第十二話 「弁当」
二十



 昼休みになった。
 
 シンジは、今の授業で使った教科書やノートを、鞄にしまいこんでいる。
 
 レイは、窓の外を眺めていた。
 
 
 
 ケンスケがトウジに声をかけた。
 
 「トウジ」
 
 「おう」
 
 トウジが答える。机の中から、朝コンビニで買ってきたパンをとりだした。
 
 「碇。屋上に行こう」
 
 ケンスケは、振り返ってシンジに声をかける。
 
 「うん、わかった。……あ、ちょっと待って……いや、先に行ってて。すぐ行くから」
 
 「なんやシンジ、なんぞ用事でもあるんか?」
 
 「うん……ちょっとね」
 
 「何だよ、気になるな」
 
 「いや、たいしたことじゃないから……ケンスケ、早く行かないと購買のパン、売り切れちゃうよ」
 
 シンジは、何くわぬ顔でケンスケに先に行くよう促す。
 
 ケンスケは怪訝な顔をしたが、トウジは昼食を前にして瑣末なことには構っていられないようだ。
 
 「おう、わかった。はよこいよ、シンジ。……ケンスケ、ほんまに売り切れるで、はよ行かな」
 
 トウジは立ち上がると、ケンスケの背中を「ぱん」、と叩いた。ケンスケも、つられて席を立つ。
 
 「わかった、行くか。……碇、屋上にいるから」
 
 OK、と片手を挙げて答える。ケンスケとトウジは、連れ立って教室を出ていった。
 
 
 
 その後ろ姿を見送ってから、シンジはほっと息を付いた。
 
 これからの行動を彼等に見られたら、また何を言われるか分かったものじゃない。
 
 
 
 基本的に生徒の多くは、教室の外で昼食を取るものが多い。
 
 シンジたちのよく使う屋上もそうだし、購買の横には学食がある。校庭の前の芝生や中庭、講堂前のピロティ、温室のそばにある花壇を囲むベンチ……。
 
 昼食が終わっても、そのままくつろげる空間が、この学校にはわりと多かった。教室に居続けるよりも、気分転換にもなる。
 
 教室に残って食事する者も何人か居たが、その者達も幾人かで固まって机を寄せ合い、お喋りに華を咲かせていた。
 
 
 
 レイは、まだ窓の外を眺めていた。
 
 よく考えてみれば、レイが学校で昼食を取っていたかどうか、シンジにはちょっと記憶がない。
 
 もしかしたら、学校では食事を取っていなかったかも知れない……。
 
 (どっちだったかな……)
 
 だいたい、学校での記憶自体が、わりと乏しかった。それは、慣れないエヴァの操縦や訓練の日々、使徒との命のやり取りに疲れて、日常に意識を固定しておくことができなかったからでもある。
 
 (今度は、学校での生活も、もう少し楽しんでみたいな……)
 
 シンジは、少しだけ微笑んだ。前回の自分とは、大きく考え方が変わっていることに気が付いたのだ。
 
 それは、成長、と言うこともできるだろう。
 
 
 
 そして、それは同時に、ひとつの不可解な疑惑をシンジの心に植え付けていた。
 
 数日前から、ぼんやりと考えていた懸念だった。
 
 
 
 シンジは、ぶるっ、と頭を左右に振った。
 
 ぼうっとしている場合じゃない。あまり遅くなると、ケンスケとトウジも不思議がるだろう。
 
 シンジは、教室に残った理由を果たすために、鞄の中に手を入れた。



二十一



 レイは、まだ窓の外を眺めていた。
 
 校庭では、いちはやく食事を終えた者たちが、サッカーボールを追いかけている。
 
 それを、レイは、ただ眺めている。
 
 
 
 レイの瞳はサッカーボールを追っていたが、別にそれに注目している訳ではない。
 
 ただ、動くものに視線がつられているだけで、レイ自身は何も見てはいなかった。
 
 レイの視線は、実際には自分の頭の中に向けられていた。
 
 
 
 (碇君)
 
 レイは、自分の頭の中にいた、その少年の名を、心の中で呟く。
 
 (碇君……)
 
 レイは、授業中も、ごくたまに、隣にいるシンジの横顔に目をやっていた。もちろん、シンジはそれにまったく気が付かなかったが。
 
 (いかりくん)
 
 レイは、数時間前の騒動を思い出す。
 
 
 
 あの、相田という少年は、自分のことを「碇の彼女」と言っていた。
 
 「碇の彼女なんじゃないのか?」
 
 (彼女……)
 
 彼女って、なんだろう?
 
