信長公記

巻六

元亀四年

1、弾正遊泳  松永多聞城渡し進上

 去年冬@、松永久通は反逆の罪を赦免され多聞山の城を明け渡した。城には定番として山岡対馬守景佐が入れ置かれた。そしてこの年の正月8日、その父の松永久秀が濃州岐阜へ下り、天下無双の名物不動国行の刀を献じて宥免の礼を述べた。久秀は以前にも世に名高い薬研藤四郎吉光を進上していた。

 @この年冬の誤りで、久秀の岐阜行きも翌年正月のこと

 

2、異見十七ヶ条  公方様御謀叛

 公方様が内々に信長公へ対し謀叛を企てていることは、この頃すでに明白となっていた。そのことは先年信長公が公方様の非分の行いを諌めるべく建言した十七ヶ条の異見書を、公方様が不承諾とした一事により明らかとなった。

 その十七ヶ条とは以下の通りであった。

一、光源院義輝殿は禁中へ参内することが少なく、ために御不運な次第と相成ってしまった。信長はそのことを考え、御当代には懈怠なく参内なされるよう以前より申し上げてきたが、公方様にはそのことをお忘れになり御退転なされてしまっている。まったく残念なことである。

一、諸国へ御内書を遣わして馬その他を所望なされているが、その外聞がいかがなものかをよく考えていただきたい。それに、何か仰せ遣わされる事があって御内書を発給する際には必ず信長の添状も一緒に添える旨をかねてから申し上げ、公方様もそれを承諾したはずであったのに、今はそれをすることなく遠国へ御内書を下して御用を申し付けられている。これは以前の約束に違背している。良き馬のことなど御耳にされた時は、たとえ何処にいようとも信長が馳走して必ず進上して差し上げるのに、そうはせず直に仰せ遣わされている。よろしくないことである。

一、よく奉公して忠節疎略なき者達には相応の恩賞を宛行わず、新参のさしたる事もなき者達には御扶持を加えられている。そのようなことでは忠不忠の別も無くなってしまうし、諸人の評価もよろしくない。

一、このたび公方様が雑説に惑わされて御物を避難させたことは都の人士の広く知るところとなり、それによって京都は騒然となってしまった。御所の普請に苦労を重ねてやっと御安座がなったというのに、またも御物を退かせて何方かへと御座を移そうとなされる。無念なことである。これでは信長の辛苦も徒労に終わってしまう。

一、賀茂の神領を岩成友通へ与え、表向きは土地の百姓前を固く糾弾するよう申し付けておきながら、内々では打ち捨てになされている。このような寺社領没収はいかがなものかとも思う。しかし岩成も困窮して難儀していたので、公方様が岩成の申立てを容れて他の訴えには御耳を休めていれば、他日岩成を何かの用に役立てることも出来ようと考えて容認していた。しかし御内心がそのようなことであれば、もはやそれも叶わない。

一、信長に近しい者達に対しては女房衆以下にいたるまで辛く当たり、迷惑させていると聞いている。われらに疎略なき者達と聞けば、公方様にはひとしお御目をかけられて然るべきであるのに、あべこべに疎略に扱われる。これはどうしたことか。

一、よく奉公して何の科もなき者達に御扶持を加えられないため、困窮した者達は信長を頼ってきてはわが身を嘆いている。信長から言上すれば何かしら御憐もあろうと考えてのことであるから、不憫のため、かつは公儀のおんためと思い御扶持の儀を申し上げたが、ただの一人とて御許容なされることがなかった。世にも吝嗇なる御諚であり、面目なき次第と考えている。これは観世与左衛門・古田可兵衛・上野紀伊守らの事である。

一、若狭国安賀庄の代官の件につき粟屋孫八郎から訴訟があったが、取り扱いを忌避して再三にわたり申立てがあっても無視し続けてこられた。

一、小泉女房が預け置いていた雑物や質物として置いていた腰刀・脇差までも召し置かれてしまったと聞いている。小泉が何か謀叛でも企てて曲事をしでかしたというのなら、たとえ根を絶ち葉を枯らしても道理であるが、小泉は単に計らざる喧嘩をしたにすぎない。法に従うのはもっともであるが、これほどまで厳しく仰せ付けられては世間に公方様は欲得により処断をなされたと思われてしまう。

