第六話 「二度目の出会い」
 闇。

 暗い……闇。
 
 ここには、何もない。
 
 血の匂いのする液体が、羊水のように私を包む。
 
 闇……。
 
 寒くも、暖かくもないところ。
 
 ここが、わたしのふるさと。
 
 わたしの……すべて。
 
 
 
 いまはちがう。
 
 あのひとが、わたしのすべて。
 
 あのひとは、わたしを信じてくれる。
 
 あのひとの命令なら、なんでも聞ける。
 
 
 
 そのために、生まれてきたのだから……。
 
 
 
十一



 目覚めると、そこは見慣れた病室だった。
 
 身体中に痛みを覚える。
 
 でも、それを表情からうかがいしることはできない。
 
 ゆっくりと、意識が覚醒してくる……。
 
 わたしは、どうしたのだろう。
 
 使徒にやられたのは覚えている。
 
 倒すために出て行ったのに、何もできずに戻ってきた。
 
 あのひとの命令を、守ることができなかった……。
 
 二、三度まばたきをする。
 
 使徒は、倒されたのだろうか?
 
 そうでなかったら、すぐ出撃しなければならない。
 
 エヴァに乗り、使徒を倒すこと。
 
 それが、わたしの全てだから……。
 

 
 上半身を起こそうとしたが、うまくいかなかった。
 
 最初は、怪我がひどいのかと思ったが、どうも様子が違う。
 
 左腕が重い……。
 
 ゆっくりと、左側を見る。
 
 ぼやけた焦点が、急速に像を結んだ。
 
 自分の左腕の上に、黒い髪が見える。
 
 誰かが、ベットの上に頭を乗せて、眠っていた。
 
 誰……?
 
 じっと、その髪を見つめる。
 
 うつぶせ気味に、向こう側を向いて眠っているので、彼女の方から顔を見ることはできない。
 

 
 いつもなら、無視して腕を引き抜いても良かった。
 
 だが、その柔らかな髪を見ていると、そうする気にならない。
 
 静かな、規則正しい寝息。
 
 それを聞いていると、立ち上がろうとしていた一瞬の緊張が、ゆっくりと解きほぐされていく気がする。
 
 左腕から感じる体温。
 
 それを感じていると、その暖かさは腕だけでなく、すこしずつ身体中に伝わっていくような気がする。
 
 彼女は、身じろぎもせず、じっとその髪をみつめていた。
 
 少しだけ開け放たれた窓から、カーテンを揺らして夏の風が舞い込んでくる。
 
 その風が、少年の黒い髪と、少女の蒼い髪を揺らす。
 
 やさしく、撫でるように……。
 
 

 長い間、彼女は少年の髪が揺れるのを眺めていた。
 
 

 しばらくして、シンジはゆっくりと目を覚ました。
 
 眠っちゃったのか……。
 
 使徒を倒してすぐこの部屋に来て、3日目だった。夜は帰宅(やはりミサトの家だ)していたが、昼間はずっとここにいたのだ。
 
 ミサトとリツコ、特にリツコは、訓練すらしないシンジに業を煮やしていたが、「レイが目覚めるまで」という条件付きで、無理矢理休みをとる形になっていた。
 
 どうしても、そばにいてやりたかった。
 
 本来、レイの怪我の大半は零号機の起動実験の失敗による物だ。シンジがくる何日も前のできごとで、彼にはわずかの責任もない。だが、シンジの心は重く、苦しかった。自分がもっと早く来ていれば、第三使徒と闘わせることなどなかったかも知れない。そんなことはない、と頭でわかっていても、やりきれない気持ちだけが残っていた。
 
 その思いのあまり、つききりでの看病をかってでた。ミサトの冷やかしも、シンジの思いつめた眼差しに失速した形となった。リツコとしては、聞きたいことが山ほどあったし、訓練によるデータの収集もしたかったが、シンジの「シンクロ率はいつでも80%ぐらいなら持っていける」という言葉に、数日のみとは言え猶予を与えざるを得なかった。……それほどに、シンジの思いは強く、人々を圧倒したのだ。
 