 言葉としての意味なら、理解していた。彼女とは、今その場にいない、けれども話題の中に入る女性を指して使う、三人称の言葉だ。
 
 ただ、その使用法では、さきほどの言葉の意味は通じなくなる。
 
 (碇君の彼女……「碇君の」ということは、碇君を中心として、そこから関連性のある事柄だということ。でも、単なる三人称としての「彼女」という言葉では、文章として捉えることすらできない……。
 
 わたしが、碇君の、なんだというのだろう……。
 
 ……わたしは、碇君の、「なにか」なのだろうか?
 
 ……碇君……碇君……わたしが……。
 
 わたしが……
 
 碇君の、「なにか」になることが……)
 
 
 
 「綾波」
 
 すぐ後ろで、声がする。
 
 レイは、ゆっくりと視線をシンジの方にむけた。
 
 「なに?」
 
 「はい、弁当」
 
 シンジは、手にもっていた弁当箱を差し出した。
 
 
 
 朝、自分やミサトの分と一緒に作っていたものだ。
 
 レイはシンジから弁当箱を受け取ると、手許のそれを見つめた。
 
 「昨日、約束したでしょ。口に合うかどうかわからないけど……これからしばらく、持ってくるから」
 
 シンジはそう言うと、レイを見つめて微笑んだ。
 
 「……碇君」
 
 「ん? なに?」
 
 「……これ、碇君が作ったの」
 
 「そうだよ」
 
 答えてから、いたずらっぽい瞳で声を潜めた。
 
 「ミサトさんに作らせたら、ものすごいものができちゃうからね」
 
 だが、レイは、その言葉には特に反応を示さず、手許の弁当箱を見つめ続けていた。
 
 
 
 碇君の作った……お弁当。
 
 
 
 「あの……綾波?」
 
 シンジが声をかけた。
 
 (もしかして……迷惑だったかな?)
 
 だが、その言葉は口にしなかった。この場にアスカがいたら、また「すぐウジウジして」と叱られる所だな、と思ったからだ。
 
 そのことに気付くこと自体、昔のシンジとは変わっていた。
 
 シンジは、そのまましばらくレイを見つめていた。レイも、しばらくの間、弁当箱を見つめていた。
 
 やがて、レイは口を開く。
 
 「このあいだの……」
 
 「うん」
 
 「お弁当……碇君の作ってくれた……」
 
 「うん」
 
 「……おいしかった……とても……」
 
 「う、うん、そう?」
 
 「これも……きっと、おいしい」
 
 「だったらいいけどね……あ、別にそのつもりでつくった、ん、だ……けど……」
 
 シンジの言葉は、急速に小さくなった。
 
 レイが、突然シンジの方を向き、じっとシンジの瞳を見つめたからだ。
 
 「碇君は、教えてくれた」
 
 「な、なにを?」
 
 「おいしい食事は……楽しい」
 
 「う、うん、まぁ……」
 
 多少どもりながら答える。
 
 (でも、そんなに短絡的な意味で言った訳じゃ……)
 
 もちろん、おいしいものを食べれば楽しいだろう。だが、例えばリツコがただ美味しい食事を食べたら楽しい気分になるだろうかと考えると、ちょっと自信がない。
 
 (ようは、気持ちの問題なんだよな)
 
 リツコも、「これから美味しいものを食べに行こう」と思ってレストランにでも行けば楽しいだろう。逆に、慌ただしい実験の最中、徹夜明けに片手でレポートをめくりながらの食事では、ちょっと美味しいくらいでは何も感じまい。
 
