 
 ……綾波は、置いていかれるのを……嫌がるだろう。
 
 
 
 ……でも、アスカを外すことも難しい。
 
 アスカはエヴァでの作戦に闘志を燃やしてるし……そうなると、本部で待機なんて命令を素直に聞くとは思えない。
 
 
 
 と、言うか……
 
 だから、弐号機しか使えないんだってば。
 
 アスカが弐号機を貸してくれるとは思えないし、そうなると、アスカが行くしかないんだよなぁ。
 
 
 
 う〜んん……
 
 
 
 まいったぞ……。
 
 
 
 シンジは、ゆっくりと目を瞑る。
 
 あちらを立てれば、こちらが立たず……
 
 別に、ただ立てるだけなら無理してそんなことはせず、放っておいてもいい。
 
 だが、どちらも置いていかれると今後の精神状態に影響しそうな状態だ。
 
 できることなら、二人とも連れていきたいのだが……
 
 (まぁ……ムリだろうなぁ。待機を外すわけには、いかないんだろうし)
 
 
 
 冷静に考えてみれば、シンジが悩むような類いの問題ではない。
 
 ミサトやリツコが判断を下し、命令として三人に通達されるだろう。
 
 その結果、どういう組み合わせになっても、チルドレンにはそれに口を挟む余地などないのだ。
 
 だが、シンジは、皆にとってもっともよい方法を、模索せずにはいられなかった。
 
 それが、自分の責務だと……考えているかのように。
 
 
 
 「……碇君」
 
 「ん?」
 
 声をかけられて、シンジは眼球だけを横に動かした。
 
 シンジの横に……レイが立っている。
 
 ちょうど、水面の高さは胸まであり……その水面に浮いていたシンジの顔の高さに、レイの胸が来ていた。
 
 間近にレイの胸を捉えてしまい、顔を赤くしたシンジは慌てて目線を天井に戻した。
 
 「碇君……なに、してるの」
 
 レイは、シンジを見下ろして言う。
 
 シンジは、レイの瞳を見て、軽く微笑んだ。
 
 「いや? 別に……ぼーっとしてただけだよ」
 
 「そう……面白い?」
 
 「え? う〜ん……まぁ、つまんなくは、ないかな……」
 
 「そう……」
 
 レイはそう答えると、そのままゆっくりと、仰向けに水面に浮かんだ。
 
 天井を、見上げる……
 
 シンジとレイは、並んだ恰好で、ふたり水面に浮かんでいた。
 
 
 
 (まぁ、いいか……)
 
 シンジは、ゆっくりと瞼を閉じた。
 
 まだ、時間はある。
 
 焦っていいアイデアが浮かぶとは限らないし……なるようになった上で、その場での最良の選択を、そのつど選んでいくのが正しいのかも知れない。
 
 今は、羽を伸ばすときだ。
 
 (根を詰め過ぎて、また倒れたらシャレにならないしね……)
 
 過労で倒れたあのとき、使徒の出現期間と外れていたのは、不幸中の幸いだった。
 
 そうでなければ、レイとアスカが出撃しているときに、のほほんとベッドで横になっているはめになるところだった。
 
 それだけは、避けたい。
 
 (それに……)
 
 瞼の裏に映るのは、あの……レイの涙……。
 
 (もう……哀しませたく、ないからな……)
 
 
 
 「コラァッ! そこのふたりッ!!」
 
 「え?」
 
 アスカの声に、シンジは瞼を開けた。
 
 見ると、アスカがプールサイドで、仁王立ちになって、こちらを睨み付けている。
 
 「なに? アスカ」
 
 「なにじゃないッ!」
 
 ツカツカとプールのヘリまで寄ってきて、アスカはこちらを睨み付けた。
 
 「なァ〜に、やってんのよ、ジジババじゃあるまいし!」
 
 「?? なにが?」
 
 「泳ぐなら泳ぐ! 潜るなら潜る! 飛ぶなら飛ぶ! シャッキリしなさいよ!」
 
 
 
 どうやら、プカプカと浮いているだけの二人に、苛々しているらしい。
 
 
 
 「……人間は飛べないわ」
 
 ボソッ、とレイが答える。
 
 アスカは、ギン! とレイを睨み付ける。
 
 「……と・べ・る・わ・よォォォォォォ!!」
 
 叫びながら、アスカの足は宙を蹴った。
 
 
 
 「バックロール……エントリィィィィィィ〜〜ッ!!」
 
 「……うわぁああああああッッ!!?」
 
 ドバッシャアアアアアアアアアンンン!!!!
 
