信長公記

巻三

元亀元年

 年号が元亀と改まったこの年の2月25日、信長公は岐阜を発って京へ向かった@。その日は赤坂で宿陣し、翌日常楽寺Aまで進んだ。

 @この前月信長は畿内近国の諸勢力へ上洛を促す触状を送っていた。この上洛はそれに従って上洛した諸侯と会同するためのもの。 A現滋賀県安土町内

 

1、相撲見物  常楽寺にて相撲の事

 信長公は常楽寺にしばらく滞在し、3月3日近江国中から力士を集めてこの地で相撲見物をした。集められた力士は百済寺の鹿・百済寺の小鹿・深尾又次郎・鯰江又一郎・青地与右衛門といった面々であったが、会場には他にも腕自慢の相撲取りたちが我もわれもと詰めかけ、数をも知れないありさまとなった。
 さて木瀬蔵春庵の行事のもと取組は進み、最後に鯰江又一郎・青地与右衛門が勝ち残った。信長公は両人を御前に召し寄せ、褒賞としてのし付きの大小を与え、さらに両人を家臣に加えて相撲奉行に任じた。両人とも面目の至りであった。また見事な相撲を見せた深尾又次郎には信長公から衣服が贈られた。
 相撲ののち信長公は京へ向かい、5日@に入京して半井驢庵邸に宿泊した。京には畿内隣国の諸侯や三河の徳川家康もすでに到着しており、挨拶の者たちで門前は市をなすがごとき情景となった。

 @入京した日付は5日ではなく2月30日が正しいとされる。したがって相撲見物も3月3日ではない。

 

2、名物数寄  名物召置かるるの事

 当時の堺には天王寺屋津田宗及の菓子の絵、薬師院の小松島の茶壷、油屋常祐の柑子の花入れ、松永久秀の鐘の絵など、天下有数の名物が集まっていた。信長公はこれらを手に入れたく思い、従前のごとく松井友閑と丹羽長秀を使者として所有者たちに献上を命じた。所有者たちは信長公の命に背くわけにもいかず、みな違背なく所蔵の名物を差し出した。代物には金銀が与えられた。

 

3、能戦  観世大夫、金春大夫立合に御能の事

 4月14日@、御所造営の祝いとして観世大夫・金春大夫立ち合いのもと観能の会が開かれた。番組は一番を玉の井として二番三輪・三番張良・四番芦刈・五番松風・六番紅葉狩・七番融と定められ、地謡を生駒外記・野尻清介、笛を伊藤宗十郎らがつとめた。参列者には飛騨国司姉小路中納言卿A、伊勢国司北畠具教卿、三河国徳川家康卿、畠山高政・同昭高殿、一色義道殿、三好義継、松永久秀の諸大名のほか五摂家・清華家の歴々、および畿内近国の諸豪が軒並み顔をつらね、会は豪壮をきわめた。
 この席上、信長公へは公方様から官位昇進の上意があった。しかし信長公はこれを固辞して受けず、盃を頂戴するだけにとどまったB。

 京での予定を終えた4月20日、信長公は軍兵を率いて京を進発し、まっすぐに越前をめざした。その日は坂本を越えて和邇Cで宿陣し、翌日は高島郡の田中城に宿泊した。22日になって若狭に入り、熊川Dの松宮玄蕃領を経て23日佐柿Eの粟屋越中守勝久の館に着陣した。

 @正しくは4月1日 Aこのとき上洛していたのは、飛騨国司姉小路良頼の名代で子の頼綱。 B前年末ごろからすでに信長と義昭とは不和になっており、正月信長は義昭に将軍権力を制限する内容の条書を認めさせていた。 C現滋賀県志賀町内。琵琶湖西岸から若狭を経て越前に入るコース。 D現福井県上中町熊川 E現福井県美浜町佐柿

 

