第二十三話 「秘密」
六十七
 
 
 
 「シンちゃん、紹介するわ。彼女が、セカンドチルドレン……エヴァンゲリオン弐号機の制式パイロット、惣流・アスカ・ラングレーよ」
 
 「よろしく、アスカ」

 NERV作戦会議室で、ミサトにアスカの紹介を受けたシンジは、微笑んで右手を差し出した。
 
 
 
 アスカ……。
 
 シンジは、アスカの顔を見るたびに、あの、「最期のとき」を思い出す。
 
 
 
 「気持ち悪い」
 
 
 
 それは、明確な、そして揺るぎない拒絶だった。
 
 その後、シンジの介護を全て拒否しつづけた少女は、やがて冷たくなってしまったのだ。
 
 
 
 あのときの記憶は、今でもシンジを苦しめる。
 
 救えたかも知れなかった魂を救えなかったばかりでなく、自らの手で傷つけてしまった。
 
 アスカの死と、レイの自爆。
 
 この二つの、かけがえのない命の消え去る記憶は、シンジの心に、深い傷跡を残していた。
 
 
 
 その命は、今はまだ、ふたつとも輝かしいきらめきを保っている。
 
 ひとつは、自分の目の前に。
 
 もうひとつは、自分のすぐ隣に。
 
 一度は失ってしまった輝きが、手を伸ばせば届くところにいるのだ。
 
 
 
 失いたくない。
 
 もう、二度と。
 
 シンジは改めて、強く心に誓った。
 
 
 
 シンジの差し出した右手を、アスカは睨み付けていた。
 
 握り返そうとはしない。
 
 視線をシンジの顔に移し、強い口調で呟いた。
 
 「……アンタが、サード?」
 
 「そうだよ」
 
 ギッ、と睨む視線が強さを増す。
 
 「……ちょっとくらいできるからって、いい気になるんじゃないわよ」
 
 「えっ?」
 
 「ハン! シンクロ率が高い? 使徒との戦闘経験が豊富!? そんなのもんで鼻にかけてもらっちゃ困るっての! ……アタシが来たからには、アンタなんかにデカいツラさせないわよ!」
 
 「え……ちょ、アスカ……」
 
 「初対面のアンタに、アスカなんて呼ばれる筋合いはない!」
 
 
 
 鼻先に、ビシ! と指を突き付けられて、シンジは固まってしまった。
 
 
 
 あ……あれ……
 
 なんか、予想外……
 
 第一印象が、前より悪い気がするけど……。
 
 
 
 しかし、冷静になって考えれば、それは十分に予測のつくことだった。
 
 エヴァに乗ることが全て。エヴァの操縦に関して、誰にも譲ることが出来ないアスカ。
 
 それに対し、今回のシンジの……シンクロ率を始めとした、エヴァの操縦に関する能力は、前回の比ではなかった。
 
 
 
 アスカが敵愾心を燃やしてくるのは、当然である。
 
 
 
 シンジは、余りにも迂闊なことに、そこまで考え至らなかった。
 
 いま、ハッキリとした敵意を示されて、初めてそれに気がついたのである。
 
 前回、結局アスカとの関係をうまく構築することが出来なかったシンジ。それは、彼女の反応を恐れ、ろくに対応することが出来なかったからでもある。
 
 それを踏まえて、シンジは今回、仲の良い友人関係を構築したいと思っていた。
 
 
 
 それが、出会う以前から頓挫していたのである。
 
 
 
 (ああ……しまった……
 
 第一印象って、大事じゃないか……
 
 この状態から、彼女の信頼を得るなんて、一体どうやったらいいんだ……)
 
 しかも、アスカとシンジの能力の差は歴然たる物で、そう簡単には埋まらないのである。
 
 アスカの敵意がそこに起因している以上、彼女の信頼を得て、仲の良い友人となることは、並み大抵の苦労ではないだろう。
 
 いや、苦労どころではない。
 
 なにをどうすればいいのか、その術さえも、今のシンジには思い浮かばなかった。
 
 
 
