Last of the Pieces: Heart & White
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第三季「秋雨のコンチェルト」

第一節「灰雨のコンチェルト」

 ドサ、と音がした。少年はその音で目覚めた。何の音だ、少年を起こした音は、地面に寝そべっていた少年の背中に地振動を伝わらせていた、相当の重量の物が相当の高度から落ちたのでなければ乞うまで強烈な音、振動を少年に齎しはしなかったろう、しかもそれが相当に少年に近くなければ、もしかして少年の真上に落ちそして少年の命を同時に奪ったであろう程の近距離で無ければ、こんな現象、少年の命を奪える威力を持った脅威がすぐ側でその脅威性を失った事を聴覚圧覚で知ると言う現象は起きなかった筈だ、そんな余りにも不自然な出来事、その出来事が齎した音、一体何の音なのだ。これが、生物で無かった場合、その物体はもはや原形を留めないほどに粉々になっている筈だ、だが先ほどの音は、ドサ、だった、物が壊れる時の音、ガシャン、だとかバキンだとかパリンだとかそう言う種類の、嗚呼、その物質は終ったのだなと言う事を示すその物質にとって一度限り許された音、究極破壊音では無かった。究極破壊音、それがもし生物の物だった場合、それも音と振動を与えるほどの或る程度の大きさ、少年の命を確実に無き物に出来る程の大きさの物だった場合、その音には、只の固形物が齎す無機的な音だけではない性質の音が含まれる事になる、それは、人間にとって、究極不快音とでも言うべき音、生物の砕けたのを予感させる音、比較的柔らかな物に包まれていた液体が、その柔らかな物が激しく破れ散ったが故に周囲に撒かれる時の音になる、その音は余りにも有機的なので言語で表す事は出来ない、言語の様に明快に発音できる領域ではない、悪魔の言語とでも言うべき、人には発声出来ない最悪の音階を持った死のカプリース、自由な発想の元に気まぐれで生物を無生物に変える悪魔の歓喜の狂想曲として人の耳に届く音だ。だが勿論、それはそんな音ではない、もしそんな音であれば少年は起きた時条件反射で目に涙を浮かべて軽い悲鳴を上げて首をそちらに直ぐ向けて手足はその場から、悪魔の鎌がいまだ己の首を狙っているのかも知れないという妄想から逃げる為にいつでも駆け出せる用意をしながら、即座に目で確認しただろう、人間が五感に不自由無い場合、その人が一番頼みとしてしまうのはどうしても目だ、聴覚や触覚は真剣な危機的状況に置いては視覚を働かせるきっかけにしかならない、何故なら人の命を奪うのは人の命を奪う物の予感ではない、人の命を奪う物と自分の距離が零になった瞬間、それが人の命を奪う。その予感を行使して、人は何とか人の命を奪う物と自分の距離が零に成らないようにしなくては成らない、その距離を自分の五感の中で最も確からしく測ることが出来るのは、人の場合は聴覚でも、触覚でも、勿論味覚でも嗅覚でも無い、視覚、目だからだ。だが、少年は見なかった、それがもう自分の命を奪える威力を喪失している事は明らかだったからだ。ドサ、と落ちた物質そのものが少年の首を狩る悪魔だとしたらそれはもうそれでどうしようもないが、少年の思考はそこまで自分の保身の事だけを考えるようには出来ていなかった。
 少年は、やっと目を開けた。自分の居る場所が文化的な場所で、何か構築物が有ってその構築物に乗っかっていた何らかが少年の傍らに落ちたのだとしたらその物質はまだ壊れてはいないとしても可笑しくは無いのだろう、だが、予想通り、少年が寝ていた場所はそんな構築物とは全くに縁の無さそうな環境、草原だった。風を感じて、風に含まれる草の香りを感じて、少年は自分の居場所が自然と繋がった場所である事を目を開ける前から分かっていた。だとすると。ドサ、と言う音は変だ。草原に、少年の直ぐ横に落ちて来た物、それが落ち始めた場所は、空、そうとしか考えられないのだ。空から落ちてきた…何だ、鳥、飛び方を何かに狂わされて憐れにも落下してきた鳥か、しかし先程考えたように、これは単なる生物の落下激突音では有り得ない、と言うより、激突していない、激突したかも知れないが何かがその激突時の衝撃を緩和している、そう言う音だ。そして激突を緩和したのは、草原ではない、ここはそこまで豊かに草が衝撃緩和のクッションとして働くほどの生え方をしていない、つまり、降ってきた物質が自身で落下の衝撃を緩和したのだ。なんなのだ、自分の傍らに落ちてきた物体は、少年の目は遂に訳が分からない物への好奇心によって、動いた、その物体を確認すべく少年の気だるくいまだ覚め切っていない頭は目にその物体を見る事を命じた。見て、そして少年は一気に目が覚めてしまった。自分の隣に、少女が寝ていた。いや、これは、寝ていない、間違い無く死んでいる、しかし落下したのに何故、砕け散って自分の体に彼女の体液が飛散しなかったのだろう。そして気付く、彼女の体を包み込んでいる白いゲル状の物質に。そうか、この得体の知れないゲルが、彼女の体を崩壊から守ったのだな。しかし何故、守られたのにこの少女は死んでいるのだ?少年は落ちてきた物質の正体を確認しても、この出来事の訳が分からない事は相変らずだった。それでも、せっかく天から落ちてきて、その肉体が綺麗なままで済んだのだ。何処か良い場所を見つけて、この少女の体を休ませて上げよう、手厚く葬ってあげよう。そう決意すると少年は、立ち上がって彼女が降って来たと思しき空を見上げた。一部、灰色掛かっている。不自然に渦を巻いている部分がそうなのだが、だからと言ってそれを気にしようと思うほどの規模では無かった。その時少年の頭に何かが走った、灰色、灰色は何か眠りに就く前に自分に決意をさせた存在だった筈だった、一体なんだったろうか…しかし、それ以上を考えるのは今の呆けた頭では無理らしい。それを諦めると、少年は少女を抱きかかえた。ゲルが粘っこく彼女の体にへばり付いて来たので、少年はそれを足で切り落とした。このゲルも空中に存在した物だったのだろうか。一体、今空の灰色の中で何が起こっているのだろう。そう考えるうち、空からまた新たに降ってきた物が有った。灰色のゲルだった、いや、何故ゲルだ、普通空から降ってくる物は雨で無かったのか?少年は辺り一面にべちゃべちゃと降り注ぐ灰色のゲルに戦慄した。この光景から逃げなくては、そう思うと少年は、遠くに見える森の方へと駆け出した。少女の体が壊れなかったのは、この少女の体が余りにも軽いせいだったのかも知れない、等と論理的ではない事を、少女のか弱い体に思わされながら。