一、元亀の年号は不吉につき改元すべきとの旨を以前より申し上げてきた。禁中からもその勅命があったが、そのために必要な少しばかりの費用を公儀が捻出しないため、今も遅々としている。改元は天下の御為であるから、御油断があってはよろしくなかろう。

一、烏丸光康を勘当し、子息光宣に対しても同様に御憤りになっておられたところ、誰であろうか内々の使いを立てて金子を上納させ、それで赦免なされてしまった。嘆かわしいことである。人により罪によっては過怠金を仰せ付けられるのも道理であるが、烏丸は堂上の仁である。当節公家にはこの仁のような人が多いのだから、それに対しこのような仕置きをなされては、他への聞こえもよろしくない。

一、他国より御礼があって金銀を進上してきたのを隠匿し、御用にも立てようとしない。一体何の御為か。

一、明智光秀が町から徴収した地子銭を買物の代金として渡したところ、公方様は明智が山門領の町から銭を徴収したといって受取主を差し押さえてしまった。

一、昨年夏幕府の御城米を売却して金銀に換えてしまわれたが、公方様が商売をなされるなど古今に聞いたことがない。当節は倉に兵糧が満ちあふれている状態こそ外聞もよいというのに、そのような次第となったことを知り驚き入っている。

一、御宿直に召し寄せておられる若衆に扶持を加えたいと思われたなら、当座当座で与えてやるものは何なりとあるのに、あるいは代官職を仰付け、あるいは非分の公事を起こさせる。これでは天下の非難を浴びることは避けられない。

一、諸侯は武具・兵糧のほかに嗜みはなく、もっぱら金銀の蓄えに励んでいる。これは浪人した時の備えのためである。上様も以前より金銀を蓄えておられたが、先日洛中に雑説が立った際にそれらを持って御所を出てしまわれたため、下々の者は公方様が京を捨てて浪々するものと誤解してしまった。上たるもの、行いを慎んでいただきたい。

一、諸事につき御欲が深くあらせられる。理非も外聞も気にかけられぬ公方様と世間に伝わっている。ために何も知らぬ土民百姓までが悪御所と呼んでいるとのことである。普光院義教殿がそのように呼ばれたと伝えられているが、それならば格別な事である。何故そのような陰口を言われるのかをよく考え、御分別を働かせていただきたい。

 以上の旨を異見したところ、金言耳に逆らったのであった。遠州表で武田信玄と対峙し、江州表では浅井下野守久政・長政父子および越前朝倉氏の大軍と取り合い、虎御前山の塞も守備半ばで方々手塞がりの状態となっている信長公の様子を、下々の者が御耳に入れたためでもあったろうか。
 信長公は年来の忠節がむなしく潰えて都鄙の嘲弄を浴びることを無念に思い、日乗上人・島田秀満・村井貞勝の三使を公方様のもとへ遣わした。そして要求のごとくに人質・誓紙を差し出して等閑なきようにする旨、種々様々に申し述べたが、ついに和談はならなかった。

 公方様は和談の交渉に対するに、兵をもって報いた。近江堅田の山岡光浄院景友・磯貝新右衛門と渡辺党へ内々に命を下し、かれらに兵を挙げさせたのである。かれらは今堅田に人数を入れ、一向一揆と結んで石山に足懸かりの砦を築いた。これに対し、信長公はすぐさま柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆の四人を鎮圧に向かわせた。

 

3、火の手上がる  石山・今堅田攻められ候事

 軍勢は2月20日に出立し、24日には瀬田を渡って石山の砦へ取りかかった。砦には山岡光浄院が伊賀・甲賀の衆を率いて在城していたが、砦が普請半ばで守りがたく、26日には降伏して石山を退散した。砦は即刻破却された。
 今堅田の攻略は29日朝から開始された。東の湖上からは明智光秀が軍船をそろえて城西方へ攻め寄せ、陸からは丹羽長秀・蜂屋頼隆の両名が城南を攻め立てた。そして午刻頃に明智勢が攻め口を破って城内へ押し入り、敵兵数多を斬り捨てて砦は落ちた。これによって志賀郡の過半は相鎮まり、明智光秀が坂本に入城した。柴田・蜂屋・丹羽の三将は岐阜へ帰陣した。