 「いや……あの、アスカ」
 
 「だから、アンタに名前で呼ばれる筋合いはないってんでしょ!」
 
 指先を突き付けたまま、叩き付けるように言うアスカ。
 
 シンジは、困ってしまう。
 
 思い返すと、なぜ内気なシンジが名前で呼びはじめたのか、もう思い出すことは出来ない。
 
 だが、もはやシンジにとって、アスカはアスカなのだ。今さら「惣流」などと、呼びにくいこと甚だしい。
 
 「で……でも、アスカはアスカなんだし。もうそう呼ぼうって決めちゃったから、その……今さら、惣流とは呼びにくいと言うか……」
 
 「なに言ってんのよ! 初対面でしょーが! 勝手に呼び方を決定してんじゃないわよ!」
 
 確かに、端から聞いても、そして言っているシンジ自身にも、説得力ないこと夥しい。
 
 なんと言っていいものか……。
 
 でも、やっぱり惣流じゃなくてアスカと呼ぶほうがしっくりくるけど……
 
 こだわるべきじゃないんだろうか……。
 
 
 
 くいくい。
 
 固まっていたシンジは、ふと、自分のワイシャツの裾を引っ張られる感覚に気が付いた。
 
 振り返ると、レイが上目遣いでシンジを見つめている。
 
 「綾波?」
 
 「………」
 
 「え……と、なに?」
 
 「………」
 
 「あの……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 
 
 (な……なんだかわかんないけど……
 
 怒ってる気がする……
 
 ………
 
 な、なんで?)
 
 
 
 ただでさえアスカの敵意に晒されて身の置きどころのなかったシンジに、何故かレイまで怒っている。
 
 シンジは、もはやどうしていいのかわからなくなってしまっていた。
 
 
 
 (碇君……)
 
 脂汗を流して固まるシンジの横顔を、レイはじっと見つめている。
 
 
 
 碇君……。
 
 
 
 弐号機パイロットを名前で呼ぶの……
 
 ……なぜ?
 
 
 
 私のことは、名前で呼ばないの?
 
 
 
 私と弐号機パイロットと、何が違うの?
 
 
 
 何も、違いなどないのである。
 
 それどころか、シンジにとって……恋愛感情という意味で言えば、それはレイだけに向けられているのだ。
 
 だが、そんなことはレイには分かるわけがなかった。



六十八



 「ま、いいじゃないか。アスカは、アスカなんだから」
 
 緊迫した空気に、気合いのぬけた声が、突然放り込まれた。
 
 皆が、一斉に振り返る。
 
 「加持さん!」
 
 アスカが、嬉しそうな声を上げた。
 
 
 
 後ろ手に扉を閉めながら、加持はニコニコと笑ってみせる。
 
 その姿を、シンジはじっと見つめている。
 
 
 
 加持さん……。
 
 
 
 「アスカも、名前くらいで、そんなに目くじら立てるなよ」
 
 両手を軽く上げて、加持が言う。
 
 アスカは、不機嫌そうに頬を膨らませた。
 
 「だって……失礼だと思いませんかぁ? イキナリ初対面の女の子を、名前で呼び捨てですよ!」
 
 言いながら、横目でギッと、シンジを睨み付ける。
 
 気圧されたように、シンジは1歩、後ろへ下がった。
 
 「いいじゃないか。ドイツに居た頃は、みんな名前で呼んでたろ」
 
 「あれは、あっちの文化! ここは日本なの!」
 
 「じゃ、きっとそれは、シンちゃんの文化なのよ」
 
 ミサトが、腕を組んでニヤニヤと笑う。
 
 アスカが、訝しそうな表情でミサトに向き直った。
 
 「……何の話?」
 
 「わたしも、イキナリ名前で呼ばれたもの」
 
 
 
 あぐっ……覚えてたのか、ミサトさんん……
 
 
 
 「なにそれ……マジ?」
 
 「リツコも「赤木さん」って言ってたの、最初の一回だけよね」
 
 「そ……それは、リツコさんが、リツコでいいって言ったからじゃ……」
 
 「マヤのことも、イキナリ名前で呼んでたわね」
 
 
 
 ぐああっ……な、なんでそんなことまで、覚えてるんだよ……
 
 
 