第二節「侵蝕雨」

 少年は森に入ってようやく人心地ついた。彼女の体に雨が附着しないように前傾姿勢で小走りを続けていた為、少年の体には所々雨の塊が点在していた。それを払い除けたかったがそうすると彼女の体を一端地面に置かなくてはならなくなるので彼女を安置できる場所を探すまでそれは我慢する事にした。それにしても、厭な感触だ。単なる雨に降られてもそれはそれで不快な物だが、こちらの不快感はまたそれとは別種な物だった。不快感の強度を増した、という単純な変化だけではなかった、不快感の質が違うのだ、何かそれに触れられただけで自分の触れられる前の状態が変質してしまうような感触、侵蝕感、もう二度とそれに触れられる前の自分には戻れないのだろうと言う絶望的な疲労を灰色のゲルの一滴一滴は少年に塗り込んでいた。少年は背後、自分が今まで走り通り抜けて来た森の屋根を持たない裸の大地がゲルで覆い尽くされて行く光景を見やった。少年は自分の感覚が正しい事を知る、もうこの大地も二度とゲルに侵蝕される前の自分を取り戻す事は無いだろう、今まで現実だった物がどんどん自分の現実と懸け離れていき自分がどんなに非現実的な汚れ方を冒され方をしてもそれが現実である事を受け入れ難い疲労感と共に受け入れるしか無いのだろう。それが受け入れられなかった場合、その冒された存在は、歩みを止める事を選択する、歩みと言う自分と自分がそうでありたい現実との距離を縮める為の生の躍動を止める、つまり、狂うか死ぬかそう言うことを選択する。少年は、大地も狂ったり死んだりと言う事を選択するのだろうか、と思った。大地は狂って灰のゲルを芳しき美酒であるとしてそれをより一層上質な物へと発酵させる為の醸成場と化すのだろうか、大地は死んで灰色のゲルを土とした泥土の海を己の墓場とするのだろうか、つまり、灰色に何もかも支配されて一寸ばかりの大地としての誇りさえ捨ててしまうのだろうか、そう思った。その回答を大地から聞き出すのは今は無理な様だ。お互いに今はこの現実をやり過ごすので精一杯だった。少年は視線を大地から外し、戦友との別れを告げ、森奥深くへといまだ止まぬ、止める訳には行かない歩を進めた。
 森がざわめいている。これも今は森が灰色に冒されている自分が訳が分からなく泣き叫んでいるかの様に少年の耳は受け止めていた。森は少年に灰色を降り注がせる事を防ぐ生きた盾として、いわば生贄としてそこに存在していた。所々に鳥が落ちている。灰色を直に浴びてそのまま窒息したらしい物や、灰色に羽根を鉄にされて飛べなくなってしまった物、中には大して被害を受けていなさそうであるのに気が狂った様にその場で円を描きながら己の体をずたぼろに引き裂いて踊り続ける物も有った。この内のどれかが、この先の自分の姿になるのかも知れない、そう思うと少年はもう走る必要性の無くなった、と言うより、走ったらいつその走ってしまったエネルギーを回復できるか知れない、無暗に走るべきではないこの環境においてもそこから一刻も早く逃げ出したい、走り出したいという衝動を止める事が出来なかった。彼女の体を安置したい、というよりは、自分の体、自分の心を早く休めたい、この逃げられる訳の無い環境から少しでも自分を遠ざけたい、と言う願望の為に少年はまた覚めない悪夢の世界を駈け始めた。

