第三十一話 「夢」
百十三



 入院からきっちり三週間後……。
 
 リツコのお墨付きをもらい、シンジは晴れて退院の運びとなった。
 
 
 
 「う〜〜ん……」
 
 病院の正面玄関を出たところで、シンジは大きく伸びをした。
 
 そして、深呼吸のように、続けて大きく息を吐く。
 
 
 
 空は、快晴だ。
 
 夏の、しかし照り付けるように強くもない、心地よい陽射しを身体中に浴びながら……シンジは、自由の有り難味を噛み締めていた。
 
 
 
 何しろ、三週間もの間……病院の個室の中で、ベッドの上に横になったまま過ごしてきたのである。
 
 病院内を軽く歩き回ったりすることはできたが、今の状態とは根本的に違う。
 
 
 
 ……前回の人生でも、病院で目覚めることが何回か、あった。
 
 だが、あの頃は、退院することにこれほどの喜びを感じることはなかった。
 
 それは……つまり、現実の世界が、もともとあまり楽しくなかったからだ、とシンジは思う。
 
 戻っても、また嫌な現実に引き戻されるだけ……
 
 そう感じている限り、退院に何の感慨も抱かないだろう。
 
 
 
 だが、今は違う。
 
 病院での生活の、何と味気なかったことか。
 
 皆が入れ替わり立ち替わり見舞いに来てくれたが、だからこそ、普段の生活に……皆と、楽しく暮らす日常に戻りたくてたまらなかった。
 
 
 
 僕は、生きている。
 
 
 
 前よりも、ずっと。
 
 
 
 前回は、「生きているフリ」をしていただけだったように思う。
 
 だが、今回は、はっきりと、違うのだ。
 
 それを、再確認し……とても嬉しかった。
 
 
 
 シンジは、足許に置いた鞄を持つと、病院の外に向かって歩き出した。
 
 今は、ちょうど11時を回ったくらい。
 
 レイやアスカ、トウジたちは学校だし、ミサトはNERVでの仕事が山積みだ。
 
 「退院を午後にすれば、みんなで迎えに行ってあげるのに」というミサトの申し出を断わり、シンジは許可が出るや否や、即座に退院した。
 
 迎えに来てくれるのが嫌なわけでは、勿論ない。
 
 とにかく……早く、外に飛び出したかったのだ。
 
 
 
 皆が……と言うか、少なくとも、レイが家に戻ってきた時に、シンジがそこにいないのはまずいだろう。
 
 そう思い、とりあえず、シンジはまっすぐ家に向かうことにした。
 
 学校が終わるのは3時過ぎだし、別に約束しているわけでもない。
 
 だが、何となく……皆が学校へ行ったり仕事をしたりしている時間に外で遊んでいるのも躊躇われて、家で大人しく待っていよう、と思ったのだ。
 
 
 
 風が、シンジの前髪を撫でて、去っていく。
 
 そんなことも、新鮮に感じた。
 
 
 
 バスに揺られ、マンションの前に着いたのは、病院を出てから40分ほどたった頃だった。
 
 「まずは、なんか食事をして……それから、音楽でも聞いていようかな」
 
 病院では、S-DATは禁止されていて聞けなかった。
 
 そう思うと、急に待ち遠しくなって、足早にエレベーターに飛び込んだ。
 
 
 
 家の前で、IDカードをスリットに通す。
 
 カチャン。
 
 この音も、久し振りだ……って、なにもそんなものまで懐かしがることはないか。
 
 苦笑しながら、シンジは扉を開けた。
 
 
 
 シンジは、固まっていた。
 
 手に持った鞄も、いつの間にか足許に取り落としている。
 
 呆然と……ただ、扉の向こうを見つめ続けていた。
 
 
 
 そうだ……
 
 こう……なるに……きまってるよな……
 
 
 
 ミサトさんなんだから……。
 
 
 
 扉の向こう……玄関から廊下から居間から、その全てにゴミの山がうず高く積み上がっていたのだった。



百十四



 「これは……食事は後回しだな」
 
 自分の部屋に荷物を置いてきてから、シンジは溜め息をついてリビングを見渡した。
 
 一瞬、ペンペンが冷蔵庫の扉を開けて、シンジを見る。
 
 シンジが軽く手を振ると、ペンペンも嘴を上下してそれに応え……
 
 あたりの惨状を改めて見回してから、シンジを上目遣いに見て、また扉を閉めてしまった。
 
 また、シンジは軽く、溜め息をつく。
 
 「ヘタしてると、夕食まで食べられなくなっちゃうよ」
 
 腕まくりをすると、端から順に片付けを開始する。
 
 
 