 この挙兵によって公方様は、信長公への敵対の色を天下に示した。それをみた京童は、「かぞいろとやしない立てし甲斐もなくいたくも花を雨のうつを」@と落書して洛中に立てまわった。

 3月25日、信長公は入洛のため岐阜を発った。そこへ29日になって細川藤孝・荒木信濃守村重の両名が、信長公への忠節の証として逢坂まで軍勢を迎えに出てきた。信長公は上機嫌でこれを迎え、同日東山の智恩院に着陣した。旗下の諸勢は白川・粟田口・祇園・清水・六波羅・鳥羽・竹田などAにそれぞれ宿営した。信長公はここで荒木村重に郷義弘の刀を与え、細川藤孝にも名物の脇差を与えた。

 4月3日、信長公は堂塔寺庵を除く洛外の地に火を放ち、公方様へ和平をせまった。信長公は事ここに至っても公方様の提示する条件通りに和談を結ぶ旨を述べて交渉したが、ついに許容されることはなかった。

 @「かぞいろ(父母)と思って養い立てた甲斐もなく、花(花の御所=将軍)を雨が打つ」 A現京都市左京区・東山区・伏見区。京都東郊〜南郊

 

4、心胆錯綜  公方様御構取巻きの上にて御和談の事

 翌日織田勢は御所の公方様を押さえつつ、上京へ火を放った。ここに至って公方様はついに抵抗を断念し、和睦を承諾した@。信長公もこれに同意し、4月6日名代として織田信広殿を公方様のもとへ参上させ、和談成立の御礼を申し述べさせた。
 事態が一時の鎮静をみたため、4月7日信長公は京を発って帰陣の途についた。その日は守山に宿営した。

 @朝廷が間に立って和睦を調停した。

 

5、表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺@に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城Aに佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方より囲んで付城を築かせた。

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。
 同日、信長公は岐阜へ馬を収めた。

 公方様が憤りを静めるはずはなく、いずれ再び天下に敵するであろうことは疑いなかった。そして、その際には織田勢の足を止めるため湖境の瀬田付近を封鎖してくるに違いなかった。信長公はその時に備え、大船を建造して五千・三千の兵でも一挙に湖上を移動できるようにしておくよう命じた。

 @A前出。ともに現滋賀県愛東村

 

6、大船  大船作らせられ候事

 5月22日、信長公は佐和山へ入り、ここで大船の建造に着手した。船の材木は多賀・山田の山中@から切り出され、芹川Aの流れを下って佐和山山麓の松原Bに集められた。松原には分国中から鍛冶・番匠・杣が集められ、大工棟梁岡部又右衛門の指揮のもと材木を削って造船を開始した。信長公は船の全長を三十間・幅を七間とし、櫓は百挺備えさせ、艫舳には矢倉を上げて堅固この上ない造りにするよう岡部に厳命し、みずからも佐和山にあって日夜油断なく工事を監督した。そのため建造は遅滞なく進み、7月5日に竣工した。人々は、完成した大船のあまりの大きさに上下とも耳目を驚かせた。

 そしてこの大船を使う機会は、竣工後すぐにやってきた。

 @現滋賀県多賀町近辺 A原文「勢利川」 B現彦根市松原

 

7、神速兵団  公方様真木嶋に至て御退座の事

 7月3日に公方様が挙兵し、二条御所に日野中納言輝資殿・高倉藤宰相永相殿・伊勢伊勢守貞興殿・三淵大和守藤英らを置き、みずからは宇治の真木嶋@に動座したという飛報が佐和山の信長公の元へ届いたのは、大船が完成した7月5日のことであった。それを聞いた信長公は翌6日、出来上がったばかりの大船を湖上に進め、大風の中を坂本口へ押し渡った。そして翌日入洛すると二条妙覚寺に陣を据え、そのまま猛勢をもって二条御所へ攻め寄せた。すると御所にいた堂上公家たちは来襲した織田勢のあまりの大軍ぶりに驚き、たちどころに降伏してしまった。かれらは口々に詫び言を述べて人質を進上し、以後は織田勢に同陣した。