4、金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

 25日、信長公は越前の地へ足を踏み入れた。敦賀まで進んだ信長公は馬を懸け回して付近の地勢を検分し、手筒山城@を標的に定めるとすぐさま旗下の将士に攻撃を命じた。手筒山は金ヶ崎南東に屏風のごとくそびえ立つ高山であったが、将士たちは信長公の命が下るや一命を顧みずに坂を駆けのぼり、千三百あまりの首を挙げて一気に城を陥れた。
 手筒山に近接する金ヶ崎城Aには朝倉中務大輔景恒が籠っていた。手筒山を落とした翌日、信長公はこの城にも攻撃の手を向けた。刃向かう敵は殲滅する勢いで攻め寄せた織田勢の前に城衆は戦意を失い、まもなくして降伏した。
 つづいて疋田城Bも開城した。信長公は滝川彦右衛門・山田左衛門尉の両人を疋田に遣わし、塀を倒し櫓を降ろさせ、城を破却した。ここまではまさに破竹の勢いであった。

 しかしそこから木目峠を越え、あすには越前国内へなだれ込もうというとき、軍中に最悪の飛報が届いた。江北の浅井備前守長政が掌を返し、敵方についたという報であった。
 信長公ははじめこの情報を信じなかった。浅井は歴とした織田家の縁者であり、さらには江北一円を申し付けてもいる。不足のあろうはずがなく、虚説に違いなし、というのである。しかし信長公のもとへはその後も諸方から続々と同様の注進が届き、もはや浅井離反が事実であることは疑いようがなくなった。
 運命は、突如として変転した。信長公はただ一言、
「是非に及ばず」
と、つぶやいた。
 4月28日、信長公は撤退を開始した。木下藤吉郎を殿軍として金ヶ崎の城に残し、みずからは駆けに駆けて30日には近江に出、地元の豪族朽木信濃守元綱の先導で朽木越えCをして京都への撤退に成功した。

 越前撤退後、信長公は明智光秀と丹羽長秀を若狭に遣わし、武藤上野守友益に人質供出を要求させたD。交渉の末、武藤の母親が信長公のもとへ人質として差し出され、武藤の城は破却された。両名は5月6日針畑越えの道をとって京へ戻り、信長公へ復命した。
 このとき稲葉一鉄親子と斎藤内蔵助利三は江州守山に駐屯し、近江路の警固にあたっていた。そこへ一揆がむらがり起こってへそ村Eに火の手をあげ、守山にも焼き討ちをしかけてきた。しかし稲葉は町の諸口を支えて逆に敵を追い崩し、数多の敵を討ち取った。比類なき働きであった。

 その後信長公は京表の諸大名から人質を取りかためて公方様へ進上し、大事出来の際には時日を移さず必ず入洛することを誓い、5月9日京を離れて岐阜へ下っていった。途中志賀F・宇佐山Gの城に森可成を残し、12日Hに永原まで出てこの地に佐久間信盛を置き、長光寺Iには柴田勝家を入れた。安土にも中川八郎右衛門が残された。かくのごとく城塞ごとに兵が入り、近江回廊は厳戒態勢がしかれた。

 @現福井県敦賀市内 A現敦賀市金ヶ崎町 B現敦賀市疋田 C現滋賀県朽木村から京都北郊に出る道 D武藤友益は若狭の将で、織田勢の若狭侵入に対抗していた。 FG現大津市内 H正しくは13日 I現近江八幡市長光寺町

 

5、遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事

 5月19日、浅井長政は鯰江城@に軍勢を入れ、同時に市原Aに一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑Bの菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越えCに変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離Dまで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

 @現滋賀県愛東村 A現永源寺町市原野 B現永源寺町甲津畑 C前出。近江から伊勢へ抜ける経路。 D約22〜24mほど

 

6、落窪合戦  落窪合戦の事

 6月4日、六角承禎親子は江南の諸郡で一揆を扇動したうえ、みずからは軍勢を催して野洲川河岸に進出した。これに対し織田勢からは柴田勝家・佐久間信盛の軍が応戦に出た。柴田・佐久間の両勢は足軽を繰り出して敵を野洲川北岸まで引き寄せ、落窪の郷@で一戦に及んだ。
 戦は織田勢が敵を完膚なきまで打ち崩し、三雲定持ほか伊賀・甲賀の屈強の侍七百八十余を討ち取って大勝をおさめた。この勝利により、江南はひとまず鎮静した。

