Last of the Pieces: Might-be-Blu-e
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第二部「光…」・静劇「瞬きの中へ」
/第二幕「すくいのみ子は」

第二幕「すくいのみ子は」
第一場「あさの遊園地」

「ままー!ままー!」
「どこー!?どこなのー!?」
 答えは無い。
 あたりは闇だ。
「くらいよぅ…。こわいよぅ…」
 涙を手で弱々しく拭いながら、小さな少女はあてもなく、闇の中をさまよう。
「まま、まま、ままあ」
 答えるものは無い。
 そしてあたりは永久の闇。
「たすけて。さむいよぅ、こわいよぅ…。まま…」
 少女は、その場に立ち尽くしたまま、永久に泣き続けていくより他無かった。

「…に、い…よ」
 あれ?
「ここ…、にい…ら」
 …まま?
「ここ…に、いる……んし…」
 ままなの?
「まま!」
 起き上がってそう叫ぶなり、彼女は近くにいた体に思い切りしがみついた。暖かい匂いがした。
「だいじょうぶ?あたしならここにいるから、安心して」
「うん。まま…」
 まま、か。加奈は今まで考えもしなかったステータスに押し上げられたような感じだ。生涯、その様な家族に関係する言葉とは無縁で生きるだろうと思っていたのだから。
 しばらくそのままでいたが、優しく蛍子のことを引き離すと頭をなで、そして台所へと向かう。朝食のために作られている色とりどりの具の入ったスープが、いい具合で湯気を出しつづけている。味見をして、そしてまだぽうっと目の覚めていない蛍子に向けて親指を立ててOKサインを出した。
「オッケイ、朝ご飯の出来上がり!ご飯を食べれば、いやでも元気になるわ」
「ごはん〜?」
 いやなどころか、そのときにはすでに催眠術にかけられたように蛍子はふらふらと食卓のほうへと歩き始めていた。まだまだ加奈に甘え足りないといったところか。たどたどしい足取りでテーブルにつくと、可愛らしいみずいろのレースの施された椅子の上にちょこんと収まった。親友の真琴も隣に置かれ、やっと人並みの扱いをしてもらえたと一息ついている。
「はい、熱いから気をつけ…」
「!」
 やっと目を覚ましたようだ。食卓に置かれるなり口をつけて、蛍子の舌は無声のSOSを出している。涙目になりながら今度は水を求めだした彼女の手に、加奈は首尾よく水入りのグラスを持たせる。
「大丈夫?」
「うぅ。…あついの嫌い」
「熱すぎなのがよくないだけよ。ちゃんと冷ませば、暖かい食事はおいしいんだからね」
「うん…」
 言われてしぶしぶスープに息を吹きかけてみる。湯気がもわっと出て、蛍子は少し後ずさった。まだまだ子供だね。
 それが絵馬の台詞なら良かったが喋り手は真琴だった為蛍子は臨戦体制に入って、吹きかける息の勢いを強めすぎてスープの飛沫がぴゅんぴゅんと顔に跳ね返ってきた。
「あちい!」
 このお!ぶんと丸いこぶしを振りかざした時には、真琴はすでに駆け出していた。終わりのないレースの始まりである。
「まったく、自分でじぶんを怒らせてどうするの…」
 自分でじぶんを、つまり蛍子が真琴を遠隔操作しているらしい事はこの一ヶ月間の彼女らとの劇場での暮らしの中で劇員達の常識となりつつあった。蛍子による真琴の遠隔操作、と言うのは蛍子は真琴を只のぬいぐるみとして扱う事も多いのでどうやら真琴に自由行動の意志が宿っている訳ではないようだ、という事に基づくかなり根拠の弱い解釈である。真琴は真琴なりにぬいぐるみになりたかったり人真似をしてみたかったりでその時々の己の欲望のままに存分に自由意志を発揮しているのかも知れない。仕組みは全く分からないが、月が人を病にする時代、何が起こっても不思議ではないと皆あまりこの驚異的な現象に関して大した興味を持ってはいなかった。子供がぬいぐるみと戯れている姿はメルヘンの世界では少しも違和感が無く、現実においてそれが現れて来ても案外絵になっていてあまり不自然ではないのであった(ただ、どうしても何処から声が出るのか分からないと無気味がって止まない人もいる。声を聞くたびショックで髪が抜けそうだ、と言ってる人、劇長である)。
 そう言ったことを非常識世界の常識として踏まえた上で呆れながら、仕方なく遊びに心を移しきってしまった蛍子のためにスープを冷ましてやる。たしかに熱い。やっぱり冷ましてから出してあげればよかったかな、と思ったが本当だった。彼女は思い返す、ここは、廊下ではなかった。檻の中にいる二匹の野生のイノシシ、行き場を失った彼らはすぐさまこちらに猪突猛進してきた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待…!」
「てない」
「よ〜!」
 朝が毎日こんなだったら、母親はさぞかし…やりがいがあるんでしょうね。色彩鮮やかな魚たちの舞と暖かな海水の水しぶきを前に、彼女はその時そう思った。

