第二十九話 「涙」
九十八



 「で……この大荷物、どうすりゃいいわけ?」
 
 アスカは、面倒そうに呟いた。
 
 
 
 第七使徒……イスラフェルを撃退した、その晩。

 改めてアスカに降り掛かったのは、住居の問題だった。
 
 
 
 別に、今まで通り、NERVに住めばいい。
 
 だが、アスカにそれを躊躇わせている理由……
 
 それが、彼女の目の前に積み上がったダンボールの山であった。
 
 
 
 ちなみに、ユニゾン訓練中は邪魔だったので、これらの荷物は隣の空家に放り出されていた。今、アスカ・シンジ・レイ・ミサトの4人が居るのは、その隣家である。
 
 
 
 「でもさ……これ、ユニゾン訓練を始める前は、アスカの部屋に入ってたんだろ? また、元に戻すだけなんじゃないの」
 
 シンジが、誰しもが思い当たりそうなことを口にする。
 
 アスカは振り返って、じとっとした視線でシンジを見た。

 「……誰が、また、そこまで片付けんのよ」
 
 「……そりゃ、アスカが」
 
 「……ジョォ〜〜……ダンじゃないわよッ!!」
 
 吐き捨てるように、アスカが言う。
 
 「アンタね……わかってる? NERVの個室ってね、6畳の部屋が二間あるだけなのよ」
 
 言いながら、アスカは両手を広げて、バッと背後のダンボールの山を示した。
 
 
 
 アスカの言わんとするところを知り、シンジも腕を組み直した。
 
 確かに、居住空間を残しつつ、6畳二間の部屋に収まり切るような量ではない。
 
 だが……?
 
 「……でもさ、これ、前はそこに収まってたんじゃないの?」

 「そんなわきゃないでしょ」
 
 ブチッと区切るように答えるアスカ。
 
 「遅ればせながら、ドイツから残りの私物が届いたところだったのよ。それで、手狭になったから広い部屋を申請したら、ちょうどミサトの部屋に行けって言われたワケ」
 
 
 
 なるほど……と、シンジは納得した。
 
 それで、「アンタはお払い箱よ」というセリフが出たわけだ。
 
 そのタイミングでウチに行くことを指定されれば、NERVから正式に、この家に住むように指示されたと思いこんで当然だよな……。
 
 ………。
 
 ん……?
 
 
 
 シンジは、一つの疑問に思い当たる。
 
 ……結局、前回の人生では、ユニゾン訓練の終了後も、アスカはウチに住み続けた。
 
 それは、いいとして……
 
 ……じゃあ、あの時……この荷物の山はどう処理したんだろう?
 
 
 
 あの時も、アスカが初めてウチに来た時には、この大荷物はあった。
 
 でも、同居を始めた頃には、もうなかったような……?
 
 あれ……?
 
 
 
 「……碇君?」
 
 怪訝そうなレイの声に、シンジは現実に引き戻された。
 
 「……え?」
 
 「……どうしたの」
 
 シンジが横を見ると、少し心配そうな表情で、レイが見ている。
 
 「ん……いや……あのときって、この荷物はどうしたのかなぁ、って思ってさ……」
 
 まだ、ボ〜ッとした表情のまま……シンジは言葉を紡ぐ。
 
 レイが、よくわからない、といった顔をする。
 
 「……あのとき?」
 
 「うん……ユニゾンが終わって、なし崩し的に、アスカがうちに……」
 
 
 
 言いかけて、シンジが固まった。
 
 
 
 シンジの背中を、滝のような汗が流れる。
 
 
 
 心臓が、早鐘のように鳴る。
 
 
 
 固まった姿勢のまま、シンジの眼球が素早く辺りを見回した。

 レイ・アスカ・ミサトの面々が、怪訝そうな表情でシンジを見ている。
 
 「……碇君?」
 
 「ちょっとシンジ、話聞いてんの?」
 
 「シンちゃん、どうかしたの?」
 
 
 
 シンジは、悟られぬよう……心の底から、安堵の溜め息をついた。
 
 よかった……
 
 誰も、気付いてない……。
 
 
 
 ここんとこ、ボ〜ッとしてるよな、僕……。
 
 シャキッとしなきゃ!
 
