信長公記

巻五

元亀三年

 この年3月5日、信長公は江北に出兵して赤坂に陣を取り、翌日横山まで進んだ。そして7日に小谷と山本山の間五十町の地に進出し、ここに陣を据えて与呉・木本方面を放火した。江北の諸侍はかねがね、「与呉・木本へは、途中節所を通らねばたどり着けぬ。もし織田勢かの地を攻むることあらば、われらはその場所にて一戦に及ぶべし」と広言していたが、結局足軽の一兵さえ出すことはなかった。信長公は何ら妨害を受けることなく作戦を遂行し、9日無事横山に軍勢を収めた。翌10日は常楽寺に宿泊し、11日になって志賀郡へ出陣した。信長公は和邇に陣を構えて木戸・田中の両城を囲ませ、付城を築いて明智光秀・中川重政・丹羽長秀の三名を置いた。

 

1、建設と政略と  むしやの小路御普請の事

 信長公は木戸・田中の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。
 このように細々にわたる上洛にもかかわらず、信長公はいまだ京都に自分の屋敷を構えてはいなかった。そこで今回信長公は上京武者小路の空き地@に在京時の邸宅を建設することを考え、その旨を公方様へ申し入れた。公方様はすぐさまこれを許しA、将軍義昭の名で屋敷の建造をとり行いたいと伝えてきた。

 信長公は数度にわたってこの申し出をことわった。しかし度重なる上意があり、信長公も断りかねてついに応じた。かくして尾張・美濃・近江三国の信長公御供衆は普請役を免除され、かわりに畿内諸勢力の面々が在洛して邸宅の建築にあたることとなった。
 3月24日、鍬始めの儀がとり行われた。築地に受持ちの部署ごとに舞台がつくられ、その上で美々しい出立ちをした稚児や若衆が笛・太鼓を手に拍子を合わせて囃し立てた。集まった者たちは大いに興に乗じた。
 そうでなくても千年の王城には人が満ち満ちて、普請の始めから終わりまで見物の群集はあとを絶たず、訪れる人々は貴賎を問わずいずれも花を手折り、衣服の袖を連ねて芳香を四方にただよわせ、仕立に工夫をこらしていた。そのさまは、天下に平穏の到来を思わせた。

 なお普請奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられ、大工棟梁は池上五郎右衛門に申し付けられた。また建設期間中は細川昭元殿と岩成友通が初めて信長公のもとに参向し、大坂の石山本願寺からも万里江山の一軸と白天目の茶碗が贈られてきた。

 @上京武者小路通の徳大寺邸跡地 A義昭は以前より信長に京都屋敷を建設するよう指示していた。

 

2、地鳴  交野へ松永取出仕候、追ひ払はるるの事

 このような情勢の中、三好義継が不意に非義を起こした@。松永久秀・右衛門佐久通親子と語らい、畠山昭高殿に対して槍を向けたのである。かれらは畠山殿の配下安見新七郎の居城交野城Aを囲み、城の周りに付城を築いて山口六郎四郎・奥田三河の両名を大将とする兵三百を置いた。これは松永久秀の指図によるものであった。

 この知らせを聞いた信長公は、すぐさま討伐の軍勢を派遣した。命を受けた佐久間信盛・柴田勝家・蜂屋頼隆・斎藤新五・稲葉一鉄・氏家左京亮直通・安藤守就・不破光治・丸毛長照・多賀新左衛門らに五畿内公方衆を加えた後詰めの大軍は、直ちに交野へ駆けつけて敵の付城を取り囲み、四方に鹿垣を結んで敵を中に取り込めた。しかし敵勢は風雨に紛れて脱出してしまった。こののち三好義継は若江城に立てこもり、松永久秀は大和信貴山城に、息子久通は奈良多聞山城にそれぞれ在城した。

 5月19日、京での政略にひと区切りをつけた信長公は濃州岐阜へ帰った。

 @畠山昭高は信長の妹婿。義継のこの行動は信長と、表面上はいまだ信長と協調関係にある将軍義昭に対する「非義」ということになる。 A現大阪府交野市

 

3、戦野  奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事

 7月19日、信長公は嫡男奇妙殿の具足初めにともない、父子そろって江北表へ出兵した。初日は赤坂に宿陣して翌日横山に至り、21日浅井氏居城小谷まで押し寄せてひばり山・虎御前山へ軍勢を上げた。そして佐久間信盛・柴田勝家・木下藤吉郎・丹羽長秀・蜂屋頼隆に命じて町口を破らせ、一支えも許さず敵を城の水場まで追い上げ、数十人を討ち取った。あとには柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らが先手として陣を敷いた。