 「サイッテェー……」
 
 心底イヤそうな表情で、シンジを睨むアスカ。
 
 シンジは、引きつりながら笑うしかない。
 
 「おやおや、シンジくんもなかなかやるな」
 
 「やっ……やめてくださいよ、加持さん」
 
 「じゃ、俺も、リョウジさんとか呼ばれちゃうわけかな」
 
 「言うわけないじゃないですか……」
 
 「葛城のことなんて、未だに名前で呼んでないぞ、俺は」
 
 「そ、そ、それは、慣れの問題でしょ! それで通じ合ってるんですから、いいじゃないですかぁっ」
 
 「そうかな?」
 
 「ミサトさんだって、加持君って言ってるし……だいたい、リツコさんのこと、リっちゃんなんて呼んでるじゃないですか」
 
 「そうだなぁ」
 
 「加持さんは、リツコさんじゃなくてミサトさんと恋人同士なんですから……呼び方なんて、関係ないってことでしょ」
 
 「それもそうかな」
 
 「「ちょぉっと待ったぁッ!!」」
 
 完璧なユニゾンで、美少女と美女は、同時に叫びを上げた。
 
 「「誰と誰が恋人同士ですってぇ!?」」
 
 またしても、完璧なユニゾン。
 
 「俺と葛城が、だろ?」
 
 「加持君! シンちゃんに、勝手なこと吹き込まないでよ!」
 
 「だとさ」
 
 肩を竦めながら、シンジの方を見て、笑ってみせる。
 
 「ま、いいけどな。……アスカ、名前ぐらい、呼ばせてやったらどうだい?」
 
 「・・うぅ〜……」
 
 心底不機嫌そうに、上目遣いに加持の顔を見る。
 
 「……加持さんが、そう言うなら……」
 
 そして、くるっと回転してシンジの方に向き直ると、ビシ! ともう一度、指を突き付けた。
 
 「いいわね、シンジ! 名前で呼ぶのは特別に許してやるけど、それ以上の感情を持つのは、ぜええぇぇぇっ……たいに、許さないわよ!」
 
 
 
 「わかってる、それはありえないよ」(僕が好きなのは……その……)
 
 「それは、ないんじゃないかしらね」(シンちゃんは、レイとラブラブなんだものね)
 
 「それは、ないわ……」(碇君は……だって……)
 
 
 
 「ア……アンタらねぇ〜」
 
 
 
 ぴくぴくと肩を震わせるアスカに、シンジは溜め息をついた。
 
 (大体、自分だってイキナリ「シンジ」って呼んでるクセになぁ……)
 
 とにかく、これからが大変だ。
 
 こんな険悪な状態で、以前のようにまた同居することにでもなったら……。
 
 なんだか、人と人の間には、「適切な距離」というものが、あるように思う。
 
 近ければいいというものじゃない。
 
 相手を傷つけるから、自分が傷つくから……というような、消極的な理由ではなく、人には不可侵な領域があるものなのだ。
 
 それはもちろん、いくら努力しても絶対に近付けない距離、というものとは少し違う。
 
 双方が歩み寄ることにより、限りなくゼロに近付けることが可能な、距離。
 
 ……だが、それは、片方が拒絶したまま、もう片方が一方的に近付くことは出来ない距離なのだ。
 
 
 
 今のまま、距離だけが近くなれば……恐らくアスカの中で、シンジの印象は更に悪くなっていく。
 
 シンジには、そう感じられる。
 
 相手のことを落ち着いて見つめるためには、最低限の距離が必要なのだ。
 
 近すぎれば、視界には顔しか入らないではないか。頭のてっぺんからつま先まで、全てを視界に収めるためには、まずは一歩離れた距離が必要なのである。
 
 
 
 「それはそうと……シンジくん」
 
 「は、はい?」
 
 加持から急に声をかけられて、シンジは慌てて、意識を現実に戻した。
 
 見ると、加持が微笑んでこちらを見ている。
 
 「久しぶりの再会だ……積もるハナシも、あるだろう?」
 
 言いながら、加持はウインクをしてみせた。
 
 
 
 シンジは、即座にウインクの意味を理解した。
 
 加持が、うまく誤魔化してくれたということ。
 
 それについて、口裏を合わせる必要があるということ。
 
 ……そして、説明を求めているということ。
 
 
 
 「そうですね……じゃあ、どうしましょうか」
 
 「そうだな……じゃあ、後で俺の部屋に招待するよ」
 
 言いながら、加持は小さな紙片を手渡した。
 
 
 