 全く……三週間空けると、この惨状だもんなぁ。
 
 アスカも、綾波も、片付けとかするタイプじゃないしな。
 
 仕方がないと言えば仕方がないんだけど……いやいや。仕方なくないぞ。
 
 ………
 
 もう……どうでもいいや。
 
 とにかく、はやく片付けないと……。
 
 
 
 シンジは、凄まじいスピードで片付けを敢行していく。
 
 なにしろ、この家での掃除担当……というより家事全般担当は、シンジなのである。
 
 日頃培われた腕と言うか……
 
 とにかく、頭で考えるよりも先に、どんどん片付けが進んでいくのだ。
 
 
 
 キッチンのシンクには、大量の食器が積み上がっていた。
 
 それらも、じゃんじゃんと片付けていく。
 
 ふと、置いてある大鍋を見て……
 
 愕然とするシンジ。
 
 
 
 (こ……こ……これは……
 
 ………
 
 カレー!?)
 
 
 
 しかも、この色は、ただのカレーではない。
 
 どう考えても……ミサトの作ったカレーである。
 
 
 
 ああ……
 
 綾波もアスカも、災難だったなぁ……
 
 今晩は僕が、美味しい料理を作ることにするよ……。
 
 
 
 そのまま、片付けに片付けを重ね……
 
 
 
 葛城邸が元の姿に戻ったのは、2時を回った頃だった。
 
 凄まじい早業である。



百十五



 「ああ……疲れた……」
 
 グッタリとして……シンジは、自分の部屋のベッドの上に寝転んだ。
 
 
 
 まったく……
 
 過労で入院して……退院したその日に、なんでまたこんなに疲れちゃうんだろうなぁ……。
 
 
 
 昼食、食べてないけど……
 
 駄目だ……ねむいや。
 
 綾波が戻って来るのも、1時間くらいは後だろうし、一眠りしようかな。
 
 
 
 シンジは、ワイシャツとズボンを脱ぐと、ラフな半ズボンに履き替えて、ベッドの上に横になった。
 
 タオルケットを、身体の上にかける。
 
 
 
 そのまま、シンジは深い眠りへと落ちていった。
 
 
 
 ………
 
 ……シンジは、夢を見た。
 
 何もない……真っ白な空間に、シンジが一人、何も身につけずに立っている。
 
 その目の前には、同じくレイが、裸で立っていた。
 
 無限にも感じられる空間で、ただ二人だけで、対峙している。
 
 シンジが、微笑んで手を伸ばす。
 
 だが……
 
 レイは……シンジの目の前で……炎に包まれてしまった。
 
 
 
 シンジが叫んで手を伸ばしても、間に合わなかった。
 
 炎が、彼女の身体を包む……。
 
 一瞬、目が合う。
 
 ……レイの瞳からは、何の感情も、読み取れなかった。
 
 ……人形の、ように……
 
 
 
 炎は消え、シンジだけが残され……
 
 
 
 誰もいなくなった、四角い部屋の中で……
 
 シンジは蹲り、膝を抱えて泣いていた。
 
 真っ白で、シンジ以外、何もない部屋。
 
 窓も、扉もなく……そこは、閉じられた箱の中のようだった。
 
 
 
 あのとき……もっと、手を伸ばせたんじゃないか?
 
 本当に、助けることが出来なかったのか?
 
 ……だが、それを言っても仕方がないことは……夢の中であれ、シンジにもはっきりとわかっていた。
 
 
 
 あのとき……あの、レイは……
 
 確かに、死んでしまったのだから。
 
 
 
 シンジは、唇を噛む。
 
 もう、繰り返さない。
 
 僕にできる、全てのことを……
 
 彼女のために。
 
 
 
 そのために……僕は、ここにいるんだ。
 
 
 
 彼を包んでいた、四角い部屋が……少しずつ、開いていく。
 
 シンジは、気がついて、立ち上がった。
 
 隙間から、青空が見える。
 
 夏の風を、肌に感じる。
 
 そして……
 
 その青空に、レイが座っていた。
 
 あの、何も感じない瞳ではなく……
 
 優しく、微笑んで。
 
 
 
 彼女は、シンジを見て、名前を呼んだ。
 
 
 
 ……碇君。
 
 
 