 「楽しい」と考えようとする気持ち……それも大事なのだ。
 
 Aと言えばB、あるいはスイッチを入れれば部屋の電気がつくように、「美味しいものを食べれば自動的に楽しいと言う感情があらわれる」というわけではない。
 
 (そのこと、綾波に説明しなきゃ……)
 
 シンジは、再びレイに声をかけようとした、そのとき。
 
 元のように手許の弁当箱の方に顔の向きを戻していたレイが、目をつぶって口を開いた。
 
 「これが……」
 
 「え?」
 
 シンジが聞き返す。
 
 「これが……楽しい、という気持ち……」
 
 そのまま数秒、じっと目をつぶったあと、ゆっくりとまぶたを開き、またシンジの方を向く。
 
 ほのかに紅い頬をして、やさしい微笑み。
 
 「とても……気持ちのいい……暖かい、気持ち……」
 
 
 
 碇君のつくってくれたお弁当……
 
 このあいだのお弁当もおいしかった……
 
 きっと、これも……
 
 ………
 
 あたたかい、きもち。
 
 碇君のきもち。
 
 ………
 
 わたしにつくってくれたお弁当……
 
 赤木博士は、栄養を摂取するという意味以外では、食事の必要性はないと言っていた。
 
 碇司令は、特に何も言っていなかった。
 
 だれも、こんなこと教えてはくれなかった。
 
 ………
 
 必要が、ないから。
 
 おいしい食事は、楽しい。
 
 でも、食事が楽しい必要なんて、別にないから。
 
 でも……
 
 ………
 
 食事は、たのしい。
 
 碇君が作ってくれた食事を食べるのは、楽しい。
 
 これは、必要のない気持ち?
 
 でも……
 
 ………
 
 あたたかい、きもち。
 
 いかりくんが、いつもかんじさせてくれる、あのきもち。
 
 たのしい、きもち。
 
 うれしい、きもち。
 
 あたたかい、きもち。
 
 もっともっと、かんじたくなるきもち。
 
 ………
 
 いかりくんだけが、わたしにくれる、きもち……
 
 ………
 
 
 
 これは……ひつようのないきもちじゃ、ない……。
 
 
 
 レイの心は、また暖かい気持ちに包まれていた。
 
 優しい瞳のまま、シンジのことを見つめている。
 
 誰かが見たら、間違いなく恋人同士の愛の語らいの最中だと思うだろう。だが、今は幸いにも、ふたりに注目しているものはいなかった。
 
 シンジは、完全に硬直していた。
 
 弁当を作ってくる以上、もちろん喜んでくれればいいな、とは思っていた。
 
 だが、普段のレイからして、これは予想をこえた反応だった。
 
 そのまま、数瞬の時が流れる。
 
 「……ありが、とう……」
 
 レイが口を開いた。シンジも、その言葉に呪縛から解き放たれる。
 
 「い、いや、そこまで喜んでくれると、僕も嬉しいよ。また、しばらくは作ってきてあげるから……」
 
 ちょっと紅くなりながら、シンジが答える。
 
 「うん……」
 
 「じゃ、じゃあ、トウジとケンスケが待ってるから、僕は行くね。食べ終わったら、箱は僕の机に置いておいてくれればいいから」
 
 「………」
 
 「じゃ、またあとでね」
 
 本当は、行ってほしくない。
 
 そうレイは思ったが、その根拠が見つからない。
 
 シンジは、自分の弁当箱を掴んで立ち上がると、軽く手を振ってから、教室を出ていった。
 
 
 
 レイが弁当箱をあける。
 
 病院で使ったものと同じ、紅い塗り箸で、卵焼きをつまみ、口に運ぶ。
 
 おいしい。
 
 やっぱり、おいしい……。
 
 レイは、ゆっくりと箸をすすめていく。
 
 そして、同時に、さきほどの自分の言葉を反芻する。
 
 
 
 ありがとう。
 
 感謝の言葉。
 
 
 
 ……はじめての言葉。