第三節「雨宿り」

 少年が止まった。そう言う事をしても良い場所まで来たのだ、少年の心が怯えの走行よりも安堵の停止を選んだ場所、少女の体を安置すべく捜し求めていた偽りの平穏を帯びた空間、それは森に面していた洞窟だった。その闇の中に嬉々として入る少年の姿は、逆にこの世界の明るみではまともに存在できない事を如実に物語っていた。まるで静かに愛し合える夜になるのを待つ恋人の様に、少年と少女の体はその闇の中でただじっと息を潜めて体を寄せ合っていた、少年は無意識にか意識的にか少女の命が今はもう失われてしまっている事を忘れてしまっているようだ、そうでもしなければ、走ってしまったからだけではない心臓の高鳴りを冷や汗を止める事が出来ない、今この場に居るのが自分だけでしかも闇の中に半ば強制的に収容されてしまっている状況に屈しない為に、彼の心は隣で肩を寄せてくれる人を必要としていた。しかし、彼は少女の胸を必要とはしないでいた、そこに温もりが無いのはわかっているから、肩だけ、温度と言う命の証明が伝わらない肩だけを隣の、少女、少女だった物に借りて心を落ち着かせようとしていた。
 少年は洞窟の出口に向けていた視線をそこから外した、森が灰色の好きにされて汚れていくのは見ていたい光景では無かったし、その出口から出て行く、と言う事も今は全く考えの外に有ったからだ。そして、奥の闇を見据えた。見据えたが、そこに有るのは正確には闇とは呼べない物だった、其処にも出口から入ってきた物の痕跡、光の欠片が有ってこの洞窟が余り深い存在ではない事を教えてくれた。この光の欠片のどれかが、自分なのだろうな、と少年は思う。この洞窟に一時凌ぎに入って来たとしてもこの洞窟は自分を救ってくれる存在ではない、自分を何処か純粋なる凍結の闇の中に封印してこの灰色が完全に過ぎ去る何時しかまで護ってくれると言う様な事は無い、表の痛烈な灰の明るみから逃げようと入って来た憐れな光たちに逃げ場が無い事を告げ、そして彼らが悲嘆と絶望に暮れながらまたどうしようもなく明るい表の一部になって遂には灰の賛同者、従属者となって世界を蹂躙し尽くす為に外にまた戻っていくその時までの雨宿りをさせてくれる仮初の優しさ位しかこの洞窟は持たない、自分はそしてそんな仮初の優しさを知りながらも洞窟と言う弱き守護者の守護に甘えてしまっている。続かない抱擁、続かない温もりを、人でなくこんな冷たい洞窟に求めてしまう自分の切ない愚かな人間性よ。だがそれでも、この少女にとってはこの生の感じの欠如した静寂の空間は十分な安らぎと呼べるのかも知れない、あんな灰に塗れて人間の死に際まで否定されて終るより、この場で静かに眠るように終る事の方が、この少女にとってはよっぽど人間らしく、暖かい生の閉じ方で有るだろう。そして自分も、もしこのまま幾日もしない内に存在する事を止めねばならなくなるのだとしたら、この少女の隣で安らかにそう出来たら良いな、何となくこの偽りとは言え間違いの無い平穏に包まれた場所に有っては、穏やかな寝顔のようにも見える少女の顔を眺めながらそう願った。

