信長公記

巻二

永禄十二年

1、三好勢返す  六条合戦の事

 永禄12(1569)年正月4日、三好三人衆は畿内を流浪していた斎藤右兵衛太輔龍興・長井道利主従ら南方の諸浪人を糾合し、薬師寺九郎左衛門を先懸けに公方様御座所の六条本圀寺に攻め寄せた。門前はまたたく間に焼き払われて寺は重囲のただ中に落ち、敵が寺内へ突入してくるのも間近と思われた。

 このとき寺内にあって公方様を警護していたのは、細川典厩藤賢・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・津田左馬丞・坂井与右衛門・明智十兵衛光秀・森弥五八・山県源内・宇野弥七らであった。このうち若狭衆の山県・宇野は隠れなき勇士と名高く、そろって敵将薬師寺の旗本勢へ突入し、並居る敵勢を切り崩して激闘した。しかし次々と押し寄せる敵兵の前にやがて力尽き、両名とも槍下にて討死した。
 他の御所勢も奮戦し、敵が突入してくればその都度これを押し返し、なかには敵勢三十騎を一度に射倒して敵が算を乱す場面も見られた。三好勢は攻めあぐねた。

 そのような中、三好左京大夫義継@・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正・池田清貧・伊丹衆・荒木衆らの援軍がようやく到着し、桂川河畔で三好勢にぶつかった。戦は黒煙うずまく激戦となったが、来援軍は高安権頭ら敵方の大将を次々と討ち取って勝利を得、三好勢の撃退に成功した。
 戦の後、来援軍は岐阜の信長公のもとへ急使を送って変事出来を知らせた。

 @三好義継は三好氏の正嫡だが、この時は三好三人衆と対立して信長へ降っていた。

 

2、飛将軍  御後巻信長御入洛の事

 三好勢来襲を知らせる急使は、6日に岐阜へ到着した。
 美濃から京に向かう道筋は、このとき折り悪く大雪となっていた。しかし信長公は時を待たず今すぐに上洛すると触れを出し、大雪の中をまっさきに飛び出して悍馬にまたがった。馬借の者たちはあわてふためき、一刻も早く荷造りを終えようとして荷物を奪い合った。信長公は仕方なしに馬を下り、荷物を一々検分してやり、「いずれも同じ重さである。早う致せ」と促した。奉行の者が依怙贔屓でもしているかと慮ってのことであった。

 雪中での行軍は困難をきわめ、下々の者の中には凍死するものもあった。しかし信長公は通常三日の行路を二日で踏破し、馬上十数騎余りで京都六条へ駆け入った。
 信長公は味方が堅固に守って御所を維持したことをよろこび、手柄をたてた池田清貧らに多大な恩賞を与えた。諸将は天下に面目をほどこした。

 

3、世を創る  公方御構御普請の事

 信長公は今度の事件から六条御所の防御に不安を感じ、新しい御所の造営を命じた。かくて尾・濃・江・勢・三州および五畿内・若狭・丹後・丹波・播磨の十四か国の衆が京洛の地に集まり、二条の斯波邸跡に新御所を建設する大工事が始まった。

 工事は2月27日を鍬始めとして四方に石垣を高く築き、その上に大工奉行村井貞勝・島田秀順によって洛中洛外から呼び寄せられた鍛冶・番匠が諸国より集まった材木を積み上げていった。作業は奉行の監督のもと遅滞なく進み、ほどなくして新御所が完成した@。御殿の内装には様式通りに金銀をちりばめ、庭には泉水・遣水・築山が構えられた。

 信長公はまた細川屋敷にあった藤戸石とよばれる大石をこの庭に移すと仰せ出された。そうして石のもとへゆき、みずから指揮してかの名石を綾錦で包ませ、花で飾り立て、笛と大鼓・小鼓で囃し立てながら大綱でもって引かせた。信長公の御下知により、石はすぐさま御所の庭へ引き上げられた。他にも東山の慈照寺に置かれていた九山八海という名石など庭には洛中洛外の名石・名木が集められ、眺望のかぎりがつくされた。馬場にも桜が植えられて「桜の馬場」とよばれるなど、御所内は余すところなく整備された。御所の周囲には諸侯の屋敷が甍をつらね、将軍座所の威容が整えられた。

 完成ののち、信長公は公方様へ祝いの太刀と馬を献上した。公方様は大いに喜び、信長公を御前へ召し寄せてみずから盃を与え、御剣その他を下賜した。光栄のほどはいうまでもなかった。このあと信長公は在洛していた諸国の将兵をねぎらい、帰国を許した。

 @工事は2ヶ月ほどで終了し、4月中旬には義昭が御所に入った。信長が見物の女性にからんだ足軽を一刀のもとに切り捨てたという話は、この時のこと。

 

4、禁裏修復  御修理の事

 当時、禁中は荒廃してその体を失っていた。信長公はこれにも大修復を施そうと考え、日乗上人と村井貞勝に奉行を申し付けた。

 

5、名物収集  名物召置かるるの事

 すでに信長公は金銀・米銭に不足はなく、この上は唐物の茶入れなど天下の名物を集めようとし、所蔵主たちに献上を命じてまわった。かくて大文字屋所持の初花肩衝、祐乗坊の富士茄子の茶入れ、池上如慶のかぶらなしの花入れといった名物が公のもとへ差し出された。使いには松井友閑・丹羽長秀が立ち、所蔵主には金銀米穀が代償として与えられた。
 こののち信長公は天下に掟書を布達し、5月11日岐阜に帰還した。