 シンジは、折り畳まれたそれを、一瞬だけ開いた。
 
 そこに書かれた地図は、第三新東京市の端の方にある再開発地区のものだった。
 
 人が住むような地域ではない。少なくとも、加持の家がそのあたりにある、ということはあるまい。
 
 「わかりました」
 
 シンジはそう言うと、その紙片をポケットに突っ込んだ。
 
 
 
 「ナニ……さっきから聞いてると、加持さんとシンジ……知り合いなの?」
 
 アスカが口を開いた。
 
 「そんな話、聞いてないわよ」
 
 「言ってないからな」
 
 少しおどけた感じで、加持が答える。
 
 アスカは、不機嫌そうに口を尖らせた。
 
 
 
 「……私も……知らない」
 
 レイが、小さな声で呟いた。
 
 シンジがレイを見ると、レイが少しだけ上目使いでシンジを見つめている。
 
 目が合うと、ふい、と視線を逸らしてしまった。
 
 
 
 碇君……
 
 この男の人と、知り合い?
 
 以前、葛城一尉の家で、そんなことを言っていた気はするけど……
 
 きちんと、話してくれたことは、ない……。
 
 
 
 シンジはレイの前まで近寄ると、少しだけ覗き込むような形で、レイの顔を見る。
 
 レイはシンジと目が合うと、また僅かに視線を逸らす。
 
 「綾波」
 
 シンジが、ゆっくりと声を出した。
 
 「……なに?」
 
 「ごめん……」
 
 
 
 説明するわけにはいかなかった。
 
 「加持と自分が知り合い」という設定が、突発的な思いつきにすぎないから、ということもある。
 
 だが、それ以上に、全てを説明するためには……シンジの身の上に起こっている全てを語る必要があるからだ。
 
 
 
 レイには、隠さなくてもよいのかも知れない。
 
 だが、レイに秘密を語るのが危険、とか、そう言う意味ではなく……
 
 レイの心に与える影響を、まだ考えあぐねていたのも、事実だ。
 
 
 
 全てを語るということは……レイについての、秘密の多くをシンジが既に知っている……ということを、語ることと同じだ。
 
 レイが、人間ではないということ。
 
 レイが二人目であること
 
 レイが、使徒と同じ存在であること。
 
 レイが、補完計画の鍵であるということ……。
 
 それに、レイが自爆したこと、三人目がシンジと共有した時間の多くを失っていたこと、シンジが三人目のレイを無意識に拒絶したこと、レイが動き……補完計画が発動したこと、その全てを語る必要も、あるいはでてくるかも知れない。
 
 
 
 シンジは、もう全てを納得したうえで、レイのことを愛し、助けてやりたいと思っている。
 
 そのことについて、もはや迷いはない。
 
 だが、「シンジが知っている」ことを聞かされたレイは、どう感じるだろうか?
 
 
 
 シンジには、あいにく想像がつかない。
 
 
 
 感情の殆どを持たなかった、以前のレイなら平気かもしれない。
 
 人間として成熟した、将来のレイでも心をコントロールできるだろう。
 
 
 
 だが、今のレイは?
 
 
 
 レイは、彼女の人生の中で……
 
 おそらく、今が最も不安定だ。
 
 
 
 もちろん、平気かもしれない。
 
 
 
 だが、壊れてしまうかもしれない。
 
 
 
 感情の安寧を図るために、手に入れた感情を再び放棄するかも知れなかった。
 
 
 
 レイは、きっと大丈夫だ。
 
 そう、信じたい気持ちもある。
 
 だが、絶対とは言いきれない。
 
 こんな状態で……
 
 全てを、明かすことは出来ない。
 
 
 
 「綾波」
 
 シンジは、もう一度、レイに呼び掛けた。
 
 レイは、わずかに目を逸らしたまま。
 
 かまわず、シンジは口を開いた。
 
 
 
 「いつか……話すよ……必ず」
 
 
 
 シンジは、ちいさな声で呟いた。
 
 レイの耳に、届くか届かないか、その程度の声で。
 
 
 
 心を、こめて。
 
 
 
 レイは、シンジの瞳を見た。
 
 数秒の沈黙。
 
 レイは手を伸ばして……シンジのシャツの裾を撫でるようにつまみ、また戻す。
 
 
 
 「……はい……」
 
 
 
 小さく、応えた。



六十九



 翌日の昼過ぎ、シンジはひとりでバスに揺られていた。
 
 他の乗客はいない。
 
 窓の外を流れる風景は、だんだんと寂れた街並へと移行していく。
 
 
 
