第十七話 「感情」
三十七



 朝、教室に来たシンジは、いつものようにトウジやケンスケのところには寄らず、まっすぐ一人の少女のところへ歩いていった。
 
 「おはよう、洞木さん」
 
 シンジは、少女に声をかける。
 
 
 
 ヒカリは、日誌エディタに、今日の授業内容を入力している最中だった。
 
 「えっ? あっ、おはよう、碇君」
 
 ヒカリは、振り返って声をかけた人物を確認すると、ちょっと驚いたような表情で挨拶を返した。
 
 「珍しいね、碇君。私に声、かけるなんて」
 
 「え? よく話すと思うけど」
 
 「そうじゃなくて、朝、学校に来て、私に一番に声をかけること」
 
 「……そうだっけ?」
 
 シンジは、困ったように頭をかいた。ヒカリは、話しながらエディタを閉じ、ノートパソコンをスリープにする。
 
 「いつも、鈴原や相田君のところに行くでしょ。それに……綾波さんがいれば、例外なく綾波さんに、声をかけるし」
 
 「そ、そうだっけ?」
 
 「私はそうでもないけど」
 
 言葉を切って、ヒカリはニコニコしながら立ち上がる。
 
 「クラスの女の子の中には、碇君の行動を逐一チェックしてるコもいるんだから」
 
 「ええ……え? 何で?」
 
 困惑した表情。
 
 ヒカリは、ふぅっと溜め息をつくと、顔を上げてシンジの顔を見る。
 
 「それで、碇君、私に何か用?」
 
 「え……」
 
 「用もないのに、私のところにまっすぐはこないでしょう? ……どうかしたの?」
 
 「うん……」
 
 シンジは、一瞬視線をさまよわせる。そして、またヒカリを見る。
 
 「実は、ちょっと洞木さんに、お願いがあるんだよ」
 
 ヒカリは、シンジを見て微笑んだ。
 
 「私が力になれるんだったら……」
 
 
 
 シンジとヒカリは、中庭のベンチに座って話していた。
 
 一時間目は自習。そういう日を選んで話しかけたのだから、時間には余裕がある。
 
 「……綾波さんに、話しかければいいの?」
 
 怪訝そうな顔で、ヒカリは首をかしげた。
 
 シンジは、ゆっくりと頷く。
 
 「今まで見てて分かると思うんだけど……綾波って、他人と話をしないでしょ?」
 
 「……うん、まぁ……そうかな」
 
 「……やっぱりそれじゃ良くないと思うんだよ」
 
 「………」
 
 「綾波は……たぶん、必要ない、って考えてる。でも、それは、どっちかって言うと「知らない」からだと思う」
 
 「知らない? ……何を?」
 
 「他人の存在……かなぁ」
 
 シンジは、喋りながら深くベンチに腰掛けると、息を吐きながら上を見上げる。
 
 
 
 抜けるような、青空。
 
 
 
 ……前は、僕も似たようなものだったよな。
 
 シンジは、思う。
 
 だが、シンジは、知らなかったわけではない。
 
 他人の存在を知らなかったわけではなく……他人のぬくもりを知らなかったわけではなく。
 
 ……知っていながら、歩み寄る勇気をもてなかった。
 
 ……自分に言い訳をして、偽物の殻に閉じこもり、自分の体ではなく……殻の表面で、他人と付き合っていたに過ぎない。
 
 
 
 よっぽど、たちが悪い。
 
 
 
 (綾波は、違う)
 
 
 
 レイは、本当に、知らないのだ。
 
 他人と接する気持ちを。
 
 他人と何かを分かち合う気持ちを。
 
 ただ、知らないだけ。
 
 真っ白なのだ。
 
 
 
 綾波に、教えてあげたい……。
 
 シンジは、そう思う。
 
 この世界に来て、シンジは変わった。
 
 トウジやケンスケとは、親友として付き合えている……と、信じたい。
 
 トウジやケンスケが、前と違うわけじゃない。
 
 自分から歩み寄らなくては、駄目なのだ。
 
 
 