第四節「雨上がり」

 静寂が辺りに訪れ始めた、どうやら雨は小降りになって来たらしい。少年は余りにも身動きを取らずに居たので段々と眠りに近付きつつあった、その上雨と言う雑音も無くなってしまったのだからこのままこうしていたら直ぐにでも少年は眠りの世界へと攫われて行ってしまうであろう。少年は今眠る事を望まなかった、眠ってしまえばどんなに気が楽になるだろうかとは思ったが、外の雨が小降りになったと言う平和を享受したいと言う気持ち、心の静寂への興味は体の静寂への欲求を上回っていた。少年は鉛の様に重たくなっていた体の眠気を強引に押し殺すと、雨の乱舞が続いた時には永遠に出て行くことなんて無いとさえ思っていた洞窟から一人出て行くことにした。
 洞窟の暗闇に目が親しみ過ぎていたので、久しぶりに目に差し込む外世界の日差しは痛くて暖かかった、異様な雨に絶望し凍り付いていた心がこの光と言う力強き物の在り様に驚き、そしてその力強さをもっと浴びたくて自分でその凍結を内側から突き破ろうとしている、その動作、その熱による痛さ暖かさだろうと思った。洞窟の陰鬱からちょっと離れるとこんな広々とした晴れやかな気分になれる場所が有ったと言う当り前の事実を少年は忘れてしまっていた、その事実をもうこれからは二度と手放したくない、そんな気分になった。鳥の死骸、と言う目の背け様の無い陰鬱を見ても少年はその気持ちを失う事は無かった、何故なら、少年は洞窟の中で少女の死、そして自分の死と言う陰鬱とずっと対面していたのだ、少年はもう、死の恐怖を克服していた、自分は恐らくこの救助なんて期待すべくも無い変態的な世界で成す術も無く死ぬだろう、少女がそうであったように。だからこそ、死に際する時にはどこまでも晴れやかな気分で居たい、鳥の死骸を食って生き延びて自分も変態的な存在となるよりも、この晴れやかな気分をこそ大事にして、あの少女の凛とした死に顔にふさわしい者であり続けてこの生を閉じたい。それは洞窟で少年が手にした一つの力強い信仰だ、この光が生命の素晴らしさを叫んだとしても、少年の心に燃える信仰の炎は消えることは無い、自分は死ぬ、だが、自分らしく死ぬ、その気持ちを抱き締めたまま終わりたかった。その気持ちを更に浄化したくて、力強い物にしたくて、少年は外に出た、この光の叫ぶ生命の素晴らしさは本物だし、自分も未だにそれは信じている、だが、生命の素晴らしさは、単に生きる時間の長さに因る物ではない、どれだけ生命を素晴らしいと感じている時間が長いか、そちらの方がよほど大事だ、だから少年はこの光の叫ぶ生命、その素晴らしさに直に触れて、生命を素晴らしいと感じている最後の時間を、心の最後の平和を手に入れるために外に出ておきたかったのだ。鳥だとて、もし自分が生き延びたとして空を飛ぶ事が出来ない体になってしまうよりは、飛ぶ能力の無くなった、希望に向って羽ばたく事が出来なくなったその瞬間に生命の炎を燃し尽したいと願うだろう、だからこうして辺り一面に鳥が死んでいる光景も、死に際している少年にとってはとても美しい物に見えた、誰も自分らしさを捨てて無様に生き残ってしまった物はいない、それは、とても潔く純粋な、神聖な死に様だった。鳥の死に様にも自分の心に居る神を見た少年は、その場で佇んだまま思わず空を見上げた。やはり神は居るのだな、そしてやはり神は私達を見ていて、生命が生命として生まれ来る時にも、土くれに還って行く時にも等しく何もしては下さらないのだな、生命が、来て、生きて、去る、その何れの段階においても神は見ているだけで何の干渉もしない、何故なら神は知っている、干渉する事は、世界に来ると言う事だ、来たら、必ず去らなくてはならない、神と言う究極エネルギーが来て、そして去るなんて現象はこんな小さな鳥や人間の範疇に在って良い話ではない、だからそれでいいのだ、神は我々を作った、それ以降は何の手も下さない、生命が、来ては生きては去って行くその喜悲劇を見守る事だけでいいのだ、その無干渉性こそが彼、神と言う不死の存在、生きても居ないし死んでも居ないと言う永遠存在なのだから。
 それは神の返事だったのだろうか。空を見上げていた少年の目に、灰色の雨が落ちた。

