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第一季「春風のララバイ」
第一節「無風のララバイ」
その子が目を覚ますと、そこに広がっていたのは灰色の野原だった。灰色の土、灰色の草、灰色の地平線。上を見上げる、そこにも灰、灰色の光が何もかもを覆い尽くしていて、そのまま何千年も放置された絵が埃を被っているかの様な、単調で、素朴で、痛すぎる灰色。女の子は目を擦った、その動作は只先ほどまでの体の休息を忘れようとするための物か、またいまだ夢の中にいてこれはその物理動作によって覚める物だと言う可愛らしい考え方による物かは本人にも分かっていないだろう、擦っている手に力が無い、しっかりと現実に覚めた者の目的行動ではないからだ。そしてその擦る手が不意に止まる、一瞬の完全静止の後、手は徐々に女の子の顔に対して威嚇をする小動物のように大きく、自分の体を広げた。女の子の目に色が宿った、驚きの色だ、その小動物に対する警戒、自分の手であるという当り前への信頼を忘れた、非現実を目の前にした現実者の顔。そして少女の目はピントがずれる、その小動物の中心を突き刺すように見詰めた視線はその中心を外れ、灰色の向こう側のどこかを探して泳いでいる。そのどこかがどこかにあるはずだ、あるはずだ、あるはずだけれど全てが同じ色をしていてそのどこかなんてものはきっかけさえも掴めなかった、そんな小さく疲れた目を作るとまた少し弛緩した同じく疲れて態度の柔らかになった小動物を、自分の手として無意識に確信、もしくは過信しているもう片方の小動物に静かに愛撫させ、暖めさせ、安心させている。そして彼女の小動物達は、彼女と和解する、彼女の一部としてこれからも彼女と共に有り続け、彼女の為に彼女の掴み取りたい物をふたりで掴み、彼女の触れていたくない物、関わりたくない物から彼女を守る事を動作で宣言した、彼女の瞳は小動物たちに優しく守護された。その小動物の隙間から、母親の背の裏に隠れながら子が恐る恐る見ず知らずの巨人の様な大人である他者を興味半分恐怖半分に確認視覚するのと同じ様な事を目と手の合成動作だけで行っている。目は小動物に完全に愛され保護されながらもまだ不安げに、世界を、灰色の景色を眺める。そして無数回数の世界=灰色が彼女の脳裏に嫌らしく、巨人である他者が笑顔ではないのにこちらを見ている、笑顔ではない表情でこちらを覗き込んでいる、そんな恐怖的象徴の心象映像としてインプットされた、初印象は後々のその事象に対する印象の大方として、その人間のその事象に対する大まかな認識として刻まれてしまう、恐らく彼女はその灰色の世界に対して微笑み掛けられるようになるまで気の遠くなるような時間が掛かるだろう、もしくは気の遠くなるような時間とはイコールゼロであるのかも知れない。でも彼女には、笑顔が必要だ。何故なら、彼女は子供なのだ、全ての世界の笑顔の起点、笑顔が向けられるべき終点、子供なのだから。だが、そんな事は今の彼女には関係が無い、そんな他者の必要とする愛らしさを備えるべき環境に無い、備えるべき環境、そこに居るべき、絶対的守護を与えてくれる強く優しい愛の泉、親がいないのだ、彼女に今必要なのは、もう一度夢に潜り、夢の中の居心地の良い、歌、温度、空気、色、植物の瑞々しい匂い、太陽光の白、雲の白、空の青、そして愛してくれる人の笑顔の口元の白、それらに抱きつき、おわかれを言って来る事だった。
小動物達は、彼女の目を優しく解放してあげた、もう外の悲劇なんてどこにも無いんだよ、君はもう暖かい物に包まれて、揺ぎ無い色とりどりの夢を保証されているんだよ、そう、嘘を付いた。彼女は、眠る前に親にお休みを言うようなタイミングで、場違いな悲しげな笑顔でそれに答えた。白い歯を見せる事の無い、大人みたいな笑顔だった。第二節「風色の涙」
