第二十四話 「日曜」
七十二
 
 
 
 日曜日。
 
 今日の葛城家は、朝から忙しかった。
 
 「レイ、この服なんか、どう?」
 
 「……よく、わかりません」
 
 「うう〜ん……じゃあ、こっちは?」
 
 「……よく、わかりません」
 
 「うう〜ん……」
 
 
 
 今日は、かねてからの約束通り、シンジとレイのデートなのである。
 
 
 
 レイにとって、この一週間、ずっと心待ちにしていた日。
 
 しかし、何を着ていったらいいか、自分では決められない。
 
 そこで、ミサトの出番となったのである。
 
 
 
 レイの持っている洋服はさにあらず、ミサトの持ち物までも総動員しての着替え大作戦。
 
 ……その間、シンジは家の外に追い出されていた。
 
 
 
 「……けっこう、時間かかるなぁ」
 
 扉の前の踊り場で塀によりかかりながら、ボ〜ッとシンジは、お呼びがかかるのを待っていた。
 
 かく言うシンジは、デニムのシャツにジーンズといういでたち。
 
 いつもの私服と、全然変わらない。
 
 「だいたい、おしゃれしても変わらないからな、僕は……」
 
 もう少し服装の映える顔立ちならば、ファッションにも気を使うだろう。でも、似合わないんだから、やるだけ無駄……というのが、日頃のシンジの持論だ。
 
 いや、持論と言うほど、確たる主張ではない。
 
 ようするに、ただ、何となくなのだ。
 
 ……だが、それは……実際には、おしゃれを一度もしたことがないから出て来る言葉なのだ。あるいは、シンジ自身に大したセンスがなく、力を入れても大したファッションを選び出せないからと言うべきか。
 
 選ぶ者がきちんと選べば、おそらくシンジは、格段に見栄えのいい恰好になるだろう。
 
 それは、シンジに限ったことではなく、誰でもそうなのだ。
 
 しかも、シンジは、自分以外の誰もが認める美男子なのだから……。
 
 
 
 (まぁ……僕はともかくとして……綾波は、きっとおしゃれをすると、すごく似合うだろうな……かわいいんだし……)
 
 だから、それは、シンジも同じなのだが……
 
 ………
 
 まあ、いいか……。
 
 
 
 (そう言えば……)
 
 シンジは、ふと思う。
 
 (アスカって、今、どこに住んでるのかな?)
 
 考えてみれば、前回も……最初のうちは、同居していなかった。
 
 同居が始まったのは、ユニゾンの訓練が始まってからだ、と記憶している。
 
 (それまでは、どこに住んでいたのかな?)
 
 ……NERVかな。やっぱり。
 
 おそらく、そうだろう。
 
 エヴァンゲリオンのパイロット。
 
 求めれば、NERVの本部内に住居を構えることができるはずだ。
 
 ……事実、ミサトが引き取ると言い出さなければ、シンジはNERV内で暮らすことになったはずだった。
 
 (つまり、今……アスカは、NERVで暮らしてるわけだ)
 
 どっちがいいのかな? と思うと、簡単には答えが出ない。
 
 アスカは、レイとは違う。
 
 ある意味、いろんな意味で支えの欠けた少女だが……同時に、自立したひとりの人間でもある。
 
 案外、NERVで暮らしているほうが、彼女には合っているかも知れない。
 
 (どっちにしろ、今は、どうしようもないよな……
 
 ユニゾン訓練が始まれば、状況はまた違うし。
 
 でも……
 
 そう言えば、前回は僕がオーバー・ザ・レインボウまで行ったのに、今回は綾波が行ったよな。
 
 なんだか、少しずつ、いろんなことが変化してきている、と思うけど……
 
 じゃあ、もしユニゾン訓練が、綾波とアスカでやることになったら?
 