 
 
 「ぐえっばがばごばばばばばばばばばばば」
 
 空中で回転したアスカは、見事にシンジとレイの上に、背中からダイブをかました。
 
 衝撃で、三人とも水の中に潜り込む。
 
 「がぼっ、ご、ごばぼごぼばぼがぼ」
 
 突然のことに息を全くついでいなかったシンジは、自分の身体の上に乗っているものを掴んで強引にどかすと、ザバッと水面から顔を出した。
 
 「ぐえっ、げほげほげほッ」
 
 咳き込みながら、シンジは抗議の声を上げた。
 
 「ひ、ひどいよアスカ、げほっ、げほっ」
 
 「……どっちが?」
 
 「え?」
 
 アスカの不思議な言葉に、シンジは涙目で顔を上げた。
 
 
 
 「!!」
 
 
 
 シンジは、アスカの胸をしっかりと掴んでいた。
 
 
 
 アスカはうすら笑いを浮かべて、こめかみをヒクヒクとひきつらせている。
 
 シンジは、完全に硬直していた。
 
 「……い・つ・ま・で……掴んでンのよッ!!」
 
 バチイィィィィィィィィィンン!!
 
 平手打ち一閃!
 
 シンジの頬は、プールに小気味いい音を響かせたのだった。



百二十九



 浅間山・国立地震研究所。
 
 NERVに比べるとやや貧弱な計器が並ぶ部屋で、ミサトがモニターを見つめていた。
 
 モニターには、回転しながら増えていく数字の小さな表示の他は、全面橙色に光り、何も映っていない。
 
 
 
 「耐圧隔壁に亀裂発生!」
 
 ヘッドホンをつけた男が、別の席で、目の前の計器を睨みながら叫ぶ。
 
 「限界です、葛城さん! もう、上げてください!」
 
 ミサトの後ろに立っていた白衣の青年が、切羽詰まったような声を出す。
 
 ミサトは、微動だにしない。
 
 「あと、500。お願いします」
 
 「葛城さん!」
 
 「壊れたら、うちで弁償します。あと400」
 
 増加の速度をやや落としながらも、モニター隅の数字は上昇を続け……
 
 その数字が、1400にさしかかろうかという、そのとき。
 
 ミサトの前に座っていたマコトが、小さく言葉を発した。
 
 「反応あり」
 
 見ると、モニターに、ぼやけた影が映り込んでいる。
 
 「解析、開始します」
 
 マコトの指先が、キーボードの上を走る。
 
 その瞬間。
 
 
 
 バシュン。
 
 
 
 モニターが、突然光を失った。
 
 数字も、消えた瞬間の数値のまま、止まっている。
 
 
 
 さきほどのヘッドホンをした男が、押し殺したような声を出した。
 
 「……観測機、融解……爆発しました……」
 
 「ああ……」
 
 ミサトの後ろに立っていた青年が、がっくりと肩を落とす。
 
 
 
 ミサトは、そんな所員の様子にもまったく動じず、マコトの顔を見た。
 
 「どう? 日向君」
 
 「ギリギリ、間に合いました。パターン……青です」
 
 じっとミサトを見つめて、マコトは小さく言う。
 
 ミサトは、マコトを見返して頷くと、くるりと後ろを振り返った。
 
 
 
 ミサトの後ろでは、白衣の青年がうなだれて床に座り込んでいた。
 
 「大野技師」
 
 「は……」
 
 ミサトに呼び掛けられて、青年は顔を上げる。
 
 ミサトは腕を組んだまま見下ろすと、静かに口を開いた。
 
 
 
