現代の躁鬱(そううつ)
吉田裕康
  どうも最近、「躁鬱(そううつ)」的な人間が増えてきたように思えて仕方がない。自分にも多少その傾向があるので、何となく感じるのだ。もう十年以上前になるが、「鬱(うつ)の時代」と言う言葉が盛んに使われたことがあった。現在は益々その傾向を増しているように思う。

  「鬱(うつ)」は手を変え品を変え、複雑かつ巧妙に忍び込んでくる。最も極端な状態は「引きこもり」だろう。もはや社会現象となっている。日本では特に三十代に多く、中には育児中の主婦も存在する。インターネットの普及により一歩も外に出ることなく、生活できるようになっていることが余計にこの減少に歯車をかける。インターネットで何らかの収入を得、デリバリーの食事をネットで注文し、決済はクレジットカードならば、会話さえ必要がない。
  「仮面鬱病」となって潜在化するケースもある。体がだるい、何となくやる気がない、などが具体的な症状だ。自覚していないと鬱病であることすらわからず、実態を把握しにくい状態にしている。
  鬱を肯定的に捉えてしまう動きもある。「癒し系」と呼ばれる一連の動きだ。この癒しと言うのはとにかくどんな物にでも使われる。音楽(なぜか宗教音楽的だ)、生活用品から、テレビに出る美女の顔にまで適用される。ある意味以上としか言いようがない。
  しかしながらなぜ、こんなに鬱が流行るのだろうか?
  
 これは「躁(そう)」的なものの押し付けが世の中に氾濫している反動と考えられないだろうか。「躁」の押し付けはうんざりするほどある。ラジオやテレビをつければ「明日があるさ」と大声で叫んでおり、本屋に行けば「チーズはどこに消えた」が平積みになっている。飲み屋の話題のテーマは「ポジティヴ・シンキング」。果ては育児書まで「プラス思考」などと言う。「ネクラ」「ネアカ」で区別していた頃が懐かしく思えてくる。今のこの傾向は区別ではない。明らかな差別的な思考である。このヒステリックな状況は一種のファシズムと言い切ってもいい。

  こうして考えると全体が「鬱」だから無理矢理「躁」化しようとしているのか、「躁」化しているので「鬱」になって引きこもろうとするのか。しかしながら会社では「ポジティヴ」、家では「癒し系」では、あまりにも悲しい生き方だ。
2001.5.26
Copyright (c) Hiroyasu Yoshida 2001 All Rights Reserved.