 

6、伊勢路  阿坂の城退散の事

 信長公は勢州表へ兵を出し@、8月20日桑名に着陣した。翌日は鷹野をして過ごし、22日になって白子Aの観音寺まで進んだ。23日には木造Bまで出たが、その後降雨が続いたためこの地で数日間の滞陣を強いられた。
 26日になって、織田勢は木下藤吉郎秀吉を先懸けとして阿坂城Cに攻め寄せた。秀吉はみずから塀際まで詰め寄せ、薄手を負って退いたが、その後も猛攻は続けられて城は落ちた。城衆は降伏して退城し、城には滝川左近将監一益の人数が入った。

 @伊勢木造城主木造具政の内応を契機として出兵した。 A現三重県鈴鹿市白子町 B現久居町内 C現松阪市内

 

7、国司降る  大河内国司退城の事

 こののち織田勢は周辺の小城には手を付けずにまっすぐ伊勢の深奥部へ進み、27日伊勢国司北畠具教・具房親子の籠る大河内城@へ押し寄せた。信長公は周辺の地形を偵察したのち城東の山に陣を取り、夜半に町を焼き払わせ、28日朝になって攻囲の陣を固めさせた。陣取りは以下のように命じられた。

城南の山 織田上野介信包殿・滝川一益・稲葉一鉄・池田恒興・和田新介・後藤喜三郎・蒲生右兵衛大輔賢秀・永原筑前・永田刑部少輔・青地駿河守茂綱・山岡美作守景隆・山岡玉林景猶・丹羽長秀
西 木下秀吉・氏家ト全・安藤守就・飯沼勘平・佐久間信盛・市橋九郎右衛門長利・塚本小大膳
北 斎藤新五・坂井政尚・蜂屋頼隆・簗田弥次右衛門・中条将監・磯野丹波守員昌・中条又兵衛
東 柴田勝家・森可成・山田三左衛門・長谷川与次・佐々成政・梶原平次郎・不破光治・丸毛兵庫頭長照・丸毛三郎兵衛兼利・丹羽源六・不破彦三

 織田勢は城をぐるりと囲み、四方に鹿垣をめぐらして諸口の通路を閉ざし、菅谷九右衛門長頼・塙九郎左衛門直政・前田利家・福富秀勝・中川八郎右衛門・木下雅楽介・松岡九郎二郎・生駒平左衛門・河尻秀隆・湯浅甚介らが柵内を巡回した。また信長公の御座所の警固は馬廻・小姓衆及び弓衆・鉄砲衆に命じられた。

 9月8日になり、信長公は稲葉一鉄・池田恒興・丹羽長秀の三将に西搦手口から敵に夜討ちを仕掛けるよう指令した。命を受けた三将は、夜半に三手に分かれて攻撃を開始した。しかし軍勢を出したまではよかったが、折柄降り出した雨によって鉄砲が役に立たなくなってしまった。このため寄せ手は苦戦におちいり、池田恒興の攻口で馬廻の朝日孫八郎・波多野弥三が戦死したのをはじめ丹羽勢でも近松豊前・神戸伯耆・神戸市介らが戦死し、織田勢は一夜のうちに屈強の侍二十余人を失ってしまった。
 翌9日信長公は方針を変え、滝川一益に命じて多芸谷Aの国司御殿その他の建物をことごとく焼き払わせた上、田畑の作物を薙いで大河内近辺をまったくの忘国としてしまい、城中を干し殺しにしようとした。

 この持久作戦は効を奏した。城を囲んでしばらく在陣しているうちに城中から使者があり、餓死者が出はじめた城中の窮状を述べ、信長公へ恭順の意を申し述べてきたのである。この申し出に対し信長公は、次男御茶筅殿へ北畠家の家督を譲ることを条件に開城を受け入れた。
 10月4日、北畠親子は大河内の城を滝川一益・津田掃部に明け渡し、笠木B・坂内Cへ退去した。この間信長公は諸方へ城割の奉行をつかわし、田丸城Dをはじめとして伊勢国内の諸城を破却せしめた。

 @現松阪市大河内町 A現美杉村 BCともに現松阪市内 D現玉城町

 

8、関銭の廃止  関役所御免除の事

 伊勢平定後、信長公は同国内において往還の旅人を悩ませていた諸関を廃止し、関銭の徴収を固く禁じる布令を発した。

 

9、伊勢平定  伊勢御参宮の事

 10月5日信長公は山田@に入って堤源介邸に宿泊し、翌6日伊勢内宮・外宮・朝熊山へ参詣した。そして翌日帰陣の途につき、8日に上野Aへ出た。信長公はここで軍勢を解き、御茶筅殿を大河内城主として介添えに津田掃部を置き、安濃津B・渋見C・木造の三城には滝川一益の人数を入れ、上野には織田信包殿を封じた。そうしてみずからは馬廻のみをつれて京へ向かうことにし、諸国の軍勢にも帰国を許した。
 京へは千草越えDの道をとり、9日に千草へ入ったが、その日に雪が降り出して山中は大雪となってしまった。それでも翌10日には江州へ出て市原に宿泊し、11日京へ入った。京では公方様へ勢州表平定の報告をし、そののち数日滞在して天下の政情を聞き、10月17日になって濃州岐阜へ帰陣した。

 @現伊勢市 A現三重県河芸町 BC現津市 D現三重県菰野町から鈴鹿山脈を越えて近江へ出る道

 

 

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