 「これより当研究所は、完全閉鎖。NERVの管轄下に入ります。今後別命あるまで、研究所における一切の入退室を禁止。現在より、過去6時間での全ての情報を部外秘とします」
 
 
 
 気の抜けた表情で、そう言われた大野は……一瞬のタイムラグのあと、即座に表情を引き締め、立ち上がった。
 
 呆然と二人のやり取りを見ている所員達の方を振り返ると、口を開いた。
 
 
 
 「全室閉鎖。通用門に所員を配置して、チェックにあたれ。77BをLANから切り離し、以後、LANを外部から切断。作業終了後、これを解除されるまで、全所員は葛城一尉の指示に従うこと」
 
 
 
 その他にも、専門語を交えた指示を幾つか続けて飛ばす。
 
 具体的な指示を与えられたことで、所員達は慌てて作業に入った。
 
 めまぐるしく動く所員達を横目で見てから、ミサトは大野を振り返り、微笑んだ。
 
 「素晴らしい対応に感謝するわ」
 
 「いいえ」
 
 大野は少しだけ微笑む。
 
 ミサトは大野から視線を外すと、マコトのそばに歩み寄った。
 
 「回線、繋がっています」
 
 「オッケ」
 
 ミサトは頷くと、マイクを手にとる。
 
 「碇指令あてにA-17を要請。大至急」
 
 スピーカーから、シゲルの声が聞こえる。
 
 「気をつけてください。これは通常回線です」
 
 「わかってるわよ」
 
 ミサトは、ギン、と眉根を寄せて、前方のモニターを睨み付ける。
 
 
 
 今は、何も映っていない。
 
 
 
 だが、確かに、いた。
 
 
 
 影のような……ぼんやりとした……
 
 
 
 「さっさと、守秘回線に切り替えて!」
 
 ミサトは、短く言葉を叩き付けた。



百三十



 「A-17……こちらから、打って出るのか」
 
 男の声が、小さな驚きを含んで、言葉を発する。
 
 
 
 そこは、真っ暗な部屋に、円卓とでも呼ぶべきか……中央に机だけが設置されていた。
 
 机のまわりを囲む、数人の老人達。
 
 その一角に、碇ゲンドウが座っていた。
 
 その一歩後ろには、冬月が後ろ手に組んで立っている。
 
 
 
 ゲンドウと対角をなす位置に、一人の男が座っている。
 
 キール・ローレンツ。
 
 そのバイザーをキラリと光らせると、わずかに体を揺らして、ゲンドウを見た。
 
 「危険だ」
 
 「危険は承知の上です。生きた使徒のサンプルが手に入るチャンス……二度と、巡ってこないかも知れません」
 
 ゲンドウは、低い声で答えた。
 
 「勝算はあるのか」
 
 別の老人が言う。
 
 「やってみなければわかりません……ただ、使徒と闘うことは、危険と切り離して考えることは出来ず……そういう意味では、今までよりも勝算は高いでしょう」
 
 
 
 そう……むしろ、勝算は高いだろう。
 
 今までの使徒は、全て、敵意を持って攻撃してきた。
 
 今回の使徒は、胎児……自らの意志で動くことがない。
 
 こちらが手筈を間違えなければ、負けることのない闘いなのである。
 
 
 
 「……おまえの勝算とは……息子か」
 
 「!」
 
 キールの、ゆっくりとした言葉に……ゲンドウは、ピクリと体を動かした。
 
 この場で、初めて見せた、ゲンドウの感情だ。
 
 
 
 ゲンドウは、即答しない。
 
 キールは、机の上に置いた両手を軽く組み直す。
 
 「おまえの息子は、シナリオにはないな」
 
 キールは言う。
 
 「初号機パイロットとして、シンジは決められた因子です」
 
 ゲンドウが、答える。
 
 その言葉に、感情の変化は感じられない。
 
 「確かに、そうかも知れん。だが……シンクロ率の高さについては、聞いている。精神的な強さも、異常ともいえる面があると、報告があるな」
 
 キールは、一度言葉を切り、続ける。
 
 「当初に予測したガイドラインと、違うな。彼は、計画の通りに動くか」
 
 
 
