信長公記

巻十三

天正八年

 この年、正月朔日は終日にわたり雪であった。信長公は諸将が近年来摂津表に在番して粉骨の働きをしていることを考慮し、旧年中に触れを出して年頭の礼を免じていたため、正月の出仕はなかった。

 

1、三木城陥落  播州三木城落居の事

 正月6日、播磨三木表では羽柴秀吉が別所彦進友之@の籠る宮の上の構えを乗っ取り、攻囲の陣をさらに縮めることに成功した。別所友之は一戦に及ぶことなく三木城本丸へ入り、別所長治と合流したA。

 さらに11日、宮の上から周囲を見渡した秀吉は、別所山城吉親Bの居城である鷹の尾城の山下へ軍勢を寄せさせた。
 支え難いと見た吉親は、これも本丸へ入った。するとそれに付け入った羽柴勢の諸卒も本丸へ攻め込んだのだった。これに対し本丸内から心ある侍たちが防戦に出てきたため、秀吉も後陣をつぎつぎに投入して攻撃を続けた。そして攻防の中で本丸に火が放たれ、辺りを焼き出した。

 そのような攻防の後の15日、秀吉の与力となっていた別所孫右衛門重宗が城内から小森与三左衛門という者を呼び出し、別所長治・吉親・友之の三名へ書状を届けさせた。その内容は、「摂津の荒木、丹波の波多野が果てしようになりては末世までの嘲弄、口惜しきこと限りなし。このうえは尋常に腹を切ってしかるべし」というものであった。

 これに対し、長治らは小森を使者として懇望の旨を伝えてきた。それは「われら三名は腹を切るゆえ、その他の諸卒は助命されたし」という嘆願であり、書状にいわく、

 切腹の儀、われらとしては一昨年来敵対して圧迫されている身であるゆえ、謹んで断り申し上げる心底でおり申した。しかし内輪の面々が不慮に考えを変えたため、是非に及ばぬこととなった次第。
 しかれば、ここに至ってわれらに忠節を尽くした者達まで討ち果たされることは誠に不本意の題目ゆえ、もし御憐憫をもってこの者達を助け置くならば、われら三名は腹を切るべしと相定め申した。このこと相違なきように披露されたし。恐々謹言。

   正月十五日             別所彦進友之
    浅野弥兵衛殿           別所山城吉親
    孫右衛門殿            別所小三郎長治

というものであった。書状の内容を披露された秀吉は大いに感嘆し、諸士を助ける旨を返答した。そして城中へ樽酒二・三樽を送り届けさせたのだった。

 城内の別所長治も、交渉が成功したことに満足した。そして妻子・兄弟と家老衆を呼び集め、正月17日には腹を切る旨を妻と子供に申し聞かせたうえ、互いに盃をとりかわして今生の暇乞いをしたのであった。その哀れさは、語るも愚かであった。

 その後、長治は別所吉親のもとへ17日申刻に切腹を行う旨を申し伝えた。すると吉親は「腹を切れば、首は織田方に取られて大路を運ばれ、安土へ進上されるに違いなし。左様になっては都鄙の口難を浴びることは必定、無念極まるゆえ、我は城内に火をかけて焼け死に骸骨を隠してくれる」といって家に火を放ったが、それを見て集まってきた諸士によって殺害されてしまった。

 そして、17日申の刻となった。この日長治はまず三歳のみどり子を膝の上に置き、涙をおして刺し殺した。そしてその次には妻を引き寄せ、赤子と同じ枕に並べて害したのだった。別所友之も同様にして妻を刺し殺したが、屍が算を乱して横たわる有様は、まことに目も当てられぬものであった。

 その後兄弟は互いに手を取り合って広縁に出、切腹の座に着いて諸士を呼び出した。そして「此度の籠城において、兵粮尽きて牛馬を食しながらも虎口を固め、見事籠城を遂げしこと、前代未聞の働きであった。その礼はいくら申しても申し足りぬ。我らはここで相果てることとなったが、それで諸士らが助かるのならば、身の悦びこれに過ぎたるものはない」と申し伝えたのち、別所小三郎長治は腹を切って果てたのだった。

 長治の介錯は、三宅肥前入道が務めた。介錯を終えた三宅は広縁を見渡し、「この中には殿の厚恩にあずかった者も多かろうに、御供をせんと申す者は一人もおらぬ。それがしは年寄の家に生まれながら出頭できず、繰り言は身に余るほどあるが、それでも御供申し上げる。三宅肥前入道が働きを見よや」と言い、腹を十文字に切って内臓を取り出して死んだ。

 長治の次には別所友之が腹を切った。友之は普段より召し使っていた者たちを呼び寄せ、かれらに太刀・刀・脇差・衣装などを形見として与えたのち、兄長治が使った脇差をもって見事に切腹を遂げたのだった。長治は年二十六、弟友之は二十五C。誠に惜しむべしであった。

 ここで稀代の名誉があった。別所吉親の妻は畠山昭高の娘であったが、自害の覚悟を固めた彼女は男子二人・女子一人を左右に並べ、気丈にも一人一人を刺し殺した上でみずからも喉首を切り、母子枕を並べて死亡したのだった。前代未聞の働きであったが、その哀れさも申し様のないものであった。