 起きなきゃ……。
 
 シンジは頭を倒したまま首を振り、ゆっくりと顔をあげた。
 
 「!」
 
 いきなり、紅い瞳と真正面からぶつかりあった。まさかレイが起きているとは思っていなかったので、突然のことにシンジの思考が停止する。
 
 じっとレイの瞳をみつめるシンジ。レイも、その瞳から目を逸らす気配もない。
 
 数秒ののち、我に返ったシンジが、慌てて言葉を発した。
 
 「……や、やあ、綾波。起きたんだ」
 
 「………」
 
 「あ、あの、身体の調子はどう?」
 
 「………」
 
 「その、心配で……調子、悪そうだったし…」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……あの」
 
 「……だれ……」
 
 レイの言葉に、ハッと顔をあげる。
 
 そうだ。今回、レイはケイジまでこなかった。ずっとここで眠っていたんだ。シンジとは、これが初めての出会いなのだ。
 
 第一印象が悪くなったのでは、とシンジは少しドギマギしながら、あわてて自己紹介をする。
 
 「ご、ごめん。僕は、碇シンジ。マルドゥック機関の選んだサード・チルドレンだよ」
 
 「……イカリ……」
 
 「そう。碇ゲンドウの息子」
 
 「………」
 
 「綾波……きみを、守りに来たんだ」
 
 レイの、蒼い前髪がかすかに揺れた。シンジを見つめる瞳の奥で、少しだけなにかが動く。
 
 そう……例えて言うなら、波ひとつない湖のみなもに、一粒の水滴が落ち、静かな波紋が広がるような……。
 
 シンジには、その変化までは分からなかった。だから、レイは特に反応を示さなかったものと思ったようだ。もともとなんらかのリアクションを期待していた訳ではなかったので、そのまま話を続ける。
 
 「医者の話では、目が覚めたら帰宅してもいいそうだよ」
 
 「……そう」
 
 「骨折もしてるし、無理しない方がいいと思うんだけど……激しい運動をしなければいいって」
 
 「………」
 
 「綾波、調子はどう? 目が覚めたばかりだし、もう何日か休んでいても文句は言われないと思うんだ」
 
 レイは、はじめてシンジの視線から目を逸らした。半身を回転させ、ベットの脇にそろえてあるスリッパに足をのばす。
 
 「帰る」
 
 「えっ? あ、え、そう? 大丈夫なの?」
 
 「………」
 
 「休んでいた方がいいんじゃない?」
 
 「……許可は出ているんでしょう」
 
 「えっ……うん、まあ……。でも、いま休養をとった方が、結局直りも早いよ」
 
 「……行かなきゃ……」
 
 「え? どこに?」
 
 「また……使徒がくるから」
 
 「しばらくこないよ」
 
 レイは、再びシンジの方を見た。スリッパに片足を入れた状態で、ベットに腰掛けているような体勢。丁度、すわったままのシンジと目の高さが同じくらいになる。
 
 見つめられたシンジは、今度は落ち着いて、ゆっくりと微笑んだ。
 
 「まだ……しばらくはこない。十分休んでも、大丈夫なんだよ」
 
 「……なぜ」
 
 「ん? まあ……説明はできないんだけど……」
 
 「………」
 
 「まあ、そういうことなんだよ。ほら、横になって」
 
 シンジは立ち上がると、レイの背中に手をまわしながら左腕でレイの両足を抱えるように持ち上げ、ベットの上に戻した。そのまま、ゆっくりと、負担をかけないように注意しながら、レイの身体をもとのように横たえた。
 
 「ゆっくり休んで、綾波」
 
 毛布を身体にかけながら、シンジはもう一度、にっこりと微笑んだ。
 
 レイは、されるままにしながら、シンジの瞳をずっと見つめていた。
 
 
 
 レイが『なぜ』と言ったのは、使徒の襲来をシンジがなぜ予測できたのか、ということが知りたかったからではなかった。
 
 なぜ……。
 
 なぜ、わたしのからだを、しんぱいするの?
 
 わたしがしんでも、つぎのわたしがいる。
 
 わたしは、任務を果たすためにいるの。
 
 休むより、少しでも訓練をして、あのひとの命令に応えられるようにならなければいけない。
 
 だが、レイは、シンジの頼みを断わってまで、帰ることを躊躇われた。
 
 なぜだろう……。
 
 この少年の眼差しは、不思議な感覚を、自分の中に与える。
 
 このまなざしは、あのひとのまなざしににている。
 
 おやこだから?
 
 でも……なにかちがう。
 
 レイは、自分の中に初めて現れた正体不明の感覚を持て余した。
 
 なんだか……よくわからない。
 
 へんなかんじ。
 
 でも……いやじゃない。
 
 それは、この少年の瞳を見つめていると、徐々に強く、大きくなっていく。
 
 シンジは、もちうる全ての愛情を込めて、慈しむようにレイを見つめていた。前回、レイとの出会いは、必ずしも満足なものではなかった。そしてそれは、あまりにも、自分も相手も、未熟で子供だったから……。あのころ、シンジは自分の気持ちを理解できず、持て余していた。そして、レイを傷つけていた。今度は、そんなことはすまい。愛情をもって、レイの全てを受け入れ、受け止めてやることを、心に決めていた。
 
 レイは、シンジに見つめられていると、身体中の緊張がゆっくりとほぐれていくのが分かった。暖かな陽射しに包まれているような……。こころなしか、怪我の痛みまでうすらいでいくような、そんな気がする。
 
 数分後、部屋には静かな寝息が聞こえていた。
 
 「ゆっくりおやすみ……綾波……」