A米国の正面の敵
米国の連続テロ事件の首謀者とされるサウジアラビアの富豪でイスラム過激派のオサマ・ビン・ラーディンが9月24日、カタールの衛星テレビ局「アルジェジーラ」に、ファクスで米国へ聖戦(ジハード)を宣言する声明文を送り付けてきたことが明らかになった。
その中で、ブッシュ大統領の率いる米国軍をキリスト教徒による「十字軍」と見なし、イスラムの地であるパキスタンとアフガニスタンへの攻撃を阻止するために、パキスタンのイスラム教徒同胞があらゆる手段を講じて、立ち上がるように訴えた。
声明文には、ビン・ラーディンの名前とともに、父親のオサマ・ビン・ムハマドの名が手書きで署名されていた。
このテレビ局には、これまでもビン・ラーディンの名前で何度か同じような声明文のファクスが送られて来た。それらが、ビン・ラーディン自身が書いたものかどうか、判断の材料がない。だが、この文面の主張は、彼の過去の主張を繰り返したものだ。
湾岸戦争の報道で名を挙げた米CNNテレビのピーター・アーネットが1997年3月に、1時間に渡ってビン・ラーディンにインタビューした。ビン・ラーディンはその中で、「われわれは米国に対して聖戦を宣言した。なぜならば、米国は不正で、犯罪的で、専制君主的だからだ」と語っている。彼は、米国がイスラエルのパレスチナ領有を支持して来たことが、聖戦を宣言した根本的理由であると述べた。
「米国は、パレスチナ、レバノン、イラクで殺された人々に対して責任を負っている。米国の名を聞いただけで、われわれはカナ(レバノン)で起こった最近の爆弾事件で、罪もない子どもがばらばらにされ、手足が飛び散ったことを思い出す。米国政府はこうした犯罪によって、人間としての感情を棄てた。彼らは国境を越えて、力ずく、帝国主義で振る舞って来た。彼らは、イスラム教の聖地(メッカ)が、すべてのイスラム世界を激情させるということに思いやるべきだった。ユダヤ人に屈服した米国の驕慢と横柄さは、いまや世界で10億人以上の信者を擁するイスラム教の聖地(ここではアラビア)を占拠するに至った。この侵略行為と不正のために、われわれは米国に対して聖戦を布告する。われわれの宗教では、聖戦は義務である。われわれは、アメリカ人をイスラム教国から追放する」
また、別の個所でこう言っている。
「われわれの宗教では、イスラム教徒でない者はわれわれの国にとどまることは許されない。それ故に、われわれの計画で米国市民は標的ではないが、すぐにこの地を去るべきだ。かれらの安全は保障されない。(中略)米国はイラクのイスラム教徒を攻撃し、さらに60万人以上の子どもが、(米国のイラクに対する経済制裁のために)食料や薬が届かずに死んでいった。これは、米国政府が処刑したのも同然であり、その報いがあるだろう。米国は市民に対して軍隊を向けたのだから、その責任を取らねばならない。米国市民について言うならば、彼らも責任を免れない。彼らは、パレスチナやレバノンやイラクなどでの米国政府の犯罪を知っていながら、投票して選んだのだから」
このインタビューで、ビン・ラーディンはテロ行為への関与を一切否定している。しかし、以上の文脈を見ると、彼は、明らかに、米国の市民に対するテロが実行される可能性を示唆していた。
○ビン・ラーディンの略歴
ビン・ラーディンの経歴を明らかにし、テロリストの指導者になったとされる事実関係を掘り起こすことは容易ではない。今も新聞、放送などメディアを通じて流される情報は、ほとんどが裏付けを取られたものではない。この点は注目されるべきだ。
ビン・ラーディンに関して情報を収集してきたのは、ソ連崩壊後のロシアであった。ロシアは、チェチェンとタジキスタンで、ビン・ラーディンの率いるイスラム・ゲリラと戦い続けて来た。その際、得た情報が、ロシアの民主化の中でインターネット上に数多く流された。90年代後半にテロの脅威が高まるに至って米国の諜報機関も情報収集に力を入れるようになったが、マスコミに流される情報の中には、意図的な情報操作も含まれている。