 ………
 
 う〜ん……
 
 ………
 
 ……うまくいきそうな気がしないな……)
 
 だが、それはシンジと組むことになっても、同じだ。
 
 アスカとの仲は、以前よりも悪い。
 
 
 
 (ま、なるようになるか……)
 
 
 
 諦めたように、シンジはひとつ、溜め息をついた。
 
 
 
 「おっまったっせぇ〜!」
 
 ミサトが、満面の笑みを浮かべて扉を開けた。
 
 「いいわよん、シンちゃん」
 
 「あ、じゃあ……」
 
 と、家の中に入ろうとするシンジを、ミサトが押しとどめる。
 
 「ま、ま、ま。シンちゃん、もう支度できてるんでしょ?」
 
 「え? あ、まぁ……」
 
 支度と言っても、財布と定期入れがあれば、他に用意するものはない。それらは、すでにズボンのポケットの中だ。
 
 「じゃ、そこで待ってなさい。レイ、連れてくるから、そのままデートに行きなさいよ」
 
 「はぁ……」
 
 言いながら、シンジはミサトの背中越しに、部屋の中を覗き見た。
 
 予想通り……
 
 (帰ってきたら、片付いてる……なんてことは、ないよな……)
 
 はぁ、と溜め息をついて、シンジはもう一度塀によりかかる。
 
 「……わかりました」
 
 この際、嫌なことは後回しにしよう……。
 
 
 
 しかし、そんな憂鬱な気分は、次に現れたレイの姿を見て、吹き飛んでしまった。
 
 お約束、と言われてしまってはそれまでだが……
 
 シンジは、レイの姿に、目を奪われていた。
 
 かわいいんだから、しょうがない。
 
 
 
 レイは、薄いグレーのスリップワンピースを着ていた。膝丈まであるそれは、身体のラインに柔らかくフィットしたプリーツ地で、露出した肩を隠すように、上から濃いめのブラウンのカーディガンを羽織っている。薄手の物だ。足許は白いパンプス。左足首には細い鎖のアンクレット。そして、かすかに見え隠れする耳には、薄い赤に輝く水晶玉が、小さな自己主張を行っていた。
 
 
 
 だが、劇的にかわいさを醸し出しているのは……
 
 レイ、本人だった。
 
 
 
 ミサトの指導の元、シンジによく見てもらいたいがための……必死の努力。
 
 その恥じらいと、シンジの反応に対する不安。
 
 それらが、レイの表情から溢れ出ている。
 
 ほんのりと染まった頬、伏し目がちに目を逸らしたまなざし、愁いを帯びて潤いを感じさせる瞳……。
 
 
 
 (かっ……かわいい……)
 
 
 
 「……あ……ありが、とう……」(ぽっ)
 
 「あっらぁ〜……やったわね、レイ!」
 
 「えっ?」
 
 
 
 レイとミサトの反応に、シンジは思わず、間抜けな返事を返してしまった。
 
 「よかったわね、レイ……シンちゃん、かわいい、ってさ」
 
 「……はい……」(ぽっ)
 
 
 
 どうやら、思ったことをそのまま口に出していたらしい……。
 
 それに気付き、シンジは赤くなって黙り込んでしまった。
 
 
 
 「はいはい。照れるのはい〜から、はやく行きなさいよ」
 
 ミサトが、半分苦笑、半分あきれ顔で、手の平をヒラヒラさせた。
 
 「は、はい……それじゃ、綾波……あっ」
 
 「?」
 
 「いけね……弁当、作ったんだよ」
 
 「お弁当?」
 
 レイが、シンジを見上げる。
 
 「あ〜、そう言えば、台所になんかあったわね……ちょっと待ってて、持ってくるからね」
 
 ミサトはそう言うと、家の中に消えた。
 
 
 
 1分後、弁当の入ったシンジのリュックをミサトから受け取り、二人は駅に向かって歩き出した。



七十三



 「……どこに、行くの?」
 
 電車に揺られながら、レイはシンジに尋ねた。
 
 普段、ジオフロントに行く方角とは別の……閑静な住宅街に向かって伸びる3両編成の電車に乗り、二人は並んで座っていた。
 
 同じ車両内には、2・3人の人が乗っているのみで、かなり空いている。
 
 レイは、シンジに寄り添うようにして座っていた。ガラガラの車内でそんな座り方をしているのだから、はたから見れば、どう見ても恋人同士以外の何ものでもない。
 
 シンジは、ごく最初だけ慌てたが、人目もないし……と、結局そのままにしていた。
 
 とは言え、触れ合う肩と肩、そこから伝わる体温が、シンジの気分を、何とも落ち着かないものにさせていた。
 
 ……対するレイは、もっと純粋に、その体温を感じていた。
 
 ぴったりとくっついたシンジの肩から、幸せが伝わって来るような気がする……。
 
 「あ、ああ……この路線の終点にさ、自然公園があるんだよ」
 
 「……自然公園?」
 
 「うん……遊園地とか、そういうのでもよかったんだけど。なんだか、ゆっくりしたくって」
 
 「……碇君が、そこがいいなら、私もそこでいい」
 
 「そ、そう? じゃあ、とりあえず、今日はそこに行こうよ」
 
 
 