 僕も、分かったつもりでいただけで、何も分かっていなかった。
 
 ……この喜びを。
 
 綾波に、教えてあげたい。
 
 ……この喜びを……。
 
 
 
 シンジは、深く息を吸い込んでから、また吐く。
 
 ヒカリは、それを黙って見ていた。
 
 シンジは、ヒカリの方を向いて、再び口を開いた。
 
 「……他の人は、きっと綾波を敬遠しちゃうと思うんだ。今までが今までだし……
 
 それに多分、話しかけても綾波は、最初はろくに返事もしてくれないんじゃないかと、思う……。
 
 綾波のことを、分かってくれる人じゃないと、多分、駄目だ。
 
 洞木さんにお願いするしか、思い付かなかったんだ」
 
 「……光栄だけど、なんで鈴原たちに頼まないの?」
 
 「頼むつもりだよ。トウジもケンスケも、きっとわかってくれると思う。
 
 でも、ほら、その……」
 
 「?」
 
 「……男だし」
 
 ヒカリは、ちょっとだけあっけにとられたような顔をして……
 
 吹き出した。
 
 「プッ……ククク……ご、ごめんなさい……フフフ」
 
 「ひどいなぁ、笑うことないじゃない」
 
 ちょっとだけ膨れてみせるシンジ。瞳は笑っている。
 
 
 
 「フフフ……ホントにごめんなさい。あ、おかしかった……」
 
 なおも笑いをかみ殺すヒカリを見ながら、シンジはちょっとだけ首をかしげる。
 
 「笑うのもわからないでもないけど……そこまでおかしなこと、言ったかなぁ?」
 
 「違う、違うの。フフフ……」
 
 笑いをこらえるヒカリを、シンジは不思議そうに見つめていた。
 
 
 
 しばらくして、ヒカリはようやく落ち着いたようだ。
 
 シンジは、ヒカリを見て微笑む。
 
 「落ち着いた?」
 
 「ごめんなさい、本当に……。でも、碇君の言いたいことはわかったわ」
 
 「お願い、できるかな?」
 
 「まかせて。綾波さんも、クラスメイトだもの……私も仲良くしたいから」
 
 「ごめんね、変なお願いしちゃって」
 
 シンジは、申し訳なさそうに、頭を下げた。
 
 「フフ……碇君、本当に綾波さんのこと、好きなのね」
 
 「……え?」
 
 シンジは、一瞬ヒカリの顔を見つめて、それから、途端に耳まで赤くなってしまった。
 
 「い、いや、そうじゃなくて……」
 
 「いいのいいの。好きなんでしょう?」
 
 「………」
 
 真っ赤。
 
 ヒカリは立ち上がると、くるっと回って楽しそうに声を上げた。
 
 「綾波さんは、幸せね。こんな素敵な王子様がいて」
 
 「……王子様って、あのぉ……」
 
 「さ、教室に行きましょう」
 
 ヒカリは歩きだす。
 
 シンジは、慌てて後を追った。
 
 
 
 「……洞木さんはどうなのさ」
 
 「なにが?」
 
 ヒカリは、横に立って歩くシンジの顔を見上げる。
 
 シンジは、さっきヒカリにからかわれたので、ちょっとだけ反撃を試みた。
 
 「トウジのこと」
 
 「……え」
 
 ヒカリは、足を止めて固まってしまう。
 
 思わず2・3歩行き過ぎてしまったシンジは、慌ててヒカリのところに戻った。
 
 
 