以下のプロフィールも、そうした情報に基づく。
オサマ・ビン・ラーディン(Osama bin Mohammed
bin Avad bin Laden)は、“Modjahed”“Abu
Abdallah”“Khadz”あるいは“the Dirctor”と呼ばれる。1957年6月28日にサウジアラビアのジッダで生まれた。52人の兄弟の17番目。
彼の父、ムハマド・ビン・ラーディンは、第2次大戦後にイエメンからサウジアラビアに移ってきた貧農だった。ムハマドは建設業を起こし、モスクや宮殿の建設を手がけてサウジアラビア王家とも関係を培った。彼はサウジの富豪の一人となった。オサマ・ビン・ラーディンへの財産分与は3億ドルと推定される。
十代でイスラムの超保守派のワハビ党に所属した。ジッダのキング・アブダル・アジス大学に入学、1979年に経済・経営学の学位を取得した。教授陣の中には、ソ連のアフガン進攻に立ち向かったムジャヒディン(戦士)を積極的に支持したアブドラ・アズマンがいた。ビン・ラーディンは、アフガン進攻後の80年1月にパキスタンのペシャワールに行き、反ソ運動に身を投じた。彼の主な任務は、後方支援で、資金調達とイスラムの志願兵部隊の編成だった。彼は、自身の資金も使ったが、サウジアラビア、パキスタン、そして当時ソ連と敵対していた米国の諜報機関から資金援助を得た。アラブ各国から集まった2000人のゲリラ軍を組織するに至り、スーダンのアル・アンサールとマサダット、パキスタン、アフガニスタン国内に訓練基地をつくった。
ソ連軍はアフガニスタンで敗れ、共産党の崩壊とともに、89年には撤退したが、ゲリラ軍はこの勝利に自信を深めた。
一説によると、ビン・ラーディンはこの時から、北アフリカからバルカン半島、中東、中央アジア、さらにインドネシア、フィリピンの太平洋岸に至るイスラム帝国の建設を口にし始めたという。この目標のために、打倒すべき最大の敵は米国であり、89年のソ連のアフガン撤退と同時に、今度は米国と戦うためのテロリスト養成基地「アル・カイーダ」を組織した。
90年にサウジアラビアに戻り、そこでクェートに侵攻したサダム・フセインを追い出すために、サウジ王政が米国に協力し、米軍が駐留しているのを見て、ビン・ラーディンは王政を厳しく批判した。サウジ当局は彼を自宅軟禁したが、彼はスーダンに逃れ、この時から、米国への本格的反抗が始まった。
スーダンでの5年間に、旧アフガン・ゲリラを募って、テロリストの訓練基地を経営した。アルジェリア、チュニジア、エジプト、シリア、サウジアラビア、パレスチナの難民キャンプ、ウガンダ、エリトリア、ソマリア、アルバニア、ボスニア、チェチェニア、フィリピンから集まって来たとされる。
ビン・ラーディンが指揮したと言われるのは、1993年1月にソマリアへの国連平和維持軍に参加した米軍兵を襲撃して、18人を殺害した事件だ。この事件について、彼自身が犯行を認めているという。
だが、それ以後、ビン・ラーディンが首謀したとされるテロ事件については、いずれの容疑も確証がつかめていないのが実態だ。
それらを列挙する。
1993年2月にニューヨークの世界貿易センタービルが爆破されて6人が死亡、1000人以上負傷した。
この事件の主犯、ラズミ・アーメッド・ユセフは95年にパキスタンで逮捕された。CIAの中近東・南アジア担当官のポール・ピラーはユセフについて、こう証言している。
「今日のグローバル化したテロリズムは、このユセフに象徴される。彼は、この事件の後に極東において1ダースに上る米国の航空機の爆破を企て、未遂に終わった。ユセフはパレスチナ出身で、クェートで育ち、英国の技術学校で正規の教育を受けた。アフガニスタンのキャンプでテロリストの訓練を受け、92年9月に米国にやって来たが、この事件を仕組み、世界貿易センターに爆弾を放置して逃亡した。その後、マニラで航空機爆破計画を仕組んだ。そして、パキスタンで逮捕されるまで、アジア各地でテロ活動を企てた」