 
 
 「ああ、いや、何でもないです。勘違いだったみたい」
 
 頭を掻いて、シンジは、あははと笑う。
 
 ミサトはシンジの前に立つと、覗き込むようにして、シンジの瞳を見た。
 
 「な、なんですか、ミサトさん?」
 
 「シンちゃん……すごい汗よ。どうかしたの?」
 
 「えっ? あ、いや、暑いなぁって……」
 
 「暑くないわよ、ゼンゼン」
 
 「あ、あれ? そうですか?」
 
 しどろもどろのシンジ。
 
 
 
 見当違いの疑いをもたれているとは言え……問い詰められると、余計に汗が吹き出す。
 
 額やこめかみを、汗が伝わるのが、自分でわかる。
 
 
 
 ああ……まずい……
 
 止まってくれぇ……。
 
 これじゃ、疑ってくれって言ってるようなもんだよ……。
 
 
 
 「シンちゃん、風邪でもひいてるんじゃないの?」
 
 ミサトが、シンジの額に手をやる。
 
 「う〜ん……ちょっと熱い気もするわね」
 
 「い、いや、風邪なんかひいてないですよ」
 
 熱いのは、たぶん、焦ってるからだと思う……。
 
 「ナニ、あれくらいの訓練でもうヘバッたの? だらしないわね」
 
 アスカが意地悪そうに言う。
 
 「だから、体はなんともないって」
 
 「ナニ言ってんのよ、真っ赤な顔して」
 
 それは……だから、焦ってるからだよ……。
 
 
 
 でも、なんだか話題が逸れてきたぞ……。
 
 これで……このまま……なんとか……。
 
 
 
 「碇君!」
 
 
 
 え?
 
 
 
 「碇君! 碇君!」
 
 綾波……なに?
 
 どうしたのさ?
 
 
 
 あれ……
 
 
 
 綾波……
 
 
 
 どこにいるの?
 
 
 
 ………
 
 
 
 真っ暗だ。



九十九
 
 
 
 「……過労ね」
 
 リツコは手許のプリントをめくると、顔を上げてそう言った。
 
 
 
 ここは、NERVの診断室。
 
 シンジは、奥の集中治療室のメディカルベッドで眠っている。
 
 
 
 葛城邸の隣……あの部屋で、シンジは急に意識を失った。
 
 見ていた三人の証言によると、糸の切れた人形のように、会話の最中に急に床の上に崩れ落ちたらしい。
 
 アスカはもちろん驚いた。ミサトはその場の的確な判断により、NERV医療班の招聘、作戦部への連絡、そしてリツコの待機などを迅速にやってのけた。
 
 
 
 そして、レイは、完全なパニックに陥っていた。

 それは、この非常事態に……ミサトやアスカの動きを止めさせるほど、珍しい光景だった。
 
 ……なんと、表現したらよいだろうか?

 普通の人なら、たとえば……ボロボロ泣いたり、あるいは半狂乱になったり、あるいは……?

 とにかく、激しい感情の発露が見られたことだろう。

 それが、パニックに陥ると言うことだ。
 
 
 
 だが、レイは違った。
 
 最初、誰も異常に気付かないうちから……突然、レイはシンジの名前を呼んだ。

 その直後、シンジは意識を失う。
 
 そのあとは……シンジのそばに蹲って、ひたすらに、きつくシンジの左手を握り締めているばかりだった。
 
 
 
 だが……レイの表情は、恐怖に凍り付いていた。
 
 言うなれば、これが彼女の「感情の発露」だった。
 
 
 
 今も……レイは、シンジのそばを離れない。
 
 ここまで、一度も離さずに来たように……今もまだ、シンジの左手を握り続けていた。
 
 そのため、リツコの説明は、ミサトとアスカが聞くことになったのだ。
 
 
 
 「……過労」
 
 ミサトは、ゆっくりと……リツコの言葉を反芻した。
 
 自分の中で、もう一度……言葉の意味を、咀嚼しているかのように。
 
 「三週間は……安静にしてもらうわ」
 
 カルテを机に置きながら、リツコは言う。

 「三週間……そんなに?」
 
 「間違えないでね……意識が戻るのは、そんなに先じゃないわ。きっと……あと数時間てところじゃないかしら?