第五節「瞳の雨」

 空が落ちた、と思った。思っただけなのだから、落ちてはいない、空は有る、上空と言う物は有る、だが少年は、空が落ちたと言う感覚を生々しくぞっとするほどに感じた。少年は何故自分がそんな感覚を覚えたのか最初は分からなかった、何故だろう、落ちた物は灰色の雫で、それが自分の目の中に入って、空の青が目の中に入り込んで来ると言う視覚情報供給のその青が遂に底を突いて、灰色を地面に吐く行為の真似事として空がその青までも排泄して自分の姿、青と言う綺麗な保護膜を剥がした所に在る本来の自分の姿、灰色の悪魔的肉体の裸身を晒しているが故にそう感じたのだろうか。それならば、こう言い換えたほうが適切だ、空が堕ちた、青の衣を纏う事を許された神の寵愛をその一身に受けていた空と言う天使が、自らの周りでぼたぼたと気持ち良さそうに灰色を垂れ流している雲と言う下等生物のその快楽行為に興味を示し、その快楽行為を行うにはそう言った自己存在の堕落を傍観する卑下する、綺麗な世界に居る自分として刹那的な快楽に浸るのでは駄目である、下等生物の快楽を経験するには彼らと同等の存在にまで堕ちなくては駄目である事を悟って邪魔な青の純潔を脱ぎ捨て己の欲情した姿を少年に見てもらいたがっていると言う事なのだから、空が堕ちた、空と言う天使が堕天したと言った方が正確だ。だが少年は空が落ちたと思ったのだ、清々しい透明感の有る物の筈の空と言う言葉で表す事が憚られるような、この身を浮かべて永遠に其処で泳ぎ続けて居たい、空の魚になって雲の珊瑚礁を啄んでみたい、風の水流に流されて七色の鱗を持つ大魚に出会って彼の隣でその七色に自分の姿を映して自分の姿が七色になったような愉快な錯覚に陥りたい、そんな空想を受付けないような存在に空が完全に変質してしまったからだ、つまり恋していた女性が自分の目の前で人を殺した時のような自分の想いの完全遮断、その想いの行き場が何処にも無くなった状況、世界を見ることが出来ない状況自分の中にしかその恋する女性が居なくなってしまったと言うその状況に少年は陥ったのだ、空は自分の心にしか無い、自分の目の前で空が青の天使ではなく灰色の悪魔である事を欲情しながら認知してもらいたがっているそんな事を俄かに受け容れられるほど少年の頭は柔軟では無かった、子供なら、寝ているときに見る夢世界だろうが現実世界だろうが全ての世界は夢の中である、と言っていいから、大人と言う痛烈な朝焼けに目を刺激されながら目覚める前の子供は常に世界の輪郭の不鮮明なぼやけた夢世界の住人だから、空が灰色であってもそれはその不鮮明な輪郭の隙間が許容する事態であり、空を見ることが出来る器官を耳だと信じて疑わなかったのに耳に指を突っ込んでみると自分の血流と言う音楽が流れた、と言う時の、なあんだ耳は音楽を聞くための物なんだな、と言うのと同じレベルの認識交換で許容出来る、なあんだ空って青だけじゃ無かったりするんだな、それでいいがしかし少年はそうではない、少年はもう大人と言う朝焼けの痛烈さに目を閉ざしてしまっては居るがそれでも目は覚めている状態、大人と言う現実と子供と言う夢の狭間に立つ者、大人への意志を抱えて子供からの脱却をしようと言う夢世界から来た現実世界への地平の開拓者なのだ、そんな者が今更、なあんだ空って灰色だったりするんだ、なんて認識を抱えたら、子供世界へまた逃避したらいけない、退行したり発狂したりしたらこの現実と戦えない、戦えないが空は灰色である、等と言う現実主義に過ぎる認識の書き換えも出来ない、彼の脳は外世界の情報をそうである、そうではないの壱と零の無数の集合体で認識しているのではない、そうではないのかもしれない、そうであるはずだ、等の壱と零の間の無数の数字強弱を希望、憧れ、願い等として抱えている、現実世界に立ちながら夢世界への飛翔をする空想の鳥を心に住まわせている存在、人なのだから。だから彼が今空に対して感じている感覚、現実として空が落ちていないのに落ちた、と言う夢は可笑しくは無い。空が落ちていないのに落ちた、と感じたその誤解の裏に有るのは空の青への無限の信頼だ、愛する女性が人を殺したとしてもその愛は消えない、自分がその女性を愛する事はその事態には殺されない、しかしその愛する女性を尚愛そうとすると自分は彼女を純粋に愛そうとする余りに人を殺した屑としての彼女を自分の愛する人としての彼女から排除しようとしてしかし人を殺した屑と自分の愛する人は同一人物に過ぎないので結局彼女自身を排除してしまう事になるのを恐れて(先程の想いの完全遮断とはここまでしか思考が至っていない段階の事を指す)、むしろ人を殺したのは自分だ、人を殺す事から彼女を護れなかった自分こそが愚かな殺人者なのだ、そう、彼女が人を殺したと言う事実など実は存在しないのだ、と言う風になってしまう、そんな狂った認識を全力で構築した結果が、空が落ちた、だからだ、空は堕ちていない、空は落ちたのだ、空は無くなったのだ空は何処までも青くて純粋で愛おしい無二の恋人なのだ灰色に共鳴して堕落したなんて事実が有っていい筈が無い空は消えてしまった自分の下を去っていってしまった灰色から逃げ惑う事しか出来ない自分に失望して自分を捨ててしまっただから自分はもう一度空を取り戻す為に灰色と対等に戦える存在である事を示さなくてはならない、そう思った。そしてその灰色との戦いとはこういう事だ、灰色を空は望んだのだ、だから、自分はその灰色に負けないぐらい何処までも汚れなくてはならない、灰色にならなくてはならない、人を殺した彼女がこれ以上人を殺したりしない様に、自分が彼女の殺したい人物を殺さなくてはならない(彼は、空が堕ちていない、と言う事と空が灰色を望んでいる、と言う事の矛盾を既に殺していた。前者を夢見る子供、後者を受け止める大人、その二者が今、彼の内部で分厚い隔離壁を以って棲み分けをしているのだ)。