 @現宇治市槙島町。当時は巨椋池と宇治川に囲まれた要害となっていた。

 

8、将軍追放  真木嶋にて御降参、公方様御牢人の事

 御所を制圧した信長公は7月16日になって槙島へ馬を寄せ、五ヶ庄@の柳山に陣を取った。そしてすぐさま諸将に向かい、「即刻宇治川を越え、槙島を攻め破るべし」と命じた。眼前を流れる川は激流の聞こえも高い宇治川であり、流れは涛涛としてすさまじく、所々で逆巻いては飛沫を上げ、渡河が容易でないことは皆の知るところであった。しかし信長公は容赦する様子を見せず、「ものども臆せしか。延引するならば、信長が先陣となる」とまで言った。そうまで言われては、諸将ももはや逃れることはできなかった。

 かくして織田勢は二手に分かれ、各々渡河を開始することとなった。その一手は源平の先例にならい、川上の平等院北東を渡河点に選んだ。ここは源平の昔に梶原景季と佐々木高綱が先陣争いを演じた古跡である。この攻め口からは稲葉一鉄・息子右京助貞通を先陣として斎藤新五・氏家直通・安藤守就、不破光治・息子彦三直光、丸毛長照・息子兼利、飯沼勘平・市橋長利・種田助丞が進み、一挙に進軍して平等院の門前へ上がり、鬨の声を上げて近辺へ放火した。

 残る一手は五ヶ庄前の流れを渡ることとなった。こちらへは佐久間信盛・丹羽長秀・柴田勝家・羽柴秀吉・蜂屋頼隆・明智光秀・荒木村重・細川藤孝と息子与一郎忠興・蒲生賢秀と息子忠三郎氏郷・永原筑前守・進藤山城守・後藤喜三郎・永田刑部少輔・山岡景隆と息子孫太郎景宗・山岡景猶・多賀新左衛門・山崎源太左衛門・平野長治・小河孫一・弓徳左近兵衛・青地千代寿・京極小法師高次・池田孫次郎らが進んだ。

 そして7月18日巳刻(午前10時)、両口に分かれた諸勢は一斉に歩を進め、川西の中島をめざして先を争って渡河した。音に聞く宇治の大河も、信長公の威光の前にその力を減じたようであった。

 織田勢は渡河を終えると、しばらくの間人馬の息を休ませた。そして休息を終えると、全軍旗頭をそろえて南のかた槙島城へ殺到していった。織田勢は城から応戦に出た敵の足軽を追い立てつつ進み、佐久間信盛勢・蜂屋頼隆勢などは五十余もの敵首を挙げた。そしてそのまま猛勢をもって城へ寄せ、外構を四方より攻め立て、たちまちのうちにこれを破って城へ火を放ってしまった。公方様は、堅固さにおいて槙島に勝る場所はないと考えてこの地に動座したものであったが、結果は案に相違した。何一つまともな手段も講じることができないまま、一敗地にまみれてしまったのである。

 公方様は、これといった不足もない地位にありながら、その恩恵を忘れて天下に敵した。その結果今回の敗軍をみたのであるから、その身は腹を召されて当然であった。
 しかし天命は意外であった。信長公は公方様の命を断たず、生かしたまま人々の褒貶を浴びるにまかせようとしたのである。信長公は公方様の若君を人質として手元に留め置き、公方様自身に対しては「怨には恩をもって報ず」として、羽柴秀吉を警固に河内国若江城Aまで送り届けさせた。

 若江へは、日頃美々しく着飾って輿車に乗った上臈衆でさえも、徒歩はだしで取るものも取り敢えず出立しなければならなかった。思えば先年の入洛の際には信長公に供奉され、供の人数は前後に甍を並べてその数も知れず、その威勢は草木もなびくばかりで、諸人に果報者の公方様よと敬われたものであった。それに引き換え、今回の出京はあまりに惨めであった。鎧の袖は涙と露に濡れ、ひとびとはその身を指差しては貧乏公方といって嘲笑した。自滅とは言いながら、哀れな様は目も当てられなかった。

