信長公記

首巻31〜45

31、裏山崩レテ風寒シ  信長大良より御帰陣の事

 長良川の戦は斎藤義龍勢の勝利に終わった。首実検を行い、戦勝に士気の上がる義龍勢は、大良口@の信長公御陣所にも軍勢を差し向けてきた。両軍は大良の河原で激突した。

 怒涛のごとく攻め寄せる美濃勢の前に、山口取手介や土方彦三郎といった名のある勇士が瞬く間に討ち取られた。また森三左衛門可成は美濃勢の千石又一と渡り合い、膝を斬られて退いた。このような惨況の中、本陣には道三討死の報が届いた。まさに決定打であり、諸将は恐慌に陥りかけた。それを押さえ、信長公が厳然と命を下した。
「背後は川である。足の重い雑人・牛馬をまず退かせよ。汝らはそのあとにゆるゆると退くべし。心配は要らず。信長が殿に立つ」この言葉に従い、全軍は川を渡って退却を始めた。信長公はわずかな供回りを連れて船に乗り、水上に残った。やがて前方に追撃軍の先手の騎馬武者が現れ、そのなかの数騎が川端まで馬を寄せてきた。その時信長公が轟然と鉄砲を放った。この勢いに呑まれて追撃軍は渡河を躊躇し、追撃を打ち切った。信長公は悠然と退却した。

 信長公の盟友道三の死は、尾張の状勢にも変化をもたらした。尾張上四郡の主・織田伊勢守信安殿は斎藤義龍と結んで勢いを得、清洲近くの下之郷Aに侵入して放火を行った。これに対し、信長公はすぐさま兵を率いて岩倉に攻め寄せ、報復に近在の伊勢守領を焼き払った。
 岩倉に呼応し、下四郡でも信長公に反旗をひるがえす者が相次いだ。

 @現羽島市 A現春日町。清洲北方

 

32、政略武略  武衛様と吉良殿御参会の事

 清洲から三十町ほど隔てた下津の郷@に、正眼寺という曹洞宗の寺があった。要害の地であり、ここに岩倉方が砦を構築しようとしているとの風説が立った。これに対し、信長公は先手を打って清洲の町人を動員し、寺の藪を切り払わせて要害としての価値を無くそうとした。

 ところが、作事が始まってから町人たちが不安を訴えはじめた。敵地にほど近い場所での作業であるのに、警備の人数がわずか八十騎余りでは心許ないというのであった。
 町人たちの不安は的中した。岩倉方がこの動きを察知し、三千あまりの兵を繰り出してきたのである。信長公は考えを廻らし、後陣に竹槍を持って兵に擬装した町人たちを入れて大軍に見せ、その上で前衛の足軽に小規模な戦闘を繰り返させて援軍までの時間を稼いだ。

 弘治2(1556)年4月上旬、三河国守護吉良義昭殿と武衛斯波義銀様との対面の儀が、駿河の今川義元の斡旋でまとまったA。対面へおもむく武衛様の御供として、信長公も出陣した。対面の場は三河の上野原Bである。

 双方約束の上野原に到着し、互いに一町ほどの距離を置いてものものしく人数を立て備えた。言うまでもなく、参会した両勢の一方には吉良殿が、また一方には武衛様がそれぞれ陣前に床机を据えてすわっていたが、なぜか両人ともそこから動こうとしなかった。実は対面の席次のことで争いがあったのである。双方とも譲らず、結局対面はたがいに十歩ほど前へ出て顔を見せただけで、格別の挨拶の品もなしに終了してしまった。対面のあとはそれぞれすぐに人数を引き取った。
 この儀の後、信長公はあらためて武衛様を国主として崇め、清洲城本丸を譲ってみずからは北矢蔵に移った。

 @清洲北西、現稲沢市 A義元はこの会見によって三河・尾張への心理的効果をねらい、信長は国内統一に向けて守護擁立をアピールしようとした。 B現豊田市

 

33、貴種有毒  吉良・石橋・武衛三人御国追出しの事

 尾張の国端の海沿いに、名族石橋殿の座所があった。武衛様と吉良殿はこの石橋殿と通じて信長公に対し謀反をくわだて、河内の服部左京と結んで海上から今川勢を引き入れようとした@。しかし計画半ばにして露見し、御三方は即刻国外に追放された。