 「問題ありません」
 
 
 
 「いずれにせよ、失敗は許されんぞ」
 
 キールの言葉と同時に、老人達は、闇に消えた。
 
 そして、その暗闇の空間に……ゲンドウと冬月だけが残される。
 
 
 
 「失敗など……したら、人類が滅んでしまうよ」
 
 冬月が、呟くように言う。そして、視線をゲンドウに動かした。
 
 「シンジくんのことを言われるとはな」
 
 ゲンドウは答えない。
 
 「彼は、補完計画には大事な要だ。大丈夫なのか?」
 
 「問題ない」
 
 「レイの変化もあるな」
 
 「………」
 
 「幸い、委員会はまだ、彼女には気付いていないようだが……」
 
 冬月は、小さく溜め息をつく。
 
 レイに関して委員会が入手している情報は、今の所、数値的なものに絞られているようだ。
 
 レイは、シンクロ率も予測値から外れていない。
 
 戦闘にもまだ参加していないため、そちらの経過情報の報告も皆無だろう。
 
 そして、精神的な変化についても……報告は、受けていないはずだ。
 
 だが……
 
 「……いずれ、彼らも気付くぞ」
 
 「……問題ない。今はまだ、シナリオの通りだ」
 
 「そうかも知れんな……だが、外れたときは?」
 
 「………」
 
 「そのときは……三人目か」
 
 「……それも、シナリオのうちですよ、冬月先生」
 
 ゲンドウは、呟くように、答える。
 
 冬月は、黙ってその背中を見つめていた。



百三十一



 シンジたちは、プールを出て……ホールで缶ジュースを飲んでいた。
 
 「運動の後のジュースは、最高よね!」
 
 バキュームカーのごとき勢いで一気にジュースを飲み干したアスカは、ぷはぁっと息をついて、笑う。
 
 ミサトそっくりだ。
 
 (将来、酒のみになるな、きっと……)
 
 ちびちびとコーヒーを飲みながら、シンジはそう思わざるを得ない。
 
 
 
 シンジたち三人は、ホールの壁際に置いてある、革張りの長椅子に、並んで腰を降ろしていた。
 
 シンジは、横に座るアスカの方を向く。
 
 
 
 先ほどの、アスカの胸を掴んでしまった事実は……アスカの中では、ほとんど尾を引いていないようだ。
 
 もしかして、どうでもいいことになってしまっているのかな……と、シンジは思う。
 
 
 
 続いて、反対側に座るレイを見た。
 
 レイはシンジの顔を見ていたらしく、いきなり視線が合う。
 
 レイは、一瞬驚いたように目を見開いて……
 
 バッ、と視線を反らすと、頬を赤く染めて俯いてしまった。
 
 
 
 (かわいいなぁ……)
 
 シンジは、いつもと同じ感動を覚えつつ、レイを見ていた。
 
 こういったレイの仕草は、もはや見慣れた反応であったが……恋のパワーとでも言おうか、シンジにとっては、いつでも新鮮な感慨を胸中に抱かせていた。
 
 
 
 レイは、さきほどのアスカの胸にまつわる事態に対して、特に反応を示さなかった。
 
 理由は、明白だ。
 
 女性の体に触る、ということの意味を、事実以外でとらえる知識が無いからだ。
 
 (偶然の事故だったとはいえ……綾波に恨まれるようなことが無くて、ホッとしたよ)
 
 シンジは、心の中で、そっと溜め息をつく。
 
 
 
 もしも、レイがその方面の知識に豊富だったら?
 
