十九
朝。
葛城家の台所で、朝餉の音が聞こえる。
エプロンをしめて、まな板の上でネギを刻んでいるのは、シンジだ。
シンジの料理の腕前は、並の料理人をはるかに凌駕していた。それは、伯父夫婦のところで暮らしていた頃にも幾度となくふるわれてきた腕前であったが、特にミサトとの同居を始めてから、著しい上達を遂げていた。
もちろん、前回の同居期間を含めての話である。
ミサトはオール・レトルトでも構わないようであったが、シンジは育ち盛りの中学生だ。やはり、きちんと調理したものを食べたい。そして、ミサトは逆立ちしたって作ってはくれないのだ。……いや、作れない、と言うべきか。
結果的に、料理はシンジの担当となった。
シンジは、自分からそれを選んだ。前回の経験から、ミサトに家事一般を任せても意味がないことに気が付いていた、ということもある。だが、それ以上に、自分の料理を食べて喜んでくれる同居人がいる、と言う事実は、彼に暖かい気持ちを抱かせていた。
「……っと、よし、できた」
シンジは、用意したみっつの弁当箱に、できたての料理を詰め込んだ。
ひとつは、自分のもの。ひとつは、ミサトが起きてきてから食べる分。ひとつは……。
「さて、行ってくるか。ペンペン、ミサトさんが起きたら、この弁当渡しておいてね」
「クエッ、クエッ」
「それじゃ、行ってきます」
シンジはふたつの弁当箱を鞄につめると、玄関の扉をあけ、出ていった。
教室に入ると、シンジは自分の席に向かった。
転入して三日目……。
レイは、今日、学校に来られるようになるはずだ。
自分の席に辿り着き、隣の席に目をやる。
レイは、まだ来ていないようだ。
シンジは鞄を置くと、再び立ち上がり、トウジとケンスケのもとに歩いて行った。
トウジとケンスケは、すでに登校していた。他愛のないお喋りに興じている。
「おはよう。トウジ、ケンスケ」
「おぉ、おはようさん」
「おはよう、碇」
ふたりはシンジと朝の挨拶をかわす。
「なぁ、碇、知ってるか?」
「? なにが?」
「おまえの隣の席、空いてると思ってるだろ? それが、違うんだなぁ〜」
ケンスケがニヤニヤしながら話を続ける。シンジには、ケンスケが何を言いたいのか、大体読めたが、黙っていた。
「そう? 違うの?」
「フフン。聞いて驚け。あの席にはな、女の子がいるんだよ。それも……チョ〜、美形がなぁ!」
トウジが、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「確かに綾波は美人だとは思うがの、いかんせん性格が悪すぎじゃ」
「そうなの?」
何くわぬ顔をして、シンジがトウジに問い掛ける。
「おお、なんちゅ〜かのぉ〜……人を寄せつけん、ちゅうか……呼び掛けても返事もせんしな」
そうだろう、とシンジは思う。
この頃のレイは、人との関わり合いなどに、全く意味を見い出していなかった。誰とも関わりを持たず、それに一抹の疑問も抱かなかったはずだ。
「もう少し、こう、なんちゅ〜かのぉ、可愛げっちゅうもんがあるやろ」
「わかってないなぁ、トウジ」
ケンスケが、指先を口元で左右に振ると、チッチッチッと音をたてた。
「なにがわかってないんや」
「あの素っ気無さが、結構人気あるんだぜ」
トウジが、下らない、という目でケンスケを見る。
「アホか。素っ気無いも何も、完全一方通行やぞ。人形相手にしとるのと変わらんやないか」
「だから、それがいいのさ。綾波の写真、かなり人気あるんだぜ」
「写真はモノ言わんからの」
「ま、な。実際に綾波とおつきあいしようとなると覚悟が必要だけど、そこまでしなくてもいいファンってのは多いもんさ」
「う〜む。ワシにはようわからんが、写真も一番売れとるんやろ」
ケンスケは、大きく溜め息を付いた。両手のひらを上にあげて、大袈裟に肩を竦めてみせる。