 @守護斯波義銀は実権回復を企図し、信長を頼っていた吉良氏と通謀して信長排斥を企てた。

 

34、浮野の戦い  浮野合戦の事

 永禄元(1558)年、信長公は岩倉の織田信賢殿@と戦うべく、7月12日清洲を進発した。清洲から岩倉までは三十町足らずの距離であったが、直進すれば悪所が続くため信長公は地形を選んで北西に三里迂回し、岩倉西方の浮野Aという地に展開した。これに対し岩倉方も兵三千を率いて城を出て、信長公と対峙した。

 戦は午刻にはじまった。信長勢は南東へ突撃して数刻にわたって激戦を展開し、岩倉勢を追い崩した。岩倉勢は壊乱し、逃げまどうところを次々と信長勢に討ち取られていった。
 岩倉勢の中に、近在の浅野という村の士で林弥七郎という弓の名手がいた。敗軍の中弓を片手に退いていたところへ、追撃してきた鉄砲の名人橋本一巴に声をかけられた。二人は近しい間柄であった。
「弥七郎、汝とは長年の知音なれど、この場に至りては助けることもかなわじ。勝負」
「心得候」
弥七郎は矢をつがえ、振り返りざまに放った。矢は見事橋本の脇の下へ命中した。しかし橋本もすでに発射態勢を整えており、弥七郎へ向けて二発玉を発射した。これも命中し、弥七郎はもんどりうって倒れた。そこへ信長公の御小姓衆の佐脇藤八が手柄を得ようと走りよって来た。弥八郎は倒れながらも大刀を抜きはなって応戦したが、ついに討ち取られた。比類なき奮戦であった。
 信長公は清洲へ人数を納め、翌日首実検を行った。首数は千二百五十余にのぼった。

 @岩倉織田家では守護代織田信安と子の信賢とが争い、信賢が信安を追放して実権を掌握した。 A現一宮市

 

35、岩倉攻め  岩倉落城の事

 永禄2(1559)年春より信長勢は岩倉城に攻め寄せ、城下を焼いて裸城にし、四方を鹿垣で囲み、廻番を定めて長期攻囲の態勢をとった。攻囲は二、三か月におよび、城内には連日火矢・鉄砲が撃ち込まれた。万策尽きた織田信賢殿は、ついに城を明け渡して降伏した。
 城兵は思い思いに退去し、城は破却された。

 

36、森部の戦い  もりべ合戦の事

 永禄4(1561)年5月13日、信長公は木曽・飛騨の両大河を渡り、勝村@に陣を構えた。西美濃方面への出兵である。
 この動きに対し美濃勢からは翌14日、長井甲斐守・日比野下野守らが豪雨をおして墨俣から兵を繰り出し、森辺Aまで進んできた。敵のこの拙速な進軍を見た信長公は、「天の与うる所」とほくそえみ、全軍楡俣川を押し渡って敵勢へ殺到した。
 戦は数刻にわたる乱戦ののち信長公の大勝に終わった。美濃勢は大将の長井・日比野をはじめ百七十人余が討ち取られたが、戦死者の中にはたまたま大将の二人に気に入られて美濃にとどまっていた近江猿楽の若衆の姿もあった。主に殉じての死であり、まことに哀れな様であった。

 この戦で前田利家は首を二つ取った。うち一つは日比野下野の与力で足立六兵衛といい、「頸取足立」の異名をとって美濃では知らぬ者のいない大剛であった。利家は当時信長公の勘気をこうむって出仕を禁じられておりB、桶狭間の際にも前哨戦で一つ、追撃時に二つの首を挙げたものの、許されることはなかった。このたびも強引に出陣したものであったが、みごと名誉の首を挙げたことでようやく赦免されることになった。

 @現岐阜県平田町 A現安八町森部。信長軍は墨俣から南下してきた斎藤勢に一気に突入した。 B前田利家は永禄2年に信長の同朋衆を殺害して出仕停止を受けていた。

 