 シンジも、嬉しくなって……
 
 微笑んで、名前を呼んだ。
 
 
 
 「……綾波……」
 
 
 
 シンジがかすかに目を開けると……目の前に、レイの顔があった。
 
 両手で、シンジの頬を、そっと包んでいる。
 
 「……なに? 碇君」
 
 「……え?」
 
 まだ、完全に覚醒しない頭で……シンジが、返事をする。
 
 「いま……私の名前、呼んだから」
 
 
 
 シンジは、やっと……自分が夢から醒め、現実の世界にいることを認識した。
 
 見ると、自分が横になっているベッドの上に……レイも、制服のまま横になっている。
 
 シンジは、ゆっくりと目を瞑って……もう一度、開いた。
 
 「いや……ただ、呼びたかっただけ」
 
 「そう」
 
 レイは、特に怪訝な顔もせず、そう返事をした。
 
 「アスカは?」
 
 「買い物していくって言ってたわ……
 
 でも、夕食までここには来ないと思う。
 
 いつもそうだから」
 
 「ああ……なるほど」
 
 そりゃ、そうだよな……
 
 あの惨状だもの。
 
 シンジは、浅く溜め息をついた。
 
 
 
 「綾波、家で着替えてこなかったの?」
 
 シンジが言う。
 
 「碇君がいると思って……」
 
 レイが恥ずかしそうに俯いた。
 
 シンジが、ベッドの上から上半身を起こす。
 
 「着替えておいでよ。僕は、その間にシャワーを浴びておくから。お昼はもちろん、食べたよね」
 
 「ええ……」
 
 「僕、まだなんだ。だから軽く作るから、よかったら少しだけ、食べる?」
 
 「うん……ありがとう」
 
 レイが、微笑んでベッドから足を降ろした。
 
 そして、立ち上がると壁に立て掛けてあった鞄を手に取る。
 
 「着替えて来る」
 
 スカートを翻して、レイは玄関へ走っていった。
 
 
 
 シンジはその後ろ姿を見送った後、風呂場へと移動した。
 
 何か夢を見ていた気がするが、もう思い出せない。
 
 あまりいい夢ではなかった記憶はあるのだが……。
 
 服を見ると、寝汗でびっしょりと濡れていた。
 
 
 
 服を洗濯機の中に放り込み、シンジは風呂場に入る。
 
 そのままシャワーで身体についた汗を洗い流す。
 
 
 
 身体の垢を落とし、泡立てたスポンジで身体を拭うと、一緒に疲れまで拭い落とされていく気がする。
 
 なんていうか……やっぱり、我が家が一番って感じかなぁ〜
 
 思わず、鼻歌も飛び出そうになる。
 
 
 
 「碇君……」
 
 「ん?」
 
 ……って
 
 
 
 「わぁあ!! 綾波!!」
 
 シンジは、あわてて股間をおさえて、空の湯舟に飛び込んだ。
 
 服を着たレイが、キョトンと風呂場の入り口に立っている。
 
 「あ、あ、綾波、だめだって!」
 
 「??? なにが?」
 
 「なにがって……その……裸をね……」
 
 レイは首をかしげる。
 
 「私は……服を着ている。碇君が……見せちゃダメって言ったから……」
 
 「ほ、他の人の裸も、見ちゃ駄目なの!」
 
 「? ……そうなの」
 
 よくわからないまま、納得したんだかなんだか……という表情で頷くレイ。
 
 湯舟に隠れたまま、シンジはバツが悪そうにレイを見た。
 
 「で……どうかしたの?」
 
 「……え?」
 
 「何か、用があったんじゃないの?」
 
 「いいえ……ただ……見ていたかっただけ」
 
 湯舟の中で、思わずコケるシンジ。
 
 「じゃあ……その……悪いけど、そこにいると出られないから……あっちで待っててくれるかな」
 
 「うん……待ってる」
 
 レイは風呂の扉を閉じると、パタパタと足音を響かせて、リビングに行ってしまった。
 
 
 
 シンジは、湯舟の中に蹲ったまま……はぁぁぁぁ〜〜……と溜め息をついた。
 
 
 
 なんだか……思いもよらないところで、綾波に教え忘れていることがあるなぁ。
 
 他にも……きっと、色々あるような気がするぞ……。
 
 気をつけて……ちゃんと、教えてあげないとなぁ……。
 
 
 