 @現滋賀県中主町乙窪

 

7、死地へ  たけくらべかりやす取出の事

 越前朝倉氏の後援を得た浅井長政は、長比@・苅安Aの地に要害を構えていた。この両砦に対し信長公は地元の豪族堀秀村と樋口直房を調略し、かれらに内応を約させることで砦の無力化をはかった。そうして6月19日、信長公は浅井氏を討つべく大兵を率いて岐阜を発ち、手始めとして長比・苅安両砦の攻略に向かった。しかし織田勢の来攻と堀の謀叛を知った城兵はたちどころに士気を萎えさせ、取るものも取り敢えず退散してしまった。信長公は難なく長比に入り、この地に二日間滞在した。

 6月21日、長比を出た信長公は浅井の本拠小谷まで攻め寄せた。織田勢のうち森可成・坂井政尚・斎藤新五・市橋長利・佐藤六左衛門・塚本小大膳・不破光治・丸毛長照は雲雀山Bへのぼり、山麓の町を焼き払った。信長公はその他の諸勢を引き連れて虎御前山Cに陣を据え、柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下藤吉郎・丹羽長秀および江州衆に命じて近在の諸所へ余すところなく火を放たせた。

 翌22日、小谷を前に信長公は一旦兵を後退させることを決意しD、殿軍に鉄砲五百挺と弓衆三十余りを据え、簗田左衛門太郎広正・中条将監・佐々成政の三名を奉行として指揮を命じた。

 すると、総軍の後退に気づいた敵足軽が攻め寄せてきた。殿軍のうち簗田広正は中軍より少し左手を後退していたが、肉薄してきた敵勢を引きつけて応戦し、散々に打ち合った。このとき簗田勢の太田孫左衛門は敵首を挙げて引き揚げ、信長公より多大な褒賞にあずかった。また佐々成政は八相山Eの矢合神社前で敵に捕捉されたが、これも見事な武功を挙げて無事撤収に成功した。
 さらに中条将監は八相山下の橋上で敵と衝突したが、将監は敵勢の攻撃により負傷してしまった。また中条又兵衛も橋上で敵ともみ合いになり、双方とも橋から落ちた。しかし又兵衛はひるまず、橋の下でさらに戦ったのち見事その敵の首を挙げた。比類なき高名であった。信長公はこれら後衛の奮戦によって無事後退することができ、その日は八島に陣を取った。

 小谷城に近接する横山城Fには高坂・三田村および野村肥後の勢が籠っていた。24日になって織田勢はこの城に取り寄せて城を四方より囲んだ。そして信長公自身は竜が鼻Gに陣を取り、小谷を見据えた。

 @現滋賀県山東町内。「たけくらべ」と読む A現伊吹村内 B現湖北町内、小谷城南 C現湖北町虎姫山 D戦線整理または浅井勢を誘導して野戦に持ち込むため E虎御前山南の中野山 F現長浜市石田町内。交通の要衝 G現長浜市内

 

8、姉川  あね川合戦の事

 そのような中、越前より朝倉孫三郎景健率いる八千の援軍が到着し、小谷城の城東に位置する大依山@に陣を張った。待ちわびた援兵の来着を知った浅井長政は、城を出て朝倉勢との合流を果たした。
 朝倉勢八千に五千の浅井勢が加わり、都合一万三千の軍勢となった浅井・朝倉勢は、6月27日払暁大依山の陣を払って行動を開始した。陣を捨てて退却するものとも考えられたが、事実は相違した。出撃のための陣払いであった。

 28日未明、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田村の郷に移り、二手に分かれて軍勢を立て備えた。これに対し織田・徳川連合軍Aは、西の三田村口に位置した朝倉勢には徳川家康が向かい、東の野村口に展開した浅井勢には信長公直率の将士と美濃三人衆が相対した。
 卯の刻(午前6時)、織田・徳川軍は敵勢ひしめく丑寅の方角へ向かって一斉に駆け出した。敵勢も姉川を越えて突撃し、ここに姉川合戦の火蓋が切られた。戦闘は双方が押しつ押されつの大乱戦となり、戦場には黒煙と土埃が巻き立ち、鍔が割れ槍が交差する音がこだました。そして後世に語り継がれるであろう数々の武功が生まれ、そのたびに名のある武者が命を落としていった。