 ヒカリは、真っ赤だ。さっきのシンジと同じ状態。
 
 「……な、な、なにを……」
 
 「それこそ、隠しても無駄だよ」
 
 シンジが楽しそうに言うと、ヒカリは俯いてしまった。
 
 「……そんな、こと……」
 
 「ケンスケだって、間違いなく気が付いてると思うよ」
 
 バッ、と目を見開いて、ゆでダコのままシンジを見る。
 
 シンジは、ニッコリと微笑む。
 
 「トウジは、ぜんっぜん、気が付いてないけど」
 
 ヒカリは、ほうっと安堵の溜め息。
 
 
 
 そして、今の自分の行動に気付く。
 
 
 
 トウジが気が付いているかどうかを確認して、安堵する。
 
 それは、トウジが好きだと言っているのと、変わらない。
 
 
 
 「あっ……あ」
 
 口を手で押さえて、真っ赤な顔のまま、泣きそうな表情になるヒカリ。
 
 シンジは、ゆっくりと呟く。
 
 「別に、慌てることなんて、ないと思うけど。
 
 トウジはいいヤツだし、洞木さんとならお似合いだと思うし……
 
 トウジも、洞木さんのこと、好きなんじゃないかな?」
 
 ヒカリは、シンジを見つめる。
 
 「……嘘」
 
 「確認したわけじゃないから……本当はどうだか、わからないけど。
 
 でも、嫌いなわけはないよ」
 
 「でも……あの、あたし、ガサツで、いっつもうるさくて……」
 
 俯きながら、蚊の鳴くような声で呟くヒカリ。
 
 その言葉を聞いて、シンジはちょっとだけ苦笑する。
 
 
 
 その言葉の似合う少女は、まだ、海の向こう。
 
 
 
 もちろん、それ以上に、繊細な少女でもあるわけだけど。
 
 
 
 「トウジが、そんなこと気にするわけないじゃない」
 
 「……そう、かな?」
 
 「そうだよ。僕が保証するよ。
 
 ……そうだ。洞木さん、トウジにお弁当、作ってきてあげればいいんじゃない?」
 
 シンジの提案に、ヒカリは驚いたような顔をする。
 
 「お弁当? でも……」
 
 「トウジ、いっつもパンか学食でしょ。きっと、喜ぶと思うよ〜。洞木さん、料理うまいんだし」
 
 「で、でも、なんて言ってわたすの? そんな、その、……こ、こいびと、みたいなコト……私」
 
 「そんなの、何でもいいんじゃないの? 作り過ぎちゃった、とか、新しい料理の味見とか……洞木さん、兄妹いないの?」
 
 「お姉ちゃんと妹がいるけど……」
 
 「じゃ、それこそ、「せっかく作ったのに妹が忘れてった」でいいんじゃないかな。「パンばっかり食べてるみたいだから、あげる」って」
 
 「………」
 
 再び、頬を染めて、俯くヒカリ。考えあぐねているようだ。
 
 
 
 だが、数秒の後、おずおずと、口を開いた。
 
 「……うん……
 
 ……がんばって、みる……」
 
 シンジも、それを聞いて、ニッコリと微笑んだ。
 
 「うん、それがいいと思うよ」
 
 
 
 洞木さんにも、トウジにも……幸せになって欲しいもの。
 
 
 
 「さ、さあ、碇君! 授業、始まっちゃうよ!」
 
 パァッと、明るい表情になったヒカリは、照れ隠しのように……でも、何か吹っ切れたように言う。
 
 「えっ? あ、もうそんな時間?」
 
 「そうそう、遅れちゃうよ!」
 
 ヒカリが、速足で歩きだす。
 
 シンジは、半歩遅れて、並んで歩きだした。
 
 
 
 「……ありがとう、碇君」
 
 前を向いたまま、小さな声でヒカリが言う。
 
 シンジは、頭をかきながら答える。
 
 「いや、そんな、別にいいよ」
 
 「ううん。こうなったら、私、綾波さんのこと……全面的に協力するから」
 
 「あ……ありがとう」
 
 照れたようにそれに答えるシンジ。
 
 ヒカリは、そんなシンジを横目で見てから、また前を見て、呟いた。
 
 「碇君……私も言ったんだから、教えて」
 
 「え? 何を?」
 
 「綾波さんのこと……好きなんでしょ?」
 
 「あ……う」
 
 「誰にも言わないから」
 
 「………」
 
 
 