 もう一度軽く汗を流して、シンジは風呂場をでた。
 
 部屋着の袖に腕を通して、タオルで頭を拭きながら脱衣所を出てくると、レイはリビングの椅子に座ってシンジを見ていた。
 
 「ああ、ごめん。今、作るからね」
 
 軽く何か作ると言ってあったことを思い出し、シンジはタオルを首にかけると、慌ててレイに手を振ってキッチンに駆け込んだ。
 
 「気にしないで……そんなに、お腹は空いてないから」
 
 レイが言う。
 
 
 
 冷蔵庫を開けても、大した物は入っていなかった。
 
 もともと以前も、毎日帰りに食材を買って来るようにしていて、買い置きそのものはあまりしていなかった。
 
 そのうえ、ここ三週間に渡り、シンジがいなかったのだから、これは考えてみれば当然だろう。
 
 シンジは卵を二つ取り出すと、レイに向かって振り返った。
 
 「スクランブル・エッグでいい?」
 
 「碇君の作ってくれる物なら……何でもいい」
 
 「そ、そう? じゃあ、ちょっと待ってね。あ、パン、焼いてくれる?」
 
 シンジは片手で卵を割ると、フライパンにあけて手早く箸を動かし始めた。
 
 
 
 10分後、リビングの机には、ごく簡単な料理が並んでいた。
 
 卵と野菜を細かく和えたスクランブル・エッグ。
 
 バターたっぷりのトースト。
 
 あとは用意されていたジャムが数種類と、紅茶である。
 
 「本当に、簡単な物しか作れなかったけど……」
 
 シンジが椅子を引きながら言う。
 
 何しろ、全然材料がないのである。こればかりは仕方があるまい。
 
 レイはかぶりを振って応える。
 
 「ううん……いただきます」
 
 そうして、ささやかな食事が始まった。
 
 
 
 ひととおりの食事が終わって、シンジは満足したように息をついた。
 
 最近の病院食はかなりマトモで、とりたてて不味いということはない。
 
 しかも、NERVの病院の食事は、二つ星レストラン並には美味いだろう。
 
 
 
 ……でも、やっぱり、家で自分で作る料理とは、感じが違うんだよなぁ。
 
 シンジはそう思う。
 
 例えそれが、在り合わせの料理であったとしても、だ。
 
 
 
 レイが、食器をまとめて立ち上がる。
 
 シンジも自分の食器をまとめて、キッチンに向かって歩き出した。
 
 それを、レイが止める。
 
 「碇君は、座っていて」
 
 「え? でも……」
 
 「今日、退院したばかりだから……料理も作ってもらったし、洗い物は私がやる」
 
 「ん……そう? ごめん……悪いね」
 
 一瞬逡巡したが……シンジは、レイの申し出を有り難く受けることにした。
 
 まとめた食器をレイに手渡すと、シンジはもう一度椅子に座り直した。
 
 
 
 飲みかけの紅茶に、口をつける。
 
 入れたての、熱い感じではないが……程よく冷めたそれも、悪くない。
 
 キッチンを背にしているシンジからレイの姿は見えないが、耳には食器を洗う音が聞こえている。
 
 
 
 なんだか、いい気分だな……
 
 シンジは、そう思う。
 
 今になって、やっと……手足を伸ばし、緊張が筋肉繊維の隙間から、外にしみ出していくような感覚に捕らわれていた。
 
 
 
 やがて、食器をしまったレイが、ティーポットを片手に戻ってきた。
 
 「碇君……紅茶」
 
 「あ、ごめん。ありがと」
 
 シンジは、底に薄く残っていた紅茶を飲み干すと、ティーカップを差し出した。
 
 レイは受け取ると、中に紅茶を注いでいく。
 
 柔らかな湯気が立ちこめる。
 
 シンジはティーカップを受け取ると、角砂糖を一個だけ入れて、スプーンをかき回した。
 
 
 
 机の向い側に、レイが座っている。
 
 
 
 レイが、口を開いた。
 
 「碇君……うなされてた」
 
 「えっ?」
 
 急に降ってわいた話題に、シンジは咄嗟に着いていくことが出来ず、レイに聞き返す。
 
 レイは、手許の紅茶から、上目遣いにシンジの顔に視線を移す。
 
 「さっき……私が、帰ってきた時」
 
 「あ……ああ」
 
 ようやく、レイの言う話の筋を、シンジは理解した。
 
 掃除を終えて、居眠りをしていた時のことを言っているのだ。
 
 「どんな夢を……見ていたの?」
 
 レイが聞く。
 
 シンジは、困ったように頭を掻いた。
 
 「う〜ん……実を言うと、あんまり覚えてないんだ。なんか……言われてみれば、悪い夢だったような気もするけど……内容を覚えてないから」
 
 「……そう」
 
 シンジの答えに、レイはまた目を伏せた。
 
 
 
 「……碇君……泣いてた」
 
 「え」
 
 「……泣いてたの」
 
 レイの言葉を、シンジはゆっくりと咀嚼する。
 
 
 
 僕が……泣いてた?
 