 数刻にわたる激闘は、最後に織田・徳川軍が浅井勢を追い崩して終わったB。浅井勢は青木所右衛門に討ち取られた真柄十郎左衛門や竹中久作に討ち取られた遠藤喜右衛門をはじめ、前波新八・黒坂備中・浅井雅楽助ら他国まで名の聞こえた将の多くを失った。この戦で織田勢が討ち取った首の数は、面立ったものだけでも千百余にのぼった。

 織田勢は退却してゆく浅井勢を追撃して小谷までの五十町を駆け抜け、小谷では山麓へ火を放った。しかし小谷城そのものは切り立った高山の上に立つ難攻の城であったため、信長公は城攻めまでは無理と見て追撃をそこで打ち切り、横山城の攻囲にまわった。横山城はひとたまりもなく開城した。
 信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは7月1日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。

 7月6日C、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、8日に岐阜へ帰還を果たした。

 @現滋賀県浅井町内 A徳川家康は24日に来援して織田軍と合流 B合戦の内容については、織田勢が劣勢だったためか『信長公記』はあまり詳しく触れていない。 C正しくは7月4日

 

9、本願寺挙兵  野田福嶋御陣の事

 8月20日、信長公は畿内南方方面へ出勢のため岐阜を発ち、20日横山・22日長光寺と進み、23日に下京本能寺に入って一両日滞在した。そして25日になって淀川を越え、河内へ入って枚方の招提寺@に陣を取った。

 26日、織田勢は敵の籠る野田・福島Aの両城へ攻め寄せた。信長公は先陣を城に密着させ、諸勢には天満の森から川口・渡辺・神崎・上難波・下難波をつらぬいて浜の手まで及ぶB陣地を築かせ、自身は天王寺に本陣を据えた。在陣中、天王寺には大坂・堺・尼崎・西宮・兵庫の各地から人々が集まり、内外の珍物を携えて信長公へ挨拶に訪れる者や、織田勢の陣立てを一目見ようと見物に訪れる者が群れをなした。

 野田・福島へ籠っていた敵は、細川昭元殿・三好長逸・三好山城守康長・安宅信康・十河存保・篠原長房・岩成友通・香西佳清・三好為三政勝ら三好党および斎藤龍興・長井道利らの南方諸牢人約八千であった。このうち香西佳清と三好政勝は織田勢に内応し、城中にあって織田勢を引き入れる謀略をすすめていた。しかし城端まで寄せた織田勢を前に城中の警固は思いのほか厳しく、謀略は断念せざるをえなかった。8月28日、香西・三好の両名は城を脱出して天王寺に走った。
 9月3日になり、公方様が摂津国中島Cの細川藤賢居城に動座した。8日には大坂から十町西の楼の岸に砦が築かれ、斎藤新五・稲葉一鉄・中川八郎右衛門重政の三人が入った。また川向かい.の川口Dにも築城がほどこされ、平手監物・平手甚左衛門汎秀・水野監物・佐々成政らが入れ置かれた。

 9日、信長公は天満の森へ本陣を移し、翌日から敵城の周囲に散在する入江や堀を草で埋め立てさせた。そして12日、公方様と信長公は野田・福島から十町北の海老江Eに移ってここを本陣とし、諸勢に総攻撃を開始させた。足軽たちが夜ごと作業して築き上げた土手からは矢玉が一斉に撃ち出され、先陣の兵は先を争って塀際に押し寄せ、井楼には大鉄砲が上げられて城中に撃ち込まれた。一方敵方にも根来衆・雑賀衆・湯川衆および紀伊国奥郡衆約二万が来援し、遠里小野F・住吉・天王寺に陣を張って織田勢へ鉄砲三千挺を撃ちかけてきた。稀にみる砲戦であり、敵味方の砲音は日夜天に轟き、黒煙が地を覆った。
 この火力戦に野田・福島の両城は次第に疲弊し、さまざまに交渉して和睦をはかってきた。しかし信長公はこれを容れず、「程を知らぬ奴輩、攻め干すべし」といって殲滅を決意した。

