信長公記

巻十四

天正九年

 この年の正月朔日、信長公は他国衆へ年頭の出仕を免じ、安土にいる馬廻衆のみ西門から東門へ通して目通りを与える旨を上意として伝えていた。このため諸人はいずれもそのつもりで用意していたが、生憎この日は夜中から巳刻まで雨が降ってしまい出仕は中止となった。
 また同日、信長公は安土城構えの北、松原町の西の地に湖岸へ面して馬場を築かせた。奉行には菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一の三名が任じられ、元日より普請に当たった。

 翌2日、安土の町人衆へ信長公から鷹狩で獲た雁・鶴多数が分け与えられた。町人衆はこれに感謝して佐々木宮@で祝いの能を催し、その席で獲物を頂戴したのだった。

 そして正月3日になり、武田勝頼が遠州高天神城の救援のため甲斐・信濃の軍勢を催して来るとの風説に備え、中将信忠殿が出馬して清洲城へ在陣した。また翌4日には横須賀城Aの城番として水野監物直盛・水野惣兵衛忠重および大野衆の三手も遣わされた。

 @現滋賀県安土町常楽寺内の沙々貴神社 A現静岡県大須賀町内

 

1、左義長  御爆竹の事

 正月8日、信長公から「馬廻は爆竹を用意し、頭巾・装束を結構にしつらえ、思い思いの出立ちにて15日に出仕すべし」との触れが出された@。また同時に江州衆へも安土での爆竹が命じられたが、その人数は以下のごとくであった。

 北方東一番
平野土佐・多賀新左衛門・後藤喜三郎・蒲生氏郷・京極高次・山崎片家・山岡景宗・小河孫一郎

 南方
山岡景佐・池田孫次郎・久徳左近・永田刑部少輔・青地千代寿・阿閉貞征・進藤山城守

 そして当日、爆竹の行事の場となる馬場へはまず小姓衆が先に立ち、次いで信長公が黒の南蛮笠に描き眉、赤色の礼服に唐錦の側次A・虎皮のむかばきBといった出立ちで入場した。騎乗する芦毛の馬は優れた駿馬で、その速きことは飛鳥のごとくであった。また信長公の後には関東より伺候した矢代勝介という馬術家が従っていたが、これも馬上姿であった。

 そしてその次には、

近衛前久殿・伊勢兵庫頭

 この両名が続き、次いで御連枝衆の番となった。御連枝衆は、

織田信雄殿・織田信包・織田信孝・織田源五郎長益・織田信澄

 以上であった。馬場にはこの他にも歴々の衆が集まり、いずれも美々しき出立ちで思い思いに頭巾・装束を飾り立てていた。そして早馬十騎・二十騎ずつに分かれて騎乗し、爆竹に火をつけて囃し立てながら馬を駆けさせていったのだった。
 その後彼らは町へも繰り出し、そののち馬を納めた。この盛事に見物人は群れをなして集まり、貴賎とも耳目を驚かせたものであった。

 そして左義長後の正月23日、信長公は明智光秀に命じて京都で馬揃を行うことを決し、「おのおの存分に華美を装い罷り出るべし」と朱印状をもって分国中に触れさせた。
 かくして2月19日、まず織田信雄殿と中将信忠殿が上洛して二条妙覚寺に宿を定めた。また翌20日には信長公も入京して本能寺に座を移した。

 そののちの2月23日のこと、切支丹国より黒人坊主が参上してきた。この黒人、年の頃は二十六・七と見え、その身の黒きこと牛のごとくであった。また壮健な身体を持ち、剛力は十人に優れていた。この黒坊主は伴天連が信長公を参礼した際に召し連れてきたものであったがC、信長公の御威光により、こうして古今見及びもせぬ珍物や稀有なる者達を細々と見る機会に恵まれることは、まことに有難きことであった。

 また翌2月24日には北国加賀より柴田勝家・柴田伊賀守勝豊・柴田三左衛門尉勝政が上洛し、珍奇の品々の数を尽くして進上して信長公へ御礼した。

 @左義長(さぎちょう、正月15日に行われる火祭りの行事)の用意のため A「そばつぎ」。袖のない陣羽織状の装束 B腰周りに着ける騎乗用の革製品 C日本巡察使ヴァリニャーニが日本に連れてきた黒人奴隷で、そのまま信長の元に留められて「弥介」と名付けられた。

 

2、馬揃  御馬揃への事

 御馬揃、それは2月28日に信長公が五畿内および隣国の大名・小名・御家人を召し寄せ、駿馬を集めて天下に馬揃を催し、帝の叡覧に入れるという式典であった。

 馬揃に際し、信長公は上京内裏の東の北から南八町に馬場をこしらえ、その中へ高さ八尺の柱を立てて毛氈で包み、周囲に柵を結いまわして席を作った。また禁中東門築地の外に行宮@を建てさせたが、これも仮殿でありながら金銀を散りばめた豪華なものであった。そこへ清涼殿より帝・雲客・卿相・殿上人が数をそろえ、衣香を四方に薫じさせて装いも華やかに来場したのだった。摂家・清華家の面々が一堂に会して帝の座所の四面を守護し、左右に作られた桟敷に居並ぶ豪華壮麗さは、まことに筆にも言葉にも尽くしがたく晴れやかなものであった。

 一方信長公は下京本能寺を辰の刻に出て室町通りを上り、一条を東に出て馬場へ入るという行路をとったが、その行列の内容は以下のようなものであった。

一番に丹羽長秀と摂津衆・若狭衆・西岡の革島氏、二番に蜂屋頼隆と河内衆・和泉衆・根来寺の内大ヶ塚衆・佐野衆。続いて

三番、明智光秀と大和・上山城衆
四番、村井作右衛門、根来・上山城衆

以上が進み、次いで御連枝衆の番となった。御連枝衆は、
中将信忠殿、馬乗り八十騎に美濃衆・尾張衆。北畠中将信雄殿、馬乗り三十騎に伊勢衆。織田信包、馬乗り十騎。織田信孝、馬乗り十騎。織田信澄、馬乗り十騎。その後には織田長益・織田又十郎・織田勘七郎・織田中根・織田竹千代・織田周防・織田孫十郎が続く。

その後に公家衆。人数は、
近衛前久殿・正親町中納言殿・烏丸中納言殿・日野中納言殿・高倉中納言殿、細川昭元殿・細川藤賢殿・伊勢兵庫頭殿・一色左京権大夫殿・小笠原長時。

次いで馬廻・御小姓衆が十五騎ずつ組で進み、

その後に越前衆、
柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門・不破光治・前田利家・金森長近・原長頼
以上が続いた。

