チベット

ヒマラヤ山脈北側の広大なチベット高原には、長い歴史を持つ独立国チベットがあった。歴代のダライ・ラマは政治と宗教(仏教)の指導者であり、チベットの首都ラサにあるポタラ宮は、ダライ・ラマの居所であった。 1949年に成立した中華人民共和国は、「チベットは中国の一部である」と主張し、1950年10月にチベットを侵略した。チベット東部を占領した中国は、その軍事的圧力の下、1951年にチベットを強制的に併合した。 中国の横暴に対してチベット民衆の抵抗活動は高まり、ついに1959年3月、首都ラサで民衆が大規模に蜂起した。ダライ・ラマ14世は、流血の拡大を避けるべくインドへ亡命したが、中国軍は容赦せず、無差別殺戮を行い、徹底的な流血の弾圧を行った。ダライ・ラマ14世はインド北部のダラムサラにチベット亡命政府を設立し、現在に至っている。 占領以来の中国の圧政により、亡命政府の推計では、600万人のチベット人のうち120万人が命を奪われた。中国はチベット独自の文化も破壊してきた。中国による過酷な人権弾圧は現在も続いている。中国当局は、女性の政治囚に対しては、電気棒を用いた性的拷問を加えることが多く、精神に異常をきたしたり、衰弱の果てに絶命する女性が少なくない。

はじめに

チベット女性協会(TWA)は非政府組織(NGO)である。祖国が強制的に占領されたことに対し、平和的手段で抵抗するため、1959年、首都ラサの数千人の女性がポタラ宮の近くに集まった。チベット女性協会はこのときに設立された。そこに集まった女性たちは挑発行為などしていないのに、中国軍は女性たちを捕らえ、裁判もなく投獄し、拷問し、殴打し、容赦なく苦しめた。チベット女性協会は1984年、亡命チベット女性によって正式に活動を再開した。現在、インド・ネパールなどに40の支部を持っている。チベット女性協会は、チベットの自由のため、そしてチベットを守るために命を捧げた多くの勇敢な姉妹の後を継ぐ団体である。   

チベット女性協会の活動内容は、他のNGOと異なる。主な優先課題は、チベット解放の闘いを展開することと、中国占領下のチベットにおけるチベット民衆、とくに女性に対する虐待について、広く意識喚起をすることである。   

中国は1980年に女子差別撤廃条約を批准した。しかし、中国の国内法制と国際的責務は、いずれもチベット女性の権利を擁護しなかった。1959年に中国がチベットを完全な支配下において以来、女性、とくに尼僧は、中国に抑圧の停止を要求する数多くの平和的デモにおいて、指導者となってきた。ここに提出するのは、中国占領下のチベットで5年間投獄された尼僧の証言である。この尼僧は、首都ラサのバルコル(中心街)で独立要求のデモに参加したために投獄された。

証言

チュイン・ギャルツェンは、チベットのルンドゥプ郡にあるシャ・ブムパ尼僧院に属する尼僧であった。俗名はチェミ・ヤンチェンといい、1994年当時は26歳であった。1994年6月14日、チュインは仲間の尼僧たちとともに、首都ラサのバルコル(中心街)で、「チベットに自由を」「ダライ・ラマ法王万歳」などのスローガンを叫びながら、独立要求デモを敢行した。彼女らは10分足らずで警察に逮捕された。彼女らはグツァ留置所に連行され、6カ月間拘禁された。この6カ月の間に、中国当局はチュインを激しく殴打し、また約7回にわたって尋問した。尋問では、彼女が適切な返答をしないと、殴打と拷問が行われた。また、中国当局は、囚人から強制的に血液を抽出した。当局は囚人たちに「血液をとるのはお前らの食事代を支払うためだ」と言った。血液抽出は、囚人たちの身体をますます衰弱させていった。   

1994年11月、彼女らはラサの中級人民法院で裁判にかけられ、チュインは禁固5年・政治的権利剥奪2年の刑を言い渡された。同年12月、チュインはダプチ刑務所に移送された。ダプチ刑務所で、彼女は、殴打(これはいつものことだ)のほかに、厳しい「鍛錬」への参加を強制された。その「鍛錬」には、朝7時から夜8時まで日向でずっと立たされるようなことまで、含まれていた。立ち続けている間、休憩時間は10分ほどだった。囚人は、両膝の間と脇の下にそれぞれ新聞を挟まれたうえ、水がたっぷり入ったボウルを手で支えているように命じられた。少しでも動くと、殴打された。定期的な「鍛錬」のほかに、囚人は、羊毛から糸を紡いだり、軍事教練のようなことをするなど、その日ごとの課題を命じられた。   