第二場「いたずらパーティ会場」

 汚れた室内、汚れた衣服。三者三様サイケデリックな佇まいで乱れた狂騒パーティーを開いた後の気だるい後片付けを前にし、それぞれ体が重たそうである。その宴に進んで参加しようと思った者はこの中には誰一人としていなかったからだ。
 絵馬は半ば回転を止めようとしていた頭の機能を急いで取り戻させこの厳しい現実との対峙を自分に強いた。劇の稽古は大事だが、この部屋をこのままにして行ってしまっては夏場の窓を締め切った部屋に生肉を放置しておくようなものだ。私の愛しい部屋が腐ってしまう。そして今日には考慮せねばならない余分なファクターが有る。先程までは愛らしいとばかり考えていた二人の狂暴な小人達だ。
「これからどうしようか…?」
 本当に当てが無かったので、絵馬は誰へ語るでも無くその言葉を口にしていた。
「えまーじぇんしーだ」
 分り切った返答が返答では無い形で部屋に浮いていた。その語に促される様に絵馬はその時考えていた少し自己保身に過ぎる考えを虚ろな口調にしては口早に、事態をまとめる様に喋った。
「そうよ、ピンチなのよ…。あたしはこれから劇団員としての仕事があるけど、このお部屋も掃除しなくちゃならないし…。ちょっと一人でできる事じゃないわ」
 そこで彼女の口調と目線は目的を持ち、口癖となっている緊急事態を告げる語句を口ずさむ様に繰り返して、速度の一定しない回転の様な踊りの様な動きを続ける一人の少女に目を向ける。今彼女の親友は振り回され単なる縫い包みと化している。
「そこでピンチヒッターが必要なの」
 コインを入れると動き出す子供用の電気遊具とは全く逆にその語を機にして蛍子は動きをぴたりと止め、何やら思案顔を作り絵馬の目線を捕えた。くりくりの目が何を訴えようとしているのか絵馬には予想出来なかった。何時の間にか演技を開始した真琴と一緒に蛍子はぽんと手を打つ。
「あ。それで」
「あたしたちが劇に」
 絵馬は加奈に戻った。
「な、なんで…?」
 ふたりは心から心外そうな顔をしている。
「いや、まあ、それもおもしろいかもね」
 ちょっとフォローを入れてみた。それがいけなかった。彼女達は、頗る本気だったのだ。
 小さな劇団員はその場で体を反転させると落ち着き払った歩調で玄関の方へと歩き始めた。それがいつもの事であるかの様に錯覚した加奈は、ついうっかり手を振りそうになった。
 ちょ、ちょっと待って!絵馬に戻った加奈が静止する。背を向けたまま肩で微妙な反応を返す彼女達。
「劇団の仕事を果たせるのはこの中であたしだけ。でも、お掃除はあたしと君達のどちらでもできる事。そうでしょ?」
 その言葉、というより、口調に含意される子供にとって最悪な事態を肌で感じ取った蛍子達は、あからさまにその提案を拒否する表情を絵馬に向けて無言の抗議をした。スープで汚れた顔がその顔の子供っぽさを強調する。
 何を言わずとも彼女らの要求は顔に書いてあるので、絵馬は説得を続ける。
「で、でもね、いきなりできる事じゃないのよ?あたしだって、しっかり訓練積んで、朝も夜も無く特訓して、声が擦り切れるほど発声練習して、それでもなかなかいい評判が得られなくて泣き明かした夜もあったけど、諦めないで前に向かって、先輩のいい所を取り入れようとしたり、みんなと一緒になって改善点を模索したりもしたわ」
「そして」
「あの人への想いが」
「そう。あたしには心のどこかにあの子の想いがあったから、きっと今まで頑張って来れ…あ。」
 もう!絵馬はまだまだあの時のまま、幼い加奈なのだった。
「あはは」
「わーあい」
 二人の罪悪感の欠片も無い無邪気な笑顔が目の前で花開いた。絵馬は、自分が今まで考えていた事が残酷に思えてきた。罪の無い子供、と言う誤解を産む罪悪感の無い笑顔はもっと残酷だな、そうも思った。
「…わかったわ、じゃあまだ時間は有るみたいだから、私たち全員で大急ぎでやればお掃除も終わるかもしれないしね。じゃ、早速とりかかりますか!」
 蛍子達は見事主張を押し通すことが出来た。劇団員の仕事が出来るなどとは夢想こそすれ現実的ではないと最初から分っていた、単なるカモフラージュだ。一番の狙いは、勿論パーティー会場の清掃の分担、だった。
「ごめんね。仕事を盾に掃除押し付けようとしちゃって。ちょっといらついてたみたい」
「絵馬団長…」
 そう言って同情の涙目を作る。最後の最後まで、彼らの戦術は巧みだった。

第三場「こあくまのバス停」

 今の加奈は、誰にも止められない暴れ馬だった。遅刻と言うあまり甘そうではないニンジンが眼前にぶら下げられていた。
 周りに同情を買えるような通行人もいないと悟っていたふたりはストライドを自分たちに合わせようとしない絵馬に対し、涙と言う爆薬ではなく、もっと直接的な言葉のマシンガン乱射という方法で後方から迫ってきている。子への風当たりの強いこの時代、よほど上級の戦略訓練を積んで来たのだろう。加奈は必死の逃亡に見える疾走を続けながら、こんな子らを相手にする劇長がノイローゼで倒れはしないかと心配になってきた。
 しかしながら今は人の心配よりも我が身である。寝坊者への災いで、寮は比較的静かで身を休めるのに最適な、閑散とした町外れにある。そのため、劇場まで到達するには必ず都会の足を利用しなくてはならない。この一帯の場合それは紛れも無く、がたがたと揺れの厳しい風変わりな赤バスただ一つだった。そこへ来て彼女は気掛かりな事が有る。蛍子、及び真琴は、バスが好きだ。昨日の寮までの旅路の一騒動はもう思い出したくもない。えてして子供というものは公共の乗り物という存在を理解していない。全ての乗り物は、彼女ら子供にとって至高の遊び道具なのだ。たぶん、運転手がいなかったら自らで操作し出すだろう。
 ああゆう乗り物って、子供番組でたびたび面白そうに放送されてたりするんだよな。一緒に見るのだけは控えておこう、何を強請られるものかわかったもんじゃない。バス停について一息ついて、熱帯魚柄のTシャツの襟首をつまみ胸元に気持ちのいい空気を集めて、朝のエネルギーを騒ぐことだけに費やし続けている二台の戦車の方を見やる。意外に無駄ではないのかも知れない。見ているだけでなんだか笑顔がこぼれそうだ。全国中継してでも生で放送したほうがいい、そうすれば世界中の社会人の労働能率が5パーセントは上昇するに違いない。今の世界に欠如しているのはこうゆう単純なものなのだ。万人が持つべき物は、希望、そしてそれに直結している元気。生活のことを考えるあまり、今の人々にはゆとりや余裕がかけらほども無い。生きているだけでは、人間ではないのだ。
 近づいてきた敵兵は、笑顔だった。なにやら不意打ちを仕掛けようとしているのだろう。ゆとりの有る対処をしてやろう、子供の遊びに付き合ってやれるというのは、求められる態度だろう。加奈はそう思った。
 どうしようか。真っ向から受け止めるというのも、視点が子供と同じになってなかなかいい。しかし、この一撃をあえて受け、包みこむ大人のやさしさという物を肌で感じさせてあげるというのも、いい情操教育になり得るのかもしれない。あなた、いい母親になれるわよ。何処かのドラマの台詞だったか、彼女の頭に数回その言葉のリフレインが有った。
 そして、彼女はゆっくりと大きな愛で、迫り来る子悪魔に対峙した時、そこで彼女に与えられた物は、地獄の淵から沸き上がる戦慄と恐怖だった。

