第二十六話 「夜」
八十一



 レイの「一緒に住みます」発言は、幾つかの問題を孕んでいた。
 
 
 
 まず、理由がない。
 
 シンジとアスカが同居することは、二人の生活体系・体内時計をそろえ、ユニゾン訓練をより有効に進めるためであり、必然と言っても良い。
 
 それに対し、レイは今回の訓練に参加するわけでは、ない。
 
 なぜなら、零号機は損害が大きく、来たる6日後の再戦には間に合わないからだ。
 
 訓練の必要のないレイが一緒に生活することはあまり意味がなく、ことによると、訓練の進行に対して障害になる可能性すらあった。
 
 
 
 もう一つの理由。
 
 部屋がない。
 
 すでにミサト・シンジの住むこの家には、人の住める部屋はあと一部屋しかない。以前、一晩だけレイが泊まった部屋だ。
 
 その部屋には、当然ながら、訓練の参加者・アスカが住むことになるだろう。
 
 では、レイはどこに住めばいいのか?
 
 
 
 レイの発言を聞いた三者も、それぞれの思惑に揺れていた。
 
 
 
 ミサトには、レイの気持ちが理解できた。
 
 愛するシンジと、アスカが一緒に暮らすという事実。
 
 とても耐えられない……そうレイが感じていることはわかる。
 
 
 
 シンジは、困っていた。
 
 レイが一緒に住みたがる理由は、さすがのシンジにも予想できる。
 
 しかし、さきほどの二つの問題……同居の理由がないことと住居の問題も、すぐに頭に浮かんだのだ。
 
 これらの問題を無視することは出来ない。
 
 どうすればよいのだろう?
 
 
 
 アスカは、呆然としていた。
 
 自分がオーバー・ザ・レインボウで口にしたセリフなど、すでに記憶の彼方に飛び去っている。
 
 また、アスカにとってシンジという存在は色恋の範疇から大きく外れているので、レイが嫉妬心を抱く、という発想が最初からなかった。
 
 そして、さきほどの二つの問題。これが、アスカもすぐに頭に浮かぶ。
 
 レイがそれに気付いていないとも思えない。
 
 それでありながら、確固たる決意を滲ませながらのレイの同居発言……これは、いったい?
 
 
 
 レイは、決めていた。
 
 何があっても、シンジの側にいることを。
 
 それは、おいそれとは揺るがしがたい決意だった。



八十二



 「綾波……それは……」
 
 シンジが言いかけたとき、その言葉の上にミサトの言葉が被った。
 
 「いいわよん」
 
 「「え!」」
 
 あっさりと降りたミサトのOKに、驚いた声を上げたのは、シンジとアスカだ。
 
 レイは、ぱぁっと嬉しそうな表情になっている。
 
 「ちょっと、ミサト! ファーストは訓練に関係ないでしょ!? なんで一緒に住む必要があるのよ!」
 
 アスカが怒りの声をあげる。
 
 突然の事態に、「ユニゾン訓練そのものに対する不満」は、どこかに消し飛んでしまっているようだ。
 
 「あら、いいじゃない。チルドレン同士の親交を深めるのも大事よォ」
 
 「そんなモン、深めなくたっていいわよ!」
 
 「ま、ま、いいからいいから」
 
 ヘラヘラと両手を上げながらアスカを制すと、そのままシンジを軽く手招きする。
 
 「は? 僕? なんですか?」
 
 「ま、ま、いいからいいから」
 
 言いながら、シンジの首根っこを掴むようにして、ずるずると自分の部屋に連れ込んでいく。引っ張られながらのシンジの「いてててて」という声は、やがて閉じられた襖の向こう側に消えた。
 
 
 
 そして、その場にはレイとアスカが残された。
 
 
 
 アスカは、呆気にとられたように、二人の消えた襖を眺めている。
 
 何が起こったのか? わけがわからない。
 
 そして、何秒か経つと、今度はふつふつと怒りが沸き上がる。
 
 
 
 ……何だって言うのよ……
 
 ファーストがなんで訓練に参加するの!?
 
 まさか……
 
 いざと言うときの、交代要員!?
 
 ……ジョーダンじゃないわ!
 
 あ〜〜〜〜!
 
 イライラするッ!!
 