 電車が到着する。
 
 終点のため、電車はしばらく停車する旨のアナウンスが流れる。
 
 シンジとレイは、ゆっくりと電車からホ−ムに降りた。
 
 
 
 公園は、駅を降りた正面の道を、100メ−トル程先に行ったところにあった。
 
 それは、駅を出てすぐの場所からでも、木々の生い茂る様を見て取ることができる。
 
 相当の、広さだ。
 
 そのまま、二人は連れ立って、正面の入り口から中に入った。
 
 
 
 中に入ると、目の前には広大な敷地が広がっていた。
 
 一面、短く刈り揃えられた、柔らかな草が生え、なだらかに丘陵を形作っている。
 
 その緑地を囲むように、遊歩道が伸びており、そのうえを、木々が自然のアーケードで飾っていた。ところどころに、「森」と言って差し支えないような茂みもある。
 
 緑地の向こう側の小高い丘も木々に被われ、おそらくはえんえんと広がっているであろうその向こう側を、この位置から伺い知ることは出来ない。
 
 鳥のさえずり……陽の光……優しく満ちあふれる、生命の息吹を感じる……。
 
 
 
 シンジは、息を飲んでいた。
 
 自分で選んだ場所だし、事前に情報は耳に入っていたが、これほどの場所だとは思っていなかった。
 
 (そう言えば……おじさんの家の側に、ちいさな裏山みたいなところがあったな……。こことは、全然、規模が違うけど……)
 
 よく、ひとりでその山に入っていたことを思い出す。
 
 自分は捨てられた子供だ、と思いながら、茂みの中で膝を抱えてうずくまっていた。
 
 (でも……不思議と、あそこにいるときは、必ずしも不愉快だったばかりじゃなかった)
 
 なんだか……護られているような気分になることもあった。
 
 もちろん、錯覚だが。
 
 
 
 シンジは、横に立つレイの方に目を向けた。
 
 「綾波……こういうところ、初めて?」
 
 「ええ……」
 
 レイも、軽い驚きとともに、あたりの風景を見回していた。
 
 心を奪われている様子が、見て取れる。
 
 シンジは微笑むと、レイに向かって片手を差し出した。
 
 「歩こうよ、綾波」
 
 驚いたように、その手を見るレイ。
 
 「……うん」
 
 うっすらと頬を染めて……レイは、そっとシンジの手の上に手の平を重ね合わせた。
 
 
 
 二人は、手を繋いで、遊歩道をゆっくりと歩いていく。
 
 レイには、その、シンジの手の平から伝わる暖かさ……それが、全身を柔らかく包んでいるような気がしていた。
 
 
 
 碇君……
 
 あったかい……
 
 
 
 碇君……
 
 碇君も、あったかい?
 
 碇君も、同じように感じてくれているだろうか……?
 
 
 
 もちろん、シンジは、必要以上にレイの手の平の暖かさを感じていた。
 
 自分が、なぜあんな行動をとったのか……とても、わからない。
 
 とにかく、さっきは、それが一番自然だった。
 
 
 
 だが、今はもう、繋いだ手の平に、すべての神経が集中して、顔が赤くなっているのを自覚していた。
 
 
 
 (ああ……拍子とは言え……
 
 よく、あんなことできたよな、僕に……
 
 う〜ん……ドキドキする……)
 
 なんだか、繋いだ手の平から、自分の鼓動の速さが伝わってしまう気がして……シンジは、さらに鼓動の動きに拍車をかけていった。
 
 緊張が緊張を呼び、鼓動が全身の熱を上げ、もう臨界点に到達しようかと言う、そのとき……
 
 
 
 バサバサバサッ!
 