 バス停の椅子に誇らしげに、ぬいぐるみと空のプラスティック容器を抱きかかえている不可思議な少女。そして、赤く新鮮な調味料でドレスアップした神秘的な麗人を前にしては、いつも豪快な運転手さんも当惑してしまう。乗せたくないが、これが仕事だった。

−早朝の悲劇「ふたりのしわざ」−

第四場「ゆめいろの劇場」

 明るめの青白い光に満たされた長い廊下を、蛍子らはまるで苦にしない様子で駆け続けている。そういえば。バスの中で絵馬の顔は青白くなっていたが、あれは大丈夫だろうか。しかし、どっちでもよかった。というのも、すぐ目の前には彼女の行きつけの店が有る。W2H座自慢のレストラン屋台の数々を、彼女は真琴を振り回しながら踊るようにして駆け抜けていく。そして一回ステップを踏んでズリッと転びそうになりながらも、えへへと屋台のおじさんにごまかし笑いを浮かべてから、いつものせりふを口にした。
「おじさん、ハムサンドくださいな」
「はいよ。今日は何枚スライスにする?」
「5枚を、」
「ふたつ!」
 と言ってピースしてみせる。
「え!…劇長、今日は髪の伸びでもいいのかな…」
「違うんだ。今日はね、えまさんからお金をもらってるの、だから」
 と言って絵馬の家の清掃時に紛れてくすねて来たお金を見せる。労働料と言うことで自分を偽っているが、立派な泥棒である。
「へえ〜、あの頑固そうな娘さんがねぇ。子供がすきなのかもしれないねぇ」
 蛍子も真琴もこくりと頷く。
 おじさんは、ずうずうしいが健康に育っているこの子供のことがお気に入りだった。出来上がったサンドイッチを手渡しする。とそのとき視界の端にとあるものが映った。
「お、いるいる。じゃあ、今日のお代は半額ね」
「ん。まかせといてっ」
 意味深な会話をすると、両手のサンドイッチを銃に見立てて少しハードボイルドを気取りながら、蛍子はおじさんに背を向け、そして首だけで振り返る。ほとんどニラミを効かせるようにして、らぶいず・きりんぐ。と呟いた。テレビでいつか見た大きな強そうな人の真似を蛍子は気に入っていた。父親が見ていたテレビに良く登場した人物だ。
 それに、蛍子はいきなりは食べだしなくないのだ。彼女はオーディエンスの羨望の眼差しを集めてから、優越感と満足感との中で、ゆっくりと、味わって、食べたほうがおいしいと自然にわかっているからだ。
 蛍子は標的に照準を合わせる。母親に連れられた子供が、屋台の所を右往左往して母親の注意を引こうとしている。母親は金銭の絡む子の要求にはうんざりしているのだろう、子の方に何かを呼びかけながらそこから不動の体である。
 蛍子のサーチング・アイから見ればその情景は、ただ単にわがままな子がおやつをねだっているだけにとしか捕捉されない。母親の迷惑も顧みず、彼女は突如彼らの間に滑り込むと、いつもの真琴とのミッションを開始した。
真琴「ちょいとそこ行くお嬢さん」
蛍子「はいななんですお望みは?」
真琴「両手に持たれたハムサンド」
蛍子「確かにそうです持ってます」
真琴「そうしてふたつあるのなら」
蛍子「こうしてふたつあるけれど」
真琴「ひとつわたしにくださいな」
蛍子「そうゆう訳にもいきません」
真琴「なぜです一つでいいんです」
蛍子「そうは問屋がおろしません」
真琴「まあけち意地悪食いしん坊」
蛍子「きみもお店で買いましょう」
 最後の一言は明らかに少年に向けて言い放っていた。そしてそのまま去っていく。少年の胸の中で、ハムサンドの文字が激しく点滅し始めた。そして彼の態度は以前から豹変し、遂には母親のスカートをひきずりおろさんばかりに凶暴化してしまった。その光景を見つめながらおじさんは上質の秘薬を創り上げた魔女のほくそ笑みよろしく笑みを浮かべて、手をこまねくようにしていそいそとハムサンドをうずたかく積み上げていく。母親はそのバベルの塔を破壊しようと躍起になっているが、しかし鎖に繋がれた体が言うことを聞かない。もはやどちらが子供なのかわからないくらい母親は暴れそして涙目になっている。
 もう廊下の曲がり角の向こうに見えなくなっていくところで、蛍子は一度振り返りそしておじさんに任務遂行のVサインを出した。おじさんも指で返事をする。彼女は高度に訓練されたさくらだったのだ。
「勝利のひとくち!」
 はむ。そこで初めて蛍子はご馳走にありついた。そんなこんなで劇場は、蛍子の元気の源となる空間だった。

