ブックレビュー

「人道的活動」を考えるための三冊


はじめに
 いま国際社会では「人道援助」「人道的介入」「人道主義」など「人道」という言葉が注目を集めている。冷戦が終われば世界中の人たちは平和に暮らせる時代が来るだろうと叫ばれ、冷戦終結を歓迎するムードが一気に高まった。しかし、90年代には世界各地で国内紛争・地域紛争が続発し、そうした予測があまりに楽観的過ぎることが明らかになった。「人道」という言葉に注目が集まり、人間の命や人権を守ることの大切さを人々が実感するようになったということは、裏を返せばそれだけ現代社会は危険であるということでもある。

 人道的な活動が求められている現代であるが、こうした活動には「偽善的」であるとか「自己満足」だという批判も絶えない。確かに「人道」を掲げて戦争を仕掛ける大国が、実は自己の露骨な国益のために活動している場合が少なくない。人道的な活動が最も求められている時代に、人道的な活動が最も「胡散臭い」ものと見られてしまうという困難がある。

 そんな困難な状況の中で、人道的活動の第一線で活躍する著者による本を三冊紹介する。それぞれ、医者、前国連難民高等弁務官、学者と立場は異なるが、彼らの著作を通じて人道的活動に何が求められているかを考えてみたい。




対等な関係から始まる人道援助
 一冊目は『世界で一番いのちの短い国――シエラレオネの国境なき医師団』。著者は山本敏晴氏で、「国境なき医師団」という国際的なNGOのスタッフとしてシエラレオネで半年間活動した経験を持つ。

 本著では、半年間の活動の様子を、同僚のスタッフや現地の人々との交流、仕事上で直面した様々な困難、そしてシエラレオネという国で生活することに伴う難しさなどをユーモアを交えて紹介している。専門的な著書ではなく、「世界で一番いのちの短い国」、シエラレオネという国・社会の状況をエッセイという形で分かりやすく表現していて読みやすい。

 しかし、この本には大事な副線がある。それは、「本当に意味のある国際協力とは何か」という問題だ。援助するその国の将来にとって実際に役立つかたちでの国際協力とは何か、というのがこの本の「裏」のテーマとしてある。

 山本氏は、正統派の国際協力のアプローチがもつ限界を指摘している。「彼らがとても貧しく、病気で死にそうだからといって、われわれの方が社会的に上の立場にいる人間だと誤解し、外から勝手に見て判断し、自分たちの基準でどんなことを『やってあげる』のかをえらそうに決めている」。「『査定』という名で数字を算出し、その結果に応じて画一的な計画を『実行』する。その過程には現地にいる人々の歴史も文化も人間性もまったく見受けられない。私はこうした行為が真の人道主義とはいえないのではないかと、以前から疑問を持っていたのだ」。地域の人々の暮らしや独自の文化や歴史を尊重せずに、数学的な計算を用いて画一的・合理的な対処を行う実証主義的なアプローチが人道援助の妨げになることを筆者は力説する。

 実際に著者は、シエラレオネの言葉で現地スタッフに医療教育を実施し、患者本人に患者の母語で語りかける。もちろん、半年の滞在期間で、複雑なコミュニケーションを現地の言葉ですべて行うのは不可能だ。しかし、その努力の中に、援助を行う主体と援助の対象となっている人々の間に平等な関係を築くことが人道援助の基本であるという意識を見ることができる。

 「やってあげる」という意識で、欧米型の資本主義・文化・医学・開発を一方的に押し付け、それを「善」とするやり方は「文化的な侵略」の一形態に過ぎない。その土地の文化や歴史を尊重した援助が求められている。人道的活動を行う主体には、相手の立場を理解し、生活する人間として平等だという意識が求められるだろう(普遍的な価値観の押し付けを文化的な抑圧と捉え、文化・歴史が人間の生活にとって大切な基盤となるという点で多文化主義の潮流とも共鳴している)。彼らも私たちと同じように日常生活を送り、独自の生活様式を営んでいる。そうした視点に立ってこその人道援助だと筆者は説いているのではないか。その土地の文化・歴史・宗教を理解した上で、どのような援助ができるのか、そして彼ら自身がそれを求めているのかを把握することから人道援助は始まる。




人道援助のジレンマ――軍事的介入と人道活動の矛盾
 しかし、現実の人道的活動においては、生命を守るためにぎりぎりの決断をしなければならないケースもある。『緒方貞子――難民支援の現場から』では、前国連難民高等弁務官、緒方氏が在任中、様々な困難な状況に直面し、人道援助のあり方を常に問わざるをえない場面を乗り越えてきた様子が描かれている。

