第三十二話 「それぞれ」
百十八



 ジリリリリリリリリリリ……
 
 
 
 ガチャン。
 
 
 
 枕元で鳴り響いていた目覚まし時計を、白い腕が伸びてきて、黙らせた。
 
 そのまま、部屋は再び、朝の静けさに包まれる。
 
 布団からわずかに見える黒髪の人物は、そのままもぞもぞと布団の中に身体を潜り込ませた。
 
 
 
 目覚めは、悪い方ではない。
 
 まだ、遅刻したことなどは数えるほどしかなかった。
 
 今の、目覚まし時計の働きで、頭の中は目覚めている。
 
 
 
 だが、あえて、もう一度、布団の中に潜る。
 
 5分もしたら、起きなければいけない。
 
 だが、この5分間こそ……朝のうちで、最も気持ちのいい瞬間だと思っている。
 
 眠りと目覚めの間を、緩やかなカーブを描いて、行きつ戻りつする、怠惰な時間……
 
 普段、忙しい生活を送っているからこそ……この時間が、最も甘美で愛おしく感じられるのである。
 
 
 
 とは言え……これがミサトだったら、瞬く間に、再び眠りの海に沈み込んでしまうだろう。そうなってしまえば、自力でサルベージを行うのは不可能だ。
 
 目覚めをコントロールできるからこそ、味わうことを許される、いわば贅沢な楽しみと言ってよかった。
 
 
 
 「………
 
 ……起きなきゃ……」
 
 
 
 目覚ましが鳴ってから、キッチリ5分後。
 
 伊吹マヤは、欠伸をしながら、布団から上半身を起こしたのだった。



百十九



 マヤは一人暮らしだ。
 
 彼女自身は、自分のルックスに若干のコンプレックスがあるのだが、それは、必要以上にミサトやアスカ、そしてレイを意識した結果だった。客観的に見れば平均値を遥かに上回る女性である。その気になれば、同居人を探すことは、決して難しくないであろう。
 
 だが、彼女は今の、一人暮らしの生活に不満はなかった。
 
 男性と同じ部屋で暮らす、というイメージが、彼女にはピンとこない。
 
 彼氏が欲しいと思わないわけではない。
 
 だが、彼女の思い描く理想の男性は、少女マンガに出て来るようなタイプで、現実から探し出すのは難しかった。
 
 
 
 マヤは布団から出ると、キッチンへ向かう。
 
 そのまま、着ていたパジャマと下着を洗濯機の中に放り込むと、洗濯機のスイッチを入れて風呂場の扉を開ける。
 
 ユニットバスで、朝のシャワー。軽めに頭と身体を洗い、就寝中にかいた寝汗を洗い流す。
 
 風呂場を出ると、もう、完全に眠気は拭い去られ、頭の中はスッキリと澄み渡る。
 
 裸のまま部屋に戻り、タンスの一番上の引き出しを開ける。
 
 ズラッ、と並んだ下着の数々。
 
 サーッと見渡し、今日の気分にあった色とデザインの下着を取り出すと、それを身につける。
 
 ちなみに、誰かに見せる予定などは全くないし、その気もないので、純粋に自分の好みで選んでいるに過ぎない。
 
 
 
 鏡の前で、簡単な化粧。
 
 それが済むと、NERVの制服の袖に腕を通す。
 
 身支度を整えて、冷凍庫を開け、昨日のうちに買ってあった冷凍食品を電子レンジに入れ、ダイヤルを回す。
 
 料理を、全くしないわけではない。
 
 だが、結局食べるのは自分ひとりなわけで……休日の、時間が有り余っている時でなければ、コンロに火を入れることはなかった。
 
 
 
 電子レンジが、チン、と乾いた音をたてる。
 
 
 
 一つの容器にごはんとおかずがセットになったもの。
 
 それに、同じく昨晩買ってあったサラダをつけて、朝食である。
 
 人に言えば、いい若い女性が……と眉をひそめる向きもあろうが、彼女は今の食生活にも、取り立てて不満はなかった。
 
 尊敬する先輩・赤木リツコも、フライパンを握ることはほとんどないであろう。
 
 ……もっとも、リツコが外食をメインにしているのに対し、主に財政上の理由から、マヤは冷凍食品という結果に落ち着いてしまうのであるが。
 
 不満があるとすれば、給料かな……と、マヤはサラダを口に運びながら、考える。
 
 
 