 
 
 急な羽音に、驚いてシンジは頭上を見上げた。
 
 ア−チのように自分を囲む木々の枝から、数羽の鳥が飛び立っていく。
 
 
 
 見上げたその隙間から、木漏れ陽が降りそそぐ……。
 
 
 
 急速に、シンジの心は収まっていく……。
 
 冷めていくわけではない。
 
 落ち着いた……胸のうち全体を、ゆっくりと包み込むような暖かさに、変化していく。
 
 
 
 視線を戻すと、レイが怪訝そうな顔で、シンジを見ている。
 
 「ごめん……行こうか」
 
 「あっ……」
 
 今度は、自分の意志で、しっかりと……
 
 シンジは、レイの手を握り締めた。
 
 レイの顔が、みるみる紅潮していく。シンジが見ると、慌てたように目を逸らす。
 
 シンジは、やわらかく微笑んだ。
 
 さっきまでの昂揚とは違う、落ち着いた、心……
 
 「行こう」
 
 「……うん」
 
 ふたりはゆっくりとした歩みで、再び遊歩道を歩き出した。
 
 
 
 「お昼にしようか?」
 
 しばらく散歩を楽しんだところで、シンジがレイに声をかけた。
 
 遊歩道の端に、木でできたベンチがある。
 
 「あそこで、弁当を食べない?」
 
 「うん、わかった」
 
 レイが返事をして、二人は並んで座った。
 
 
 
 シンジが、リュックから二人分の弁当をとりだす。
 
 アルミの、武骨な弁当箱が二つ。片方は、もう一方のそれより、一回り小さい。
 
 およそ、デートに持ってくるような弁当箱ではないような気もするが、それは、シンジのセンスなのだから仕方がない。
 
 
 
 シンジから弁当箱を受け取り、レイはその蓋を開けた。
 
 
 
 中は、2つに分かれていた。広いほうは、御飯が詰まっている。箸を入れてみると、海苔で3層に分かれていて、真ん中に三色のそぼろを混ぜたものが挟まっている。
 
 おかずの方は、キャベツや青菜系、厚焼き卵、トマトなど、肉を避けた構成。小さなトレイにピーナツのような、調理を施していない豆、別の容器に小さく切ったリンゴが入っていた。
 
 
 
 「……いただきます」
 
 レイは嬉しそうに微笑むと、いつもの赤い塗り箸を手にとった。
 
 まず、厚焼き卵。
 
 一口つまんで、口に運ぶ。
 
 そして、目を瞑って、もぐもぐと口を動かして……
 
 「……おいしい」
 
 やっぱり嬉しそうに、レイは微笑んだ。
 
 「そう? ありがとう。よかった」
 
 シンジも、嬉しそうに答えると、自分の弁当に箸を伸ばした。
 
 
 
 カサッ。
 
 小さな、軽い物音が、シンジの耳に入ってきた。
 
 (葉っぱ?)
 
 シンジが、少しだけ首を動かして、後ろを見る。
 
 そして……
 
 (!)
 
 首を戻すと、シンジは横のレイに声をかけた。
 
 「綾波……」
 
 「?」
 
 「いい……そぉ〜っと、静かに……ゆっくりと、振り返ってごらん」
 
 「……??」
 
 レイは、怪訝な表情をしながらも……箸を置いて、静かに後ろを振り返った。
 
 
 
 「!」
 
 レイは、驚いたように目を開き、シンジを見る。
 
 シンジは、待ってましたという表情で笑うと、小さな声で答えた。
 
 「……リスだよ」
 
 
 
 二人の座るベンチの後ろに、切り株のようなものがある。
 
 その上に、茶色で小さなリスが、何事もないかのように毛繕いをしていたのだ。
 
 
 
 
 (逃げないな……気付いてないはずはないと思うんだけど。
 
 餌付け、されてるのかな?)
 
 野生の動物に、やたらと食べ物を与えるのはよくない。
 
 だが、すでに餌付けされている動物なら、それもいいだろう。
 
 (綾波に、見せてあげたいし……)
 
 シンジは、自分のおかずを見下ろした。
 
 (豆……なら、食べるかな?)
 