ビン・ラーディンはCNNのインタビューで、「ユセフなど知らない」と関係を否定している。
その後、海外の米国の軍事施設などへのテロは続く。
95年にサウジアラビアで自動車が爆発し、5人の米軍兵が死亡した。96年にもサウジアラビア・ダーラン近郊の米空軍基地の爆弾テロで、19人の米軍兵が死亡した。
さらに、98年8月にケニア、タンザニアの米大使館で爆弾テロがあり、242人が死亡した。2000年10月には、イエメンのアデン港に停泊中の米軍の駆逐艦に爆発物を積んだボートが衝突した。
ビン・ラーディンは96年にスーダンを追われ、アフガニスタンに戻って、タリバン政権に合流した。タリバンを援助した資金、軍隊、兵士を集めて、テロリストの訓練センターを各地に設けた。タリバンは、98年の米大使館と2000年のアデン港の米駆逐艦の爆破テロに関連して、ビン・ラーディンは全く無関係だと声明を発表している。
このほかにも、ビン・ラーディンが関わったとされるテロ事件は枚挙に暇がないが、実際どこまで関わったのかは推測の域を出ない。
だが、1998年2月に、ビン・ラーディンは国際イスラム戦線(IIF)の新組織を設立し、キリスト教の「十字軍」とユダヤ人に対して「ジハード(聖戦)」を宣言した。「アメリカ人を殺すことは、正統なイスラム教徒の義務である」と述べている。
アフガニスタンには、今日、ビン・ラーディンの基地と推定される場所が、首都カブールから南に約150キロのKhostの近くに二ヶ所ある。アル・バードル1と2と呼ばれ、軍の演習場と基地、高地と洞穴からなる。
以上が、ビン・ラーディンの略歴である。
その中で注目すべきは、ビン・ラーディンがイスラム原理主義運動の過激派のネットワークに深く結びついている点だ。
○イスラム原理主義運動過激派のネットワーク
東西の冷戦の終わりで中東・アフリカでも共産主義運動が衰退していったが、反政府運動のイデオロギーに代わってイスラム原理主義運動が広がっていった。1979年のイラン革命以後、ホメイニ、ハメネとシーア派の原理主義運動にもとづく政治路線が続くイランは、アラブ世界で積極的に過激派を支援して来た。80年代からレバノン南部では、シーア派原理主義過激派の「ヒズボラ」(神の党)が起こり、イスラエル占領地では「ハマス」(イスラム抵抗運動)が反イスラエル武装集団に急成長した。
一方、北アフリカでは、エジプトを中心にスンニ派に原理主義運動が起こり、その中から過激派勢力が生まれた。アルジェリアではスンニ派原理主義政党の「イスラム救国戦線」(FIS)が要人暗殺を繰り返し、エジプトでは「ガマ・イスラミヤ」(イスラム集団)が外国人を襲撃、チュニジア、モロッコ、リビアでも根強い反政府運動が起こった。これらの過激派集団は、ビン・ラーディンがアフガニスタンやスーダンで経営したテロリスト訓練センターである「アル・カイーダ」に兵士を送り込んで、武装ゲリラを養成した。
だが、ここで注意する必要があるのは、原理主義(Fundamentlism)である。この言葉は、本来、キリスト教においてカトリック教などの既存の権威に反対して、聖書への回帰を唱えたバプティスト派、ルター派などの急進派の呼称として生まれた。イスラム教の場合、経典の「コーラン」が信仰の根本であり、その意味では、原理主義という呼称を使うこと自体が「西洋的価値の押し付け」(イスラム・ヘラルド紙)と言える。
イラン革命を指導し、アラブ世界に勃興した急進的運動を「原理主義運動」と呼ぶ場合、それは教義上の問題から生まれたのではなく、むしろ悪政と貧困、さらに欧米諸国の帝国主義に抵抗する現実的問題から発生した。
