信長公記

巻十一

天正六年

この年の正月朔日、安土には五畿内・若狭・越前・尾・濃・江・勢州および隣国諸地の面々が集まり、おのおの信長公のもとへ出仕して年賀の礼を行った。

1、盛運年賀  御茶湯の事

 正月朔日、信長公はまず十二名の者達に朝の茶をふるまった。御座敷は右勝手六畳敷の四尺縁で、席に列した者は、

中将信忠殿、武井夕庵、林秀貞、滝川一益、細川藤孝、明智光秀、荒木村重、長谷川与次、羽柴秀吉、丹羽長秀、市橋長利、長谷川宗仁

以上であった。座敷の装飾は床の間に岸の絵を飾り、東に松島茶壷、西に三日月茶壷、四方盆、万歳大海、帰花水指、珠光茶碗を置き、囲炉裏には姥口の茶釜を据え、くさりで花入れ筒を釣っていた。また茶頭は松井友閑がつとめた。

 茶会が終わると、諸大名・諸将の出仕があった。かれらには信長公より三献の盃が下され、矢部家定・大津伝十郎・大塚又一・青山虎が御酌に立った。
 その後、信長公は出仕した面々にみずからの座所を見物させた。座所の内装は三国の名所を写した狩野永徳筆の濃絵で飾られ、さまざまな名物が馳せ集められて並び、まことに心も言葉も及ばぬ豪壮さで、計りしれぬ威光を放っていた。
 信長公はこの座敷に見物の面々を上げ、全員に雑煮と唐物の菓子をふるまった。それはまさに生前の思い出、末代の物語で、かたじけなき事この上ない饗応であった。

 さらに正月4日には、去年冬に信忠殿へ下された名物道具の披露会が万見仙千代邸で開かれた。このとき集まったのは武井夕庵・松井友閑・林秀貞・滝川一益・長谷川与次・市橋長利・丹羽長秀・羽柴秀吉・長谷川宗仁の九名であったが、このうち市橋長利は信長公より芙蓉の絵を賜る栄誉にあずかった。まさに面目の至りといえた。

 

2、節会  御節会の事

 この当時、宮中での節会@は長く廃れたままになっており、都の人々にも式を知る者がおらぬありさまとなっていた。しかし信長公の時代となって内裏が敬い奉られ、月卿雲客A・公卿・殿上人・役人へ知行が加えられてからは、諸卿は内裏に集まって根引きの二枝松を飾り、正月朔日辰の刻には神楽歌を謡い、さまざまな儀式を行って天下の祭事を尽くすようになった。洛中近辺の貴賎男女はまったくめでたい時代に生まれ合わせたもので、絶えて久しかった祭事がこのように復活したことは、まことに有難きことであった。

 正月10日、信長公は鷹狩で得た獲物の鶴を内裏へ献上した。鶴はそのまま主上のもとへ届けられたが、これを御目にした主上は感じ入り、喜びひとしおだったということである。
 なお同日は近衛前久殿へも針阿弥が使者に遣わされ、同じく鶴が進ぜられていた。すると翌日になり、安土の信長公のもとへ近衛殿が御礼にあらわれたとの知らせがもたらされた。近衛殿が町屋に滞在していると聞いた信長公は、まず松井友閑の邸へ宿を移させ、その上で対面に及んだ。対面の場へ上下服装を揃えて参上した近衛殿は、首尾よく御礼を果たして翌日払暁に帰洛していった。

 正月13日、信長公は尾張国清洲で鷹野をするため下向し、同日柏原へ出た。そして14日に岐阜まで下り、翌日まで逗留したのち16日になって清洲へ入った。18日にはさらに三河吉良まで狩りに出、雁や鶴を多数捕獲した。そののち信長公は22日に尾張へ帰り、23日には岐阜まで上って翌日まで滞在し、25日になって安土へ帰城したのであった。

 @節日や祝日を祝う儀式・宴 A大臣・大中小納言・参議および三位以上の公家をさす

 

3、火事出来  回録 御弓衆御折檻の事

 正月29日、弓衆の福田与一の家から火事が起きた。妻子を安土へ越させていなかったがための失火であり、そのことを聞いた信長公はただちに処置を下した。菅屋長頼を奉行として台帳を作らせ、配下の衆が安土に家族を呼び寄せているかを改めさせたのである。その結果、弓衆で六十名・馬廻で六十名の計百二十名の者が郷里に妻子を残したままになっていることが判明し、信長公はかれらを一度に処罰した。

