第二十一話 「疑念」
四十九



 リツコが、手許の書類をめくる。
 
 シンジは、横目でそれを見ている。
 
 ミサトはあくびをしながら壁に寄り掛かる。
 
 マヤは同じく手許の書類をめくり、時折リツコと言葉を交わす。
 
 レイはシンジを見ている。
 
 
 
 エレベーターが、小さな電子音と共に、到着を知らせる。
 
 
 
 エレベーターを降りた面々は、そのまま実験棟へ向かって歩きだした。
 
 今日は、定期シンクロテストと簡単なガイダンス。及び、生身での格闘訓練の予定である。
 
 結局のところ、パイロット本人の生身の資質が向上すれば、エヴァの操作も飛躍的に滑らかになる。勿論、基本性能が生身のそれとは違うので、例え本人がバク転すらできなくとも、エヴァは空中高くできりもみ回転を披露することもできるが……生身のパイロットがバク転出来る、ということは、エヴァの空中動作をパイロット自身が体で理解できるということなのだ。
 
 この違いは大きい。
 
 よって、NERVでは、パイロット本人の身体能力向上を目的とした訓練カリキュラムも、多く組み込んでいるのだ。
 
 
 
 「今日は組手から始めるわよ」
 
 廊下を歩きながら、ミサトがシンジに声をかける。
 
 「はい」
 
 シンジが答える。
 
 
 
 シンジはやはり、生身での訓練はあまり得意な方ではなかった。
 
 基本的な運動神経が余りよくないのだ。
 
 それはシンジ自身、前回の人生において、嫌というほど思い知らされていた。特にアスカと組むことになると、訓練とは言え完膚亡きまでに叩きのめされてしまうのである。
 
 本当に、格闘訓練や運動訓練の日は、嫌で嫌で仕方がなかったことを覚えている。
 
 
 
 だが、今はそうも言っていられない。
 
 訓練の成果が、エヴァの操作に如実に反映されているのは理解できる。
 
 いやいやエヴァに乗っていた前回とは、根本的に事情が違うのだ。強くなれる要素を、棄てるわけにはいかない。
 
 
 
 そうして、ある程度前向きに訓練を行うことにより、シンジの体はわずかながら筋肉もつき始めていた。
 
 
 
 「シンちゃんも、もう少し筋肉がつけばねぇ……」
 
 廊下を歩きながら、ミサトが言う。
 
 「そんなこと言われても……訓練を始めたころよりは、筋肉がついてきたと思うんですけど」
 
 「ま、ね……でも、元が元だからぁ」
 
 「しょうがないじゃないですか……運動、苦手なんですから。でも、ちゃんとやってるつもりだし、努力もしてると思うんですけど」
 
 「わ〜かってるわよ。別に、筋肉モリモリになれなんて言ってないんだから。努力してるのは、見れば分かるわ」
 
 「じゃぁ」
 
 「ま、ちょっと筋肉がつき始めたからって、自惚れないでってコト。まだまだ、やっと並なんだかんね」
 
 「わかってますよ、もう……」
 
 ぶつぶつ言いながら、ジト目で横を歩くミサトを睨む。
 
 「ま、頑張ってるのは認めたげる。ねぇ、リツコ? 数値でも、ましなモン、でしょ?」
 
 ミサトは、シンジの視線を躱して微笑むと、後ろを振り返って声をかけた。
 
 
 
 リツコは、マヤと並んで、ミサトやシンジ、レイたちの、数歩後ろを歩いていた。
 
 ミサトの声に、顔を上げる。
 
 「ミサト、何か言った?」
 
 「聞いてなさいよ、アンタ……。シンちゃん、運動訓練の成果は、数値で見ていかが? って聞いてるの」
 
 ミサトは、若干不機嫌な様子をはらみながら、もう一度同じ内容の言葉を繰り返す。
 
 
 
 リツコは、立ち止まる。
 
 合わせて、残りの4人も立ち止まった。
 
 「どうしたのよ、リツコ?」
 
 ミサトが怪訝な口調で声をかけた。
 
 
 
 リツコは、答えない。
 
 
 
 ただ、じっとシンジを見つめている。
 
 
 
 その視線は、氷のような冷たさ……。
 
 
 
 (な……なんだ? リツコさん、何を睨んでるんだよ……)
 
 シンジは、足許を鋲で打抜かれたように、全く動くことが出来ない。
 
 一目リツコに睨まれたときから、完全に、圧倒されている。
 
 
 
 ……それほどの、視線。
 
 
 
 (……リツコ?)
 
 黙ったままのリツコに……そして、妙にシンジに対して鋭い視線をおくっているリツコに、ミサトは不信感が募る。
 
 口を開き、リツコに問いただそうとした、その時。
 
 
 
 「……悪くはないわね」
 
 
 
 リツコが、ゆっくりと、わずかに空気を吐き出すように、言葉を紡いだ。
 
 
 
 「そ……そう……」
 
 拍子抜けしたように、それでいて気圧されたように……ミサトが、間抜けな口調で返事を返す。
 
 シンジは、何も言えない。
 
 「でも……」
 
 リツコが、そのまま続ける。
 
 
 
 「よくもない」
 
 「は、はぁ……すいま、せん……」
 
 搾り出すように、シンジが答える。
 
 成績が悪いことを、責められているのか?
 
 だが、本人としては、決して手を抜いているつもりはない。自分の今の力では、十分すぎる努力をしているつもりだった。
 
 だが、リツコの視線の鋭さは、緩まらない。
 
 
 
 「……こんなものじゃ、ないんでしょう?」
 
 「……は?」
 
 リツコの言葉。
 
 シンジは、戸惑った。
 
 
 
 どういう意味だ?
 
 
 
 「それなりに……努力は……してる、つもりなんですが……」
 
 「……どうかしらね」
 
 「ちょっと、リツコ……何言ってるのよ?」
 
 ミサトが、間に割って入る。
 
 リツコは、答えない。ミサトを無視しているかのように、シンジだけを見ている。
 
 「ヤシマ作戦の日……」
 
 「……はい?」
 
 「……あの時の力を、出せばいいんじゃないの?」
 
 
 
 シンジは、呆気にとられたような顔で、ぼけっとリツコの顔を見つめていた。
 
 
 
 ヤシマ作戦?
 
 
 
 だって……
 
 
 
 あの日は、別に、筋力を使うようなオペレーションは、なかったじゃないか……。
 
 
 
 しばしの沈黙。
 
 リツコは、シンジを睨んでいる。
 
 シンジは、コンクリートの詰まった空間に押し込められたように、指先一つ動かせないような空気の重さを感じていた。
 
 ただ、シンジのこめかみを、脂汗が伝っていく。
 
 
 
 誰も、言葉を発することが出来ない。
 
 
 
 永遠に続くかと思われた、膠着の時……
 
 
 
 「!」
 
 リツコは、急に視界に入ってきた、鋭い視線に、気圧されるように、わずかにのけぞった。
 
 見据えるのは、赤い瞳。
 
 「綾波……」
 
 シンジが、驚いたように声をかけた。
 
 レイが、シンジとリツコの間に割り込んだのだ。
 
 冷たい、射抜くような視線で、リツコを見つめる。
 
 「碇君を……責めないで下さい」
 
 レイが、小さく……しかし、脳の奥にまで響いてくるような声で、呟いた。
 
 
 
 ふぅっ、とリツコが、目を瞑って息を吐いた。
 
 場の空気が、一気に緩む。
 
 シンジは、安心の余り、その場に座り込みそうになるのを、なんとか気力で押さえた。
 
 「……訓練、行くわよ」
 
 何事もなかったかのように、皆の横を抜けて、リツコは先に立って歩きだす。
 
 一瞬呆気にとられたようにその後ろ姿を見つめてから、慌ててミサトとシンジ、マヤが後を追う。
 
 レイも、シンジの横にぴったりと張り付くようにして、ついてきた。
 
 
 
 「綾波……その……ありがとう」
 
 シンジは、横を歩くレイに、小さく声をかけた。
 
 「……うん……いいの」
 
 レイが、少しだけ頬を染めて答える。
 
 「シンちゃん……ヤシマ作戦って、なんの話?」
 
 ミサトが、同じく小さな声で、シンジに尋ねる。
 
 「さぁ……僕だってわかんないですよ」
 
 シンジが答える。
 
 
 
 隠しているわけではない。
 
 本当に、なんのことか見当がつかないのである。
 
 
 
 「あ、あの……先輩。そういえば、司令の姿が見えないようですけど」
 
 ぎこちなくなった場の空気を和らげようと、マヤが妙に明るい口調で、先を歩くリツコに声をかけた。
 
 「司令は、会議よ」
 
 リツコが、振り向かずに答える。
 
 「と、言うことは……」
 
 「今頃は、機上の人ってことね」



五十



 抜けるような青空。
 
 雲ひとつない。
 
 その、蒼天の縁……まさに、あとひとまわり外側に移動すれば、重力という呪縛から自由になれる場所を、それは飛んでいた。
 
 遮るもののない陽光に煌めく、銀色の機体。
 
 その尾翼に、NERVと国連のシンボルが刻まれていた。
 
 
 
 碇ゲンドウは、他に乗客のない客席に、一人座って窓の外を眺めていた。
 
 生命の存在すら、容易に許さない希薄な大気……。
 
 風景は変化しない。
 
 雲もない晴天では、眼下を見下ろしても、地図帳を広げたような風景しか見ることは出来ない。
 
 ゲンドウは、サングラスごしに、ただその風景を眺め続けている。
 
 
 
 「隣、よろしいですかな」
 
 ゲンドウに、ふいに声がかけられた。
 
 ゆっくりと振り返ると、そこには一人の東洋系の男が立っていた。
 
 ゲンドウは、ただ黙って頷く。
 
 「失礼」
 
 男は軽く頭を下げ、ゲンドウの横の座席に滑り込んだ。
 
 
 
 「サンプル回収の修正予算、割とあっさり通りましたね」
 
 手許のペットボトルのキャップを廻しながら、男は言う。
 
 「……委員会も、死にたくはないだろう。自分たちが生き残るため……そのための金は、惜しむまい」
 
 「他の全てが無に帰しても、ね」
 
 男は口許を歪めて笑うと、坊主頭に剃り上げた頭をなでた。
 
 「委員会は、とまどっていることでしょうな」
 
 「こちらとしては都合がいい」
 
 「そういえば……アメリカ以外の全ての理事国が、6号機の予算を承認しました。アメリカも、時間の問題でしょう。一国だけ突っぱねて、生き残れる時代じゃないですからね」
 
 「君の国はどうなんだ」
 
 ゲンドウが、ゆっくりと言う。
 
 男は、表情を変えずに続けた。
 
 「8号機から、建造に参加します……第2次整備計画はまだ生きてますから。ただ、作ったところでパイロットがいないですからね」
 
 「使徒は再び現れた。我々の道は、彼らを倒すしかあるまい」
 
 「私も、セカンド・インパクトの二の舞いはもうゴメンですからね」
 
 男のその言葉には応えず、ゲンドウは黙って窓の外に目をやった。
 
 
 
 いつしか、SSTOは南極圏に到達していた。
 
 南極大陸に広がる、巨大なクレーター。
 
 セカンド・インパクトの、禍々しい爪痕。
 
 その風景を囲む海は、まるで地球が流した血のように、真っ赤な色をしていた。
 
 
 
 「そういえば……ご子息のお話、聞きましたよ」
 
 男が、ゲンドウの背中に声をかけた。
 
 ゲンドウは、振り返ってサングラスごしに男を見る。言葉は発しない。
 
 「大したものですな」
 
 「……そのためのパイロットだ。役に立たねば仕方あるまい」
 
 「本気でおっしゃっているんですか? 当初、委員会に提出した予測報告書よりも、格段に成績がいい。おかげで、第三新東京市の損害も少ないし、初号機の修理費も計上していたものよりかなり潤っているはずです」
 
 「………」
 
 「いいパイロットを手に入れられて、我が国は羨ましいかぎりですよ……いや、これは失敬」
 
 男は、面白そうに言い、肩を竦めてみせた。
 
 「……くだらん」
 
 「まあ、なんにせよ……ご子息のご活躍のおかげで、予算がかなり通りやすい。ありがたいことです」
 
 男はそう言って、ペットボトルの水を、軽くあおった。
 
 ゲンドウは、黙ってその様子を見つめ、そして、ゆっくりと視線を外し、前を向く。
 
 それは、前方の操縦席を突き破り、遥か遠くを見ているような視線だった。



五十一



 ミサトは、軍服のジッパをあげ、首許で止めた。
 
 鏡の前で、軽く髪をなで付ける。
 
 そで口のピンを止め、クローゼットを閉める。
 
 ピシャリ。
 
 両腕でクローゼットの扉を押さえたまま、ゆっくりと、息を吐きだした。
 
 吐きだされる息と共に、体中に引き締まった冷水が染み渡る……。
 
 
 
 顔を上げたミサトの表情は、いつもの間の抜けたそれとは、まるで違うものとなっていた。
 
 
 
 「おはよう」
 
 スラッと襖を開き、リビングに出てくるミサト。
 
 「おはようございます」
 
 「……おはようございます」
 
 エプロン姿のシンジと、椅子に座ったレイが出迎えた。
 
 穏やかな表情を消し去ったまま、ミサトは二人の横を通過した。
 
 「ミサトさん、朝御飯は?」
 
 「ゴメン、いらないわ。これから仕事なのよ」
 
 「どちらへ?」
 
 「ま、ヤボ用よ。あんたたち、休日なんだからデートでもしてきたら?」
 
 振り返らずにミサトが答える。そのまま、机の上のバッグをとり、玄関に向かう。
 
 「デート……」
 
 レイが、呟くように、ミサトの言葉を反芻する。
 
 
 
 デート……
 
 デート……
 
 ……知っている……
 
 
 
 恋人同士で、出かけること……。
 
 
 
 「……ごめん、綾波」
 
 シンジの言葉に、レイの思考が分断される。
 
 レイは、頬を染めたまま、シンジの方を見上げた。
 
 何故、謝られたのか?
 
 
 
 「ミサトさん……僕は、本部に行きますよ」
 
 「え?」
 
 玄関で靴を履いていたミサトは、はじめてシンジに振り返った。
 
 レイも、驚いたようにシンジを見つめている。
 
 「今日は訓練じゃないでしょ……休みなさいよ」
 
 「いいえ……今日は、待機していることにしますよ」
 
 「何なのよ、シンちゃん……たまにはレイをどっかに連れてってやろうとか思わないの?」
 
 ミサトが、少しだけ不機嫌そうに声を出した。
 
 たまには、ゆっくり二人きりにさせてあげようという配慮をあっさりと躱してしまう。
 
 しかも、天秤に掛けているのは、大して重要とも思えない事なのだ。
 
 「碇君……」
 
 レイも、小さな声で呟く。
 
 
 
 せっかく、二人で出かけてもいいと言われているのに……
 
 何故?
 
 
 
 シンジは、レイの方を向いて、微笑んだ。
 
 「ごめん、綾波。今日は、本部にいたいんだ……
 
 この埋め合わせは、きっとするよ……。
 
 ……そうだ、来週、二人でどこかに出かけようか?」
 
 「えっ……」
 
 「どこでも、好きなところに連れて行ってあげるから。
 
 今日は……」
 
 
 
 レイの耳には、シンジの言葉がこだましていた。
 
 
 
 来週、二人でどこかに出かけようか……
 
 どこでも、好きなところに連れて行ってあげるから……
 
 
 
 これは……デートだろうか?
 
 恋人同士の……
 
 デート……
 
 来週……碇君と……
 
 
 
 「……うん……」
 
 頬を染めて、俯きがちに呟くレイ。
 
 「はいはい。勝手にやってなさいよ……」
 
 呆れたような口調で、ミサトが息を吐いた。
 
 いつのまにか、先ほどまでの軍人的な雰囲気は、どこかに飛び去ってしまっている。
 
 「まったく……だいたい、どうせデートに行くんなら、今日だっていいじゃないの……」
 
 ブツブツと呟きながら、靴を履くために再び座り込むミサト。
 
 シンジは、そのミサトの背中に声をかけた。
 
 「ミサトさん……むこうで何かあったら、いつでも連絡して下さい。待機してますから……」
 
 「な〜に言ってんの。だいたい、ちょっとで来れるようなところじゃないのよ、あいにくと」
 
 「ウィングキャリアーなら初号機積んで、国立第3実験場まですぐですよ」
 
 「そこまで大掛かりなことになるわけないでしょう〜」
 
 「まあ、覚えておいてくれればいいですから……」
 
 シンジは、適当なところで身を引いた。
 
 「ほら、遅れますよ」
 
 「え……ああ、そうね……じゃ、行ってくるわね」
 
 釈然としないながらも、立ち上がって外に出ていくミサト。
 
 「いってらっしゃい」
 
 「……いってらっしゃい」
 
 シンジとレイが声をかける。
 
 ミサトは片手を上げると、そのまま廊下の奥に歩きだす。その手前で、扉がゆっくりと閉じた。
 
 
 
 「さぁ……綾波。僕は本部に行くけど……綾波はどうする?」
 
 「一緒に行く……」
 
 「うん……じゃあ、支度して。一緒に行こう」
 
 「うん」
 
 レイは微笑むと、身を翻して自分の家に戻って行った。
 
 シンジはそれを優しい瞳で見つめてから、ゆっくりと、窓の外に目をやった。
 
 抜けるような、青空……。
 
 
 
 ミサトは、今日はルノーではない。
 
 駅へ向かって、歩いている。
 
 取り留めない、ぼんやりとした思考……。
 
 やがて、ふとした引っ掛かりを感じ、立ち止まる。
 
 今、何を考えてたんだっけ?
 
 何か、おかしなことがあったような……。
 
 首を捻りながら、再び歩きだす。
 
 
 
 そして、駅の改札口まで来たところで、ゆっくりと、頭の中に、先ほどの疑問が浮かび上がる……。
 
 
 
 あたし……シンちゃんに、国立第3実験場なんて、言ったかしら?



五十二



 シンジとレイは、連れ立って歩いていた。
 
 二人とも、制服に身を包んでいる。
 
 今日の陽気は穏やかで、さほど暑さを感じない。シンジはレイに合わせるようにゆっくりと、駅までの道を歩いていた。
 
 
 
 シンジは、今日、ミサトがどこに行ったのか分かっている。
 
 
 
 J.A.……ジェット・アローン。
 
 その、完成披露パーティーへ行ったのだ。
 
 
 
 そして……J.A.は、暴走する。
 
 
 
 暴走の停止には、初号機の力が不可欠だ。おそらく、デートに出掛けていたとしても、ほどなくして呼びだされてしまうだろう。
 
 それならば、始めから本部に待機していたほうが気が楽だ。
 
 それに……どうせデートに行くのなら、一日楽しみたかった。変に水を差されるのは、嬉しくない。
 
 
 
 (しかし……来週かぁ)
 
 シンジは、ぼーっと歩きながら、頭の中で呟いた。
 
 
 
 あのときは、レイの仕草が余りに可哀想だったから、なぐさめる意味も込めて……自然と、「来週出掛けよう」と誘っていた。
 
 だが、冷静に考えれば……というか、全然冷静に考えなくても、あれはまさしくデートの誘いに他ならない。
 
 (思いだしたら、恥ずかしくなってきたよ……)
 
 ちょっと赤くなりながら、シンジは鼻の頭を掻く。
 
 横を見ると、顔を前に向けたまま、視線だけこちらに向けていたレイと目が合う。
 
 一瞬、驚いたように目を大きく広げたレイは、少し赤くなって微笑むと、慌てたように目を背けて、再び前を向いてしまった。
 
 
 
 ああ……かわいいなぁ。
 
 最近、僕、こればっかり。
 
 
 
 来週、どこへ行こうか?
 
 シンジは考える。
 
 これから出動要請が掛かるにしても、どうせJ.A.の暴走までは、まだかなりの時間がある。リツコとミサトもいないし、訓練の予定もない。それに、暴走の方も実際には、初号機が出動して存在をアピールすれば、委員会の策謀により自動的に治まることは分かっている。
 
 だから、はっきり言って、今日はさほど身構える必要はないのである。
 
 そのためシンジにとっては、これから起こる騒動よりも、来週のレイとのデートの方が、よほど重要であったのだ。
 
 
 
 レイの行きたいところへ、と口では言ったが、正直余り期待していない。
 
 レイが遊ぶようなところに今まで全く興味がなかったのは、推測するまでもなく明白だ。ここのところは感情を持ち始めているから、もしかしたら何か行きたいところがあるかも知れないが……
 
 碇君が決めて。
 
 碇君が行きたいところに、行く。
 
 いかにも、言いそうだ。
 
 別に、レイを責めるに、全くあたらない。とにかく、レイに聞いてみるのが一番として、何も希望がなかったときの代案は立てておかなければいけないだろう。
 
 
 
 (でも……デートなんて、したことないよ。どこに行けばいいんだろう?
 
 まして、綾波が行って喜びそうなところなんて……全然思い付かないよ……)
 
 実際には、レイにとっては、シンジと一緒に出掛けられれば、それが嬉しいのである。
 
 どこに行くかは、さほど重要ではない。
 
 だが、幾ら何でも、シンジにそこまでわかるわけはなかった。
 
 
 
 悶々としながら、本部へ向かうシンジ。
 
 そして、それを不思議そうに横目で見ながら、どこか嬉しそうに並んで歩くレイであった。
 
 
 
 国立第3実験場。
 
 J.A.完成披露パーティー。
 
 ミサトとリツコは、正装に身を包んで、そこに列席していた。
 
 
 
 「……以上、何か御質問はございますか?」
 
 「はい」
 
 J.A.を製作した民間企業、「時田重工業」の社長、時田シロウの説明が終わると、リツコは間髪を入れずに挙手をした。
 
 「これは、赤木リツコ博士。お越しいただいて光栄の至りです」
 
 皮肉を含んだ口調。
 
 「質問しても、よろしいでしょうか」
 
 リツコは、全く取りあわない。
 
 
 
 「内燃機関を内蔵とありますが……接近格闘戦を前提とした兵器にリアクターを内蔵することは、安全性から見てもリスクが大きすぎると思われますが」
 
 「5分も動けない決戦兵器よりは、より役に立つと思いますよ」
 
 「遠隔操縦では、緊急対処に問題を残します」
 
 「パイロットに負担をかけ、精神汚染をおこす兵器よりは人道的だと思いますがね」
 
 
 
 「……何をおっしゃりたいのでしょうか」
 
 
 
 「暴走して敵と味方の区別もなく攻撃を仕掛ける決戦兵器……手に負えませんな」
 
 時田は、口許を歪めて笑った。
 
 「だいたい、パイロットの感情に左右される兵器など、危険極まりない。さきほどの、私の説明をお聞きになりましたか? J.A.は、操縦者の暴走を許さない。幾重にも張られた意思決定構造に基づき、最善の結果を遂行するのです」
 
 「……敵の攻撃が、マニュアル通りに行われるとでも? あの敵は、通常兵器では倒すことが出来ない。我々のとる方法以外で、あれらを倒すことなど出来ないのです」
 
 リツコは、激情を押し込んだように、低くゆっくりとした口調で言う。
 
 時田は、肩を竦めてみせた。
 
 「A.T.フィールドのことですかな? あれなら、解明は着実に進んでいますよ。いつまでも、NERVの固有技術ではないのです」
 
 
 
 会場の各席から、失笑のようなものがちらほらと漏れる。
 
 リツコは、黙って席に座った。
 
 表情は平静だったが、机の下で、その拳は震えていた。
 
 
 
 時田の満面に浮かぶ皮肉と揶揄の表情。
 
 リツコとミサトは、心の中で、その顔面を踏みにじった。
 
 だが、リツコは知っている。
 
 その表情が、時を置かずに醜く歪むことになることを。
 
 
 
 「制御不能です!」
 
 管制員の、血を吐くような叫びが、トーチカに響き渡った。
 
 観衆のざわめきが、波のように会場に広がる。
 
 リツコは鼻で笑う。
 
 ミサトも、半目で口許を歪めた。
 
 いい気味だ、と言わんばかりだ。
 
 「リアクターを停止しろ! すぐにだ!」
 
 「駄目です! 停止信号も受信されず! 完全に制御不能です!」
 
 実験場を歩行するJ.A.は、まっすぐトーチカに向かって歩いてくる。
 
 身の危険を感じた聴衆は、クモの子を散らすように逃げ惑う。
 
 
 
 ドガガガガッ!
 
 
 
 トーチカを半壊させ、J.A.はその先に向かって歩き続ける。
 
 ミサトは、瓦礫をかき分けて、岩クズに汚れた顔をつきだした。
 
 天井がなくなり、すなぼこりの混ざった風がミサトの頬をなでる。
 
 見上げると、それこそ、抜けるような、青空。
 
 「持ち主と同じで、礼儀知らずね」
 
 「全くだわ」
 
 ガラガラッ、とその隣で、同じく瓦礫をどかすリツコ。
 
 会場のほかの面々は、茫然とした表情で、たった今自分たちの命を危険に晒した巨大兵器の後ろ姿を眺めていた。
 
 
 
 「さて……グズグズしてらんないわね」
 
 ミサトが、肩の埃を払いながら、力強く呟く。
 
 横に立って腕組みをしていたリツコが、視線だけを動かしてミサトを捉える。
 
 「……どうするつもり? ミサト」
 
 「このまま放っておいても仕方がないわ。まず、初号機を呼んで、あのバカを足止めさせて……その間に、私が直接乗り込んで止めるしかないわね。まさか、手動の強制停止装置がないなんて言わないでしょ?」
 
 「あなたが? 馬鹿な真似はよしなさいよ」
 
 「じゃあ、代わりにリツコがやってくれる? 見てたらそのうち止まるってモンでもないんだから、しょうがないでしょ」
 
 ミサトは、そう言いながら、携帯電話を取りだした。
 
 リツコが溜め息をつく。
 
 「そうね……言いだしたら、聞かないものね、あなた。……じゃぁ、まずシンジくんを呼びだして……ここに来るのは、40分後ってところかしら」
 
 「シンちゃんなら、今日は本部で待機してるわよ」
 
 ミサトが携帯電話を耳に押し当てながら、リツコに言う。
 
 
 
 えっ?
 
 呆気にとられたような表情のリツコ。
 
 
 
 「ちょっと、ミサト」
 
 「あ、青葉君? シンジくん、いるでしょ? 初号機をウィングキャリアーでよこしてくれる、パイロットつきで。あと、放射能防護服もよろしく。速攻でね」
 
 ピ、と通話を切る。
 
 その横で、リツコが再び問う。
 
 「なんでシンジくん、本部にいるの? 今日は休暇だったはずよ」
 
 「そんなこと、私に聞かないでよ。なんかさ〜、せっかくの休日だからレイと出掛けてくれば、って言ってるのに、頑として譲らないのよね」
 
 「……本部での待機を? 何もないのに?」
 
 「そう言えば……こうなっちゃ偶然だけど、ウィングキャリアーなら初号機積んですぐ駆け付けるからいつでも連絡してくれ、みたいなこと言ってたわね。こうなるのわかってたみたい」
 
 あっけらかんとして言うミサト。
 
 「………」
 
 「ま、おかげでコトがはやく済んでいいわ。さぁ〜て、時田を締め上げてくるかな……」
 
 ミサトは、何だか妙に嬉しそうに腕まくりをすると、時田達がパニックに陥っているあたりに向かって歩いていく。
 
 
 
 リツコは、その場に残り、立ち尽くしていた。
 
 ただ、虚空を睨みつけるのみ。
 
 
 
 シンジは、プラグスーツ姿でウィングキャリアーの発着ゲイトに姿を現した。
 
 呼びだされることは予想していた。だから、動揺は全くない。
 
 J.A.の暴走と来たるべき停止は委員会のシナリオに沿ったものなので、慌てる必要もない。
 
 スピーカーから青葉の声が聞こえる。
 
 「シンジくん、初号機のロックが終了した。一刻を争うから、すぐにキャリアーに搭乗してくれ」
 
 カメラに向かって頷くと、きびすを返してキャリアーに向かうシンジ。
 
 
 
 キャリアーの梯子を登り、ハッチを開いて中に入り込む。
 
 スピーカーから、再び青葉の声が聞こえてくる。
 
 「準備オーケー?」
 
 「はい」
 
 「……碇君」
 
 「え? 綾波?」
 
 スピーカーの向こうから、レイの声が聞こえる。
 
 「……気をつけて」
 
 「う、うん、気をつけるよ。心配しないで」
 
 「……うん」
 
 ブツ、とスピーカーの音が切れる。
 
 その直後……ゴウン、という鈍い音と共に、シンジの体は、宙に浮くような感覚を覚えた。
 
 
 
 発着場から浮上し、瞬く間に高速飛行に移行していくキャリアーの機影をモニタで見つめてから、レイは青葉に軽く頭を下げた。
 
 「……ありがとうございました」
 
 「あ、いや、構わないよ」
 
 「……失礼します」
 
 きびすを返して、司令塔を後にするレイ。
 
 その後ろ姿を、ぼーっと見つめる青葉。
 
 マヤが、その後ろから声をかけた。
 
 「……意外ね、レイちゃん」
 
 「えっ? な、なにが?」
 
 「レイちゃん、シンジくんのことが好きなんじゃないかしら。だから、どうしても声をかけたくなったんだと思うの」
 
 「は、はぁ〜……なるほど……」
 
 間の抜けた返事をする青葉。
 
 日向も、座席に座って腕組みをしながら繰り返す。
 
 「……意外だなぁ」
 
 「そうだなぁ」
 
 「でしょ?」
 
 「そういう感情とは、無縁なんじゃないかと思ってたけど……」
 
 「そうだなぁ」
 
 「何言ってるのよ、二人とも。ロマンチックじゃない? レイちゃんの恋心が意外なら、すごいのはそういう気持ちにさせたシンジくんよ」
 
 「確かにすごいなぁ」
 
 「そうだなぁ」
 
 「レイちゃん、健気でかわいいわ〜!」
 
 「そうだなぁ」
 
 「そうだなぁ」
 
 「でしょ?」
 
 「そうだなぁ」
 
 「そうだなぁ」
 
 
 
 キャリアーは、ミサトが本部に電話をしてから、およそ15分後に到着した。
 
 ミサトがキャリアーに乗り込み、放射能防護服を装着。
 
 シンジと、作戦についての意思の疎通を図る。
 
 
 
 作戦は、ごく単純なもの。
 
 初号機がJ.A.の進行を食い止め、その間にミサトがJ.A.の中に乗り込んで、直接リアクターを停止する。
 
 
 
 そして、初号機は、キャリアーから放たれた。
 
 
 
 ズシン、と地上に降り立った初号機は、即座に左手をJ.A.の方に伸ばした。
 
 J.A.までの距離は、まだ少しあるが……
 
 ガギン!
 
 正体不明の異音と共に、前方を走行中だったJ.A.の進行が止まる。
 
 呆気にとられるミサト。
 
 「シンジくん? 何をしたの?」
 
 「J.A.の前方にATフィールドを展開しました。こいつが加粒子砲よりも強いとは思えないですから」
 
 「おお! なぁ〜る」
 
 半壊したトーチカでは、ことの成り行きを見守っていた聴衆から、感嘆とも賞賛ともつかぬどよめきが漏れる。
 
 J.A.の前方に、陽光を反射して煌めく、壁のようなものがかすかに見える。
 
 J.A.はATフィールドに進行を妨害され、ただその場でガシャガシャと足踏みを繰り返すことしか出来なかった。
 
 「あれがATフィールドか……」
 
 「J.A.もまるで形なしじゃないか。もっとも、暴走した時点でもう形なしだがね」
 
 「あんなものが扱えるようでは、とても我々には手に負えんな」
 
 時田は、苦虫を噛潰したような表情で、前方の有り様を睨み付けている。
 
 リツコは、そんな時田を横目で眺めながら、口許をかすかに歪めた。
 
 
 
 初号機は、右手にミサトをつかんだ状態でJ.A.まで駆け寄ると、そのままJ.A.の後部ハッチにミサトを置く。
 
 「気をつけて」
 
 「オッケ〜」
 
 ガン、とハチを蹴り開けて、そのままミサトが中に滑り込んでいく。
 
 シンジは、更に四方にATフィールドを展開し、ちょうど円筒の中にJAを包み込むような形にする。
 
 最悪、リアクターが爆発を起こしても、衝撃はATフィールドに遮られ、開いている上部に逃げる形になるのだ。
 
 ……もっとも、爆発は起こらないだろう。それは、分かっている。
 
 「何よ、コレ!」
 
 スピーカーから、ミサトの声が聞こえる。
 
 「どうしました? ミサトさん」
 
 「どうしたもこうしたも……クッ、やっぱりエラー。プログラムが変えてある!」
 
 パスワードを受け付けないのだろう。
 
 前回と同じ展開だ。
 
 「ミサトさん、制御棒を押し込んでみたらいかがですか」
 
 「制御棒? 制御棒……あ、コイツね! このぉ〜……」
 
 沈黙。
 
 「ふんぬぅうおおおおお〜!」
 
 思わず、シンジは苦笑した。ミサトの渾身の気合は、どうも聞いている側の気合が抜ける。
 
 やがて、ミサトの大きな息と共に、J.A.の動きが停止した。
 
 「間に合いましたね、ミサトさん。さすが」
 
 「ぜ〜、は〜……サ、サンキュ〜……ぜ〜、は〜」
 
 
 
 「た……助かった」
 
 時田は、その場に力なく座り込んだ。
 
 その傍らに、リツコが静かに歩み寄る。
 
 座り込んだ時田が力なくリツコを見上げると、リツコはゆっくりと口を開いた。
 
 「お分かりになりました?」
 
 「……何がですか?」
 
 「使徒は、ATフィールドを使います。あの、初号機と同じようにね。そのATフィールドに完全に動きを封じられてしまっては、勝負以前に闘いの場に立たせても貰えないんですよ」
 
 「……ATフィールドは、我々も、いつか解明する」
 
 「では、解明したときにもう一度、改めて製品を披露しなさい。今のままでは、まるで役に立たない。最低限、デコイに使える程度のレベルまで引き上げてからでないと、相手にもできないわよ」
 
 時田は、言葉を発することが出来ない。
 
 リツコは、そのままきびすを返し、その場を離れた。
 
 「……もっとも、あなたたちにATフィールドの解明なんて、絶対に出来ないんだけどね……」
 
 呟くように、口にする。
 
 そして、前方の初号機に目をやる。
 
 ミサトを回収した初号機は、キャリアーにドッキングして再び上昇しようとしているところであった。
 
 それを、ただ、じっと見つめている。
 
 「ATフィールド……私たちだって、分かって使っているわけじゃないわ」
 
 キャリアーは、瞬く間に、小さな点になっていく。
 
 「……悪魔の申し子」
 
 誰にも聞こえないような、小さな声で、呟く。
 
 「初号機も……それを操る、パイロットもね……」
 
 
 
五十三



 NERV、司令官公務室。
 
 暗がりの中、ただゲンドウだけが、明かりに照らし出されていた。
 
 ゲンドウが見つめているのは、デスクに埋め込まれたモニタ。
 
 その中を、シンジの写真と羅列されたデータ、今までの訓練や戦闘の映像が流れていく。
 
 
 
 ゲンドウは、口許で手を組み、ただそのさまを眺めている。
 
 
 
 サングラスの向こうの、表情は見えない。