 公方様の退去後、信長公は槙島に細川昭元殿を置き、みずからはそのまま南方表に出勢して諸所を焼き払い、7月21日になって京都へ凱旋した。
 叡山の麓の一乗寺Bには渡辺宮内少・磯貝新右衛門が公方様の味方として立てこもっていたが、これも降伏して退散した。磯貝は紀伊に蟄居させられ、のちに殺害された。また静原山Cに砦を構えて同じく反抗していた山本対馬守に対しては、明智光秀が攻囲にあたった。

 信長公は今度の上京焼き討ちで町人が迷惑をこうむったことを考慮し、彼らへの地子銭および諸役の取り立てを猶予した。このため町の復興は早まり、まもなくして町々は焼き討ち前の様子に戻った。京都所司代には村井貞勝が申し付けられ、信長公も数日の間在洛して政務にあたった。

 @現宇治市五ヶ庄 A三好義継の城 B現京都市左京区内 C現京都市北区内

 

9、湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事

 7月26日@、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中Aの両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。
 落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。

 @正しくは27日 A現滋賀県安曇川町内

 

10、岩成最期  岩成討ち果され候事

 淀城@には、公方様の命に応じた岩成友通・番頭大炊頭・諏訪飛騨守の三将が立てこもっていた。しかしこのうち番頭・諏訪の両名に対しては羽柴秀吉が調略をもって内応を持ちかけ、承諾を取りつけることに成功していた。そこで信長公は残る岩成友通を討つべく、細川藤孝らの軍勢を淀へ向かわせた。
 織田勢が寄せると、岩成は城中から討って出て敵中へ切り込んだ。すると内通していた番頭・諏訪の両名がにわかに織田勢へ味方し、岩成は敵中に孤立してしまった。それでも岩成はなお並居る敵勢の中を切りまわったが、やがて細川藤孝家中の下津権内という者に挑みかかられ、組討ちのすえついに首を落とした。

 下津は討ちとった首を高島の陣所へ持参し、信長公に披露した。すると信長公はその武功に感じ入り、かたじけなくも着用していた胴着を脱いで下津へ与えた。まさに面目の至りであった。いずれの方面においても作戦の成功をみた信長公は、8月4日岐阜に帰陣した。

 @現京都市伏見区淀

 

11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城@へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山Aに集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山B方面に布陣しなければならなかった。

 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

 @現滋賀県虎姫町月ヶ瀬 A現浅井町・湖北町間 B現余呉町〜木之本町

 

12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山@の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山@でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。

 @現滋賀県木之本町内

 

13、刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事

 信長公に先を越されて叱責を受けた諸将は、滝川・柴田・丹羽・蜂屋・羽柴・稲葉をはじめとして口々に信長公へ詫び言を申し上げた。しかしその中で佐久間信盛だけは、目に涙を浮かべつつ「左様に仰せられども、われらほどの家臣は中々持たれませぬぞ」と自讃混じりに抗弁した。信長公はこれを聞いてさらに怒り、「そのほう男の器量を自慢いたすが、何をもってそのように言う。片腹痛いわ」といって益々機嫌を悪くした。

 信長公の読み通り、織田勢は退却する朝倉勢を追撃して多大な戦果を得ていた。信長公のもとへは追撃で得た首を持参する侍があとを絶たず、また信長公みずからも騎乗して敵勢を追った。

 敵勢は、中野河内口@と刀根山口Aの二手に分かれて退却していた。織田勢はいずれを追ったものかとしばらく詮議していたが、「名のある者は、疋田・敦賀の味方城を頼りに退いていよう。されば刀根山を越え、疋田に向かうべし」との信長公の命に従い、刀根山口へ向かった。
 すると、案のごとくであった。朝倉勢は中野河内口からは雑兵を退かせ、朝倉義景以下主だった者達は刀根山から敦賀をさして退却していた。これを追尾した織田勢は刀根山の嶺で朝倉勢に追いつき、大波が浜の砂をさらうように次々と朝倉勢の首を斬獲していった。朝倉勢の中からも忠義の志厚い者たちが返しては踏みとどまって支えようとしたが、かなわずに一人二人と姿を消していった。敦賀までの十一里に及ぶ追撃戦で、討ち取られた朝倉勢の首数は三千余にのぼった。