 その後、城中の者たちは助命されて城を出てきた。その中で小姓が一人、短冊を持って出てきた。見れば辞世の歌であった。

 小三郎長治
いまはただうらみもなしや諸人の命にかはる我が身と思へば

 小三郎女房の歌
もろともにはつる身こそはうれしけれをくれ先だつならひなる世に

 彦進友之
命をもおしまざりけり梓弓すゑの世までも名の残れとて

 彦進女房
たのめこし後の世までに翅をもならぶる鳥のちぎりなりけり

 山城女房
後の世の道もまよはじ思ひ子をつれて出でぬる行すゑの空

 三宅肥前入道
君なくばうき身の命何かせん残りて甲斐のある世なりとも

以上のごとく哀れを誘う歌が並び、聞く者は上下とも愁嘆に暮れたものであった。

 その後、長治ら三名の首は安土の信長公へ進上された。敵する者をことごとく鎮めた信長公の威光は、計り知れないものとなった。また一身の覚悟をもってこのように大敵を滅ぼした羽柴秀吉も、その武勇といい調略といい弓矢の面目これに過ぎたるものはなかった。

 2月21日になり、信長公は上洛して妙覚寺に入った。そして24日に白の御鷹を連れて一乗寺・修学寺・松が崎山Dまで鷹野に出、数多の獲物を得た。その後26日には京での座所を本能寺に据えるとの旨を発し、現地で村井貞勝に普請を申し付けた。

 2月27日、信長公は山崎に入り、この地で織田信澄・塩河伯耆・丹羽長秀の三名に向け「兵庫花隈表へ出兵し、花隈城に向けてしかるべき地を選んで要害を築き、池田恒興父子三人を入れ置いた上で帰陣すべし」との命を発した。翌28日は終日の雨となったためそのまま山崎に逗留したが、そこへ根来寺の岩室坊がやってきて信長公へ御礼を言上した。これに対し信長公は馬と道服を与え、岩室坊はかたじけなき思いにあずかりつつ帰っていった。

 2月29日・30日の両日、信長公は白の御鷹を据えて山崎の西山で狩りを行った。そして翌3月1日になって郡山へ移ったが、途中路次の天神馬場・大田でも鷹を放ったのだった。
 一方この頃、禁中から大坂へは講和の勅使が遣わされていた。勅使は近衛前久殿・勧修寺晴豊殿・庭田重保殿で、信長公から目付として松井友閑・佐久間信盛も添えられていたE。
 なお郡山の鷹野では賀藤彦左衛門佐より信長公へ目毛の馬が献上された。

 その後信長公は3月3日に伊丹有岡城へ座を移し、かつて荒木村重の居城であった同城を検分してまわった。信長公はそこからさらに兵庫表まで検分の足を伸ばそうとしたが、織田信澄ら三名に命じた付城の普請が早くも完了し、三名とも花隈を引きとったとの報が届いたため、そのまま伊丹にとどまった。そして7日になって伊丹を出、道中北山で鷹を放ちつつ山崎へ戻り、翌8日に帰洛して妙覚寺へ入ったのだった。

 3月9日、北条氏政より鷹十三足が進上されてきた。その中には、

鴻取 鶴取 真那鶴取 乱取

と名付けられた鷹も入っていた。また同時に馬五匹も進上された。進上は洛中本能寺で行われ、鷹居の者が据木に繋いで信長公へ進上した。このとき申次を務めたのは滝川一益であった。

 翌3月10日、今度は氏政の使者が到来して信長公へ御礼を行った。進物の太刀および進物目録の折紙は佐久間信盛が披露したが、その内容は以下のごとくであった。

進物
白鳥   二十
熨斗   一箱
蚫    三百
煎海鼠  一箱
江川酒  三種二荷
以上

 なお氏政の使者は笠原越前守、舎弟氏照Fの使者は間宮若狭守であり、さらに下使として原和泉守が同行していた。一方公儀方の執奏は滝川一益が務め、下使に牧庵が添えられていた。

 関東衆の口上の趣旨は、応対を務めていた御使衆の武井夕庵・滝川一益・佐久間信盛の三使との間で縁組を行い、関八州を織田分国として参らせたいというものであった。そして口上ののち笠原越前が太刀・折紙を進上し、間宮若狭守が氏照の御礼を言上した。次いで笠原・間宮の両名が自らの御礼を申し上げ、最後に原和泉が御礼を言上した。

 そうして各自が退出したのち、信長公は関東衆へ「使いの儀、幸いのことであった。滝川左近案内にて京都を懇ろに見物いたし、そののち安土へ下られよ」との言葉を伝えた。そして自身はその日のうちに京を出、途中大津の松が崎近辺で白の御鷹を放ったのち、晩になって舟で矢橋に上陸して安土へ帰城したのだった。その後信長公は13日になって金銀百枚を使者の笠原・間宮両人に贈り、「京都にて田舎への土産を揃えられよ」と申し伝えさせた。

 3月15日、信長公は奥の島山Gで鷹野を行うべく舟に乗り、長命寺善林坊Hに座を移した。そして19日までの五日間をこの地で鷹狩をして過ごしたのであった。
 ところで信長公は数ある鷹の中でも白の御鷹をことのほか可愛がっており、その羽振りの優れようは各所に評判として聞こえていた。このため鷹野の場には方々より群衆が集まり、鷹野を見物していた。また乱取という鷹もすぐれた飛翔ぶりを見せた。信長公はそうして獲物数多を得たのち、19日に安土へ帰城したのであった。

 @別所長治弟 A三木城では秀吉による兵糧攻めが続けられており、餓死数千とまでいわれる状況に陥っていた。俗に「三木の干殺し」と呼ばれる B長治叔父 C享年については長治二十三歳とする説もあり D現京都市左京区内 E講和は翌閏3月に成立(同巻第三段に詳述) F原文「氏直」。巻十二第七段と同様、氏照の誤りと思われる GH現滋賀県近江八幡市内

 