 マヤの部屋は、基本的に、物が少ない。
 
 8畳の部屋に、机とタンスがひとつずつ。
 
 押し入れには、布団と衣類が詰め込まれている。
 
 彼女は物に執着しないタチで、特に気に入った物以外は、用途が済むと捨ててしまう。
 
 取っておくのは、衣類や場所を取らない小物の類いぐらいであろう。
 
 本も、机の上のブックエンドに挟まれている10册程度のみで、他には見当たらない。
 
 
 
 にもかかわらず、この部屋が雑然とした印象を与えるのは、なぜだろうか?
 
 
 
 ……と問えば、十人が十人、こう答えるであろう。
 
 
 
 「壁に貼ってあるポスターのせいだ」、と。
 
 
 
 彼女の部屋には……壁という壁に、アイドルのポスターが貼りまくってあった。
 
 それこそ、天井にまで何枚も貼ってある。
 
 布団を敷く位置……ちょうど横になった時に見上げる位置など、ヴォーカリストと思われる青年のドアップがB全のサイズで笑いかけていた。
 
 
 
 彼女は、生まれついてのミーハーである。
 
 小さな頃から、ブラウン管の向こう側にいる美少年達に、熱を上げてきた。
 
 そして、好みの移り変わりが激しい。
 
 好きになったアイドルのポスターは集めまくるが、女優とのスキャンダルでも流れようものなら、瞬く間に、そのアイドルに対する熱は冷めていく。
 
 そして、そのアイドルのポスターは全てゴミ箱に送り込まれ(物に執着しない)、次なる獲物(と言っては失礼か……)が彼女の部屋を彩るようになるのである。
 
 
 
 自分でも、少々おかしい、と思わなくもない。
 
 いい歳をして、アイドルに入れ込むということもそう。
 
 夢に見るほど好きになったアイドルを、一瞬にしてどうでもいい存在にまで格下げしてしまうこともそうだ。
 
 
 
 自己分析する限り、自分は結局、「虚構の美少年」を追い求めているのだ、と思う。
 
 たとえ身近にジャニーズ系の美少年がいたとしても、その存在は好きにならない。
 
 それは、実際に手を伸ばせば触れられるほど、近くにいるからだ。
 
 マヤは、「手の触れられない存在」として、彼らを求めている。アイドルやマンガの主人公に憧れるのは、そのせいだ。
 
 そして、スキャンダルなどの、そのアイドルの「現実」を見てしまうと、その虚構が崩れ落ちてしまうのである。
 
 
 
 よくないな、と思う。
 
 だが、これはコントロールできる感情ではないのである。
 
 
 
 パックをゴミ箱に放り込みながら、マヤは考える。
 
 今まで接してきた現実の人間の中で、最も「虚構」に近かった存在。
 
 
 
 それは、レイだ。
 
 
 
 彼女は、現実を感じさせなかった。
 
 うっかりしていると、自分と同じように食事して排泄し、夜には眠るという事実を忘れそうになる。
 
 もちろん、同性の……しかも中学生の女の子に恋心を抱くことなどあり得ないが、マヤは、リツコに抱くのとは別な……一種近寄りがたい憧れを持って、彼女を見つめていたのである。
 
 ……それが、以前のレイだった。
 
 
 
 だが、いま、レイは確かに生きている。
 
 
 
 彼女が食事をしない、なんて、万が一にも思わない。
 
 トイレにも行くだろうし、夜になれば眠るだろう。
 
 それが、マヤの抱く、彼女の自然な印象だ。
 
 
 
 ……なにが、そうさせたのか。
 
 それは、火を見るより明らかだった。
 
 
 
 ……サードチルドレン、碇シンジ。
 
 
 
 彼が、綾波レイに命を吹き込んだ。
 
 彼が、彼女を虚構の世界から……現実へと引き寄せたのである。
 
 
 
