第二十八話 「絆」
八十九



 アスカが玄関を出て、そのすぐあとをシンジが飛び出すまで、おそらく10秒と差はなかったはずだった。
 
 だが、すんでのところで、エレベーターの扉は閉じてしまった。慌てて階段を駆け降りたが、建物から出た時には、アスカの姿は影も形も見えなかった。
 
 
 
 アスカの速さには、舌を巻く。
 
 
 
 記憶を呼び戻すのに数秒の時間を要したが、確か前回では、アスカはコンビニにいたはずだ。
 
 そう思い、シンジはコンビニに向かって走り出す。
 
 だがコンビニに着いてみると、中に見覚えのある後ろ姿はなかった。
 
 
 
 少なくとも人通りの多い方には行っていないだろう、とシンジは考える。
 
 レオタードにTシャツのみという出で立ちだ。
 
 しかも彼女は、普通の恰好をしていても、人目を引くのだ。
 
 
 
 シンジは最大限に脳細胞を回転させ、アスカの立ち寄りそうな場所を考える。
 
 
 
 洞木さんの家……のワケないか。
 
 洞木さんは、ウチに来てるんだから。
 
 人気の無いほうに行っている、とは思うけど……ウチの辺りは立ち退きが結構進んでるから、人気のないところって多いんだよな。
 
 さすがに空家の中には、ロックがかかってて入れないけど……。
 
 
 
 だが、まったく見つけ出せない所にはいないはずだ、と、シンジは思う。
 
 そう言うと、アスカは、絶対に否定するだろう。
 
 だが……。
 
 探そうとして探しだせないところは、無意識に避けているはずだ。
 
 彼女だって、訓練に戻らなければいけないことは、わかっている。
 
 しかも、アスカは聡明だ。
 
 さっき僕らが指摘した問題点は、今頃は完全に理解しているだろう。
 
 
 
 このまま、ただ自分から戻ることはできない。
 
 だから、きっかけを……無意識にでも、求めているはずなんだ。
 
 誰かが見つけてくれることを、望んでいるはずなんだ……。
 
 ……それは、僕じゃないかも知れないけど。
 
 
 
 数十秒後、シンジは一つの方向に足を向けて、走り出す。
 
 アスカがいるであろう、その場所に向かって……。



九十



 数分後、シンジは目的の場所に辿り着く。
 
 アスカはいるだろうか?
 
 入り口から半歩足を踏み込み、辺りを見回す。
 
 
 
 ……いた。
 
 
 
 葛城邸から数百メートル程、離れた場所。
 
 閑静な住宅地の中の、小さな公園……。
 
 昔なら子供達の声が満ちているであろうこの場所も、最近の度重なる戦闘に、小さな子供を抱えた家庭は疎開することも珍しくなく……人気のない、寂れた空間となっていた。
 
 ……その、中央。
 
 2脚のブランコのうちの、手前の一つ。
 
 そこに、アスカが座っていた。
 
 
 
 シンジは、ゆっくりと、そこに向かって歩いていく。
 
 最初、俯いて座っているアスカは、シンジに気づかなかった。
 
 だが、やがて、視界の隅にシンジの靴が入り……
 
 初めて、顔を上げた。
 
 
 
 「……アスカ」
 
 シンジは、アスカに声をかけた。
 
 アスカは、シンジの顔を認めると……露骨に眉をしかめ、ぷいっと横を向く。
 
 シンジは何も言わずにアスカの前まで来ると……そのまま通り過ぎ、奥のブランコに、腰掛けた。
 
 キィ……
 
 ブランコの錆びた鎖が、かすかにきしむ。
 
 
 
 そのまま、二人の間には、沈黙が降りた。
 
 そうして、数瞬の時を過ごす……。
 
 
 
 先に口を開いたのは、アスカだった。
 
 「……何か、言えば?」
 
 そっけなく言う言葉に、シンジは答えない。
 
 ……いざここまで来ると、何を言えばいいのか、よくわからなかった。
 
 「……わざわざ追い掛けて……アタシを笑いに来ってワケ?」
 
 吐きすてるように、呟く。
 
 「そんなこと、あるわけないだろ」
 
 「じゃ、何しに来たのよ」
 
 「いや……その、追いかけなくちゃ、と思って……」
 
 「同情?」
 
 フン、と自嘲気味にアスカが笑う。
 
 「……言っとくけどね、アタシは悪くないわ。少なくとも、アタシの踊りは完璧だった」
 
 「……そうだね」
 
 「うまくいかないとすれば、アンタの踊りよ。アタシが完璧に踊ってるのよ? シンジがもっとうまく踊れるようになれば、それで完璧じゃない!」
 
 「………」
 
 「アタシは……完璧よ……!」
 
 
 
 わずかな間を置いて、シンジがゆっくりと、口を開いた。
 
 「……完璧な人間なんて、いないよ」
 
 「……何ですって?」
 
 低い声で、アスカが睨む。
 
 「完璧な人間がすばらしいと思う? 僕は思わない。まぁ……完璧な人間に出会ったことなんてないから、本当のことはわからないけどね」
 
 「何が言いたいのよ……シンジ」
 
 「アスカ……もっと肩の力を抜けよ」
 
 「!」
 
 アスカは驚いたように、シンジの顔を見て……直後に、ギッとシンジを睨み付けた。
 
 「……アタシに、指図する気!?」
 
 「指図だなんて……ただ、アスカも分かってるだろ? みんなが、何を言っていたのか」
 
 「………」
 
 「アスカ……誰だって、ずっと突っ張って生きてなんかいられないんだ。僕だって、しょっちゅうヘマをしちゃ、ミサトさんにからかわれてるしね」
 
 「アンタとアタシじゃ、較べてもしょうがないでしょ!」
 
 「それはそうかも知れないけど……アスカ、全てにおいて、自分がトップだなんて思わない方がいいよ。そんなの、疲れるだろ?」
 
 「アタシは、トップじゃなきゃ、駄目なのよ!」
 
 アスカは、勢い良く立ち上がる。
 
 ブランコが、ガシャン! と、音を立てて揺れた。
 
 
 