次には弓衆百人、
これは先頭を平井久左衛門・中野又兵衛の両人が務め、二手に分かれて二列に進んだ。みな一様に打矢Aを腰に帯びていた。

次いで馬が牽かれてきた。馬は御厨別当の青地与右衛門指揮のもと、まず

左先頭 柄杓持ちのみちげ、及び草桶持ち・幟差し
一番 鬼葦毛
右先頭 柄杓持ちの今若、及び草桶持ち・幟差し

以上が進んできた。鬼葦毛の鞍重ねBは唐敷物、あふりCも同じく唐敷物で、雲形Dには紅の金襴を用いていた。次いで二番小鹿毛、三番大葦毛、四番遠江鹿毛、五番こひばり、六番河原毛と続いたが、これらの馬は奥州津軽に至るまでの日本中の大名・小名が、これぞという名馬を我も我もと数多進上してきた中から選りすぐられた馬であり、いずれも優れた駿馬であった。むろん馬具は皆具Eであり、きらびやかに仕立てられた様子は申しようもないものであった。また付き添う中間衆の出立ちは立烏帽子に黄色の水干、白袴、素足に草鞋といったものであった。

これら名馬たちに続き、七番目には、
武井夕庵、山姥の出立ちで現れる。このほか坊主衆の楠長諳・長雲・松井友閑が先に立って進んだ。

また八番目には、まず
曲禄F持ち四人、奉行は今若。曲禄は金地に雲と浪を描いたもの。

以上が進み、そしてその後に、

左 御先小姓、杖持ちの北若、長刀持ちのひしや、御小人五人、行縢持ちの小市若
信長公 御馬大黒に乗り、惣御小人二十七人を従える。
右 御先小姓、行縢持ちの小駒若、御小人六人、太刀持ちの糸若、長刀持ちのたいとう

以上が進んできた。行縢は金地に虎のまだら模様を刺繍した柄で、鞍重ね・手綱・腹帯・尾袋も同様の柄であった。また総房の鞦Gは紅の緒に瓔珞の飾りを付けたものであった。このほか御小人衆は赤の小袖に厚地の白肩衣・黒皮の袴に統一されていた。

 信長公の装束は描き眉に金紗の礼服といったものであった。馬揃にあたり信長公は京都・奈良・堺で珍奇の唐織物を求め、それぞれ一族衆の装束にせんと布達していたが、すると隣国からたちまち上級の唐綾・唐錦・唐縫物の数々が我劣らじと進上されてきた。その中でもこの金紗は昔唐土か天竺の地で天子・帝王の用いるものとして織られた品と見え、四方に織留Hがあって布の真中に人の形が丹念に織り付けてあるという上質品であった。天下が収まったのち内裏や院への御用に立てるため来朝したものであったが、まるでそのために織られたがごとく本朝の礼服に似合っていた。こうした上古の名物が拝見できるとは、まことに有難き御世であった。

 また頭巾は唐冠をもちいていた。冠の後ろの方には花を立てていたが、これは高砂大夫の出立ちであったか。それとも「梅花ヲ折リテ首ニ挿セバ、二月ノ雪衣ニ落ツ」の心であったか。

 一方肌の上に付けた小袖は紅梅に白檀、段々に桐唐草といった模様で、その上には袖口に縒金をもって覆輪Iをほどこした蜀江錦の小袖を着ていた。この蜀江錦はその昔、かの国より本朝へ渡ってきた三巻のうちの一巻で、細川忠興が京都で探し出して信長公へ進上してきたものであった。古今の名物がこうして参集する栄誉は申しようもないものであった。

 そして肩衣は紅緞子に桐唐草の柄で、袴も同様であった。腰には牡丹の造花を差していたが、これは禁裏より頂いたものということであった。また腰蓑には白熊を使っていた。さらに御太刀は熨斗付きで、脇差も鞘巻きの熨斗付きであった。腰には鞭を差し、ゆがけJは白革に桐の桐の紋を打ったものを付けていた。また沓は猩々緋で、沓先には唐錦を使用していた。

 まことに壮麗極まる出立ちであり、馬場入りの儀式は住吉明神の御影向Kもかくやと思わせるものであった。その様子に人々はそぞろに心惹かれて神気を感じたものであった。

 さらに参集していた隣国諸侯もここを晴れ舞台と心得て思い思いの頭巾を頭にし、出立ちにも我劣らじとあらゆる装飾を尽くしていた。彼らの服装は過半が紅梅・紅筋の下着を身に付け、上着には薄絵・唐織物・金襴・唐綾・狂紋の小袖を着るといったものであり、側次・袴も同様の柄で、おのおの腰蓑を帯びていた。また金幣、紅糸・縫物などを切裂Lにして付けている者もあった。馬具は押懸けM・鞦・手綱を上級の紅糸で総房に作っており、また金襴緞子で包んだ総房の上に金幣・紅糸を付けている鞦もあった。さらに足袋・草鞋にいたるまで全て五色の糸で作らせ、太刀も過半は熨斗付きであり、その美々しさは結構というも愚かなほどであった。ただ人数も数百人に上るものであったから、詳細はここでは一々記すことができない。

 馬揃は最初一組十五騎ずつで行う予定であったが、馬場が広かったため三組・四組ずつが一手となって行われることとなった。騎乗者たちは隙間なく入れ違いながら、他の馬に当たらぬよう柵内を右から左へ乗りまわして行進していった。馬揃はそうして辰刻から未刻まで続いたが、駿馬が一堂に集う様子には、記しがたい趣があった。

 信長公は所有する名馬を細々と乗りかえて見せていたが、その様子はまことに飛鳥のごとくであった。また関東より伺候していた矢代勝介も自馬に騎乗させていた。

 中将信忠殿は葦毛の馬に乗っていたが、これは優れた早馬であった。また騎乗する信忠殿の装束もすぐれて華やかなものであった。一方信雄殿は河原毛の馬、織田信孝は糟毛の馬に乗っていたが、この糟毛もまた目立って足の利く悍馬であった。馬場にはこの他にもいずれ劣らぬ名馬が続々と現れ、いずれを甲乙ともつけがたい観となった。そこへ騎乗者たちの衣装も華を添え、会場はいっそう興を催すばかりであった。

 行進が終わると、信長公は馬を早駆けさせて帝の叡覧に入れた。騎乗者はいずれも馬上の達者揃いで、その者たちが華麗なる出立ちで駆ける姿は、本朝はいうに及ばず異国にもこれほどの例はなかろうと思わせるほどの壮観であった。群集していた貴賎の者達はこのようにめでたき時代に生まれ合わせたことに感謝し、天下安泰・黎民釜戸閉ざさずNを実感した。そして生前の思い出として、この上古・末代に未聞の盛事をありがたく見物したのだった。

