信長公記

首巻21〜30

 

21、信玄入道  天沢長老物かたりの事

 尾張に天沢という天台宗の高僧があった。この天沢は所用で関東へ下る途中、甲斐で土地の奉行にすすめられて武田信玄に会うことになった。

 対面の場で、信玄はまず生国をたずねてきた。尾張にございます、と答えると、さらに郡の名を聞いてきた。これに対しては、「上総介殿御居城の清洲から五十町ほど東に下った味鏡と申す村の寺に居ります」と詳細に答えた。すると信玄は、信長公の人となりをありのまま残さず語るように求めた。天沢は信長公について自分の知るかぎりを答えた。毎朝御馬に乗っておられます。鉄砲・弓・刀はそれぞれ師匠について習っておいでです。しばしば鷹狩に出られます…
「風流は嗜むか」
「舞と小唄を好まれます」
「幸若大夫を呼んでいるのか」
「清洲の町衆に友閑と申す者がおります。この者がその道に詳しく、よくお召しになっております。上総介様御自らは、敦盛の一番のほかは舞いませぬ。人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、といつも口にされて舞われます」
「小唄もうたうか。異なものを好むことよ。いかなる歌ぞ」
「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの、と唄われます」
「ちとその真似をしてみよ」
「…沙門の身にござれば、御勘弁くだされ」
「御坊、ぜひ」仕方なく、天沢は真似をしてみせた。

 

22、鷹と戦  六人衆と云ふ事

「鷹狩はどのようにしておる」
「鳥見の衆と申して二人を一組とし、獲物を見つけると一方が見張りをし、一方が注進に及びます。また六人衆というものを定め、これに弓と槍を持たせてお手廻りとして使います。そして騎馬の者があぶをゆわえた藁を手に獲物のまわりを回って注意を引き付け、その隙に上総介殿が近づき、鷹を放ちます。獲物の落ちる方向にはあらかじめ向待の者を農夫に変装させて配置しており、この者が最後に獲物をおさえます。上総介殿は名人ゆえ多くの獲物を手にされると聞き及んでおり申す」

 信玄はこれらの話を聞き、「信長の戦ぶりのよきこと、道理である」と言い、なにやら納得の様子であった。天沢は帰途も立ち寄ることを約束して退出した。

 

23、臨戦  鳴海の城へ御取出の事

 尾張に今川の勢力が進入していることが、信長公の苦痛のたねであった。
 今川方の前線鳴海城は天白川の河口近くにあり、東は丘陵が連なり、西には深田が広がる。信長公はこの城の押さえとして丹下・善照寺・中島@に砦を築き、それぞれ水野帯刀・佐久間信盛・梶川平左衛門を入れた。さらに鳴海と大高城との間にも丸根砦・鷲津砦Aを構築して両城を分断し、丸根は佐久間盛重に、鷲津は織田玄蕃秀敏と飯尾近江守親子に守らせた。

 @いずれも名古屋市緑区。鳴海城を半円状に囲み、北に丹下・東に善照寺・南東に中島が位置する。 A鳴海南方。南の大高を押さえる。

 

24、桶狭間  今川義元討死の事

 永禄3(1560)年5月17日、今川義元勢の先陣は沓掛に参着し、翌日大高城へ兵糧を運び込んだ。この動きから、今川勢は翌19日の援軍の出しにくい満潮時を選んで織田方の各砦を落としにかかるに違いなしとの予測がなされ、18日夕刻から丸根・鷲津からの注進が相次いだ。

 しかしその夜、信長公は特に軍立てをするでもなく、雑談をしただけで家臣に散会を命じてしまった。家老たちは「運の末ともなれば、智慧の鏡も曇るものよ」と嘲笑して帰っていった。懸念の通り、夜明け時になって鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入った。
 注進をしずかに聞いたあと、信長公は奥に入った。
そこで敦盛の舞を舞い始めた。

 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか

ひとしきり舞った。
そして、
「貝を吹け」
「具足をもて」
とたて続けに下知を発した。出された具足をすばやく身につけ、立ちながらに食事をすると、信長公は兜を被って馬にまたがり、城門を駆け抜けた。このとき急な出立に気づいて後に従ったのは、岩室長門守ら小姓衆わずかに五騎であった。