37、十四条攻防  十四条合戦の事

 森部の戦いの後、信長公は墨俣@を奪い、ここを要害として滞陣していた。すると23日になって態勢を立て直した美濃勢が押し寄せ、北方の十四条Aに人数を立て備えた。信長公は墨俣を出てこれを迎え撃ったが、劣勢となり御味方の瑞雲庵信清殿の弟が討死した。信長公は兵を引き、勢いに乗った敵は北軽海Bまで南下して織田勢の東へ出た。信長公は退勢の中馬を駆けめぐらせて軍をとりまとめ、西軽海の古宮に陣を取って東の敵と向かいあった。

 そうして互いに足軽を出し合い戦わせるうちに夜となった。それでも戦は続けられたが、夜半に転機が訪れた。真木村牛介らを先頭に攻め寄せてきた美濃勢を、織田勢が撃退することに成功したのである。逆襲に転じた信長公は美濃勢を追って突撃し、池田恒興・佐々成政は敵方の稲葉又右衛門を討ち取った。その後は暗闇の中での混戦となったが、次第に織田勢の優勢となり、敵は夜のうちに撤退していった。信長公も翌朝戦場をあとにして墨俣へ戻った。

 @現墨俣町 A現真正町。墨俣の北、岐阜から西に位置する B同じく現真正町内

 

38、才幹死す  於久地惣構破るるの事

 永禄5(1562)年6月下旬、信長公は織田信清殿の於久地城@を攻めた。戦は御小姓衆が先懸けとなって惣構を押し破り、曲輪内に突入して数刻にわたる戦いとなった。
 この戦いで御小姓衆の岩室長門守が敵にこめかみを突かれて討死した。岩室は桶狭間のおり急に出立した信長公にいちはやく随従した人物であり、隠れなき才人であった。信長公の惜しみようは一方ならなかった。

@小口城。現愛知県小口町。犬山の織田信清(信長従弟)が斎藤龍興と結んで反抗したため、その支城の小口城を攻めた。

 

39、小牧移転  二宮山御こしあるべきの事

 当時信長公は清洲を居城としており、国の中心として清洲は大いに栄えていた。

 ところが永禄6(1563)年のある日、信長公はおもだった家臣すべてを引き連れて二之宮山@の高所にのぼり、「この地に築城する」と突如宣言した。そうしてその場で家臣団に移住を命じたうえ、この谷には誰々、あの峰には誰々という具合に屋敷割りまで決定してしまった。その日から信長公は二之宮移転のことを重ねて口にするようになり、どうやら本気で考えているらしいことがわかってきた。
 家臣団は大混乱におちいった。住み慣れた清洲を引き払って二之宮のような山中に移る苦労は、はかりがたいものがあった。清洲の町民達にとっても迷惑は同様で、たがいに顔を合わせては口々に不満をささやきあった。

 そのような中、信長公は「やはり、小牧山にする」といって正式な移転地を小牧@に変更した。清洲から小牧へはふもとまで川続きであり、人馬・道具の移動は自在である。人々は喜んで支度をはじめた。ここに信長公の知略があった。最初に難所の二之宮への移転を表明し、その後で場所を移りやすい小牧に変えたことで、清洲からの移転そのものに対する不満をやわらげたのである。
 小牧から於久地城へは二十町ほどの距離しかなかった。城衆は眼前に要害が完成しつつあるのを見、これ以上の防御は不可能とみて犬山へ撤退していった。これによって織田信清殿は犬山一城に押しこめられた。

@現犬山市二之宮 A現小牧市。城郭が完成して信長が移転したのは翌永禄7年頃とされる。

 

40、美濃侵蝕  加治田の城御身方に参る事

 犬山から国境の木曽川をはさんだ対岸には美濃方の鵜沼城@・猿喰城Aがあり、信長公を悩ませていた。またこの両城からさらに五里奥へ進んだ加治田Bにも美濃勢の拠点があり、佐藤紀伊守・右近右衛門親子が入っていた。
 永禄8(1565)年7月、その加治田の佐藤親子が、丹羽長秀を通じて信長公へ内々に忠節を申し入れてきた。当時美濃国内に内通者を切望していた信長公は大層喜悦し、やって来た使者に対し「これで兵糧を調えよ」と黄金五十枚を与えた。

 @現岐阜県各務原市 A現岐阜県坂祝町 B現岐阜県富加村

 