2、売僧不許  無辺の事

 このころ、無辺と名乗る廻国の客僧が石馬寺@栄螺坊の在所にしばし滞在していた。この無辺は常々より奇特不思議の力を持つと評判の者であり、それを聞いた下々の者達は心付けを捧げて噂の秘法を授かろうと、日夜宿所に集まっては門前に立ち暮らすありさまとなっていた。

 すると3月20日になり、その騒ぎを耳にした信長公から「その者の風体を見たい」との希望が出された。このため栄螺坊が無辺を連れて安土城へ参上することとなった。無辺来るとの知らせを受けた信長公は城の御厩に出、ここに通された無辺の姿をまじまじと見つめたが、なにやら思案の体であった。

 やがて信長公が口を開き、「客僧の生国は何処ぞ」と問うた。これに対し無辺は「無辺」とだけ答えた。さらに重ねて信長公が「唐人か、天竺人か」と尋ねても、ただ「修行者」と答えるのみであった。しかし業を煮やした信長公が「人間の身で生地が三国の外にあるとは不審である。さては化物の類であろう。ならば火炙りにしてくれるゆえ、火の用意をいたせ」と周囲に命じると、無辺はその一言に恐怖して「出羽の羽黒の者」と口を開いたのだった。

 それを聞いた信長公は、「ただの売僧ではないか。そもそも日頃より生まれた場所もなければ住む所もないと申し、仏法を広めるためといって人からの進物を一切受け取らず、宿の者に与える汝の態度は一見無欲のようではある。が、その宿へ幾度も立ち帰っているようでは到底無欲などとは言いがたい。とは申せ、そんな汝でも奇特の力を備えていると聞き及んでいる。ならばここでその力を見せてみよ」とせまった。

 しかし、無辺は一向に奇特の力を見せられなかった。その様子を見た信長公は「惣別不思議の力を持つ人というものは顔形から眼色まで衆に優れたものであるのに、客僧はその姿山賤にも劣る。その身で女子供を騙して国土の財を費えさせしこと、曲事の極みである。この上は無辺に恥をかかせるべし」と断じ、俗家並みに蓄えていた無辺の髪を所々はさみで切り落とさせた上で裸にして縄をかけ、その姿で町中を通らせて城下から追放したのだった。

 ところが、その後になって信長公が無辺の行状をよくよく聞いてみたところ、子の生まれぬ女や病気を患った女に対し、丑時の秘法を授けるといっては「臍くらえ」というまがいごとを行っていたことがわかった。それを知った信長公は「先々のためである。捕らえよ」と命じ、分国中の国主へ触れを出して無辺を追捕させたのだった。これにより無辺はまもなくして捕らえられ、信長公のもとへ引き出されてきた。信長公は無辺を糾問した上で、これを誅殺した。

 さらに信長公は、栄螺坊に対しても「なにゆえ城近くにあのような無頼者を留め置いた」と問いつめた。これに対し栄螺坊は「石馬寺御堂の雨漏りを直したきゆえ、勧進集めのために暫時置いておりました」と言上した。すると信長公は栄螺坊に銀子三十枚を与えたのだった。

 この無辺騒ぎと時期を同じくする3月21日、信長公は相模の北条氏政への返礼として虎皮二十枚、縮羅三百反・三箱、猩々皮十五を笠原越前守に持たせた。また北条氏照に対しても間宮若狭守に段子二箱を持たせて送り出したのだった。

 その後の3月25日、信長公は奥の嶋山へ泊りがけで狩りに出、そのまま28日まで鷹野を行った。そして狩りの間世話になったとして永田刑部少輔へ葦毛の馬を、池田孫次郎に青毛の馬をそれぞれ与えたのち、安土へ帰城した。

 月が変わって閏3月1日、信長公は伊丹城の城番を三十日交替で行うことを命じ、矢部家定を現地に遣わした。
 その翌日の閏3月2日、花隈城から敵勢が討って出て池田恒興の砦へ攻撃を仕掛けてきた。これに対し池田勢も足軽を出して応戦したが、その中で池田元助・輝政の兄弟は齢十五、六の若年ゆえに敵勢へ無理に突入し、火花を散らして戦った。そうして激闘するうちに父恒興も駆け付けてきたため、兄弟は父の旗の下で屈強の者五、六人を討ち取る功名を挙げたのだった。比類なき働きであった。

@現滋賀県五個荘町内

 

3、終息の始まり  大坂退散御請け誓紙の事

 これより前@、禁中では本願寺の大坂退去の件につき、かたじけなくも大坂へ勅使を遣わして顕如門跡や北の方・年寄衆の意向を質していた。「権門Aを恐れず、心中思うところを遺憾なく申し出ずるべし」との勅使の問いかけに対し、下間丹後・平井越後・矢木駿河・井上出雲・藤井藤左衛門尉ら本願寺年寄衆は評定を開いたが、窮した末か、時勢を見極めた故か、今度ばかりは和睦に意見が定まった。ここで勅諚を拒否しては憚り多いだけでなく、必ず信長公の出馬を招いて荒木・波多野・別所のごとくに根を絶ち葉を枯らされてしまうであろうと判断してのことであった。

 そして顕如門跡も、勅使を受けて「大坂表の端城五十一ヶ所を数年来支えて苦労を重ねた上下の者達には賞禄こそ与えられぬが、せめての返恩に命だけは助けるべし」と決意を固めた。これにより、来たる7月20日までに本願寺が大坂を退去することがついに決定されたのだった。