 「憧れ」は、失われた。
 
 だが、マヤは不快ではなかった。
 
 ……レイに対する不可侵な憧れと引き換えに、親近感を手に入れた。
 
 これは、初めての経験だった。
 
 
 
 理由は分からない。
 
 だが、シンジとレイの恋愛は、マヤにとっても愛おしく、微笑ましいものだ。
 
 現実の恋愛に、こういった気持ちを抱いたことは、今までなかった。
 
 
 
 レイは、純粋なのだ。
 
 理由を考えれば、かろうじてそれが思い付く。
 
 ……彼女の恋愛は、現実でありながら、薄汚なくないのである。
 
 
 
 ……これも、都合のいい解釈かも知れない、とマヤは思う。
 
 物事には必ず存在する、裏の部分。
 
 そこから、意識して目を背けているだけかも知れない。
 
 
 
 マヤは、溜め息をつくと、玄関の重い扉を開く。
 
 彼女の身体に、朝の光が降り注いだ。



百二十



 青葉シゲルは、汗を拭いながら自宅の扉を開けた。
 
 ジャージを脱ぐと、上半身から湯気が沸き上がる。
 
 肩まで伸びた髪を鬱陶しそうにかきあげると、風呂場へと足を運んだ。
 
 
 
 風呂場から出てきたシゲルは、ビキニのパンツ一丁に、肩から手ぬぐいを掛けただけという姿でキッチンまで歩くと、胸ほどまでしかない小さな冷蔵庫の扉を開け、水の入ったペットボトルを取り出し、一気にあおった。
 
 ゴク、ゴク、ゴク……
 
 「ぷっはぁっ」
 
 気持ち良さそうに息をつくと、ペットボトルを冷蔵庫にしまって部屋に戻る。
 
 
 
 シゲルは、毎朝、近くの街をジョギングしていた。
 
 健康管理、とか、体力作り、とかいう殊勝な理由ではない。
 
 いうなれば、学生時代の習慣が、今もなお彼を走らせているのだ、としか言えない。
 
 だが、本人の思惑とは無関係に、シゲルの身体は忠実に運動量を筋肉に変換し……筋肉質とはいかないまでも、引き締まった肉体をつくり出していた。
 
 
 
 シゲルの部屋は、フローリングにベッド、タンスが置いてあるだけの部屋だ。
 
 シゲルいわく、「自宅は帰って寝るための部屋」と公言してはばからない。
 
 無味乾燥で、趣味の物もなく……必要最低限の衣類や日用品が、揃えるでもなく、乱雑に収納されていた。
 
 
 
 ……だが、そんな彼の部屋に……ひとつだけ、住人の息遣いを感じさせる物がある。
 
 部屋の南側の壁に、無造作に立て掛けられている……
 
 アコースティック・ギター。
 
 「趣味」を思わせる物は、見渡しても、唯一それだけだった。
 
 
 
 シゲルは、中学の頃から、ずっとギターを弾いてきた。
 
 高校や大学では、仲間とバンドを組んでいたこともある。
 
 一時の熱病のように……音楽で食っていくことを目指して、がむしゃらに突き進んでいた時期も、あった。
 
 
 
 しばらく、シゲルはそのギターを眺めていたが……やがてゆっくりと近寄ると、それを手に取った。
 
 ベッドに腰掛けて、ギターを構える。
 
 弦を一本、指で弾く。
 
 調律の狂った音が、ふるえながら、かすかに部屋にこだました。
 
 
 
 いつから……忘れてしまったのか。
 
 シゲルは、静かに思う。
 
 NERVに入って……毎日、振り返る余裕もないほどの忙しさで働いてきた。
 
 世界を……護るために。
 
 
 
 いつしか、ギターを弾くことは無くなってしまった。
 
 そして、今……こうしてギターを抱えていても、昔のような情熱は戻ってこない。
 
 
 
 もう一本……弦を弾く。
 
 ビン!
 