 すでに、時は過ぎ……いつしか、空は夕焼けに染まっている。
 
 その、真っ赤な夕焼けを背に……アスカは、仁王立ちで、シンジを睨み付けていた。
 
 「……アタシは、トップじゃなきゃ、駄目なのよ……!!」
 
 低い声で……しかし、ガンとした決意を込めて、アスカの声が、シンジの耳に届いた。
 
 
 
 シンジは、アスカを、ただ黙って見つめていた。
 
 そして……ゆっくりと、視線をはずす。
 
 ブランコに座ったまま……前を見つめている。
 
 「……昔……僕の知り合いにも、そんな女の子がいたよ」
 
 シンジが、静かに口を開いた。
 
 
 
 「彼女は……アスカに、よく似ていた。
 
 美しくて……聡明で。
 
 何をやっても、素晴らしかった。
 
 彼女は、自分に誇りを持っていたんだ。
 
 
 
 でも……彼女は、アスカみたいに、トップであることに固執していた。
 
 自分にはそれしかない、
 
 それ以外に、自分が生きている意味なんてない、ってね……。
 
 
 
 それで、実際にトップでありつづけられるなら、それもいいのかも知れない。
 
 でも、そんなにうまくいくもんじゃないだろ?
 
 彼女は、認めることが出来なかった。
 
 他人に抜かれたとき。
 
 そして、追い付くことが出来なかったとき。
 
 
 
 人は、それだけで生きているわけじゃないんだ。
 
 トップでなきゃいけないんなら……普通の人は、生きてなんかいけないよ。
 
 でも、みんな不幸そうな顔をしてる?
 
 トップである必要なんか、ないんだ。
 
 自分に誇りが持てるなら……それだけで、素晴らしいんだ。
 
 僕は、そう思ってる」
 
 
 
 静寂が舞い降りた。
 
 シンジは、前を向いたまま。
 
 アスカも、口を開かなかった。
 
 アスカは、ただ、睨み付けるように……シンジの横顔を凝視していた。
 
 
 
 シンジが突然始めた昔話を、アスカは、苦々しく思っていた。
 
 幼なじみ?
 
 昔の知り合い?
 
 もしかしたら、恋人か何か?
 
 
 
 いずれにしても、アタシとは、違う。
 
 立場が、違うのよ。
 
 
 
 ……アタシは、トップでいることしか、できない。
 
 それ以外、ありえない!
 
 
 
 ……それは、結局……シンジが語る内容と変わらなかった。
 
 だが、それは、アスカにはわからない。
 
 アスカは、シンジのつまらぬ昔話をやめさせようと、半歩だけ踏みだした。
 
 しかし……。
 
 
 
 シンジが、再び口を開く。
 
 
 
 「でも……彼女には、わからなかった。
 
 それに……あのころの、僕も、そんなことはわからなかった。
 
 何より……彼女のことを、なにもわかってなかった……。
 
 ……わかろうとも、しなかった。
 
 
 
 彼女は、結局、壊れてしまったんだ。
 
 そして、僕は、それをただ見ていただけだった。
 
 
 
 彼女は、全てを拒絶して……死んでしまった。
 
 僕の、目の前で……」
 
 
 
 シンジの心に浮かぶのは、あの、赤い湖畔……。
 
 
 
 シンジの言葉を、アスカは、身じろぎもせずに聞いていた。
 
 ただ、シンジの横顔を眺めたまま……。
 
 その表情から、彼女の裡を探ることは出来ない。
 
 
 
 だが、半歩踏みだした足は、止まっていた。
 
 昔話をやめさせようと、開きかけた口も閉じられていた。
 
 
 
 シンジは、ただ、前を見つめている。
 
 その視線の先には、何もない。
 
 そう……
 
 何も、ない。
 
 
 
 シンジが再び、口を開く。
 
 「アスカ……僕は……二度と、繰り返したくないんだ。
 
 僕は……ばかだったから……彼女を、傷つけた。
 
 彼女の心が、全てを拒絶するほどに……。
 
 
 
 彼女を、助けたかった。
 
 彼女には、死ななければいけない理由なんて、なにもなかった。
 
 
 
 僕が……殺したんだ……。
 
 
 
 アスカ……僕は、君を助けたい。
 
 もう一度、同じ過ちを繰り返すのはやめようって……
 
 ……決めたんだよ……」
 
 
 
 シンジの瞳から、ひと粒だけ……
 
 涙が、こぼれた。
 
 たったひと粒……。
 
 
 
 落ちていく、その一粒の涙を、アスカは目で追う。
 
 その涙は、地面に落ちて、土に染み込んでいった。
 
 
 
 これっぽっちしか、泣くことも出来ないのか……
 
 シンジは心の中で、自分を笑った。
 
 彼女のために……流す涙も……
 
 たった、ひと粒の価値しかないって言うのか?
 