 
 
 アスカが横を見ると、レイは心配そうな瞳でミサトの部屋の方を見ていた。
 
 「ちょっと、ファースト!」
 
 ギン、とレイを睨み付け、アスカは低い声で言い放った。
 
 レイが、アスカの方を見る。
 
 「いい、調子に乗るんじゃないわよ! ユニゾン訓練は、私がやるわ! 使徒は、私が倒すわよ!」
 
 言いながら、眉根を寄せてレイの瞳を視線で射抜く。
 
 言われたレイは、きょとんとした顔でアスカを見て、やがて口を開いた。
 
 「……零号機は、動かない。あなたが出撃するのは当然だわ」
 
 今度は、アスカがきょとんとした顔でレイを見る。
 
 「は? ……アンタ、訓練に参加したくて、一緒に住むって言ってるんじゃないの?」
 
 「私は……碇君と、……一緒に、いたいだけ……」
 
 レイが、頬を少しだけ染めて、俯きながら呟いた。
 
 
 
 その姿と答えは、アスカに別の怒りを呼び起こした。
 
 
 
 そんな理由で……!
 
 
 
 「アンタねぇ!」
 
 語気荒く、アスカは言う。
 
 「今までは、別に一緒に住んでたわけじゃないんでしょ!? それで、アンタは不満がなかったんじゃないの!? 私は、訓練なの! 大事なのよ! アンタとは違う!」
 
 一息、つく。
 
 レイを、睨んだまま……。
 
 「……アンタ、そんなに一緒に住みたきゃ、訓練が終わってから勝手に同棲でもなんでもしなさいよ! 訓練のジャマはしないで!」
 
 
 
 アスカ自身、なにがそんなに自分を苛立たせているのか、わからなかった。
 
 この訓練が、そんなにやりたいことなのか?
 
 ……違う。
 
 だが、使徒に勝つこと、エヴァを操縦することが第一ではないこの女に、邪魔して欲しくない。
 
 ……アスカにとって、使徒に勝つことは絶対の境界線なのである。それを阻むものは、レイも、シンジも、他の誰でも許すことは出来ない。
 
 
 
 ……にもかかわらず、レイは、訓練のことなど眼中に無いという。
 
 エヴァの操縦で認められること。
 
 それよりも、大事なことなんて、ない!
 
 
 
 レイは、アスカの顔を見つめていた。
 
 アスカも、レイの顔を睨み付けている。
 
 ややあって、レイが口を開いた。
 
 
 
 「……今までと、違うわ。
 
 あなたが、いるもの……」
 
 
 
 アスカの理解の範疇をこえた回答だった。
 
 レイの言葉の意図を全く掴めぬまま、二人はずっと対峙していた。
 
 
 
 ミサトの部屋に連れ込まれたシンジに、話の焦点を戻そう。
 
 シンジの首根っこを掴んだまま自分の部屋に連れ込んだミサトは、襖を閉めるなり、シンジと向かいあった。
 
 「シンちゃん、レイの気持ちを理解しないと、駄目よ」
 
 いきなりそう言われて、シンジは目をしばしばさせている。
 
 「……と、言われても……」
 
 「レイの不安な気持ち、わかるでしょ?」
 
 シンジとアスカが一緒に住むことに対する不安。
 
 それは、シンジにもわかる。
 
 
 
 だが……
 
 「……訓練、どうするんです?」
 
 「レイがいたらできない?」
 
 「そんなことはないですけど……」
 
 
 
 自分は、すでにこの訓練を成功させている。
 
 レイが同居することに、不安はない。
 
 むしろ問題はアスカだ、とシンジは思う。
 
 アスカは、訓練を邪魔されることを、嫌うだろう。
 
 「アスカがなんて言うかと思って」
 
 「さっきも言ったでしょ? チルドレン同士の親交を図る! ちゃんと、命令としてくだせば文句はないはずよ」
 
 「……強引だなぁ」
 
 「ナニ?」
 
 「いえ……」
 
 そして、もうひとつの懸念。
 
 「じゃあ、それはいいとして……綾波、どこで寝るんですか? もう、うちに部屋の空きなんてないですよ」
 
 「シンちゃんと一緒に寝れば?」
 
 「………」
 
 「じょ、じょ〜だんよじょ〜だん、そんな顔しないでって」
 
 「……どうするんです?」
 
 「じゃあさ……いっそ、三人で、リビングで雑魚寝すれば? それくらいの広さ、余裕であるでしょ」
 
 「う〜ん……そうか……」
 
 「なんなら、訓練の期間中は、私は本部で寝泊まりしたっていいわよん。どうせ、6日間だけだしね」
 
 「い、いや、いてくださいよミサトさん」
 
 「?? なんで?」
 
 「いや、その……」
 
 アスカとレイは火花を飛ばしているし、自分とアスカも仲がいいとは言えまい。
 
 この状態で放っておかれたくない……。
 
 ミサトさんがいると、対立関係がなんだかうやむやになる気がする……。
 
 
 