 主従六騎は熱田までの三里を一気に駆けた。辰の刻(7時)ごろ、上知我麻神社@の前で東方に二条の煙が立ち上っているのを見、信長公は鷲津・丸根の両砦が陥落したことを知った。この間、出陣を知った兵が一人二人と追い着き、人数は二百ほどになっていた。
 熱田からは内陸の道を進み、丹下砦に入り、さらに善照寺砦に進んで兵の参集を待ち、陣容を整えた。そして前線からの諜報を待った。御敵今川義元は、このとき桶狭間にて四万五千の兵馬を止めて休息していた。
 時刻は19日の正午にさしかかっていた。義元は鷲津・丸根の陥落を聞いて機嫌をよくし、陣中で謡をうたっていた。また徳川家康は、この戦で先懸けとして大高の兵糧入れから鷲津・丸根の攻略まで散々に追い使われ、大高城でやっと休息を得ていた。

 信長公が善照寺に入ったのを知った佐々隼人正らは、「この上は、われらでいくさの好機をつくるべし」と語らい、三百あまりの人数で打って出てしまった。攻撃はいとも簡単に跳ね返されて佐々は首を挙げられ、配下の士も五十余騎が討死した。これを聞いた義元は「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」とさらに上機嫌になり、謡を続けた。

 信長公はさらに中島砦に進もうとした。しかし中島までは一面の深田の間を縫って狭い道がつながっているのみであり、敵からは無勢の様子が丸見えとなるため、家老たちは馬の轡をとって諌めた。それでも信長公は聞かず、振り切って中島砦へ移った。この時点でも人数は二千に満たなかったということである。信長公はさらに中島をも出ようとしたが、今度はひとまず押しとどめられた。

 ここに至って信長公は全軍に布達した。
「聞け、敵は宵に兵糧を使ってこのかた、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし、手足とも疲れ果てたるものどもである。くらべてこなたは新手である。小軍ナリトモ大敵ヲ怖ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ、と古の言葉にあるを知らずや。敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。而してもみ倒し、追い崩すべし。分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である。一心に励むべし」
 ここで、前田又左衛門利家・毛利十郎・木下雅楽助らがそれぞれに斬穫した首をもって参陣した。信長公はこれらも手勢に組み入れ、桶狭間の山際まで密行したA。するとにわかに天が曇り、強風が吹き付け、大地を揺るがす豪雨となった。この突然の嵐によって、沓掛の峠に立つふた抱えほどもある楠が東へ向け音をたてて倒れた。人々はこれぞ熱田明神の御力であろうとささやき合った。
 やがて空が晴れてきた。信長公は槍を天に突き出し、大音声で「すわ、かかれえっ」と最後の下知を下した。全軍は義元本陣めがけ黒い玉となって駆け出した。

 この様を目にした今川勢は、ひとたまりもなく崩れたった。弓も槍も鉄砲も打ち捨てられ、指物が散乱した。義元の塗輿までも置き去られた。未刻(午後2時頃)のことであった。
 この混乱の中にあって、義元は周囲を三百騎ばかりに囲まれて後退していた。そこを織田勢に捕捉され、数度にわたって攻撃を受けるうちに五十騎ほどにまで減ってしまった。
 信長公も馬を下り、旗本に混じってみずから槍をふるい、敵を突き伏せた。周りの者達も負けじと勇戦し、鎬を削り鍔を砕いて激戦を展開した。歴戦の馬廻・小姓衆にも手負いや死者が相次いだ。そのうちに服部小平太が義元に肉薄した。義元は佩刀を抜いて服部の膝を払い、これを凌いだが、その横合いから今度は毛利新介が突進してきた。義元も今度は防げず、毛利の槍に突き伏せられてついに首を預けた。毛利は先年武衛様が遭難された折、その弟君を救った者である。人々はその冥加があらわれてこのたびの手柄となったのだろうとのちに噂した。

 戦は掃討戦に移った。桶狭間は谷が入り組み、谷底には深田が作られている。まったくの難所であり、逃げまどう今川勢は田に踏み込んでは足をとられ、織田勢に追いつかれて首を挙げられた。信長公の元には首を得た者達が続々と実検におとずれた。信長公は実検は清洲にて行うと申し渡し、義元の首のみを見、もと来た道をたどって帰陣した。晴れやかな表情であった。