 決断を下した本願寺は、勅使の近衛前久殿・勧修寺晴豊殿・庭田重保殿および松井友閑・佐久間信盛らへ勅諚を受け入れる旨を伝えた。そして検使同席のもと誓紙を差し出すことを認めたのだった。

 本願寺応諾の報はすぐさま安土にも伝えられ、信長公は現地へ青山虎を検使として派遣することを命じた。青山は閏3月6日に安土を出、その日のうちに天王寺に到着した。

 かくして閏3月7日、本願寺から誓紙の筆本が提出された。誓紙に名を連ねたのは、

下間筑後の子少進法橋  信長公より答礼として黄金十五枚 
下間刑部卿法橋     同十五枚
下間按察法橋       同十五枚
北の方           同二十枚
添状 顕如門跡      同三十枚

 以上であった。

 @前月の3月1日 A権勢盛んな家。織田家を指すか

 

4、北伐行  能登・加賀両国、柴田一篇に申付くる事

 閏3月9日、柴田勝家は加賀へ侵入して添川・手取川を越え、宮の腰@に陣を取って諸方へ放火した。このとき一揆勢は野々市Aという地に川を楯にして立て籠っていたが、勝家はこれを追い立てて敵勢数多を斬り捨てた。そののち柴田勢は数百艘の舟に兵粮を積み、分捕りなど働きながら次第に奥地へと焼き討ちを進めてゆき、ついには越中へ入ったのだった。

 さらに柴田勢は安養寺越えB近辺に軍勢を進め、安養寺の坂を右手に南下して白山Cの麓に至り、そこから能登境の谷々に至るまでをことごとく放火してまわった。そして光徳寺代坊主の籠っていた木越寺を攻め破って一揆勢数多を斬り捨て、そののち能登国末盛Dの土肥但馬守の城へ攻めかけてこれを落とし、ここでも歴々の侍多くを討ち取った。そののち柴田勢は末盛に在陣したが、その間にも長九郎左衛門連竜が柴田勢に呼応して飯山Eに陣を取り、諸方に放火を行っていた。

 そのような中の閏3月10日、宇都宮貞林Fが立川三左衛門を使者として信長公へ馬を進上してきた。この馬はよく肥えて筋骨逞しく、さらに乗り具合も比類なき良さであったため、信長公の秘蔵するところとなった。信長公はその返礼として、

縮羅  三十反
豹虎皮 十枚
金襴  二十反
御服  一重
黄金  三枚

 以上の品を立川三左衛門に渡し下した。立川はかたじけない思いにあずかりつつ罷り下っていった。

 その後閏3月16日より信長公は菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一の三名を奉行に任じ、安土城の南、新道の北に位置する入江を埋め立てさせた。そして周辺の田畑も埋めさせ、その地を屋敷地として伴天連に与えた。またこれと同じくして信長公は蒲生賢秀家中の布施藤九郎を馬廻に加え、これも入江を埋めて屋敷を与えたのだった。かたじけなき次第であった。
 さらに信長公は馬廻・小姓衆に普請を命じて鳥打の江を埋めさせ、ここに町を築いた。また西北の湖口には舟入りの水路を幾所も設けさせた。そして各自の持ち場ごとに木竹を植えさせた上で入江を埋めさせ、そこに各々の屋敷を与えたのだった。このとき屋敷を与えられたのは、

稲葉刑部・高山右近・日根野六郎左衛門・日根野弥次右衛門・日根野半左衛門・日根野勘右衛門・日根野五右衛門・水野監物・中西権兵衛・余呉久兵衛・平松助十郎・野々村主水・河尻秀隆

 以上の人数であった。このように普請が進められる中、信長公自身は弓衆を勢子に日々鷹狩を行っていた。

 4月1日、伊丹城の番を務めていた矢部家定にかわって村井作右衛門が新たに城番の任についた。
 4月11日、信長公が長光寺山で鷹狩を行うべく外出したところ、途中百々橋Gで神保長住の使者に出会い馬二頭を進上された。

 そののちの4月24日、信長公は今度は伊庭山Hへ鷹野に出かけたのだが、ここで変事が起こった。このとき山中では丹羽右近の手の者が普請を行っていたのだが、この者たちが誤って山上から信長公の道先へ大石を落としてしまったのである。信長公はこの事故がさまざまな不行届きの末に起こったことであるという報告を聞き、普請を行っていた者たちの年寄衆を召し寄せ、うち一人を手討ちに処した。

 @現石川県金沢市内 A現石川県野々市町 B現石川県鶴来町 C石川・岐阜県境の山 D現石川県押水町内 E現石川県羽咋市内 F下野の宇都宮氏だが、いずれの人物かは不明 G安土城山下(惣見寺側)の橋 H現滋賀県能登川町内

 

5、征西路  阿賀の寺内申付くるの事

 このとき、播磨国宍粟郡には宇野民部が立て籠っていた。
 4月24日、羽柴秀吉はその民部の伯父と親が守る構に攻め寄せ、これを奪取して敵首二百五十余を討ち取ることに成功した。羽柴勢はそこからさらに宇野下野の居城へも攻めかけ、これも攻め破って数多を斬り捨てた。しかし残る宇野民部の構は高山節所の地にあったため、秀吉は麓を焼き払った上で周辺の要所三ヶ所に砦を設け、そこに軍勢を入れて強固な攻囲態勢を固めた。そして勢いに乗じて阿賀@方面へと攻め寄せたのだった。

 すると、阿賀で芸州毛利氏へ人質を出していた者達は戦わずして舟に乗り退散してしまった。このため秀吉は一戦に及ぶことなく阿賀の寺内に入ることに成功し、そこから一帯の情勢をを見極めた。そして御堂に軍勢を入れ置き、さらに百姓を呼び出して知行指出A等の提出を命じ、その上で姫路へ軍勢を納めたのだった。