 「……いずれにしても……いま、レイと離れない方がいいわよ」
 
 一呼吸あけて、 ミサトが言う。
 
 「は?」
 
 「レイが怒ってる理由、わかった?」
 
 「……いや、怒ってるわけじゃないみたいですけど……理由はわかりません」
 
 「こんな状態で、離れていていいの?」
 
 「離れて、と言っても、隣同士だし……」
 
 「アマいアマい。アスカがいるでしょ? いつもならいいけど、シンちゃんのすぐ隣にアスカがいる状態じゃ、何倍も距離を感じるものよ」
 
 「………」
 
 「いい? 離しちゃダメよ、レイのこと。わかるわね?」
 
 「……はい」



八十三



 部屋から戻ったミサトの口から、命令として同居を指定されたため……アスカも、しぶしぶとそれに承諾した。
 
 「じゃあ、夕食にしましょうか」
 
 「なによ……訓練、するんじゃないの?」
 
 「訓練は明日から。今日はいいでしょ? さっきも言ったけど、この訓練は、生活体系をそろえる目的もあるんだからね」
 
 「はい、はい……」
 
 
 
 いつものようにエプロンに袖を通すシンジ。
 
 「アスカは、食べられないものないよね」
 
 「なに……シンジ、アンタが作るの?」
 
 嫌そうな表情を見せるアスカ。
 
 「言ったろ? いつも僕が作ってるんだよ」
 
 「食べられるもの作ってよね」
 
 「はは、まあ、努力するよ」
 
 笑いながら、シンジは台所に消えていく。
 
 
 
 三十分後、口に食べ物を頬張ったまま、驚愕の表情で固まるアスカがいた。
 
 
 
 洗い物をしているシンジ。
 
 レイは、隣で食器を拭いている。
 
 「はい、綾波」
 
 「はい」
 
 軽く水を切った食器を、順次レイに手渡していく。
 
 役割が交代することもあるが、こうして二人で洗い物をすることは、最近では習慣になりつつある。
 
 二人は、手際よく食器を片付けていく……。
 
 
 
 シンジは片付けをしながら、全く別のことを考えていた。
 
 
 
 綾波が同居するっていう問題で、出だしからズイブンとがちゃがちゃしちゃったな。
 
 でも……
 
 おかげで、いつの間にか……アスカの、ユニゾン訓練に対する不満は、どっかへいっちゃったみたいだな。
 
 
 
 アスカは僕のことを嫌ってるはずだ。
 
 だから、一緒の訓練、しかもユニゾンなんて、絶対に反対するだろうと思ってた。
 
 でも、そこはうまいこと、うやむやになったな。
 
 ……もっとも、アスカもそこまでわからずやじゃないだろうから、他に方法が無いとなれば、結局承諾するだろうとは思ってたけど。
 
 ……綾波の同居も、認めてくれたし。
 
 
 
 あとは、明日からの訓練だな……。
 
 
 
 うまくいかなければ、人類が滅亡するだけだ。
 
 どうやっても僕一人じゃ倒せないし……訓練の成功は、なんとしても必要なんだ。
 
 
 
 それから……綾波。
 
 急に、同居を言いだすなんて……
 
 予想してなかったから、かなりびっくりしたよ……。
 
 
 
 前回は、そんなことなかった。
 
 僕に、その……え〜、好意……を寄せてくれてる証拠なんだろうな。
 
 ………
 
 うう……なんか、こう……
 
 ………
 
 照れるなぁ〜〜……
 
 
 
 しかし、今までは、一緒に暮らしたかったかもしれないのに、それについて、あんまり強くは言ってこなかった。
 
 それが、急に、しかも訓練に割り込むように言いだすっていうのは……
 
 ……やっぱり、アスカに嫉妬してるのかなぁ?
 