 「ありゃ……」
 
 一番細い弦が、衝撃で切れ、ぐるんとカールする。
 
 それを、シゲルはボケッと見つめていた。
 
 
 
 バンドを組んでいた頃は、弦を切らすことなんて、ほとんどなかった。
 
 自分の熱をぶつけるように……がむしゃらに弾いていたから、もちろん、弦の痛みも激しかった。
 
 だが、入念に手入れを行い、常に替えの弦を用意して……弦が切れるまで放っておく、ということがなかったのだ。
 
 
 
 シゲルは、今、頭の中を巡らせてみても……替えの弦がどこにあるのか、思い出すことが出来なかった。
 
 結局……これが今の自分なのだ。
 
 プロにならなかったのは、正解だったかも知れない、とシゲルは思う。……こんなにすぐに、情熱が醒めてしまうのだから。
 
 
 
 シゲルは立ち上がると、壁のフックにかかった制服を取り、身に纏う。首許のボタンを止めると、ビシッとした表情で、前を見た。
 
 反対側の壁にかけてある鏡に、自分の姿が映る。
 
 NERV作戦部・冬月副指令付オペレーター。階級、二尉。
 
 鏡の向こうに立っているその姿に、違和感はない。
 
 
 
 何がいいのか、分からない。
 
 本当に、音楽を捨ててしまうだけの価値が、NERVにあったのか?
 
 今の自分には、まだ判断することはできそうもなかった。
 
 
 
 「いつか、じじいになって……隠居したらわかるかもな」
 
 シゲルは、小さな声で呟いた。
 
 ……その時には、どこか、静かな湖のほとりに、小さな別荘でも、持とう。
 
 そこのテラスで……ギターを弾きながら、暮らすんだ。
 
 他には何も、いりゃしない……。
 
 
 
 そこまで考えて、シゲルは、ふと顔を上げた。
 
 一瞬、複雑な感情が瞳をよぎり……
 
 直後、目を瞑って静かに笑う。
 
 
 
 ……何だって?
 
 ……ギターの他には、何もいらない?
 
 
 
 ………
 
 
 
 ……そうか……
 
 ………
 
 まだ……決めつけるには、早すぎるんだな。
 
 
 
 シゲルは、腕時計を見る。
 
 いつも家を出る時間まで、まだ30分以上ある。
 
 だが、シゲルは溜め息をつくと、肩を竦めて玄関に向かって歩く。
 
 「今日は、朝メシ抜きか……あ〜あ」
 
 いいながら、靴を履き……玄関のノブを回して扉を開けた。
 
 朝の光が、緩やかにシゲルの顔を照らす。
 
 シゲルは一瞬眉をしかめ、それから太陽を見上げて口元をゆがめて笑う。
 
 
 
 さて……行くか。
 
 替えの弦を……買ってこなくちゃいけないからな……。
 
 
 
百二十一



 日向マコトは、新聞に目を通していた。
 
 トースターが、チン、と音を立てて、トーストを吐き出す。
 
 マコトは新聞から目を離すと、それを畳んで横に置いてから、手を伸ばしてトーストを取った。
 
 
 
 マコトは、毎日欠かさず新聞を読み、世界情勢に目を向ける。
 
 それを習慣とすることで、世間の流れを掴むことができる……という父の教えを、彼は護り続けていた。
 
 
 
 今は、子供の頃とは違う。
 
 新聞に載っていることは、世界を流れる夥しい情報の、ほんの表装の部分に過ぎない……と、わかっている。
 
 特に、NERVに入って、それを体験として理解していた。
 
 
 
 使徒との戦いのあらましは、メディアに載ることはない。
 
 たとえ載せようとする動きがあっても、NERVによって圧力がかかり、実際には日の目を見ない。
 
 ……多くの国民は、薄ら薄ら、理解はしているようだ。だが、それは口コミで広がった情報であり、おおまかな輪郭は捕らえていても、真実に近付くことはない。
 
 ……つまり、新聞の類いは、情報のごく一部しか載せてはいないのだ。
 
 
 
 だが、読んでおいて損はない、と思う。
 
 だから、彼は3紙の新聞を講読し、その全てに目を通していた。
 
 頭が固い、とは思わない。
 
 日々のこうした習慣が、何かに役立つ、と信じていた。
 
 
 