ホメイニは、はっきりと反米主義を打ち出した。
エジプトで起こった「ムスリム同胞団」は合法的にイスラム国家を目指す漸進的運動であった。1979年にサダト大統領が米国のキャンプデービッド合意で対イスラエル融和政策を打ち出したのを契機に分裂した。中東和平を欧米の陰謀と断じ、イスラム教徒に対する背信行為と見なす過激派が台頭することになった。過激派は、イスラム法(シャリーア)を適用しない為政者を背教者として断罪すると宣言。後にサダトは暗殺されることになった。
過激派勃興の背景には、当時、イスラム世界で人口が急増する一方、近代化が追いつかず、失業と貧富の格差を拡大していった。過激派に身を投じたのは、主に地方で貧困にあえぐ下層階級出身者であった。また、社会の矛盾に憤る中流階級の学生が多く含まれていたという。
その中で、レバノン南部のヒズボラ(神の党)は、82年末に「イラン革命戦線」(IRG)が送り込んだ戦闘兵によって結成された対イスラエル抵抗軍が母体となった。
ヒズボラは、レバノン国民議会において7議席を有する政党(野党)である一方で、民兵組織としてゲリラ約5000人を抱えて、イスラエルの占領に抵抗する武力闘争を追及するという二重の性格を持つ。
85年に発表された政党綱領によると、その目標は、「西側帝国主義に対抗してレバノンから駆逐することだ」としており、米・仏駐留軍とすべての施設の撤退を謳っている。さらに、イスラエルを「サタン(悪魔)」と見なし、破壊するとともに、エルサレムをイスラム教徒の手に奪還することを目指す。
ヒズボラのレバノンでの対イスラエル、米軍、多国籍軍への攻撃は、90年1年間で19件だったが、91年52件、92年63件、93年158件、94年187件、95年344件とエスカレートさせた。
ヒズボラは、米国のクリントン前政権が進めた中東和平交渉に敢然と反対し、和平交渉をぶち壊すために爆弾テロを激化させていった。クリントン前大統領は95年1月に、中東和平に反対する勢力を根絶するために経済制裁を発動したが、爆弾テロは根絶されるどころか、ますます激化し、軍隊だけでなく一般市民を巻き込む惨事を引き起こすに至っている。
ヒズボラは、爆弾を携帯して体当たりする攻撃や、爆破物を積んだ自動車で衝突する自爆テロを本領にしており、この必殺の攻撃方法がテロの世界に急速に普及していった。
一方、イスラエル占領地のパレスチナ人過激派「ハマス(イスラム抵抗運動)」はヒズボラと同じく自爆テロを行い、中東和平交渉の破壊を目標にしてきた。
1940年代に、英国委任統治下のガザ地区などに浸透したエジプトのイスラム同胞団を母体として、87年12月に反イスラエル闘争(インティファーダ)をきっかけに結成された。占領地パレスチナ人住民の中での支持率は40%近いと言われ、パレスチナ解放機構(PLO)の対抗勢力に急成長していった。
ハマスはイランのテヘランに事務所を構え、イラン政府から資金援助を受けてきた。88年8月に制定された「ハマス憲章」では、イスラエル国家を抹殺してアラブ世界全体を包括する「イスラム統一国家」建設を目指すとしている。
今回、米国での連続テロ事件が起こる約4ヵ月前の5月22日、ベイルートで、ヒズボラがハマス関係者を招いて、パレスチナ支持集会を開いた。席上、ハマスの駐レバノン代表は、「イスラエルに対する自爆攻撃が、今後さらに二十四回行われる」と予告した。ハマスは三月初めに連続十件の自爆テロを予告しており、このうちまだ実行されていない四回に加え、さらに二十回のテロが準備されている、と述べた。
米国際戦略研究所(CSIS)の国際研究委員長のウォルター・ラッカーは「新テロリズム」(1998年)の中で、「自殺ミッション」について述べている。それによると、中東地域でイスラエルに対する自爆テロは1982年から98年までに、イスラエルとレバノンで50件に上り、年平均3回に及ぶ。ヒズボラは、自分たちの関与を否定しなかったが、ハマスは否定し、その責任は「イスラムの聖戦」と呼ばれる謎のグループにされた。この秘密性は、「殉教行為」というイスラムの教義から来るものだ、としている。