 しかし状況は暗転した。野田・福島が落ちれば大坂が危うくなることを察したのか、大坂の石山本願寺が蜂起したのである。13日夜、石山勢は楼の岸と川口の砦に鉄砲を撃ち入れ、織田勢と交戦状態に入った。
 それでもこの日は戦況に特段の変化はあらわれなかったが、翌14日になって戦線が動いた。この日一揆勢は大坂を出て、天満の森まで進んできたのである。織田勢もこれに応じて川を越え、両軍は淀川堤で衝突した。織田勢の一番手は佐々成政であったが、乱戦の中で手傷を負って退いた。二番手には前田利家が堤通りの中筋を進み、その右手からは弓衆の中野又兵衛が、左手からは野村越中・湯浅甚助・毛利河内守秀頼・兼松又四郎らが先を争って敵勢へ殺到した。
 このとき、毛利秀頼と兼松又四郎の二人は協力して下間丹後配下の長末新七郎と戦い、これを突き伏せた。毛利は兼松に向かい、「首を取り候え」と功を譲ろうとしたが、兼松は「それがしはただの手伝いにござる。お手前こそ取り候え」といって受けなかった。二人はしばらく言い合ったが結局双方とも譲らず、せっかくの大将首を置き捨てにして退いてしまった。戦は乱戦となり、野村越中が討死した。

 @現大阪府枚方市の敬応寺 Aそれぞれ現大阪市都島区・福島区内 B北区の天満宮から淀川河口まで C現東淀川区 D現西区 E現福島区 F現住吉区

 

10、志賀の陣  志賀御陣の事

 9月16日、越前朝倉氏と浅井長政の連合軍約三万が近江を南下し、坂本口@へ押し寄せてきた。この報に接した宇佐山城将の森可成は軍勢を率いて宇佐山の坂を駆け下り、坂本の町はずれで敵と接触した。双方足軽を出しての小戦闘になったが、森勢は敵首少々を得て勝利を収めた。
 しかし大勢は動かず、19日Aになって陣立てを終えた朝倉・浅井勢は二手に分かれて再び坂本口へ殺到した。森勢は町を破らせまいとして坂本の町口で敵を支えたが、二手より攻め寄せた敵の大軍の挟撃を受けて重囲に陥ってしまった。それでも森勢は勇を奮って戦い、敵味方火花を散らしての激戦となった。しかし敵の猛勢の前に森勢もついに崩れ立ち、森可成・織田九郎信治・青地茂綱・尾藤源内・尾藤又八以下多くの将領が討死した。

 このとき森勢の中に、尾張国守山の住人で道家清十郎・助十郎という名の兄弟がいた。先年武田勢が東美濃高野口Bへ侵入した際、森可成は肥田玄蕃とともに先陣に立って防戦につとめたが、この時の戦闘で兄弟は二人で三つの敵首を挙げた。これを聞いた信長公は大いに喜び、兄弟が指していた白の指物を召し寄せ、それへ「天下一の勇士なり」と直筆して与えた。侍としてこれに過ぎた栄誉はなく、兄弟は名誉の仁とうらやまれた。今度の戦でも兄弟はその指物を背に立てて戦場に立ち、森可成とともに勇戦して討死を遂げた。

 森勢を打ち砕いた浅井・朝倉勢は余勢を駆って宇佐山まで攻め上り、出城へ火を放ったが、城内に残っていた武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門の奮闘により城はなんとか持ちこたえた。しかし翌20日、敵は大津に出て馬場・松本へ放火し、21日には逢坂を越えて醍醐・山科を焼き払った。