 
 
 だが、アスカには、シンジの涙の重さを、肌で感じていた。
 
 言葉では、説明できない。
 
 感じた、としか言えない。
 
 だが、このひと粒の涙は……
 
 今の自分には流せない涙。
 
 
 
 重い、
 
 涙。
 
 
 
 ……そんなに簡単に、納得出来はしない。
 
 ハイそうですかと、考え方を変えられるわけではない。
 
 自分の生き方を、即座に転換することなど、出来ない。
 
 そういう性格なら、ここまで苦労しないだろう。
 
 それに、彼女に限らず人間とは、そういうものだ。
 
 
 
 そして、アスカを助けたいという、シンジの願い。
 
 当のアスカから見れば、何を傲慢な、というところだろう。
 
 
 
 だが……
 
 
 
 アスカの今までの人生は、必ずしも幸せとは言えない。
 
 それが、彼女の心を固まらせている原因の一つだとしたら……
 
 シンジの人生も、幸せではないらしいと言うこと。
 
 ……それが、彼女の心を柔らかくする要因の一つになったのかも知れなかった。
 
 
 
 アスカは、理解していなかった。
 
 カケラほど……ほんの僅かな、小さなヒビ。
 
 それが、彼女の心の中にある。
 
 
 
 そして、それは、彼女のこころを壊すものではなく……
 
 固くなった彼女のこころを、生まれ変わらせるヒビ。
 
 
 
 その、最初のひとかけが……
 
 
 
 彼女の中に、炒りこまれていた。
 
 
 
 アスカは、目の前の少年を見る。
 
 自分を脅かす、憎き存在であるはずの、少年。
 
 だが彼は、今は背中を丸めて座っている。
 
 
 
 それを見ても、彼女は「いい気味」とは思わなかった。
 
 いつもなら、そう嘲るところなのに。
 
 少年は、本気だった。
 
 唯一、今、自分に分かること。
 
 ただ、それだけ。
 
 少年は……本気だった。
 
 本気で……
 
 ……自分を救いたいと、言っている。
 
 
 
 彼女は、心の中で、笑った。
 
 何を、生意気な。
 
 アンタにそんなことされるほど、落ちぶれちゃいないわ。
 
 
 
 だが、その言葉とは裏腹に、自分の背後に、風そよぐ草原の気配を感じていた。
 
 天までも広がる、抜けるような青空を感じていた。
 
 体中を洗い流すような、恵みの雨を感じていた。
 
 
 
 彼女の人生に
 
 こんなことを言う人間が
 
 いただろうか?
 
 
 
 救う
 
 私を
 
 救う
 
 私を。
 
 
 
 生意気な。
 
 でも、悪くない。
 
 生意気な。
 
 じゃあ、なんで繰り返してる?
 
 
 
 生意気な。
 
 
 
 じゃあ、なんで気持ちいいの?
 
 
 
 「涙……拭きなさいよ」
 
 ぶっきらぼうに、アスカが言う。
 
 「え……あ、ごめん」
 
 アスカに言われて、慌てて手の甲でごしごしと拭う。
 
 
 
 「ごめん……みっともないところを見せたね」
 
 シンジは言う。
 
 「本当ね」
 
 横を向いて、アスカが応える。
 
 シンジは、苦笑した。
 
 「本当に……みっともないったらありゃしない」
 
 「うん……ごめん」
 
 「謝るんじゃないわよ」
 
 アスカの言葉に、シンジは顔をあげる。
 
 
 
 「今回だけよ」
 
 
 
 「え?」
 
 「また泣かれると、うっとうしいから……今回だけ、言う通りにやってやるわ。
 
 アタシの方が、うまく踊れることは、アンタもわかってるみたいだしね」
 
 「……アスカ」
 
 「ホラ!」
 
 ビシッ! と、アスカはシンジの鼻先に、人差し指を突き付ける。
 
 思わず、気圧されて仰け反るシンジ。
 
 「いつまでも、辛気くさい顔してんじゃないわよ! それじゃ、まるでアタシがアンタを虐めて泣かせたみたいじゃない!」
 
 
 
 言い終わって、アスカはくるり、とシンジに背を向け……そして、歩き出す。
 
 「とっとと行くわよ、シンジ」
 
 シンジは、アスカの後ろ姿を見つめていた。
 
 シンジの位置から、彼女の表情は、見えない。

 だが……彼女の言葉は、確かに、前よりもいくぶん、和らいでいた。
 
 
 
 「アタシは、惣流・アスカ・ラングレー……
 
 こんなところで、グズグズ足踏みしてられないから」
 
 
 
 その言葉は、確かに……
 
 微笑んでいた。



九十一



 二人が葛城邸に戻った時には、アスカが家を飛び出してから、既に二時間が経過していた。

 トウジ・ケンスケ・ヒカリの3人は、既に帰宅している。

 無理もない。時計の針は、7時を指していた。

 
 
 「碇君!」
 
 レイが、弾けたように立ち上がると、玄関先へ駆け寄ってくる。

 シンジは靴を脱ぎながら、笑って片手を上げた。

 「遅くなってごめん、綾波」

 「……ううん」
 
 心配そうな表情のまま、それでも、シンジが笑っていることに少しだけほっとした感じで、レイは小さく首を振った。
 
 ……そして、チラ、と後ろに立つアスカを見る。
 
 
 
 アスカは、なんとなくシンジの後ろに立って、シンジが靴を脱ぎ終わるのを待っていた。
 
 そこへ、一瞬のレイの動き。
 
 一見、無表情であるかのようなその顔に、様々な感情が複雑にからみ合っていることに気付き、ちょっと眉を上げた。
 
 
 
 あら?
 