 この本はNHK社会情報番組チーフプロデューサー、東野真氏が緒方氏へのインタビューをまとめたものだ。国連難民高等弁務官として難民問題に取り組んだ10年間で彼女がどのような状況下でどのような決断をしてきたかが記録されている。

 東野氏は「生命を守ることが、すべてに優先する。これは緒方さんの一貫した判断基準である」と述べる。「民族浄化」が進むボスニアで、迫害を受けたムスリム人が軍事的に優位に立つセルビア系武装勢力によって住む地域を追われていた。この状況でUNHCRは、「命が危険にさらされている住民の避難を進めることは結果としていわゆる『民族浄化』に手を貸すことになる」というジレンマを抱えていた。しかし、緒方氏は「私は最終的にはやっぱり人を生き延びさせる選択をとるよりほかにしようがないんじゃないかと考えました。というのは、生き延びればもう一度チャンスが出るかもしれないんですよね。人間って。そこで殺されたら、それまでですから」と、ぎりぎりの決断の理由をこう述べている。

 国益や省益ではなく、人間の生命を最大限に尊重することを目標として活動する限り、常に困難な場面に遭遇することになる。なかでも最も困難な問題にぶつかるのは、軍隊の力を人道援助を効果的に行うために使わなければならないケースだろう。紛争地域での人道援助活動は、略奪・襲撃などの危険を伴う。しかし、人道活動を行う人たちの安全の確保は、援助を効果的に遂行し、困窮する人たちに物資を届けるためには欠かせない。スタッフを護衛し現地に確実に物資を届けるための手段として、国連平和維持軍との共同作業が実施されたのだ。

 本著ではサラエボで軍とUNHCRが共同で空輸作業を行ったときの状況が、緒方氏やスタッフの思いとともにつづられている。人道援助が軍と連携を図ることでその中立性を損なうのではないかと批判され、また人道援助が非常に強制的だという印象を与えるのではないかと懸念されていたことが説明されている。

 緒方氏は紛争地の状況を改善し、人々の人権を確保するには人道活動だけではなく、最終的には「政治的解決」が不可欠だという認識を示している。しかし、政治的解決は軍事的介入をも伴う場合が多い。しかし、緒方氏は大量虐殺などの人道的危機に直面した場合には、限定的な軍事力が必要であるとも考える。ただし、その一方でコソボのように無差別な空爆では解決策にならないとも述べ、人道援助と軍事力行使の矛盾を調整することがことのほか難しいことを強調している。




人道的介入
 人道的介入を理由に軍事力行使が行われた90年代後半の国際社会の情勢を踏まえて、「人道的介入」はその動機・目的・手段・結果のすべてにおいて「人道的」でなければならないと説くのが最上俊樹『人道的介入』である。

 著者は、大量虐殺や飢餓などで、人々の生命が著しく危機的状況にある場合、軍事力の行使が必要になるケースもありうるという認識に立っている。しかし、人道的介入が理由とされた実際の軍事介入の例を見ると、本当の意味で「人道的介入」と言えるのはわずか数例に過ぎないという。人道的介入が軍事力行使のための政治家の口実であったり、犠牲者の数に比べて著しく効果の薄いものであったり、あるいは救うべき人々を軍事力の行使によって一層危険にさらしたりして、「人道的介入」といえる代物ではないのがほとんどだという。

 最上氏は人道的介入を三つに分類している。
(1) 加害者、すなわち非人道的事態を引き起こしているものたちに武力攻撃を加えること。
(2) 迫害の犠牲者を救援すること。これは武力行使のほか、UNHCRや赤十字などの人道救援組織による、衣料品・食糧などの物資を届ける活動なども含まれる。
(3) 犠牲者への救援活動に対する攻撃から、それらの活動に従事する人々を守ること。緒方氏のボスニアの事例はこちらに含まれる。

 このうち(1)は人道的介入として最も連想されやすいものであるが、こうした武力行使は加害者を懲らしめるという懲罰的なものになりやすく、本来の人道的介入の趣旨とは大きくずれると指摘している。そもそも、人道的介入とは、実際に被害にあっている人々を援助することが本来の目的であるのだから、武力行使をする場合も被害者の救援という視点から実行していかなければならないと訴える(それもきわめて限定的に、そして国連などの国際機関の決議を経たうえで)。「被害者へのアクセス権」という概念を使って、被害者の人命・人権を保護する権利を行使すること、そのための人道的介入であると最上氏は説明している。