 下手に調理されているものより、生の方がいいだろうし。
 
 そう思い、豆のひとつをつまんで、もう一度振り返った。
 
 「……何を、するの?」
 
 かけられたレイの声が、普段と違うのに気付き……驚いたように、シンジはレイを見た。
 
 レイは、上目使いで……なんだか、睨むようにシンジを見ている。
 
 「え……え? 餌を、あげてみようと思って……」
 
 「もったいない……」
 
 「え……」
 
 「せっかくの……碇君が作った……お弁当なのに……」
 
 シンジは、レイが何を言いたいのか、ようやくと理解した。
 
 クスッ、と微笑むと、なだめるように微笑んだ。
 
 「まぁ……見ててよ」
 
 しばしの逡巡の後、レイがしぶしぶ頷くと、シンジはその豆を切り株の上に軽く放った。
 
 
 
 リスは、転がってきた豆を両手で押さえると、それを抱えるようにして持ち上げた。そのまま、左右をぴぴっと見回す。
 
 そして、ぱくっと口の中に押し込んだ。
 
 片方のほお袋が、ぷくっと膨らんだ。
 
 
 
 レイが、目を丸くしてそのようすを見ている。
 
 微笑んで、シンジが声をかけた。
 
 「どう?」
 
 「………」
 
 シンジの問いに、黙ったまま答えない。
 
 じっと、リスを凝視している。
 
 そして、ぱっと自分の弁当箱から、同じ豆をとりだした後……しばし悩んでから、思いきったようにそれをリスの足許に放った。
 
 
 
 リスは、それを再び両手で掴むと、口の中に押し込む。
 
 反対側のほお袋が、同じようにぷくっと膨らんだ。
 
 
 
 レイは、ますます目を見開いて、固まったようにそれを凝視していた。
 
 
 
 気に入ったのかな?
 
 シンジは、レイの横顔を見ながら、ほっとしたように考えた。
 
 ……動物との触れ合いなんて、レイには今まで、存在しなかったはずだ。
 
 もしかしたら、「動物」という存在自体が、彼女の思考にはほとんど存在しなかったかも知れない。
 
 ……だが、動物との触れ合いは、人の心を暖かくする。
 
 例え、それが、欺瞞であったとしても。
 
 
 
 レイは、同じ姿勢のまま、じぃぃぃぃぃっ……とリスを見ている。
 
 リスは、両方のほお袋を膨らませたまま、つぶらな瞳で、きょろきょろとまわりを見回していた。
 
 ………
 
 がばっ!
 
 「あああ、綾波っ!?」
 
 レイは、急に弁当箱を掴むと、それを全部リスの足許に放り出そうとしたため、シンジは大慌てでそれを止めなければならなかった。
 
 
 
七十四



 昼食を終えた二人は、同じ遊歩道を、更に先に向かって歩きだした。
 
 木々のアーチから漏れる陽の光が、朝の爽やかな光から、午後の柔らかな光に変化している。
 
 その複雑な形の影が、歩くレイの横顔を移動していく。
 
 (なんだか、麦わら帽子が似合いそうな感じだな……)
 
 こういうのもいいな、とシンジはぼんやりと思う。
 
 プラグスーツに身を包み、操縦把を握る横顔とも違う。
 
 制服に身を包み、詩集を読んでいる横顔とも違う。
 
 自然の移ろいの中で、かすかな微笑みを浮かべた、柔和な横顔……。
 
 (……本当は、これが、綾波なんだろうな……)
 
 
 
 昔のレイなら、こんな表情はしなかった。
 
 自分を人形だと信じて疑わなかったころなら、ますますそうだろう。
 
 今のレイも、普段はこんなに柔らかな表情は浮かべない。
 
 
 
 将来……この表情が、普段のレイを彩る表情となる時が、きっと来るだろう。
 
 今……レイは、この表情を、こうして浮かべることが出来るのだから……。
 
 
 
 そのための、手助けが出来れば……
 
 シンジは、レイの横顔を眺めながら、そう思っていた。
 
 
 
 小高い丘のようなところを越えると、二人の耳に、せせらぎの音が聞こえてきた。
 
 「川……」
 
 「うん」
 
 シンジは、手を繋いだまま、レイの先に立って奥へと進んだ。
 
 
 
 そこは、不思議な空間だった。
 
 ほとんど谷とも言えないような浅い場所にもかかわらず、周りの丘と木々に切りだされた箱庭のような印象。
 
 先ほどまでのアーチから、一転して抜けるような青空が二人に降り注ぐ。
 
 箱庭の中央を流れるせせらぎは、陽光を照り返して、宝石のように輝いていた。
 
 川べりのあたりまで、短い下草が、潤いを湛えた絨毯のようにしきつめられ、ところどころから、小さな花が顔を覗かせて二人を伺っていた。
 
 
 