 そうして馬揃が続く中、信長公のもとへ十二人の勅使が下り「これほど面白き遊興を御覧になり、天子は御歓喜なされている」との御綸言をかたじけなくも伝えてきた。これを受けた信長公の栄誉は、計りがたいものであった。

 そののち信長公は晩に及んで馬を納め、宿所の本能寺に帰った。まことに千秋万歳というべき一日であった。

 その後3月5日になり、禁中からの要望によって再び馬揃が行われることとなった。この時は先の馬揃に出た馬の中から名馬五百余騎を選び、信長公の装束は黒の笠に礼服、黒道服の腰に太刀を帯び、腰蓑を付けるといったものであった。
 禁中からは帝をはじめ大宮人・女御・更衣といった人々が美々しき装いで参列し、馬揃の勇姿を二たび叡覧することとなった。そして今度もまたこの遊興に歓喜されたのだった。信長公の御威光をもって、このように一天の君にして万乗の主をかたじけなくも間近く拝み奉る機会に恵まれるとは、なんと有難き御世かな、と見物の群衆は手を合わせて感服したものだった。

 馬揃の後の3月6日、神保長住・佐々成政及び越中国衆が上国の途についた。これにより加賀・越前・越中三ヶ国の大名衆が馬揃のために在京することとなったが、ここで変事が起こった。敵方の河田豊前がこの隙に兵を催し、郷の刀を作ることで知られる松倉Oという地に籠り、さらに才略をもって越後より上杉景勝を大将に招いて一軍を形成したのである。そして3月9日に佐々成政が人数を入れ置いていた小出城Pを包囲したのだった。

 また加賀国白山の麓のふとうげQという地には柴田勝家が小規模な足懸りを築き、兵三百ほどを入れて近辺の知行地からの貢物を納めていたが、ここに対しても加賀一揆勢が手を合わせて蜂起した。一揆勢はふとうげへ攻めかかってこれを破り、砦に入れ置かれていた人数をことごとく討ち果たしてしまった。しかし加賀には国元の警固のために佐久間盛政が残し置かれており、一揆の報を受けた盛政はただちにふとうげへ攻め上り、一揆勢数多を斬り捨てて比類なき功名を挙げたのだった。

 3月9日、信長公は堀秀政に命じて和泉国内の知行方の検地を行わせることとし、秀政を現地へ派遣した。そして自らは翌10日に京を出て安土へと下ったのだった。

 その後3月12日になり、神保長住と越中国衆が安土へ参着した。このとき国衆から信長公へ馬九頭が進上され、また佐々成政からも鞍・鐙・轡・黒鎧が進上された。

 3月15日の朝、信長公は安土城下松原町の馬場で馬を責めた。このとき越中衆が顔をそろえて御礼に訪れたが、信長公はその者たちへかたじけなくも一々言葉をかけてやった。しかし上杉景勝が越中へ侵入して小出城を取り巻いたとの報がもたらされると、信長公はただちに「越前衆の不破・前田・原・金森・柴田勝家の人数は、先手として時日を移さず出陣すべし」と命じ、彼らに暇を出したのだった。軍勢はこののち夜を日に接いで行軍し、越中に入って着陣した。

 そして3月24日になり、佐々成政は神通川・六道寺川を越えて越中中郡Rのうちの中田という地へ入った。すると上方の軍勢が参着したと知った敵勢の上杉景勝・河田備前は同日卯刻に陣払いをはじめ、小出表から兵を引き上げていった。その退陣の火の手を三里ほど先に見た佐々勢はただちに常願寺川・小出川を越えて追撃にかかったが、すでに敵勢は全軍撤退を終えており戦果は挙がらなかった。しかしこれにより小出籠城の兵は運を開いたのだった。

 なお、信長公は先年S細川藤孝・忠興・昌興父子三人の忠節に報いて丹後国を与えたが、その代わりとして今回勝龍寺を返上させていた。このため3月25日、信長公は矢部家定・猪子兵介の両名を勝龍寺へ遣わし、細川知行分を検地した上で現地に居城すべき旨を命じた。

 @仮の宮 A手投げの矢 B鞍の上に敷く敷物 C馬の両脇にかける敷物 D織物等にある、雲をかたどった紋様 E馬具を全て装備した状態 F椅子の一種 G「しりがい」。馬にかける緒 H織物の端の部分 I服や道具のへりを金で覆うこと J手袋の一種 K神仏が一時姿を現すこと L幟・指物の一種 M馬にかける緒の総称 N「庶民はかまどを閉ざすことがない」の意で、繁栄を意味する O現富山県魚津市内 P現富山市内 Q現石川県小松市内 R越中のうち射水・婦負・上新川・中新川の四郡 S前年の1580年8月

 

3、徳川功名禄  高天神城干殺し歴々討死の事

 遠江国高天神城では籠城していた兵たちの過半が餓死に及んでいた。かろうじて生き残った兵は3月25日亥刻に柵木を破って討って出てきたが、徳川家康勢はこれを迎え撃って各所で戦闘し、敵兵数多を討ち取った。
 その首数は以下のごとくであった。

首数百三十八、鈴木喜三郎・鈴木越中守討ち取る。十五、水野国松勝成。十八、本多作左衛門重次。七、内藤三左衛門。六、菅沼次郎右衛門。五、三宅宗右衛門。二十一、本多彦次郎。七、戸田三郎左衛門。五、本多庄左衛門。四十二、酒井忠次。十六、石川長門守。百七十七、大須賀五郎左衛門康高。四十、石川伯耆守数正。十、松平上野守。二十二、本多平八郎忠勝。六、上村庄右衛門。六十四、大久保七郎右衛門忠世。四十一、榊原小平太康政。十九、鳥居彦右衛門元忠。十三、松平督。一、松平玄蕃允。一、久野三郎左衛門。一、牧野菅八郎。一、岩瀬清介。二、近藤平右衛門。

 総数六百八十八にのぼった。このうち惣頭の首は、

駿河先方衆
岡部丹波守・三浦右近・森川備前守・朶石和泉守・朝比奈弥六郎・進藤与兵衛・由比可兵衛・由比藤大夫・岡部帯刀・松尾若狭守・名郷源太・武藤刑部丞・六笠彦三郎・神応但馬守・安西平右衛門・安西八郎兵衛・三浦雅楽助