少女は、目が覚めた。名残惜しそうな口元が寂しい。目を覚ましたくて覚ましたのではない、強制的に、連れ戻されるようにして、少女は分かち難く共に在った筈の夢の中の現実を離れ、こちらの、思い出そうとしなくても脳裏に焼き付いて目が覚めた時目を行使しなくとも最初に思い出されるような現実の最中の悪夢へと強制帰還させられてしまった。悪夢、それはまだ小さく容量の手のひらで囲えるほどに幼い世界への対応認識の大半を侵食している。彼女が大事に大事に忘れないでおきたくて取って置いたような宝物の思い出さえも、それを思い出そうとその宝物の光に満ちた空間へと続く扉に小さな鍵を挿した時、途端、鍵が扉が錆付き世界が暗転し暗転した世界が彼女のちょっと先の未来に夢見ていた瞳の明るさに陰を落とさせその陰を真っ黒に染め上げた時に目からだけでなく悪魔の囁きとして耳から、異物への拒絶反応を過剰に勃起させるこの世に有ってはならない物として鼻から、口から襲い掛かろうとしてくる、悪夢。彼女は、その悪夢で目を覚ましたのだろうか、それとも、もっと暖かくも儚い夢現に浸っていたのだろうか。いずれにせよ、彼女は泣いている。灰色の現実が痛すぎて、虹色の夢も痛すぎて、彼女は泣いている。灰色の世界で、灰色の姿、灰色で靡かない髪、灰色で光弾かない肌、灰色で曇ってしまって晴れる事を忘れたような悲しい瞳の少女が、全てを嘘だと言って欲しくて、早くこの遊び方の分からない遊びが終って欲しくて、一筋の、誰の為でもない、自分しか認識する事の無い、純粋な、透明な願いの筋を頬に伝わせている。
ふと、その願いの温みが、頬では痛かっただけのその願いの温もりが彼女に分かった、彼女の事をいつでも守ってあげられるように、いつでも包んで痛みを忘れさせてあげられるように、彼女を下からそっと見守っていた彼女の小動物達は、彼女のその切実な痛切な願いに答えてあげようと思ったのか、その願いを地面に落とす事を許さなかった。そしてその願いへの応答は彼女の目を本当の意味で覚ます、彼女は目を開けた、意識を現実へと戻してから初めて、思わず、では有ったが意図的に、自分の意志で、今までは怖くてそれから身を遠ざけたくて貝のように閉ざしていた瞼という遮断の魔法を解いた、呪いの様だった魔法を解いて、本当の、本当に自由なありのままの彼女に一歩だけ近づいた。
彼女は、その時自分が泣いている事にすら気づいていなかったのかも知れない、自分の手のひらに受け止められている液体が一体なんであるのか分からない、そんな表情をしていた。いや、その驚きは本当は別に出所が有るのだが、その時の彼女には、少なくともそこまで思考の到達がなされていない。それは何故か。その時の彼女の目に最初に飛び込んできたのは、涙というスクリーンの向こう側に靡く美しい草原の風景だったからだ。彼女の思考は、その風景の中に感じられる風の清々しさにまた出会えた喜びの為に停止してしまっていたのだ。だがその風景は、瞬きと瞬きの間の幻だったのか、すぐに、跡形も無く消えた。そして彼女は、何故自分が驚いたのか、その理由にようやく辿り着いた。色を、見た、この灰色だけで構成された殺風景な景色の中に、初めて色を保持する存在の影を見ることが出来た。彼女は余りの驚きに、思わず胸が苦しくなって胸を押さえたがその胸の苦しみの元を押さえる事は無理だった、苦しみの元は、どこから湧き出てきたのかわからない位の、笑い声と笑顔だった。第三節「笑顔よ、風になれ」
笑うのを待っていた少女は、笑う事を忘れていた。笑いたくなんて無かった少女は、笑う事しか出来なかった。だから、少女の笑い声は、とても笑い声とは思えないものだったし、少女の笑顔もまた、苦しげに身悶える重病人のそれだった。直る見込みの、自分の表情を自分の物と呼べる日が来るのを、来ない日を、待つ、重い病の人の仮面の様な笑顔。少女は誰に見られるでもないその操り人形の様に狂った顔を隠してしまった、両手で、しっかりと、でも力が入らない、力が入らない手は彼女の望まない笑いを制御する事が出来ない、それでも必死に、彼女の手は彼女の顔面の仮面を剥がそうとしていた。彼女はいつか誰かに言われた心に残る言葉の破片を継ぎ接ぎ合わせ始める。