 その絨毯の上を歩くレイは、体重なんて無いんじゃないかと思うほどに、軽やかだった。
 
 シンジは、感動していた。
 
 
 
 川のふちまで来たレイが、シンジを振り返る。
 
 シンジは、慌ててレイの横に駆け寄った。
 
 
 
 川の中は、透き通ったな水が煌めきながら流れていた。
 
 しゃがみ込んだレイは、片手を水の中に入れる。
 
 「……冷たい」
 
 「流れてるから……」
 
 水面から煌めいた光が、レイの顔を輝かせている。
 
 「綾波……川、初めて?」
 
 「ええ……」
 
 「じゃあ、来てよかった、かな……」
 
 「……うん」
 
 
 
 これも、本当の自然じゃない……と、シンジは思う。
 
 当たり前の話だが、ここは造成された公園だ。
 
 こんな自然が、第三新東京市の付近に残っているはずがない。
 
 この川も……。
 
 
 
 だが、それがなんだというのか?
 
 自分たちにとって、今のこの瞬間は、間違いなく、真実なのだ。
 
 
 
 レイは立ち上がると、再びしゃがみ込んでパンプスを脱いだ。
 
 「どうするの?」
 
 シンジの問いに、もう一度立ち上がったレイが答える。
 
 「中に……入ってみたい」
 
 その言葉と同時に、バシャバシャと水の中に歩きだした。
 
 
 
 「危ないよ、綾波……足許をよく見て」
 
 「大丈夫……」
 
 レイは、川の中ほどまで来て、シンジの方に振り返った。
 
 川は浅く、レイのひざ下、10センチくらいのところに水面が来ている。
 
 レイは、軽く両手を上げて、くるくるとその場で一回転した。
 
 パシャパシャと、水が優しくはねる。
 
 「………」
 
 「綾波、気持ちいい?」
 
 シンジも立ち上がっておしりの砂を払うと、レイに声をかけた。
 
 「なんだか……プールと違うわ」
 
 「そりゃそうだよ。プールは水が流れてないし、底も砂利とかじゃないし……」
 
 
 
 LCLとも……違う。
 
 
 
 レイは、そう考えていた。
 
 
 
 LCL……
 
 昔の私が、唯一還るべき場所だったところ。
 
 今の私には、ただのプラグ内水分でしかないけど。
 
 
 
 違うのは、当たり前。
 
 LCLは、水じゃない。
 
 
 
 プールと違うのも、当たり前。
 
 碇君が言う通り。
 
 プールの水は流れていないし、砂利敷でもない。
 
 
 
 でも、それだけじゃない気がするのは、何故だろう?
 
 そういうのと、違う……
 
 この、体中に感じる感覚は、なに?
 
 
 
 「僕も、そっちへ行くよ」
 
 シンジの声に、レイは顔を上げた。
 
 シンジもスニーカーを脱ぎ、ジーンズの裾を折り曲げている。
 
 
 
 準備の整ったシンジは、バシャバシャッと水の中に入った。
 
 そのまま、レイのそばまで……
 
 「わ! たったっ!」
 
 急ぐ余り、シンジは足許の岩を踏み外した。
 
 そのまま、前のめりに倒れ込みそうになる。
 
 「碇君!」
 
 その体を、レイが慌てて支えた。
 
 
 
 シンジは何とか転ぶのを免れた。
 
 レイが、シンジの背中に腕を回して、ギュッとシンジを抱きしめている。
 
 「あ、あの、綾波……ありがとう」
 
 少し赤くなって、シンジは体勢を整えた。
 
 レイは、シンジに抱きついたまま、同じく体勢を元に戻す。
 
 「ははは、なんだか格好悪いね……ごめん」
 
 「何故?」
 
 「いや、なぜ、というか……う〜ん」
 
 「碇君は、格好悪くないわ」
 
 「う、うう〜ん、そう? あ、ありがとう」
 
 照れたように、赤くなってシンジは頭を掻いた。
 
 レイは、シンジをもう一度抱きしめて、頭をシンジの肩に乗せ、鼻先をシンジの首筋にうずめる。
 
 「あ、綾波……」
 
 「……碇君は、格好悪くない……」
 
 呟くように、レイはもう一度、繰り返した。
 
 
 
 気が付くと、シンジもレイを抱きしめていた。
 
 時間が止まったような、感覚……。
 
 
 
 碇君……。
 
 シンジを感じながら、レイは心が満ち足りていく感覚を覚えていた。
 
 
 
 碇君……。
 
 
 
 あたたかい……。
 
 
 
 今の、感じに似ている。
 
 何故だろう?
 