 少年は彼女の為に殺すべき人物を発見した。目の前に立ち上る黒き虹、これだ、これが忌むべき存在の他者だ、愛の障害だ、この黒を彼女の望む色、灰色に塗り替えればまた空と自分は愛し合う事が出来る。灰色、それはとても静かな色だ、と少年は思う。黒や白の継ぎ接ぎだらけの不恰好になっても生命とはそうである事を望む、灰色と言う何の抑揚も無いのを望まない、黒と白の絶え間無い激突で以って灰色と言う絶対零度に至る事から自分を遠ざけたがる、いわば、神に自分が溶け込んでしまう事を避けるのだ、灰色は神の色だと思う、悲しみも喜びも無く、只、其処に在ると言うだけの存在、流転する事も無く自分を黒や白に二分する事も無く、只、ひとつであると言う事、人であったり鳥であったり草であったり風であったり空であったりそう言った個別が無く、只、ひとつである、そう言う事を代表する色であると思う。そうか、彼女は、空は神に近付きたくて人を殺したのだな、人と言う個別を死と言う絶対零度に追い込んで世界を神の灰色に近付けたかったのだな、それで彼女は今、自分にもそれを求めたのだ、この目の前の黒い虹を殺して、そしてふたりが灰色の中にひとつに溶け込む事を求めているのだ、世界中の人間を殺してふたりだけになって、そして最後にふたりで愛の見つめ合いをしながら殺し合う、その究極の愛の形、ふたりが世界の神になると言うそれを求めているのだ。今まで灰色として降り注いでいたゲルは、いつの間にか少年の目には眩しい白に見えていた。輝く白、その輝きで黒の虹を灰色にしてしまえそうな白、その白は空が少年の手に取らせようとばら撒き続けた幾千のナイフだ、その輝く殺意の白で黒を消去してそしてふたりで最後の人間になって殺して愛し合いましょう、と言うメッセージの込められた幾千のラブレターを少年に送り続けていたのだ。少年は、その愛のメッセージが刻まれたナイフを手にした、足元に転がっていた白を手に取った、そしてふらふらとその黒い虹に近付いていく、この虹を七つに裂いてその七つに神の立会いの下に我々が結婚する祝いの言葉を送らせよう、永遠、融合、無限、静寂、創始以前、崩壊、そして涙。涙?何を言っているのだ、しかし少年の七番目の言葉への発想は何故か涙のみに限定されていた、何の涙だ、歓喜の涙か、彼女と一つになれるという事の。しかし、喜びなんて物は限り無く灰色の静寂からは懸け離れた所にある物だ、彼女と一つになると言う事は限り無く嬉しい、だから泣かざるを得ないがそこで泣いたら負けだ、一つになると喜びは消える、抑揚と呼ばれる何もかもは二人が一つになった時点で消滅する、その涙はそれの間違っている事を教えてくれる涙だからだ、それは神の涙だ、神は泣く、神は自分の体を幾つにも分けてこの世界を二人を作ったのにこの二人が世界を自らをまた神の体に戻そうとするなら、神は泣く、この二人に分け与えた目で神は泣く、それでは意味が無い、折角悲しみを生む事になっても喜びを作ったと言うのに、悲しみと喜びを一つにしてしまったら、それは真の悲しみだ、何も悲しくない、何も嬉しくない、なんて悲しい事なのだろう。それは、とてもいけない事だ、私は君らを作った、それ自体がもう犯罪なのかも知れないが、君らは知らない、君らの居ない時の私が、どんなに寂しく、どんなに悲しい存在であったかと言う事を。また君らが私の体に戻ろうとするのは、とてもいけない事だ、喜びも無く悲しみも無くてとても悲しいなんて状態、そんな物を君らに分け与える事なんてしたくないんだよ。そう言う事を伝える為に神は泣く。少年も例外ではなく泣いていた。そして空が人を殺している愛すべき人、と連想した事を振り返った、そうだ、きっとこの空は彼女を、洞窟で眠っているあの綺麗な死に顔の少女を殺したのだ、そんな無抵抗な人間をあっさり殺せる空とひとつになっていい筈が無い。洞窟に居る彼女の方を振り返る、すると、ふらふらと黒い虹に歩み寄って行って既に立ち去っていた森、その終わり際にまた寝ている少女を発見した。少年の足取りはいまだふらふらと怪しかったがそれでも目指す物は黒い虹ではなくその少女の方になっていた。もう、少年の瞳は灰色の雫を受けてから全てが灰色、白、黒の三色に見えていたが少女の色は灰色だった、だからこの少女はもう生命を宿しては居ないのだろう。この少女もこの灰色の悪夢に冒され、そして死んでいった存在なのだろう、彼女の事も洞窟で眠っている少女の様に安置してやりたいと言う平和な人間としての感情を少年は取り戻した、そして、自分はこの黒い虹を殺したいと言う自分を殺したい、そう言う人間尊厳を守る為の自殺衝動、それも、少年の胸は抱えていた。黒に圧倒的な殺意を抱くのだ、この黒に包まれたなら恐らく自分は殺意の過剰膨張で自分を殺す事を選べる筈だ、だから、あの場所へ向おう。少年は、白のナイフを捨てて灰色の少女を抱えた。そして、深い森の中へ消えて行った。