 夢を見て……。
 
 
 
 「う……う〜ん」
 
 シンジが、腕を組みながら言う。
 
 「覚えてないからなぁ……
 
 夢見て泣くなんて、なんだか情けないね」
 
 シンジは苦笑気味に言ったが、レイは返事をしない。
 
 
 
 数秒の沈黙の後……
 
 レイは、顔を上げて、正面からシンジを見た。
 
 その瞳の、吸い込まれそうな、紅。
 
 シンジは、小さく息を飲んだ。
 
 「……碇君」
 
 「……なに?」
 
 レイが、一旦言葉を切り……もう一度、口を開いた。
 
 「……無理は、しないで」
 
 「………」
 
 
 
 言い終えて……レイは、静かに目を伏せてしまった。
 
 シンジは……じっと、レイのことを見つめる。
 
 そして……
 
 「うん……」
 
 と、一言だけ、答えた。



百十六



 夜になって、アスカが帰ってきた。
 
 と言うか、どうもそれよりも早い時間に自分の家には戻ってきており、食事の時間までごろごろしていたらしい。
 
 葛城邸に入って来て……アスカはシンジが居るのを確認すると、軽く片手を上げた。
 
 「おかえり、シンジ」
 
 「ああ、ただいま」
 
 シンジも返事をする。
 
 
 
 出会った当初のような、剣山のような印象は、アスカからはかなり薄れて来ていた。
 
 理由は、ユニゾン訓練による物が、まず大きいだろう。
 
 ユニゾンで飛び出したアスカを追い掛け、語り合ったことの意味もある。
 
 それに、もともとユニゾンは、「パートナーと心を通わせる訓練」である。しっくりこないパートナーならば訓練は成功しなかったであろうし、逆を返せば……訓練が成功したシンジとアスカは、例えわずかだとしても、相手との心の交流を持つことに成功していたのだ。
 
 
 
 もっとも、それは「現段階では」、という枕詞がつく。
 
 ユニゾン直後から入院してしまったシンジは、その後の通常訓練にも全く参加していないし、当然、まだ新たな出撃もない。
 
 エヴァの操縦でのトップに固執するアスカにとって……シンクロテストではシンジに勝てず、出撃すればおそらくシンジの方が(戦闘の展開を知っているぶん)うまく立ち回るであろうことを思えば、再び態度が硬化する可能性は否めないだろう。
 
 
 
 アスカはそこまで認識していないだろうが、アスカとの今後の関係を重く考えているシンジにとっては、それは、キチンと考えなければいけない事態だった。
 
 シンクロテストや出撃での展開は、おそらくシンジが優位に立ってしまうだろう。
 
 シンジにも手を抜く気はないし、それは避けられまい。
 
 では、どうすればよいのか?
 
 
 
 シンジにとって、レイの成長の手助けが、手探りの状態であると言えるならば……アスカとの関係の構築も、まさに手探りの状態であると言えた。
 
 
 
 「ミサトは? いないの?」
 
 テレビをつけながら、アスカが言う。
 
 アスカはクッションを引き寄せると、テレビの前の床にゴロリと横になった。
 
 「いや、もうすぐ帰ってくると思うけど」
 
 シンジが答える。
 
 「何にせよ、まぁ、シンジが帰ってきてよかったわ」
 
 こともなげに言うアスカに、シンジは、「おっ」と思う。
 
 そう言ってもらえるとは、思っていなかった。
 
 これは……
 
 「なんで?」
 
 表面的にはさりげなく、シンジが問い掛ける。
 
 アスカは、顔をしかめながら、シンジの方に振り返った。
 
 「もう……ミサトの料理なんか、絶対食べたくないもの」
 
 
 