「なんや。違うんか? こないだまで、一番て言うてたやないか」
「……トウジ」
ケンスケが、顎で横の少年をさした。
そして、ケンスケとトウジが、同時にシンジを見る。
シンジは、急に見つめられて、意味が分からずに当惑している。
「な、なに? どうしたの二人とも?」
二人はしばらくじっとシンジをみつめて、申し合わせたように溜め息を付いた。
「……そういうことかい」
「俺だって、男の写真なんか撮りたかないさ。でも、何しろ人気があるからなぁ……」
何のことだか分からないシンジ。
「ねぇ、どうしたのさ二人とも」
「やかましいわい。くのっ、くのっ」
「……まったく、本人に自覚がないってのがまた、始末に悪いよ」
しかし、実際には、「そこ」がまたいい、という評価が下っているのを、ケンスケは知っていた。
下手に自分の美しさを鼻にかけて横柄な態度を取るのに比べ、シンジの初々しさ、無邪気さといったら、どうか。
(で、ますます人気が上がるんだから、これがもし狙っての演出だったら、最高級の策士だよな)
だが、そんなことはないのも知っている。
あの日……この少年と、初めて言葉をかわした日を、ケンスケは鮮烈に覚えている。
シンジは……そういう男なのだ。
それに、もし狙っての演出なら、その初々しさを武器に、もっと女生徒といろいろ接触しようとするだろう。だが、シンジはいつもケンスケとトウジと一緒にいる。
(……おかげで、ホモじゃないかって噂も上がってるけど……)
いくらなんでもそればっかりは願い下げなケンスケであった。
もちろん、シンジがホモではないのもわかってはいたが。
「……しかし、あれやな。こんだけ女に人気がある男なんや、綾波はどう思うかのぉ」
「えっ? 誰のこと?」
「やかましいわい。くのっ、くのっ」
「……そうだなぁ。でもさ、綾波って、男になびきそうに見えないよな」
「まぁな」
「ねぇ、誰のこと?」
「やかましいわい、くのっ、くのっ」
そのとき、ガラッと教室の扉が開いた。
(綾波……)
シンジはその姿を瞳に映す。
レイは、教室にはいってくると、まっすぐ自分の席にむかって進んだ。
まわりの様子など、まったく目に入っていない。それは、いつもと変わらぬ姿だった。
そして、席まで辿り着くと、椅子を引いて席に腰掛ける。
鞄から本をとりだすと、それを読みはじめた。
レイのことを、シンジがじっと見つめていることにケンスケが気が付き、ニヤニヤしながら声をかけた。
「どうだい、碇? あれが綾波だよ」
「うん……そうだね」
「な? 美人だろ?」
「うん……かわいい」
教室の空気が、ビキッ、と凍り付く。
先程からの会話の流れで、教室中の生徒が、三人の会話に聞き耳をたてていた。
あの華麗なる転校生は、女生徒人気ナンバー・ワンの綾波レイに対し、どういう反応を示すのか?
(おねがい、碇く〜ん、あの子に興味なんか示さないで……)
(綾波さん、碇君に気が付いたら、どんな顔するのかしら……きっとまた全然興味示さないわね。うん、きっとそうよ!)
(碇君、綾波さんのことかわいい、って……やめてぇ〜、わたしというものがありながらぁ〜)
(綾波さん……キミも、あの男をカッコイイなどと思うのかい?)
(碇……綾波さんがかわいいのは当たり前だろ! ふざけんなよ!)
(綾波さん……いくら碇が美形でも、ぼくらの歴史の長さにはかなわないよね……)
教室中の人間が勝手なことを考えてやきもきしている。
この教室内の不穏な空気に気が付いていないのは、シンジとトウジ、それにレイくらいだろう。
ケンスケは、それに気が付いて、面白がって拍車をかけてみることにした。
「へぇ、碇、やっぱり綾波のこと、かわいいと思うんだ? どう、声でもかけてみたら?」
(相田ァ! なに言ってんのよ!)
(アンタは写真だけとってりゃいいのよ!)