 ところで、この姫路という地は西国への往来の拠点であった。さらには敵方の宇野民部の在地へも近く、いずれの点においても絶好の地といえた。このため秀吉は今後姫路に在城することと定め、城の普請を行うことを命じた。そしてその上で弟の木下小一郎秀長に軍勢を与え、但馬国へと侵入させたのだった。但馬へ入った木下秀長は滞りなく国内を掌握し、小田垣氏の跡地を居城に定めた。そして組下諸将の配置に気を配りつつ諸方に兵を入れ置いていった。

 これにより播磨・但馬の両国は平定された。ひとえに信長公の威光のたまものであったが、とはいえ羽柴秀吉が一身をもって両国の平定に成功したことは後代の面目であり、過ぎたるもののない名誉といえた。

 一方、北国では柴田勝家が加賀で長期の在陣を続けていた。このため信長公は北国の情勢に心許無さを感じ、木下助左衛門・魚住隼人の両名を使者として柴田方へ国許の様子を報告するよう命を飛ばした。すると使者はまもなくして復命し、信長公へ能登・加賀一円の平定が成った次第をつぶさに言上したのだった。報告を受けた信長公は大いに安堵し、遠路の使者を務めて辛労を重ねた両名への褒美として御服に帷を添えて与えた。両名はかたじけなく頂戴した。また今回の使いは上意を受けての特使であったため、北国でも木下・魚住の両名にそれぞれ馬が贈られていた。

 5月3日、中将信忠殿・北畠信雄殿が安土へ参上してきた。両人に対し信長公は安土へ自分の座所を普請することを命じた。その後5月5日には城内で相撲が開催され、御一門衆がこぞってこれを見物した。

 そののちの5月7日、以前より進めさせていた城下の堀・舟入・道路の普請がいずれも完了した。このため信長公は長らく普請を監督した丹羽長秀・織田信澄の辛苦に報いて両名に暇を与え、かたじけなくも「在所へ帰り、諸事を申し付けたのちに戻るがよし」との上意を伝えたのだった。これにより信澄は高島へ、長秀は佐和山へと帰っていった。

 5月17日、信長公は国中の相撲取りを集めて安土でふたたび相撲を開催した。見物には馬廻衆が加わった。
 取組では日野の長光・正林・あら鹿がそれぞれ面白き勝負を勝ち、信長公は褒美として長光に銀子五枚を与えた。また布施藤九郎の与力で布施五介という者もよき相撲を取ったとして召し出され、知行百石を与えられた。さらにこの日の相撲ではあら鹿・吉五・正林がとくに名勝負を勝ったため、三名には褒美としてそれぞれ米五十石ずつが下された。三名はかたじけなく拝領した。

 @現姫路市飾磨区周辺 A知行地の明細

 

6、顕如退く  本門跡大坂退出の事

 本願寺の門跡顕如は、4月9日に寺を新門跡の教如へ渡して大坂を退去する旨を届け出ていた。

 これに対し、大坂へ運ばれる兵粮で長年にわたり妻子を養っていた雑賀・淡路島の門徒たちは、この地を離れてはたちまち窮乏してしまうと不安を募らせた。そして新門跡の教如を立てようと考え、まず顕如門跡と北の方を退去させた上でさらに抵抗を続けるべきと新門跡へ口々に意見を申したてた。教如新門跡もこれに同調し、彼らに同意の旨を返答していた。

 そのような中で顕如門跡と北の方および下間・平井・矢木等の年寄衆は、勅使へ届出をした上で雑賀から迎えの舟を乞い、4月9日それに乗船して大坂の地をあとにしたのだった。

 

7、八幡宮威光  八幡御造営の事

 この時期、石清水八幡宮は武田佐吉・林高兵衛・長坂助一の三名が造営の奉行に任ぜられ、前年の12月16日を斧初めとして改修が進められていた。

 造営はまず内陣・外陣の間に渡されていた木樋の修復から始まった。この木樋は所々朽ち果て、雨漏りして荒廃しきってしまっており、このため今度の造営では末代の為になるようにと配慮が施され、金属を使用して鋳物作りとされることとなった。これにより長さ六間の樋が鋳物五本でもって作り替えられたのだった。

 その後3月になって下遷宮@が行われ、社頭・宝殿の屋根葺きと築地・楼門の建造が進められていった。新造の社内は金で飾り立てられて神前に光を放ち、神明納受の社壇には七宝がちりばめられ、荘厳にして堂々たる威風を放っていた。そして5月26日になって新造なった社殿への上遷宮Aが行われたのだった。神ハ人ノ敬ヒニ依ツテ威ヲ増ス、とは誠にこのことを指すものかと思われた。これにより信長公の武運はますます長久となり、御家門の繁栄にも繋がったはずであった。

 新造後の八幡宮には参詣の者たちが貴賎を問わず群れ集まり、みな尊びつつ拝礼していった。なお造営はこの年の8月中旬まで行われ、期間9ヶ月をもって完了とあいなった。

 @A下遷宮は本殿から仮の社殿へ御神体を移すこと、上遷宮は逆に本殿へ御神体を戻すこと

 

8、西進  因幡・伯耆両国に至つて羽柴発向の事

 一方播磨では、宍粟郡に籠る宇野民部が6月5日夜中になって郡内を退去する動きを見せた。これに対し羽柴勢から木下平太輔・蜂須賀小六が出て追撃をしかけたところ、敵勢からも心ある侍たちが返し合わせて防戦してきた。このため各所で攻防が繰り広げられ、羽柴勢は敵方の歴々数十人を討ち取る戦果を収めたのだった。