 は、は、は……と引きつりながら笑うシンジ。
 
 レイは、何も言わずに、紅茶をすすっている。
 
 「食べたんだ……やっぱり。……ミサトさんのカレー」
 
 「カレー、なんて言うの、やめてくんない?」
 
 ジロリ、とアスカがシンジを睨む。
 
 「カレーに失礼だわ」
 
 吐き捨てるように言うアスカの言葉に、レイの声が被る。
 
 「……あれは……毒」
 
 「あ、あははは……」
 
 シンジには、苦笑するしかない。
 
 
 
 「ちょっとォ、人聞きの悪いこと、言わないでくれる?」
 
 突然、玄関の方から声が聞こえて、3人は振り返った。
 
 
 
 腰に手を当てて、不機嫌そうにこちらを睨んでいるのは、他でもない……葛城ミサト、そのひとである。
 
 「あら、ミサト、おかえり」
 
 こともなげに、アスカが言う。
 
 
 
 ミサトは、ツカツカツカッと歩み寄ってきて、アスカの前にしゃがみ込んだ。
 
 「あたしのカレーが、ど〜だって言うのよ」
 
 「自分で食べててわかんないわけ?」
 
 眉間にしわを寄せて、アスカが応え……すぐに、視線を逸らして溜め息をついた。
 
 「……わかってたら、あんなの作るワケ、ないか」
 
 「あんなのって、なによォ。おいしいカレーじゃないの! そりゃ、三ツ星レストランとまでは言わないけどさぁ」
 
 本人は謙遜しているつもりだろうが、それは他の追随を許さぬ、大いなる傲慢と言う物であろう。
 
 「……あれは、毒……」
 
 レイが、また、ボソリと言う。
 
 「レイまでェ、何を言うわけ〜?」
 
 そのまま、同意を求めるように、ミサトの視線がシンジに重なる。
 
 シンジは、愛想笑いを浮かべるしかない。
 
 
 
 「つまり、ミサトの料理は不味いってことよ」
 
 玄関から、もう一つの声が聞こえた。
 
 その声を聞き……シンジは、驚いて振り返った。
 
 
 
 そこには、腕を組んでリツコが立っていた。
 
 
 
 「リツコさん……どうしたんですか?」
 
 シンジが言う。
 
 「シンジくんの快気祝いをやるって言うから、来たのよ」
 
 言いながら、リツコはリビングに入って来た。
 
 「快気祝い? 初耳ですけど……」
 
 「……ミサト?」
 
 おずおずと言うシンジの言葉に、リツコはゆっくりと、友人の方に向き直った。
 
 ミサトは片手を、顔の前で立ててみせる。
 
 「ゴミンゴミン。忘れてた」
 
 
 
 ………
 
 
 
 はぁ〜……と、シンジ・リツコ・アスカの三人は、溜め息をついた。
 
 「……一応聞きますけど、別に、何か用意してあるわけじゃないですよね?」
 
 「あはは……何にもしてないわ」
 
 頭を掻きながら笑うミサトを見て、もう一度、軽く溜め息をつくシンジ。
 
 
 
 ……ま、想像はつくけどさ。
 
 
 
 「……じゃあ、これから何か作りますから……席に座って、待っていて下さい」
 
 シンジはそう言いながら、席を立ってキッチンの方に歩き出す。
 
 「ああ、いいって、シンちゃんは。主賓なんだから」
 
 慌てて、ミサトがシンジを止める。
 
 シンジが振り返って、ミサトを見た。
 
 「でも、何も用意してないんでしょう、別に」
 
 「これから、わたしがウデによりをかけて……」
 
 スッパァァン!
 
 「あいだッ」
 
 アスカのスリッパ・ハリセンがミサトの後頭部を直撃した。
 
 「シンジ! 作りなさい!」
 
 「いだだ……ちょっとアスカ、仮にも上司に向かってねぇ……」
 
 「碇君……作って」
 
 ミサトの言葉を無視するように、レイの言葉が被る。
 
 
 
 シンジが、苦笑して肩を竦めると、腕まくりをする。
 
 「みんな、僕がいない間に酷い目にあったみたいだから、今日は美味しい物を作るよ」
 
 「ちょっと、酷い目って何よ」
 
 「ミサトの料理を食べたんでしょ? それ以上に酷い目なんて、そうそうないわね」
 
 ミサトの不満そうな声に、リツコの言葉がピシャリと重なる。
 
 シンジは目で笑うと、キッチンに入った。
 
 
 
