十二
レイが目覚めたことで、当初の約束通り、シンジは訓練を開始した。
レイが目覚めたその翌々日、最初の訓練。初めての搭乗で使徒と闘い、その直後からレイにつききりだったため、実際には、エヴァに乗るのは公式にはこれが二度目となる。
発令所は、一種異様な緊張感に包まれていた。
「どうかしらね、シンジくん……」
ミサトが漏らす。
「このあいだのが偶然でないことを祈るわ」
リツコが返す。
つまり、発令所の緊張の原因はそういうことであった。
通常は、レイのように、幾度も訓練と実験をくり返すことで、数カ月かけてようやくシンクロ率を起動レベルまでもっていくことができる……。しかも、それを安定させるには、また度重なる訓練が必要だった。
レイしかり、ドイツのアスカもしかり、みな「修行」とも言える訓練に耐え、ようやく今のレベルまでもってきたのだ。そして、この二人以外にエヴァに乗ることのできる者がいなかったため、「そういうもの」として、今まで捉えられてきたのだ。
その常識を、この少年は覆した。
いや、そんな生易しいものではない。初エントリー、しかも訓練経験なしのまったくの素人が、いきなり起動レベルをはるかにこえる80%台のシンクロ率を叩き出す。それは同時に、今までレイにもアスカにも到達できなかった領域に、いとも簡単に踏み込んだことを意味していた。
そして、操作方法の説明もうけないまま、まるで自分自身の身体であるかのようにエヴァを操る。
まだ展開の仕方すら解明されていなかったATフィールドを使いこなし、応用までしてみせる。
……これらの事態について、誰も適切な説明をすることができなかった。
実際には、NERVの理論に誤りはない。シンジは確かに、「度重なる訓練の結果」このシンクロ率を達成していた。……もちろん、初めてのエントリーで起動や操作に成功したのは事実ではあったが、ここまで超人的なものではなかった(第一、動かして間もなく初号機が暴走し、彼の支配下から外れていたのだ)。
だが、そんなことを、今のNERVが知るはずもない。
「……起動実験開始!」
リツコの声が発令所に響いた。
エントリープラグの中で、シンジはまったく別のことを考えていた。
(綾波のこと……どうしようかな)
昨日もレイの見舞いに行ってきたのだが、普段の彼女から比べると、レイの物腰はいくぶん柔らかかった。
そして、それはもちろんシンジの存在によるものだ。
シンジのほうから積極的に接触を持ち、レイのためにいろいろと世話をしてやれば、レイの心は以前よりも早く、ずっと人間に近くなっていくだろう。そしてそれが、シンジの望む道でもあった。
だが……。
(う〜ん。昨日の綾波も一昨日の綾波も、前のときの綾波と特に変わらなかったなぁ。やっぱり初対面じゃ、さして影響も与えられないか。う〜ん……これから綾波になにをしてあげれば、綾波を助けてあげられるのかなぁ〜)
……肝心のシンジが、レイの変化に全然気付いていなかった……。
思考のループに入り込むシンジ。
リツコの、実験開始の声も全然聞こえていない。
「シンクロ率……40.2%」
マヤの声が響く。
40.2%……。
発令所に、安堵とも落胆ともつかない溜め息がもれた。
「ふぅ……ん」
ミサトが計器パネルに寄り掛かる。
「まぁ、起動レベルは確保か。これでも充分すごいのよねぇ」
一方、リツコは、明らかに落胆していた。
「このあいだのは、なんだったのかしらね……凄い実験材料が手に入ったと思ったのに」
「実験材料って、あんたねぇ〜」
「なに言ってるの。事実でしょう……チルドレンによる実験。その結果を解析。次回の戦闘に活かす」
「そりゃそうだけど、言い方ってモンが……」
「どうでもいいでしょう、そんなことは。……でも、ふに落ちないわ。このあいだのシンクロ率、ホントになんだったのかしら」
「ビギナーズ・ラック?」
「そんなのあるわけないでしょ」
「そりゃそうか……」
「………」
「……本人に聞いてみたら?」
ミサトの言葉に、リツコは手許のモニタに映る映像に目をやった。エントリープラグ内の映像。中央にシンジの顔が見える。意識を集中させているような表情……。
「……そうね。このあいだと今回とでは何が違うのか。本人に聞くのが一番早いわね」
リツコは、マヤのコンソールに手をのばし、画面に向かって呼び掛ける。
「シンジくん」
レイのことで頭がいっぱいになっていたシンジは、リツコの声で現実に引き戻された。
モニタにリツコの顔が映る。
(あっ。まずい、ボーッとしちゃったな……)
「あ、は、はい、なんですか? 起動実験、開始しますか?」
ピクピク。
リツコは微笑んでいた。だが、そのこめかみに、青筋が立つ。