第五場「さくせんかいぎの屋上」

 ハムサンドのマスタードの芳ばしい香りがつんと鼻をくすぐる。昔は泣き出すほどにそのにおいとからさが強烈で、こんなもの人間の食べ物じゃないっ、と怒っていたものだったが、最近では評論するほどの余裕が出てきたらしく、赤色のソースがジューシーだ、良い味出してると余裕の体だ。
「あ、今日はハムの間にもあおい奴が入ってる!おじさんもにくい演出をするようになったわね…ん?」
 そう言って先ほど言い及んだ赤いトッピングソースを指でひとすくいして、くんくんと鼻を近づけその一部を鼻の頭に付けてから、あっと彼女はひらめいた。朝方のユニークな香水と同一の香りだ。化粧をする暇の無かった絵馬の為に忍び持ってきたレディのアイテムは、他でもなくこの目の前の大好物をより魅力的に見せるための秘密兵器だったようだ。蛍子は幼心にも運命的な偶然に世界の神秘を感じた。大好きな絵馬の為とはいえ、勿体無い事をしたと思った。
 悔しがりながら彼女は自分が実はハムサンドを構成する物の名称についてほぼ無知であることに気づいて、なんとなくプライドを害した。くそう。とりあえず、帰り際におじさんにただとは言わないから教えてもらおうと思って、直後にばたりと寝転がる。真琴は、実は昨日もそうだったのだがこの時は単なる枕である。
 おじさんに何あげたら交渉成立かな?えまさんちのキレイなあくせさり…ダメダメ、あれはお気に入り。じゃ、くしゃくしゃになっちゃったえまさんチケットは?う〜ん、あげたくない。まこにもうイッカイ作って!て頼むのもシャクだし…。ハムサンドを返そうかな?まだ半分しか食べてないし。もう食べちゃったやつは、そういえばもう戻すことはできないのかしら?…でも、おなかすくからやだなぁ。じゃあ…、やっぱりあのあくせさり?あれなら一個くらいなくてもばれない…いや、あげるくらいならやっぱりあたしの物にする!じゃあ、あのうそっこチケットを握らせて…。思考の無限ループに陥っていく彼女だった。
 すこし難解そうな顔になってきてかっこよいはずの自分にご機嫌になりながら、だんだん眠くなってきて彼女は結論を急いだ。…なんか、いいの無いかなぁ?
 おじさん。いつもハムサンドに囲まれているおじさん。汗をかきながらサンドを作って、お客さんがくると楽しそうな顔になるおじさん。あの顔は、汗といっしょに光って見えてなかなか素敵。汗は頭のてっぺんで一番光り、それはなんだか空から時折のぞく太陽のようだ。普通の人の頭ではそうは行かない。なぜって、それはおじさんがつるつるのハゲおでこだから。
 あ。蛍子は頭の中にまた運命的な一致を見出していた。それは何か。昨日までの今まで、ずっと自分のお世話をしてくれた人。劇団の一番えらいおじいさんだ。あの人も、つやが無い上にはげた頭で、日々を苦労して生きているのだそうだ。あと、頭をより艶やかに、しなやかに見せるため、「あの素晴らしい髪をもう一度」というイクモウザイで髪の毛を育てているらしかった。これだ。これこそが彼女の求めていたものだった。どうもあの人は自分の髪の毛に溺愛するあまり自分のことを構ってくれないのだろうと疑っていた彼女は、彼の命の次に大事な日々の必須アイテムを強奪するに吝かでなかった。彼女の口の端に、悪魔の笑みが宿った。
 計画は実行に移されなければならないのだ。彼女は妙に大人びた決意をすると、枕として蛍子に仕えている真琴をぽんと叩いた。あんたもやるのよ。
 もう限界だ。なるべく寝過ごしたくはないなぁと思いながら、彼女は、ゆっくりと眠りの夢の世界へと落ちていった。珍しく食べ忘れたハムサンドが、手からごろりと離れて自らも睡眠に入ったのだった。