 敵軍は、すでに都の目と鼻の先までせまっていた。22日、その事実は摂津国中島の陣所へもたらされた。
 注進を聞いた信長公は、敵を都へ入れては元も子もなしと考え、23日和田惟政・柴田勝家の両人を殿に残して野田・福島の陣所を引き払った。そしてみずからは中島に出て江口の渡しCへ向かった。

 江口川は宇治川・淀川の支流で、水量は多く、水勢もすさまじい有様で、昔から舟で渡るのが普通であった。この地まで猛烈な勢いで行軍してきた織田勢であったが、ここにはすでに一揆が蜂起しており、渡河のための船は彼らによってことごとく隠されてしまっていた。その上で一揆勢は、竹槍を手に対岸の大坂堤添いへ稲麻竹葦のごとくむらがり、対岸の織田勢へ向かって口々に嬌声を投げかけてきた。
 ここで信長公は、みずから馬を駆けまわして川の流れを調べた。そして河中へざぶりと馬を打ち入れると、軍勢へ向かい「渡るべし」と下知した。
 命令一下、織田勢は一斉に川へ入った。すると水深は思いのほか浅く、雑兵たちも徒歩でらくらくと渡河することができた。信長公は同日のうちに公方様に供奉して帰洛を果たした。ところがこの翌日から江口の渡しは急に水深が増し、徒歩での渡河は困難になってしまった。江口近辺の者達は、ふしぎなることよと皆ささやき合った。

 9月24日、信長公は上京本能寺を立ち、逢坂を越えて越前衆の攻撃に向かった。しかし下坂本に布陣していた越前勢は、信長公の旗印を見るやたちまち敗軍の体を見せて比叡山へ逃げ上がってしまった。山へ上がった越前勢は、蜂が峰・青山・局笠山Dに陣を取った。
 このとき信長公は延暦寺の僧十人ばかりを呼び寄せ、「信長に味方するならば、分国中の山門領を元通りに還付する」と金打Eして約束し、かさねて「出家の道理により片方への贔屓なりがたし、と申すならば、せめて敵味方とも見除せよ」といって説得し、その旨を稲葉一鉄に申し付けて朱印状にしたためさせた。その上で信長公は、「このこと違背するならば、根本中堂・三王二十一社を始め諸堂ことごとく焼き払う」と宣告した。しかし山門の僧衆はこの勧告を聞き入れず、情勢を見て浅井・朝倉に味方し、魚・鳥・女人を山に上げて悪逆をほしいままにした。

 信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太Fにも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。
 田中Gには柴田勝家・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄が布陣し、唐崎Hの砦にも佐治八郎・津田太郎左衛門が入った。そして信長公自身は志賀の宇佐山城に陣を取った。
 叡山西麓の将軍地蔵山Iの古城跡には織田信広・三好康長・香西越後守に公方衆を加えた兵二千余りが布陣した。また八瀬・大原口Jには山本対馬守と高野蓮養坊が足がかりの陣地を築き、地理に詳しい両人はここから夜中山上に忍び入っては谷々へ放火してまわり、寺側を大いに悩ませた。

 10月20日、信長公は朝倉勢へ菅谷長頼を使者に遣わし、「いらざる時を費やすをやめ、一戦をもって勝敗を決さん。日時を定めて出で候え」と申し述べさせた。しかし朝倉勢からの返答はなかった。そののち朝倉勢は交戦を中止して講和を申し入れてきたが、信長公は是が非にも決戦して鬱憤を散らすべしとして、これを蹴ったK。

 信長公が叡山に釘付けとなっている間、三好三人衆は野田・福島の砦を補修し、諸牢人を集めて河内・摂津の各地で示威行動をとった。しかし高屋城の畠山殿・若江城の三好義継・交野の安見右近および伊丹・塩河・茨木・高槻の各城がいずれも堅固に構え、和田惟政率いる畿内衆も各地に陣所を構えて守備を固めていたため、京方面へ進むことはできなかった。