 「……うん」
 
 
 
 「フフッ……綾波さん、本当に幸せね」
 
 「そう……かな」
 
 「そうよ。でも、これで、はっきり聞いたわよ。私、応援するからね」
 
 「あ、ありがとう」
 
 「……まあ、必要ないかもしれないけど。二人とも、相思相愛みたいだし」
 
 意地悪そうに、ヒカリが言う。
 
 シンジは、赤くなって黙り込んでしまう……。
 
 「冗談よ、冗談! さ、ついたわよ」
 
 「え? ……あ」
 
 ……いつの間にか、ふたりは教室についていた。



三十八



 二人が到着してすぐ、二時限目の授業が始まり、ヒカリは行動を起こすことが出来なかった。
 
 二時限目が終わり、10分間の業間休みが始まると、ヒカリはすぐに席を立って、シンジとレイの席に歩いていく。
 
 
 
 「綾波さん」
 
 ヒカリは、レイの席の前の空いた席に座り、そのまま後ろのレイに声をかける。
 
 「………」
 
 レイは、チラ、とヒカリの顔を見て、すぐにまた手許の本に目を落とす。
 
 
 
 (綾波……)
 
 シンジは、気が気ではない。
 
 予想された反応だが、シンジが直接ヒカリに頼んだ以上、できればレイには反応して欲しい。
 
 
 
 「綾波さんって、いつも本読んでるのね。どんなの読んでいるの?」
 
 「………」
 
 「面白い?」
 
 「………」
 
 「私も、本をよく読むの」
 
 「……そう」
 
 
 
 返事はしたが、会話が成り立っているとは言いがたい。
 
 ヒカリの話を、まともに聞いているのかもよくわからない。
 
 
 
 「……それに多分、話しかけても綾波は、最初はろくに返事もしてくれないんじゃないかと、思う……」
 
 シンジの言葉が思いだされる。
 
 なるほど、他の人なら、この時点で怒ってしまうかもしれない。
 
 それでも、レイは気にしないだろうが……孤立は深まってしまうだろう。
 
 
 
 (それで、碇君は、わたしに声をかけた……。
 
 これは、責任重大ね)
 
 ヒカリは、頭の中で呟く。
 
 しかし、このままただ話しかけても、レイの側に心境の変化が起こらないかぎり、進展はない。
 
 何しろ、レイがこの状況を苦に感じていないのだから。
 
 
 
 (……でも、私にも考えがあるのよ)
 
 
 
 シンジは、レイに何か言ってやらなければいけない、と思っていた。
 
 だが、何と言えばいいだろう?
 
 たしなめるように言ってレイを傷つけたくない。
 
 遠回しに言っても、おそらく真意は通じない。
 
 お願いして会話してもらっても、意味がない。
 
 
 
 (う〜ん……どうすればいいんだろ……)
 
 だが、このまま気まずい雰囲気で放置しておくわけにもいかない。
 
 ヒカリにお願いしたのは、他ならぬシンジだ。会話がうまく滑り出さないならば、とにかく助け船を出してやらなければ……。
 
 (とにかく、何か言わなくちゃ)
 
 シンジは、軽く身を乗り出して、口を開いた。
 
 
 
 「………」
 
 シンジの言葉は、発せられなかった。
 
 ヒカリが、手を上げてシンジを制したからだ。
 
 横目でシンジを見ながら、軽く首を振るヒカリ。レイは本を読んでおり、その仕草には気が付いていない。
 
 ヒカリは、声を出さず、唇の動きでシンジに話しかけた。
 
 
 
 ……席を外して。
 
 
 
 (え……)
 