 中学高校と、パッとしない生活だった。
 
 成績はよかったが、趣味の方面では思い出がない。それは、趣味がなかったからだ……と、マコトは思う。
 
 別に、学問に全てを注ぎ込むつもりなどなかったが……他にすることがなかったため、結果的に勉学に力が配分され、成績は常にトップクラスだった。
 
 父は、マコトがエリートコースに乗ることを、マコトが幼い頃から強く望んでいた。
 
 マコトとしては、深くそれを意識したつもりはない。だが、結果的には、父を喜ばせるラインに乗っていた。
 
 そして、大学に入学する。
 
 何も、することがなく……漫然と、日々を過ごしていく。
 
 父は、一流企業か、官公庁への就職を望んでいた。
 
 このままでは、やがてそうなるだろう。成績的には問題がない。
 
 だが、こうして、自分の進みたい道を見い出すことなく、ただ流されていく人生に、疑問を感じていないわけではなかった。
 
 ……だが、どうすることもできない。
 
 他の選択肢が、思い付かないのだから。
 
 そうして、2年に進級し、5月か6月か……そのくらいの頃。
 
 マコトの人生は、一変した。
 
 
 
 その黒髪の女性に出会ったのは、偶然だった。
 
 その女性を見かけたのはキャンパス内だったのだが、学校関係者ではないことは、明らかだった。
 
 なぜなら、あれほどの美女が学校にいて、今まで噂を聞かなかったはずがないからだ。
 
 とにかく……次の授業を行う教室に移動中、偶然、その女性に出会った。
 
 
 
 それは、雷が落ちたような衝撃だった。
 
 いままで、人並み程度には、恋をしたこともあったし……すぐに別れてしまったが、女性と付き合ったこともある。
 
 だが、この衝撃は、そのどれの時にも、感じたことがなかった。
 
 それほど……強烈な……一目惚れ、だった。
 
 
 
 その女性が教官室に入って再び出てきた後、マコトはすぐに、その教官室に飛び込んだ。
 
 教官に説明を求めると、彼女はNERVという特務機関の偉い人で、この大学に預けてあったいくつかの研究材料の回収と成果の報告を受けに来ていたのだという。
 
 
 
 ……NERV。
 
 
 
 この先の生き方が見えてこない彼は、この瞬間に、自分の進路を定めた。
 
 何としても、あの女性の許に行きたかった。
 
 ……そして、がむしゃらに勉強をして……超難関といわれる狭き門に、見事合格を果たしたのだ。
 
 父は、それなりに喜んだ。彼の想定していた就職先ではなかったが、「一流」の名を冠するにふさわしい、エリートコースであることに違いはない。
 
 だが、マコトにとっては……この進路は、今までのものとは、全く意味の違うものだった。
 
 
 
 今、NERVに入ったことに、後悔はない。
 
 仕事は面白いし、やりがいもある。命をかけているだけに、その感覚は何倍にもなって感じられた。
 
 だが、ミサトに対する想いは、少しずつ……希薄になっているのを、感じていた。
 
 
 
 今でも、ミサトが好きだ。
 
 だが……ウワサで、ミサトの恋人が戻ってきたことを聞いた時、予想していたようなショックは、なかった。
 
 ……それが、当たり前かも知れない……と、マコトは思う。
 
 
 
 普通、誰かに恋をしている時……自分がその横に立つ情景を、夢想したりするだろう。
 
 だが、自分にはその経験がなかった。
 
 いつでも……ミサトの後ろに立っている自分を、想像していた。
 
 
 
 「つまり……恋じゃないんだ。好きだけど……愛してるけど……違う」
 
 
 
 朝食を終えたマコトは、食器を洗うと、鞄を取りに部屋に戻った。
 
 マコトの部屋は、本棚が壁いっぱいに並び、その中には難しい専門書から砕けた小説まで、多種多様な本が並んでいる。
 
 本の種類が豊富なのは……多趣味ではなく、無趣味だからだ。
 
 「なにか……やりたいことがあればな」
 
 本を眺めてそう呟くと、マコトは荷物を持って立ち上がった。
 
 
 
 愛する女性の許で、また今日も働くために。



百二十二
 
 
 