 もちろん、怒るだろうし、恨まれるだろうし……
 
 (それに……
 
 その……
 
 ……自分も、とか言いそうだもんな〜……)
 
 そんなことになっては、収拾がつかない。
 
 それに耐える自信も、正直言って、あまりない。
 
 
 
 一瞬、頭の中に浮かんだ映像を、慌ててシンジは振り払うと……横に座るアスカの方を向いた。
 
 アスカは、ん? という表情でシンジを見る。
 
 シンジは、ふと去来した疑問を口にした。
 
 「ずっと、遊んでたみたいだけど……漢字の書き取りは、やったの?」
 
 「やってるワケないじゃない。バッカじゃないの」
 
 アスカは、呆れたように、じろっとシンジを見る。
 
 シンジは、思わず軽くのけぞって、アスカを見た。
 
 「え、でも……」
 
 「あのねぇ、わざわざ水着姿で、プールにいて、なぁんで勉強しなきゃなんないのよ! イミないじゃない、そんなの」
 
 「いや……でも、それで間に合うの? みんな、明後日には帰って来ちゃうけど」
 
 「今晩やるわよ。ちょっと見たけど、大した問題じゃないみたいだし」
 
 「そ、そうなの?」
 
 シンジは、ちょっとだけ苦笑しながら答えた。
 
 
 
 しかし……今晩か。
 
 その頃に、そんな余力、残ってるかな?
 
 これから……
 
 
 
 ピピピピピッ、ピピピピピッ、ピピピピピッ……
 
 「あら?」
 
 三人同時に鳴りはじめた携帯電話の音に、シンジは身を固くした。
 
 アスカは、液晶を見てから、電話をしまう。
 
 それを見ていたシンジが、アスカに声をかける。
 
 「召集だね」
 
 「え? ああ、そうね。作戦部だってさ」
 
 アスカが立ち上がり、それに続くように、シンジとレイも立ち上がる。
 
 「使徒かな」
 
 答えの分かっている質問を、シンジは呟く。
 
 「そうじゃないの」
 
 アスカが答える。
 
 「………」
 
 レイは、何も言わない。
 
 
 
 三人は、小走りに作戦部に向かって移動をはじめた。
 
 
 
 作戦部のモニター……床に配された巨大な画面に、サーモグラフィのような映像が朧に浮かんでいた。
 
 中央部分だけが、ほのかに黒い。
 
 リツコが三人の方に向き直った。
 
 「見ての通り、パターン・青……使徒よ」
 
 シンジは、わずかに脳細胞を引き締めた。
 
 
 
 来た。
 
 サンダルフォン……。
 
 
 
 「こっちへ向かっているの?」
 
 アスカが、リツコに問う。
 
 リツコは、横目でモニターを見下ろして答える。
 
 「いいえ……じっとしているわ。この使徒はね、まだ孵化していないの」
 
 「え?」
 
 「まだ、胎児なのよ」
 
 唖然とするアスカを見る、リツコ。
 
 
 
 そして、リツコの視線が横に動く。
 
 モニターを見下ろしている、シンジ。
 
 彼は……
 
 
 
 リツコは、じっとシンジを見つめていた。
 
 彼は……
 
 驚いていない。
 
 何の反応も示さない。
 
 ただ、冷静に……モニタの映像を、見つめているだけだ。
 
 
 
 「シンジくん」
 
 リツコはシンジに声をかけた。
 
 気付いて、シンジがリツコの方に顔を向ける。
 
 「はい? 何ですか?」
 
 「……どうしたらいいと、あなたは思う?」
 
 
 
 シンジとリツコの間に、静寂が訪れた。
 
 レイは、怪訝そうにそれを見ている。
 
 なぜ、リツコは急に、シンジの意見を求めたのか?
 
 当然のことながら、シンジには、作戦に口を挟む権利など、ない。
 
 そして、リツコやミサトなら……もう、作戦を決めているはずだ。
 
 
 
 ただの、戯れだろうか?
 