 次日には阿閉淡路守の籠る山本山城へ木下藤吉郎が遣わされ、山麓へ放火をはたらいた。すると城内から百余りの足軽が討って出、放火を阻止しようとしてきた。藤吉郎はあわてず、頃合を見計らって敵勢へ一斉に切りかかり、打ち崩して五十余の首を挙げた。これにより藤吉郎は信長公から多大な褒賞を受けた。
翌23日は与呉・木本にも兵を遣わし、地蔵坊@をはじめ堂塔伽藍・名所旧跡にいたるまで一切を余さず焼き払った。
 また翌24日には草野の谷Aへ放火した。この草野近くの高山の上には大吉寺という五十余りの坊をもつ大寺があり、ここに近郷の一揆百姓が立てこもっていた。信長公はこれを攻略しようとし、日中にまず険峻な正面口を避けて山麓付近を襲わせた。そして夜になってから木下藤吉郎勢・丹羽長秀勢を後方に迂回させ、背後の山づたいに寺へ攻め上らせた。山頂に上がった織田勢は、一揆・僧俗数多を切り捨てた。

 この間琵琶湖上には打下Bの土豪林与次左衛門・明智光秀・猪飼野甚介・山岡景猶・馬場孫次郎・居初又二郎らが兵船を浮かべ、海津浦C・塩津浦D・与呉の入海Eに出没して敵岸を焼き払っていた。また竹生島Fにも船を寄せ、火矢と大筒・鉄砲をもって攻めたてた。

 これら一連の行動により、一揆というそれまで江北にはあまり例のなかった企てを起こして蜂起していた輩は、風に木の葉の散るごとくに一掃された。そして一揆勢が散り、また猛勢の織田勢が自領の田畑を薙いでゆくのをみすみす見逃してしまった浅井氏の勢力は、次第に手薄なものとなっていった。

 27日からは小谷攻囲のため虎御前山に要害が築かれはじめた。すると焦慮した浅井氏は、越前朝倉氏へ向かい「このたび河内長島の一揆が蜂起して尾濃の通路を閉ざし、信長を大いに難儀させている。この機会に朝倉殿が江北表へ出馬すれば、尾濃の人数を悉く討ち果たすことは容易である」と偽りの情報を送り、出兵を促した。

 朝倉氏ではこの偽情報を信じ、当主朝倉義景みずからが一万五千の兵を引き連れて出馬してきた。そして29日には小谷に参着したが、そこでようやく江北の戦況が聞き及んでいた情報とはまったく異なることに気付いた。一気に消沈した朝倉勢は、大嶽Gの高地へのぼって滞陣してしまった。
 このさまを目にした信長公は、足軽を使って朝倉勢を小当てに攻めさせることを命じた。すると陣中の若武者たちはそれを聞いて勇躍し、旗指物を外して山に分け入り、日ごとに二つ三つと首を取ってきた。信長公は彼らに対し、その功名の軽重に応じて十分な褒賞を与えてやったため、彼らはますます発奮して首取りに励んだ。

 そのようにして対陣が続いていたところ、8月8日になって越前勢から前波九郎兵衛吉継父子が内通してきた。信長公はこれを聞いて大いに喜び、父子へ小袖・馬および馬具一式を与えた。翌日にはさらに富田弥六長繁・戸田与次・毛屋猪介らも投降し、各々信長公より褒賞が下された。

 虎御前山の要害はほどなくして無事完成した。城郭は巧妙かつ堅牢に設計され、山上からは四方をはるか遠くまで見渡すことができ、その風光は素晴らしいものであった。ひとびとは、「かように見事な要害は見たことがない」と耳目を驚かせた。
 この要害の座敷から北を望めば浅井・朝倉勢が大嶽の山上にあって苦慮しているさまが見え、西を見ればおだやかな湖面の向こうに比叡の山並みを見渡すことができた。その比叡山はかつては尊い霊場であったが、先年山門の宗徒が逆心を企て、その自業自得により山上山下ともが灰燼に帰した。信長公が積年の憤りを散じ、存分のままに罰を下した場所であった。
 また南には志賀・唐崎H・石山寺Iの社寺が見えた。この石山寺の本尊は遠く唐にまでその霊験を知られた観世音菩薩であり、その昔紫式部もこの寺に参詣して所願をかなえ、その礼として源氏物語の巻を納めたと伝えられる仏である。このほか東には伊吹の高山や荒れ果てて残る不破の関も見え、砦のさえぎるもの一つとてない景観と頑丈なる構えは筆舌に尽くしがたいものであった。

 この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷Jにも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、川水を堰入れさせた。

 これほどに雄大な陣地構築は前代未聞であり、この陣地群の前にはもはや前方に展開する朝倉勢もさしたる脅威ではなかった。そのため信長公は横山へ軍勢を納めようと考えK、その前に朝倉勢へ使者を向かわせた。使者は堀久太郎秀政であった。堀は朝倉の陣に着くと、「朝倉殿には折角の御出馬である。ついては日時を定め、一戦を致さん」という信長公の言葉を伝えたが、朝倉勢からの返答はなかった。9月16日、信長公は虎御前山の砦に羽柴秀吉Lを残し、嫡男奇妙殿とともに横山へ馬を納めた。

