March a march

「おかえりなさい!」
「…え?」
やだもう!おにいちゃんてば絶句してる!
「あはは、おどろいた?」
「…うん、ちょっと」
3月。
久しぶりに来た『この場所』は、ほとんど変わりが無かった。
いや…違うか。
「元気だったかい?」
「うん!」
私がここに来てから、当たり前のように存在していた大切なもの。
それがもう、ここにはないから。
でもそれは私以上に、お兄ちゃんにとって、大きな変化だったみたいで。
「…香菜。僕の顔に何か付いてる?」
あれから1ヶ月しか過ぎてないのに、お兄ちゃん…とてもやつれた顔をしてる。
「…」
私はちょっと既視感を覚える。
それは…今のお兄ちゃんの顔が、私を叱った時のパパの顔に、とても良く似ていたせいかも知れない。
家出した私を叱ってくれたパパの顔に。
「ううん何も。ね、ごはんあるよ?」
「おお!それは嬉しいな」
ちょっと落ちこんでいるようだけど、ごはんがある事について見せた反応は、心の底から喜んでるように見える。
お兄ちゃん、ちょっと現金かな?
私が思わず笑うと、きょとんとした表情で私を見るのが。
それが、何となく可愛らしく思える。
照れ隠しか…お兄ちゃん、私の頭をなでながら、
「おかえり」
だって。
「…えへへ、ただいま」
うん。
大丈夫…だよね?お兄ちゃん?

「いただきます」
「はい、どうぞ召し上がれ」
お兄ちゃんにご飯を盛り、私も一緒に食べ始める。
今日は肉じゃがです。
染みこんだ方がおいしいので、家で下ごしらえをしてきました。
…なんて、それはいいかな。うん。
「今日はどうしたの?」
と、私は声に出す。
「…え?」
狐につままれたような顔のおにいちゃん。あはは。
そりゃそうか。
本当は、お兄ちゃんが私に言う台詞だもんね…。
「あははっ!」
私は笑って、困ってるお兄ちゃんに話を振る。
「今日はですね、春休みに入ったから遊びに来たんですよ!」
「ああ、なるほど」
取り合えず、納得してくれたみたい。
それ以上、何も訊かなかったから。
「香菜、ごはんお代りもらってもいいかな?」
と、お兄ちゃん。
「もちろん!」
ごはん沢山炊きました。沢山食べてね。
食欲はあるみたいで、少し安心。
私としては、おいしそうに食べてくれるお兄ちゃん、嬉しい…かな?
まあ、それはそれで。
妹としては。ちょっと複雑な気分だけど。

「…」
泡に浸かる食器。レモンの香りが私の手を包む。
「…」
このキッチンは、ちょっと切ない。
この家の何処よりも。
「…」
私はつい、横を見てしまう。
すぐそばに居るような気がしてならないから。
ここには居ないひとの。
その温もりが、私を離さないから。
『かなぁ〜』
と、今にも私を呼びそうで。
「…」
そう感じるだけで、口元がほころんでしまい、その度に。
なんて言うのかな…?
こういう気持ちは。
『…本当に居ないんだね。カレン』
心の中で問いかける。お兄ちゃんに聞えないように。
もちろん、誰も答えない…答えないけど。
カレンの温もりだけが、キッチンに満ちている。
「…」
あの時は。
お兄ちゃんに見捨てられたくなくて、それだけで一生懸命で。
そしてそれが…私の全てで。
だからこの場所が、こんなにも懐かしく思う自分が、とても不思議で。
そう。とても不思議で。
「お兄ちゃん、お茶持ってくね!」
「ありがとう」
お兄ちゃんの返事を背中で聴きながら、カレンの顔を思い浮かべる。
でも、何故か泣き顔。
『にんぎょひめ かわいそう おうじさま ほかのおひめさま すきになる だめ…』
あの図書館でのヒトコマが、脳裏に蘇る。
「…」
私が煩わしく思ったカレンは。
誰よりも純粋で。
誰よりも素直で。
そして誰よりも可愛い存在だった。
『カレン、…泡になって消えちゃったね』
心でつぶやく。
お兄ちゃんはね…多分、他のお姫さま、好きにならないよ…。
遠い国で家族と暮らして…幸せで、お兄ちゃんの事や私のこと、忘れちゃった?
…届かないよね。私の声。
綺麗なドレスを着て、優しい家族に囲まれて、毎日を過して…。
「…ぷっ」
フリフリドレスを着たまま、キッチンで魚を焦がすカレンを想像して。
「…くくっ」
笑いが抑えられない。
………。
上を向いて深呼吸。
「お兄ちゃん?お茶、もうちょっと待っててね…」
「ああ。構わないよ」
いつのまにか、ぐじゅぐじゅになってしまった視界。
あとからあとから溢れ出し、止まらない心。
「…」
こんな顔じゃ、お兄ちゃんビックリするよね?
手を洗い、そのまま顔を洗い、ハンカチで乱暴に拭く。
まぶたの熱と、鼻の奥の痛みが残る。
「…」
カレンには、いつか会えるはず。
それなのに、もう二度と会えない気がしたから。
そんなことないのに…ね?カレン?
にがい。レモンの香り。
私、嫌いになるかも知れない…悲しい香りだから。

リビングでお茶を飲みながら、合えなかった期間の事を話した。
といいつつ、たった1月の間だけど。
私は沢山、話したい事があった。

記録が伸びた事。
これは話しておきたかった。
学校で、新しい友達が出来た事。
高校入学後ならともかく、卒業シーズンの、この時期に友達出来たっていうのもちょっと変だけど。
私にとっては大切な事だから。

そして。
パパとママと、仲良く暮らしてること。
お兄ちゃんは、黙ったまま嬉しそうに私の話を聞いてくれて。
嬉しい。私はそれだけで嬉しい。

今度は私が聞き役になる番。
お兄ちゃん、新しく患者さんを担当することになったとのこと。
仕事の事ほとんど話さないお兄ちゃんが、患者さんの事話すのはちょっと珍しい。
ほんの一瞬…表情が曇ったように見えたのは、私の気のせい…かな?