 こんな顔もすんのね、この女……。
 
 
 
 そのまま、じーっとアスカがレイを見つめると、慌てたようにレイは視線をそらせる。

 ……だが、やはりまた、チラチラとアスカの顔を窺う。
 
 
 
 わかりやすい女……。
 
 
 
 アスカは、呆れたように、レイの顔を見ながら息をついた。
 
 
 
 シンジは、後ろに立つアスカの顔が見えていないこともあり、何も気付かないまま、靴を脱ぎ終えると、スタスタと家の中に入って行く。

 「……あっ」
 
 シンジではなくアスカを見ていたため、虚を突かれた形となったレイは、そのままその場に残された。
 
 
 
 レイは動揺していた。
 
 当然だろう。
 
 目下、恋敵として(大いなる勘違いだが)自分を脅かす地位にいる女性と、シンジが二時間近く戻ってこなかった。

 そして、戻ってきた二人は、飛び出す直前にくらべると、幾分和らいで見える。
 
 何があったのか?
 
 シンジが自分ではなく、この……胸の大きい女を選ぶようなことになれば、自分は耐えられない。
 
 
 
 ……という葛藤の最中に、急にアスカと二人で対峙するはめになった。

 レイにしては珍しく、この構図が、えらく彼女を怯えさせていた。
 
 
 
 何があったのか? ……などと、当然のことながら、聞くことなど出来ない。
 
 
 
 一方のアスカは、まったくの自然体だった。

 一時的なものかも知れないが、今の自分は、肩の力が抜けている、と思う。

 ……という状態で見ると、めまぐるしく変化していくレイの表情を見ているのも、けっこう笑える。
 
 
 
 フ、とアスカは笑った。
 
 そして、意地悪く微笑むと、ズイ、とレイの前に顔を突き出した。

 「ナニ、心配してんのよ、アンタ?」
 
 「……私」
  
 アスカの急な行動に、レイは対処できない。
 
 「アタシのコトを心配してくれたワケ?」
 
 無論、そんなことはないだろう。
 
 意地悪に言ってみただけだ。
 
 そして、いつものレイなら、即答で「違うわ」とでも言うところだった。
 
 
 
 だが、レイは答えに窮した。
 
 何と答えるのがベストの選択なのか、判断がつきかねていた。
 
 
 
 出会ってまだ間もなく、付き合いも浅いが、それでもアスカにとって、新しい発見の連続だった。
 
 そして、それは決して不快なものではなかった。
 
 
 
 「アスカ! 練習しようよ!」
 
 奥の部屋からシンジの声が聞こえる。
 
 「うるさいわね、いま行くから待ちなさいよ!」
 
 アスカも、叫び返す。
 
 ポイポイと靴を脱ぐと、廊下に踏み込んだ。

 そして、レイの横を通り過ぎざま、アスカがレイの背中を軽く叩く。
 
 「心配する必要なんて、ないわよ」
 
 
 
 そのまま、アスカはリビングに歩いて行ってしまった。
 
 玄関先に残されたレイの心は、パニック寸前だった。
 
 どういう意味なのか?
 
 どういう意味にでもとれて、逆に意味が全くわからない。
 
 「おおい、綾波! こっちにおいでよ!」
 
 シンジの声に、パニックのまま、慌ててリビングに戻った。
 
 
 
 時間も遅かったので、一度だけ、通して踊ることになった。
 
 リビングの中央に、ポーズをとって、並んで立つシンジとアスカ。
 
 見守るのは、心配そうなミサト、ニコニコした加持、一見無表情のレイ、全然興味なさそうなペンペン、という面々である。
 
 
 
 音楽が始まる。
 
 
 
 そして、二人が踊る。
 
 
 
 最初、怪訝な表情で見ていたミサトも、だんだんと目を見開いた。
 
 加持は、笑ったまま。
 
 レイも、一見無表情のまま。
 
 ペンペンは、毛繕いをしている。
 
 
 
 そして、音楽が終わった。
 
 
 
 「どう? ミサト」
 
 タオルで汗を拭きながら、アスカが胸をはって言う。
 
 「ちょ、ちょっと待って……」
 
 ミサトが、手許のリモコンを操作する。
 
 リモコンに、赤いランプがともった。
 
 「え〜と……88点……」
 
 
 
 言いながら、ミサトは恐る恐る、アスカの顔を見た。
 
 先程の得点よりも、低い。
 
 だが、アスカは得点を聞いても、笑っていた。
 
 
 
 「いい? シンジ……どうせやるならね、この感覚で、更に100点を目指すわよ」
 
 「わかったよ……もっと僕が頑張ればいいんだろ……」
 
 肩を竦めて、溜め息をつくシンジ。
 
 その様子を見て、ミサトはほっと安堵した。
 
 
 
 どうやら……アスカ、ちゃんと「理解」したみたいね。
 
 
 
 「じゃ、今日はもう終わりにするわよ。夕食の用意をするから、二人とも着替えてきて」
 
 「はい」
 
 「は〜い」
 
 ミサトの言葉に、シンジとアスカが答える。
 
 アスカは荷物を持つと、そのままさっさと風呂場へ行ってしまった。
 
 
 
 シンジが汗を拭きながら、壁際に置いておいた荷物に歩み寄る。
 
 すると、微笑みながら、加持がそばに立った。
 
 「御苦労さん、シンジくん」
 
 小声で話し掛ける。
 
 「ああ、はい……」
 
 「さすがだな」
 
 「そ、そうですか?」
 
 「……踊りの話じゃないぜ」
 
 言って、加持は軽く片目を瞑った。
 
 「あのお姫様をたった二時間で懐柔するとは思わなかったよ」

 「懐柔って……」
 
 シンジは、苦笑した。
 
 加持も、軽く笑ってみせる。
 
 「……いずれにせよ、これで準備は整ったな」
 
 「ええ」
 
 シンジが、短く答える。
 
 
 
 前回は、出撃の前日までかかった。
 
 それは、アスカが相手に合わせることを理解するのに時間がかかったこともあるし、自分の踊りが下手だったせいもある。
 
 ……だが、今回は違う。
 
 出撃まで、あと、丸二日。
 
 この時点で、前回と同じレベルに到達したんだ。
 
 
 
 結局、前回よりも、うまくやれたのかな?
 
