信長公記

巻一

太田和泉守これを綴る
永禄十一年戊辰以来織田弾正忠信長公の御在世、且これを記す。

1、公方殿生害  公方様御生害の事

 永禄8(1565)年のことである。
先公方光源院義輝殿が生害され、御舎弟の鹿苑院殿をはじめ幕府の歴々衆が一所に討死した。
 当時天下の権を握っていた三好氏は、義輝殿が内々に自分達の排斥を望んでいることを十分に察していた。そこで彼らは談合し、義輝殿の生害を企てたのである。

 5月19日早朝、三好勢は清水参詣と称して洛中へ人数を寄せ、一挙に御所へ突入した。御所の人々はこの思いもよらぬ事態に驚愕したが、もはや手遅れであった。三好勢の重囲の中、彼らは数度にわたり切って出て寄せ手を切り崩し、数多に傷を負わせた。義輝殿もみずから伝来の宝刀をとって奮戦したが、多勢の前にやがて力尽き、御殿に火を放って自害に及んだ。

 三好勢はさらに義輝殿三弟の鹿苑院殿にも討手をさしむけ、これを殺害した。殺害後鹿苑院殿の家来衆の多くが逃げ散る中、かねて鹿苑院殿に目をかけられていた美濃屋小四郎という若者は隙を見て討手の大将平田和泉を切り殺し、みずからもその場で追い腹を切って死んだ。比類なき高名であった。
 まさに乱世であった。天下万民の愁嘆は尽きなかったという。

 

2、流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋@へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向したA。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。
 
 @現滋賀県守山町矢島。法名を覚慶といった義昭は還俗して義秋と名乗った。 A若狭に滞在したのち、永禄10年越前に入る。翌年元服し、名を義昭と改めた。

 

3、大魚入る  信長御憑み御請の事

 困じはてた義昭殿は、ついに信長公の元へ使者を遣わし、「この上は、ひとえに上総介信長を憑みたい」と書き送った。
信長公は美濃でこの御教書にふれた。そして、
―信長矮弱ノ士タリトイヘドモ、天下ノ忠功ヲ致サン。と欲し、一命を軽んじてこの要請を受けることを決心したのであった。
 そうして永禄11(1568)年7月25日、義昭殿は美濃より迎えの使者に立った和田惟政・不破河内守光治・村井貞勝・島田秀順らの歴々に伴われて越前を出立し、濃州西庄の立正寺@に入った。座所の末席には銭や太刀・鎧・武具・馬などの進物が山のごとく積まれ、御家来衆もそれぞれ盛大な歓待を受けた。

 義昭殿を擁した信長公は上洛の準備を急ぎ、8月7日道中の諸勢力との交渉のため江州佐和山へ赴いた。そうして義昭殿の上使にみずからの使者を添えて六角家へ向かわせ、上洛軍への協力と人質の供出を要求した。交渉は七日間にわたり、信長公は対価として所司代の地位を約束したが、結局要求を容れさせることはできなかった。交渉の決裂により、信長公は道中の近江での戦闘を覚悟せねばならなくなった。

 @現岐阜市西荘内の立政寺

 

4、上洛  信長入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将軍に備へらるるの事

 永禄11(1568)年9月7日、信長公は義昭殿の元へ参上し、出陣の挨拶を述べた。
「江州をひと呑みに討ち果たし、お迎え申し上げる」
そうして信長公は濃尾勢三@四州の軍兵を率い、同日岐阜を出立した。

 軍勢は平尾村Aで夜を明かして翌8日江州高宮Bまで進み、この地に二日間滞在して人馬の息を休めた。11日になって休息を終えた軍勢は愛知川近辺まで進軍して野陣を張った。ここから馬を駆けまわして付近の敵状を探索した信長公は、沿道に散在する敵城には目をくれずに進軍し、六角承禎親子が立てこもる観音寺城Cに近接する箕作城Dへ向かった。翌12日、信長公の命を受けた佐久間信盛・木下藤吉郎秀吉・丹羽長秀・浅井新八らによって箕作城の攻撃が開始された。攻撃は申刻(午後3時過ぎ)より始まり、夜半に城は落ちた。
 信長公の所領となってまもない美濃の将士は、この戦ではさだめし先手として追い使われることになろうと覚悟していた。しかしいざ戦が始まってみると、信長公は美濃衆などに構わず馬廻りだけで攻撃を開始してしまった。この思いもよらない戦の仕方に、美濃三人衆などはただ驚くばかりであったという。