 そして翌日の6日、羽柴勢はその勢いをもって因幡・伯耆の国境付近まで攻め入り、諸所に火の手を上げていった。しかし東国の軍勢来たると聞いても国境の城主たちには立ち向かう手立てもなく、縁を頼りにつぎつぎと降伏を申し出るばかりであった。人質を出して参礼するとの城主たちの申し出を聞いた信長公は大いに喜び、羽柴秀吉の功績の数々に感じ入ったものだった。

 6月13日、相撲取りの円浄寺源七が不届きを働き、信長公の勘気をこうむって放逐された。
 その後6月24日にはふたたび国中より相撲取りが召し寄せられ、安土で相撲が開催された。この日の興行は払暁から夜半まであり、夜は提灯をつけて行われた。相撲は麻生三五が六番までを取り勝ち、また蒲生氏郷家中の小一という者が、良き相撲を取って信長公より褒辞をたまわった。さらに大野弥五郎もたびたび良き相撲を取ったため、このたび信長公に召し抱えられることとなった。まことに面目の次第であった。

 なお、この時期信長公は先年の荒木村重謀叛の折に返り忠を行った中西新八郎・星野左衛門・宮脇又兵衛・隠岐土佐守・山脇勘左衛門の五名を池田恒興の与力に命じていた。

 その後6月26日になり、土佐国を支配する長宗我部土佐守元親が明智光秀を取次とし、信長公へ音物として鷹十六匹・砂糖三千斤を進上してきた。音物を受けた信長公は、砂糖を馬廻衆へ分け与えてやった。

 そののちの6月晦日には、中将信忠殿が安土へ上ってきた。

 

9、石山戦争始末  大坂退散の事

 大坂の顕如本門跡は雑賀へと退去したのち、7月2日に藤井藤左衛門・矢木駿河守・平井越後の三使を遣わして信長公へ御礼を行わせた。御礼の席には勅使の近衛前久殿・勧修寺晴豊殿・庭田重保殿も同席し、取次は松井友閑・佐久間信盛が務めた。進物は太刀代銀子百枚であった。
 その席上、三使は中将信忠殿へ御礼を述べた。信長公は対面に現れなかった。

 御礼に対し、信長公からも門跡・北の方らへ音信・音物が贈られた。
音物の内容は、

黄金三十枚 顕如門跡へ
黄金二十枚 北の方へ
黄金十五枚 下間按察法橋へ
同 十五枚 下間刑部卿法橋へ
同 十五枚 下間筑後子少進法橋へ

 以上であった。なお同時に勅使・取次の五名および使者を務めた三名にもそれぞれ黄金二十五枚ずつが贈られた。翌日使者は音物への感謝を述べて帰っていった。

 この御礼と前後して、教如新門跡も大坂の明け渡しを受け入れた@。そして天正8年庚辰8月2日をもって新門跡が大坂を退去することが定められたのだった。このときの勅使は近衛前久殿・勧修寺晴豊殿・庭田重保殿で、下使として荒屋善左衛門が従い、信長公からの使者として松井友閑と佐久間信盛も加わっていた。大坂受け取りの検使には矢部家定が任じられた。

 そもそも大坂の地は日本一の境地であった。奈良・堺・京都のいずれにも程近く、特に淀・鳥羽から大坂の城戸口までは舟で直に往来することが可能である。また四方に節所を抱えて北は賀茂川・白川・桂川・淀川・宇治川の大河が幾重にも注ぎ、二里・三里のうちには中津川・吹田川・江口川・神崎川が流れを廻らしていた。さらに東南には二上山・竜田山・生駒山・飯盛山といった遠山を仰ぎ、その麓からは道明寺川・大和川に新開の堀割りが続いて竜田の谷水を運び、このため大坂までの三、四里の間は沼沢と川で湘々と満たされていた。そして西は堂々たる大海に臨んで唐土・高麗・南蛮の船が海上を出入りし、五畿七道の人々が集って売買利潤をなす富貴盛んな港となっていた。

 その地へ近国の門徒が集まり、加賀から城造りの者を呼び寄せて八町四方に構えを築いていった。そしてその真中の高地に水上の御堂と称される本願寺一派の大堂宇を建立したのである。堂の前面には池水をたたえて一蓮托生の蓮を生えさせ、後側には弘誓の舟を浮かべ、仏前に光明を輝かせたのだった。

 その後この仏法の聖地には利剣即是ノ名号ハ煩悩賊ノ怨敵ヲ治シA、というように門徒たちが集まり、甍を並べて軒を連ね、富裕を極めていった。また一心に法を尊んで遠国離島より山河を越えて参詣に訪れる者たちも、日夜朝暮にわたり道から絶えることがなかった。

 このように家門長久と思われた本願寺であったが、そこへ天魔が忍び寄ったのだった。十年前Bに信長公が野田・福島を攻めた折、両所が落ちれば次は大坂の番であると考えた本願寺は、長袖の身ながら一揆を蜂起させて信長公へ敵対したのである。一揆のために通路を遮断された信長公は野田・福島から撤退せざるを得なかった。