第六場「そらいろの鳥かご」

 絵馬は練習の上がりに何故かやたら売れ行きの良かったらしくご機嫌な店長の居るハムサンドの屋台へと近づいて行った。店長の目線は明らかに珍しがっていた。そもそも劇団の女性陣が甘くも無い物を太る恐れの有る夕食後の時間帯に買いに来るなんて事はまず以って有り得なさそうな事だったからだ。それでも店長の頭の中にはある了解が完成したらしく、絵馬が目の前に立った時にはもう既にその今にもダイエットはいいのか嫁の貰い手が無くなるぞそもそも最近の若い子は云々と冷やかしそうだった視線を解除していた。視線が解除されただけで冷やかし精神は何処にも行っていなかったのだが。
「おじさん、ハムサンドくれます?」
「はいはい、絵馬さん。何枚スライスにする?」
「うーん、一個は5枚で、残りの二個は10枚ってところかな?」
「おやおや、彼氏が出来たんだね」
「そうなのよー心の中にね…ておじさん分かってるでしょ、あの子達よあの子達」
「ああ、絵馬さんが奥さんになった時の子育ての練習の為に一緒に住む事にしたあの子達ね」
「そうそうよく分かってるじゃない今朝方のあの子達の腕白振りと来たら…てあれ?その青いやつ何?」
 絵馬はその食品が何であるか知らなかったのだが、その事で反応した訳ではない。いちいち知らない食品に反応してしまうのはせいぜい食への好奇心が人一倍強い子供くらいだ。絵馬が反応したのは、食品の青だった。でも何故その青に反応してしまったのか分からず、会話をしながら絵馬は自分の記憶にその理由を探っていた。ちなみに、某赤いものからの意識的な逃避からその青に目が行った事はヒミツである。しかしそれが根源的な理由でない事は明白だった。そんな冗談の世界の話でこんなにもざわついた気分が生まれる筈が無かった。
「ああこれ?あの子の親がさ、あの子にはこれをはさんだハムサンドを出してくれって俺に言ってきたんだよ、言ってきたと言っても、気が付いたら店の横にこいつが置かれてて、それと一緒にそう言う旨の書き置きがして有ったってだけだけどね。どうもあの子の家では普通に出してた調味料らしいんだ。一家秘伝の不思議な調味料の謎を探ろうっ、なんて野暮な事もしたくないし、だってあの子にはきっと聴いて欲しくないことだろうしね、あの子には詳しい話は聴いちゃいないけどね、まあとにかく結構おいしいんだよこれ。あの子も文句言ってこないし、まんざらじゃ無さそうだよ。きっと懐かしく思ってるんじゃないかな」
「そうだったんだ…知らなかった」
「ま、それ以前にあの子は中に何を入れてもまんざらじゃないと思うんだけどね」
「言えてるわねー何にも考えて無さそうだし…。その割には変に狡猾だけど…」
「でも、ちょっと変なんだよねこの青い奴さ。食べた後必ず眠気が来るんだよね。なんなんだろうね、これ。寝る子は育つを地で行く食品なのかなあ?」
 絵馬は、背筋に凍る物を感じた。注意するべき青、に合致する記憶を発見した。先程仲間達と食堂で早い夕食を取っていた時にニュースに有った。孤児院の救済に関する話題だ。最近一時的に国が子供を預かってくれる特別法令が成立した。その子供とは孤児院に居る子供の事を指しているらしい。孤児院は今や何処もパンク寸前だ。これ以上孤児院を増やす予算も土地も確保できない。そこで政府が考えた妥協案は、引き取り手の無い子供を冷凍人間化して引き取り手が来るまで国がその子供達を保管する、と言う物だった。以前から試験的に政府はこの制度を取り入れていて今でも国の管理する子供と言うのは数十人居るらしい。冷凍化技術はまだ開発途上であり、しっかりとした解凍技術の開発にはまだ百年以上の歳月が必要だ、と言うようなことも言われていた。つまり、殆ど殺すようなものだ。それでも、飼い主の無くなった野良犬のように「処理」してしまう訳にはいかない。結局は社会的な倫理を痛めたく無いが為のその場しのぎの応急処置にしか見えないものだった。
 試験的にやっていたと言ってもそれを孤児院でやっていた訳ではないのならどこでやっていたのだろう、友達との他愛無いアイドルの話やら音楽の話やらで盛り上がっていた絵馬は、そんな事を考えながら、えまま、と言う言葉を使って来た憎めない女の子の事を思い出した。あの子が冷凍人間になるなんて事は考えられない。憎たらしいけど、昨日震えていたあの子のか弱い姿を見ていれば、彼女の本当の姿を知っていれば彼女の事を憎むなんて無理だ、守ってあげたくなってしまう。自分が彼女を守ってあげていればそんな最も可哀想な子供たちの仲間になってしまうような事は無いだろう、そんな風に考えて、彼女は自分と自分の心の中のその女の子を安心させた。大丈夫よ…私が守ってあげるからね、蛍子。
 そもそも絵馬自身が、孤児院の出身なのだ。あの地獄のような火災の中肉親を失いながらも奇跡的にその地獄を生き延びた加奈は、孤児院に入った。そしてその孤児院から必死でこの劇団に通い詰め、時にはここに住み込んでやるぞと言うような素振りまで見せ、その熱意に根負けして劇団が彼女を取る事を決めたのだった。そう言った話を昨日蛍子達にしなかったのは、彼女らに自分の弱い所を見せたくなかったと言うよりは、彼女達がここで暮らしているその様の自由さを彼女が気に入っていたからだった。孤児院、という言葉を彼女達に認識させてしまう事は躊躇われた。彼女達の自由な世界にひびを入れてしまうことになる、そんな気がしたのだ。勿論、自分の弱い部分、まがりなりにも蛍子の母という位を得、その地位を認めた彼女が、実は自分もお母さんが欲しい欲しいと泣いて過ごしていた人間だと知られてしまう事も、我慢できなかった。孤児、と言う言葉の暗さは、彼女自身が一番良く分かっていた。それは、彼女も孤児なのだろうが、なんとなくここに居てくれる間は孤児ではない、孤児院では見ることの出来ない幻想を見せてあげよう、そう思っていたのだ。
 その彼女が、ひょっとしたら、孤児どころか人としての存在すら認められない冷凍人間になってしまう可能性が有った。いや、もう何もかも完結していて、手遅れなのかも知れない。
「どうしたんだい?絵馬さん…」
 ハムサンド売りの店長が、絵馬のただならぬ気配を感じて声をかける。絵馬は、ただその時食事をしていた事、冷凍すると言う事による青のイメージ、そして試験的にされていたとするのなら恐らくその冷凍化の方法は個人の手に渡っているのだろうと言う考え、とを脳内でぐちゃぐちゃに巡らせていた。手軽な運搬が出来て青くて私は食事をしていて青くて手軽な運搬そして恐らく方法も手軽で青くて多分それほど罪の意識を喚起しないものでと言う事は子供をそんなに怖がらせてまでする方法ではない筈で青くてそもそも青と言う色自体が子供がそれに飢えていなくてはおかしい外での遊びの良き演出者である青空を思わせて彼女が白いだけの空を眺めているのもきっとそのせいなんだろうなあと私は思っていて『うみ』の部屋は対極かも知れないけどあからさまに空の青を思い起こさせたのではかえって彼女が切ない思いをするかもしれないしきっと気に入って貰えるだろうと思って彼女を招こうと決めた訳でそれで彼女が食べているのがハムサンドと言う大して腹の膨れるものではないものなのに彼女はいつもそれを食べた後眠っていて眠ると言う行為が冷凍睡眠な訳でよく分からない食品でも恐らくその青がとても健康的な青清々しい青犯罪的に魅力的な青だったら子供も直ぐそれに心を許しそうな物で…。
 絵馬は、そう言うことを考えながらもう既に屋上に向って走り出していた自分に気付いた。凄く嫌な胸騒ぎがした。遠くの方で、
「絵馬さん!」
 という声が響いていた。その言葉は脳内で、無限の泣声のリフレインに変換されていた。
 えまま!えまま!えまま!えまま!えまま!
 そして絵馬はその一語一語に声を掛けていた。
 大丈夫!大丈夫よ!何にも心配ないわ!何にも心配要らないよ!私が今助けてあげるから!
 絵馬は、もう、最悪の事態を無意識の内に肯定してしまっていた。そしてその肯定は、正しかった。

最終場「みははの胸に」

 変だと思っていた。最初からそれはおかしかった。
 何故ハムの隙間に青白い液体が入っていなければならないのか。
 何故、ハムサンドを食べるたびに眠くならなくてはならないのか。
 そして目覚めるときの気だるい痺れは何なのか。
 答える人はなかった。そして今も。
 まぶたが…おもたいなぁ。

 夢の話。黒い夢の物語。
 あそこにいる人は誰?誰なの?
 何故、泣いているの?何が悲しいの?
 おなか、空いてるの?
 食べ残していた自分の大好きなものをあげようと思った。
 ありがとう。けいちゃんは、やさしいのね。
 まま?…お母さんだ!