 ただ、原因が過労なら、このあたりでゆっくり休ませてあげたいわね」
 
 「………」
 
 二人の間を、重苦しい空気が包んだ。
 
 
 
 横で聞いていたアスカは、釈然としない。

 自分も、同じ訓練を行い、同じように出撃した。疲労度は同じはずだ。
 
 シンジの方が出撃回数が多いということなら、それよりも遥か以前……シンジがのんきに遊び回っていた頃から、訓練漬けでいた自分はどうなる?
 
 弱音を吐いたことも、疲労で倒れたこともない。
 
 
 
 単に、シンジの自己管理能力が甘いだけではないのか?


 
 二人の真意を図りかねた。
 
 
 
 ミサトがこういう態度にでることは、まだ、なんとなく理解できる。
 
 ミサトは、情に流されやすいところがある。また、自分に酔うところも。

 ドイツ時代を含めた数年の付き合いで、それは分かっていた。
 
 

 問題は、リツコだ。
 
 リツコならば、的確に数字の上から病状を判断し、それに従った処方を下すだろう。
 
 「このあたりでゆっくり休ませてあげたい」というセリフは、しっくりこない。
 
 
 
 その違和感が、アスカにこんなセリフを言わせた。
 
 「シンジも、ヤワねぇ。何回も出撃したってワケじゃないのにさ……過労? 体力ないんじゃないの」
 
 
 
 ミサトは、アスカのそのセリフに、小さく反応した。
 
 「やめなさい……アスカ。そんなこと、言うもんじゃないわ」
 
 アスカは、カチン、とする。
 
 「なんでよ……アタシだって、頑張ってやってるわ。ファーストだって、そうでしょ? 過労なんて、自己管理ができてないだけ。倒れたら心配して貰えるなんて、考えが甘いじゃない」
 
 「シンちゃんは、そんなことを考えてるわけじゃないわよ」
 
 「そりゃ、そうでしょうよ」
 
 アスカが、大袈裟に両手を上げて宙を煽ぐ。
 
 「いくら何でも、同情ひくために倒れたんだろうなんて言わないわよ。でも、アイツに甘過ぎないか、って言ってんの。意識が戻ったら、また普通に生活させればいいじゃない!」
 
 
 
 「それは、違うわ」
 
 突然、リツコが口を開いた。
 
 アスカとミサトが、驚いたように、リツコを見る。
 
 「甘やかしてるわけじゃないわよ。医学的に……三週間の安静が必要だって言っているの」
 
 「本当に? ドイツ支部で職員が倒れた時も、一週間くらいで復帰してたわよ」
 
 疑り深そうに、リツコの瞳を見るアスカ。
 
 リツコは、真直ぐに……その瞳を見返した。
 
 「じゃあ……言い方を変えてあげるわ。
 
 シンジ君は……それだけの安静が必要なほど、疲労しているのよ」
 
 「でも……それは」
 
 「アスカ」
 
 尚も反論しようとするアスカを、ミサトが制した。
 
 「アスカ……あなたの意見は正しいわ。確かに、同じだけ働いているあなたたちに対して、シンちゃんひとりを休ませるのはおかしいかも知れない。
 
 でも……うまく説明できないけど……
 
 アスカ。あなたも……シンちゃんがここに来てからの、これまでの姿をずっと見ていたら……
 
 きっと、何も言わないわ。
 
 ……やっていることは、そんなにレイやアスカと差はないかも知れない。
 
 でも……違うのよ……。
 
 シンちゃんは、ずっと……
 
 ひとりで、闘っている……」
 
 「ミサト」
 
 今度は、リツコがミサトを制した。
 
 ミサトも、口を噤む。
 
 
 
 納得がいかない顔をしているアスカに、リツコがゆっくりと口を開いた。
 
 「アスカ。深く考えるのはなしよ。
 
 シンジ君は、数値的に見ても疲労が濃い。
 
 その原因うんぬんは置いておくとして、その回復には三週間必要と、私が診断しました。
 
 以上よ」
 
 
 
 集中治療室……そこでレイは、両手でシンジの左手を握り締めていた。
 
 胸の前に、抱えるように。
 
 シンジは、目覚めない。レイの手を、握り返すこともない。
 
 レイは、目を見開いて……焦点のあわないまま、凍り付いたような表情で固まっていた。
 
 
 