 信長公は、何よりも旗下の弓衆の内から火を出したことを許しがたい過ちとした。そして中将信忠殿に命じて岐阜より奉行を出させ、尾張に妻子を置いている弓衆の私宅に火を放ち、さらに植えられていた竹木をも切り倒させてしまった。このため百二十名の者の家族は取るものもとりあえず郷里を離れ、安土へ移り住むこととなった。その後信長公は今回の過失の代償として彼らに城南の江の内@の新道普請を行わせ、その上で全員に赦免を与えたのであった。

 @安土城南側の入江

 

4、磯野逐電  磯野丹波・磯貝新右衛門の事

 2月3日、磯野員昌が上意に背き、処罰を怖れて逐電してしまった。これを受けた信長公は、ただちに磯野旧領の高島一円を織田信澄へ与えた。
 また2月9日には吉野山中に蟄居していた磯貝新右衛門@を土地の者が殺害し、首を安土へ進上してきた。かれらには信長公より褒美として黄金が与えられた。このように信長公は、ひとたび憎しみを覚えた者には必ずその報いを受けさせずにおかぬ御方であった。

 2月23日、羽柴秀吉は播州へ攻め入った。そして加古川にある別所氏与力の糟屋内膳の居城を借り、ここに手勢を入れたのち、みずからは書写山Aに要害を築いて在陣した。
 しかし、この間に変事が起こった。別所長治が意を翻し、三木城Bへ籠ってしまったのである。

 @もと足利義昭家臣、巻六第八段 A現姫路市内 B現三木市内。別所長治は当初信長に属していたが、この年毛利氏へ通じた。

 

5、四方波  相撲の事

 2月29日、信長公は江州中の相撲取り三百名を安土へ召し寄せ、かれらの相撲を見物した。信長公はこの中からさらに二十三名を選りすぐって技を競わせたが、その者達には褒美として扇が下された。なかでも日野長光は信長公より格別に評され、御前に召し寄せられて平骨濃塗りの扇@を与えられた。面目の至りであった。また行事は木瀬蔵春庵・木瀬太郎太夫がつとめたが、両人には御服が下された。
 なお選ばれた二十三名は以下のごとくであった。

東馬二郎・たいとう・日野長光・正権・妙仁・円浄寺・地蔵坊・力円・草山・平蔵・宗永・木村いこ助・周永・あら鹿・づこう・青地孫二郎・山田与兵衛・村田吉五・太田平左衛門・大塚新八・麻生三五・下川弥九郎・助五郎

 3月6日、信長公は鷹山狩りのため奥の島山Aへ登り、長命寺若林坊に宿泊した。そして3日間にわたり鷹野を行い、数多くの獲物を挙げたのち8日に安土へ帰城した。そののち信長公は23日に上洛し、二条御新造Bへ座を移したのであった。

 そして4月4日、信長公は大坂表へ軍勢を遣わした。軍勢は中将信忠殿を総大将として尾・濃・勢州の兵が従い、織田信雄・織田信包・織田信孝・織田信澄・滝川一益・明智光秀・蜂屋頼隆・丹羽長秀が参陣したほか、江州・若州・五畿内からも各衆が集まっていた。軍勢は4月5日・6日の両日にわたって大坂へ押し寄せ、付近の麦苗をことごとく薙ぎ捨てて帰陣した。

 4月7日、信長公は越中の神保長住を二条御新造へ召し寄せた。そして武井夕庵・佐々権左衛門を通じ、神保へ近頃対面が無沙汰となっていた理由を告げさせC、黄金百枚としじらの織物百反を与えた。信長公は上杉謙信Dの死亡を受けて越中への進出を考え、神保に佐々権左衛門を添え、飛騨国司姉小路頼綱に命じてかれらを飛騨から越中へ入国させたのであった。

 4月10日、滝川・明智・丹羽の三将が丹波へ遣わされ、敵方の荒木山城守氏綱の居城Eを取り囲んだ。三将は城の水の手を断って攻め上げ、窮した荒木は降伏開城に追い込まれた。そして後には明智光秀の軍勢が入れ置かれ、他の諸勢は4月26日になって京都へ帰陣したのであった。

 @骨を金銀で彩色した扇 A現近江八幡市内 B京都における織田政権の政庁兼宿舎、前年完成 C信長は前月末に病を患っているが、そのことを指すと思われる D原文「輝虎」。この年3月13日に死亡 E園部城、現京都府園部町内

 