 彼女は理解した。もう、暗闇の世界で一人孤独に泣き続けていることは無い。
 だってこれからはお母さんと一緒だもん。ずっとずっと一緒にいられるんだもん。
 ね〜、真琴お母さん♪
 真琴お母さんが可愛い娘の友達として作った人形は、
 その顔に縫われた優しい笑顔をくずさなかった。

 これは、その優しい笑顔の裏側の、悲しい物語。
 母の子を思う気持ちが生んだ、奇跡のお話。

 彼女、真琴は焦っていた。
 闇に閉ざされていく暗刻の世界の中で、
 彼女は走っていた。
 失うわけにはいかなかった。
 それが彼女のこの世で最初の宝物だったから。
 生後一年のころの蛍子、とても可愛い顔で、彼女の胸の中で眠っている。
 その女の子こそが、彼女のこの世で最初の宝物だったから。

 しかし、願いは、彼女と共に生き続け、優しく彼女を包んであげようという母の願いは、
 命の見えない軽さとともに、嵐の中に流されていった…

 夜だったのに、突如昼が来た。絵本を読み、わんぱくな蛍子を少し遅い昼寝に就かせた真琴は、自らもうとうとし始めていた、そんな時の事だった。何?何が起こったの?まるで神の怒りに触れたかのように天が輝きを爆発させていた。眩しすぎて、何も見えない。蛍子、おきて、蛍子、おきなさい。蛍子は眠りがいつも深い。こんな時でも起きてくれないらしい。この子らしいわね、そんな事を思っていると。天が輝くのを止めていた。また前と同じような黒が戻ってきている…いや、前よりも黒の強度が増して見えるのは、気のせいか。そして、一点、大きな光の玉が窓から見える空の真ん中に有る。月が大きくなっていた。それはどんどん大きくなっていく。大きくなっている。そして、ォォォォォォ、と言う地鳴りが聞こえるようになった。月は、近づいていたのだ。その音は光という安息の明るみが恐怖の炎に変わってしまった事を教えていた。
 真琴はすかさず蛍子を抱き上げると、自分が持っていかなくてはならない物を考えた。持っていかなくてはならない物は、蛍子だ。それはもう彼女の胸に居る。ならばもう何も必要ではない。蛍子も彼女が必要とするぬいぐるみの友達を抱いている。彼女は家を飛び出した。家を飛び出して、走って一分ほどして、もの凄い爆音と共に彼女と蛍子は爆風で100m以上も吹き飛ばされた。地面に叩き付けられた時、蛍子をしっかりと抱きかかえ彼女を守りながら地面に体を激突させた時、直ぐに彼女の命は絶えた。最後に彼女の目が捉えた物は、いまだに可愛い寝顔を保ち続けている蛍子の、天使の姿だった。

 蛍子が目を覚ましたのは、母親が死んでから十分ほど経過して周りの急激な寒さを感じての事だった。彼女は炎から運良く遠ざかる事が出来ていたのだ。また激突時の衝撃で彼女の体は親のそれをわずかだが確実に離れていた。その為、彼女の目が最初に捉えたのは、月の無くなった本当の夜に彼女が見たものは、死んでいる母親の姿ではなく、真の闇だった。
「ままー!ままー!」
「どこー!?どこなのー!?」
 答えは無い。
 あたりは闇だ。
「くらいよぅ…。こわいよぅ…」
 涙を手で弱々しく拭いながら、小さな少女はあてもなく、闇の中をさまよう。
「まま、まま、ままあ」
 答えるものは無い。
 そしてあたりは永久の闇。
「たすけて。さむいよぅ、こわいよぅ…。まま…」
 少女は、その場に立ち尽くしたまま、ぬいぐるみに宿った母親のそばで永久に泣き続けていくより他無かった。

 その後、仕事場から借りてきた懐中電灯の明かりを頼りに急いで駆けつけた父親に、泣いている蛍子と母親の死体は発見された。まだ母親が生きていると思っているような事を呟きながら蛍子が泣いているのを見て、蛍子が母親の死体を見ていない事を知った父親は懐中電灯をすぐに消した。そして蛍子は父親に抱きかかえられ、母親が何処かへ去ってしまったということを伝えられた。彼女は泣いても母親が帰って来ないということを知って泣くのを止め、ぬいぐるみを抱きしめながら父親の胸でまた、眠った。彼女はつい数十分前まで、自分が母親の胸で眠っていた事を知らなかった。