 これより先、信秀殿の死後すかさず今川方に寝返った鳴海城の山口親子は駿河に召し出され、切腹させられていた。この度義元は鳴海に四万の大軍を置きながら、わずか二千の信長公に討たれてしまったが、これも山口親子を殺害した因果というものであろう。
 一方今川方にも勇士がいた。駿河の士でかねて義元に目をかけられていた山田新右衛門という者は、義元討死と聞くや馬首を返して織田勢に突入し、戦死を遂げた。また二俣城主の松井五八郎は、その一党二百人とともに戦場に枕を並べて討死した。
 河内を占拠していた服部左京助は義元に呼応して大高の沿岸まで兵船を出し、熱田の町を焼き討ちしようとしたが、住民の反抗にあって数十人を討たれ成果なく河内へ引き返した。

 信長公は馬先に義元の首を下げて日付の変わらぬうちに清洲に帰着し、翌日になって首実検を行った。首数は三千余にのぼった。義元の同朋をつとめていた者が下方九郎右衛門に捕らえられ、引き出されてきた。同朋は義元をはじめ見知った首についてその姓名を書きつけてまわった。信長公はこの同朋に褒美を与え、僧を伴わせて義元の首を駿河に届けさせた。
 清洲から熱田へ向かう街道筋の南須賀には義元塚が築かれ、供養のため千部経が行われ大卒塔婆が立てられた。義元の佩いていた左文字の銘刀は信長公の愛用するところとなった。
 鳴海城には岡部五郎兵衛元信が篭っていたが、降伏して退去した。前後して大高城・沓懸城・池鯉鮒城・重原城も開城した。

 @現名古屋市熱田区 A従来、織田軍は善照寺から北に迂回し、桶狭間北方の太子ヶ根に出て眼下の谷間にいた今川軍を攻撃したと語られてきたが、最近では中島から東海道沿いに南東へ直進し、桶狭間南方の山に陣を取っていた今川軍を一挙に叩いたとする説が有力となっている。速力はこの頃の織田軍の最大の強みであり、信長はそれを見事に活かした。

 

25、信行誅殺  家康公岡崎の御城へ御引取りの事

 桶狭間の戦の後、徳川家康は岡崎城に入っていた。信長公は義元の死に乗じて三河に進攻し、梅が坪城@を攻めた。戦ははじめ激しい弓戦になり、のち城兵が打って出て激しい白兵戦となった。この戦で前野長兵衛が討死した。また平井久右衛門という者はその強弓を敵味方から賞賛され、信長公から褒美を与えられた。信長公はさらに伊保城・八草城へも押し寄せ、田畑薙ぎをおこなった。

 さて義元の死以前のことであるA。信長公の御舎弟勘十郎信行殿は竜泉寺に築城し、上郡岩倉の織田伊勢守信安と結び、信長公の直轄領である篠木三郷Bの押領をもくろんでいだ。
 そのような中、信行殿の家中に津々木蔵人という若衆がいた。信行殿の覚えめでたく、家中の面立った侍はみな津々木に付けられた。自然津々木は驕り、老臣の柴田勝家を軽んじるようになった。柴田はこれに憤慨して信長公の下へ奔り、信行殿が再度の謀反を企てている旨を密告した。

 信長公はこの日から病の体をよそおい、表へ一切出なくなった。信行殿は、御袋様や柴田から「御兄弟の間柄です。御見舞いに行かれませ」と勧められ、弘治3(1557)年11月2日、清洲へ見舞いに赴いた。そして清洲城北矢倉天主次の間において殺害されてしまった。この時の功績があって、柴田はのち信長公から越前国を与えられるまでに出頭したのであった。

 @現豊田市 A以降35段岩倉攻めまで話は桶狭間以前に戻る。御注意 B那古野北方、現春日井市。信行は以前からこの地を窺っていた。

 

26、天下見物  丹羽兵蔵御忠節の事

 永禄2(1559)年の頃、信長公は突如上洛を思いたち、随行八十名を伴って京へ上った。都を見物したのち奈良・堺へも足を伸ばすという行程で、京では公方の光源院義輝殿に拝謁した。随行の者達は、「此度の上洛、家の名誉ナリ」と、晴れがましい気持で各々装いを凝らしていた。