 そのときの遺恨を忘れられぬゆえか、信長公は今より五年前の夏Cに石山参詣の者達を押し止め、さらに敵方の一部を抑えて諸口より攻囲を固め、原田直政に命じて天王寺に付城を築かせた。ところがその普請が未完成であることを察知した大坂方は即座に一揆を催し、天王寺へ差し向けて一戦を遂げ、原田直政・塙喜三郎・塙小七郎・蓑浦無右衛門をはじめとする歴々衆を一挙に討ち取ってしまった。
 一揆勢はその勢いをもって天王寺の付城を包囲したが、その急報を聞いた信長公は無勢をおして後詰に駆けつけ、一日二度にわたり合戦に及んだ。戦は両度とも大坂方が敗北して数多を討死させる結果となり、大坂方は大軍をもって小敵の虜となる無念を味わったのだった。

 しかしながら世は末法、本願寺はその後も修羅道を進むことを決意した。そして力及ばずながらも高津・丸山・ひろ芝・正山をはじめとする大坂の周辺五十一ヶ所に端城を築いて立てこもり、構内に五万石の年貢を抱えて運を天に任せ、五ヶ年もの月日を守り通したのであった。

 とはいえ味方の勢力は日に日に衰え、謀議・調略もはかどらず、逆に信長公の威光はますます盛んとなって諸国七道は安定するばかりであった。その上禁裏からは和睦の勅命が下り、さらには時勢に反すまいとの判断も働き、本願寺はついに退城に応じたのだった。

 石山本願寺成立以来四十九年の歳月は、まことに昨日の夢のごとくであった。その間の世相を推し量るに、生死の去来は有為転変で先が見えず、まさに朝露のごとくであった。そのような世の中にあって一意専心に阿弥陀の名号を唱え、その功徳をもって涅槃に至りたいと門徒たちが願うのも当然のことであった。

 しかし、そのような思いでいた門徒たちも、今は離散の思いに上下とも紅涙に沈むばかりであった。
 かれらは自分たちが大坂を退去した後、信長公が必ずこの地を検分にやってくるであろうことを察していた。そのため見苦しき様子を見られぬよう端々まで普請と掃除を行い、外には弓・槍・鉄砲等の兵具を掛けならべ、内には資財道具類を修繕して飾り置いていった。そしてその上で寺を勅使・奉行衆へ明け渡し、8月2日未の刻に雑賀・淡路島から漕ぎ寄せた数百艘の迎え船に乗ったのだった。

 かくして数年来にわたり織田勢を防いだ端城の者たちをはじめ、大坂に籠っていた門徒衆はそれぞれ縁を頼りに海陸から蜘蛛の子を散らすがごとくに散り散りに別れていったのであった。

 それから数刻ののち、松明の火に悪風が吹きつけて寺から火の手が上がった。火は日夜三日間にわたり黒雲を上げ続け、数多の伽藍を一宇も残さず焼き尽くした。

 @教如は顕如の大坂退去ののちも抗戦を続けようとしていた(第6段)。 A「阿弥陀の名号は利剣のごとくに煩悩・怨敵を鎮める」、というほどの意 B1570年8月 C1576年4月

 

10、暴風前  宇治橋御見物の事

 8月12日@、信長公は京を出て宇治の橋を見物し、そこから舟に乗って大坂へ下った。

 @ここから次段にかけての事柄は史料により日付が異なる。

 

11、信盛折檻状  佐久間・林佐渡・丹羽右近・伊賀伊賀守の事

 大坂に着いた信長公は、佐久間信盛へ向け折檻の条々を記した書を自筆でしたためた。その内容は以下のようなものであった。

一、そのほうら父子が大坂へ五ヵ年も在陣しながら何らの働きもなきこと、世間が不審に思うのも当然である。その不審は信長としても思い当たるものがある。まったく言葉にも述べがたい。

一、前条の心持ちを推量するに、そのほうは大坂を大敵と考えて攻撃を行わず、かと申して調略・謀計の道にも立ち入らず、ただ居城の構えを堅固にして幾年か送りさえしていれば相手は所詮長袖の身、ゆくゆくは信長の威光の前に退くであろうと考えていたのであろう。
 しかし武者道とはそういうものではあるまい。そのような状況にあっても勝敗の機を見極めて一戦を遂げることは、そのほうら父子のためにも信長のためにもなることであり、また諸卒も攻囲の労苦から逃れられ誠に本意のかぎりなのである。しかるにそのほうは頑迷に持久の戦を続けるだけであった。まったく分別もなく、未練疑いないことである。

一、丹波国での明智光秀の働きは、天下の面目をほどこした。また羽柴秀吉の数ヶ国にわたる働きも比類のないものである。さらに池田恒興は小身ながら花隈城を程なく陥落させ、天下の評判を取った。そのほうもこれらの例を見習って発心し、一廉の働きを見せてみよ。

一、柴田勝家は前条の面々の働きを聞き及び、一国を領知する身でありながら天下の評を慮り、この春加賀に攻め入って見事一国を平定したものである。

一、武略に自信がなくば人を使って調略を用い、至らぬ点は信長へ報告して意見を聞けば良いものを、この五ヵ年一度もそのようなことを申してこなかった。まったく油断であり曲事極まりない。

一、保田知宗から先頃送られてきた書状は、本願寺の一揆勢さえ攻め崩せば残る小城などは大方退散するであろうとの報告を紙面に載せ、それに対してそのほうら父子が連判するといった内容であった。このような書状を何の届けもなく送ってくるというのは、そのほうが自分の苦労を逃れようと周囲を動かし、あれこれと弁明を申し送らせているのではないか。

一、信長の家中において、そのほうの立場は格別であろう。三河に与力がおり、尾張に与力がおり、近江に与力がおり、大和に与力がおり、河内に与力がおり、和泉に与力がおり、さらには根来衆を付属させたので紀州にも与力がいる。いずれも少禄の者ではあるが、七ヶ国の与力を従えているのである。これに自身の人数を加えて働けば、どのような戦をしようともそうは落度を取るまいに。

