信長公記

巻四

元亀二年

この年の正月、信長公は濃州岐阜にあって諸将の参賀を受けた。

 

1、佐和山降る  佐和山城渡し進上の事

 2月24日、佐和山城に籠っていた磯野員昌が降伏し、城を明け渡して高島郡へ退去した。後には城代として丹羽長秀が入れ置かれた。

 

2、藤吉郎奮戦  箕浦合戦の事

 5月6日、浅井勢が動いた。この日浅井長政は軍勢を率いて姉川まで進出し、木下藤吉郎固める横山城へ向かって陣を立て備えた。そして先手足軽大将の浅井七郎に命じ、兵五千をもって箕浦@の堀秀村居城近くまで寄せさせ、在所在所に放火してまわらせた。
 この様を見た木下藤吉郎は、横山城に十分な兵を残した上でみずから百騎余りを引き連れて密かに城を出た。そして敵方に見つからぬよう山裏を密行して箕浦へ入り、堀秀村・樋口直房と合流した。しかしそれでも総勢はわずかに五、六百に過ぎず、その人数で敵勢五千Aと対峙しなければならなかった。

 木下勢は寡兵の足軽をもって敵勢に立ち向かい、下長沢Bで一戦に及んだ。この戦で樋口直房配下の侍多羅尾相模守が討死したが、そのことを知った多羅尾家来の土川平左衛門という者は主人の後を追おうと敵中に突入し、見事討死を遂げた。比類なき働きであった。
 このように苦戦した木下勢であったが、敵が一揆の集まりだったこともあり、なんとか突き崩して数十人を討ち取ることに成功した。さらに木下勢は下坂Cのさいかち浜でも戦い、ここでも勝って敵を八幡下坂Dまで追い崩した。味方の敗軍のさまを見た浅井長政は、得るところなく小谷へ軍勢を返した。

 @現滋賀県近江町箕浦 A原文には五千ばかりの一揆と記されている。おそらくは誇張 B同近江町内 C現長浜市下坂浜町 D現長浜市神前町八幡神社

 

3、長島征伐  大田口合戦の事

 5月12日、織田勢は一向一揆討伐のため伊勢長島へ攻め寄せた。信長公は津島@に入り、ここを本営とした。
 織田勢は三方より攻め入った。中筋口Aからは佐久間信盛・浅井新八・山田三左衛門・長谷川丹波・和田新介・中嶋豊後らが進み、川西の多芸山から大田口Bへは柴田勝家・市橋長利・氏家ト全・伊賀平左衛門・稲葉一鉄・塚本小大膳・不破光治・丸毛長照・飯沼勘平が進んだ。しかし戦況は進展せず、16日になって大田口の織田勢は在所在所に放火したうえで軍を後方に退けようとした。

 そこへ一揆勢がつけいった。周辺の山々に分け入った一揆勢は、山と大河に挟まれた狭い一本道を退いてゆく織田勢へ向かい、弓と鉄砲を立てて一斉に襲いかかってきたのである。
 織田勢は、壊乱した。殿軍をつとめていた柴田勝家は押し寄せた敵勢としばらく激戦を展開したが、周囲の山という山から次々と群がり寄せる一揆勢の前にやがて崩れ、薄手を負って退却した。勝家のあとには氏家ト全が残り、敵勢をなんとか支えようとしたが、逆に一揆勢に囲まれてト全以下家臣数輩ことごとく討死してしまった。まったくの惨敗であった。

 8月、敗戦から回復した信長公は江北へ出馬し、18日横山に陣を取った。なおこの在陣中の20日夜横山に大風が吹き、城の塀櫓を吹き落としてしまった。

 小谷城とその西に位置する要所山本山Cとの間は五十町ほどの距離があり、その中ほどに中島という郷があった。26日信長公はここに一夜陣を据え、そこから与語D・木本E方面に足軽を放って各所を放火してまわらせた。そして27日になって横山へ軍勢を返した。
 その翌日の28日、信長公は佐和山に出て丹羽長秀の在所に宿泊した。そのころ織田勢の先手は、一向一揆が立てこもる小川村・志村の郷Fを囲んで近在を焼き払っていた。

 @現愛知県津島市 A現三重県長島町の大鳥居辺り B現岐阜県南濃町太田辺り C現滋賀県湖北町と高月町の境に位置する山 DEそれぞれ現余呉村・木之本町 Fともに現能登川町内

 

4、江南鎮定  しむら攻め干さるるの事

 9月1日、信長公は佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀の四名に命じて志村城を攻めさせた。四将は城を囲んで四方より取り寄せ、城壁を乗り破って乱入し、首数六百七十余を挙げて城を落とした。この猛攻のさまを目にした隣郷の小川城主小川孫一郎は戦慄し、人質を差し出して降伏を申し入れてきた。信長公はこれを受諾した。
 そののち信長公は常楽寺@に滞留し、9月3日軍勢を一向一揆の立てこもる金が森城Aの攻略に向かわせた。金が森を囲んだ織田勢は、城方の作物をすべて刈り取ったうえ四方に鹿垣をめぐらせて諸口を閉ざし、城を完全に取り込めてしまった。城方はたまらず人質を供出して降伏した。信長公はこれをも受け入れた。