 江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城菩提寺城Lまで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。
 木下藤吉郎と丹羽長秀の両名は、江南の各地を転戦してこれらの騒擾を鎮めた。そして小谷城付城の横山城と佐和山城付砦の百々屋敷に十分な守備兵を残し、みずからは志賀へ参陣すべく西上した。途中の建部Mには一揆勢が砦を構え、近隣の箕作山・観音寺山と連携して通路を塞いでいたが、両人は一戦してこれを蹴散らし、難なくまかり通った。
 木下・丹羽勢は志賀へ到着し、瀬田へ入った。これを志賀の城から遠望した信長公は、瀬田城の山岡景隆が六角勢を引き入れて謀叛したものかと疑ったが、飛脚の報によって藤吉郎・五郎左衛門が参陣したものとわかり、不審を解いて大いに機嫌を良くした。これにより在陣諸兵の士気も上がった。11月16日、信長公は丹羽長秀に命じて鉄綱をもって瀬田に舟橋を架けさせ、村井新四郎・埴原新右衛門に警固させて人馬の往還を助けた。

 このころ尾張では、信長公の御舎弟彦七信興殿が小木江Nに城を構えて居城としていた。そこへ信長公が志賀で手詰まりとなっている様子を見た一揆勢が長島で蜂起し、小木江にも押し寄せてきた。一揆勢の攻撃は日を追って激しくなり、21日ついに城内へも突入してきた。これを見た信興殿は、一揆勢の手にかかって果てては無念と思い、天守櫓へのぼって腹を召された。是非なき次第であった。

 11月22日、六角承禎との和睦が成立して三雲・三上氏が志賀へ出仕し、上下ともひとまず胸をなでおろした。また25日には堅田Oの猪飼野甚介・馬場孫次郎・居初又次郎の三名が織田方へ内通を申し合わせ、坂井政尚・安藤右衛門・桑原平兵衛へその旨を打診してきた。坂井らは信長公の許しを得て猪飼野らから人質を受取り、夜のうちに人数千ばかりを率いて堅田へ入った。しかし堅田が織田勢の手に渡ることを嫌った越前勢はまもなくして大軍をもって堅田へ返し、多勢にものを言わせて諸口から攻め寄せてきた。
 重囲の中にあって織田勢は奮戦し、前波藤右衛門や義景右筆の中村木工丞らを討ち取る活躍を見せた。しかし敵の大軍の前にあるいは負傷し、あるいは討死して次第にその数を減じ、ついに敗軍した。乱軍の中坂井政尚と浦野源八親子は一騎当千の働きを見せ、比類なき高名をあげたのち見事討死を遂げた。

 季節は、すでに冬にさしかかっていた。
寒天と降雪で北国への通路は閉ざされようとしていた。そのため朝倉勢は公方様へ言上し、織田勢との休戦を申し入れてきた。信長公ははじめ休戦に応じようとしなかったが、30日に三井寺に入った公方様から重ねて休戦の上意があったため、信長公もこれを無視しがたくついに休戦に同意したP。

 12月13日、織田と浅井・朝倉との間に講和が成立し、織田勢は湖水を越えて瀬田まで退き、なおかつ浅井・朝倉勢が高島郡に到着するまで人質を出して行路の安全を保証することが決まった。翌14日、信長公はこの約定に従い瀬田の山岡景隆居城まで軍勢を退かせた。これを見た敵勢も15日早朝から叡山を降り、北国へ引き上げていった。
しかしながら、この戦はまことに前代未聞の栄誉ある一戦であった。信長公は大雪の中を行軍して16日に佐和山山麓の磯の郷Qへ宿陣し、翌12月17日久方ぶりに岐阜へ帰陣した。

 @現滋賀県大津市の下坂本 A正しくは20日 B現岐阜県瑞浪市内 C現大阪市東淀川区内 Dいずれも叡山の諸峰 E刀の鍔を打ち鳴らすこと F現大津市坂本穴太町 GHいずれも現下坂本町内 I現京都市左京区の瓜生山 J現京都市の八瀬と大原 K朝倉側が講和を申し入れたとは考えにくく、この記述には疑問がもたれている。 L現滋賀県石部町 M現八日市市内 N現愛知県弥富町 O現大津市本堅田町 P実際には、信長から朝廷・将軍へ講和をはたらきかけた。 Q現滋賀県米原町

 

 

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