 もし、嫉妬の感情を覚えたんなら……
 
 確実に、綾波は成長している……。
 
 前回、「嫉妬」なんて感情は、欠片だって彼女の中に認められなかった。
 
 それが……
 
 
 
 そうさ……
 
 今までは、知らなかっただけだ。
 
 これから、どんどん……普通の、女の子になっていくんだ。
 
 
 
八十四



 その晩、さんざんのやり取りの末、結局シンジ・アスカは自分の部屋で、レイはミサトの部屋で眠ることで落ち着いた。
 
 
 
 当初、ミサトは「三人でリビングで雑魚寝」を提案したのだが、こればかりはアスカが強硬に反対した。
 
 なにせ、彼女にとってはシンジもレイも気に入らない存在だ。隣り合って眠ることは、どうにも気にくわなかったのだ。
 
 アスカがいないのに、シンジとレイだけで仲良く眠ることは出来ない。と言うより、二人だけで寝るのは緊張の度合いが高すぎて、結果的にシンジも自分の部屋で寝ることにしたのだ。
 
 ……そうなると、広いリビングに、レイだけ一人で寝かせるのも忍び無く、ミサトがレイを誘った、と言う形である。
 
 
 
 シンジは、S-DATを聞きながら、明日からの訓練のことを考えていた。
 
 どうなるか、やってみなければ分からない。
 
 ……アスカと心を通わせることが、本当にできるのだろうか?
 
 
 
 アスカは、すでに眠りに落ちている。
 
 早寝早起き。
 
 
 
 パジャマに着替えたレイは、ミサトに誘われるまま、ベッドの中に入った。
 
 シングルベッドなので、ミサトと二人だと、かなり狭い。
 
 「ゴメンね〜、床に布団敷いてもいいんだけど、アスカが来て余りの布団が無いのよ」
 
 「いえ……平気です」
 
 レイが床に落ちないようにと、レイを壁際に、自分を部屋側にするミサト。
 
 とは言え、寝相が悪いのはミサトの方で、レイは絶対に落ちたりはしないであろうが。
 
 
 
 レイは、布団の中で……目を開いたまま、じっと何かを考え込んでいた。
 
 薄暗がりの中で、ミサトはレイの顔を見る。
 
 何か……思い詰めているようにも、見える。
 
 そう思い、ミサトは声をかけた。
 
 「……レイ、何か、考え事?」
 
 「……………………いえ……」
 
 「アスカとシンちゃんのことなら、心配いらないわよ。アスカはシンちゃんのコト、あまり好きじゃないみたいだし……シンちゃんは、レイのことしか見てないからね〜」
 
 言いながらミサトは、レイが照れて赤くなる姿を想像していた。
 
 
 
 だが、レイの表情は、晴れない。
 
 「……違うの? その話じゃない?」
 
 「………」
 
 レイは、答えない。
 
 「どうかしたの? ……シンちゃんが、何かした?」
 
 バッ! と、レイがミサトの顔を見た。
 
 「碇君は……何も悪くありません」
 
 「あ、そ、そう? ……でも、じゃあ、いったい……」
 
 レイは、再び目を伏せた。
 
 
 
 ミサトは、かなり長身の部類に入るだろう。
 
 比べて、レイは中学生女子の平均的な身長に過ぎない。
 
 そのため、並んで布団に潜ると……ミサトの胸のあたりに、レイが蹲るような形になる。
 
 
 
 しばらくの沈黙のあと……
 
 レイが、口を開いた。
 
 
 
 「……葛城一尉……」
 
 「ん?」
 
 「……葛城一尉……胸、大きい」
 
 「ん? ま、まぁね〜」
 
 「……胸を大きくするには……どうしたらいいんですか?」
 
 「ブゥッ!!」
 
 
 
 突然のレイの言葉は、ミサトの予想を大幅に超えていた。
 
 思わず吹き出したミサトを、キョトンとした顔でレイが見ている。
 
 「あッ、ゴ、ゴミン、つばかけちゃった」
 
 「……? どうかしましたか?」
 
 「どうかって、あんた……なんで、そんなこと気にするわけ?」
 
 「………」
 
 目を伏せるレイ。
 
 そして。
 
 「……胸が小さいと……碇君に……嫌われる」
 
 「ブゥッ!! あ、ゴメンゴメン、つばかけちゃった」
 
 慌ててレイの顔をティッシュで拭くミサト。
 
 「それ、ナニ……シンちゃんが、そう言ったの?」
 
 レイは力なくかぶりを振る。
 
 「……弐号機パイロットが……」
 
 ああ……と、ミサトは思う。
 
 アスカかぁ……あのコも、プロポーションいいしねぇ。
 
 どうしてそんな話になったのか、よくわかんないけど……。
 
 
 