笑顔、諦める事、出来る事、大丈夫、生きているという事、笑顔を諦める事、笑う事が出来る事、諦めても大丈夫、出来るなら大丈夫、生きているという事、笑顔を諦める事が出来る事、笑う事が出来るのを諦める事、諦める事が出来るなら大丈夫、生きているという事、生きているという事、それは、笑顔を諦める事が出来る事、その強さ、笑う事が出来るのに諦めてしまう事、その弱さ、その弱さを強さで塗り替えてしまおうという事を諦める事、弱い自分を曝け出してしまおうという事、他者に受け入れて貰えるかどうか分からない、脆く傷つけられ易い花の様な自分の不器用な笑顔でも、そのたった一つの小さな心の開花する場所を守るという事、それが、貴方が今ここで確かに次の光の朝を迎えようとしているという事、宵闇の茨を潜り抜けて冷気のトンネルを震えながら越えて、それでも何処にも辿り着けない人の不幸を思えるという事、そんな光を得られない人々の分の輝きをもその身に纏い、何も零さず何も失わずに歩いていこうとする事、それが生きているという事なのよ…。
それじゃあ、笑ってばっかりいる人は、どうなってしまうの…?少女の心に回答者は無かったが、それでも少女の心には明るく見えてきた物が有った。笑わないでいる事に強さ弱さが有るのなら、笑う事にも強さ弱さはある筈で、ずっと笑っていられる強さ、ずっと笑ってしまう弱さ、今、この二つが鬩ぎ合っているのが私の仮面に宿る笑顔を悲しくさせているに違いない、この場合、私は何を諦めたらいいのだろう、「その弱さを強さで塗り替えてしまおうという事を諦める事」、そうか、笑う事に疲れたなら、今の今まで私の本心を隠し続ける為に笑い続けてくれた私の仮面の笑顔が疲れたなら、その時に、ありがとう、って笑いかけてあげればいいんだな。私は今まで、この現実から逃げたり隠れたりする為に、泣いてみたり、笑ってみたりしていたけれど、そんな事をしていても何も始まらない、本来泣く事笑う事は行動の結果として起こる物で、これら自身が行動の原因となる事なんて無い。それどころか次の行動へ移る際の障害物ですら在る。だけど、それだけど、私の泣き顔私の笑顔は、私が恐れた次の行動から私を守ってくれたと言ってもおかしくない、私に止め金を打ち込んで私の心と体がばらばらになってしまわないようにと、私と言う存在のこの非現実での所在を確かな物にしてくれた、そうゆう価値有る行動だったと言えるはずだ。だから私はそんな私の弱さに、御礼を言える強さを持とう、それが今私に出来る、笑い続けるという強さ弱さを諦めてこの世界へと立ち向かっていける本当の強さだ、本当の、心の底からの、笑顔の在り処だ。彼女の笑い声は、彼女の一番好きな響きを含むものになっていた。一番好きなその響きとは、咽喉だけではない、腹の方から来る素直で貴重な笑い声の事だ。第四節「風の無い夜には」
色の無い風景。彼女はそれを知っていた。それは太陽が夕日の中に瞼を閉じた後の風景、吹き曝す風の冷たさが演出する純粋な黒の世界、夜だ。だが彼女はそれを知っているだけで、それとの上手い付き合い方を見出している訳ではない。その黒い広がりは暖かな人工の光に満ちた空間から窓や扉に切り取られた四角形としてしか認識する事は無かった物だし、たとえその黒に長時間身を浸すような事が有ったりしても側には必ず自分に安心感を保証してくれる者がいた、そう、親だ。だから、今の様に誰も自分を守ってくれる者が無くしかもその守ってくれる者が何処にいるのか分からない状態で夜と同格或いはそれ以上に恐ろしく、危険な匂いのする環境に放り出された事は一度としてなかった。そんな事が一度としてでも有って良い訳が無い、子供に、そんな環境を凌げるだけの独立した生存能力が何処にあろうか。まず物理的に独立した生存が無理だと言う事は子供には論理ではない形で刻まれている、何故なら自我の形成が他者のそれの模倣及び取捨に因っているのだから周りに他者がいない、それが既に自我の不安定に繋がるのだ。ここで言う存在しない他者とは実際に周りにいない事以上の意味で言う、つまり精神的に他者の存在が感ぜられない事を言う。子供は昼に遊ぶ事しか知らない、つまり子供にとって見れば世界とは昼だ、昼ならば多少周りに人がいないくらいでの事で自我の存在に危機感を抱く必要は無い、昼の光の空間は必ず自分を保証してくれる何処かの誰かに繋がっている、と思えるからだ。だがしかし夜は違う。