(でも、声をかけたらどう反応するかしら……まさか……イヤァ〜やめてぇ〜)
(ケンスケ……殺す)
(碇……やめろ、やめてくれぇ)
(ケンスケ……さようなら……だな)
ケンスケは、教室の空気の何割かが自分への敵意に変わったことに敏感に気付き、慌てて前言撤回しようとした。
「い、いや、初対面なのに声をかけるのもへんだよな、アハハ……」
「いや、いってくるよ」
「え、お、おい、碇?」
そのまま、シンジは、自分の席……レイの隣の席に向かって歩き出した。
ケンスケの、シンジを制止しようとした手は、空しく宙でとまったまま。
今や、教室中のありとあらゆる目が、この美少年と美少女の動きに注目していた。
シンジは、自分の席にたどりつく。
レイは、本に目を落としたままだ。どうやら、気が付いていないらしい。いや……気が付いていたとしても、他の人間の動きなどに関心を示さないのだろう。
レイのいつもとかわらぬ様子に、教室の空気が、少しだけ和らぎかけた。
「綾波、おはよう」
シンジが、声をかけた。
レイが、その声に反応し、顔をあげた。
「……碇君」
その言葉には、幾分の驚きが入り混じっている。クラスメイトたちにとって、それは初めて見るレイの「感情」だった。
「おはよう」
「……おはよう」
「大丈夫?」
「……なにが?」
「身体。病み上がりで」
「……大丈夫。心配しないで……」
「そう。……よかった」
教室の空気は、半ば石と化していた。
綾波レイが、他人と会話している。おはよう、という挨拶に反応すること自体、今までは絶対にありえない光景だった。
まして、世間話をするなんて……。
それに、二人の会話の内容。
レイは、シンジが名乗る前に、「碇君」と呼び掛けた。
それに、シンジはレイを「病み上がり」という。レイが学校を休むことは珍しくなかったので、レイが病気(本当は怪我だが)で休んでいるとは誰も知らなかった。
……ふたりは、知り合いなのか?
周りの人間の様子にまったくお構いなしのふたり。シンジは、椅子を引いて自分の席に腰掛けた。
「隣の席だね。よろしく、綾波」
「……よろしく」
碇君……。
おんなじ……クラス……。
そうね……適格者がまとめられているのだから、当たり前だけど……。
………。
席、隣どうし……。
碇君の、隣。
となり……。
………。
また、あたたかい……。
………。
あたたかい……そう……あたたかいのは、碇君なのね……。
レイは、それ以上話さなかった。
だが、今まで氷のような印象だったレイが、明らかに和らいでいる。
それは、シンジにとっても嬉しかったが、それ以上に、周りの人間を驚愕させていた。
そして……。
「碇君……」
「ん? なに?」
「……うれしい……よろしく」
そして、ゆっくりと、微笑んだ。
(うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!)
(綾波さんが……綾波さんが…)
(わらってるううううううううう!)
(かわいい! かわいい! かわいい……けど……うおぉぉぉぉぉぉぉ!)
教室中が、(心の中で)叫びのるつぼと化している。
トウジとケンスケも、異常な事態に慌ててシンジのそばに駆け寄った。数々の疑問を、直接聞いて解決できるのは、このふたりだけなのだ。
「お、おい、シンジ!」
「ちょっと、碇!」
ふたりが同時に声をかけ、シンジがそれに気が付いて振り返った。
「あれっ? どうしたの、ふたりとも血相かえて?」
この異常な空気に気が付かんのかい! というツッコミをいれたいのを必死に堪えると、ふたりはシンジに問い掛けた。
「碇、綾波と知り合いなのか?」
「うん、まあ……」
「なんや、先に言うてくれたったらええのに」
「そ、そうだね、ゴメン」
「でも、碇って、引っ越してきたばっかじゃないか。いったい、いつ知り合ったんだ?」
そう、それは確かに疑問だ。それに、その短い期間に、レイの心がこれだけ開かれるとは……ふたりは一体、どんな関係なのか?
教室中の人間が、かたずをのんで見守った。
シンジは、一瞬逡巡した。
本当のことを言うべきだろうか?