 彼女にとって、今や、自分の中にシンジが占める割合は、圧倒的と言ってよかった。
 
 その、シンジが、いなくなる……
 
 それは、彼女には想像することすら出来ないことだった。
 
 
 
 いつも、握っているだけで心が暖かくなるシンジの手が、今は冷たい。
 
 いや……人並みの体温はある。死んでしまっていないことも、わかる。
 
 だが……レイには、シンジの存在を、非常に希薄にしか感じることが出来なかった。
 
 
 
 この手を離せば、シンジは消えてしまう。
 
 
 
 自分の、目の前から……。
 
 
 
 それが恐ろしくて……シンジの手を離すことが出来なかった。







 アスカは、まっすぐ家には帰らなかった。
 
 アスカが向かった先は、NERVの資料室……。
 
 レベル1までしか閲覧出来ないアスカにとっては、余りめぼしいものは見つけられないだろうが……それでも、何か情報が欲しかった。
 
 
 
 アスカが欲しがったのは、シンジの資料だ。
 
 ドイツにいた頃は、人からまた聞きに聞いただけで、ほとんどシンジのことなど気にかけなかった。
 
 だが……
 
 先程の、ミサトとリツコのやりとりは、アスカの脳裏に、喉に刺さった小骨のような感触を残した。
 
 
 
 シンジが、何をしたって言うの?
 
 聞いたことがあるのは……シンクロ率が高いって言うことと、今までの使徒はシンジが倒したってこと。
 
 それ以外は知らない。
 
 それだけなら、そんなに言うほどのことじゃない。アタシだって、はじめから日本にいれば、全ての使徒を倒してみせる。
 
 
 
 それだけじゃないって言うの……?
 
 
 
 資料室のドアのスリットに、IDカードを通す。
 
 カチャッ……。
 
 扉のロックが、小さな音と共に、開いた。
 
 
 
 診断室に残ったリツコとミサトは、無言でコーヒーをすすっていた。
 
 やがて、リツコが口を開く。
 
 「ミサト……あんなことを話しても、アスカにヘタな疑いを抱かせるだけよ」
 
 「わかってる」
 
 俯いたまま、ミサトが短く呟いた。
 
 「でも……やっぱり、シンちゃんは、私達の何倍も、闘ってる気がする。
 
 何を、って言われると、口では説明できないけど……
 
 彼が一人で、全てを背負い込んでいる気がするのよ。
 
 私達は、それを、助けることも出来ない。
 
 彼が、倒れるほど消耗するまで……何も……」
 
 「やめなさい」
 
 ミサトの言葉を、リツコが千切った。
 
 そのまま、コーヒーを一口、すする。
 
 「……ミサト、あなたの悪いクセよ、自分をそうやって責めることで……逃げているだけ」
 
 「………」
 
 「私達は、やるべきことをやっているわ。
 
 他に、何ができると言うの?
 
 本当に必要なら、彼の方から手を伸ばして来るはずよ。
 
 ……そうしないのなら、彼は、私達の手助けを必要としていないんだわ。
 
 私達にできるのは、ここまでなのよ」
 
 「……そうかも知れない」
 
 低い声で、ミサトが呟く。
 
 「でも……
 
 助けてあげられるなら……
 
 助けてあげたいのよ。
 
 ……そう思うのは、間違い?」
 
 「……いいえ」
 
 リツコは応えて、もう一口、コーヒーをすすった。



百一



 ピッ……
 
 ピッ……
 
 ピッ……
 
 ピッ……
 
 
 
 メディカルベッドから伸びたコード類が行き着く先で、計器類が冷たい電子音を響かせている。
 
 それ以外は、何も聞こえない、静寂の世界。
 
 レイは、その中で……身じろぎもせず、ただシンジの左手を握り締め続けていた。
 
 この状態が……何時間、続いているだろうか?
 
 永久に……この時が続くかと思われた……
 
 ……そのとき。
 
 
 
 「!」
 
 
 
 レイは、数時間ぶりに……ビクッ、と体を動かして、シンジの顔を見た。
 
 そのまま、再び、静寂……
 
 
 
 「…………………………う……」
 
 
 
 「!!!」
 
 ガバッ、とシンジの方に身を乗り出す。
 
 シンジは、わずかに眉をしかめて……数秒後、かすかに、瞼を開いた。
 
 
 
 う……
 
 
 
 頭が重い……
 
 
 
 やっぱり、風邪かなぁ……?
 