一、三河刈屋の水野信元の跡職を与えたので以前より家臣の人数も増えたかと思っていたが、一向にそのようなことはなく逆に水野の旧臣たちを多数追放している。それでも追い出した者たちの跡目を補充しているのならば従前同様となるから良いが、それきり一人も抱えていないのならば、知行地からの蔵納を取り込んで金銀に換えてしまっているのと同じで言語道断の行いである。

一、山崎の地を任せたところ、当地で信長が目をかけ言葉もかけていた者たちを追い出した。これも前条の三河刈屋での扱いと同様であることは疑いない。

一、譜代の者達に加増をして相応に与力なども付け、新規の奉公人を召し抱えていればこれほどの落度はなかったであろうに、そうはせずに吝嗇がましい蓄えをすることばかりを本意としていたため、今回このように天下の面目を失うこととなってしまった。このことはすでに唐土・高麗・南蛮までも隠れなく知れ渡っている。

一、先年朝倉勢を破った折、そのほうに戦機の見通しが悪いと言ったところ、そのほうは恐縮するどころか逆に身自慢を申して場の雰囲気を壊し、信長の面目を失わせた。その口ほどにもなく長々と大坂に在陣し、その結果がこの程度の働きとは、まったく前代未聞というほかない。

一、甚九郎信栄の不届きの条々を書き並べれば、筆にも墨にも切りがなく到底述べがたい。

一、大まかに言って、第一に欲が深く、また気難しく、良き者を抱えることをしない。その上油断の働きが多いと取沙汰されているのだから、つまるところ父子ともに武辺の道を心得ていないのであろう。それゆえこのような事態となったのである。

一、与力ばかりを使い、自分が取次役に任じられた時などは与力の人数で軍役を務め、自分の侍を抱えようとしない。これでは折角の所領を遊ばせているだけであり、曲事というほかない。

一、そのほうの与力や被官に至るまでが信栄に遠慮しているのは他でもない。自身の分別を自慢して取り繕ったふるまいをしながら、実は真綿に針を忍ばせた上を触れさせるような恐ろしげな扱いをするため、そのような態度を取るのである。

一、信長の代となってから三十年奉公を遂げてきたものの、その間に佐久間右衛門比類なき働き、と呼び鳴らされるような功は一度も挙げていない。

一、信長一世のうちで勝利を失うような事態はこれまでになかったが、先年遠江へ軍勢を遣わした折には苦戦した。勝敗は戦の習いであるからこれは仕方ないが、そうは申しても徳川家康から使者を受けての出兵である。敵に遅れをとりながらも兄弟を討死させ、あるいは家中のしかるべき侍を討死させていたのであれば、自身は時の運によって生き延びられたのだろうと人々も納得したであろうものを、そのほうは手勢を一人も死なせていない。それどころか平手汎秀を見殺しにしておきながら平気な顔をしている。この一事をもってしても、これまでの条々で述べてきたそのほうの分別のなさがはっきりしている。

一、この上はいずこかの敵を平らげ、会稽の恥をそそいでから帰参するか、または討死するほかはない。

一、父子ともに頭を剃り、高野山にでも隠遁してひたすら赦免を乞うのが妥当ではないか。

以上、そのほうらが数年のうちに一廉の働きもなきことや、不届きの行状の数々は、このたび保田の例に触れて思い当たったものである。そもそも天下を治めるこの信長に口答えを申したのはそのほうが最初であるのだから、その勇をもって末の二ヶ条を実行してみせよ。それを受けぬ場合は、二度と赦免はされぬものと心得るべし。

     天正八年八月

 以上のごとく自筆で記した上で、信長公は佐久間信盛のもとへ楠長韻・松井友閑・中野又兵衛の三名を遣わして遠国への退去を命じた。

 譴責を受けた信盛父子は、取るものも取り敢えず高野山へ上った。しかし信長公から高野は許さぬとの仰せが出たため、父子はさらに高野山を出て紀伊熊野の奥地まで足に任せて逐電していったのだった。その間に譜代の下人にも見捨てられ、徒歩で体と草履を前へ運ぶだけの身となってしまった父子の有様は、見るも哀れであった。

 その後8月17日になり、信長公は大坂を出て京へ上った。そして京都で家老の林秀貞・安藤守就父子・丹羽右近を遠国へ追放に処したのだった。理由は先年信長公が苦闘を重ねていた折、それに乗じて野心を含んだゆえであった。

 

12、加賀平定  賀州一揆歴々生害の事

 11月17日、柴田勝家は加賀一向一揆の主立った者達に諸将を手分けして所々で殺害させ、その首を安土へ進上してきた。首はすぐに松原町@の西に晒されたが、その首数は、

若林長門・その子若林甚八郎、宇津呂丹波・その子宇津呂藤九郎、岸田常徳・その子岸田新四郎、鈴木出羽守・その子鈴木右京進・鈴木次郎右衛門・鈴木太郎、鈴木采女、窪田大炊頭、坪坂新五郎、長山九郎兵衛、荒川市介、徳田小次郎、三林善四郎、黒瀬右近

 以上十九人であった。柴田の成果に信長公は大いに感じ入った。

 @安土城下の町

 

13、重来高天神  遠州高天神、家康御取巻きの事

 遠江高天神城@は、武田勝頼が軍勢を入れて守らせていた。そこへ徳川家康が攻め寄せ、周囲に鹿垣を結いまわして城ごと中に取り籠め、自身が在陣して攻囲を続けた。

 @現静岡県城東村、1574年6月武田勢の手に渡る(巻七第七段)

 

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