 シンジがバスを降りたのは、終点の再開発地区だった。
 
 加持が、紙切れで指定してきた場所の近くだ。
 
 ポケットの中の紙をもう一度確認すると、シンジは、目の前の崩れかけたビル群に向かって歩き出した。
 
 
 
 おそらく、諜報部の人間が自分を追っているはずだと、シンジは考える。
 
 自分には、諜報部を捲く自信は、ハッキリ言って、ない。
 
 ここに来るまではしばらく悩んでいたが、今はもう何も考えていない。
 
 無理なものは、無理だ。
 
 この場所を指定してきたのは加持だし、加持にも諜報部の存在のことは当然頭に入っているはずだ。
 
 加持が、何か策を考えていることを期待するしかない。
 
 
 
 再開発地区、と言っても、実際には打ち捨てられた街と言ってよかった。
 
 アスファルトはそこらじゅうがひび割れ、注意していないと足許をすくわれる。林立するビル群も、地震でも起これば全て崩れてしまうだろう。
 
 人の気配はない。
 
 こんな地区が、ある程度の広さで残されていれば、住む所を失った者たちや、人目を忍ぶ必要のある集団などが、おのずと集まって来るのが普通だ。
 
 だが、この地区には、全く人気がしない。
 
 
 
 裏で何が行われているのか、シンジにはわからない。
 
 だが、NERVが噛んでいるのは、おそらく間違いがあるまい。
 
 それだけで、NERVという組織の、非常識的な一面をうかがわせた。
 
 いまやそのほとんどを理解しているシンジでも、深く考えようとすれば目眩を覚える。
 
 ……そして、それ程に強大で謎に満ちた組織……おそらく、使徒を除けばこの世で最高の力を持つ組織の頂点に、ゲンドウがいるのだ。
 
 
 
 前は、そんなこともわかっていなかった。
 
 シンジは、ただ父を避けていただけだ。
 
 許せないことであるのに変わりはない。だが、ゲルヒンをここまで育て上げた父の……死んでも育て上げなければならなかった父の裡を考えたことは、なかった。
 
 
 
 自分は、まだ、子供だ。
 
 昔も、今も。
 
 
 
 紙に書かれたメモの記す建物の前に、シンジは立つ。
 
 10階建てのマンションだ。もちろん、人の住んでいる気配はなく、かなり以前から無人であることが伺い知れた。
 
 紙には「1015」と書いてある。
 
 
 
 当然のことながら、エレベータは動いていない。階段を上っていく。足をおろすと崩れる段もかなりあり、冷や汗を流しながらの移動だ。
 
 やがて、10階に到着した。
 
 
 
 一番奥の角部屋……1015室の扉を、軽く叩く。
 
 返事はない。
 
 もう一度叩いて反応を待つが、やはり返事はない。
 
 
 
 いないのか?
 
 
 
 一瞬迷ったが、シンジは意を決して、ドアノブを握り締めた。
 
 
 
 カチャッ……
 
 
 
 ゆっくりと、扉をあける。
 
 中を覗き込むが、そこから見える範囲には、人陰はない。
 
 玄関に入り、扉を閉めた。
 
 
 
 ガチャン。
 
 
 
 シンジは、驚いて手許のノブを見た。
 
 シンジは、扉を閉めただけだ。
 
 だが、今の音は……明らかに、ロックが掛かった音だった。
 
 
 
 (しまった……早まったか!?)
 
 冷や汗を流して、ノブに飛びつこうとした、そのとき……。
 
 「シンジくん、待っていたよ」
 
 部屋の奥から、聞き慣れた声が聞こえてきた。
 
 振り返ると、そこに加持が立っている。
 
 「加持さん……」
 
 「そこ、鍵が勝手に掛かるんでね。さ、中に入ってくれ」
 
 言い残して、加持は部屋に入っていった。シンジも、靴を脱ごうとして……床の汚さに気付き、迷った挙げ句に、靴を履いたまま奥へと進んだ。
 
 
 
 廊下の向こうは、崩れかけたリビングだった。
 
 天井や建材などが崩れ落ち、窓などが塞がれた形になっている。
 
 加持は、スプリングの抜けたようなソファーを向い合せにそろえると、その片方に座ってシンジを促した。
 
 シンジがソファーに腰掛けると、ズブズブと頼り無い感覚で尻が沈む。
 
 「なにぶん、安普請なものでね」
 
 おどけた感じで、加持が肩を竦めた。
 
 
 