 落城後、信長公は箕作山に陣を据え、翌日にも六角氏の本拠観音寺城を攻める勢いを示した。ところが箕作の陥落をみた承禎親子は抵抗は不可能とみて城を捨てて逃亡してしまった。翌日織田勢はやすやすと観音寺城へ入城を果たした。観音寺落城によって付近の六角残党が軒並みに降伏してきたため、信長公は人質を差し出させた上で彼らの所領を安堵してやり、一国を支配下に収めた。盟約通り江南を平定した信長公は、14日不破光治を迎えの使者に立てて美濃立正寺へ向かわせた。

 21日になって信長公は馬を進め、柏原Eの上菩薩院に着陣し、翌日には桑実寺へ入った。23日は瀬田Fまで進んだがここで船の手配がつかずに一日を費し、翌24日G湖を渡って三井寺極楽院に着到した。軍勢は大津の松本・馬場Hに宿陣し、義昭殿は渡江して同三井寺光浄院に宿泊した。そして9月26日信長公はついに入洛を果たした。同日義昭殿も入京し、清水に宿陣した。

 しかし信長公は入洛後息もつかずに東福寺へ陣を移し、28日柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井右近政尚の四将を先頭に立てて桂川を越え、岩成主税頭友通の守る勝龍寺城Iを攻めた。敵も足軽を出して応戦してきたが、四将は連携して敵にかかり五十余の首を斬獲した。首は東福寺内に並べられて信長公の実検を受けた。翌日城近くまで軍を寄せられた岩成友通は力尽きて降伏した。
 30日には山崎Jに着陣し、先陣を天神山に置いた。芥川城Kに立てこもっていた細川六郎昭元殿L・三好日向守長逸は織田勢の圧迫に耐えかね、夜になって退却した。あわせて篠原右京亮長房支配下の越水M・滝山Nの城兵も潮の引くように退いていったため、信長公は義昭殿に供奉して芥川城へ入城し、ここを本営とした。

 月は変わって10月2日、信長公は池田勝正の拠る池田城Oに攻め寄せ、陣を城北の山に構えて敵を遠望した。
攻撃が始まり、寄せ手の水野忠政家中の武辺者・梶川平左衛門と信長公の馬廻でこちらも武勇の聞こえ高い魚住隼人は先を争って外構えに突入した。しかしたがいに押しつ引きつ闘ううちに梶川は腰骨を突かれて討死してしまい、残った魚住も負傷して退却した。戦は激しい攻城戦となり、双方多数の戦死者を出した。業を煮やした信長公は、城下に火をかけて町を焼き払ってしまった。
 それでもこの戦に参加した諸士はここを末代の高名と心得て意気高く、まさに三略にいう「戦フコト風ノ発スルガ如ク、攻ルコト河ノ決ルガ如シ」といった勢いであった。この勢いの前に池田勝正もまもなくして人質を出して降伏したため、信長公は軍勢をひきつれ芥川の本営に凱旋した。ここに五畿内およびその隣国が信長公の支配するところとなったのである。

 芥川滞在中、信長公の元へは参賀の使者が内外の珍物を携えて続々と来訪し、門前に市をなすがごとき盛況となった。松永弾正久秀は本朝無双といわれる九十九茄子の茶入れを進上し、今井宗久も名物松嶋茶壷と紹鷗茄子の茶入れを献じた。中には九郎判官義経が一の谷で着用したという鎧を進上するものもあった。