 
 
 ………
 
 
 
 そうだ……
 
 綾波が、呼んでた……
 
 
 
 答えなきゃ……
 
 
 
 「……あやなみ」
 
 まだ、視線が焦点を捕らえぬうちに……
 
 シンジは、レイの名前を呼んだ。
 
 
 
 レイは、自分の内側から、猛烈な何かが、せりあがって来るのを感じた。
 
 感情を表に出す術をほとんど知らなかった彼女にとって……それは、感じたことのない感覚だった。
 
 言葉では表現出来ない……
 
 熱くて……
 
 狂おしくて……
 
 愛しくて……
 
 切なくて……
 
 それは、瞬く間に身体中に広がり、あっという間に堰を破った。
 
 
 
 「……い……か、り……く……」
 
 目が覚めた瞬間に、シンジの名前を呼ぼうと思っていた。
 
 それが、うまくいかない。
 
 なにか……目に見えない何かが邪魔をするように、言葉が喉を通るのを拒否した。


 
 目が覚めた瞬間に、シンジのことを見つめようと思っていた。
 
 それが、うまくいかない。
 
 プールの中から、天井を見たように……シンジの顔が激しくぼやけて、すぐに何もわからなくなった。
 
 
 
 嬉しいのに、言葉に出来ない。
 
 愛しいのに、姿が見えない。
 
 
 
 もどかしくて……愛しくて……
 
 レイはその存在を確かめるように、どっとシンジの裸の胸に抱き着いていた。
 
 
 
 シンジは、驚いていた。
 
 衝撃で、急速に脳細胞が覚醒していく。
 
 直前の記憶は、あの、葛城邸の隣の、空家での光景だった。
 
 だが、ここは、NERVの集中治療室……
 
 前回、幾度か見た記憶のある天井だった。
 
 
 
 そして、それ以上に、シンジを驚かせているのは……
 
 自分の胸の上で、泣きじゃくる少女だった。
 
 
 
 「う……あ……えぇ………う……あぐ…………ぅう……」
 
 レイは、喉から漏れる声を押し殺すことなく、泣いていた。
 
 何が起こっているのか……レイには、理解できない。
 
 ただ、溢れる涙を、止めることが出来なかった。
 
 
 
 何が……悲しいのだろう?
 
 この涙は……なに?
 
 
 
 今まで……涙を流したことなんて、なかった。
 
 こんなに……
 
 激しい想いに……
 
 心が揺さぶられることも……
 
 ……なかった。
 
 
 
 抱き着いているシンジの胸が、確かに暖かい。
 
 押し当てた耳から、力強い鼓動が聞こえる。
 
 
 
 それが、嬉しかった。
 
 たまらなく、嬉しかった。
 
 全ての色を失っていた世界が……シンジの胸から、再び溢れんばかりの色彩を取り戻していく。
 
 全ての音を失っていた世界が……シンジの鼓動から、再び生命の溢れる音色を取り戻していく。


 
 溢れつづける涙を拭うこともなく……ただ、その胸に、頬をぎゅうっと押し付けていた。
 
 
 
 前後の情況がわからずに……シンジは、とまどっていた。
 
 よくわからないが……推測すると、自分はあそこで、意識を失ったんだろう。
 
 原因は何だろう……やっぱり、風邪だったのかな?
 
 とにかく……どれくらい、時間が経ったのかわからないけど……今まで、意識を失っていたわけだ。
 
 
 
 そして……綾波……。
 
 
 
 綾波が、こんなに泣くのを見たのは、初めてだ……。
 
 
 
 なんだか……赤ん坊が泣くみたいに……
 
 全てを投げ打って、泣いている。
 
 
 
 綾波……。
 
 
 
 「心配……かけたんだね」
 
 シンジは、そう呟くと……胸の上で泣くレイの髪の毛を、そっと撫でた。
 
 
 