 「加持さん……ここは?」
 
 「うん……まあ、隠れ家の一つ、と言った所かな」
 
 「諜報部が、来てないはずはないと思うんですけど」
 
 「いや、この部屋の中までは、来ないよ」
 
 「それはそうでしょうけど……でも」
 
 「ほら、シンジくん」
 
 加持が、スッと壁を指差した。
 
 加持が指さしたあたりを、シンジは見る。
 
 一見、何もない。だが、言われて目を凝らすと、ひび割れの間から、かすかにメッシュ状の丸い物が顔を覗かせている。
 
 「監視カメラだよ」
 
 「!」
 
 驚いたように、シンジが加持の顔に振り返る。
 
 「……もっとも、張り子の虎、だがね」
 
 加持は、少しだけ低い声で、表情は普通に……声だけを笑わせて、呟いた。
 
 
 
 「……詳しく話すことは出来ない。だが、この部屋の中で起こった全てのことは、MAGIには伝えられない……いや、全く違った情報として認識されると言うべきかな。シンジくんがこの部屋に何時間いようとも、ここで何が行われようとも、シンジくんが疑われることはない。君が俺に会っていることすら、記録には残らない」
 
 
 
 「……わかりました」
 
 「うん」
 
 加持は、膝の上で両手を組むと、ソファに深々と腰掛けた。
 
 埃が舞う。
 
 「さて……シンジくん。まずは、初めまして。それとも、久し振り、と言うべきかな?」
 
 「すいません……お手間を取らせてしまいました」
 
 「いいさ。なかなか面白かった。葛城は面白いように騙されてくれたよ」
 
 「何と言って、納得させたんですか?」
 
 「別に、何も。ただ、君に興味があって個人的に連絡を取っていた、と言っただけだ。あとは、勝手に葛城が喋るのに、合わせただけさ。」
 
 「ははぁ……」
 
 面白いように騙されている、という加持の言葉を思い出して、溜め息をつく。
 
 ミサトは、NERV作戦本部長として、類い稀な才を発揮する。
 
 だが、信用している相手の前では、結局、物凄い単純な女性になってしまうのだ。
 
 (情景が思い浮かぶなぁ……)
 
 「ま、口裏合わせと言っても、その程度でね。わざわざこうして会ってまで、することはないんだ」
 
 「はい……」
 
 加持の言葉に、シンジは曖昧に返事をした。
 
 「俺が興味があるのは、君だよ」
 
 加持が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 
 「アスカや俺のことを知っていたのは、まあ、葛城が言うほど不自然なことじゃない。職員に聞けば、名前くらい教えてくれるだろうさ。だが、俺がオーバー・ザ・レインボウに乗っているのを知っていたな? 葛城やリっちゃんが話すはずもないのに、俺と葛城の過去も知っている感じだ。それに、俺が赤木博士のことを、リっちゃんと呼んでいることなんて……それこそ、俺達3人以外の誰も、知らないはずだ」
 
 シンジは、黙って聞いていた。
 
 「説明、して貰えるのかな」
 
 「説明……ですか」
 
 シンジが、加持の言葉に応える。
 
 
 
 加持に話すべきか否か?
 
 シンジは、ここに来るまでの間、ずっとそのことを考えていた。
 
 そして、結局、話さないことに決めたのだ。
 
 
 
 加持は、信頼に足る人物だ。
 
 全てを打ち明ければ、きっと、何かと力になってくれることだろう。
 
 自分には出来ないことの多くが、加持の力によってなら可能であることは、想像に難くない。
 
 だが、できることなら、誰も巻き込まずに済ませたかった。
 
 結局、間違いなく……NERVやゼーレ、ゲンドウと敵対する行動を取っていくことになるのは、避けられない。
 
 彼等を止めることが、目的なのだから。
 
 真に他人の手が必要になれば、躊躇うことなく自分は助けを求めて手を伸ばすだろう。つまらないプライドで物を言っているのとは違う。
 
 だが、まだ、そのときではない。
 
 まだ、そこまでは切羽詰まっていない。
 
 ……それまで、自分の裡だけに留めておくことに、決めたのだ。
 
 
 