予防する
 しかし、人道的危機が発生した後で事後的に対応することがすべてであるなら、人道的活動はきわめてネガティブな意味しか持たない。人々が平和に暮らし、尊厳を持った人間として地球上に存在する権利を守るためには、それが侵される前に、入り口で食い止めることが大事な課題ではないだろうか。人道的危機が訪れる前に、そうした問題を生み出す現代国際社会の構造を理解し、その歪みを早いうちに修正する努力こそ人道援助に求められているのだ。なぜなら、犠牲者が実際に発生してしまった後では、”It’s too late”、「時すでに遅し」なのだから。

 最上氏はフランスのルモンド・ディプロマティーク編集長(当時)が1993年に論説の中で使った「介入せよ、上流で」という言葉に同調し、「武力介入以前の介入」の必要性を訴える。壊滅的な状況になる前に、暴力や貧困を生み出す構造を改善するプロセスをいかに立ち上げていくかを考えていかなければならない。

 緒方氏も「紛争の予防」の必要性を説く。「私は社会的な公正ということが非常に大事だと思います。公正というのはすべてが平等という意味ではなく、もっと基本的なことです。『ある特定の社会集団が非常に虐げられて、希望がない』という状況が、紛争が起きる根本的な原因ではないかと私は思います。『紛争の予防』ということが国連でも多少考えられ始めていますが、それは外交的な交渉といった技術的な意味ではなくて、社会の問題というものをしっかりと見つめなければならないということです。社会構造における不公正が積み重なってくるとそれが非常に政治問題化し、やがて紛争が起こるということを難民高等弁務官として仕事をする過程で非常に感じましたから」。紛争によって人権や人命が著しく損なわれることを事前に食い止めることが求められる。

 最上氏も緒方氏も、実際に人道的危機に直面する以前に、「予防」をすることが必要という立場から主張を行っている。それは、人道援助に名を借りた政治的パフォーマンスが繰り返される状況に対する強力な批判でもある。「自分の行為や言葉の結果として(それを信じた他人の行為などで)自分に不都合な自体が生じても、最初の行為や言葉を取り消すことによって自体を自分に有利に変えることは許されない」という原則を禁反言というが、イラクのサダム・フセイン政権に軍事的な援助をしておいて、軍事的に強大になりすぎたことを理由に空爆を行い、戦後は「イラク国民を保護する」という理由で占領を続けるアメリカは禁反言を破る非人道的な行為だということになる。

 国際的な差別構造・抑圧構造が生じた根本的な原因は何か?答えは一つではなく複雑な問題であろうこの問題をすべての人たちで考えるプロセスが求められているといってよい。




さいごに
 冒頭でも述べたように、90年代以降も人々の人権や人命が危機にさらされる構造は変わらないままだ。それは、国際的な構造の歪みの結果であり、また政治的権力の掌握をもくろむ政治家の策略の犠牲であることからも分かるように「人災」といってよい。この問題に一人一人がどのように関わっていくかが、草の根のレベルで問われている。先進国に住む人々が、人道的危機にどのような態度で、どのタイミングで、どのような方法で「介入する」(あるいは「介入できる」)のかを真剣に考えるスペースを構築していかなければならない時期に差し掛かっているのではないだろうか。そして、そうして行われた人道的な活動が、単なる自己満足に追われらないために、実際に効果を生むための方法を緊急に考えていくことが求められている(もちろん、「効果」を考える以前に、活動を立ち上げるそのプロセスが大切になる場合もある)。

 人道的活動を考える場合、最後の節でも述べたように、人道的危機が生じる以前の活動が最も大切になると考えている。もちろん、人道的危機が生じたことに一つの理由はない。さまざまな要因が複雑に絡まり合って「危機」は生じるからだ。また、実際に人権や人命が脅かされている人々たちへの援助とは違って、国際的な構造を相手にする場合、抽象的なレベルの話しについていくだけの根気が要求される。しかし、暴力や貧困を生み出す、経済的政治的構造を常に問題化し、批判的な目を向けていくことも人道的な活動の大切なエレメントに違いない。しかし、山本氏が指摘するように、あらゆる活動は、あくまですべての人たちが原則的に平等であり、尊重すべき同等の人間であるということを前提としなければならない。人道的な活動には複数の「目」(perspectives)が必要であり、そこをスタートにしなければ意味がないのだ。ここで紹介した三冊をきっかけとして、一般の人々(ordinary people)が人道活動にどう関与できるかの議論をこれかから発展させていきたいと思う。

photo

『世界で一番いのちの短い国―シエラレオネの国境なき医師団』
山本 敏晴 (著) 白水社 (2002/11)


photo

『緒方貞子―難民支援の現場から』集英社新書
東野 真 2003年6月

photo

『人道的介入―正義の武力行使はあるか』 岩波新書
最上 敏樹 (著) 2001年10月

Last Update : 2003/07/24