 
 
 シンジは心の中で、そっと安堵の溜め息をついた。
 
 歴史を知っているからこそのプレッシャーから、またひとつ、ようやくと解放されたのだ。
 
 
 
 ……本人も気付かぬうちに、様々な重圧が、シンジの両肩にのしかかっていた。
 
 普通の中学生ならば、絶対に背負い込むことのない、重い重圧を……。
 
 
 
 そんなシンジを、レイは遠くから、心配そうに見つめていた。



九十三



 残りの二日間は、非常に順調だった。

 既に合格ラインを突破している二人が、更に動きに磨きをかける。

 これは、二人にとって苦ではない。
 
 その間、レイは必ずしも居心地よくはなかった。

 見ているだけの存在であることもそう。

 また、シンジとアスカの息が揃っていく様を見ているのも、あまり楽しくなかった。

 さすがのシンジも、それに気付かぬ訳ではなく、頻繁にレイに話し掛けるように努力している。

 だが、訓練の手を抜く訳にはいかず、また、訓練の主眼が「シンジとアスカのユニゾン」にあるため、思う程レイの心は晴れなかった。
 
 
 
 出撃の前日。
 
 最後のダンスを、97点で終了した。
 
 
 
 「いやぁ〜、ここまでうまくなるとは、正直思わなかったわぁ」

 ミサトが、感心したように腕組みをして首を振った。

 その点に関しては、シンジも同感だ。

 合格ラインに持っていくことは難しくないだろうと思っていたが、ここまでの得点をあげることができるとは思わなかった。

 アスカは、「当然」という顔をしている。
 
 
 
 最後のダンスが終わったことで、リビングの家具を元に戻そうとしたが、なし崩し的に、車座での夕食となった。
 
 そして、夕食も終わり、明日の出撃に備えて、早めに寝ようとした頃……

 ミサトの口から、一つの提案が飛び出した。
 
 
 
 「今晩は、みんなでリビングで寝たら?」
 
 
 
 何を急に言い出すのか、という表情でミサトを見るアスカとシンジ。

 一方、レイの心は、すでに興奮の途上にあった。

 碇君と……一緒に……寝る。
 
 この瞬間、レイの脳裏にアスカの存在は、ない。
 
 
 
 「なんでまた……突然」
 
 シンジが、半ば呆れたように言う。
 
 「ま、ま、いいからいいから」
 
 ミサトは軽く両手を上げて言うと、そのままむんずとシンジの首根っこを抱え込む。

 「いたたた、なんですかミサトさん」
 
 「ま、ま、いいからいいから」
 
 「いたたたたた」
 
 シンジの首根っこを掴んだまま、ミサトは自分の部屋にずるずると連れていく。

 そして、やがてシンジの「いたたたた」と共に、襖の向こうに消えた。
 
 
 
 残されたアスカとレイは、ポカンと閉じた襖を見つめている。
 
 
 
 襖を閉めたミサトは、ようやくとシンジを解放した。
 
 首をさすりながら、シンジが呟く。
 
 「なんなんですか、ミサトさん……」

 「シンちゃん、あなた、レイのこと分かってる?」
 
 ズイ、と首を出してシンジに詰め寄るミサト。
 
 シンジは、思わず数歩後退する。
 
 「綾波のことって……え〜と」
 
 「あのコ、この5日間、すごくフラストレーションが溜まってるわよ」

 「ああ……ええ、その……まあ」
 
 気付いていない訳がない。

 シンジも、気になってはいたのだ。
 
 「どうすればいいのか、わかるわね?」

 「どうすればって……え〜と……どうするんです?」

 ミサトの言葉に、シンジが怪訝な表情で答える。

 どうすればいいのか、シンジも考えあぐねていたところだ。

 何かうまい方法があるのなら、教えてほしいところである。

 「少しくらいサービスしてあげても、バチは当たらないんじゃないかってことよ」
 
 「え? え〜と……もう少し具体的に……」

 おずおずと言うシンジの背中を、ミサトが叩く。

 ぱぁん!
 