そうそう!
お兄ちゃんの話で、もうひとつ嬉しい事が!
部屋を一つ、掃除しておいてくれたという事!それはなんと!私とカレンが過した部屋で。

しかもしかも!
その理由がいいのよ!私がいつ遊びに来ても大丈夫なように、だって!!
照れながら話すお兄ちゃん、なんかとても可愛らしい。
思わず大はしゃぎの私。そして、なんか照れてるらしいお兄ちゃん。
可愛い!

などと盛り上がってるうちに、結構な時間になっていて。
「ごちそうさま」
「こちらこそ」
お茶で挨拶。
些細な事が、優しく感じられる…。

『どうしたんだ?』
とは聞かなかった。
『なにかあったの?』
とも訊かなかった。
「…」
そんなお兄ちゃんは、やはり大人なんだなと…。
そんな事を考えて。
「…」
この部屋。
こんなに寒かったかな。
「…」
枕に埋めた顔が熱い。
今日は笑いに来たのに。
お兄ちゃんと一緒に沢山笑おうと、ここに来たのに。
それなのに。
「…」
わたし馬鹿だ。
ここへ来たら辛くなるって知ってたのに。
大切で…一番好きな所で。
だから心が痛くなるって、私知ってたのに。
「…」
わかってる。
私がここに来たのは、お兄ちゃんを励ますためじゃない。
自分の中の空白を埋めたくて、私、ここにいるんだって。
「…」
暗くした部屋に、耳鳴りが聞える。
私の隣で、無邪気な笑顔を見せていたカレンは、もうここにはいない。
大好きだった水沢先生も、遠くへ行ってしまった。
会いに行けない事はないけど…今の先生の顔を見るのは、少し辛いから。
…ううん、違う。
私が恐がってるだけ。
先生に、以前と同じ顔を出来ない気がして…恐いから。
ほんのちょっと前まで、何でも無かったのに。
「…」
仲良くなりはじめた、クラスメイトの子たちも…卒業して、ほとんど会えない。
…違う。
これも嘘。これも嘘。
私…。会うのを怖がってる…。それだけ。うん。
カーテンの隙間から差しこむ月明かりを見ながら。
「…」
なにもかも。
こんなにも世界が変わってしまうなんて。
考えもしなかった。
今日は泣いてばかりいる。
そんなの、全然似合わないのにね…。

「もっと泊まって行くのと思ったのに」
「あはは、また来ますから」
結局。
何をしに、ここへ来たのか。
一番判っていないのは、私自身かも知れない。
玄関前で、お兄ちゃんの顔を見ながら。
私は、もっと自分に正直になろうと考えていた。
自分をごまかさないで行きたいと。
「あ、そうそう」
「なんだい?」
ごそごそと鞄を開くと、
「はいこれ!」
お兄ちゃんの手を広げ、鞄から出したものを載せる。
「…」
「なんとなく、それはお兄ちゃんが持ってる方が良いような気がして」
変だよね…。こんなのあげるなんて。
ガラスの子瓶にいれて、コルクで蓋して…。
いきなり渡されたって、困るよね?
部屋にあった鳥の羽なんか。
「…」
「おにいちゃん?」
ぼーっと、羽根を見つめてる。
「ああ、うん。…香菜?」
今度はまじまじと、私を見るお兄ちゃん。
「なに?」
なんかまずかったかな?
「これ、貰ってもいいの?」
「え?うん。もちろん。お兄ちゃんに渡そうと思って持ってきたんだよ」
理由は判らない。
でも、それはお兄ちゃんに渡したかった。
ただそれだけ…。
「ありがとう」
「…」
私の頭を抱いて。
私の額を、滴が伝う。
それが何か気づくまで、少し時間がかかった。
「…泣いてるの?お兄ちゃん」
「…」
肯く震動が、私に伝わる。
それは…何故かとても…。
私には心地よかった。
しばらく、お兄ちゃんに頭を預けた。
「…」
少しして。
「香菜」
お兄ちゃんは、私の頭を離し。
「…?」
そして、一言。
「また遊びに来いよ」
優しい瞳が、私を包み込む。
「うん!」
ありがとう…。
私…またここに来てもいいんだね?
お兄ちゃんに会いに来てもいいんだね?
そんな事が、とても嬉しくて。
お兄ちゃんの手を握って、振った。何度も何度も…。

「…」
駅に向う道を歩く。桜が咲くには少し早い季節。
「…」
そうだね。
ここに来たのは。
私がここに来たのは。
卒業…なのかもしれない…ね、カレン?
数ヶ月前に漸く気付いた、幼い私への。
寂しがりな心への。
そんな、ちっちゃなものを捨てていく事が…それが。
新しい世界を夢見て、歩き出す事が。
「…」
私は今、ここにいない人に話しかけている。
ここが一番、カレンに近い場所だったから?
…違う。
これは、私自身への問いかけ。
「…」
そして。
泣き虫な私との、<卒業式>。
「…」
爽やかな風が頬を撫でる。
私の横をカレンの幻影が過ぎ去り、空へと舞う。
「…」
天を仰げば。
沢山の羽根が舞い降り…。
それはまるで。
天使が通り過ぎたかのような光景で…。

March a march
(3月行進曲)

物語の一覧へ戻る(t)