ミサトは気が付いていた。こういう状態のリツコには、もっとも近寄ってはならないことに。
マヤも気が付いた。こういう状態のリツコには、逆らってはならないことに。
「……シンジくん?」
リツコの表情の変化に気が付き、シンジはおびえるように硬直した。
「は、はい。な、な、なんでしょう」
「起動実験……」
「は、はい?」
「……とっくに、開始してるんだけどねぇ」
シンジの全身に鳥肌が立つ。
「あ、あ、あ、あの、ちょ、ちょっと考え事を……」
足下から、氷のような冷気がのぼってくる感覚。
はりついたような笑いを浮かべながら、しどろもどろで返事をする。
そのまま数秒、沈黙が流れた。
シンジにとってそれは、何十分ものあいだ、悪魔に心臓を掴まれたままでいるようなものであった。
リツコはゆっくり、大きく溜め息をついた。
発令所全体を包んでいた緊張が、ほどけていく。
シンジも、身体中の力が抜けるような感覚を覚えていた。
「……起動実験をやり直します。みんな、準備して」
一番近くにいたために生きた心地のしなかったマヤは、その言葉に弾かれるようにキーボードを叩いた。……とばっちりをくわないように。
「シンジくん」
「は、はい!」
「今度は集中しなさい」
「は、はい、すいません……」
「情けない結果だったら、ただじゃおかないわよ」
「……は、は、はい!!」
蛙が踏みつぶされたような、情けない声をあげるシンジ。マヤは思わず吹き出しそうになったが、もちろん自分の寿命を縮めるような真似はしない。
起動実験が再開された。
「主電源接続」
「全回路動力伝達」
「第2次コンタクト開始」
「A10神経接続異常なし」
「初期コンタクト全て異常なし」
「起動」
「……シンクロ率……86.5%……」
シンジがエントリープラグからでてくると、ケイジにリツコとミサトが立っていた。
「ごくろーサマ、シンジくん」
ミサトが声をかける。シンジも微笑みでそれに応えた。
リツコの機嫌はどうなのか、シンジは内心ビクビクしていたが、思ったほど怒っていなかった。実験の結果が良好だったので、なんとか機嫌を直したようだ。
「ホントは絞ってやるとこだけど……ま、いいわ。これからは定期的に実験するわよ」
「はい」
「今日はおつかれさま。帰っていいわよ」
「わかりました」
シンジと言葉をかわした後、リツコはすぐにきびすを返して発令所に戻っていった。おそらく、今回の実験のデータを解析するので、今晩は徹夜するつもりなのだろう、とミサトは思う。
ミサトはリツコの後ろ姿をしばし見送った後、シンジの方に向き直った。
「シンジくん、今日はまっすぐ帰る?」
「いえ、綾波のところにちょっと顔を出してからにします」
「またぁ〜? 飽きないわねぇ」
レイが入院して5日間……目覚めてから2日経過していた。その間、シンジは一日一度は、レイの病室を訪れていた。
「ちょっとしかたってないじゃないですか……心配しなくてもミサトさんの夕御飯はラップして冷蔵庫に入ってますから。レンジでチンすればすぐ食べられますよ」
案の定、こちらに来てからも、すぐに家事一切はシンジの担当となった。もっとも、ジャンケンで決めた以前と違い、今回はシンジ自らかってでたのだが(ミサトに家事をやらせることの無謀さを理解しているのだから当然である)。
「食事なんてど〜でもいいけどさ、そんなにレイのこと気になるのォ?」
ミサトの顔は「ニヤニヤ」で埋め尽くされている。もっとも、シンジも「どうせ突っ込まれるだろう」と思っていたので動じない。
「怪我が心配なだけですよ。綾波、本当にひどかったんですから……」
「わかってるけどさ。で、どう? レイの調子」
「目が覚めてまだ2日ですから……。ただ、思ったより回復は早くて、来週の頭には退院できそうです」
「退院はもうできるんでしょ?」
「無茶すれば、の話ですよ、もう。ちゃんと退院しても平気な程度まで自然治癒力が付くには……」
「ハイハイ、わかってるわよ。ま、レイにも早く復帰してもらわないと、使徒が来たときシンジくんひとりじゃ不安だしね〜」
その心配はないんですよ、と教えてあげたかったが、シンジは黙っていた。根拠が説明できないのだから仕方がない。
「でも、入院してればシンジくんが毎日お見舞いに来てくれるんだから、レイも退院したくないんじゃないの〜」
「なに言ってるんですか、もう……」
シンジはあからさまな溜め息をつくと、シャワー室へと向かった。
肩すかしをくらったような気がしてミサトは少し膨れたが、すぐにもとの表情に戻り、シンジの去っていく後ろ姿を眺めていた。
そして、面白そうに呟いた。
「……ま、レイにかぎってそんなコト、ないか……」