第六節「そして雨雲を夢見」

 目を閉ざしたまま、少年は少女を安置した、もう一人の少女の隣を手探りで探し出して、そして其処に優しく彼女を寝かせた。彼女を安置する前に森や洞窟の黒を見てしまって人の心をまた失う事の無いように、目を閉じてこの洞窟に辿り着いた為に少年の体は彼方此方が痛んでいた、だが少年はいまだ瞳閉ざしているので自分の体がどんな風になっているのか分からない。只分かっているのは、この疵が彼女の体を守り続けた為に出来た栄誉有る疵であると言うことだ。
 瞳閉ざした少年の視界には、ずっと灰色が映っていた、灰色、それはそんなに悪い色ではない、晴れの予感を含む色だ、その静寂は次に来る光の合唱を期待させる。ただ、それはその灰色が雨雲の物であった場合だ、晴れない事を宣誓している死神達の涎が降るこの世界の物では無く。今自分の瞳に見えている灰色が、その雨雲の物だったらいいな、そう思いながら少年は、黒の真ん中で、殺意を太陽光だと信じて、目を開いた。彼の雨雲は、綺麗な雨を二つ流していた。

第三雪「夢で逢えたら」

 少年は青空の下を歩いている。空も、少年ももう涙を流しては居ない。つまり、世界は悲しみに包まれて居ないと言うことだ、もう、灰色の悲しみは過ぎ去った、地面の土色も今は死んだように薄くなった灰色の粘っこい水滴の合間から元気な顔を覗かせている。少年はその土色の笑顔ににこやかに笑い掛けながら世界を歩んでいる、少年はとりあえず黒い虹を見に行きたくて行動しているのだがあの虹が何処に有ったのか分からない。黒、白、灰色の視界の時に黒かった虹、あの世界で一番生命を強く叫んでいた虹、それは、今のこの色の戻った目で見たらさぞかし美しい物なのだろう。だが、虹は少年の視界の何処にも見当たらない、あの三色世界に巻き込まれる前にも少年の視界は今と同じように健全で、その時もあの虹は全く姿を見せなかった、だからあの虹は三色世界でしか見る事の出来ない幻だったらしい。少年は軽く溜息を吐く、そして、虹が高く上っていた先の青い平野、空を見やる。地面と空を繋ぐ虹か。あの虹を殺してしまっていたら、世界はどうなっていたのだろう。灰色に侵蝕された地面、灰色に毒された空、それぞれがあのまま病んだ状態で切り離されていたら、世界は崩壊していたのかも知れない、今の地面の笑顔や青空の純粋さを失っていたかも知れない。そしてそう言った考えに因ると世界を崩壊から護る事が出来たらしい自分を少しだけ誇らしく思った。灰色と対等に戦える存在にならなくては、と言う決意は、あと一歩で危い方向に行きかけたがそちらに向う事は思い留まれた、そう思い留まらせてくれた物は、あの時脳裏に浮かんだ少女の死に顔だった、あの少女には感謝しないといけないな、そう思ったがあの少女の死に顔をもう一度見たいとは思わなかった、死んだ人の顔を何度も見るなんて事は失礼な事だ、たとえその死に顔が美しい物だったとしても。