 シンジは、最初、要領を得なかった。
 
 だが、すぐに席を立つ。
 
 ヒカリに任せたのだ。自分が邪魔をするのではなく、ヒカリにこの場は任せてみるべきだ、と思う。
 
 
 
 シンジが教室を出ていくのを、レイは顔を上げて見ていた。
 
 少しだけ寂しそうな、表情。
 
 ……それは、特に注意して見ていたヒカリにしか分からない程度の、ごくわずかなものではあったが。
 
 「綾波さん」
 
 ヒカリはレイに話しかける。
 
 レイは、シンジの出ていった扉を見ている。返事はしない。
 
 ヒカリは、特に気にした風もなく、ニコッと笑って言葉をつないだ。
 
 「……碇君が行ってしまって、寂しい?」
 
 
 
 レイは、ヒカリの顔を見た。
 
 
 
 二時限目の授業中、ヒカリは考えていた。
 
 シンジも指摘したように、話しかけてもレイがあまり返事をしないことは、容易に想像できる。
 
 真正面から世間話を持ちかけても無駄だろう。
 
 それならば、レイの気を引きそうな話題に持っていくのが、うまいやり方というものだ。
 
 
 
 (……となれば、碇君の話しかないもの)
 
 ヒカリは思う。
 
 作戦は図に乗ったようだ。先ほどまで、ヒカリの存在などほとんど感じさせなかったレイが、今は自分の方を見ている。
 
 
 
 「……綾波さん、碇君のこと、好き……なんでしょう?」
 
 ヒカリは、いきなり核心に切り込んだ。
 
 「……好き? ……わからない」
 
 レイが、ヒカリの言葉に返事をする。
 
 レイとの会話が初めて成り立ったことに、ヒカリは、思わずガッツポーズをしそうになるのを、こらえていた。
 
 
 
 ……だが、どうも話の内容がかんばしくない。
 
 (好きかどうか、わからない?
 
 あれ……
 
 てっきり両想いだと思ったのに……
 
 違うのかしら)
 
 「綾波さん、碇君のこと、嫌いなの?」
 
 「いいえ!」
 
 今度は、即座に返事が返ってきた。ほとんどヒカリのセリフの語尾を喰うほどの素早さだ。
 
 「あ、そ、そうなの」
 
 「………」
 
 レイは、俯いてしまう。
 
 (??? なんだか、様子が変……)
 
 ヒカリは、いまいち要領を得ず、首をかしげた。
 
 レイの言葉を要約すれば、「恋愛感情を抱くほどではないが嫌いではない」と言っているに過ぎないのだが……どうも、しっくりこない。
 
 「綾波さん、碇君のこと、どう思っているの?」
 
 「……どう……」
 
 「そう」
 
 「…………………………わからない」
 
 (??????)
 
 ヒカリは、また首をかしげる。
 
 
 
 いかりくん……。
 
 碇君のこと……私は、どう思っているの?
 
 どう……
 
 
 
 ……言葉が見つからない。
 
 何と言えばいいのか……わからない。
 
 ……こういう気持ち……
 
 ……なんて、言えばいいの?
 
 
 
 (わからないって、どういうことかしら)
 
 ヒカリが見るかぎり、照れて隠したりしている様子ではない。
 
 レイは、本当に困惑している。
 
 ヒカリは、別の方向からアプローチをかけてみることにした。
 
 「綾波さん、碇君のこと考えると、どんな気持ちがするの?」
 
 レイは、しばらく黙っている。
 
 
 
 そのころの、碇シンジ。
 
 (やっぱり、洞木さんには悪いことしちゃったかなぁ……
 
 でも、他に頼む人なんて思い付かなかったし……)
 
 ひとり、階段の踊り場で、悶々と悩んでいた。
 
 
 
 「……あったかい、かんじが、する……」
 
 やがてレイは、おずおずと言葉を紡いだ。
 
 「あったかい感じ?」
 
 「……そう」
 
 ヒカリの問い掛けに、レイが答える。
 
 
 