夜は家と言う擬似的な昼で昼の民である自分を紛らすか、もしくは家の絶対的主権者、親の導きによって連れ立つ事を許されるある種の禁断領域であり、聖か若しくは邪かその判断以前に、親にしか扱えない、親と比肩する圧倒的強者なのだ。親より他に身を任せられる圧倒的強者を子供は知らない、知らないと言うより知る事が出来ない、夜を独りで徘徊する自分より一回り逞しい子供と言うきっかけが与えられなければ子供はそれを模倣する手段を得られない訳で、模倣しないとなればそれを自分から進んで切り開いていくしか無いのだがそれを切り開く事はまだ親が圧倒的過ぎてする事が出来ない。夜においての親と言う壁を乗り越える事が、子供にとっての最初の関門なのだ。そして彼女は今、この禍々しい世界で他の子供とは違い、例えばライオンの親が子を崖から落として試練を与えるような、人間界より生存競争の厳しい世界では当り前のように行われているこの残酷な教育を受け入れようとしていた。
風も夜も知らない子猫は、恐怖の余り歩く事さえ出来ないだろう。だがしかし風が止めば、そこには恐ろしい事には変わりないがそれでも風を吹かせると言う威嚇を止めた静寂の得体の知れぬ世界が佇むばかりだ。光の昼が何処かに繋がっているのなら、この世界だってしっかりと歩いていけば辿り着ける場所が有るかも知れない。その辿り着いた場所も夜かも知れないけれど、そこになら懐かしい匂いのする風が吹いているかも知れない。今、灰色の風の止んだこの世界で、少女は草原の風を夢見て歩き出す。第五節「黒の夜、白の風」
少女は歩いている。勿論、自分の意志で。何かに急かされるでもなく、何かに怯えている風でもなく、少女の足取りは安定して地面上に描いた彼女の瞼の裏側の道筋を辿っている。だが、少女は上空を気にしている、上空から希望の風に乗った鳳が舞い降りて彼女をここから救い出してくれるのを待っている、そして天に住まう者に問うているのだ、神様、私の辿る道はこれで正しいのでしょうか、私は光差す小川の辺を、木漏れ日のくすぐる森の蔭を、星空が抱いてくれる夕暮れの向こう側を、目指せているのでしょうか、私の祈りは貴方に聞こえているのでしょうか、そして貴方は、私の心、私の翼に何時、自由を、大空への力を、お与えになるおつもりでしょうか。答えは無い、いや答えは有った、彼女が今この灰色の鎖に縛り付けられて大空へ飛ぶ事が許されていない事、それこそが動かしがたいそして唯一の答えだ、だが、それは彼女の望む答え、彼女の信じている神の言葉ではない、だから答えはまだ無い。彼女の一歩一歩、彼女の眼差しの向かう先の一点一点が彼女の止め処無い神への問いかけとなり、そしていつか大空を取り戻す時の大いなる助走となっている。だから、彼女が空の先に見ている鳥は、未来の自分自身の姿であるのかも知れない。彼女の瞳がどんな夢を映しているか定かではないが、その夢は彼女の口元に緩みを、笑みを齎した。だが、それでも、どんなに彼女の微笑みが安らいでいても、零れるようにして光る口元の白は無い、希望の、情熱の色に燃える黒い瞳は無い、全てが灰色、全てが偽り、全てが空虚だ。それでも彼女は歩く。彼女の胸に宿る思いは、決して空虚で偽りで灰色な飾り物ではないからだ。
少女は思い出していた、夜には何もかも黒に隠れてしまうけれど、夜空には夜の黒を貫く白が有った事を。星、無数の星達、星達の白は昼と言う絶対の輝きをなくした光の子供達が精一杯その昼を呼ぼうとしてその昼になろうとして小さな小さな光を作り出しているように見えた。彼女は窓の向こう側に見えるそれらが、きっと自分と同じように昼を待ち遠しく思っている遠い何処かの仲間達なのだろうと信じていた。だから彼女は、自分の部屋の電気を消してしまうのをとても申し訳なく思ったものだ、他の仲間達が一生懸命明かりを付けて昼を待っているのに、どうして私は電気を消して休んでしまおうとしているのだろう、でも、親の一言で彼女はそれを納得した、それはね、あの空の子達は本当は昼の中にいて、貴方が昼にするのと同じ様に遊んでいるのよ、とっても嬉しく。でも、貴方は夜。それを可哀想に思った空の子達は、貴方に昼を分けてあげたくてああやって空から光を、昼のかけらを投げてくれているのよ。