栗田氏の主立った者及び信濃衆
栗田刑部丞・栗田彦兵衛・同弟二人、勝俣主税助・櫛木庄左衛門・水嶋某・山上備後守・利根川雅楽助

大戸氏家老
大戸丹後守・浦野右衛門・江戸右馬丞

横田氏家老
土橋五郎兵衛尉・福嶋木目助

与田能登守家老
与田美濃守・与田木工左衛門・与田部兵衛・大子原・川三蔵・江戸力助

 以上であった。武田勝頼は徳川・織田の武威を恐れるあまり、高天神で甲斐・信濃・駿河三ヶ国の歴々衆が数をも知れず干殺しにされてゆくのを眼前にしながら後詰もせず、天下の面目を失った。

 この戦果は信長公の御威光あってのものではあったが、同時に家康殿@の武略の成果でもあった。

 家康殿がいまだ壮年にも至らぬ時期、三河国端に位置する土呂・佐崎・大浜・鷲塚Aの地は、海手に面した要害にして富貴繁栄の湊町であった。これらの地には大坂本願寺より代坊主が入れ置かれており、このため一向門徒は大いに繁盛し、国中の過半が門徒となる有様となっていた。
 この一向門徒たちに対し、家康殿は敢然と戦う意志を固めたのである。そして長い年月を経ながら休息も惜しみ、各所を転戦しつつ自身数度にわたり戦闘を行い、数知れぬ功名を挙げていったのであった。その間一度も不覚を取ることなく、ついには見事本意を遂げて三河一国の平定に成功したのである。そこに至るまでの辛労と功名の数々は、もはや挙げて数えることもできぬほどであった。

 その後家康殿は遠州三方ヶ原において武田信玄へ立ち向かい合戦し、さらには武田勝頼とも長篠で戦い、いずれも一方ならぬ功名を挙げた。まったくもって武徳両道の達者というほかなかった。

 その後3月28日になり、菅屋長頼が能登国七尾城代として現地へ派遣された。

 そののちの4月10日のこと、信長公が小姓五・六人を伴って竹生島B参詣に出かけることになった。経路は長浜の羽柴秀吉居城まで馬に乗り、そこから湖上五里を渡船して参詣するというもので、水陸合わせて片道十五里の道程であった。
 往復すれば三十里にもなる道であったが、信長公は意外にもその距離を一日で戻ってきてしまった。まことに稀代の出来事であり、余人をしのぐ気力と体力に諸人は感じ入ったものであったが、ここで不都合なことが起きた。

 遠路のことであるから今日は長浜へ逗留されるに違いなし、と誰しもが思っていたところへ突然信長公が帰着したため、城内にいるべきはずの女房衆はあるいは二の丸まで遊山に出、あるいは桑実寺まで薬師参りに出かけてしまっていたのである。このため城内は大いに混乱し、目も当てられぬ慌てぶりとなってしまった。
 このさまを目にした信長公は、「女房どもを縛り付けて即刻差し出すべし」と桑実寺へ使いを出した。これを受けた寺では「何とぞ御慈悲をもって助け候え」と長老が詫言を申し上げたが、信長公の怒りはやまず、その長老をも同時に成敗してしまったのだった。

 そのような出来事があったのちの4月13日、信長公は長谷川秀一・野々村正成の両名へ過分な加増を行った。かたじけなくも面目の至りであった。

 4月16日になり、若狭の逸見駿河が病死した。その所領は八千石あったが、信長公はこのうち新知として与えていた武藤上野・粟屋右京亮遺領の三千石を武田孫八郎元明へ与えた。残るは逸見本知分の五千石であったが、信長公はここで丹羽長秀が幼少の頃より召し使っていた溝口竹という者を抜擢し、この者へ逸見駿河遺領五千石を一職進退Cに任せたのであった。信長公はそれだけでなく溝口を国目付に任じ、若狭に在国して国内の状況を知らせるべき旨をかたじけなくも朱印状をもって命じた。面目これに過ぎたるものはなかった。
 これにより4月19日、武田元明・溝口金右衛門秀勝の両名が岐阜へ御礼にのぼった。

@原文「家康公」 A現岡崎市・碧南市 B琵琶湖上の島 C一元的支配権をさす

 

4、必罰  和泉巻尾寺破滅の事

 この時期、堀秀政は信長公の命により和泉国諸領の指出@等を改めていた。その改めは槇尾寺Aの寺領にも及んだが、寺側では悪僧どもが検地による所領の没収を恐れ、山下の郷村を抱えて改めを拒否してきた。その経緯を耳にした信長公は、「詫言を申すでもなく、逆にわが上意に背くとは曲事である。即刻攻め破って一々首を切り、焼き払うべし」と命を下した。

 この槇尾山施福寺は高山脈々とそびえる山地の中、木々が深く生い茂る険阻の地にあった。山を上れば右手に十町あまりの滝があり、滝水は涛々と流れ落ちてうねりを上げており、一帯は滝鳴り岩砕ける天然の節所となっていた。
 寺側ははじめこの地形に拠って守りを固めようとした。しかし堀秀政の軍勢によって山下を囲まれると、寺僧たちは守りがたきを悟って退去を決意し、縁を頼りに資財雑具を避難させはじめたのだった。

 槇尾寺の本尊は西国三十三所の四番目の巡礼観音であり、霊験あらたかな大伽藍を有して富貴繁盛を極めた高野山下の大寺院であった。むかし空海上人が幼少の折、資師相承の契B浅からぬ岩淵権枢僧正の手によって手習いを受け、一字を十字・千字にも悟り、十二歳のとき岩淵権枢僧正を戒師として出家を果たしたのもこの地であった。
 その後空海上人は無上の道心を発し、国々の霊場を廻って行を修めた。中でも阿波の大滝峰で五穀を断って求聞持の秘法を行い、結願の暁に明星が飛来して上人の口に入ってからは、八万聖教Cを心の内に悟ったのであった。

 しかしそのような観世音の力も濁世末代の今となっては尽き果て、寺は信長公の威光の前に虎狼・夜盗の住み処となる定めとなってしまった。もはや嘆くとも叶わぬことであった。

 かくして4月20日夜、寺の老若七、八百人は武装して織田勢に備えつつ、おのおの観音堂に参じて御本尊との別れを惜しんでいった。離散を悲しんで一度に叫ぶ声は諸伽藍に響きわたり雷鳴のごとくであった。
 そののち彼らは足取りも弱々と歩き出し、涙と共に寺をあとにした。そして所縁を頼って散り散りに去っていったのだった。その哀れさはもはや目も当てられぬものであった。

 思えば承和2年D乙卯3月21日に弘法太師が御年六十二で入定されて以来、七百四十七年目のことであった。月こそ多かれ同じ21日に槇尾寺が退去したことは、高野山の破滅さえも思わせるものであった。