 …だいじょうぶ?あたしならここにいるから、安心して…
 蛍子がひとり泣き続けていたあの時、何度、この言葉が言えたらいいと思ったことか。だが、真琴は蛍子と彼女の夫のこれからを見守るだけで、その見守る大切な世界に踏み込んで行こうとは思わなかった。行った所で自分はもはや母として関わる事は出来ない、ただの滑稽な動く人形としてふたりの暮らしの更なる重荷になるだけだ、そう思っていたからだ。それに、活動する事で自分の魂がこのぬいぐるみから消えるまでの時間、つまり寿命が急激に短くなってしまう事も分かっていた。このふたりの愛しい世界を、出来るだけ長く見守り続けていたかった。
 だからあの日から、真琴はしばらく数年間、只のぬいぐるみとして振舞ってきた。そして、ふたりの暮らしをそのぬいぐるみの笑顔を通してずっと見守っていた。自分の妻が居なくなってしまった事に嘆きながらも、夫が蛍子を一人で養っていく決意をした事、その夫が一人で養っていく事の重圧、妻を失った悲嘆に耐え切れず酒に溺れるようになってしまった事、彼女に愛を伝える事は失敗しながらも、それでも数年間は頑張ってくれていた事、そう言った事をずっと見守ってきた。
 或る日、政府関係者からその限界に近かった精神状態の彼に甘い相談が持ちかけられた。蛍子を冷凍人間サンプルとして政府に提供すれば、彼女を殺す事も無く、自分はこの重圧から逃げる事が出来る…彼は話に乗ってしまった。しかし、彼には自分の手で彼女を冷凍人間化する事が出来なかった。最後の最後で、彼は蛍子の父親としての立場を捨てた。孤児院に預けた所でこの冷凍人間化の食材を彼女に食べさせる上手い手立てが思いつかない、それ以前に引き取ってくれる孤児院を探す事自体大変な作業だ、孤児院に入れる事と、冷凍人間化を両立させるのは現実的ではない。彼女を連れながらとぼとぼ歩いていたとき、彼の目に入ったのは、小さな街にしては大きめの劇場だった。
 彼は計画を思いついた。この劇場に彼女を置き去りにすれば、この食品による冷凍人間化が完成する一ヶ月間くらいなら世話をしてくれるのではないか。してくれるとすれば、あとはこの食品をここの誰かに委託して彼女に与えてくれるようにすればいいのだ(成功するか失敗するかは、彼にとってどちらでも良かった。只、それを100%自らの手で成功させる事が出来る、という環境から逃げたかったのだ)。この劇場で食品を扱っている場所を探す。そしてその場所は直ぐに見つかった、ハムサンドが有るレストラン屋台。彼の妻が生前蛍子の為に小さく切って与えていたあの思い出の食事だった。涙が出そうになった。それを堪えながら彼は普通の客を装ってハムサンドを買い、そして店長の目を盗んでこの食材を、この食材は我が家の調味料であるから彼女のハムサンドには是非これを使ってやって欲しい、とあらかじめ用意しておいた偽りを書き記したメモと共に置き、そしてハムサンドに食材を混入した物を彼女、蛍子に渡した。蛍子は最初その食材に違和感を感じていたようだが、結局懐かしい食事に心を許し、そして、美味しいと言った。その笑顔を見て、彼は彼女を、妻の残した宝をこれで失ってしまうんだなと思って、とうとう堪えきれずに、泣いた。泣いている親を心配して、蛍子は父親にハムサンドをあげようとした。父親はそれを制して、言った。
「いいんだよ、蛍子。俺はお前に何も与えてやる事が出来なかったが、俺は、お前やお母さんから色んな物を得た。だからそのお母さんとの思い出のサンドイッチぐらいは、俺からのお前への贈り物という事にさせて欲しい」
 それは父親の、さようなら、蛍子という言葉の代わりだった。でも蛍子にはそんな事は分からなかった、ただ、父親が初めて自分にプレゼントをくれて、とても嬉しかった。いつもあまり相手にしてくれずに仕事から帰っても直ぐにテレビに没頭してたりして好きにはなれなかった彼を、少しだけ好きになった。でも、その感情がそれ以上変化する事は無かった。彼は、蛍子に静かに別れを告げた、自分の分を忘れてしまったからもう一度買ってくるよ、と言って、それきり戻ってくる事はなかった。

 私は、この時、自分の中に残された僅かな時間を解放する事を決めた。蛍子を政府に預けてしまう事、それはあの人が悩んだ末に決めた事だ、その悩みの種を作った私が変えていい事ではない、責めていい事ではない。でも、私は彼女の残り少ない人生を彩ってあげる事くらいは出来る。一日に合計で二時間程度の活動に抑えれば、恐らく一ヶ月の間ぐらいは彼女の友達として遊んであげる事ができるだろう。私は、美味しそうにハムサンドを食べながら自分を地面に置いていた蛍子に対して、こう言った。ね、いっしょにあそぼうよ。そしてきょとんとしている彼女に向けて私は名前を告げる。いっしょにあそぼ、私は…私はね、まことっていうんだ、いい名前でしょ?それを聞くなり、彼女はまだかなり大きなハムサンドを無理やり口に放り込んでそれをしばらく苦しそうに噛み砕いていたかと思うと、一目散に逃げ出してしまった。私は、予想通り彼女はぬいぐるみが母親の名前を名乗ったので困惑してしまったのだな、と思った。
 私は当然別の名を名乗る事も出来た訳だが、それは私の心が許さなかった、お互いの最後の交流が、嘘の関係であっては嫌だ、そう心が叫んでいたのだ。それでも私は絶対に、自分が母親であると言う事を言うつもりは無かった、そんな事をしたら、一体ふたりが一ヵ月後―つまり、正に今この時―に別れてしまうと言う時どんな顔をして別れたらいいのか、想像が付かなかったからだ。それに、一度だって経験したくない事を、彼女に二度も経験してもらいたくは無い。母親である事は隠しつつ、名前だけは"真"を語る、これが私の決断だった。
 一日彼女を追っかけまわして、途中で絵馬さんのことを見かけて、その人の笑顔はとてもやさしくて、それで蛍子はその人に一目惚れをして、じゃ、絵馬さんの劇が見れるチケット作ってくれたらあそんだげるよ、これでどう?と蛍子は言ってくれたのだ。ちょっと縁起でもないけれど、この子と私の最後の交流なのだ、絵馬さんの最後の劇のチケットを作らせて貰おう。そして蛍子にレディの七つ道具の一つらしい魔法のセロハンでペンを持たせてもらって、それを作ってあげた。そうしたら、今度は蛍子が私を追いかけてくれるようになった。
 そう言えば、あの子は私の名前が真琴だったと言うのに、結局私の存在を問いただす事をしなかったな。恐らくは初めから感づいていた筈なのに、それでもあの子はただただ私の友達として振舞った。ひょっとすると遊んでもらったのは、人生の最後を七色に彩って貰えたのは私のほうだったのかも知れない。
 私に残された時間は、もう終る。この子を救う事は出来なかったけれど、私は満足だ。最後に、この子の事を抱きしめて上げられると良かったのだけれど。
 真琴お母さんが可愛い娘の友達として演じた人形は、
 …あら、あの人が、近づいている?
 …最後に少しだけ、体を貸してもらうのを許してもらおうかしら…
 その顔に縫われた優しい笑顔を、最後まで、くずさなかった。