 討ち取られた者のうち、名のある者は朝倉治部少輔・朝倉掃部助・三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・河合安芸守・青木隼人佐・鳥居与七・窪田将監・託美越後・山崎新左衛門・土佐掃部助・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・細呂木治部少輔・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・兼松又四郎の討ち取った中村新兵衛・長嶋大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・疋田六郎二郎・小泉四郎右衛門、そして美濃の斎藤龍興Bや印牧弥六左衛門など多数に及んだ。

 このうち印牧弥六左衛門は不破光治配下の原野賀左衛門という者に捕らえられ、信長公の御前に引き出されてきた。そしてその場で信長公の尋ねに答えてこれまでの働きを正直に話したところ、信長公はその武功と神妙な態度とに打たれ、「向後信長に忠節を誓うならば、一命は助けよう」と言った。しかし印牧は、「朝倉に対し、日頃より遺恨はあり申した。しかし歴々が討死して勝敗あきらかとなった今になって敵方へそのような不満を申し立て、それで命を助けられたところで、もし将来織田殿へ忠節かなわなかった時にはその不満の言葉さえも命惜しさのでまかせであったかと思われましょう。そうなれば御扶持もままならず、実情も外聞もまことに見苦しき次第になり果て申す。されば、この上は仕官の儀は結構仕り、腹を仕るべし」と乞い、許されて自害した。前代未聞の見事なる最期であった。

 この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。

 ところで、信長公は普段から腰に足半の草履Cを下げておくのが常であった。今回の戦で兼松又四郎は、敵の武者を追って刀根山山中を駈けまわり、これを討ち取ったものの、首を持って信長公の御前に参上したときには足は素足で紅に染まってしまっていた。それを見た信長公は日頃携行していた足半を腰から外し、「今こそこれが役立つ時ぞ」といって兼松に与えた。冥加の至りであり、光栄これに過ぎたるものはなかった。

 信長公の武徳両輪の力により織田勢は大勝を収め、14日・15日・16日と敦賀まで進出して駐留した。そして諸所から人質をとり固めたのち、17日になって木目峠を越えて越前国内へ乱入した。そして18日には府中竜門寺Dまで進んだ。

 織田勢の進撃をみた朝倉義景は、居館の一乗谷を捨てて大野郡山田庄の六坊賢松寺Eに逃れた。落去の際には、高貴な女房たちでさえ輿車も満足に用意できず、徒歩はだしとなって取るものも取りあえず我先に義景の後を追って落ちていった。誠に目も当てられず、申すも耐えない有様であった。

 信長公は柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らの将兵を平泉口に派遣して義景を追尾させるとともに、諸卒を手分けして山中に分け入らせ、各所に逃れた朝倉の党類を捜し出させた。その結果、竜門寺の陣所には毎日百人二百人もの人数が数珠繋ぎとなって引き立ててこられ、信長公の命を受けた小姓衆の手により際限なく討ち果たされていった。

 その有様は正視に耐えなかった。ある女房などは下女もつれずにただ一人逃げていたところを下々の者に捕まり、数日にわたって捕らえ置かれていたが、あるとき硯を借りて鼻紙の端に書置きを残してから隙を見て逃げ、井戸に身を投げて死んだ。あとから人がその書置きを開くと、そこには
  ありをればよしなき雲も立ちかかるいざや入りなむ山のはの月
と辞世が書かれていた。これを見た者は、哀れさにみな涙した。

 ほどなくして平泉寺Fの僧衆が信長公へ忠節を誓い、織田勢にあわせて人数を出してきた。これにより、義景の進退は極まった。

 @現余呉村から栃ノ木峠を越え越前へ入る道筋 A現木之本町から刀根山を越え敦賀に抜ける道筋(刀根山は敦賀市刀根) B斎藤龍興は美濃を追われてからは各地の反信長勢力の間を転々とし、このときは朝倉勢のうちにいた。 Cかかと部分のない半草履 D現福井県武生市内 E現大野市内 F現勝山市平泉寺

 