イスラム経典「コーラン」は、原則的に自殺を禁じている。だが、一方で、アラーとイスラムのために戦い死ぬことを義務と定めている。殉教するかどうかの判断は個人によるとされるが、実際には、自爆テロに向かう殉教の候補者は、教義を叩き込まれ、選別され、死後、家族の生活を面倒見ることを約束されるという。殉教の候補者は、貧しい地域の出身者の男性がほとんどで、年齢は16歳から28歳の若者である、という。
米連邦捜査局(FBI)は9月28日、連続テロ事件の容疑者の一人とされるモハメド・アタが所持していた5ページに渡るアラビア語の手書きの指南文書を公開した。内容は、テロ攻撃に向かう前にチェックすべき項目と自爆するための心構えが書かれていた。これは、自爆テロの実態を知る上で非常に興味深いものだ。
アタは、33歳でほぼ殉教候補者の年齢に当たる。彼は、この文書を携帯しテロ実行の前夜に読み返したと見られる。以下は、英語訳からの重訳である。
文書全体は「神に従え」というもので、「思い起こせ、予言者(モハメド)の戦いを、イスラム帝国の建設」途上における異教徒に対する戦いを」と前書きの中で述べている。
「最期の夜」と題するページが続く。
「今夜、おまえは多くの困難に直面することに気付く。しかし、おまえはそれらに向かい合い、100%理解しなければならない。神とその使者に従いなさい。おまえの内部で闘ってはならない。弱くなるところで、しっかりと立つことだ。しっかりと立つ者のそばに神は立つだろう。以下のことに従事せよ。祈り、断食すべきだ。おまえは神の導きを求め、神の加護を求めるべきだ。今夜は一晩中祈り続け、コーランを唱え続けよ。
心を清め、浮世の出来事から解き放たれよ。快楽と浪費の時は終わり、審判の瞬間が来たのだ。ここ数時間、神の許しを乞わねばならない。
おまえは、残された数時間がいかに貴重であるかを悟らねばならない。ここから、幸福な世界、無限の楽園での暮らしが始まる。楽天的になれ。予言者は常に楽天的だった。(中略)
誰もが死を憎み、死を恐れる。しかし、死後の世界と死後の報いを信じる者は、死を求める者となれるだろう。
神の加護を得れば、誰もおまえを打ち負かすことはできないと知るべきだ。
(中略)
もし苦悩にさいなまれるならば、そこから抜け出す方法もまたあることを心に止めよ。信じる者は常に苦悩にさいなまれるものだ。大苦を持たぬ者は楽園に入ることはできない。しかし、しっかりと立つ者だけが、苦悩を乗り越えるのである」
ここで、文書はテロ実行に必要な携帯品の点検を促す。
「すべての持ち物をチェックせよ。カバン、衣服、ナイフ、遺書、身分証明(ID)、パスポートほか必要書類だ。部屋を出る前に安全を確かめよ。尾行者はないか、確かめよ。身ぎれいか、靴も衣服も清潔か確かめよ。
その朝、心を開いて祈りを捧げよ。そのまま出発せず、禊ぎをせよ。そして、祈り続けよ。
飛行機に入ったときに、このように祈れ。
神(アラー)よ、わたしにすべてのドアを開き給え。神よ、祈りに答え、たずねる者にも答え給え。わたしに加護を与え給え。許しを与え、道を開き、重荷を解き放ち給え。
神を信じます。わたしは神の手の中にあります。信仰の光で全世界を照らし、この地上の闇を振り払い、わたしを神のもとへ導き給え。これこそが、わたしの目標である」
この後、神へ帰依する祈りで終わっている。
ブッシュ大統領は、「われわれはこれまでとは全く違う、新しい戦争を闘わねばならない」と語ったが、以上が米国が向かい合っている正面の敵の横顔である。
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