 その同日の4月21日、信長公は安土で相撲を催していた。取組はまず大塚新八が勝ち、褒美として知行百石を賜った。また二番にはたいとうがよき相撲を取り、三番には永田刑部少輔家中のうめと言う者が面白き取組を見せ、いずれも信長公より重ねて褒辞を受けた。かたじけなき次第であった。
 また4月25日には溝口秀勝が高麗鷹六連を進上してきた。近来見かけぬ珍種であり、信長公はいたく感じ入って秘蔵自愛した。

 その後5月10日になり、織田信澄・蜂屋頼隆・堀秀政・松井友閑・丹羽長秀が和泉国槇尾寺へ入り、坊舎を検分した上でよき建物は没収し、また少々を壊して持ち去った。そして残る堂塔伽藍・寺庵僧坊および経巻は、堀秀政の検使のもと一宇も残さず焼き払われたのであった。

 また5月24日には越中松倉の地に籠っていた河田豊前が病死した。ひとたび信長公の憎悪を受けた者は、自然と果てゆく定めであるかのようであった。

 6月5日には相模の北条氏政より馬三頭が進上されてきた。このときの取次は滝川一益が務めた。

 そののちの6月11日、信長公は尋問の仔細あって越中国の寺崎民部左衛門・喜六郎父子を召し寄せ、佐和山で丹羽長秀に身柄を預けて拘禁した。

 @土地台帳。これを改めて検地を行う。 A現大阪府和泉市内、槇尾山施福寺 B仏法を伝授する契約 C八万 (多数) の仏典の意 D西暦835年

 

5、誅殺  能登国年寄共生害の事

 6月27日、信長公は菅屋長頼に命じ、能登七尾城において悪逆を重ねていた遊佐美作兄弟・伊丹孫三郎の三名を能登国内で殺害させた。するとその仔細を知った温井備前守と弟の三宅備前守も、次はわが身と心得て逐電してしまったのだった。

 

6、鳥取攻め  因幡国取鳥城取詰めの事

 6月25日、羽柴秀吉は中国へと出陣した。ともに出勢する兵は二万余騎であった。軍勢は備前・美作を越え、但馬口より因幡へと乱入していった。

 吉川式部少輔経家が籠る鳥取の城は、四方に天嶮をかかえる堅固な山城であった。その鳥取を中心とする因幡国は北より西を漫々たる大海に臨み、鳥取と西方海側との真中二十五町ほどの間には西から東南の町際をかすめて大河@が流れており、川は舟渡しとなっていた。また鳥取から二十町ほど離れた川際には繋ぎの出城Aがあり、さらに海口にも連絡のための城が置かれていた。この二ヶ所の要害は、芸州よりの援軍を引き入れる通路を確保するため設けられたものであった。

 鳥取から七、八町を隔てた東には城と並ぶほどの高山があった。秀吉はこの山に登って地勢を一望したのち、そこを総大将の陣場と定めてすぐさま鳥取城の攻囲にかかったのだった。

 秀吉は鳥取と二ヶ所の出城との間を遮断した上で周囲に鹿垣を結いまわして城を取り籠め、かつ五、六町・七、八町ごとに近々と諸陣を配していった。また堀を作っては柵・塀を設け、築地を高々と盛り、二重三重に隙間なく櫓を築き上げ、部将達の陣に固めさせた。さらに敵の援軍に備え後陣にも堀を設けて柵・塀を置き、また馬を乗りまわしても遠矢に当たらぬよう周囲二里の間に高々と築地を盛り、その中に陣屋を町屋が並ぶがごとくに築いていったのだった。そして夜は陣前に篝火を焚いて白昼のごとくに照らし、廻番を配して城方を厳重に監視させた。また海上にも警固船を置いて浦々を焼き払い、海上の通行を自由にして丹後・但馬方面より船で兵粮を届けさせたのだった。

 まさに鳥取表の情勢が決着するまでは幾年であろうと在陣する体であった。さらに秀吉は芸州より援軍が到来した際には二万余の軍勢の中から数千の弓・鉄砲衆を選りすぐって最初に矢戦を行わせ、その後で攻めかかって存分に手を砕かせ、敵勢をことごとく討ち果たして一挙に中国を平定することまで企図していた。

 7月6日になり、越中木舟城主の石黒左近と家老の石黒与右衛門・伊藤次右衛門・水巻采女佐が一門三十騎余りを引き連れて上国してきた。信長公は丹羽長秀に対し一行を佐和山で殺害するよう命を下していたのだがB、石黒らは長浜まで出たところでいち早く危険を察知し、そのまま動こうとしなかった。長秀はやむなく長浜まで下って石黒のいる町屋を囲み、屋内で歴々十七人を殺害したが、丹羽方にも主立った者二・三人が討死する損害が出てしまった。

 その後7月11日には越前より柴田勝家が黄鷹六連を進上してきた。また同時に切石数百も進上された。

 7月15日、信長公は安土城天主と惣見寺に数多の提灯をともし、新道や江の内の舟上で馬廻に松明をかかげさせて山上を照らし出させた。城は山下に輝いて湖面に映り、その美しさは言葉にも尽くしがたいもので、見物人は群れをなして集まった。

 そののちの7月17日、信長公は中将信忠殿へ秘蔵の雲雀毛の馬を与えた。隠れなき駿馬と評判の馬であり、信長公は寺田善右衛門を召し寄せて馬を信忠殿のもとへ運ばせた。

 それと日を同じくする17日、信長公は佐和山に拘禁していた越中の寺崎民部左衛門・喜六郎父子の殺害を命じたC。子息の喜六郎はいまだ若年の十七歳、眉目美しく整った若者であり、その最期の辞もまことに哀れであった。
 父子はまず今生の挨拶をしたのち、「親が先に立つが本義なり」として父の民部左衛門が最初に腹を切り、若党が介錯を行った。続く子の喜六郎も、父の腹から流れる血を手に受けて舐めたのち、「我も御供申す」といって尋常に腹を切って果てたのだった。見事な最期というほかなく、哀れさは目も当てられなかった。

 その後7月20日になり、出羽大宝寺の武藤氏より音物として鷹と馬が進上されてきた。これに対し、信長公は翌日返礼として小袖・巻物等を遣わした。

 また21日には秋田の下国氏より音物があった。使者の取次は神藤右衛門がつとめ、音物の内容は、

黄鷹  五連
生白鳥 三匹

 以上であった。なお鷹の中には巣鷹も一連入っており、信長公の自愛・秘蔵するところとなった。音物に対し信長公は返書に添えて礼品を贈ったが、その品は以下のごとくであった。