14、朝倉氏滅亡  朝倉義景成敗、越前一国平均に申し付けらるるの事

 この破滅の中、朝倉一族の式部大輔景鏡という者が変心し、情けなくも主の朝倉義景を切腹に追い込んでしまった。義景の介錯は鳥居甚七と高橋甚三郎がつとめたが、この両人も直後に追腹を切って死んだ。このうち高橋の武功は比類がなかったと伝えられる。
 8月24日、朝倉景鏡は主君義景の首を携えて府中竜門寺へ参上した。総領も総領なら、その親類も親類であった。その後義景の生母と嫡男の阿君丸も隠れていたところを捜し当てられ、信長公の命を受けた丹羽長秀の手によって殺害された。

 一方信長公のもとへは帰参の礼に訪れる地侍があとを絶たず、門前市をなすがごとき盛況となった。信長公は彼らを引見したのち長谷川宗仁に命じて義景の首を京で獄門にかけさせ、越前一国の掟を定めて前波播磨守吉継を守護代に命じた。そして26日になって江北虎御前山の本陣へ戻った。

 

15、小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

 8月27日夜、羽柴秀吉は小谷城京極丸@を攻略して浅井久政・長政父子を分断し、その上で父久政の籠る小谷城小丸を攻め取った。これにより浅井久政は切腹して果てた。久政の介錯をつとめたのは日頃久政から目をかけられていた鶴松大夫という舞の名手であったが、この鶴松大夫も久政介錯ののち追腹を切って死んだ。この死により、鶴松大夫は後世に名誉を残した。

 久政の首は羽柴秀吉の手に渡り、虎御前山の本陣に運ばれて信長公の実検を受けた。

 翌日、信長公はみずから兵を指揮して京極丸へ攻め上がり、最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。

 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。

 @浅井長政の守る本丸と久政の守る小丸との間に位置する曲輪

 

16、復讐  杉谷善住坊成敗の事

 杉谷善住坊という鉄砲の名手がいた。先年@信長公が千草峠を通行した際、六角承禎に依頼されて信長公をわずかに十二、三間の距離から鉄砲二玉で狙撃した者である。このときは天運あって玉は信長公の身を少しかすめただけで終わり、信長公は虎口を逃れて無事岐阜へ帰り着くことができた。
 その後善住坊は鯰江香竹を頼って高島に隠居していたが、このほど磯野員昌に捕らえられて9月10日岐阜へ護送されてきた。岐阜では菅谷長頼と祝弥三郎が奉行となって厳しい詮議をおこない、善住坊から千草山中での一件を余さず尋ね出した。これにより善住坊は路傍に立て埋めにされ、通行人に首を鋸で引かれる鋸引きの刑に処された。

 信長公は復讐を果たし、年来の憤りを鎮めた。上下の満足はこれに過ぎたるものはなかった。

 @元亀元年(1570年)、巻三第五段

 

17、北伊勢敗退  北伊勢発向、多芸山戦の事

 9月24日、信長公は北伊勢への出兵のため岐阜を進発し、その日は大垣に宿陣して翌25日太田城@小稲葉山へ陣を取った。これに合わせて西方からも江州衆が出勢し、26日に八風峠A・おふぢ畑Bを越えて桑名表へ入り、佐久間信盛・羽柴秀吉・蜂屋頼隆・丹羽長秀の指揮のもと西別所Cに立てこもる一揆勢を攻めた。織田勢は四将の指揮により砦を難なく攻め破り、敵勢数多を斬り捨てた。

 また柴田勝家と滝川一益の両人は坂井城Dに籠る片岡氏を攻めてこれを降し、10月6日には坂井を出てさらに深谷部Eの近藤氏を攻めた。深谷部では金堀りの衆Fを投入して城攻めを行い、これも降伏させた。

 10月8日になり、信長公は東別所へと馬を進めた。すると近在の伊坂・萱生・赤堀・田辺・桑部・千草・長深の諸土豪および田辺九郎次郎・中島勘解由左衛門らはこぞって信長公のもとへ参陣し、人質を進上して帰順を申し出てきた。しかし白山Gの中島将監だけは御礼に現れなかったため、信長公は佐久間・蜂屋・丹羽・羽柴の四将に命じて白山城を攻めさせた。
 白山では城の周りに築山を築き、金堀衆を入れて総攻めした。この攻撃の前に中島将監も観念し、降伏して城を明け渡した。