 
 
 だが、シンジとリツコの様子は、普通ではなかった。
 
 誰よりも愛しい少年と、自分と長く一緒にいた女性。
 
 この二人が、二人とも……普段、日常では包まないようなオーラを身に纏っていることが、レイには感じられた。
 
 
 
 それは、とても薄い、絹のようなオーラではあるが……。
 
 
 
 アスカも、よくわからないなりに、その場の重苦しい空気を感じ、口を挟めずにいた。
 
 やがて、シンジが口を開く。
 
 「……殲滅するべきです」
 
 「あら、そう?」
 
 リツコが、表情を変えずに答える。
 
 「使徒は、胎児……自分の意志では、動くことのない存在なのよ。生け捕りの、絶好のチャンスではないかしら」
 
 「駄目です」
 
 「……なぜ?」
 
 「……危険だからですよ」
 
 孵化が早まるからだ、と説明するわけにはいかない。
 
 この場でそう言うことができる、根拠がないからだ。
 
 シンジの知る事実は、あくまでも過去の結果に対する予防策でしかない。
 
 まだ起こり得ぬ事態に、方針を転換させられるほどの説得力はないのだ。
 
 
 
 「……使徒が危険だという、シンジくんの気持ちは分かるわ。ですが、これは作戦で決定しているの。生け捕り作戦を敢行するわ」
 
 「……そうですか」
 
 シンジは、溜め息をついて答える。
 
 この時点では、歴史を変えることは出来なかったが……仕方がない。
 
 まだ、現場で……危険を避けるためにやれることは、幾らでもあるだろう。
 
 重苦しい空気が解き放たれ、レイとアスカも、知らずに固くなっていた肩の力を、抜いた。
 
 
 
 「さて、作戦ですけど……」
 
 「ハイ! ハイハイハイ! 私がやりま〜す!」
 
 リツコの言葉に、アスカが手を大きく挙げてアピールした。
 
 シンジは心の中で、(やはりこうなったか)と思う。
 
 リツコは、かすかに微笑んでアスカを見た。
 
 「そう? アスカ、やる?」
 
 「ハイ!」
 
 「じゃあ、アスカが潜行……と」
 
 リツコが手許のキーに入力していくのを見ながら、アスカは満面の笑みを浮かべる。
 
 そして、バッと振り返って、ニヤニヤしながらレイとシンジを睨み付けた。
 
 「見てなさい! アタシの華麗な技を、特別に教えてあげるから!」
 
 「そうかい?」
 
 シンジが、苦笑する。
 
 レイは、ただアスカを見ているだけで、特に答えない。
 
 
 
 「じゃあ、残りの二人は火口で待機ね」
 
 リツコが、キーを叩きながら、続けて言う。
 
 「ハイ」
 
 レイが答え……
 
 「え?」
 
 シンジが、間抜けな声を出した。
 
 
 
 アスカ、レイ、リツコが、シンジの顔を見る。
 
 「どうかした? シンジくん」
 
 「え? あ……その……誰かひとり、本部にいなくていいんですか?」
 
 「同時には攻めてこないでしょう。浅間山の方には使徒がいるんだし、完璧な布陣にしておいた方がいいわ」
 
 こともなげに答えるリツコを見ながら、シンジは呆然としていた。
 
 
 
 なぜ……?
 
 そりゃ……こうなってくれるのが、一番都合がいいんだけど……
 
 
 
 なぜだ?
 
 歴史と、違う。
 
 何の要因が、歴史を変えたんだ?



百三十二



 暗闇の中……ゲンドウの後ろに立つ冬月が、静かに口を開く。
 
 「……チルドレンを、全員浅間山に送るようにしたそうだな」
 
 「ああ」
 
 ゲンドウが短く答える。
 
 「状況によっては……レイの、初陣となるぞ」
 
 「………」
 
 「委員会に……あの二人を見せるつもりか」
 
 ゲンドウは、答えない。
 
 
 
 「いいのか……悪い方に転がれば、二人が狙われるかも知れんぞ」
 
 冬月の言葉に、ゲンドウが答える。
 
 その顔に、表情はない。
 
 
 
 「かまわん。
 
 いずれ、知れることだ……
 
 もしもあの二人が、計画の障害になるようなら……
 
 早い内に、排除するだけだ」