 清洲の那古野弥五郎家中の者で丹羽兵蔵という機転のきく者がいた。尾張からの使いとして信長公の後を追って上洛する途中、近江志那の渡しで人体尋常でない人物に率いられた三十人ばかりの一行と同船した。船中彼らは「貴殿、生まれはいずくぞ」と聞いてきた。丹羽が「三河の者にござる。尾張を通ってまいった」と答えると、一行はつっと視線を下に落とし、沈黙した。さらに「尾張では何かと面倒や気遣いが多うござった」というと、一人が「上総めは甲斐性無しよ」と言い捨てた。いかにも人目を忍ぶ風であった。丹羽は一行に不審を感じ、彼らの泊まる宿場宿場にみずからも宿を取り、土地の子供を手なずけて彼らの身元を尋ねさせた。一行は丹羽を三河の者とみて気を許したのか、使いの子供に対し、「我らは湯入りに来たのではないぞ。美濃から大事の命を受け、織田上総介の討手に上るのだわ」と口を割ってしまった。
 丹羽はこれを聞き、さらに詳細を知るべく夜間一行の中にまぎれて会話を盗み聞きした。「あとで公方様の許し状を貰って宿の者に下されれば、宿を襲うて鉄砲で討ちとっても不都合は生じまい」などと言っているのが聞こえた。

 討手の一行は夜のうちに京に到着し、二条蛸薬師のあたりに宿を取った。丹羽はその宿の門柱を削って目印とし、それから信長公の宿所を尋ねてまわった。ほどなく上京室町通りの裏辻の宿所にたどり着き、番の者に姓名を告げ、「火急の用あり。金森殿か蜂屋殿に取次ぎ候え」と申し出た。やがて両人が出てきた。丹羽は二人に対してこれまでの経緯を詳細に明かし、さらに京での宿を突き止めてきた旨を付け加えた。両人は丹羽の労をねぎらい、奥に入って談合するうち、夜が明けた。

 朝になり、金森長近は丹羽を伴って討手の宿所に赴いた。討手の美濃衆は金森と面識のある者達だった。金森は一行に対面すると「夕べ貴殿方御上洛のこと、あるじ上総介も存じてござるによって、このように挨拶にまかり越した次第でござる。ついては貴殿方も上総介へ返礼し候え」と申し述べた。「上総介存知」と聞き、一行は仰天した。

 翌日、美濃衆は小川表の管領屋敷に参上した。信長公も小川表見物と称して出てきて、彼らと対面した。信長公は彼らに大音声で呼びかけた。
「汝らは上総介の討手に上りたるとな。若輩の分限で我を狙うとはこれ蟷螂の斧と申すものよ。出来るものか。それともここで試して見るか」
頭の者たちは一様に窮してしまった。この珍事に対し、京童は大将にはあるまじき振舞いであるといったり、若若しき大将には似合いであるといったり、褒貶さまざまであった。

数日後、信長公は京を後にし、近江から八風峠を越えて尾張に帰った。

 

27、比良の大蛇  蛇がへの事

 珍事があった。佐々内蔵助成政の居城・比良城は東に南北に伸びる堤があり、城をはさんだ西にはあまが池といって大蛇の化生が棲むといわれる池があった。正月中旬のこと、福徳郷の住人又左衛門という者が雨の降る夕暮に堤のあたりを通りがかったところ、胴回りが一抱えほどもある黒い物体が堤上からあまが池のほうへ伸びているのを見た。人の足音を察してその物体は頭を上げた。見ると鹿のような顔にらんらんと光る目、チロチロとのぞく真紅の舌を持った蛇の化生であった。又左衛門は総毛立って、恐怖のあまり後ろも見ずに逃げ去った。

 この話を信長公が耳にした。信長公は件の又左衛門を召し寄せて直接に話を聞き、翌日になって「ならば池の水を掻き出し、蛇を追い出してくれよう」と言い出した。かくて比良周辺の各村から百姓が動員され、鋤・鍬・釣瓶を使って池の浚渫が開始された。作業は4時間ばかり続けられたが、池の水が七割ほどになったところでそれ以上水量が減らなくなった。すると信長公は業を煮やし、「ならば水中に入り、信長が直に蛇を見てやろう」といって脇差を口にくわえて池に入ってしまった。しばらくして池から上がり、「蛇など、おらぬ」と言い、つづいて家中で水練に達者な鵜左衛門という者にも池にもぐって調べるように命じた。鵜左衛門は言われた通りに潜ってみたが、やはり蛇の姿はかけらも見えなかった。信長公は納得して清洲に帰った。