そうか、その日以来、彼女は寝るということにためらいを覚えなくなった。それどころか早く寝て、翌日一生懸命昼の喜びを味わってそれをあの空の子供達におすそ分けしてあげなくちゃいけないんだな、という考え方をするようになった。砂場で遊んでいて光る硝子の破片を見つけたり、シャボン玉を膨らませてみたり、太陽を掴もうとして家の屋根に登ったり、色々と光を手に入れる工夫をした。でも、彼女は雨の日が嫌いだった。砂場が固まってしまって、シャボン玉も割れてしまって、何より太陽が何処にあるのか分からない、そんな灰色の雨の日が嫌いだった。夜の窓から仲間を見る事の出来ない雨の夜も彼女は憂鬱になったりした物だ。だけど、その灰色が晴れない事は今まで無かったのだ。こんな風に、灰色に閉じ込められてしまっていると言う事は経験した事が無い。彼女は灰色の日にこれまでこれと言って何かをした事は無かったけれど、今度は努力をしてこの灰色を晴らさなくちゃいけないんだな、とそう思った。彼女は、何か光を生み出せる物を探している。光は彼女の胸の内に有る。それを投射出来る、彼女の心の映る物を探している。草原の風を思う、彼女の心の光は、何処までも白かった。第六節「風に語りて」
ふいに風が吹いた。少女は長い髪を風に持っていってしまわれないように押さえた。押さえながら、彼女は風に呼びかけていた。ねえ、風さん、風さんは、灰色の事をどう思っているの。風は、透明な風は色なんて気にしていない、ただ色が有るか無いかそうゆう軸とは別のところで活動している。だからこそ質問している、ねえ風さん、透明である事と、灰色である事は、どっちが辛いの。風は、答えられなかった。答えの代わり、彼女の髪を優しくもとの位置に戻した。第一雪「夢色透明」
少女の目は、慣れてしまった。何にか、通常暗闇に在って人は光を視覚で拾えるようになる、つまり黒から白の方向を目指して黒と白の合間の明度を自分の空気の居城の輪郭として獲得形成していく。少女の場合、その明度回復現象を得た訳ではない、実際視覚的な事より精神の目を病んで行っていると言った方がいい、少女は心の中に一生懸命築き上げてきた小さな積み木のお城が段々見えなくなってしまっていた。それでも少女は積み木の、脆く直ぐにでも、ちょっとした突風が少女の心を吹き抜けたら跡形も無く崩れ去ってしまいそうなその大事なか弱い、か弱い彼女の心の住まう小さな家、それを、もっと大きくしようとしていた。つまり、少女の心にまだ希望の泉は湧いている、では少女の目は一体何に慣れて来たのか、それは、絶望、だ、希望と絶望を同時に持てる人間はいない、そんな矛盾は在り得ない、人間は本来絶望を持つ事が出来ない、絶望を持つ人間は即ち命を絶つ事を選択するからだ、どんな状況に有っても人は、生きてさえいれば心の何処かに希望の欠片を灯火を太陽の閃光を迸らせている、それが今の彼女の逞しくも儚い足の一歩一歩であり、くすんではいても何処か奥底に凛とした輝きを守る瞳の真っ直ぐさであり、彼女の心の大空を羽ばたく虹の羽根を持った神の鳳の心臓音なのだ。絶望、望みを絶つ事は人は人として人の尊厳を守る者として出来る事ではない、それでも、限り無く絶望に近い希望の終りかけた人間と言う者は、在る。それが今の彼女だ。彼女の瞳は絶望の暗闇に慣れつつある、灰色でも不確かな希望の暗い光にじんわりと満ちていたこの世界が、まるでこの世界に産声を上げながら知覚した世界の眩しさに慣れて行く過程、つまり生への順応から、それが時間軸を逆にして再現されていく過程、死への順応へと移り変わっていく。白が何処かに有るかもしれないと思い願った彼女の心が、希望の光が、黒い暗い夜の深遠へと堕ちて行こうとしている。