 レイは、涙に頬を濡らしたまま、シンジを見上げた。
 
 シンジは、微笑む。
 
 「……………う……」
 
 再び、涙の奔流がレイを襲い……擦り付けるように、シンジの胸に額を押し付けながら……
 
 ……また、泣いた。
 
 
 
 やがて……
 
 数分後、静かな寝息が、部屋の中に、穏やかに流れていた。
 
 レイは、シンジの胸に抱き着いたまま……
 
 泣き疲れて、眠ってしまった。
 
 
 
 シンジは、泣いている間も……眠ってしまったあとも……
 
 ずっと、やさしく……レイの髪の毛を、撫で続けていた。



百二



 アスカは、端末の上で、そのしなやかな指先を走らせていた。
 
 当然の話だが、マヤやリツコに比べれば、その入力速度は、決して速いとは言えない。
 
 だが……専門職でないことを考慮すれば、そのスピードは驚嘆に値した。
 
 ここでも、彼女の非凡さがうかがえる。
 
 ……少なくとも、シンジやレイには、人差し指でのたどたどしい入力しか出来ないであろう。
 
 
 
 「う〜ん……」
 
 アスカはキーボードから手を離すと、背もたれに体重を預けて、眉をひそめた。
 
 
 
 確かに、シンジの活躍はめざましい。
 
 それは、公式記録の表面的な記述からでも、読み取ることができた。
 
 「だけどさぁ……」
 
 言いながら、アスカは、もう一度履歴を画面上に引っ張り出した。
 
 
 
 第三使徒……サキエル戦。
 
 初めてのエントリーで、82.7%という高シンクロ率をマーク。同時に、目覚ましい操縦をして使徒を圧倒。展開の方法が解明されていなかったATフィールドを展開し、ATフィールドの形状の変化や用途の応用などもその場の機転で行う。この一戦により、残り二体のパイロットがATフィールドを展開するための基礎研究が可能になった。

 第四使徒……シャムシェル戦。
 
 予測を超えた使徒の速度に翻弄されつつも、内部電源の切れる数十秒前に使徒を殲滅。命令の拒否など、幾つか問題が見られるものの、戦闘中に民間人を救助、殲滅方法の確立できなかった使徒の攻撃を自らの機転により封印など、特筆すべき点もある。
 
 第五使徒……ラミエル戦。
 
 ファーストチルドレンとのタッグでの戦闘。作戦自体に幾つかの不備があり、零号機に損害を負うも使徒を殲滅。危険な状態にあったファーストチルドレンを救助。
 
 
 
 ……すごいと言えば、すごい。
 
 確かに、すごい。
 
 だが……
 
 「……って、まぁ、フツーと言えばフツーよね」
 
 腕を組みながら、面白くなさそうにアスカが言う。
 
 「確かに……訓練を全然してないんだし、少しはやるかなと思わなくもないわよ……。でも、それがなんだっての? 過労で倒れるほどの話じゃない」
 
 同じ境遇に立たされれば、自分もまた、同じようにやってみせるという自負が、彼女にはあった。
 
 
 
 それとも……
 
 この記録には残らないようなことが、何かあるのかしら?
 
 
 
 アスカはその後もしばらくキーボードを叩いていたが、結局彼女には、これ以上の情報を見つけだすことは出来なかった。
 
 
 
 資料室を出て、スリットにIDカードを通す。
 
 カチャン。
 
 音を立てて、ロックがかかる。
 
 アスカはカードを目の前にかざすと、小さく、そっと呟いた。
 
 「もっと……レベルの高いカードが必要ね……」
 
 
 
 シンジは、意識が回復したことで、集中治療室から一般病棟に移された。
 
 「ごめんね、シンちゃん。アスカ、帰っちゃったのよ」
 
 ミサトが、苦笑しながら言う。
 
 実際には、この時間には、まだアスカはNERVにいるのだが、それは彼女にはわからない。
 
 「いいですよ、別に……たいしたことないんだし」
 
 シンジも、ベッドの中から同じく苦笑で返す。
 
 そこまでしてもらうほど、自分の体がおかしいとは思えない。
 
 事実、先程まで意識がなかったとは信じられないほど、体の調子は普段と変わらなく感じられた。
 
 レイは、目をはらしたまま、シンジの横顔を見つめていた。
 
 シンジと目があうと、一瞬、瞳で微笑む。
 
 
 