 (……もしかして……)
 
 
 
 「綾波さん……碇君と一緒にいると、どんな気持ち?」
 
 「……あったかい」
 
 「……他には?」
 
 「………」
 
 (う〜んと……こっちから、具体的に言ってみたほうがいいかしら)
 
 「綾波さん……碇君のことを考えると、胸がどきどきする?」
 
 「……ええ」
 
 「碇君のこと考えると、頬が熱くなってくる?」
 
 「……ええ」
 
 「碇君のこと考えると……胸が、痛くなる……?」
 
 「! ………………ええ」
 
 しばらくの沈黙。
 
 ヒカリは、考え込んでしまった。
 
 どう見ても、レイはシンジに恋をしている気がするが……では、さきほどの「わからない」は何だったのか?
 
 
 
 「わたし……」
 
 レイが、急に口を開く。
 
 「えっ?」
 
 ヒカリは、慌てて聞き返した。
 
 レイは、視線を宙に漂わせている。だが、ヒカリにも解るほどに、その瞳には困惑の色が現れていた。
 
 「わたし……病気……」
 
 「え……え?」
 
 「動悸不良……不整脈。体温不安定。胸部痛覚異常……」
 
 「え」
 
 「正常じゃないわ」
 
 
 
 ヒカリは、やっと悟った。
 
 そして、がく然とした。
 
 
 
 この、少女は……。
 
 
 
 な……
 
 
 
 な……
 
 
 
 な……
 
 
 
 なんて……
 
 
 
 ……かわいい!!
 
 
 
 「……綾波さん」
 
 ヒカリは、優しい口調で、レイに話しかけた。
 
 レイは、いまだ無表情に……けれども不安なまなざしで、ヒカリを見る。
 
 「……それは、病気じゃないのよ」
 
 「………」
 
 レイは、じっとヒカリを見つめている。
 
 「……病気じゃない……?」
 
 「そう……いえ、女の子なら、みんながかかる病気とも言えるんだけど」
 
 「?」
 
 「それはね……「恋」という名の病なの」
 
 「……こい?」
 
 「綾波さん……あなたは、碇君が……好きなのよ」
 
 
 
 レイは、大きく目を見開いて、ヒカリを見ていた。
 
 ヒカリが今まで見たレイの中で、最も感情があらわれている。
 
 
 
 ややあって、レイが口を開く。
 
 「好き……わたし……碇君を? ……好き?」
 
 「そうよ」
 
 レイは、困惑した表情でヒカリを見て、自分の手を見て、またヒカリを見て……俯いてしまった。
 
 「……すき……いかりくんを……」
 
 レイの頬が、ゆっくりと赤に染まっていく。
 
 その様子を、ヒカリは、優しい瞳で見つめていた。
 
 
 
 すき……
 
 わたし……
 
 わたしは……
 
 
 
 碇君を……
 
 碇君のことを……
 
 
 
 ……好きなの?
 
 
 
 ……これが、好きという気持ちなの……?
 
 
 
 レイは、今まで誰かを好きになったことなどない。
 
 だから、誰かを好きになったときに……自分に起こる変化を認識できなかった。
 
 
 
 だが、「人を好きになる」という感情の存在は理解していた。
 
 レイの読む本は、ほとんどが学術書か詩集の類いであったが、たまに恋愛小説と呼ばれるジャンルも読む。
 
 客観的には、存在を理解しており、また、「好きになる」という感情が、イコール対象にどのような感情を持っているということになるのかについても、また理解していたのだ。
 
 
 
 レイの頬は、完全に紅潮していた。
 
 おろおろとした瞳で視線を漂わせ、ヒカリと目が合うと、バッと下を向いてしまう。
 
 
 
 ……レイは、自分の感情に、完全に戸惑っていた。
 
 
 
 ……碇君のことが、好き。
 
 ……いかりくんのことが、すき。
 
 ……すき……。
 
 
 
 わたしは……
 
 いかりくんが、すき……。
 
 
 
 漠然とした気持ちが形を整えつつあるのにつれ、レイの心は、落ち着かなくなっていく。
 
 
 
 いかりくん……
 
 いかりくんは、わたしのこと、どうおもってるの?
 