 どこからか、悲しいくらいにやさしい叫び声が聞こえた。
 もう、目を開けるだけの余力がない。それでも顔はその声のしたほうに向けようと思った。
 駆けてくる足音がする。誰かがこちらへ駆け寄ってくる。
 足音が止まると、ふいに自分の体があたたかいものに抱かれるのを感じた。
 声は出せないけど…でも。
 にこっ。感謝の証を表したつもりだ。

 昨日のたのしい夜。
 結局とろんとしたところでばれてしまったえまさんチケット。
 えまさんは、それで遊んでくれたんだ。あたしを劇団の一員みたく扱ってくれちゃったりして。
 かなり本格的だった。何度も失敗を重ねた後、言えた言葉はこれだった。
「こんにちは!みなさん当劇場の最後の劇を見に来ていただいて、ほんとに有り難うございます!最後になったからには、とことんサービスさせて頂きます!」
「本日みなさんにお見せます劇には、全部で四つの劇を予定しています。みなさん最後まで、ごゆっくりとお楽しみ下さい。では最初の劇になります、『ふたつの言葉』です、どうぞ」
 うまく言えたよね、まこ?あたし達癒兎の最初の仕事、かんぺきだよねッ。
 まこ…真琴がお母さんだって事は、最初から分かっていたよ。お母さんと別れたときあたしは小さかったし、声や顔をはっきり覚えている訳じゃなかったけど、でもその名前は一度だって忘れた事なんてなかったんだから、あたしにとっても優しくしてくれた、大事な大事なお母さんの名前なんだから。でも、あの時お母さんは、いっしょにあそぼうよと言ってきたんだ、お母さんとしてじゃなく、友達としてあたしに会いに来てくれたんだ。あの時あたしが走って逃げたのは、今にもお母さん!って叫びながら抱きついてしまいそうな自分をお母さんから離そうとして逃げたんだ、そうじゃないと、お母さんが友達として接して来ようとした事が無駄になってしまうから。その理由は分からなかったけど、今でも分からないけど、でも、とっても大事な事だったのだろうと思う、子供に自分が母親である事を隠す、なんて、とっても悲しい事だから。それでもお母さんは名前は名乗ってくれた、うそっこの名前じゃなく、本当の名前であたしに会いに来てくれた。あたしにはそれだけで十分だった。だから、大事なお母さんが大事に思っている事は、大事にしよう、そう思えた。
 そして真琴は、お母さんはあたしを追いかけてきた。あたしは逃げながら心の中で段々と、真琴とまこを区別した、お母さんとしての真琴と、友達としてのまこを心の中で整理したんだ。それで落ち着いた頃になって、えまさんに出会った。あの人の笑顔を見たとき、お母さんの笑顔を、本当にはっきり鮮明に思い出した。あの人の優しい笑顔の裏側に、お母さんの姿が見えた。だからあたしは、それではっきり決めた。えまさんの事を、お母さんのように思っていよう、ふぁんになろう。そしてこの追っかけて来てるぬいぐるみの、本当のお母さんの方は、友達と言う風に考えよう。そして振向いたあたしは、今までは泣き出しそうでその泣き顔を見られたくないもんだから逃げていたあたしは、その笑顔を精一杯真似して演じて、こう言ってやった。じゃ、えまさんの劇が見れるチケット作ってくれたらあそんだげるよ、これでどう、まこ?(えまさんの名前は胸の名札に書いてあった。ちなみに結構離れていたし、えまさんが笑っていたのは友達との談笑での事だったのでこちらにはこの時は気付かなかった)
 あたしはあの日から一度だって、まこの事を真琴とは呼ばなかった、そうじゃないと、お母さんが友達として接して来ようとした事が無駄になってしまうから、真琴と呼んだ瞬間に、自分が我慢してきた全てが崩れてしまいそうだったから。でも、今は呼ばせてもらうよ。真琴お母さん、もう一度会いに来てくれて、もう一度遊んでくれて、もう一度愛を注いでくれて、本当にありがとう。お母さんの胸で寝るのは、ぬいぐるみでもとっても気持ちが良かったよ…やっぱり本当は、お母さんの本当の胸で眠ってみたかったけどね。

 お母さんが呼んでるね。もう行かなくちゃ。
 たのしかったなぁ!
 劇長のおじいさんの髪の毛を何本もむしり取ったし、
 ハムサンドだって実は何度もこっそり拝借してたし。
 劇団の女のひとにお化粧道具を使わせてもらったこともあったし、
 そして何より、大好きな、あたたかいえまさんの隣で一緒に寝ることができた。
 でも…やっぱりあたしはほんとのままのそばがいいみたい。
 ごめんね、えまさん。ごめんね、みんな。
 でもね、ひとつだけ言えるのは、
 みんなのおかげで、あたしはもう、まんぞくだよ。

 少女に夢を見させた空間。
 初めから終わりまで、彼女は幸せの中で。
 いつか、月に願った事。
 お母さんの胸の中で、一度だけ眠ってみたいなぁ。
 それは今、
 この場で実現していることに、
 彼女は気づいているのだろうか。

きよしこの夜 星は光り
救いのみ子は み母の胸に
ねむりたもう いとやすく

静劇「瞬きの中へ」 完

−白い心で−

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