 すると霜月3日浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し、虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。先鋒は浅井七郎であった。この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。戦は梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門らの先懸け衆が奮闘して敵を追い崩し、各々功名を挙げた。このうち滝川彦右衛門は元々信長公の近習をつとめていた者であったが、今回の江北出兵で背に大指物を差して出陣しながら大した武功も挙げられず、信長公の勘気をこうむって虎御前山に居残っていた。そのためこの戦では発奮して目のさめるような働きをし、その功によりふたたび御前に召し出された。滝川は大いに面目を施した。

 @現滋賀県木之本町の浄信寺 A現浅井町草野川渓谷 B現高島町打下 CDEそれぞれ琵琶湖北の湖岸 F琵琶湖北辺の島 G浅井町・湖北町間の山、原文「大づく」 H現大津市下坂本町の唐崎神社 I現大津市石山寺辺町 J現虎姫町宮部 K武田信玄の動きに備えるため。このときの信長をとりまく情勢は、ここに書かれるほど余裕のあるものではなかった。 L秀吉について、原文ではここから羽柴姓で称されている。

 

4、三方ヶ原  身方が原合戦の事

 この年冬、遠州の大地が揺らいだ。

 11月下旬、遠州表より信長公のもとへ甲斐の武田信玄が遠州二俣城@を囲んだとの報がもたらされた。これを受けた信長公は、ただちに家老衆の佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを大将とする援軍を遠州へ向け進発させた。援軍はいそぎ浜松に参陣したが、その時にはすでに二俣の城は陥落したあとであり、武田勢は早くも次なる要衝堀江城Aの攻略にかかろうとしていた。武田勢が浜松にせまったことを知った徳川家康は、城を出て野外で決戦する道を選んだ。

 かくして12月22日、徳川勢は浜松城から打って出、三方ヶ原Bで武田勢と合戦に及んだ。佐久間・平手らの援軍もこれに加わり、織田・徳川と武田の両勢はたがいに総力をあげての血戦に突入した。
 緒戦、武田勢は水役の者と名付ける三百人ほどの兵を前方に立て、かれらに投石を行わせた。そして彼らの投げる石礫に織田・徳川勢がひるんだところへ、地を震わせるばかりの戦鼓の音とともに武田本軍が一斉に突撃をしかけてきた。この突撃の前に織田・徳川勢はひとたまりもなく崩れたち、平手汎秀とその郎党および家康御内衆の成瀬藤蔵らのつわものたちが一瞬のうちに、川辺の葦を薙ぐようにことごとく首を刈り取られた。

 三方ヶ原の原野は、織田・徳川勢の死骸で埋まった。その中には、信長公の幼時の頃より小姓として近侍していた長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎らの姿もあった。この四人はこれより以前に信長公の勘気を蒙って織田家を放逐されており、家康を頼って浜松に居住していた。そこへ今回の戦が起こったため、四人はここを名誉挽回の機会と心得、そろって参戦して全員が一番合戦で見事な討死を遂げたのであった。

 悲劇はそれだけにとどまらなかった。この四人と親しかった者に尾張清洲の町人で具足屋を営む玉越三十郎という二十三、四歳の若者がおり、この時も四人を見舞って遠州浜松に下ってきていた。
 そこへ武田勢堀江を囲むの報が伝わってきた。四人は玉越に向かい、「敵勢は、さだめしこの浜松表へも相働くであろう。その時はわれらも徳川殿とともに一戦に及ぶ覚悟である。されば三十郎、汝は早々に罷り退くべし」と事をわけて説得した。
 しかし玉越はこれを拒んだ。「ここまで参りながら難をおそれて退散したとあっては、たとえ清洲に帰り着いても今後人がましく口をきくこともできなくなりましょう。皆様討死の御覚悟ならば、三十郎も同心いたしまする」と申し切り、帰ろうとはしなかった。そうして四人衆とともに出戦して切りまわり、枕を並べて討死したのであった。

 このような惨状の中にあって徳川家康は乱軍の中へ押し入り、並居る敵を切り立ててなんとか退路を築いた。そして戦場を左に折れて三方ヶ原わきの一騎乗りの細道を退却していった。しかし退却の途中にも敵は待ちかまえており、家康が現れると道の先に立って退路をふさいできた。これに対し家康は馬上より弓をかまえると、前方をさえぎる敵を次々と射倒してその場を駆け抜けた。家康の弓の手柄は今に始まったことではなかった。

 家康はからくも浜松にたどり着き、その後は城を堅固に支えた。大勝を得た信玄は、軍勢を納めた。

 @現静岡県天竜市二俣町 A現浜松市館山寺町 B現浜松市三方原町

 

 

戻る   次へ