 「おはようございます」
 
 「おはようございます」
 
 「おはようございます」
 
 NERVの管制室で、挨拶が交わされる。
 
 NERVは、二交代制をとっている。メインの人材が昼勤で、それ以外に第二部所属の人間が夜勤を行っている。
 
 昼勤の人間も、もちろん有事の際には容赦なく呼び出されるのであるが。
 
 とにかく、そうして夜勤の者と軽い伝達を終えた後、彼らは本来の任務についた。
 
 
 
 「零号機の状態は、どう?」
 
 マヤの座る席の後ろに、リツコが立つ。
 
 マヤは素早く、キーボードの上に指を走らせた。
 
 「修復率91%です。かなり進んでますね」
 
 「もう、動かせるわね」
 
 「そうですね。できれば、使徒には完全に復旧した後に来てもらいたいところですけど……まぁ、いま使徒が来たら、一応3体で出撃できます」
 
 リツコは小さく頷く。
 
 「ミサトから指示が行っていると思うけど、3体での戦闘分配を効率良く行うために、MAGIにシミュレートさせておいて。特に、完調ではない零号機は、使えない箇所がどこで、それにかかわる作戦方式はどれか。修理箇所に影響されず、もっとも効率良く行なえる戦闘方式を洗い出す。プロトタイプは、前三戦。零号機が出撃したことを想定して、予見資料を作りなさい」
 
 「はい」
 
 マヤが返事をするのを見てから、リツコはきびすを返した。
 
 
 
 マヤは、MAGIに矢継ぎ早に命令を下していく。
 
 MAGIは、半自律神経を持つコンピュータである。
 
 自分で判断し、自分で考えて結論を出す。だが、それはプログラムの集積した「疑似思考」であり、実際にMAGIが意識を持って判断しているわけではない。
 
 「これこれこういう情況をシミュレートして」と伝えて、MAGIがそのままやってくれるのであれば、苦労はない。だが、MAGIにはそこまでは、ファジーな思考は出来ない。第一、それで済むならオペレータの必要は無くなってしまう。
 
 的確な情況と、必要と思われる情報の提示。シミュレートする内容を数値に変換し、しかるべき数式と併せて入力する。
 
 その結果として、MAGIは答えを吐き出す。
 
 
 
 マヤは、それらの条件式を、キーボードに叩き込んでいた。
 
 先程の、リツコの指令。あの内容から、必要な数式を導き出すのはオペレータの能力であり、その点で、彼女は類い稀だった。
 
 使徒のデータ。
 
 周りを取り巻く、都市や大気、天候などの情況。
 
 使徒の行動パターン。
 
 零号機の修復情況。
 
 戦闘記録から類推される、突発的情況。
 
 零号機パイロットの行動パターン。
 
 
 
 零号機パイロットの、行動パターン……?
 
 
 
 マヤは、入力する手をとめる。
 
 目の前のモニタを見つめて、じっと黙った。
 
 
 
 レイの、行動パターン。
 
 そんなものを把握している者が、この世にいるだろうか?
 
 ……いや、それに限らず……
 
 人の、行動のパターンを数式に置き換えられる者など、本当は、この世にはいない。
 
 
 
 マヤは入力していたウィンドウを裏側に回し、新たに別のアイコンをクリックした。
 
 画面に、表のような物が広がる。
 
 マヤは、素早くそれをスクロールさせ、目的の箇所を見つけだした。
 
 「……チルドレンの訓練は、4時からか……」



百二十三



 ゲンドウは、執務室にいた。
 
 この、広い部屋で……中にいるのは、ゲンドウを含む2人の人間だけだ。
 
 ゲンドウは、静かに口を開いた。
 
 「……零号機の調子はどうだ」
 
 「悪くないようだな」
 
 横に立つ冬月が答える。
 
 
 
 冬月は、ゲンドウのサポートが主な仕事だ。
 
 もちろん、ゲンドウが不在の場合は自動的に冬月が最高責任者となり、全権を担う。
 
 だが、それ以外の場合は、いわゆる「ゲンドウの秘書」的な役割が多い。
 
 
 