41、犬山落城  犬山両おとな御忠節の事

 永禄7(1564)年8月、犬山の家老和田新介・中嶋豊後守の両名が、これも丹羽長秀の調略により信長公へ内通してきた。信長勢は両名の手引によって犬山へなだれ込み、城下を焼いて裸城にし、鹿垣をもって城を十重二十重に取り囲んだ。攻囲はそのまま丹羽長秀が担当し、まもなく城は落ちた@。

  @織田信清は攻囲軍を支えきれず、城を脱出して甲斐へ亡命した。これにより信長の尾張統一がほぼ完成した。

 

42、宇留摩・猿喰  濃州伊木山へ御上りの事

  永禄8(1565)年夏、信長公は飛騨川を越え東美濃へ乱入した。標的は宇留摩・猿喰の両城である。このとき宇留摩城は大沢次郎左衛門が、猿喰城は多治見修理がそれぞれ城主をつとめており、両城は犬山の対岸で近接してたがいに連絡をとりあっていた。

 信長公はこの二城を攻めるにあたり、両城から十〜十五町の距離にあってしかも両城を見下ろすことのできる伊木山@という高山に着目し、この山に要害を築いた。織田勢は完成した要害に入り、昼夜城をにらんで滞陣した。山にほど近い宇留摩城はこの圧迫に耐えかね、窮したすえに降伏してきたA。
 猿喰の城は木曽川に沿った高山の上にあり、城衆は地の利を生かしてよく戦った。しかし丹羽長秀の勢が城に隣接した大ぼて山とよばれる高所を占拠して水の手を断つにおよび、ついに力尽きて開城した。
 
 @木曽川北岸、現各務原市内 A誘降には木下藤吉郎があたったとされるが、本文には登場しない。

 

43、堂洞の勲功  堂洞取出攻めらるるの事

 猿喰の三里北には加治田城があり、城主の佐藤紀伊守親子は織田方となって働いていた。
永禄8(1565)年9月、美濃の長井道利はこの城を奪取しようとし、加治田から二十五町先の堂洞@に砦を築いて岸勘解由左衛門らを入れ、みずからは鍛冶で名高い関Aに本陣を構えた。

 この加治田城の危機に際して信長公はすぐさま援軍をもよおし、28日敵の前衛の堂洞を突いた。堂洞は三方が谷となって落ち込み、東の一方だけが丘続きとなった堅牢の地であり、この日は強風が吹いていた。
 信長公はこの状況を見、陣を駆けめぐって「松明を用意せよ。塀際まで押し寄せ、四方より投げ入れるべし」と下知してまわった。同じ頃長井道利は堂洞砦から二十五町の距離まで進軍していたが、織田勢の盛んな勢いの前に足軽さえ出せずにいた。

 信長公は人数を立てて砦を囲み、作戦通り砦内へ松明を投げ入れて二の丸を炎上させ、そこから一気に攻め寄せて本丸に取り付いた。当時太田又助といった筆者は、このとき二の丸の焼け残った建物の屋根にただ一人のぼり、本丸の敵を一本の無駄矢もなしに射続けていた。信長公は筆者のこの戦振りに感じて三度まで使者を下され、知行を重ねられた。

 午刻よりはじまった戦もすでに酉の刻(5時)を過ぎ、薄暮にさしかかったころ、河尻与兵衛秀隆が本丸への突入に成功した。つづいて丹羽長秀の勢も突撃したが、岸勘解由や多治見党はなお果敢に抵抗し、城中は敵味方の見分けもつかぬ混戦となった。しかしつぎつぎと押し寄せる織田勢の前に城衆は次第に討ち減らされ、大将分の侍も大方が討ち取られた。夜になって砦は落ちた。
 砦の陥落後、信長公は加治田へ出て佐藤親子を引見し、その夜は息子の右近右衛門の屋敷へ泊まった。親子はそれぞれ感涙にむせび、感謝の言葉も容易に浮かばぬ様子であった。

 翌29日、信長公は山下の町で首実検をおこなったのち帰陣の支度にかかっていた。
そこへ変報が入った。稲葉山の斎藤龍興がみずから出勢し、関の長井勢と合流して押し寄せてきたというのである。その数約三千ということであった。これに対して信長公の人数はわずかに七、八百にすぎず、手負いの者も数多かった。信長公は退却を決意した。幸いにも背後は一面の広野となっており、逃れやすい地形であった。織田勢はまず陣を固く構えて敵に備え、そのあいだに負傷者と雑人を退却させた。そのあとで健全な武者たちが陣を払い、馬を軽々と引きまわして退いていった。敵はまったく成果なく、残念この上ない様子であった。