 実はこの時、信長公にはある危機が訪れていた。この大蛇騒ぎの当時、比良衆には逆心の噂があり、このため佐々は騒ぎの間も病をいつわって御前に参上せずにいた。ところが信長公は、大蛇の不在を確かめたあと「比良の城は、小城なれどなかなかによき構えであると聞く。ひとつわが目で見てくれよう」と言い出した。比良衆はこれを信長公が佐々に切腹を命じにくるものと考え、惑乱した。そこで家老の井口太郎左衛門という者が一計を案じた。水上から城の外観を見せるといって信長公を船に誘い、警護が手薄になったところで船中にて小刀をもって刺し殺そうというものであった。しかし信長公は運が強かった。比良行きを突如取り止め、あまが池からまっすぐ清洲に帰ったのである。大将というものは万事に考えをめぐらし、油断なくふるまわなければならなかった。

 

28、峻厳  火起請御取り候事

 海東郡大屋という所に、織田造酒の被官で甚兵衛という庄屋がいた。隣村の一色には佐介という者がおり、たがいに顔見知りで親しかった。12月中旬のこと、甚兵衛が清洲へ貢納に赴いた留守を狙い、佐介が甚兵衛方に夜盗に押し入った。しかし女房が果敢に応戦し、もみ合った末に刀の鞘を取り上げた。甚兵衛はこの一件を公方へ訴え出たが、佐介の方からも反訴が出された。なお佐介は信長公の乳兄弟池田勝三郎恒興の被官であった。

 訴訟は三王社前にて火起請@を行う運びとなり、奉行衆・当事者から検使が出されたが、ここで悶着があった。佐介が火を取り落として敗れ、当然処断されるべきところを主の池田恒興が阻んだのである。

 そこへ鷹狩から帰る途中の信長公が通りがかった。信長公は当事者双方が弓・槍などものものしく構えているのを不審に思い、双方から事情を聞き、これまでの経緯を知った。すると信長公は気色をかえ、「どのくらいに鉄を焼いたのだ。もういちど焼いて見せてみよ」と言った。公事の者は言われたとおりもう一度鉄を焼き、「このようにして握らせました」と信長公へ示した。すると信長公は、「信長が火起請を行う。無事遂げれば佐介を成敗する。そのように心得よ」と言って焼けた鉄をがっしと握り、そのまま三歩を歩いて鉄を柵際に置いた。
「見たかあっ」信長公は怒号し、佐介を誅させた。

 @訴訟の当事者が焼けた鉄を握り、熱に耐えることで自己の正当性を主張する方法。

 

29、道三  土岐頼芸公の事

 道三斎藤山城利政の前身は山城国西岡の出自で松波庄五郎という者であった。あるとき発起して下国し、美濃で長井籐左衛門の扶持を受け、与力を付けられるまでに出頭した。その後非道にも主の首を取り、みずから長井新九郎と名乗った。これによって周辺の長井一族との間で争乱が起こったが、長井は大桑に在城していた守護土岐頼芸殿の擁護を受け、争いに勝利した。

 しかし長井の魔手はその土岐家にも及んだ。長井はまず土岐頼芸殿の子息のうち兄の次郎殿を婿とし、油断したところを毒殺した。次いで稲葉山を居城として山下に弟の八郎殿を住まわせ、鷹狩・乗馬その他一切を禁じて軟禁した。八郎殿はたまらず尾張へ亡命しようとしたが、露見して殺された。そして、極めつけに大桑の家老衆を篭絡し、土岐頼芸殿をも追放してしまった。頼芸殿は尾張にのがれ、以後信長公の父弾正忠信秀殿の庇護を受けた。

 恩ヲ蒙リテ恩ヲ知ラザルハ樹鳥枝ヲ枯スニ似タリ、という。斎藤氏を名乗った山城道三は微罪の者でも牛裂の刑に処し、また釜茹で際には火を罪人の親類縁者に焚かせるなど、まことに厳しい仕置を行った。