 「ぐえっ」
 
 「アラ、いい音。……じゃなくて、それくらい自分で考えなさいよ」

 「げほげほ……い、いや、そう言われても……」

 「いい? せっかく、一つの布団で寝かしてあげようって言ってんのよ。やることはヒトツでしょ?」
 
 妖しい光を帯び始めるミサトの瞳。
 
 シンジは冷や汗をかきながら、更に数歩、後退した。

 どん、と襖にぶつかる。
 
 「え……ええ〜と……ア、アスカもいるし……アハハハ」
 
 「そんなモン、静かにやればわからないわよ!」
 
 中学生に言うセリフではない。
 
 
 
 (べ、別々に寝よう……やっぱり)
 
 背中を冷や汗が流れるのを感じながら、シンジは心に決めた。
 
 「や、やっぱり、いつもと同じように寝ましょう! ぼ、僕、枕が変わると寝られないんですよね」
 
 「枕だけ自分の使いなさいよ!」
 
 「そ、そ、そういうイミじゃないでしょ!!」

 言いながら、後ろ手にガラッと襖を開ける。
 
 「あッ、シンちゃん! ちょっと待ちなさいって!」

 「や、やぁ、二人とも! やっぱり夜は別々に……」
 
 笑いながら言いかけて、シンジの言葉が消えた。
 
 
 
 リビングの中央には、三人分の布団がキチンと敷かれていた。
 
 その上に、レイが座ってこちらを見ている。
 
 アスカは、後ろに立ってポリポリと頭を掻いていた。
 
 
 
 固まっているシンジの肩を、ミサトがポンポンと叩く。
 
 振り返るシンジを見てニヤリと笑うと、耳許で囁いた。
 
 「……女の子がこういう態度に出る意味、わかってるわね? 恥かかせちゃ、ダメよん」



 もちろん、レイにしてみれば深い意味はないのだが……。
 
 
 
 そしてもちろん、ミサトも面白がっているだけなのであるが。



九十四



 夜。
 
 
 
 電気の消された部屋で、三人は横になっていた。

 ……ちなみに窓際から、アスカ・レイ・シンジの順である。

 アスカは、態度が幾分軟化してきたこともあり、並んで寝ること自体には、大きな拒否反応は示さなかった。

 襖の向こうにはミサトもいるし、一緒に寝ると言ってもレイもいるしで、さほど気にしなかったのである。

 ……しかし、さすがにシンジの横に寝るのは拒否した。

 そのため、レイを中央に据えることになったのである。
 
 
 
 ……そして、もともとシンジに特別な感情のないアスカは、さっさと眠りの淵に落ちてしまっていた。

 小さな寝息が聞こえる。
 
 
 
 ……対して、全く眠れないのが、シンジである。

 ミサトに余計なことを吹き込まれたため、いくら本当に行動を起こす訳ではないにしろ、そうそう簡単に眠れない。
 
 レイに背中を向けて横になっていたが、その背中の向こうに寝ているであろうレイのことを思うと、目は冴えていく一方である。

 そして、レイ。
 
 レイは、ほとんど瞬きもせずに、シンジの背中をジッと見つめていた。

 
 
 (だめだ……眠れないよ)
 
 トホホ、という感じで、シンジが呟く。
 
 まったく、明日が出撃だと言うのに、こんなことで寝不足に陥ろうとは……

 とんだ伏兵だ、と、ミサトを呪う。
 
 
 
 もぞもぞ、と、シンジは布団から這い出した。
 
 身体中が暑く、汗をかいている。
 
 振り返ってレイを見ると、目を瞑って眠っているようだ。

 少し、ホッとして……それから、立ち上がる。
 
 (夜風に当たろう……)
 
 フラフラと、寝ている二人の足許を通過して、窓を開けた。

 サァッ……
 
 ゆるやかなそよ風が、軽くレースのカーテンを揺らす。
 
 シンジは、そのままベランダに出ると、柵に体を預けた。
 
 
 
 わずかに雲が出ているだけで、空には満天の星が広がっていた。
 
 皮肉なことに、セカンドインパクトが起きてから……多くの産業は後退し、人々の数も減った。
 
 そのため、大気は澄み、街の光に邪魔されることもなく、夜空を眺めることができるのである。
 
 
 
 (綺麗だな……)
 
 シンジは思う。
 
 シンジが見ているのは、空に浮かぶ月だ。
 
 
 
 シンジは、月が好きだった。
 
 子供の頃は、さほどでもなかった。
 
 だが、今は間違いなく、月が好きだ。
 
 
 
 ……それはレイを思わせるからだ、と、シンジは自覚していた。
 
 
 
 シンジの目の前に、突然、コップが差し出された。
 
 「わ!」
 
 軽く驚いて、シンジは振り返る。
 
 
 
 そこには、パジャマ姿のレイが立っていた。

 片手に自分のコップを持ち、もう片手に持ったコップを差し出している。
 
 「あ、綾波か……びっくりした」
 
 胸を抑えて、シンジは照れくさそうに笑った。

 「ジュース……」
 
 「あ、ごめん、ありがとう」
 
 シンジは、レイの手からコップを受け取る。
 
 
 
 口をつけると、それはオレンジジュースだった。

 
 
 シンジは、コップを持ったまま、再び柵にもたれて、月を見上げた。

 レイも、シンジの横に立つ。
 
 
 
 シンジの心は、先程までに比べると、かなり落ち着いていた。
 
 夜風のせいか、星空のせいか、あるいは月のせいかも知れない。



 そよ風が、シンジの前髪を揺らす。
 
 それは、同じように、レイの蒼い髪をそよがせた。
 
 
 
 月の光を浴びたレイは、綺麗だった。
 
 シンジは、じっとその横顔を見つめる。
 
 
 
 ……目を、奪われていた。
 
 
 
 「……碇君」
 
 急に、レイが呟いた。
 
 レイは、前を向いたままだ。
 
 レイの横顔を見つめていたところで突然名前を呼ばれたため、シンジは慌てて視線をそらせた。

 「な、なに? 綾波」  

 言いながら、オレンジジュースをすする。
 
 
 
 「……胸が大きいのと小さいのと、どっちが好き?」
 
 「ブゥッ!!」
 
 
 
 シンジは口に含んでいたジュースを、思いきり吹き出してしまった。

 口元を拭いながら、慌ててレイの方に向き直る。
 
 「な、な、なに? なんで、そんなこと……」

 「……答えて」
 
 レイは、こちらを見ない。
 
 短く、言葉を発しただけ。
 
 
 
 シンジは、激しく動揺した。
 
 あまりにも、予想を超えた質問だった。

 ……少なくとも、回答を用意しておける類いの質問では、ない。
 
 
 
 え……
 
 え……
 
 え、え、えええ?
 