 いかりくん。
 
 いかりくん。
 
 いかりくん。
 
 いかりくん……。
 
 
 
 碇君、私のこと……
 
 いかりくん……。
 
 
 
 「かわいいわね、綾波さんって」
 
 ヒカリの言葉に、レイの思考は分断された。
 
 レイは、ヒカリの顔を、キョトンとして見つめていた。
 
 「………」
 
 「綾波さん……はじめて、人を好きになったのね」
 
 「……そう……だと、思う」
 
 「……碇君のこと、気になる?」
 
 「……ええ……」
 
 「……碇君に、好きになって欲しい?」
 
 「!」
 
 レイは、ヒカリの顔を、また見つめていた。
 
 ヒカリは、シンジの気持ちを知っている。だが、シンジはレイにそれを言っていないし、レイも自分の気持ちをシンジには話していない。
 
 自分が口出しすることではない……と、ヒカリは思う。
 
 最後には、当人達が決めること。
 
 それに……自分がシンジに頼まれたのは、そんなことではないのだ。
 
 「綾波さん、碇君が好きなら……待ってるだけじゃ、駄目だと思う」
 
 「……?」
 
 「碇君が綾波さんを好きなら、いつかきっと……碇君の口から、気持ちを語ってくれると思う。
 
 それまで……綾波さん。碇君に見て貰えるように、自分を磨かなくちゃ」
 
 「………」
 
 
 
 自分を……磨く。
 
 自分を……?
 
 
 
 「……わからないわ」
 
 レイは、小さな声で呟いた。
 
 ヒカリは、ニコッと微笑んで、顔を近付けた。
 
 「碇君は、綾波さんのことを、とても気にかけていると思うの。
 
 でも、碇君……とても、心配しているのよ……綾波さんのことを。
 
 綾波さん……クラスの人とかと、話、しないでしょう? いつも一人でいるか、碇君といるか……それしかないもの。
 
 碇君は、綾波さんが孤立しているのが心配なの。
 
 綾波さんに、もっとみんなと話をして欲しいと思っているはずなのよ……きっと。」
 
 ヒカリは顔を離すと、もう一度ニコッと微笑んだ。
 
 
 
 ヒカリの言葉を聞いて、レイは、激しく困惑した。
 
 レイにとって、エヴァとシンジ以外に必要なものなどないように思える。
 
 だが、それでは、シンジが心配するという。
 
 ……他の人たちと話をしたりすることを、シンジが望んでいると。
 
 
 
 だが、レイにはどうしていいかわからない。
 
 シンジには、話しかけることが出来る。
 
 だが、必要のない、他の人に……どうして、話しかければいいのか?
 
 
 
 今まで、そんなことをする必要はなかった。
 
 レイは、生まれてこのかた……他の人間と、「世間話」とでも言うべき会話を楽しんだことなど無いのだ。
 
 
 
 「……どうしていいのか、わからないわ」
 
 レイは、小さな声で言う。
 
 碇君に、嫌われてしまう。
 
 でも、どうしていいか、わからない。
 
 「綾波さん……私と、話をしましょう」
 
 「……えっ」
 
 ヒカリは、机の上に置かれたレイの手を握ると、レイの瞳を見つめる。
 
 深い、赤……
 
 吸い込まれそうな、紅。
 
 (なんて、きれいな瞳をしてるんだろう)
 