 そのことに、冬月は不満を感じない。
 
 権力が欲しいわけではない。
 
 碇ユイの、碇ゲンドウの、キール・ローレンツの……人類の行く末を、見届けたいという、想い。
 
 それが、彼をここに立たせている理由だった。
 
 自分達が、道を踏み外しかけていることも、理解している。
 
 だが、軌道を修正する気はなかった。
 
 ただ、見届けたいのだ。
 
 ただ。
 
 この男が、どうやるのかを。
 
 碇ユイが、ただ一人愛した、この男の腕を……
 
 見たいのだ。
 
 
 
 「シンジ君は、退院したそうだな」
 
 冬月は、話題を転換した。
 
 ゲンドウは答えない。
 
 「会ったのか?」
 
 「……必要無い」
 
 冬月の言葉に、ゲンドウは短く答えただけだった。
 
 
 
 「過労、だそうだな」
 
 「……ああ」
 
 「いいのかね? まだ、使徒とは3体しか闘っていない。この時点で倒れるようでは……」
 
 「問題ない。休めば治る」
 
 「時間の問題ではないのか。このままでは、計画の進行にも無理が生じるぞ」
 
 「………」
 
 「これも、シナリオのうちかね」
 
 二人の会話は、途絶えた。
 
 
 
 「……使徒は、倒さねばならん。それが、定められた道だ」
 
 ゲンドウは、ゆっくりと言う。
 
 その表情は、サングラスと、目の前で組まれた手によって遮られ、冬月には窺うことは出来なかった。



百二十四



 訓練を終えた三人は、ミサトに誘われて食堂に足を運んでいた。
 
 「おごったげるわよン。何でも食べてね」
 
 ミサトが、振り返って笑う。
 
 アスカは、ガラスケースに並んだ鑞細工の料理を眺めながら、呆れた顔で呟く。
 
 「何でもったって……高くても千円しないじゃない、ココ」
 
 「まぁ、せっかく奢ってくれるって言うんだからさ……」
 
 「……碇君の料理の方が、美味しいのに……」
 
 「あ、あはははは……」
 
 
 
 それぞれに料理をとって、4人はテーブルを囲んで座る。
 
 シンジとレイが隣同士、シンジの前にアスカ、レイの前にミサト、という並びだ。
 
 
 
 アスカは、一口食べて、「う〜ん……」と唸る。
 
 レイは、一口食べて、「碇君の料理の方が、美味しい……」と呟く。
 
 シンジは、苦笑いしながら、黙々と食べ続ける。
 
 ミサトは、そんな3人の様子を、腕を組んで見ていた。
 
 「そんなに、まずいかしら……値段のワリに美味しいって言われてるのよ、ここ」
 
 「別に、不味くはないわよ」
 
 アスカが言う。
 
 「ちゃんと食べられるしね。ただ、なんか物足りないってゆ〜かさ……」
 
 「……碇君の料理の方が美味しい……」
 
 「アンタ、少しは他のことも言いなさいよ!」
 
 「……でも……碇君の料理の方が……おいしいもの」
 
 「あ……あはははは……」
 
 苦笑いの、シンジ。
 
 
 
 実のところ、NERVの食事は悪くない、とシンジは思っていた。
 
 時折、ミサトもレイも食事の予定があり、自宅で作る必要がない時に……この食堂で済ませてしまうことがある。
 
 その感想から言えば、下調べなしに歩き回って、そこらの定食屋に入るよりは、格段に美味しい料理だと言えた。
 
 「僕は、そんなに悪くないと思うけど……」
 
 シンジは、おずおずと、思っていたことを口にした。
 
 アスカは、頬杖をつきながら、瞳だけ見上げて、向いに座るシンジを見る。
 
 「別に、悪いなんて言ってないわよ。ただ、こう……ピリッとしないって言うの? うまく言えないけどさ……」
 
 「う〜ん……なんだろ?」
 
 「碇君の料理の方が……」
 
 「ハイ! ハイ! うるさいわね!」
 
 「ま、まぁまぁ、アスカ……」
 
 「フン! だいたいシンジ、何が悪いのかわかんないわけ? そんなんじゃ、料理の腕もまだまだね!」
 
 「う……う〜ん……」
 
 「碇君の料理は……美味しい……」
 
 「……アンタ、他の言葉ってインプットされてないワケ?」
 
 「他に言うことなんて……ないもの」
 
 「ハイハイハイハイ」
 
 「あ、あははははは……」
 
 
 