勿論今世界の色は微塵も以前までと変わってはいないのだ、灰色が今までと同様彼女の全方位に寄生して永遠に細胞分裂している。だが、その寄生は遂に彼女の体を貫いて彼女の心にまで到達してしまったのかも知れない。彼女は、いまや視覚によって世界に歩を進めているとは言い難い、彼女はもう、心の目でしか世界を見ていない、だから、彼女の心の世界を歩いている、絶望の黒に染まっていく灰色の夕方を、直ぐ今までそばで作っていたのに急激に遠ざかり見えなくなってしまった積み木の家を、白く暖かな彼女の為の昼の世界を目指して歩いている。世界はどんどん黒くなる。家もどんどん遠くなる。それでも彼女は、歩くのを止めない。手に持った積み木が、きっと最後のジグソーピースだから、これさえ嵌めれば、きっと綺麗な絵が完成するに違いない、綺麗な絵の中にはきっと私もいて、お母さんもお父さんもいて皆で暖かいスープを囲んで笑い合っていてそんな情景が窓から零れるように夜の黒を通じて空にいる私の友達達に届いているに違いない、だから、私はこの積み木をちゃんとその家に置かなくちゃいけない、この積み木で家を閉じてしっかり光の世界を宝物の箱に鍵をしてしまわないといけない。
最後のジグソーは宙を舞った。
彼女は転んでしまった。もう、この世界をちゃんと確認して歩くことを止めていた彼女は、ちょっとした石に躓いて転んだ。彼女の世界には、灰色の夕方、綺麗な絵、そして最後のジグソーの三つしかもう残ってなかったからそんなかけっこの邪魔をする自然物の存在を失っていたのだ。彼女は慌ててジグソーを探す。擦り剥いてしまった顔なんて関係無い、先ほど風が優しく洗ってくれた髪が汚れてしまったけれど、そんな事より、綺麗な絵の中の家に入るたった一つの鍵を探さなくては。倒れたまま手探りをして、彼女の手は先ほど転んだ石で止まった。安堵して取った。そして気づいてしまった。生々しいごつごつした、とてもではないが綺麗な絵の一部になど成り得ない無骨な肌触りに彼女の神経はショートした。綺麗な絵も、ジグソーも、もう何処にも無い、残っているのは、もう、灰色の、暮れなずむ冷たい景色だけだ。彼女は遂に、石を抱きしめたまま泣き出してしまった。でも、彼女の手は約束したのだ、彼女の望む物を、彼女の為に手にする事を。望む物なんてきっと何処にも無い、だから手の約束は優しい嘘だった、しかし彼女の涙は魔法を生んだのだ。草原に吹く、豊かな緑の中を悠々と吹き抜ける透明な風を、一瞬だけれど生んだのだ、この彼女の手のひらの上に。手は、その偽物のジグソーを本物にしてあげようと思った。だから、偽者を胸に押し付けて君の心を傷付けようとするのは止めて。確かに今持っているそれは偽者だけれど、君の心の中には、まだ本物が残っているだろう、持っているだろう?それを今見せてあげるから、だから、そんな悲しい苦しい表情で涙を流すのは止めて…。
少女の胸に風が集ってきた。いや、実際には、その石ころに風が集っていた。石ころの灰色が剥がれ落ちていく、代わりに、風の透明が石の周りを覆っていく。石は、透明になった、透明になって、彼女の心の中の風景を彼女の泣き続ける瞳の前に見せつけた。それを見て彼女は泣き止んだ、涙の中に色を見た時と同じだ、彼女は色を見た事に驚いているのではない、ただ、もうこの一時だけはこの世界の住人ではない、この石の中に踊り、石の中に駆け回り、そして疲れてこの石の中で眠る、そんな妖精になっている。いや、彼女は眠った。疲れてしまったのだ。疲れて、眠って、この世界を閉じた、閉じて、この石の中で遊ぶ事を選んだ。これが風の答えだ。灰色である事は、多分透明である事よりも希望の有る事です、何故なら、光は黒と透明以外の物で出来ているから。だけれど、透明は黒ではない、透明は、何か新しい色が来る前の、新しい光の絵の具で塗り替えられる前のまっさらなカンバスです、だから、私は貴方がこの世界がまた新しい希望に満ちた色で塗り替えられる日が来るまでの家となり、親となりましょう。貴方は灰色の世界で誰よりも強く白を願った。それが私が貴方を風の子供として受け入れる理由です。風は、黒い世界で吹く事を望みません。白い世界で吹く事を望みます、白がこの世界を満たす日を何時までも待ちつづけます。何故なら白は、私たち偽りの純粋色がなりたくてもなる事の出来ない、本当の意味での希望の色なのですから。
風の子は、親に尋ねる、ねえ、私は、なんと言う名前を名乗るといいのかしら…?何も無い冬の灰色に春の家を願った子、ハルカ
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