 ヒカリは、なかば感動したように、レイの瞳を見つめていた。
 
 同時に、強い母性本能につき動かされる。
 
 「綾波さん……私と、いろいろ話をしましょう。それで、慣れればいいと思う。
 
 それから、みんなと……仲良くなれるように、頑張りましょう。
 
 綾波さん……私、綾波さんのこと、応援する。
 
 綾波さんが、頑張れるように、手伝うから……
 
 綾波さんが、碇君に振り向いて貰えるように、手伝うから」
 
 
 
 レイは、ヒカリの瞳を見つめていた。
 
 
 
 キーンコーン、カーンコーン……
 
 スピーカーから、休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。
 
 教室の外に出ていた生徒達が、慌ただしく戻ってくる。
 
 
 
 「じゃぁ、また後でね」
 
 ヒカリは、握っていたレイの手を放し、立ち上がる。
 
 その姿に、レイが、おずおずと声をかけた。
 
 
 
 「あ……ありがとう……洞木さん……」
 
 
 
 ヒカリの心は、晴れ渡った青空のようだった。
 
 レイの言葉は、ヒカリに、感動すら呼び起こさせた。
 
 ……ただ、礼を言っただけに過ぎない。
 
 だがそれは、ヒカリにとって、その意味以上に大切なものだった。
 
 
 
 「わたしのこと、ヒカリって呼んで」
 
 「……ヒカリ、さん……」
 
 「私も、レイさんって、呼んでいい?」
 
 「………」
 
 コクン、と頷くレイ。
 
 「私たち、これで友達ね」
 
 ヒカリはそう言うと、自分の席に戻っていった。
 
 
 
 友達……。
 
 
 
 シンジが教室に戻ってきたとき、ヒカリはもう自分の席に戻っていた。
 
 (……結局、どうなったのかな)
 
 レイとヒカリが楽しく談笑する姿は、やはり想像しがたい。しかも、自分が席を立つ直前のレイの態度は、ヒカリを受け入れていたとはとても言えなかった。
 
 席に向かいながら、ヒカリの顔を見る。
 
 だが、ヒカリはそ知らぬ顔。「うまくいった」とも「だめだった」とも、その表情からは読み取れない。
 
 
 
 (もしかして洞木さん、怒っちゃったんじゃ……)
 
 恐ろしい想像。
 
 シンジは、ことの成り行きに激しい不安を覚えながら、自分の席に座った。
 
 
 
 「綾波……」
 
 シンジは、恐る恐る、レイに声をかける。
 
 「……碇君」
 
 レイは、頬を染めて俯く。
 
 そして。
 
 「わたし……頑張るから」
 
 小さな声。
 
 「えっ? ……どうしたの、綾波? 洞木さんと、何を話してたの?」
 
 レイは、頬を染めて俯いたまま、シンジの顔を横目で見て、また、慌てたように視線をそらせた。
 
 「綾波?」
 
 「……ないしょ」
 
 
 
 か……かわいいっ!
 
 
 
 しかし、このレイの様子……ヒカリと、何か話をしたのは間違いないらしい。
 
 
 
 うまくいった……のかな?
 
 
 
 「洞木さんと話をして……楽しかった?」
 
 レイは、しばらく黙って……
 
 「……ええ」
 
 「! そ、そう? よかった!」
 
 「……ヒカリさんは」
 
 「え?」
 
 「……ヒカリさんは……大事な、友達だから」
 
 
 
 ……綾……波……!
 
 
 
 ポン、とシンジのノートパソコンから、メールの着信音が鳴る。
 
 シンジが慌てて自分のノートパソコンのスリープを解き、メールの新着ウィンドウを開くと、ヒカリからのメールが一通。
 
 
 
 本文には、メーラに搭載された絵文字の機能で、たったひとつのアイコン。
 
 親指を立ててウインクをした女の子の絵が、貼られていた。
 
 
 
 シンジが慌てて斜め後ろを振り返る。
 
 ヒカリは、シンジと目が合うと、ウインクをして……
 
 
 
 ニッコリと微笑んだのだった。