 「……あのね、レイ」
 
 落ち着いたミサトの声に、レイは顔を上げる。
 
 「………」
 
 「レイ……そりゃぁね、胸が大きいのが好き、ていう男の子もたくさんいると思うわ」
 
 ピク、とレイの体が強張る。
 
 それを感じて、ミサトは、少し微笑んだ。
 
 「でもね……好きな女の子なら、そんなの関係ないのよ」
 
 「……好き?」
 
 「そうよ、レイ。胸が大きい女の子が好きなんじゃないの。好きな女の子の胸なら、なんでもいいのよ」
 
 なんだか、語弊があるかしら……と、思わなくもないミサト。
 
 「………」
 
 「シンちゃんに、聞いてみた?」
 
 「! ……そんなこと……できません」
 
 「なんで?」
 
 「………」
 
 「……フフ」
 
 ミサトは、レイの体を、ゆっくりと抱きしめた。
 
 驚いたように、ミサトを見るレイ。
 
 「葛城一尉……」
 
 「大丈夫よ……レイ。シンちゃんは、レイのこと、嫌いになったりしないわ」
 
 「……そう……でしょうか……」
 
 「そうよ。不安なら、本人に聞いてみなさい」
 
 「………」
 
 「大体ね、大きい胸が好きって人ばかりじゃないのよ」
 
 「え?」
 
 「小さいのが好きって人もいるのよ。結構ね」
 
 「……そうなんですか」
 
 「そう。ホラ、やっぱり聞いてみないとわかんないでしょ?」
 
 しばしの、沈黙。
 
 ミサトが、レイを抱きしめたまま……。
 
 そして……やがて、レイが口を開く。
 
 「……わかりました……聞いて、みます……」
 
 「ん!」
 
 ミサトが、満足そうに微笑んだ。
 
 
 
 「ついでといっちゃなんだけど、もう一つ、助言してあげよっか?」
 
 「え?」
 
 ミサトの言葉に、レイは顔を上げる。
 
 ミサトは、いたずらっぽく微笑んだ。
 
 「あなたの上司はね……名字で呼ばれるより、名前で呼ばれるのが好きなのよ」
 
 レイは、キョトンとしてミサトの顔を見ている。
 
 ミサトは、もう一度、微笑む。
 
 「さあ、どうするの?」
 
 「………」
 
 「ん?」
 
 「…………………………ミサト……さん」
 
 「ん!」
 
 ミサトは、また強くレイを抱きしめた。
 
 「く……苦しいです………………ミサト、さん」
 
 「あ、ゴメンゴメン」
 
 言いながら、あわててレイを離す。レイも、ぷはっと小さく息をついた。
 
 「フフッ」
 
 今度は、柔らかくレイを抱きしめる。
 
 
 
 ミサトは、温かさを感じていた。
 
 ずっと……
 
 誰にも、心を開かない少女だと、思っていた。
 
 それが……
 
 
 
 この数週間で、なんという変化だろう。
 
 それは、碇シンジという少年の登場によるもの。
 
 いままで、何も受け入れなかった……固い壁に覆われた彼女の心の内側に、突然、颯爽と現れた少年。
 
 ミサトは、シンジに、大いなる敬意を評していた。
 
 
 
 そして、三人のチルドレンに、思いを馳せる。
 
 
 
 レイに、幸せになって欲しかった。
 
 十四年近く生きてきて……彼女の生い立ちや素性など何も知らないが、幸せであったとは想像できない。
 
 ずっと……何も知らずに育ってきた、少女。
 
 それが、今、はっきりと、幸せを掴もうとしている。
 
 必死に、手探りで……大事なものを手に入れるために……そして、手放さないために、頑張ろうとしている。
 
 彼女を、助けてあげたかった。
 
 
 
 アスカに、幸せになって欲しかった。
 
 アスカの生い立ちは、報告を読んで知っている。
 
 中学生の少女には……あまりにも過酷な、運命。
 
 アスカは、それに吹き飛ばされないように、自分の両足で立つことを選んだ。
 
 何にも頼らず……自分の両足で、大地を踏み締めて歩いているのだ。
 
 ……そして、それが危うい。
 
 ミサトは、その風を遮ってやりたかった。あるいは、代わりに抱きかかえて、自分の足で支えてやりたかった。
 
 それが、無理なのは分かっている。だが、甘えて欲しい。頼って欲しい。
 
 彼女の運命が、自分のそれに重なって見えるから……彼女を、助けてあげたかった。
 
 
 
 そしてシンジに、幸せになって欲しかった。
 
 碇シンジ。彼の生い立ちは、いくつかの数奇な事件はあるものの、基本的には平凡なものだった。
 
 それが……
 
 シンジを見ていると、子供のようなときと、大人のようなときと……それが混在することがよくある。
 
 彼は、一体何を経験して、ああなったのだろう?
 