 
 
 な、なにが……どう……
 
 どういうこと?
 
 
 
 な……
 
 なんて、答えればいいんだ……
 
 
 
 だが、シンジがレイの手許を見た時……
 
 嘘のように、シンジの動揺は消え去っていった。
 
 
 
 レイの顔は、一見、無表情と言うか……毅然として、前を見つめているようである。
 
 ……だが、その手許は、小さく震えていて……

 手に持ったコップの中で、ジュースが細かく波打っていた。
 
 
 
 レイにとって、一世一代の勇気だった。
 
 今晩聞かなければいけない、と思っていた。
 
 理由はわからない。だが、今でなければダメだ、と思っていた。



 きっかけを掴むことの出来ぬまま……布団の中でずっとシンジの背中を見つめていると、突然シンジが動いた。
 
 心臓が掴まれたかのような驚き。
 
 とっさに、レイは両目を瞑った。
 
 シンジは、起き上がって、それから布団を這い出て……その後、ベランダの戸を開ける音が聞こえた。
 
 
 
 レイは、意を決した。
 
 聞こう……碇君に。
 
 このままにしておくことは、できない……。
 
 そっと頭を上げると、シンジはベランダで、こちらに背を向けて夜空を見上げていた。
 
 静かに布団から這い出すと、台所へ行き、コップにオレンジジュースを注ぐ。
 
 そして……高鳴る心臓を抑えながら、シンジの許へと歩いていったのだ。
 
 
 
 シンジは、レイの顔を見ていた。
 
 レイは、前を見ている。
 
 月明かりだけが、二人を照らしている……。
 
 
 
 「……僕は」
 
 シンジが、口を開いた。
 
 レイの肩が、ビクッ、と震えた。
 
 
 
 「……綾波が、好きだよ」
 
 
 
 レイは、目を見開いたまま……シンジの顔を見つめていた。
 
 シンジは、照れ臭そうに、鼻の頭を掻く。
 
 「……碇、君……」
 
 「……僕は、綾波が、好きだ。それが、一番大事だと、思ってる……」
 
 「………」
 
 「綾波……なんで、あんなこと聞いたの?」
 
 シンジの言葉を正確に理解できずに、ただ頭の中で反芻しているところへ、逆にシンジから質問を投げかけられた。
 
 そのため、虚を突かれたように……思わず、そのまま考えていたことを、口にした。
 
 「……私の胸が小さいから……碇君に嫌われる、と……思って……」
 
 
 
 シンジは、ちょっとだけ頬を赤くした。
 
 あまり、シンジの得意とする分野の話題ではない。
 
 だが、レイは真剣だ……それは、さっきの震える手を見て、わかっていた。
 
 
 
 だから、言葉を選んで……レイの不安を払拭するよう、半ば必死に言葉を繋いだ。
 
 「……その……僕は、胸の大きさなんて、気にしないよ」
 
 「……ウソ」
 
 「……ええと……その、つまりね、綾波のことが好きなのは、胸のせいじゃないんだから……それが原因で、嫌うことなんて無いんだ」
 
 「……胸の大きいのと小さいのと、どっちが好き?」
 
 「う……ええと……別にどっちと言われても……」
 
 逆に問い詰められるような形になり、汗をかくシンジ。
 
 実際のところ、シンジに「胸の好み」など、ない。
 
 ない、というか……非常に語弊があるが、胸ならなんでも好き、なのである。
 
 まだ、ろくに胸を見たことも触ったこともない男子中学生ならば、こういうスタンスは、決して珍しくはないだろう。
 
 ……実際には、シンジは、既に前回の人生でレイとアスカの裸を見て、レイの胸には触っているし、今回もレイの裸を見ている。
 
 あまつさえ、レイの胸の感触は(レイの一方的な圧力により)幾度か経験していたりして、平均的な男子中学生よりは、経験が豊富かも知れないが……。
 
 どちらにせよ、シンジには「胸の大きさ」に対する好みなど無かった。
 
 
 
 「……その……胸の大きさは、別に……どっちでも」
 
 「……そうなの?」
 
 「……そう、だよ」
 
 レイは、まだ怪訝そうな表情で、シンジの顔を見ている。
 
 
 
 「綾波……その……僕の言ったこと、分かってる?」
 
 
 
 「……なにが?」
 
 
 
 「……その……僕は、綾波のことが好きだって……言ったんだよ」
 
 
 
 しばしの、空白の時を挟んで……
 
 ようやく、レイの頭の中で、回路が正常に連結された。
 
 
 
 綾波のことが、好きだって言ったんだよ……
 
 綾波のことが、好きだって言ったんだよ……
 
 綾波のことが、好きだって言ったんだよ……
 
 
 
 綾波のことが、好きだって言ったんだよ……
 
 
 
 レイの顔は、みるみる紅潮していった。
 
 「あっ……え、あ……」
 
 意味不明の言葉を呟き、レイは、ばっと顔を伏せてしまう。
 
 
 