小袖  十着 紋付き
緞子  十巻
黄金二十枚 これは使者の小野木という者に下されるとのことであった。

 そののちの7月25日には中将信忠殿が安土へ上ってきた。このとき信長公は森蘭丸を使者として三人の子息へ脇差を与えることとし、信忠殿には作正宗、北畠中将信雄殿には作北野藤四郎、三七信孝殿には作しのぎ藤四郎を下された。いずれも名物であり、過分の贈物であった。

 @千代川に注ぐ袋川 A連絡用の砦。二ヶ所は雁金砦と丸山城(いずれも現鳥取市内)を指すか BC動向の怪しい越中国衆に対し粛清で臨んだ。

 

7、猛る日々  八月朔日御馬揃への事

 8月1日、五畿内隣国の諸侯が安土に参集して馬揃が行われた。この日の信長公は白笠・白装の上に赤い礼服といった装束で、虎皮のむかばきを付けて葦毛の馬にまたがっていた。また近衛前久殿や一門衆の面々もそれぞれ白帷子の上に生絹や辻が花染めの帷子を重ね、袴は金襴緞子・縫物・蒔絵で彩り、思い思いの笠を頭にいずれも盛装で馬を進めていた。見物人の数もおびただしかったとのことであった。

 6日には会津の大名蘆名盛隆から音信があり、奥州に隠れなき稀有の名馬として愛相駁の馬が進上されてきた。

 そののちの8月12日、中将信忠殿は尾張・美濃の諸侍を岐阜へ召し寄せた。そして長良川の河原に馬場を築き、その前後に高々と築地を盛り、左右には高さ八尺の柵を結いまわし、その中で毎日調馬を行わせたのだった。

 8月13日になり、因幡国鳥取表へ芸州から毛利・吉川・小早川の軍勢が来援するとの風説が流れた。
 これに対し信長公は、前線に在国する諸将に対し「命が下り次第、夜を日に継ぎ参陣すべく用意すべし。くれぐれも油断あるべからず」と指示を下した。そして丹後で細川藤孝父子三名、丹波で明智光秀、摂津で池田恒興を大将に任じ、まず高山右近・中川清秀・安部二右衛門・塩河吉大夫らへ出陣を命じたのだった。

 

 さらには隣国衆・馬廻に対しても、言うに及ばず出陣の支度をして待機するよう命が下された。信長公からは「今度毛利勢が後詰に出づれば、信長もみずから出馬して東国の人数をもって西国勢にまみえ、一戦を遂げてことごとく討ち果たし、この日の本を一挙に平定する所存である」との上意が伝えられており、諸将もそのつもりで覚悟を固めていた。これにより細川・明智の両人が出陣の準備として大船に兵粮を積み、細川船には松井甚介、明智船には某人を乗船させて送り出し、因幡国の袋川の内に停泊させることとなった。

 翌8月14日、信長公は秘蔵の名馬三頭を羽柴秀吉へ贈った。使者は高山右近が務め、信長公より「鳥取表の状勢をつぶさに見及んで報告せよ」との命を帯びつつ鳥取表まで馬を牽いて参陣していった。秀吉は身に余る光栄に恐縮して拝領したとのことであった。

 

8、魔王再び  高野聖御成敗の事

 8月17日、信長公は諸方より高野聖を尋ね出し、数百人を捕らえてことごとく誅殺した。

 高野山では以前より摂津伊丹の荒木村重残党を抱え置いており、信長公はそのうち二名を差し出すよう朱印状をもって要求していた。ところが高野山側では要求に対し返答しなかったばかりか、あまつさえ使者として遣わされた十名余の者達をことごとく殺害してしまったのだった。勘気を蒙った者をかくまい反抗したため、今回このような事態に至ったものであった。

 なお同時期、信長公は能登国四郡を前田利家に与えた。かたじけなき次第であった。

 

9、城割り  能登・越中城々破却の事

 能登・越中では菅屋長頼奉行のもと城々の破却が完了し@、命を終えた菅屋は無事安土に帰城した。

 @主城以外の城を破却する政策

 

10、天正伊乱  伊賀国三介殿仰付けらるるの事

 9月3日、三介信雄殿は伊賀国へ向け出馬した。その先手衆となったのは、

甲賀口
甲賀衆・滝川一益・蒲生氏郷・丹羽長秀・京極高次・多賀新左衛門・山崎片家・阿閉貞征・阿閉貞大・三介信雄殿

信楽口
堀秀政・永田刑部少輔・進藤山城守・池田孫次郎・山岡景宗・青地千代寿・山岡景佐・不破直光・丸岡民部少輔・青木玄蕃允・多羅尾彦一

加太口
滝川三郎兵衛を大将として伊勢衆および織田信包

大和口
筒井順慶と大和衆

 以上であった。軍勢はこのように諸口より伊賀国内へと乱入し、まず柘植の福地定成を赦免して人質を差し出させた上、不破直光を当城に入れ置いて警固を行わせた。

 続いて河合の田屋某という者が、名品として知られる山桜の真壺ときんこうの壺を献上して降伏してきた。これを受けた信雄殿はきんこうの壺は返却し、山桜の真壺のみを受け取って滝川一益に与えたのだった。

 その後9月6日になると信楽口・甲賀口の織田勢は合流して一手となり、敵城の壬生野城@・佐野具嶺下ろしAへ差し向かった。信雄殿はこれらの敵に対し御代河原Bに陣を据え、滝川一益・丹羽長秀・堀秀政・江州衆・若州衆がそれに連なって陣を布いていった。

 そのような中の9月8日、信長公は賀藤与十郎・万見仙千代C・猪子兵介・安西某の四人を召し出し、それぞれに知行を与えた。かたじけなき次第であった。
 また同日、信長公は以下の者達に小袖を与えた。

狩野永徳・子息右京助、木村次郎左衛門、木村源五、岡部又右衛門・その子息、遊左衛門・その子息、竹尾源七、松村某、後藤平四郎、刑部、新七、奈良大工

 以上のように諸職人の頭達へ小袖数多を下されたのだった。いずれの者にとってもかたじけなき次第といえた。

 そののちの9月10日、伊賀では諸勢が佐野具嶺下ろしを攻囲し、国内諸寺の伽藍や一之宮の社を初めとするあらゆる建物群を放火していった。これに対し佐野具からも足軽を出して応戦してきたが、機を見計って馬を入れてきた滝川一益・堀秀政勢によって崩され、主立った侍十余を討ち取られる結果となってしまった。敵を追い崩した織田勢はその日は各々の陣所へ引き返し、翌11日になって佐野具を攻め破ろうとしたが、敵は夜中のうちに退却したあとであった。