 それがなんだか分からないが……一人で抱え込むには大きすぎる何かを、背負っているように見える。
 
 誰の力も借りずに。
 
 それが、みなを守るためだから。
 
 ……そんな感じがする。
 
 自分一人で抱え込んで、それが幸せだろうか?
 
 そうは思えなかった。彼の幸せは、常に危うい糸の上に、やじろべえのように揺れている。
 
 彼を、助けてあげたかった。
 
 
 
 三人の、中学生。
 
 普通なら、青春を謳歌することを許される年齢の、少年と少女。
 
 
 
 彼らの手に委ねられた運命は、余りにも重く……
 
 彼らは、それに不満も漏らさない。
 
 
 
 なじってもらうほうが、まだ気が楽かも知れない。
 
 責めてくれたほうが、罪の意識も軽いかも知れない。
 
 だが、彼らは何も言わない。
 
 
 
 彼らを、そうして闘いの場に送り出しているのは……他ならぬ、自分たちだ。
 
 彼らがやらなければ、人類は滅びる。
 
 だが、それは、彼らが選んだ運命ではなく……否応なく、他に選択肢の無いくじを引かされたに過ぎない。
 
 他の道を、許されなかったのだ。
 
 
 
 彼らを助けてあげたかった。
 
 
 
 人は、誰でも幸せになる権利があり、それは平等だと思う。
 
 だが、あえて言わせてもらうならば……
 
 今、もっとも幸せになる権利があるのは、彼らなのだ。
 
 人類全員の幸せのために、自分の幸せを放棄せざるを得なかった少年達。
 
 私たち全ての人間の幸せは……彼らの幸せを踏みつぶして、立っている。
 
 
 
 それを、忘れてはいけない。
 
 
 
 絶対に……。
 
 
 
 ミサトは、もう一度レイを抱きしめた。
 
 「レイ……」
 
 「……はい」
 
 「……幸せに、なりなさい」
 
 
 
 なんて、傲慢な言葉だろう。
 
 幸せを、奪っておきながら……。
 
 
 
 だが、レイは、小さな言葉で呟いた。
 
 ミサトの耳に、届くかどうか……その程度の、声で。
 
 
 
 「……はい……」
 
 
 
 ミサトは、自分の中から、滝の奔流が溢れる予感を覚えた。
 
 慌てて、顔を逸らすと、明るく声を上げた。
 
 「ホラ、レイ! 明日も早いんだし、いつまでも夜更かししてると起きられないわよ!」
 
 「? ……はい」
 
 僅かに、声が上ずった。
 
 僅かに、語尾が震えた。
 
 
 
 駄目だ。
 
 
 
 「あたし、トイレ行ってくるから! 早く寝なさいよ、レイ!」
 
 ばっ、とミサトが布団から飛び出す。
 
 残されたレイは、キョトンとした顔で、ミサトの出ていった襖を見つめていた。
 
 
 
 十分ほど過ぎ、僅かに目を赤くしたミサトが戻ると、レイは既に眠っていた。
 
 あどけない、寝顔……。
 
 ミサトは、レイの頬にかかった髪の毛を優しく撫で付けると、再びベッドに潜り込み……起こさないように注意して、もう一度レイを抱きしめた。
 
 
 
 レイ……
 
 アスカ……
 
 シンちゃん……。
 
 
 
 アンタたちは、幸せになるのよ。
 
 
 
 ならなきゃ、駄目なんだからね……。
 
 
 
 そしてその晩、レイはいびきをかくミサトに三度もベッドから蹴り落とされたのであった。
 
 もっとも、今までのレイなら、蹴り落とされたら床で寝るか、他の部屋に移動するかしただろう。
 
 だが、レイは、三度ともベッドに戻った。
 
 そのため、朝、目を覚ましたミサトは、自分の腕の中で眠るレイを見て、優しく微笑むことが出来たのだった。