 快気祝いのことなど聞いていなかったが、もともといつも自分が作っていたので、あのあと、買物は済ませてあった。
 
 リツコが増えたのは予想外だったが、人数が4人から5人に増えるぐらいは、やりくりでどうとでもなる範囲である。
 
 久しぶりの料理と言うことと、思いのほか多いお客さんに、シンジはぐっと握りこぶしを作り、冷蔵庫の扉を開けた。
 
 
 
 シンジが料理をしている間、残る4人は椅子に座ったり床に寝転がったりと、思い思いに寛いでいた。
 
 「ところで、シンジくんて……料理、美味しいの?」
 
 椅子に座って紅茶を飲んでいたリツコが、向側に座っているミサトに問う。
 
 ミサトが、何を今さら、という表情でリツコを見た。
 
 「そりゃ、美味しいわよ。あたしが作るよりも美味しいわね」
 
 「……私も、あなたよりは美味しく作れるわよ」
 
 聞いた相手が悪かった、というように頭を振ると、床に寝転がっているアスカに声をかけた。
 
 「アスカ」
 
 「んん?」
 
 半身だけ捻って、アスカがリツコを見る。
 
 「ああ、シンジの料理? そうね……悔しいけど、まあ、そこらの安いレストランじゃ、ちょっとお目にかかれないわね」
 
 TV画面をチラチラと目で追いながら、アスカが言った。
 
 
 
 「……碇君が作る料理は、とても美味しい」
 
 レイが、小さい声で呟く。
 
 「……へえ、そう」
 
 リツコは、レイを一瞥すると……一言だけ、そう応えた。
 
 レイは、リツコと目を合わせない。
 
 ただじっと、手許のティーカップを見つめていた。
 
 
 
 やがて、テーブルの上には、シンジの作った料理が所狭しと並べられた。
 
 どの皿からも、食欲を刺激する香りがただよって来る。
 
 
 
 リツコは、目を丸くしてその料理群に見入っていた。
 
 少なくとも、見た目では、一流料理店に見劣りするところなど、まったくない。
 
 「どうぞ」
 
 席についたシンジが促すと、全員が箸を伸ばす。
 
 リツコも手近な料理に手を伸ばし、それを口に運んで……驚愕した。
 
 「これ……シンジくんが……本当に?」
 
 「ええ……まぁ」
 
 シンジが、所在なさげに頭を掻く。
 
 「……素晴らしいわ」
 
 「あ、ありがとうございます」
 
 リツコはおべっかを言わない、ということを理解しているだけに、彼女が誉めてくれたのは嬉しい。
 
 シンジは、思わず顔を綻ばせた。
 
 
 
 リツコは、次々と新たな料理に箸を伸ばしては驚愕する。
 
 (ミサト……あなた、毎日こんな料理を……
 
 味音痴の癖に……
 
 ……こんな料理、私が食べるとしたら、いったい幾ら払うと思っているの)
 
 そうして、ミサトに対する危険な思想を、ふつふつと沸き上がらせていくのであった……。
 
 
 
 食事が終わり、シンジとレイは、食器をまとめてキッチンへと消えた。
 
 残る3人は、食後のお茶を飲んでいる。
 
 
 
 「レイ……いつも、ああしてシンジくんと後片付けをしているの?」
 
 リツコが言う。
 
 「そうね。ま、シンちゃんのそばにいたいっていうのがホントのところなんじゃないのォ」
 
 ミサトが、ニヤニヤしながらキッチンのほうを眺めている。
 
 「なにしろさ、ホラ……レイはシンちゃんにラブラブだからぁ」
 
 リツコはその言葉には答えずに……ただ、じっと、レイのいるであろう方角を見つめ続けていた。



百十七



 一息ついて……レイ・アスカ・リツコが帰る時間になった。
 
 レイとアスカは、ただ隣に帰るだけであるが。
 
 リツコはハンドバッグを手に取ると、シンジの方を振り返る。
 
 「シンジくん、バス停まで送ってくれる?」
 
 「は?」
 
 急な申し出に……シンジは思わず、間抜けな声を出してしまう。
 
 レイも振り返って、怪訝な表情でリツコを見た。
 
 「リツコ、アタシが車で送るわよ」
 
 ミサトが立ち上がりながら言う。
 
 リツコはミサトの方を見ると、言い放った。
 
 「ミサトは、少しは自分の部屋の掃除でもしたら」
 
 「うッ」
 
 思わず後ずさるミサト。
 
 そのままミサトを無視して、リツコはシンジの方に向き直り、微笑んだ。
 
 「頼める?」
 
 「あ……はあ、じゃあ……」
 
 曖昧に返事をすると、3人について、玄関に向かった。
 
 
 