囚人の日々の時間割は次のようなものであった。

午前4時30分−7時30分:起床・鍛錬

午前7時30分−8時:朝食

午前9時30分−12時:労働

午前12時−午後1時:昼食

午後2時−7時:労働

午後7時−8時:夕食

午後8時−10時:鍛錬

囚人に与えられる食事は全く不十分なものだったので、多くの囚人の身体が衰弱していった。   

1998年5月1日、ダプチ刑務所開設40周年を祝う国旗掲揚式があり、囚人たちは刑務所の庭に呼び出された。中国国旗が掲揚されると、囚人たちは抗議した。囚人たちは「チベットに自由を」「ダライ・ラマ法王万歳」「チベットの大地に中国国旗は立てさせない」と叫んだ。刑務所の当局者と人民武装警察は、直ちに、囚人たちを容赦なく殴打した。多くの囚人が深刻な傷害を負わされた。   

同じ年の5月4日、こんどは中国「青年の日」を祝う国旗掲揚式があり、囚人たちは再び呼び出された。このときも囚人たちは独立要求のスローガンを叫んで抗議した。中国当局は、電気棒を使って、抗議する囚人たちを残忍に弾圧した。  このあと、囚人たちは順次、尋問に呼び出された。5人の尼僧が激しい殴打で殺され、ひとりの男性僧侶が射殺された。   

チュインは暗い独房に監禁された。独房はひどく不衛生で、ほとんど膝も伸ばせない所だった。チュインが刑期を終えてダプチ刑務所を出たとき、太陽のほうを見ることができない状態が長く続き、そのために倒れてしまいそうであった。チュインは通行許可証を渡され、どこへ出かけても、それを関係職員に提示しなければならなかった。さらにチュインは、どの尼僧院に所属することも禁じられた。   

乏しい食事、過酷な「鍛錬」、そして血液抽出のために、チュインはとても衰弱していて、ラサ病院に6カ月間入院しなければならなかった。彼女はいまでも完全に回復してはいない。  

2000年3月、チュインはインドへ逃げる決心をした。数人の尼僧が一緒だった。彼女らは、ソロ・クムブからネパールまで、20日間も歩き続けなければならなかった。ネパールに入った一行は、チベット・レセプション・センターに9日間滞在した。一行は道中で、食料の欠乏を含め、多くの苦難に直面したが、2000年4月24日、チュインはついにダラムサラ(インド北部・チベット亡命政府所在地)に辿り着いた。

まとめ

中国占領下のチベットでは、刑務所に収容されている政治囚のうち、女性は25%である。1999年9月現在、670人の政治囚の存在が知られており、そのうち女性は合計180人である。拘禁されている女性の80%は尼僧である。   

女性の処遇状態は、拘禁施設の処遇に関する国際基準に、遠く及ばない。女性は月経のための衛生用品を与えられていない。水で洗い流すことすら、長期間、許可されない。そのため月経の状態が悪化する。また彼女らは、厳しい労働、強制的な「鍛錬」、最も残虐な形態の心理的・身体的拷問に服従させられている。   

2000年2月に発表されたアメリカ国務省1999年年次報告書は、刑務所の劣悪な処遇状態を詳しく記すとともに、性的虐待、広範囲に行われていて、しばしば致命傷を与えている殴打、長時間にわたる継続的な拷問、長期間の独房監禁について、具体例を記録している。   

中国の刑務所におけるチベット人の処遇に関する最近の調査は、拘禁中に死亡する政治囚、あるいは拘禁の結果として死亡する政治囚が増加していることを明らかにしている。ラサ郊外のダプチ刑務所だけをみると、女性の政治囚の死亡率は5%、つまり20人にひとりの割合だと推計されている。   

チベット問題は大変な危機的段階を迎えている。中国占領下で生きるチベット人、とりわけ女性たちの状況は悲惨であり、国際社会が真剣に考慮しなければならない。チベットの女性たちに関する諸問題について、調査がなされるべきである。   

みなさまから全面的なご支援がいただけますよう、希望し、祈っています。  

*本報告はチベット女性協会が作成した(2000年9月21日)。