 @現富加村・美濃加茂市境 A現関市。堂洞北西。現在も鍛冶で知られる。

 

44、美濃落つ  いなは山御取り候事

 永禄9(1566)年4月上旬、信長公はふたたび木曽川を渡り美濃国各務野@へ侵入した。これに対して斎藤龍興も井口を出て新加納Aに陣したが、この地は地勢が悪く軍の進退が難しいため信長公は交戦を断念し、その日のうちに帰陣した。この年は木曽川を越えて一進一退が続いたB。

 しかし翌永禄10(1567)年8月、状勢に一大転機が訪れた。稲葉伊予守一鉄良通・氏家ト全直元・安藤伊賀守守就の美濃三人衆がたがいに申し合わせ、信長公への忠節を打診してきたのである。かれらはその証拠として人質を供出する旨を申し出てきた。信長公はこれを承諾し、尾張から村井民部丞貞勝・島田所之助秀順が人質受領に西美濃へ赴いた。

 ところが信長公は人質の到着も待たずに突如軍勢を催し、稲葉山南麓の瑞龍寺山へ駆けのぼった。そうして美濃の人士があれは敵か味方かと慌てふためく中を火神のごとくに放火してまわり、あっというまに城を裸城にしてしまった。
 翌日になって信長公は稲葉山城の攻囲を開始し、四方に鹿垣をめぐらせて城を中に取り込めた。そのような中で美濃三人衆も来着し、肝をつぶして信長公へ謁した。このように信長公は何事につけ神速極まる下知をされる御方であった。

 9月、斎藤龍興は力尽きて降服し、伊勢長島へ退去していった。これによって美濃一円は信長公の支配するところとなった。信長公は小牧を引き払って稲葉山に移り、当時井口といったこの地を岐阜と改めた。

 @Aともに現各務原市。 B原文に記述はないが、8月にも織田勢は美濃へ攻め入り、大敗したうえ大雨で増水した木曽川に追い詰められて多数の溺死者を出した。

 

45、細流大河と成る  公方様御憑み百ヶ日の内に天下仰付けられ候事

 三好・松永党に追われて南都を逃れた一乗院覚慶足利義昭殿は、当初六角承禎を頼った。しかし次第に不和となったため今度は越前へ下って朝倉左京大夫義景のもとに身を寄せた。越前では朝倉義景へしきりに上洛を勧めたが、義景は中々腰を上げようとしなかった。

 そうして焦燥の日々を送るうち、義昭殿は濃尾二州に台頭した信長公への関心を高めていった。やがて義昭殿は朝倉を見限って織田家を頼ることを決意し、細川兵部太輔藤孝・和田伊賀守惟政を使者に立てて信長公へ尽力を要請した。信長公はこれを快諾し、越前へ向けすぐさま迎えの使者を遣わした。永禄11(1568)年7月、義昭殿は岐阜に入った。
 義昭殿はこれより百日を経ずして征夷大将軍となり、無事本意を遂げることができた。すべては信長公の功績によるものである。

 ところで永禄の初めごろ、丹波国長谷に赤沢加賀守という侍がいた。内藤氏の与力をつとめて城主の身分にある一方、大変な鷹数寄として知られていた。ある時赤沢は関東へ下り、かの地で見事な羽と嘴を持った鷹を二連買い求めてきた。そして帰途尾張へ立ち寄って信長公と会見し、買った鷹二連のうち好きな方を進上しようと申し出た。信長公はこの申し出に対し、
「志のほど感悦至極である。しかしながら、鷹は信長の天下となるまで預けおく」
と答え、鷹を返してしまった。

 赤沢はこのことを京で語ってまわった。人々はみな「遠国の身で、不遜なことよ」と嘲笑した。ところがその後十年を待たずに信長公は見事上洛を果たしたのである。
 ふしぎなることどもが、群雲のごとく湧き起こった時代であった。

首巻上洛以前 完

 

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