 シンジは、ようやくと落ち着いたように微笑んだ。
 
 「ああ、よかった……なんだか、さらりと流されたような気がして……逆に、ドキドキしちゃったよ」
 
 「あの……ご、ごめんなさい」
 
 「いや、いきなりでごめん」
 
 シンジは、優しく言葉を紡ぐ。
 
 
 
 レイは、顔を赤くして、目を伏せたまま……それでも、小さな声を出した。
 
 「……私も……碇君が、好き……」
 
 
 
 「……うん」
 
 シンジは、レイの体を、そっと抱き寄せた。
 
 レイは一瞬驚いたが、そのまま力を抜いて、シンジの胸に体を預ける。
 
 
 
 「碇君が……好き……」
 
 
 
 レイは、シンジの腕の中で……もう一度、呟いた。
 
 
 
 言葉にすることで……輪郭を得る想い。
 
 そういうものが、この世にあるとするならば……
 
 今、二人の交わした言葉が、まさにそれだった。
 
 
 
 今まで……ずっと、好きだった。
 
 そして……相手も、自分を好きでいてくれたら、と思っていた。
 
 
 
 それが、現実になる。
 
 夢が、幻ではなく……手を伸ばせば触れることの出来る存在として、ここに、ある。
 
 そう……
 
 抱きしめている、レイのぬくもり。
 
 抱きしめている、シンジのぬくもり。
 
 それを感じている、心のぬくもり……。
 
 
 
 さびしさは、なくならない。
 
 恋しくなれば、不安になる。
 
 愛しくなれば、苦しくなる。
 
 それは……決して、分かつことの出来ない感情だから。
 
 
 
 でも、それが、嬉しい……。
 
 
 
 レイは、シンジを見上げた。
 
 シンジも、レイを見下ろす。
 
 二人は、かすかに微笑んで……
 
 目を閉じて、唇を重ねた。
 
 
 
 二度目の、キス。
 
 
 
 初めてのキスは、ただ、ふわふわとした柔らかさと、何とも言えない恥ずかしさがあっただけだった。
 
 二度目のキスは、体中が、相手のぬくもりに包まれていった。
 
 
 
 唇を離して、もう一度、相手の目を見る。
 
 今度は、目を逸らさなくても、大丈夫だった。
 
 レイは、もう一度微笑んだ。
 
 ……嬉しかったから。
 
 ……とても、嬉しかったから……。
 
 
 
 コツン、と、額と額をくっつけて、二人は笑った。
 
 「……風が出てきたね……戻ろうか」
 
 「……うん」
 
 シンジは、レイの体を放すと、レイの手を軽く握って……並んで、部屋に戻った。
 
 そして、一緒に、布団に潜る。
 
 布団の中でも、手は、握りあったまま……。
 
 「……おやすみ、綾波」
 
 「……おやすみなさい、碇君」
 
 
 
 レイは、この6日間で、初めて……
 
 心から、ぐっすりと、眠ることが出来たのだった。
 


九十五



 二人が寝静まったのを感じたころ……アスカは、ゆっくりと、瞼を開いた。
 
 ふぅ……と、溜め息をつく。
 
 
 
 今まで、恋愛に興味をもったことなんて、なかった。
 
 加持さんのことも……憧れてただけだと、自分で分かってる。
 
 
 
 男なんて、馬鹿なだけだし……
 
 アタシには、必要ないわ。
 
 
 
 でも……
 
 
 
 上半身を起こすと、レイの寝顔が見える。
 
 幸せそうな……あどけない、横顔。
 
 
 
 こんなふうに……相手を感じられるのを、羨ましいと思わないわけじゃない。
 
 確かに、今、アタシには、こういう相手は必要ない。
 
 全部、自分でやれるし……何も、足りないとは思わない。
 
 でも……こういう相手がいる生活も、きっと、悪くない、と思う。
 
 
 
 ……いつか、アタシにも、こういう人が現れるときが、来るのかなぁ?
 
 溜め息をつきながら、アスカはもう一度、布団の中に潜り込んだ。
 
 いないならいないでもいいけどさ……
 
 横を向くと、ベランダから、月が見える。
 
 大きな、月……。
 
 
 
 その人も、この月を、どこかで見てるのかなぁ……?
 
 
 
 そんな、取り留めもないことを考えながら……
 
 アスカは、眠りに落ちていった。



九十六
 
 
 
 ミサトは、襖の向こうで、歯ぎしりをしていた。
 
 
 
 も〜うッ!
 
 シンちゃん!
 
 せっかく、知恵を授けてあげたって言うのに……
 
 そのまま寝ちゃってどうすんのよ!
 
 
 
 何をやってるんでしょう、このヒトは……。



九十七



 翌日の決戦は、完勝と言ってよかった。
 
 シンジとアスカのユニゾンは、完璧だった。
 
 前回、うまくいかなかった着地も、完璧に決めたのだ。
 
 シンジは、ホッと胸をなで下ろし、アスカも御満悦だった。
 
 
 
 レイは、やはりどうしても……シンジとアスカのユニゾンに、チクリとしたものを覚えざるを得なかった。
 
 だが……
 
 同時に、安定した感情も、自覚していた。
 
 
 
 つい数日前までの、どうしようもない感情とは、違う。
 
 
 
 こうして、シンジはエヴァに乗ってアスカと共に闘い……レイは、管制塔でモニタごしに見ている。
 
 それでも……
 
 
 
 心が、結ばれているのを、感じていた。
 
 
 
 レイは、そっと目を閉じた。
 
 胸の奥にある、小さな……でも、温かいもの。
 
 ……これが、絆……なのかも知れない。
 
 レイは、そう思った。