 もう一人の少女については殆ど考える機会が無かったが、あの少女はどんな顔をしていたのだったか。確か、眠るように死んでいた、先に見つけた少女の緊迫感の有る死に顔は其処には無かった。年もどうやら自分や先に見つけた少女より下だったらしい、あんな小さな少女もこんな変態世界に巻き込まれそして自分が死んだ事すらはっきりしないまま眠るようにこの世を去ったのか。この世を去る、肉体を伴った自分がこの世を去ると言う観点では自分も既にそうだ、自分は死んだ、それは知っている、あの黒の中で自分の神経が抱えきれない殺意の誕生によって崩壊し死に至った事は知っている、だが自分の意識はここに残っている、と言うより、まるで体がここに有るかのように行動する意識体としてこの世にいまだ存在出来ている。この事は少年に夢を抱かせた。ひょっとするとあの少女達も自分と同じような意識体としてこの世界に残留出来ているのではないか、彼女達の死に顔だけでなく、笑顔や泣き顔を見る事も出来るのではないか。少年は虹の輝きの事は忘れ、彼女達の笑顔の口元の輝き、涙の雫の輝きの方を心に描き始めた。描き始めたら、自分の心から何かが湧き上がってきた、そしてそれは口まで達し、其処から外部へと出て行った。出て来てやっとそれが何であったか分かった、それは、歌だった、その歌は彼が最初に少女を寝ながら見た時にも心を流れていた。この歌が何であるのか、少年には分からない、少年にはそもそもこの世界に目覚める前の記憶が殆ど無かった、何か子供の頃の記憶のような物はおぼろげながら残っているが、少年として生きていた筈の時期の記憶が殆ど無いのだ、それでもこの歌は自分の記憶の中に残っていた、だからこれは相当に自分にとって深い存在、自分が少年として生きていた時期の記憶の代弁者と言ってもいい存在なのだろうと少年は信じていた。そしてそれは二度も、少女達の事を見たり思い浮かべたりした時に出て来たのだ、恐らく、この少女達と自分は他人ではない、何か関係が有る、この世界に存在していると言う事以上に自分達には繋がりがあるのだろう、思い浮かべる事の出来ない、記憶の外側の世界でお互いが繋がっていたのだろう。少年はそんな事を考えながらずっと歌が口から出て来るに任せていた。歌を歌っていると自然と視線が空へ行った、声に出してみてようやく分かったが、この歌はどうやら空の事を歌った物であったらしい。歌のせいか、空の青がとても懐かしく優しい物に見えて、少年は涙した。
 歌が二つになった。しかし少年は驚かなかった、その歌はふたつでひとつだと知っていた、天使の翼が、空と大地がふたつでひとつであるように、この歌は二人で歌ってようやく一つなのだと知っていた、少年はもう一人の歌い手の方を振り向く、あの少女だった、綺麗な死に顔のあの少女だった。少女も泣いていた、お互い見つめ合いながら、泣きながら歌を歌い続けた。歌い終わって、目線を逸らさず、涙も拭かずに、少年は言った。
「おかえり」
 少女は少年が差し出した手を取って、返した。
「ただいま」
 それから二人はずっと手を取って見つめ合っていたが、少年が視界の端にもう一人の少女を捉えた所でその均衡は崩れた。少年がもう一人に気付いた事を彼の視線で理解した少女は、彼女の事を手招きで呼んだ。そうすると少女は嬉しそうに二人の方に駆け寄って来た。そして二人の側につくと、先程まで二人が歌っていた歌を見様見真似で歌い始めた。二人もそれに合わせてまた歌った。三人の歌、それはまだ少しだけ降り続けている雨の滴り、そして地上に辿り着いた風が揺らす草と森の葉擦れの伴奏に合わせて、天高く何処までも上って行った。

冬を越えた春と夏の旅の終りを秋の実りで祝福した少年、シュウ
第三季「秋雨のコンチェルト」 完

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