第一話 「あのころ」




 世界が闇に包まれてから、数時間が経過していた。
 


 眼前に広がるLCLの海を、生気の無い瞳で見つめる。浜辺で膝を抱えるようにうずくまる碇シンジの瞳には、しかし、寄せて返す波の動きも映ってはいない。
 


 少年のそばに横たわる赤いプラグスーツの少女は、1時間も前に、生命活動を停止していた。

 生きる意欲……。

 身体が死に至らなくとも、精神が死を選ぶと、結果的にヒトは命を失う。



 少女は死を選んだ。

 そして、また少年も、もうすぐ……。



 少年は、ひとり自分の内側に入り込んでしまっていた。



 レイとカヲルとの邂逅により、シンジは人類補完計画や、それをとりまく人々の思惑を、ほぼ完全に理解するに至っていた。

 そのうえで考える。

 ゼーレにとって、補完計画は成功したといえるかも知れない。

 すべての人々は、眼の前の赤い湖に融けて混じりあっている。彼らは、人間としての外壁を取り払い、心と心で混じりあっていた。

 だが、自分にとってはどうか?

 これが、人類の臨むべき終着点なのだろうか?

 シンジは自問する。



 ……違う。



 シンジは昔を思い返す。

 彼をとりまく人々との、刹那的な、けれども他にかえがたい時間を思い浮かべる。
 


 ミサトや、リツコや、ゲンドウ……トウジ、ケンスケ、ヒカリ……カヲル……アスカ……そして、レイ。

 彼らは、みんな行ってしまった。自分の許から。



 ……違う。



 これが、幸せな結末といえるだろうか?

 少なくとも、シンジにとって、今の状態は最悪といえた。

 彼らとの、たあいのない日常が思いだされる。

 あのころに戻れたら……。



 シンジは、ギュッとまぶたを閉じた。

 膝を抱える指に、知らずに力がこもる。



 あのころに戻れたら、こんな結末には絶対しないのに。

 父のことを意味無く避けたりしない。父を絶対に止めてみせる。

 ミサトさんのことを死なせたりしない。

 トウジをあんな目にあわせない、方法があるはずだ。

 カヲルくん……君を殺すしかなかったなんて、信じない。

 アスカ……アスカ、あんなのアスカじゃない。アスカは苦しんでいたんだ……僕よりもずっと。アスカを救ってやりたかった。

 綾波……あやなみ……。二人目の君を、死なせるようなことはしない。僕が弱虫だったから、綾波は死んでしまった。綾波……僕は、突然の、信じられない事実から、無意識に目を背けてしまった。今なら分かる……綾波。君は、誰よりも、苦しんでいたんだ。人間と、自分と……そのすべてについて。今なら、守ってあげられるのに。やり直せるなら、僕のすべてを賭けて、君を守ってあげるのに……。



 シンジにはわかっている。

 これらは、自己満足の呟きにすぎない。

 すべては、後戻りの効かないところまできてしまった。

 すべては、終わってしまったのだ……。



 一瞬、そばに横たわる少女の遺骸に目をやる。

 そして、再び前を向く。

 ゆっくり、瞳を閉じる。

 そして、ゆっくりと、心を、閉じていった……。



 心が、闇に、包まれた。







 突然の爆音に、シンジは眼を開いた。



 上空を、戦闘機が2機、高速で飛行する。抜けるような青空が、ビル群の間から覗く。その中に、飛行機雲が、鮮やかな軌跡を残す……。



 夏の風が、シンジの髪を撫でた。

 かすかな爆音にまぎれて、蝉の声が聞こえる。



 ジーワ

 ジーワ

 ジーワ

 ジーワ……



 シンジは、道路の真ん中で、茫然と立ち尽くしている。



 眼前に広がるはずのLCLの海は、気だるい夏の暑さに揺らめく街並みになっていた。
 


 この風景には、見覚えがある。

 ここは……

 いや、まさか……。

 心臓の鼓動が、必要以上に存在を誇示している。こめかみから、つつ……と一筋の汗がたれる。



 ここは……

 この、風景は。



 先刻までと同じく、学生服に身を包んでいる。傍らに小さなかばん……ボストンバッグだ。通学に使うかばんではない。

 まさか……いや、そんなことが。

 ひとつの懸念にゆきつく。

 ありえない。

 この風景そのものがありえない世界なのだが、それ以上に、その想像は現実的ではなかった。

 震える手で、ズボンのポケットをさぐる。

 指先に触る紙切れの感触……。

 取り出してみると、それは、一度くしゃくしゃにまるめた後、再び広げてたたみ直した一枚の便箋だった。

 広げると、中央にたった一言……。



 「来い。」



 心臓が早鐘のようになる。

 この手紙のことを、忘れたことなど無かった。

 「そんな……だって、まさか……」

 脚の力が抜け、その場にへたり込みそうになった。



 爆風に吹き飛ばされ、アスファルトの上を転がった。激しい耳鳴りがシンジを襲う。砂ぼこりが舞い、一瞬まわりが何も見えなくなる。

 何が起こったか理解できないまま、シンジは立ち上がり、爆音の聞こえた方向を振り返る。

 そこに立っていたのは……



 「……第三使徒!」