 

30、悲喜劇長良川  山城道三討死の事

 道三には長男新九郎義龍・次男孫四郎・三男喜平次の三人の子がおり、いずれも稲葉山城に住んでいた。
 さて概して人の棟梁というものは心が弛緩しがちなものである。道三も例外ではなく、次第に智慧の鏡が曇ってきた。義龍を愚人とみて弟二人を愛し、特に三男の喜平次の官を進めて一色右兵衛太輔と名乗らせたのである。当然ながら弟二人は奢り、義龍を軽んじた。義龍は心中に意を含みながら、天文24(1555)年10月、病と称して奥に引きこもった。

 22日になって、道三は山下の別邸に下りた。ここで義龍が動いた。
義龍は伯父の長井隼人正道利を弟二人のもとへ使者に遣わし、「義龍重病にして今はただ時を待つのみ。ついては、向後の事につき相談したき儀これあり。入来されたし」と申し送った。
 長井は謀を胸に秘め、二人の甥とともに義龍のもとへ参向した。対面の前に、次室で刀を外したのが策謀のたねであった。伯父が脱刀したのを見、甥の二人もその場に刀を置いて対面の席についた。そうして盃を重ねて酔わせたところを日根野備中弘就に襲わせたのである。日根野は自慢の大刀を打ち振り、難なく二人を殺害した。

 義龍は事の顛末をみずから道三に通達した。道三は仰天し、いそぎ兵を立てて町を焼き、火煙にまぎれて城下を退去した。そして長良川を越えて山県郡の大桑城に入り、息子と対峙した。
 その年はそのまま暮れた。が、雪解けとともに情勢は緊迫し、春になってついに両者は決戦を決意した。

 弘治2(1556)年4月18日、道三は鷺山の高所に登って陣を構えた。信長公も盟約によって出兵し、木曽川・飛騨川を越えて大良の東蔵坊に入った。なお滞陣中、寺内の溝を掘り下げる作事をしていたところ、そこから数多の銅銭が掘り起こされるという珍事があった。
 20日になって、義龍は軍勢を進発させた。道三も鷺山を降りて長良川まで進軍し、ここで両者が激突した。

 合戦は義龍勢の先手竹腰道塵の突撃で始まった。竹腰勢は密集隊形をとって長良川を押し渡り、道三の本陣へ切りかかった。激戦となったが、道三は巧みな指揮で竹腰勢を潰走させ、道塵の首をあげた。道三は床机に腰掛け、「哀れなことよ。いま少し生きながらえておれば、よき仕合せにも出会えたものを」とわずかに笑みを浮かべながらつぶやいた。竹腰勢の壊乱を見た義龍は、みずから旗本勢を率いて川を越え、陣形を固めた。この時、義龍勢の中から長屋甚右衛門という者がただ一騎前へ進み出て武者名乗りをあげ、道三勢に挑んだ。道三勢からは柴田角内という武者が出てこの挑戦に応じ、両軍の間で一騎打ちが始まった。勝負は柴田が長屋の首を挙げて決し、決した瞬間、両軍とも全軍に突撃を命じた。

 戦は混戦となった。無勢の道三勢はよく戦ったが、次第に兵も減り、ついに道三の前まで義龍勢が押し寄せてきた。道三旗本勢が崩れる中、寄せ手の長井忠左衛門が突進して道三に組み付いた。生け捕りにして義龍の前へ引き据えようとしたのである。ところが、もみ合っていたところへ小真木源太という侍が走り寄ってきて道三の脛を薙ぎ、押し伏せて首をかき切ってしまった。功を奪われた長井は憤激したが、ともかくも最初に組み付いた証拠にと道三の首から鼻を削いで懐に収め、その場を退いた。

 合戦は終わり、首実検が行われた。歴々の首が並べられているところへ、道三の首が運ばれてきた。すると義龍は戦勝者の表情を一変させ、「これはわが不徳より出でし罪である」とつぶやき、出家することを誓った。事実こののち義龍は得度し、法名を飯賀とした。飯賀とは唐の故事にある名で、義龍と同じく父親の首を切った人物の名であった。

 

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