 またこの出兵中、京都では明智光秀が静原山に籠って反抗していた山本対馬を謀殺することに成功し、その首を東別所の信長公陣所まで運んできた。このように敵対する者はことごとく討ち果たされ、信長公の勢威はとどまるところを知らなかった。

 こうして北伊勢一帯は信長公に平定され、河内長島の一揆勢はその勢力の過半を削がれた。信長公は矢田城Hを修築させてここに滝川一益を入れ置き、10月25日帰陣の支度にとりかかった。

 しかし、ここに誤算が生じた。帰陣の道は左に草木深き多芸山がせまり、右手は淵深い川が数条も入りまじり流れて葦草が生い茂る難所であり、その中を一筋の道があちこち蛇行しながら伸びる自然の節所となっていた。
 織田勢がこの道を通って撤退をはじめたとき、一揆勢が一斉に追撃をしかけてきたのである。一揆勢は弓と鉄砲を手に山々へ分け入り、織田勢の行く手へ先回りしては道の節所をふさぎ、伊賀・甲賀から馳せ集まった練達の射手たちが矢の雨を降らせた。この日は雨が強く降っていたため、敵味方双方とも鉄砲が役に立たなかった。

 織田勢は勝者から一転し、一揆勢の猛追におびやかされる立場となった。織田勢は各所で防戦につとめ、越前衆のうち毛屋猪介などは四方の敵勢に当たっては武功を残した。

 信長公はこの追撃を止めようと、殿に宿老林新次郎Iを残して防戦にあたらせた。命を受けた林は火花を散らして懸命に戦い、数度に渡って一揆勢を追い払い、節所にさしかかっては踏みとどまって防戦した。これにより本隊の撤退は助けられたが、林新二郎とその郎党は一同枕を並べて討死した。
 林勢の与力であった賀藤次郎左衛門という者は、尾張での内訌時代ここぞという時には必ず強弓をもってよき敵を仕留め、弓の名手として広く知られていた。今回の戦でも賀藤は攻め寄せる敵を次々に射倒して奮戦し、林新二郎とともに見事な討死を遂げた。誉の高さは言うまでもなかった。

 この日は午刻から夕暮にいたるまで豪雨が降りつづき、人足・雑色の中には凍死する者も多かった。信長公はその中を進んで夜半に大垣までたどり着き、ここで一泊したのち翌26日に岐阜へ帰り着いた。

 @現岐阜県南濃町太田 ABそれぞれ現滋賀県永源寺町から三重県菰野町間へ抜ける経路(おふぢ畑は甲津畑の別称と推定) CDEそれぞれ現三重県桑名市内の西別所・坂井・上深谷部・下深谷部 F坑道掘りの人夫 G現三重県白山町 H現桑名市矢田 I原文は「一長(いちのおとな)林新次郎」。宿老林秀貞の嫡男

 

18、左京大夫奮迅  三好左京大夫謀叛の事

 11月4日@、信長公は上洛して二条妙覚寺に宿泊した。

 そのころ、三好義継の拠る若江城では家老の多羅尾右近・池田丹後守・野間佐吉の三名が相語らい、いまだ信長公に反抗をつづける主義継を見かぎって織田家へ内通する算段を固めていた。三家老はまず義継から諸政を任せられていた金山駿河を殺害し、その上で織田家の佐久間信盛勢を城内に引き入れた。城内へ殺到した織田勢と家老衆は、またたく間に天守下まで攻め寄せた。

 それを見た義継は「憂世もこれまで」と前途の望みを絶ち、女房衆と子息を自らの手で殺害して郭外へ切って出た。そして押し寄せる織田勢の中を荒れ狂い、数多に傷を負わせたのち十文字に腹を切って死んだ。見事なる戦振りであり、死を覚悟しての働きは哀れというほかなかった。
 義継の死を受け、那須久右衛門・岡飛騨守・江川某の三名も追腹を切って死んだ。これもまた名誉の死であった。

 落城後、若江の城は内通した三家老に預け置かれることとなった。信長公はその後しばらく京都に滞在したのち、12月2日に濃州岐阜へ帰還した。

 @4日は岐阜出立の日で、入洛は10日

 

戻る   次へ