 金が森攻略後、信長公は旗下の軍勢に南方表へ進撃する旨の軍令を発した。そうして大兵を率いて西上し、11日瀬田の山岡玉林斎景猶館に着陣した。
 しかし、攻撃先は南方ではなかった。

 @現滋賀県安土町内(前出) A現守山町金森

 

5、六天魔王  叡山御退治の事

 元亀2年9月12日。
この日、織田勢は近江国比叡山の山麓にひしめいていた。

 先年織田勢が野田・福島を攻囲して落城寸前にまで追い詰めたとき、朝倉・浅井勢が近江を南下して坂本口へ襲いかかった。この軍事行動に対し、信長公は都へ敵の乱入を許しては一大事と考え、野田・福島の陣を払って東へ急行した。そして逢坂を越えて越北衆に懸け向かい、これを局笠山に追い上げて干し殺しにしようとした。このとき信長公は自陣に山門の衆徒を召し出し、織田勢への協力を求め、味方した際には分国中の山門領を元のごとく還付する旨を金打と朱印状をもってかたく誓約した。さらに出家の道理により一方への贔屓がなしがたい場合にはせめて中立を保つよう、事をわけて説得した。その上でもしこれに違背して朝倉・浅井に肩入れした場合には、根本中堂・山王二十一社ことごとく焼き払うと宣告していた。

 それから一年が経ち、その時が到来したのである。この頃、山門山下の僧衆は王城鎮守の重責を負いながら修行を怠り、天下の嘲弄を恥じず、天道を恐れず、淫乱と肉食をほしいままにしていた。あまつさえ先年は金銀に目をくらませて浅井・朝倉に味方し、暴慢なるはたらきさえした。
 信長公は彼らに対するに、まず容赦をくわえて見逃した。しかし彼らは改めなかった。そこで信長公は、このたび残念ながらも聖域に馬を打ち入れることを決めたのである。

 信長公は心中にこもる彼らへの憤りを散じようと、軍勢を山にのぼらせて根本中堂・山王二十一社をはじめ霊仏・霊社・経巻のことごとく、一宇も残すところなく焼き払わせた。これにより叡山は一日にして灰燼の地と化してしまった。一方山下では老若男女が徒歩はだしで逃げまどい、取る物も取り敢えず八王寺山にのぼり、日吉大社奥宮の社内に逃げこんだ。しかし織田勢はこれを逃さず、四方より鬨の声をあげながら社内になだれ込んでこれを殺戮した。

 鎮護国家の大道場は、叫喚のるつぼと化した。織田勢は僧俗・児童・智者・上人の別を問わずことごとく首をはね、信長公の御前に差し出した。また山上では名僧・貴僧の呼び声高い高僧たちとともに美女・小童のたぐいが数をも知れず捕らえられ、御前に引き出されてきた。かれらは口々に「悪僧を誅伐なさるにおいては是非もなし。しかしわれらは助け候え」と哀願したが、信長公は聞き入れず、彼らはすべて首を打ち落とされた。まことに目も当てられぬありさまであった。

 焼き討ちは完遂され、信長公は胸中のしこりをとりはらった。信長公の怒りに触れた比叡山の山麓には数千の屍が散らばり、この世のものとも思えぬ情景が広がっていた。哀れなことであった@。
 焼き討ちののち志賀郡は明智光秀に与えられ、坂本に城が築かれた。

 9月20日、信長公は岐阜に帰陣した。そして翌21日、河尻秀隆と丹羽長秀に命じて佐和山城に高宮右京亮の一党をおびき出し、これを誅殺させた。高宮党は危険を察知して切って出たが、別段の支障なく成敗されてしまった。高宮は先年の野田・福島陣のおり、大坂方に内通して一揆を扇動し、自身も天満の森の陣地を出て大坂に駆け入っていた。そのため今回誅戮の憂き目にあったのである。

 @焼き討ちの事実は当時の公家の日記等にも大きく記されているが、近年になって山上の建物は焼き討ちされなかったのではないかとする見解も出されている。

 

6、天下安楽  御修理造畢の事

 去る永禄12年、禁中の荒廃ぶりを目にした信長公は、日乗上人・村井貞勝の両名を奉行に任じて内裏の大修復を開始させた。それから3年が経過したこの年ついに修復が完了し、紫宸殿・清涼殿・内侍所・昭陽舎をはじめ各所各局が余すところなく作りあげられた。また信長公は今後末代まで禁裏の台所を滞らせぬようにと考えをめぐらし、洛外各所から供出された米を洛中の市民に貸し付け、その利潤の何割かを朝廷の収入とする決定を下した。その上信長公は没落貴族の家の復興と領地の復地などにも力を添えてやり、これらの政策は天下万民の喝采を浴びた。織田家の栄光と威風ははかるべくもなかった。

 また織田分国中において、関銭諸役はすべて免除された。ゆえに往還する旅人の表情はいずれも生気に満ち満ちており、ひとびとに信長公の慈悲の深大さを感じさせた。これも「道ヲ学ビ身ヲ立ツルモ名ヲ後代ニ挙ゲン」とする信長公の意志の表れであったといえるだろう。

 

 

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