 
 
 「……何故?」
 
 口に出して、レイは呟いた。
 
 「え? 何故って……なにが?」
 
 シンジも、レイの背中に手を回したまま、小さな声で呟いた。
 
 
 
 「プールとは、違う……LCLとも違う。それはわかる。
 
 でも、それだけじゃない気がする……
 
 何が、違うの?」
 
 レイの問いに、シンジは、しばらく沈黙した。
 
 
 
 やがて、ゆっくりと、口を開く。
 
 「う〜ん……正直、よくはわからないけど……
 
 生命に満ちあふれてるから、かな……」
 
 「……生命?」
 
 「あは、なんだかくさいこと言ってるね、僕……。
 
 でも……見てごらんよ、まわりを」
 
 シンジの言葉に、レイはシンジの首許から顔を離すと、改めて周りを見渡した。
 
 
 
 「木も、生きてる。
 
 草も、生きてる。
 
 花だって生きてる。
 
 ……それこそ、空も、石も、水も生きてるんだ。
 
 なんて言うか、その……
 
 NERVの施設なんかとは、違うんだ。
 
 ここは、人工のものなんて、それこそ僕らの服くらいしかないんだ」
 
 
 
 レイは、シンジの顔を見た。
 
 「……よく、わからないわ」
 
 「うん……ごめん。うまく説明できないや」
 
 「ううん……ごめんなさい。説明してくれたのに……」
 
 「綾波……綾波が悪いんじゃないよ」
 
 シンジは、微笑んで、もう一度レイを強く抱きしめた。
 
 「覚えておいてくれれば、それでいいから……
 
 いつか、きっと、わかるよ」
 
 「……そう、かしら……」
 
 「そうだよ。
 
 だって……綾波は、感覚ではわかってるんだから」
 
 「うん……がんばる」
 
 「ははは……無理にがんばらなくても、そのうちわかるよ。
 
 焦らないで」
 
 レイは、シンジの顔を見た。
 
 シンジも、レイを見る。
 
 「……わかるように、なるの?」
 
 「なるよ、きっと」
 
 
 
 レイは、シンジを見つめて、微笑んだ。
 
 彼女の後ろで、川面がキラキラと輝いていた。
 
 
 
 それは……切り取った一枚のポートレイト。
 
 シンジの心に、鮮やかに焼き付いた微笑み。
 
 
 
 それほどまでに、美しく……かわいかった。
 
 
 
 まわりの風景に溶け込むほど、優雅で……それでいて……
 
 
 
 「生命に満ちあふれてるのは……綾波も、一緒さ」
 
 「……え?」
 
 「だって……こんなに、輝いてるんだから」
 
 
 
 そう言って微笑んだ、シンジ。
 
 彼の後ろで、抜けるような青空が広がっていた。
 
 
 
 それは……切り取った一枚のポートレイト。
 
 レイの心に、鮮やかに焼き付いた微笑み。
 
 
 
 「……それは……碇君も、一緒」
 
 「え?」
 
 「だって……こんなに、輝いているもの」
 
 
 
 二人とも、相手の微笑みに、心を奪われていた。
 
 聞こえるのは、川のかすかなせせらぎのみ。
 
 
 
 この世界中で、ただ二人きりのような、感覚……。
 
 
 
 二人の鼻先が、触れあう。
 
 
 
 二人の唇が……触れあう。
 
 
 
 そのまま、しばらく動かないひとつのシルエットを、夕暮れの陽射しが、暖かく包み込んでいた。



七十五



 自宅に戻ったレイは、パジャマに着替えて、ベッドの上に寝転んでいた。
 
 
 
 今日のデートを、もう一度思いだす。
 
 
 
 ………
 
 
 
 かあああっ、と、顔が赤くなる。
 
 
 