 ……と、いう、ひどく真面目な理由の他に、もうひとつ。
 
 何よりも、誰よりも大事に想っている、レイ。
 
 彼女にすら秘密にしてあることを、彼女以外の誰かに、先に明かすことに躊躇いがあると言う、若干不謹慎な理由もあった。
 
 それは、シンジ本人もはっきりとは知覚していない……深層心理での感情ではあったが。
 
 
 
 加持は、黙ってシンジの瞳を見ていた。
 
 シンジも、黙ったまま加持の瞳を見つめる。
 
 
 
 そうして、1分近くが流れた。
 
 
 
 「……了解」
 
 溜め息をつきながら、加持が頷いた。
 
 「え?」
 
 「言うわけには、いかないんだろ?」
 
 「……ええ」
 
 「じゃあ、仕方がないさ。口裏合わせだけにしておこうか」
 
 「……いいんですか?」
 
 「じゃあ、話してくれるのかい?」
 
 加持が、悪戯っぽい瞳でシンジを見る。
 
 シンジも、バツが悪そうに肩を竦めた。
 
 「なら、聞かないさ」
 
 「……すいません」
 
 「いつか……話してくれるかい?」
 
 
 
 「はい……いつか……必ず」
 
 
 
 そう……いつか、話すことがあるだろう。
 
 そして、それは、きっと……
 
 全てが、変わる、そのときだ。
 
 
 
七十



 翌日。
 
 アスカが来日して、最初のシンクロテストが行われた。
 
 それぞれ、疑似プラグの中のLCLに包まれている。
 
 
 
 実験棟の管制室で、リツコはモニタに現れるめまぐるしい数値の変化に対し、的確な指示を飛ばしていた。
 
 ミサトは、そんないつもの実験風景を腕を組んで眺めている。
 
 
 
 一区切りして、リツコがミサトの隣に戻ってくると、ミサトは初めて口を開いた。
 
 「どう、アスカの調子は?」
 
 リツコは、手に持った紙コップから、コーヒーを一口すする。
 
 「……噂に違わぬ実力、というところね」
 
 ミサトの方を向かず、リツコは呟く。
 
 「どれくらいなの?」
 
 「シンクロ率、83%」
 
 「マジ? やるじゃない」
 
 少しだけ目を見開いて、ミサトが応える。
 
 リツコは、またコ−ヒーをすすった。
 
 ミサトの言葉に、特に答えない。
 
 
 
 「……なに、リツコ。不満なの?」
 
 ミサトが、怪訝そうに口を開く。
 
 リツコは、チラ、と横に立つミサトに視線をやり、また戻す。
 
 「いいえ」
 
 「でも」
 
 「十分な数値よ。それは、高いに越したことはないけれど……80%を超えているなら、それは余裕で合格と言うところね」
 
 「じゃあ……」
 
 「……珍しくないでしょう?」
 
 「え?」
 
 「ここにいる私達にとって……80%という数値は、驚くに値しない」
 
 リツコが言葉を切る。
 
 二人の間に、一瞬、沈黙が流れ……やがて、ミサトがおずおずと口を開いた。
 
 「……シンちゃんの、コト?」
 
 「そうよ」
 
 また、コーヒーを一口。
 
 「シンジくんが、80%という数値をマ−クしたら……私達はどう感じるかしら?」
 
 「どう、って……」
 
 「どうしたのか、と思うでしょう。調子が悪いのか? ってね」
 
 「………」
 
 「そういう領域に、すでに彼はいるのよ」
 
 
 
 ミサトは、複雑な表情でリツコを見据えた。
 
 「……それは、そうかも知れないけど……でも、アスカはよくやってると思うわよ?」
 
 リツコが、ゆっくりと顔をミサトの方に向ける。
 
 「……そうじゃ、ないのよ」
 
 「え?」
 
 「さっきも言ったけど、アスカは十分合格だわ。彼女は、よくやっている」
 
 「……?」
 
 「……じゃあ、異常なのは、誰かしら?」
 
 
 
 二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。
 
 
 
 シャワ−室で身体中のLCLを落としながら、シンジは先ほどの講評会のことを思い返していた。
 
 結果は、大体予想通りだった。
 
 前回では、シンジがアスカのシンクロ率を抜いたのは、かなり後になってのことだった。訓練の期間や素養が根本的に違うのだから、それは当然だ。
 
 だが、今回は違う。
 
 最初から、シンジの方がシンクロ率が高い。それも、大きな差をつけて。
 
 
 