 アスカの言う、「物足りなさ」。
 
 それは、おそらく以前のアスカなら、感じない類いの物だっただろう。
 
 事実、ユニゾンの始まる前に……アスカは、加持に連れられてここに来ている。
 
 あの時は、加持に気をとられていたこともあったが……料理に不満など、なかったはずだ。
 
 
 
 アスカの変化は、ひとえに「シンジの料理」によるものだ。
 
 ユニゾン初日から、今に至るまで……途中に大惨事を挟んではいるものの、基本的に三食全てを、シンジの料理で賄っている。
 
 三ツ星とは行かないかも知れないが……並の料理人には太刀打ちできぬ、その腕前。
 
 それが普通になってしまった彼女にとって、「街の定食屋よりはマシ」というレベルでは、物足りなく感じて当然だった。
 
 であるから、アスカの言うような、「シンジの料理もまだまだ」ということでは、決してない。
 
 むしろ、逆なのである。
 
 
 
 レイは、シンジの料理を、全面的に支持していた。
 
 愛しのシンジがつくる、それこそ愛情のこもった料理。
 
 しかも、実際にかなり美味しいのである。
 
 他の料理とくらべるなどあり得ないほどに、レイの中では、シンジの料理は至高の存在だった。
 
 
 
 この4人の中で、シンジの料理を正当に評価していない者……
 
 それは、ミサトとシンジである。
 
 
 
 ミサトは、だいたいにして、他に右に出る者のない、まさに当代切っての味音痴である。
 
 もちろん、シンジの料理は美味しいと感じている。
 
 だが、自分の作ったカレーもおいしいと思っている。
 
 街で噂の「マズイ店」の料理も美味しいと感じているし、「ウマイ店」の料理も美味しいと感じている。
 
 つまり、「何でも美味しい」のである。
 
 ……そういう意味では、食生活において、一番幸せなのはミサトかも知れなかった。
 
 
 
 シンジは、自分の腕前をよく理解していなかった。
 
 料理人になりたいと思っているのなら、また違うかも知れない。
 
 だが、今の彼が料理する理由は、単に「家族」に美味しく料理を食べてほしいと思っているからに過ぎない。
 
 ……その願いは強く、それゆえ料理も素晴らしく上達するばかりなのだが、シンジ自身にはよくわかっていなかった。
 
 レイが、アスカが、ミサトが、美味しいと言ってくれる。
 
 それで、十分なのだ。



百二十五



 エレベーターのダイヤルが、カラカラと回転する。
 
 降下する箱の中で……リツコはじっと腕を組み、何を見るともなく、ただ虚空の一点を見つめ続けていた。
 
 
 
 リツコの脳裏には、先日の一瞬が、切り取られたように、繰り返し……リピートされて、また、消えていく。
 
 
 
 あの……
 
 バス停での……会話。
 
 
 
 シンジの、自分を見つめる、揺るぎない表情。
 
 そして……
 
 
 
 ……委員会……
 
 
 
 まだ、誰にも言うつもりはなかった。
 
 あの時は、声も小さかった。
 
 諜報部も、細かい会話まで、把握はしていないだろう。
 
 ……あの時の、シンジと交わした会話の内容を知るものは、この世にはまだ、シンジと自分しかいない。
 
 
 
 碇、シンジ……
 
 ……彼は。
 
 
 
 リツコは、何も読み取れぬその瞳の奥に、少年の姿を思い浮かべていた。



百二十六



 その頃の、葛城邸。
 
 
 
 風呂から上がったペンペンは、頭の上に手ぬぐいを乗せたまま、イワシを片手にソファーに寝転び、テレビを観ていた。
 
 「クエックエックエッ」
 
 ……バラエティを観て、笑っている。
 
 牛乳を、キューッ、と一杯。
 
 
 
 プハァッ!!
 
 
 
 ……一番贅沢なのは、このペンギンかも知れない。