 「おやすみなさい、碇君……」
 
 「おやすみ、綾波」
 
 扉を出たところで、シンジはレイに別れを告げる。
 
 レイは、少しだけ名残惜しそうにして……リツコの視線に気付いて俯くと、そのまま自宅の中に消えた。
 
 「じゃあね、シンジ」
 
 「おやすみ、アスカ」
 
 アスカとも別れを告げる。
 
 残ったリツコとシンジは、連れ立ってエレベーターホールへと向かった。
 
 
 
 団地を出て、二人はバス停までの道を、並んで歩いていく。
 
 もともと、あまり人が住んでいないため、交通量も少なく……さらにこの時間とあって、車は全く通らない。
 
 
 
 数メートルおきにある街灯が照らし出す丸いスポットのみが、二人の歩く道を点々と照らしていた。
 
 
 
 二人の足音以外、何も聞こえない。
 
 
 
 シンジは、今の情況に、非常に居心地の悪さを感じていた。
 
 勝手な思い込みかも知れないが、夜道を歩くことに対して、リツコが恐怖を感じているとは思えない。
 
 ……と言うより、リツコを襲ったりしたら、なんだか生きて帰ってこられない気がするよな、とシンジは思った。
 
 とにかく、何で自分を誘ったのか?
 
 わからないまま、やがて視界にバス停が入って来た。
 
 
 
 「次が、最終みたいね」
 
 時刻表を眺めながら、リツコが言う。
 
 シンジは、おずおずと口を開いた。
 
 「リツコさん……何か、お話があるんですか?」
 
 
 
 自分を呼び出したのは、他の者に聞かれたくない話があったのではないか?
 
 そう考えるのは、決して不思議ではない。
 
 と言うより、他には思い付かない。
 
 
 
 リツコは横目でシンジを見ると、一度瞼を閉じ……もう一度開いて、シンジの方に向き直った。
 
 
 
 「シンジくん……あなた、レイに感情が必要だと思っているの?」
 
 「!?」
 
 
 
 突然リツコの口から出て来たのは……シンジの予想の外にある言葉だった。
 
 シンジは、咄嗟に返事をすることが出来ない。
 
 
 
 二人に間に沈黙が降りたまま……しばしの間、沈黙が流れた。
 
 
 
 やがて、遠くから……最終のバスがやってきた。
 
 二人が対峙したまま……バスが、バス停に到着する。
 
 プシュゥッ……と空気の抜ける音がして、扉が開いた。
 
 
 
 「あのこに……感情は、必ずしも必要じゃないわ。わかってもらえるとは、思わないですけどね……」
 
 リツコは静かに言うと、きびすを返して、バスのタラップに足をかけた。
 
 「……僕は」
 
 俯いて……シンジが、その背中に声をかけた。
 
 
 
 「僕は……そうは思いません。
 
 彼女にも……普通に生きる権利がある。
 
 彼女には感情があって、今まではその使い方を知らなかっただけ……
 
 彼女は、普通の女の子として、普通に感情を持つだけの……権利があるんだ」
 
 
 
 「……あのこが、普通の女の子になれると思う?」
 
 
 
 「はい」
 
 
 
 「……あのこが……普通じゃないとしても?」
 
 
 
 シンジは、顔をあげる。
 
 リツコの瞳を……正面から見据える。
 
 揺るぎなく……。
 
 
 
 「綾波は……普通の女の子です。
 
 あなたたちは……彼女を、道具だと思っているんですか?
 
 違う。
 
 彼女は、あなたや、父さんや、委員会の道具じゃない。
 
 彼女は……
 
 ……幸せになる権利がある……
 
 ……人間なんだ」
 
 
 
 二人は、見つめあったまま……その場で、固まっていた。
 
 そうして、また沈黙が流れそうになった時……
 
 バスの中から、野太い声が聞こえてきた。
 
 「お客さん……乗るの? 乗らないの?」
 
 見ると、運転手が眉をしかめて……少ない髪の毛を、ボリボリと掻いている。
 
 「ごめんなさい」
 
 リツコはさらりと答えると、一瞬シンジの顔を見て……フイッとバスの中に視線を戻すと、中に乗り込んでいった。
 
 ブシュッ、と扉が閉まる。
 
 
 
 走り去るバスの後部を、シンジはじっと見つめていた。