 そして……アスカは終始、機嫌が悪かった。
 
 それも、当然だろう。
 
 だが、シンジは敢えて、何も言わなかった。
 
 
 
 まだ、始まったばかりだ。
 
 まだ、彼女の心も、不安定になる程ではない。
 
 それは、おそらく……シンジ自身の違いにもよるものだろう。
 
 
 
 前回のシンジは、控えめに言っても、情けなかった。
 
 アスカも、勿論そう感じていたはずだ。
 
 そして、最初はアスカの方がシンクロ率が高かったのだ。
 
 
 
 それが、徐々にシンクロ率が追い付き、やがて抜かれ、二度と追い付くことが出来なかった。
 
 あんなヤツに、負けた。
 
 あんなヤツに!
 
 あんなヤツに!
 
 あんなヤツに!
 
 
 
 アスカが「自分が一番でなければ駄目だ」と感じていることは、前回も今回も同じはずだ。
 
 だから、この状態のまま進めば、あるいは結局、同じことになってしまうかも知れない。
 
 だが、幾つかの点で、前回と今回は、既に違うのだ。
 
 
 
 まず、シンジが「さほど情けなくない」ということ。
 
 日常生活では、シンジは普通の中学生であり、慌てるし、ドジもするし、からかわれて真っ赤になったりする。
 
 そう言う意味では、十分に情けないのだが……
 
 前回は、それ以上に、見ていてイライラするような内罰的さ、他力本願さ、危機を目前にしての臆病さ、どうしようもない優柔不断さ……そういうものが、あった。
 
 それが、ない。
 
 ないわけではないが、ごく普通のレベルにとどまっていた。
 
 もうひとつ、始めから二人の間に歴然たる差があること。
 
 徐々に追い付かれ、どんなに苦労しても引き離すことが出来ず、やがて追い抜かれてしまう恐怖と悔しさ。
 
 そういう種類の物が、今回は存在しない。
 
 最初から、相手の方が上なのだ。
 
 
 
 これらのことが、彼女の中でどう作用していくのか……シンジには、わからない。
 
 もしかしたら、より悪い結果になるかも知れない。
 
 だが、好転する可能性もあった。
 
 
 
 それらもすべて、これからのシンジにかかっている。
 
 シンジが、彼女を恐れ、無意識に逃げているようでは駄目だろう。
 
 シンジが、何とかしなければいけなかった。
 
 この状態から、最もよい方法を、考えなければならなかった。
 
 
 
七十一



 プラグスーツから制服に着替えたレイは、控え室でテストの結果をプリントアウトしたコピーを眺めていた。
 
 アスカは、とっくに帰ってしまっている。
 
 シンジは、講評に時間がかかっていた。まだ、着替えは終わっていないだろう。
 
 
 
 手許のグラフには、三本の折線グラフが描かれていた。
 
 グラフの上の方に、並んで印字されているラインは、上からシンジ、アスカのもの。
 
 レイのラインは、そこから数段下を這っていた。
 
 
 
 なんとも言えない、寂しさ。
 
 あの二人に、なにか絆のようなものがある気がして、悲しくなる。
 
 
 
 もちろん、そんなものはない。
 
 
 
 レイは、溜め息をついた。
 
 もう一つの寂しさ。
 
 それは、シンジが自分に何か、隠し事をしているらしいこと。
 
 
 
 だけど……
 
 レイは、思う。
 
 
 
 だけど……
 
 私も、碇君に、隠している。
 
 いろんな、ことを……。
 
 
 
 碇君に拒絶されるのは、恐い。
 
 自分が死ぬことよりも、何よりも……碇君が、側からいなくなってしまうこと……それが、何より恐い。
 
 
 
 とても、話せない。
 
 
 
 レイは、コピーを畳んで、制服のポケットに入れ、立ち上がる。
 
 もう、シンジが出て来る頃だ。
 
 
 
 控え室を出て、エレベ−タ−ホ−ルに向かいながら……
 
 レイは、考える。
 
 
 
 いつか……
 
 碇君に、話すことがあるだろうか?
 
 
 
 そのとき、碇君は、私を、受け入れてくれるだろうか……。