 その後織田勢は信雄殿を佐野具へ置き、さらに奥郡へと攻め入ろうとしたが、これまでの間に諸口の軍兵が入り混じってしまっていたため、ここで一旦軍を再編した上でそれぞれ受持ちの郡を定めて戦を行うこととなった。織田勢はそのようにして各郡を平定してゆき、国内に散らばる諸城を破却させていったのだった。
 なお各軍の陣容と受持ちは以下のごとくであった。

阿加郡
信雄殿の受持ちにより平定

山田郡
織田信包が平定

名張郡
丹羽長秀・筒井順慶・蒲生氏郷・多賀新左衛門・京極高次・若州衆

 この軍勢が討ち取った首
小波多父子兄弟三人・東田原の高畠四郎兄弟二人・西田原城主・吉原城主吉原次郎

阿山郡
滝川一益・堀秀政・永田刑部少輔・阿閉貞征・不破直光・山岡景隆・池田孫次郎・多羅尾彦一・青木玄蕃允・青地千代寿・甲賀衆

 この軍勢が討ち取った首
河合城主田屋・岡本、国府の高屋父子三人・糟屋蔵人、壬生野城主、荒木の竹野屋左近、木輿城を攻め干しの上撫斬り、上服部党・下服部党
 この他数多を斬り捨てた。

 以上であった。この他にも筒井順慶は大和国境の春日山辺へ逃れていた伊賀衆を山々へ分け入って尋ね出し、大将分の者七十五名をはじめ数をも知れず斬り捨てた。

 こうして伊賀一国は平定された。伊賀四郡のうち三郡は信雄殿の知行となり、残る一郡は織田信包の領するところとなった。

 なお同時期、安土では因幡国鳥取より高山右近が帰還し、鳥取城攻囲の堅固さを絵図をもってつぶさに報告してきた。伊賀表の情勢とあわせ、信長公の喜びはひとしおであった。

 その後10月5日になり、信長公は稲葉刑部・高橋虎松・祝弥三郎らに知行を与えた。
 また10月7日には秘蔵の白の鷹を初めて鳥屋から出し、朝から愛知川辺まで鷹狩を行った。その帰途は桑実寺方面から新町通りを視察しつつ伴天連のもとへ立ち寄り、ここで普請について指示を行った。

 @現三重県伊賀町内 A現上野市内 B現伊賀町内 C万見仙千代は1578年没。その遺子を指すか、または誤記か 

 

11、伊賀下向  伊賀国信長御発向の事

 10月9日、信長公は中将信忠殿と織田信澄を同道させ、伊賀国の検分に向かった。そしてその日は飯道寺@の山に上り、そこから国内の様子を一望したのち同地に宿泊した。

 翌10日には一宮に入ったが、信長公は一時も休息することなく一宮の上にある国見山という高山に登り、山上から伊賀国内の様子を検分することに時を使ったのだった。

 この一宮では信長公の座所となる御殿が滝川一益の手によって結構に作り上げられ、また信忠殿をはじめとする諸勢の逗留所も余すところなく建造されていた。座所には珍物をそろえた食膳が並び、この上もない饗応ぶりであった。
 一方、信雄殿・堀秀政・丹羽長秀らの諸将もこれに負けじと信長公の逗留先となる座所・御殿には綺羅を飾り、普請・食膳の用意に労力を注ぎ込んだ。路次すがら一献を捧げるべし、と諸将が謁見にあらわれ、信長公を崇敬しつつ畏怖するさまは、筆にも言葉にも表しがたいものがあった。

 翌11日は雨が降ったため同地に滞在し、12日になって信雄殿および丹羽長秀・筒井順慶が陣所を構える奥郡の小波多Aという地へ家老衆十名余りを伴い見舞いに訪れた。そして要所々々の要害を固めるよう指示を下したのち、翌13日に伊賀一宮から安土へと帰城したのだった。

 その後17日になり、信長公は長光寺山で鷹狩を行った。一方伊賀では国内の制圧が完了し、諸卒が帰陣を終えていた。

 10月20日、信長公は南北二つの通りの間、新町・鳥打Bの区画にまたがる伴天連屋敷を建てるよう指示を下しC、小姓衆・馬廻へ命じて泥沼を埋めさせ、町屋敷を築かせる普請を行った。

@現滋賀県水口町内 A現三重県名張市内 B安土城下 Cセミナリヨの建造を指すか

 

12、鳥取渇殺し  因幡国取鳥果口の事

 因幡国鳥取では、一郡の男女ことごとくが城中へ逃げ入って籠城を続けていた。しかし百姓をはじめとする下々の者たちには長陣の準備がなかったため、城内はまたたくまに飢餓に瀕した。

 城側でははじめ五日に一度、三日に一度と鐘を鳴らし、それを合図に雑兵たちが塀際まで出てきて草木の葉を刈って食糧としていた。次いで籠城も中ほどになると稲株を上々の食物としたが、やがてはそれも尽き、牛馬をも喰らいはじめた。しかし飢餓は進み、弱い者は霜露に打たれながら際限もなく餓死していったのだった。

 餓鬼のごとく痩せ衰えた男女は柵際へ取り付き、「ここから出し候え、助け候え」と嘆き叫んで哀願した。その様子は目も当てられぬ哀れさであった。しかもそうした者を鉄砲をもって打ち倒すと、まだ息のあるその者のまわりへ人々が群れ集まり、刃物を手に節々を切り離って肉を取ってゆくという惨状まで繰り広げられた。とりわけ身体の中でも頭には滋養があると見え、死者の首をあちらこちらで奪い合い逃げまどう姿も見られた。まことに人間の生命ほど強靭かつ惨めなものはなかった。

 しかしながら、そのような中にあってこそ「義ニ依リテ命ヲ失フ」行いが輝くものといえた。城中からは降伏の申し出があり、その内容は吉川経家・森下道与・奈佐日本介の三将の首と引き換えに城中の者たちの助命を乞うといったものだったのである。

 この申し出を聞いた羽柴秀吉が信長公の意向を伺ったところ、信長公からは別段の異議なしとの返答が返ってきた。そこで秀吉は同条件での降伏を認める旨を城内へ返事した。すると城内では時日を移さず三大将が腹を切り、その首が秀吉のもとへ運ばれてきたのだった。

 そして10月25日になり、鳥取に籠城していた男女は解放された。攻城の者達はあまりの不憫さに彼らへ食物をふるまったが、過半は食物を食いくだす力もなく頓死してしまう有様であった。その姿はまさに餓鬼のごとく痩せ衰え、この上ない哀れさであった。