ふたりの反応を見る限り、レイはエヴァのパイロットであることを明かしていないようだ。
だが、それは聞かれなかったから答えなかっただけで(聞かれても無視したかも知れないが)、特に隠していた訳ではないだろう。
それに……。
シンジは考える。
レイは、確かに、シンジに対して、わずかずつ心を開いている。
だが、それは、自分に対してだけだ。
本当に心が成長するには……誰とでも、普通に接することができなくてはならない。
シンジだけでは、できることも限られてくるだろう。
ほかのみんなと、接触の機会をもつ……。
まだ、唯一、心を開く存在であるシンジに対しても、ごく初期の段階だ。いっぺんにいろいろな人と接触を持つには、少し早いかも知れない。だが、きっかけくらいなら、あった方がいいかも知れない……。
そうだ……な……。
シンジは考えを巡らせたが、それは時間にして一瞬のことだった。
シンジは、ケンスケの問いかけに答えた。
「ああ、綾波も、エヴァのパイロットなんだよ」
「なあああああにいいいいいいいいいいいいいい!!!」
叫んだのはトウジとケンスケだけではない。ほぼクラス中の人間が、立ち上がって叫んでいた。
クラス中が反応したことに、シンジは驚いてつぎの言葉が接げない。
もちろん、ケンスケとトウジも驚いていた。
「あ、綾波って、エヴァのパイロットなのか!?」
「あ……う、うん、まぁ……」
「ホンマか? そりゃ、ビックリしたわ……なるほどなぁ」
「? なにが、なるほど、なの?」
「いやぁ……やっぱ、死線をともにくぐるっちゅうことで、芽生えるものもあるんじゃろぉなぁ」
「そうそう……他の誰とも分かち合えない絆がふたりを近付ける……というか」
シンジは要領を得ない。
「??? 何を言ってるの、ふたりとも?」
「いーや、みなまで言わんでええ。ワシらにはおまえらの間に入るなんぞとうていムリや」
「そうそう……ふたりが愛しあっていても、それを見守るしかないんだよね……」
クラス中の溜め息。
ようやく、ケンスケ達の言わんとすることがわかり、シンジはたちまち耳まで赤くなった。
「なななななな、なに言ってるんだよふたりとも! そんなんじゃないって!」
ケンスケとトウジが、ジロッとシンジを睨む。
「なに言ってるんだよ。そうでもなきゃ、綾波がそんなに楽しそうにするわけないだろ」
「そや。ここには、綾波とロクに会話したモンもおらんのやで。そのうえ、綾波が笑いかけるちゅうたら、デキとるとしか思えん」
「そんなことないってば! 綾波だって、けっこう話すし笑うよ」
「……だから、碇が彼氏だからだろ、それは……」
「だから、違うってば!」
真っ赤になりながら、ふと気付いて、シンジはレイの方に振り返った。
レイは、皆のやりとりを、平然と見ている。
トウジもそれに気が付いて、シンジに声をかけた。
「ホレ、見てみい。綾波なんぞ、囃し立てられても平然としとるわ。つきおうとるんやなかったら、なんで否定せんのや」
「あっ、綾波……」
シンジが、トウジの言葉に釣られたように、レイに声をかけた。
レイの視線が、シンジの方を向く。
「……何?」
「あっ、あのさ……」
「綾波、碇とつきあってるんだろう?」
横からケンスケが口を出した。シンジが確認を取ったのでは信用できない、と思ったのだろうか。あるいは、滅多に話さないレイと会話するチャンスだと思ったのかも知れない。
「………」
レイは、ほんの一瞬だけ、ケンスケの方に目をやったが、すぐにシンジの方に視線を戻した。
何も答えない。
「綾波って、碇の彼女なんじゃないのか?」
ケンスケは、ひるまずにたたみかけた。レイに無視されるのはいつものことなので、あまり堪えない。
レイは、ケンスケの言葉にも特に反応を示さなかった。
だが、視線はシンジの瞳を捕らえて話さない。もちろん、他の生徒とそんなことをしたことはない。答えなくともこれが正解を示しているようなものだ。
「綾波……」
呟くように、シンジはレイの名を口にする。
横で見ていたトウジが、半ば呆れたように口を出した。
「なんや……自分ら、いま何やっとるかわかっとるんか? そんなふうに見つめおうてラブラブ光線だしといて、つきおうてない言うんかい」
ケンスケも、眼鏡の中央を右手の中指でクイ、と押し上げた。
「本当だよ……照れるのは理解するけど、嘘を付くとは大罪に値するね」
ふたりの言葉に、周りの生徒達も頷いたりヒソヒソ話したりしている。
シンジは、レイの視線につかまって頭が真っ白になりそうだったが、トウジとケンスケの言葉に反応して、レイの視線を無理矢理引き剥がした。
「ちっ、ちがうってば! そんな……」
「……碇君」
突然、レイが口を開いた。
教室が、シン……と静まり返る。
静寂の中、シンジが少し慌てながらも、ゆっくりと振り返った。
レイが、シンジのほうをじっと見ている。
「な、なに? 綾波」
シンジが、おずおずとレイに声をかけた。
レイは、小首をすこしだけ傾けて、シンジの瞳をじっと見つめている。
(うっ……)
なんてかわいいんだ、とシンジは思う。これは反則だ。
レイが、ゆっくりと、再び口を開いた。
「……彼女って、なに?」
教室には、みんなが盛大にズッコケる音が響いていた……。