 10月14日、義昭殿は芥川から帰洛して六条本圀寺に入った。洛中の人々は一同に喜悦安堵した。直後に信長公も供廻の衆をひきつれて帰洛し、清水に落ち着いた。信長公は戦勝に意気騰る諸勢の中から不届きを働く者が出ないように洛中洛外の警固を厳重にするよう申し渡したため、下々の輩による乱妨沙汰は起こらなかった。
 各地に城塞を構えて反抗していた敵をわずか十余日の内にことごとく退散させ、天下をみずからの御存分次第とした信長公は、細川昭元殿の邸を義昭殿の御殿に定めて祝いの太刀と馬を献上した。義昭殿は喜悦し、信長公を召し出して三献を与え、手ずから盃と刀を下賜した。
 18日、義昭殿は朝廷より正式に宣下を受けて征夷大将軍に就任し、22日参内を果たした。ここに至るまでの信長公の御功績は後世末代まで称えられるべきものであった。

 @信長所領の兵に家康の援軍も加え、総勢四万〜六万と伝えられる。 A現岐阜県垂井町内 B現滋賀県彦根市内 C現安土町内 D現八日市市内 E現山東町内 F現大津市瀬田町 G原文では26日となっている。以下、原文の記述が実際の日付と相違するため修正した。 H現大津市内 I現京都府向日市内 J現大山崎町 K現大阪府高槻市芥川 L後に信長の妹婿となったためか、敬称がつけられている。 M現兵庫県西宮市内 N現神戸市滝山区内 O現大阪府池田市

 

5、深謀量り難し  観世大夫・金春大夫御能仕るの事

 将軍職補任後、義昭殿は座所となった細川邸に観世大夫を招いて観能の会を催し、このたびの戦で粉骨の働きをした面々を招待した。
 番組は吉例の弓八幡を脇能として十三番が組まれていた。しかし演目を見た信長公は、
「いまは隣国平定をいそぐ時である。これで弓矢が納まりしなどとは、考えも及ばぬ」といって、五番に省略してしまった。
 この前後に義昭殿は信長公のもとへ再三にわたって使者を遣わし、副将軍・管領への就任を要請していた。しかしながら信長公は辞退して受けようとはしなかった。この辞退を「まことに奥床しき振舞い」ととった都鄙の人士は、一様に感心した。

 さて演目は以下のようになった。
   脇能 高砂  二番 八嶋  三番 定家  四番 道成寺  五番 呉羽
 脇能がおわったあと義昭殿からお召しがかかり、信長公は義昭殿の近くへ参上した。やって来た信長公に義昭殿はみずから酌をして酒を注いでやり、さらに鷹と鎧を下賜した。武門の名誉これに過ぎたるものはなかった。このあと義昭殿は四番の道成寺で信長公の鼓を聞きたいと言い出したが、信長公はこれをことわった。演目は終了し、一座の者には信長公から盛大な引出物が贈られた。

 この観能の会からまもなくして、信長公は分国中に数多存在していた諸関税の廃止を実行した。旅人の往還の便利を考えての政策であり、人々は貴賎を問わず大いに喜んだ。

 

6、岐阜凱旋  信長御感状御頂戴の事

 10月24日、信長公は義昭殿へ帰国の挨拶を申し述べた。これに対し義昭殿からは翌日感状が下された。文面は以下の通りであった@。


   今度国々凶徒等、不歴日不移時、悉令退治之条、武勇天下第一也、当家再興不可過之、
  弥国家之安治偏憑入之外無他、尚藤孝・惟政可申也
      十月二十四日   御判
         御父織田弾正忠殿
   御追加
  今度依大忠、紋桐・引両筋遣候、可受武功之力祝儀也。
      十月二十四日   御判
         御父織田弾正忠殿


 前代未聞の栄誉であり、めでたさは言葉につくしがたかった。
翌26日信長公は帰国の途につき、江州守山・柏原を経て28日岐阜へ帰還を果たした。千秋万歳ともいうべき慶事であった。

 @信長を「御父」と呼んで畿内平定の謝辞を述べ、追記で足利紋の使用を許している。

 

 

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