 かくして鳥取城は落ちた。秀吉は城中の普請と清掃を指示したのち、城代として宮部継潤を入れ置いた。

 

13、攻防相睨  伯耆国南条表発向の事

 伯耆国では南条勘兵衛元続・小鴨左衛門尉元清の兄弟が織田方として居城を構えていたが、10月26日、その南条表へ吉川勢が来襲して両者を攻囲したとの急報がとどいた。

 これに対し、羽柴秀吉は「眼前に攻殺させ、市中の口難を浴びるは無念」として後詰に立つことを決め、東西両軍肉迫して一戦を遂げるべく準備を進めた。そして同日26日に先手を進発させた上、28日になってみずからも出陣したのだった。

 因幡・伯耆の国境には山中鹿之介の弟@で織田方の亀井新十郎茲矩の居城があり、秀吉はここまで参陣してきた。その先伯耆までは山間渓谷が続いて一方ならぬ節所となっていたが、秀吉はすぐさま南条表へ軍勢を展開させていった。

 伯耆では羽衣石Aという城を織田方の南条元続が固め、同じく弟の元清が岩倉Bという地に居城を構えていた。両名とも織田方への忠節を明らかにしていたところへ吉川元春が来襲し、両城へ差し向かって三十町ほど隔てた馬の山Cという場所に布陣した、というのが今回の戦況であった。

 そのような中の10月29日、安土では佐々成政が当歳・二歳馬をはじめとする黒部産の馬十九頭を越中より引きのぼらせて進上してきた。また11月1日には関東より下野国皆川Cの長沼山城守が、これも名馬三頭を進上してきた。なお根来寺の智積院玄宥は長沼山城守の伯父に当たり、今回長沼の使者に同道して安土を訪れたため、堀秀政がその取次に当たることとなった。

 長沼に対し、信長公は返書と音物を遣わした。その内容は、

 縮羅  百反
 紅    五十斤
 虎皮  五枚

以上であった。また使者をつとめた関口石見という人にも黄金一枚を与えたのだった。

 一方伯耆では羽柴秀吉が羽衣石城近くに七ヶ日間在陣し、その間国中に軍兵を走らせて兵粮を取り集めていた。そして蜂須賀小六・木下平大夫を押さえの将に任じて馬の山に差し向かわせ、羽衣石・岩倉の両城に連なって段々に軍勢を配置し、それぞれに兵粮を・弾薬を十分に備えさせていった。そうして来春にも作戦を開始する旨を申し合わせた上で、みずからは11月8日に播州姫路へと帰陣したのだった。この秀吉勢の行動の前に、吉川元春はやむなく軍を退かざるを得なかった。

@亀井氏・山中氏には親族関係があったとみられるが、亀井茲矩と山中鹿之介(鹿介)の具体的な続柄は不詳。 A現鳥取県東郷町内 B現倉吉市内 C原文「蜷川」。長沼山城守は下野国長沼城主皆川広照の別称であるので、蜷川は「皆川」を指すと思われる

 

14、淡路平定  淡路嶋申付けらるるの事

 11月17日、羽柴秀吉・池田元助はそれぞれ軍勢を率いて淡路島に上陸し@、岩屋城へと攻め寄った。すると島衆は降伏を決断して城を池田元助に明け渡し、ここに淡路全島は別条なく平定されたのであった。

 かくして11月20日、羽柴秀吉は姫路へ帰陣し、池田元助も同時に軍勢を納めた。淡路の領主はこの時点では定められずに置かれたA。

 そののちの11月24日、犬山の御坊殿が安土に入り、信長公へ初の御礼を果たした。
先年武田信玄との間に和議が結ばれようとしていた折、武田氏から信長公の末子を養子に受けたいとの申し出があり、この御坊殿が甲斐へ下っていた。が、結局和談は成らずに両者は決裂し、御坊殿も甲斐より送り返されてきたB。そこで信長公はこのたび御坊殿を犬山の城主としたのであった。

 御坊殿との対面に当たり、信長公は

 一、袖    一、御腰物
 一、御鷹   一、御馬
 一、御持鑓

その他様々を取りそろえて御坊殿へ与え、また伴衆にもそれぞれ品物を下されたのだった。

@安宅清康らを攻撃 Aのち仙石秀久が知行 B御坊(元服して織田勝長)は美濃岩村の遠山氏の養子となっていたが、武田氏の手により岩村が落ちると甲斐に送られて武田氏の養子(人質)となっていた。それがこの年になって送還されてきたもの。

 

15、運命の年へ  悪党御成敗の事

 江州永原の近在にある野路の郷に、東善寺延念という富裕の僧があった。

 12月5日のこと、近郷の蜂屋@に住む八という者が、この延念に美人局をくわだてた。若い女を仕立てて雨の日の暮れどきに寺へ駆け込ませ、しばしの雨宿りを求めさせたのである。延念は困惑したが、女はかまわず庭の端で火を焚いて当たっていた。すると後から男共が押し入り、「坊主、若き女を止め置くとは出家の身で不届きぞ。目こぼしが欲しくば、礼銭を出し候え」と難儀を吹きかけ、「はや、覚悟すべし」と詰め寄ったのだった。

 この事件に対し、代官の野々村正成・長谷川秀一の両名は八らを捕縛して糾問にかけた。そしてその結果、犯人たちは女・男ともに成敗にかけられたのであった。まったくの自滅であり、悲惨なる末路というほかなかった。

 このころ、年末には隣国遠国の大名・小名・御一門衆がこぞって安土へ馳せ集まり、信長公へ歳末の祝いとして金銀・唐物・御服・御紋織付など絢爛きわまる品々を献上するのが常となっていた。かれらは我劣らじと門前に市をなして群れ集まり、進上される重宝は数をも知れなかった。信長公へ寄せられる礼賛と崇敬はひとかたならず、その尊さは本朝に並ぶものもないほどであった。信長公の威光は、もはや計りしれないものとなっていた。

 またこの年の末には羽柴秀吉が播州より上国し、暮れの御祝儀として信長公へ小袖二百枚を進上したほか、女房衆にも多数の品物を用意してきた。その贈物の数のおびただしさは古今に聞き及ばぬほどであり、上下とも耳目を驚かせたものであった。

 この秀吉に対し、信長公は「因幡国鳥取のこと、名城・大敵をものともせず身命をかけて一国を平定せし武功、前代未聞の栄誉である」として感状を下した。秀吉の面目のほどはいうまでもなかった。12月22日、秀吉は大いに満足した信長公より褒美として名物の茶道具十二種を拝領し、播磨へと帰国していった。

 @現滋賀県栗東町蜂屋

 

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