 特に、レイの胸を騒がせるのは、あの川で交わされたくちづけだった。
 
 最初、レイには、何が起こったのかよくわからなかった。
 
 引き寄せられるように……自然に、シンジの唇に、自分の唇を重ねていた。
 
 かすかに、触れるように……。
 
 柔らかな唇から、幸せな何かが、体中に染み渡るような気持ちだった。
 
 今までの、シンジの体に触れたときのどれとも、違う。
 
 やがて唇を離して、いつの間にか瞑っていた瞼を開くと、シンジの視線とぶつかった。
 
 
 
 顔中が、真っ赤になっていくのが分かった。
 
 いままでの恥ずかしさとも少し違う、どうしようもないくらい身の置き所のない……でも、決して嫌ではない、感覚。
 
 同じように、シンジも顔を真っ赤にして、目を逸らせていた。
 
 
 
 その後、二人は一言も喋ることが出来なかった。
 
 公園での帰り道も、電車の中も、駅から家までの道程も……
 
 だが、しっかりと繋がれた手は、一度も離されることが無かった。
 
 
 
 午後出勤のミサトが遅くなる旨の連絡が入ったため、二人だけで夕食をとった。
 
 その間も、言葉は交わされなかった。
 
 
 
 でも、嫌じゃなかった。
 
 
 
 いつも、碇君の側にいた気がした。
 
 
 
 ドアの前で、碇君は、私に「おやすみ」って、言ってくれた。
 
 
 
 それだけで、すごく暖かく感じた……。
 
 
 
 レイは、ふと思い立って、本棚から国語辞典を取りだした。
 
 本来は、こういう辞書・辞典の類いは、ネット上から簡単に閲覧することが出来る。会員登録さえしておけば、どこからでも知りたい単語が引けるのだ。
 
 にもかかわらず、書店から辞書が姿を消さないのは……人が、結局、紙の感覚を信じているからかも知れない。
 
 レイは辞書を片手にもう一度ベッドに座り直すと、ペラペラとページをめくり始めた。
 
 やがて、ひとつの単語を見つけだす。
 
 
 
 せっぷん [ 接吻 ] 親愛の気持ちを表すために、自分の唇を相手の唇に付けること。
 
 
 
 親愛の……きもち……
 
 レイは、再び自分の頬が赤くなるのを感じていた。
 
 碇君は……私に、親愛の気持ちを、抱いてくれているのだろうか……。
 
 碇君……。
 
 
 
 幸せな気持ちのまま、目を瞑ること、数分……
 
 ふと、レイの脳裏に、昔の情景が思いだされる。
 
 
 
 「綾波って、碇の彼女なんじゃないのか?」
 
 
 
 彼女……
 
 そう言えば、あの言葉も、意味がよくわからなかった。
 
 私が、碇君の、なんだというのだろう?
 
 レイは、そのままパラパラとページをめくり、目当ての単語を発見する。
 
 
 
 かのじょ [ 彼女 ] 恋人・婚約者・妻などをさす表現。
 
 
 
 レイの目は、大きく見開かれていた。
 
 恋人……。
 
 恋人……。
 
 恋人……。
 
 私が、碇君の、恋人……?
 
 さらに、レイの頬に赤みが増す。
 
 
 
 つまり、あの相田という少年から見て、私は碇君の恋人だと……。
 
 
 
 そう、見える?
 
 
 
 そう、見えているの?
 
 
 
 ……私は、碇君の、恋人、なの……?
 
 
 
 何とも言えない、温かで、軽やかで、しかし、高揚した気持ちがレイを包む。
 
 そうして、幸せな気持ちのまま、目を瞑ること、数分……
 
 ふと、レイの脳裏に、この間の情景が思いだされる。
 
 
 
 「アンタのその胸じゃ、フラれちゃうかも知れないわね〜」
 
 
 
 ふられる……
 
 そう言えば、あの言葉も、意味がよくわからなかった。
 
 私が、碇君に、どうなるというのだろう?
 
 レイは、そのままパラパラとページをめくり、目当ての単語を発見する。
 
 
 
 ふられる [ 振られる ] 好意を抱く相手に、好意を要求して断られること。
 
 
 
 ………。
 
 ………。
 
 ………。
 
 
 
 レイは、ベッドの上で、石のように固まるのであった。