 ミサトは、内心、非常に驚いていた。
 
 計器の結果からシンジが目覚めたことがわかり、あわてて集中治療室に入ると、シンジの胸にレイがすがっていた。
 
 一瞬、「まずいところに来ちゃった?」と戸惑ったが、部屋に入って来たミサトにシンジが気付くと、口元に指を当ててから手招きする。
 
 そこで、足音を忍ばせて、そばに近付き……そっと、レイを見てみると……
 
 そこには、涙に濡れたまま眠っている少女がいたのだ。
 
 
 
 誰が見ても、レイが「泣き疲れて眠ってしまった」のは明らかだった。
 
 ………
 
 ……泣き疲れて……?
 
 ……疲れて眠ってしまうほど……レイが、泣いたって言うの?
 
 
 
 驚きの表情のまま、慌ててシンジの顔を見て……シンジが、レイを見つめるその表情を見て……ミサトは、理解した。
 
 
 
 彼等の間に結ばれている……絆の、強さに。
 
 
 
 だが、同時にもろさも感じていた。
 
 絆が太く、固いがゆえに……それが切れた時の恐怖。
 
 全てが壊れてしまいかねないほどの……。
 
 
 
 だが、ミサトには、何も言うことが出来なかった。
 
 言ってはいけない気がした。
 
 ……それは、彼等で見つけ、彼等で考えなければいけない問題のような気がしたのだ。
 
 
 
 (……と言っても、シンちゃんはわかってると思うけどね)
 
 ミサトは腰を伸ばすと、座っているレイの肩を叩いた。
 
 「さ、レイ……もう、帰るわよ。シンちゃん、疲れてるんだから」
 
 言われて、たちまち暗い表情になるレイ。
 
 「………」
 
 「レイ……わかってるでしょ。ここにいるよりも……今日はゆっくり休ませてあげた方が、シンちゃんのためなのよ」
 
 「…………………………ハイ」
 
 小さく答えたあと、レイはゆっくりと立ち上がった。
 
 「……碇君」
 
 名前を呼ばれて、シンジは微笑む。
 
 「大丈夫だよ、綾波。全然、ピンピンしてるんだからさ」
 
 「うん……」
 
 言いながら、シンジの手を握る。
 
 「はやく……良くなって」
 
 「う……うん。ありがとう」
 
 名残惜しそうにシンジの手を離すと……レイは、ミサトに連れられて、病室を出ていった。
 
 
 
 「ふぅ……」
 
 シンジは、小さく溜め息をつくと……もう一度、枕に深々と頭を沈めた。
 
 
 
 過労か……。
 
 リツコさんは、「肉体的なものよりも、精神的に疲労している」って、言ってたよな……。
 
 
 
 精神的な疲労、か……。
 
 やっぱり、一人でやってることに、無理があるのかなぁ。
 
 でも……うかつに話せないし……な……
 
 話せば……その人に迷惑が及ぶ。
 
 それは、避けたい……。
 
 
 
 綾波に……話すべきだろうか?
 
 
 
 だが……綾波に、僕の全てを話すということは……
 
 ……僕が、綾波について、多くを知っている……という事実を、彼女に明かすことになる。
 
 
 
 それについて……言うべきかどうか、まだ、僕には分からない……。
 
 綾波は、越えられるだろうか?
 
 それを判断するには、材料が、まだ、なさ過ぎるんだ……。
 
 
 
 綾波……
 
 いつか……きっと、話す時が来る。
 
 僕のためにも……そして、何より、綾波のためにも。
 
 でも……
 
 今は……まだ……話せない。
 
 
 
 そんな……気がする……。



百三



 結局、荷物の移動を面倒くさがったアスカは、そのまま、隣の空家を住居にすることに決めた。
 
 三部屋並んで、レイ、シンジ&ミサト、アスカの順に並ぶわけである。
 
 アスカに深い考えはなかった。本当に、ただ単純に、面倒くさかっただけである。

 ミサトは喜び、レイはどことなく不機嫌だった。
 
 
 
 とにかく、ある意味新しい家族を迎えたことを記念して……その日の夕食は、ミサトがカレーを用意した。
 
 ……そして、シンジが安らかに眠っている頃、葛城邸では、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていたのであった。