第十八話 「孤独」
三十九



 シンジとレイは、学校が終わってすぐ、NERVに向かっていた。
 
 今日はNERVで、シンクロテストの実験がある。以前は曜日が決まっていたが、ここ数日は、毎日のように実験が繰り返されている。
 
 
 
 「シンジくん、相変わらず調子がいいわね」
 
 リツコが、モニタに映るシンクログラフを眺めながら、誰に言うともなく呟いた。
 
 「本当ですね。80%を割ることなんてないですし……」
 
 マヤも、感慨深げに言う。
 
 リツコの手許には、ここ数日の実験結果がプリントアウトされて、束になったものが握られている。
 
 コンピュータに依存したこの時代でも、最後はプリントされたものを見ている……と思うと、少しおかしくなって、リツコは笑う……なかば、自嘲気味に。
 
 「……安定性もありますね。コントロールしているということはないと思いますが……およそ、85%から95%の範囲で、常に結果を出しています」
 
 「そうね……さすが、と言うべきかしら」
 
 プリントされたグラフは、ジグザグに細かい乱れはあるものの、ほぼ横一直線に描かれている。
 
 
 
 シンクロ率は、ある程度の数値が叩き出されていれば、それ以上は必ずしも必要がない。
 
 むしろ、常に安定していることの方が、実戦下ではずっと重要なのだ。
 
 「……それに比べて」
 
 リツコは、プリントをめくって次のグラフに目をやってから、溜め息をついた。
 
 そのグラフは、激しく上下に振れており、まったく安定していない。数値自体も、起動もおぼつかないほどの低い値しか示していなかった。
 
 
 
 グラフには、たった一言。
 
 FIRST C.
 
 
 
 実験が終わり、シャワーを浴びて着替えを済ますと、シンジはエレベーターに乗り込んだ。
 
 縦Gを殆ど感じさせない加速で、ほどなくしてジオ・フロント最上層に到達する。
 
 エレベーターの扉が開く。
 
 そこには、ベンチに座って文庫本を読んでいる少女が一人。
 
 
 
 「……お待たせ、綾波」
 
 シンジが声をかけると、レイは文庫本を鞄にしまって立ち上がった。
 
 「それじゃあ、帰ろうか。」
 
 「……ええ」
 
 二人は、並んで出口へと歩きだした。
 
 
 
 NERVでの訓練があるときには、二人は一緒に帰るようになっていた。
 
 そうしよう、と示し合わせたわけではない。いつの間にか、レイがエレベーターの前で待っているようになったのだ。
 
 帰り道も、いつも、同じコース。
 
 レイの家へ向かう途中のコンビニで、レイが簡単な買い物をする。
 
 電子レンジで暖めて食べる弁当や、1500mlのペットボトル。
 
 ときどき、文房具など、学校で必要なものなども買う。
 
 ……以前は、食事をコンビニで買うということはなかった。
 
 リツコから定期的に、栄養剤を受け取っていたからだ。
 
 だが、シンジが毎日、昼御飯に弁当を作ってきてくれるようになって、レイもおぼろげながら、食事をするということの意味を考え始めていた。
 
 ……それに、シンジが「せめて弁当を食べるように」と薦めたせいもある。
 
 
 
 買い物篭に、無造作に商品を放り込んでいく。
 
 その間、シンジは雑誌を立ち読みしている。
 
 レイが、レジで買物を済ますと、シンジも雑誌を置いて出口へ向かう。
 
 そして、二人で外に出て、また並んで歩いていく。
 
 買った荷物は、必ずシンジが持っていた。
 
 
 
 そして、レイの家へ。
 
 ここ数日、レイの足取りは、家に近づくにつれて重くなっているように、シンジには感じられる。
 
 何故だろう?
 
 だが、レイの表情からは、特に何も読み取れない。
 
 レイの家の前まで来て、シンジは荷物をレイに手渡し、レイがそれを受け取る。
 
 そして、明日の予定などを二言三言交わし、シンジは
 
 「それじゃぁ、綾波。また明日」
 
 と、微笑んで手を振る。
 
 レイも、
 
 「……また、明日」
 
 と、答える。
 
 
 
 だが、シンジは、違和感を感じていた。
 
 一緒に帰り始めたときは、最後に微笑みかけると、レイも微笑んで手を振ってくれた。
 
 だが、やはりここ数日、レイは別れ際に、微笑んではくれなくなった。
 
 ……手を振っては、くれなくなった。
 
 
 
 シンジは、心配そうな表情をしつつも、エレベーターホールの方に歩いていく。
 
 シンジは、振り返らない。
 
 だから、気付かない。
 
 レイが、シンジの姿が見えなくなるまで、ずっとドアの前で、シンジの背中を見つめ続けていることに……。
 
 
 
 レイは、ドアを閉めて、自分の部屋に上がった。
 
 窓から、月明かりがさしこんでいる。暗い部屋が、窓とベッドの周囲だけ、ほのかに明るい。
 
 コンビニで買った荷物を台所に置くと、制服のまま、疲れたようにベッドに横になった。
 
 
 
 ……碇君。
 
 
 
 レイは、窓から見える、蒼い月を見つめていた。
 
 それは、蒼く、儚く……哀しい。
 
 
 
 ……碇君。
 
 
 
 レイは、もう一度、心で少年の名前を呼ぶ。
 
 
 
 ……碇君。
 
 
 
 ……私、どうしてしまったの……。
 
 
 
 碇君……。
 
 ……碇君といると、楽しい。
 
 ……碇君といると、暖かい。
 
 ……碇君といると、幸せ……。
 
 
 
 ……でも、碇君と別れると、とても、痛い……。
 
 
 
 ヒカリさんが、言っていた。
 
 私は、碇君を、好きなのだと……。
 
 
 
 人を好きになるって、こういうこと?
 
 人を好きになるって……
 
 
 
 ……こんなに、痛くて、苦しいことなの……。
 
 
 
 レイは、ギュッとシーツを握り締めると、胎児のように体を丸まらせた。
 
 体の中に、ポッカリと穴が開いたよう。
 
 それを埋めたくても、どうすることもできない。
 
 その姿を、ただ月光のみが、照らしていた。



四十



 次の日。
 
 いつものように登校してくるレイを見て、シンジはなんとなく安堵した。
 
 普段の様子と、特に変わりなく見えたからだ。
 
 「おはよう、綾波」
 
 「……おはよう、碇君……」
 
 レイは、答えてニッコリと微笑む。その微笑み……シンジの心配など、消し飛ばすかのように、暖かい微笑み。
 
 (なんだかなぁ。心配するほどでも、なかったのかな?)
 
 シンジは、胸をなで下ろして、自分の席に座る。
 
 本当に、女の子の考えていることは、よくわからない。
 
 
 
 「おはよう、レイさん」
 
 「……おはよう、ヒカリさん……」
 
 ヒカリも、レイに声をかけ、レイがそれに答える。
 
 ヒカリとレイは、思ったよりもずっと、仲が良くなっていた。レイの方から話しかけることは、やはり、あまりない。だが、それはシンジに対しても同じことだ。
 
 ヒカリがレイに話しかけると、レイはそれに応じた。時折、レイの表情にも微笑みが浮かぶ。
 
 それは、はたから見ても、楽しげな微笑み。
 
 「……シンジ」
 
 トウジが、シンジの後ろから、不思議そうな顔で、声をかけた。
 
 振り返ると、ケンスケがやはり不思議そうに、トウジの横に立ってレイを見ている。
 
 「なに? トウジ」
 
 「いや……綾波な。……いいんちょと、いつの間にあんな仲良うなったんや」
 
 「俺も不思議だよ。綾波があんな微笑みを向けるのは、碇に対してだけだと思ってた」
 
 ケンスケが、首を捻る。
 
 シンジは、苦笑した。
 
 「二人とも……綾波も、普通の女の子なんだから。友達とお喋りしたって、おかしくないでしょ?」
 
 「そら、ま……そうなんやけどな」
 
 「ま……俺は、綾波の笑顔を撮る機会が増えて、全然構わないけどな」
 
 言うケンスケの手には、高解像度のデジタルカメラが構えられている。かなり高価なやつだ。
 
 「碇と綾波に稼がせてもらったので買うことが出来た」とケンスケが言っていたのを、シンジは思いだす。
 
 事実、シンジは新たな……巨大な販路をケンスケに提供したし、レイの微笑みは一時落ち込みかけた売り上げを、以前の倍近くまで引き上げていた。
 
 まさに、ホクホクである。
 
 「おまえたちのおかげだからな。これを使って、もっといい写真をバンバン撮ってやるから!」
 
 ケンスケは、ニヤリと笑う。
 
 もっとも、その写真はシンジとレイにではなく、他の生徒達の手に渡っていくのであるが。
 
 
 
 昼休みになり、ケンスケが購買で買ったパンを持って立ち上がる。
 
 右を見ると、シンジがレイに弁当を手渡している。
 
 レイの、嬉しそうな微笑み。
 
 最初の頃は、隠すように手渡していたシンジだったが、一度ばれてしまってからは、面倒になって隠すことはなくなった。
 
 周りの皆も、最近は誰も突っ込まない。
 
 左を見ると、ヒカリがトウジに弁当を手渡している。
 
 もう毎度のことなのに、ヒカリもトウジも真っ赤だ。照れたように俯き合って、何も言えなくなってしまう。
 
 ヒカリは、数日前から、トウジに弁当を作ってくるようになった。
 
 真っ赤な顔で、「妹が忘れて行っちゃったから!」とトウジの前に弁当を差し出したときは、まだみんなも冷静だった。
 
 だが、はっきり言って、毎日かかさず弁当を作ってくるのを見て、一体誰が「妹が忘れて行った」などという言葉を信じるのか。
 
 ……ヒカリがトウジのことを想っていることは、ヒカリ・トウジ・レイを除いて、クラスの中では周知の事実だった。だから、今はみんな、そ知らぬふりをして動向を見守っている、といったところか。
 
 
 
 ケンスケは、自分の手にぶら下がる、パンの袋を見て、溜め息をついた。
 
 
 
 「……誰か、俺に弁当を作ってくれないかなぁ」
 
 
 
 「……今日も、シンクロテストですか?」
 
 シンジが、呆れたように呟いた。
 
 ここは、NERV実験制御室。今日の実験の予定について、リツコから指示を受けているところだ。
 
 レイは、プラグスーツに着替えていて、まだ制御室には来ていない。
 
 「付き合わせて悪いわね、シンジくん」
 
 リツコが、書類をめくりながら応える。
 
 「シンジくんは、コンスタントに結果を出してるから……毎週一回のテストはともかく、こう毎日やってもらう必要はないんだけどね」
 
 「はぁ」
 
 「レイが、安定しないのよ……どうせテストをやるんなら、二人ともやっておいたほうが、データの蓄積になるから」
 
 「まぁ……いいですけど。帰ってすることもないですし」
 
 「悪いわね」
 
 「でも……綾波、そんなに調子、悪いんですか?」
 
 「……いいとは言えないわ。さっきも言ったけど、安定しないの……一回のシンクロテストで、シンクロ率が変動しすぎる。ときどき、起動必要値を下回ってしまう……実戦には出せないわよ、これじゃあ」
 
 「で……でも、ヤシマ作戦は成功しましたよ」
 
 「あの時は、レイも安定していたの。……振幅がひどくなったのは、ここ数日ね。」
 
 「………」
 
 「……どうかしたのかしらね、レイ……」
 
 
 
 きっと、感情を覚えたからではないか、とシンジは思う。
 
 昔の、精神にゆらぎのない……高純度なレイとは、違うのだ。
 
 
 
 だが……その、不純物の混じった姿こそ……本当の、人間の姿ではないか?
 
 シンジは、思う。
 
 純度の高い、ゆらぎのない金属は、折れ易い。
 
 刀工は、だから刀を鍛えるときに、わざと別の金属の欠片を混ぜて、不純にして作るという。
 
 それが、強く、しなりのある刀を作るのだ。
 
 
 
 そう……
 
 昔のレイより、今のレイの方が、……そして、これからのレイの方が、ずっと、強くなっていくだろう。
 
 人間として……。
 
 
 
 しかし、とシンジは怪訝に思う。
 
 シンクロ率が安定しない原因が、感情が安定しないからだとして……レイの感情が安定していない理由は、何だろうか?
 
 
 
 実験が終わり、シンジとレイは、並んで歩く。
 
 コンビニに寄り、買物をしていく。
 
 レイの家へ向かう。
 
 レイの家の前で、シンジは微笑んで手を振る。
 
 レイは、微笑まない。
 
 レイは、手を振らない。
 
 ……だた、応えるだけ。
 
 去っていくシンジの背中を見つめる、哀しいまなざし。
 
 
 
 次の日も、相変わらず、NERVでのシンクロテスト。
 
 シンジの結果は、変わらず良好だ。レイは、安定させることが出来ない。
 
 「レイ……どうしたって言うの。全然、安定してないわよ」
 
 「……申し訳ありません」
 
 リツコの言葉に、俯いて答えるレイ。リツコは、溜め息をつくと、二人に帰宅していいと告げる。
 
 シンジは、レイの横顔を心配そうに見つめていた。
 
 
 
 ……綾波、どうしたんだろう?
 
 
 
 実験が終わり、シンジとレイは、並んで歩く。
 
 コンビニに寄り、買物をしていく。
 
 レイの家へ向かう。
 
 レイの家の前で、シンジは微笑んで手を振る。
 
 レイは、微笑まない。
 
 レイは、手を振らない。
 
 ……だた、応えるだけ。
 
 去っていくシンジの背中を見つめる、哀しいまなざし。
 
 
 
 次の日も、レイのシンクロ率は変わらなかった。
 
 リツコは、溜め息をついて、レイの顔を見る。
 
 レイは、ただ、俯いている。
 
 「レイ……どうしたのよ」
 
 「……申し訳ありません」
 
 昨日と同じ問答。
 
 横で見ていたミサトは、シンジに手招きをして、制御室の奥に連れて行った。
 
 
 
 「なんですか、ミサトさん」
 
 部屋の隅に連れてこられたシンジは、怪訝そうな顔で、ミサトに尋ねた。
 
 「シンちゃん……レイ、どうしたっていうのよ」
 
 「……僕にもわかりませんよ」
 
 「心当たり、ないの?」
 
 「う〜ん……」
 
 腕組みをして、考え込む二人。
 
 やがて、ミサトが顔を上げて、口を開いた。
 
 「シンちゃん、悪いんだけど……レイに直接、聞いてみてくれない?」
 
 「ええ?」
 
 「わたしらが聞いても、ろくに答えてくれないと思うのよねェ〜、レイ……。その点、シンちゃんはラブラブだからぁ」
 
 「や、やめて下さいよ、ミサトさん……」
 
 「ま、冗談はさておくとして、このままじゃぁ実験にも支障が出るし……今、使徒にやってこられたら困っちゃうしね〜。お願い!」
 
 「ハァ……まぁ、いいですけど」
 
 「悪いわね! 今度、食事当番、代わってあげるから」
 
 「け、結構です!!」
 
 
 
 いつものように並んで歩く帰り道で、シンジは、それとなくレイに聞いてみようと思っていた。
 
 だが、なんと言って聞けばいいのだろう?
 
 
 
 考えた揚げ句、結局、ストレートに聞いてみることにした。
 
 何しろ、原因がわからない。
 
 下手に策を労しても、それが思うように図に当たるとは、限らないのだ。
 
 「綾波」
 
 シンジは、レイに声をかけた。
 
 レイは、シンジの方を向く。
 
 「あの、さ……綾波、最近、シンクロ率が落ちてるみたいだけど……」
 
 「………」
 
 「何か……悩み事でも、あるの?」
 
 レイは、目を伏せてしまう。
 
 「……ごめんなさい……」
 
 小さな、声。
 
 「い、いや、別に、綾波のことを責めてるわけじゃ……」
 
 シンジも、戸惑ってしまう。
 
 聞き方が悪かっただろうか?
 
 結局、その場では、それ以上レイから聞きだすことが出来なかった。
 
 
 
 コンビニに寄り、買物をして帰る。
 
 二人とも、無言のままだ。
 
 
 
 やがて、二人は、レイの家の前に着いた。
 
 いつもなら、シンジは、学校のことや実験のことなど……特に意味のない話を少ししてから、別れるようにしていた。
 
 だが、今日は、何を話しかけていいのか解らない。
 
 しばしの沈黙の後、シンジは、諦めて微笑んだ。
 
 「それじゃ、綾波……また明日」
 
 「………」
 
 レイは、答えない。
 
 
 
 いつも、返事だけは、してくれていたのに……。
 
 本当に、どうしちゃったんだろう?
 
 
 
 少し残念な気持ちで、シンジは、踵を返そうとした。
 
 だが、何か引っ掛かるような感じがあり、思い止まる。
 
 (なんだ?)
 
 シンジが再び振り返ると、レイが俯いたまま、シンジのシャツの裾を握り締めていた。
 
 
 
 「あ……綾波?」
 
 シンジが、驚いて、声をかけた。
 
 だが、レイは、俯いたまま、答えない。
 
 「あの……どうしたの?」
 
 「………」
 
 「あの……綾波?」
 
 「………」
 
 「え〜と……」
 
 「………」
 
 
 
 もう少し、ゆっくりしていけってことかな……?
 
 
 
 「じゃ、じゃぁ……ちょっとだけ、おじゃましても、いい……かな?」
 
 「!」
 
 レイが、バッと顔を上げて、シンジを見る。
 
 そして……
 
 
 
 表情が、パァッ……と、明るくなっていく。
 
 
 
 「ええ……入って」
 
 レイは、ドアを開けると、先に立って部屋に入った。
 
 先ほどまでとは、レイの雰囲気が一変している。
 
 本当に、嬉しそうだ。
 
 (綾波……)
 
 シンジは、おじゃまします、と言って、レイの家に入った。
 
 
 
 「座って……今、お茶を入れるから……」
 
 レイは、シンジにベッドに腰掛けさせると、コンビニの袋を持ったまま台所へと消えた。
 
 シンジは、レイの部屋の中を見回した。
 
 
 
 窓際に、ベッドがひとつ。
 
 その隣に、小さなタンス。
 
 壁についたいくつかのフックに、コンビニのビニール袋がぶら下がっている。
 
 床に置かれたダンボールに、血だらけの包帯。
 
 冷蔵庫の上の、ビーカーと、錠剤。
 
 床は足跡だらけで、掃除をしている形跡はない。
 
 ベット、タンス、冷蔵庫、玄関……この間を結ぶライン上だけに足跡が集中し、床のその他の部分には、うっすらと埃が積もっている。
 
 打ちっぱなしのコンクリートの壁。
 
 絨毯も敷いていない、ところどころがひび割れた、床。
 
 ……タンスの上の、フレームの歪んだ、眼鏡……。
 
 
 
 シンジは、改めて……打ちのめされたような気分で、その風景を見つめていた。
 
 ここは……昔の、綾波を、見ているみたいだ……。
 
 ここに住んでいて、本当に……綾波は、人間らしい心を、持つことが出来るんだろうか……?
 
 
 
 「……碇君」
 
 レイの声に、シンジはハッと我に還った。
 
 見ると、レイが、両手にマグカップを持って、シンジの前に立っている。
 
 「……お茶、入ったから」
 
 「あ、ご、ごめん」
 
 慌てて、シンジはレイの手からマグカップを受け取る。
 
 レイは、そのまま、シンジの隣のベッドサイドに腰を下ろした。
 
 
 
 暫し、二人は、黙ってお茶を飲んでいた。
 
 
 
 やがて、シンジが口を開く。
 
 「綾波……何か、心配事でも、あるの……? 僕に出来ることなら、力になるよ……」
 
 「………」
 
 レイは、答えない。
 
 「どうしたの……?」
 
 「………」
 
 「いや……綾波が言いたくないんなら、無理にとは言わないけど……」
 
 「……碇君」
 
 レイが、口を開いた。
 
 シンジは、黙って、レイの言葉を待つ。
 
 
 
 「碇君……。
 
 私……
 
 どうしていいのか、わからない……」
 
 
 
 「碇君が帰ってしまうと、いつも、心が痛くなる」
 
 
 
 「碇君が帰ってしまうと、いつも、心が苦しくなる」
 
 
 
 「碇君……
 
 碇君の存在が……
 
 碇君のあたたかさが……
 
 感じられなくなってしまう……」
 
 
 
 「心に、穴が開いていくの……」
 
 
 
 シンジは、電撃に打たれたように、レイの顔を見つめていた。
 
 
 
 なんて……こと……。
 
 
 
 前回も綾波は、ずっとこの部屋に住んでいた。
 
 だから、平気だろうと、心のどこかで思っていたんだ。
 
 
 
 ……僕は、馬鹿だ!
 
 綾波は、もう……以前の綾波とは、違うんだ。
 
 一人でいることの寂しさを、感じるほどに……。
 
 
 
 ……それに、気付いてやれないなんて……!
 
 
 
 レイは、手許のマグカップを見つめたまま、じっと黙っている。
 
 そのカップの中身は、既に冷めていて、湯気もあがらない。
 
 それを見つめるレイの瞳は……深い、哀しみの、赤……。
 
 
 
 シンジは、立ち上がった。
 
 自分の鞄に向かって、歩いていく。
 
 突然のシンジの行動に、レイが驚いて見上げる。
 
 ……帰って、しまうの?
 
 だが、シンジは、鞄に近寄ると、中から携帯電話を取りだした。
 
 手早い動作で、短縮を押す。
 
 かすかに聞こえる、コールの音。
 
 レイは、その様子を、なんだか分からないまま見つめている。
 
 
 
 「……もしもし。
 
 あ、ミサトさん? シンジです。
 
 はい……。
 
 ええ。
 
 ええ、一緒です。……綾波の家です。
 
 ……違いますよ!
 
 ええ、聞きました。分かりましたよ。
 
 それで……綾波を、引っ越しさせたいんですけど。
 
 え?
 
 ミサトさんの家ですよ。
 
 ええ。
 
 いや、そんな悠長な話じゃないんです。
 
 ええ……。
 
 じゃあ、せめて、隣の家に。
 
 そうです!
 
 ここに……もう、綾波を、おいておきたくないんです。
 
 ええ、そうです。
 
 許可? そんなもの、必要ですか?
 
 ここに、綾波一人でおいておくのと……作戦本部長の家の隣に住まわせるのと……
 
 どっちが、いいか、NERVにもわかるでしょ。
 
 ええ。
 
 ……絶対、です!
 
 じゃぁ、今から二人で帰りますから……。
 
 ええ、ええ。
 
 それじゃ、また後で」
 
 
 
 そのころの、葛城ミサト。
 
 切れた受話器を見つめながら、茫然と立ちすくんでいた。
 
 「なんなの……なんで、そ〜ゆ〜結論になっちゃったわけェ?」
 
 ともあれ、これからレイの引っ越しの許可をとりに行かなければならない。
 
 碇ゲンドウのところへ……。
 
 ミサトは、頭を抱えて溜め息をついた。
 
 
 
 鞄に携帯電話を戻すシンジを、レイはキョトンとして見つめていた。
 
 シンジは、再び戻ってくると、レイの前にしゃがみ込んだ。
 
 レイを見つめて、微笑む。
 
 「……さあ、綾波、荷物をまとめて。引っ越しだよ」
 
 「……葛城一尉の家の、隣……」
 
 「そう、そして……僕の家の、隣だよ」
 
 シンジは、立ち上がる。
 
 レイは、その顔を見上げる。
 
 シンジは、再び、微笑む。
 
 
 
 「側にいるよ……綾波」
 
 
 
 レイの心に、温かな波紋が、広がっていく。
 
 レイの足や、手や……指先まで、温かなものに、包まれていく。
 
 
 
 心の隙間が、埋められていく……。
 
 
 
 レイの瞳から、涙がこぼれた。
 
 そして……
 
 至上の、微笑み。
 
 「側に……いて……碇君……」
 
 
 
 レイの荷物は、鞄一つに収まった。
 
 それが、今までのレイの、全てだった。
 
 
 
 これから……増やしていこうよ。
 
 シンジの言葉に、また、レイの心は、満たされる。
 
 
 
 人気のない夜の道を歩く二人。
 
 レイは、シンジのシャツをつかんだまま、離さない。
 
 まるで、手を放すと、シンジがどこかへ行ってしまうかのように……。
 
 シンジは、苦笑した。
 
 葛城邸に着くまでの間、二人に会話はない。
 
 だが、NERVからの帰りの時のような、重い空気は、なかった。
 
 
 
 「……たぶん、許可が下りるのは、早くても明日になると思うんだ。それまで、隣の家には入れないから……ウチに泊まるといいよ」
 
 玄関で靴を脱ぎ、居間の電気をつけると、振り返ってシンジが微笑んだ。
 
 「……ありがとう」
 
 レイも靴を脱ぐと、おずおずと中に入ってくる。
 
 シンジは、隣の部屋にレイを連れて行く。
 
 「アス……この部屋が、空いてるから」
 
 「ハイ……」
 
 頬を染めて、呟くように答えるレイ。
 
 その横顔を見ていると、シンジも顔が赤くなってくる。
 
 
 
 ピルルルルルルルルルル!
 
 
 
 「わぁ!」
 
 突然の電話の音に、シンジは飛び上がって驚いた。
 
 レイは、そんなシンジに驚いている。
 
 シンジは、慌てて電話の受話器を取った。
 
 「はい、葛城です。」
 
 「シンジくん? さっきの許可、おりたから」
 
 ミサトだ。
 
 
 
 予想に反して、ゲンドウは、全く反対しなかった。
 
 「……構わん、許可する」
 
 その、一言だけだった。
 
 一悶着あるものと覚悟をしていたミサトは、少し拍子抜けしながらも、これ幸いと余計なことは口にせず、即座に申請の書類を通したのだった。
 
 
 
 「シンちゃん、強引なんだから」
 
 「すいません……」
 
 「ま、いいけどね。……今日はまだ引っ越せないわよ。正式な許可が下りるのは、たぶん明日になると思うから」
 
 「はい」
 
 「だから、今日のところは、レイはもとの家に……」
 
 「ダメです」
 
 「えっ?」
 
 「……もう、連れてきてますから。アスカ……僕の隣の部屋、空いてますよね? 今晩は、そこに泊めるってことで」
 
 「え! あ、う、う〜ん……」
 
 「どうしたんですか? いいでしょう?」
 
 「……う、う〜ん、まぁ、シンちゃんならいいか……。いいわよ〜」
 
 「? ありがとうございます」
 
 「……ふふふ、私、今日……帰れないからぁ〜」
 
 「……えっ?」
 
 「襲っちゃダメよォ〜」
 
 「しません!!」
 
 シンジは、真っ赤な顔で受話器を置いた。
 
 
 
 シンジとレイは、順番にシャワーを浴びると、シンジの作った料理を食べて、二人で並んでテレビを見た。
 
 レイは、終始、幸せそうだった。
 
 
 
 「おやすみ、綾波」
 
 「……おやすみなさい」
 
 シンジの言葉に、レイも微笑んで、それぞれの部屋に入って行く。
 
 シンジは、ベッドの上に寝転がると、S-DATのイヤホンを耳に付けて、スイッチを入れる。
 
 かすかな回転音の後、クラシックの音色が聞こえてくる。
 
 
 
 綾波のこと、見守ってあげなくちゃ……。
 
 シンジは、静かにそう思った。
 
 なんだか、自分に依存させ過ぎるのではないかという気持ちがあったが、それよりも、レイの心の隙間を埋めてやることの方が、大事な気がする。
 
 事実、レイとヒカリは、友達として、うまくやっているようだ。
 
 ……綾波も、みんなと仲良くやっていける。
 
 僕を頼ってくるのを拒絶するんじゃなくて……しっかりと受け止めてあげたうえで、綾波の手助けをしてやるんだ。
 
 シンジは、そう心に決めると、柔らかな調べに身を委ねて、ゆっくりと瞼を閉じた。
 
 
 
 スラッ……。
 
 静かに、シンジの部屋の襖が開く。
 
 暗闇の中、シンジの部屋に入ってきたのは、レイだ。
 
 ……下着しか、身につけていない。
 
 眠るときは、そうする習慣だから……と言うよりも、レイは寝間着など持っていないのだ。
 
 
 
 シンジは、イヤホンをしたまま、熟睡していた。
 
 S-DATは、すでに回転を止めている。
 
 レイは、シンジのところまで近づくと、そのまま布団を上げて、シンジの横に滑り込む。
 
 
 
 レイは、布団の中で、シンジの腕を両手で抱え込むように、ギュッと抱きしめた。
 
 レイの胸の谷間に、シンジの腕がスッポリと入り込む。
 
 両足を、シンジの足に絡ませる。
 
 そうして、シンジに全身で密着したレイは、やっと安心したように、目を瞑る。
 
 
 
 あたたかい……。
 
 
 
 一人じゃない……。
 
 碇君が……いてくれる。
 
 
 
 ……私は、ひとりじゃ、ない……。
 
 
 
 レイの顔に浮かんだ微笑み……。
 
 それは、これ以上のものなどない、安心しきった、至福の微笑み。
 
 
 
 旧綾波邸。
 
 レイが、必要なものだけをまとめて、あとはそのままに、置いてきた部屋。
 
 窓から、あるじのいないベッドの上を、月光が照らす。
 
 
 
 タンスの上。
 
 そこには、フレームの歪んだ眼鏡が、一つ……。
 
 
 
 カーテンが、風で、静かに、舞った。