6、播州暗雲  高倉山西国陣の事

 4月下旬、芸州より毛利・吉川・小早川・宇喜多を初めとする中国諸勢が来襲したとの急報がもたらされた。中国勢は備前・播磨・美作三国の国境に位置する山中鹿之介居城の上月城@を取り囲み、全軍が大亀山に陣を構えているとのことであった。
 これに対し、織田勢からは羽柴秀吉・荒木村重の両人が出撃し、敵にほど近い高倉山に上って対陣した。しかし救援すべき上月城は高山を下って谷を隔て、さらに熊見川を越えた先であり、もはや救う手立てもなくなっていた。

 その頃、信長公は4月22日に京都を出て安土へ下り、27日になって再び京へ入っていた。そして「5月朔日をもって播州に動座し、西国の人数と槍を合わせて討ち破り、かの地を一度に併呑する」と自身の出馬を宣言したのだった。
 しかし、これに佐久間・滝川・蜂屋・明智・丹羽の諸将が反対した。「播州の敵は険難節所の地を押さえ、その上要害を堅固に構えて在陣しているとの由、聞き及んでございます。まずはわれらが出陣いたし、かの地の様子を見届けて申し上げますゆえ、しばしの間御配慮くだされ」というのであった。

 かくして4月29日、まず滝川・明智・丹羽の三将が播州へ出陣した。そして5月朔日にはさらに中将信忠殿・織田信雄・織田信包・織田信孝・細川藤孝・佐久間信盛の諸将が、尾張・美濃・伊勢三ヶ国の兵を率いて出陣したのであった。軍勢はその日は郡山Aに宿陣して翌日兵庫に入り、6日には播州の明石に近接する大窪Bという在所に陣を構えた。その先陣は敵城の神吉C・志方D・高砂Eへ差し向かい、加古川近辺に展開した。

 @現兵庫県上月町、既出 A現大阪府茨木市内 B現明石市内 CDEそれぞれ現加古川市内・志方町・高砂市

 

7、大水  洪水の事

 信長公は5月13日に播磨へ出陣する旨を号令していた。ところが畿内では11日巳刻より雨足が強まり、13日の午刻まで足掛け五夜にわたって荒々しく降り続いた。これにより各所でおびただしい洪水が発生し、賀茂川・白川・桂川が一面に氾濫して都の小路小路を水没させてしまった。さらに12日・13日には三川は一つの流れとなって上京舟橋の町々を押し流し、溺死者多数を出す損害を残したのだった。この水で村井貞勝が新たに建造した四条大橋も流されてしまった。

 このような大洪水ではあったが、ひとたび信長公御出陣と決まればその日程は何があろうと決して変更されなかったのがこれまでの例であり、今回も信長公は船に乗ってでも出陣を決行するに違いなしと思われた。このため淀・鳥羽・槙島の各衆はこぞって数百艘の舟を用意し、三条油小路@まで櫓櫂を漕いで迎えに立ったのであった。この働きを聞いた信長公は、すこぶる機嫌を良くしたA。

 5月24日、竹中半兵衛が中国路の戦況報告にやってきた。その内容は備前国八幡山の城主が味方に立ったというもので、これに満足した信長公は羽柴秀吉へ黄金百枚・竹中半兵衛へ銀子百両を与えた。半兵衛はかたじけない幸福にあずかりつつ戻っていった。

 5月27日、信長公は安土の大水の状況を検分するため京を下った。松本Bから矢橋Cまで乗船した信長公は、このとき御小姓衆のみを引き連れて湖水を渡ったのだった。その後信長公は6月10日になって上洛の途につき、ふたたび矢橋・松本間を乗船して京へ入った。

 6月14日は祇園会の祭日であった。信長公も見物に立ったが、付き従う馬廻・御小姓衆には弓・槍・長刀・持道具類の携行無用の沙汰が申し渡されており、いずれも軽装で従っていた。祭の見物が終わると、信長公はさらに御供衆をも帰らせ、御小姓衆十人ばかりのみを連れて鷹野へ出かけたのだった。
 この日は小雨であった。なお同日信長公は近衛殿へ山城の内普賢寺に千五百石の知行を宛行った。

 6月16日、播磨から羽柴秀吉が上京し、播州陣について信長公の指図を仰いだ。これに対し、信長公は「謀略武略もなしに長陣していても詮はなし。まずは陣を払い、軍勢を神吉・志方へ寄せて攻め破り、その上で別所が籠る三木の城を囲むべし」と指示した。この指示により神吉攻めが開始されることとなり、検使に大津伝十郎が任じられたほか、水野九蔵・大塚又一郎・長谷川竹秀一・矢部家定・菅屋長頼・万見仙千代・祝弥三郎が番替で検分に当たるよう命じられた。そして信長公自身は6月21日に京を出て安土へ下ったのであった。

 @原文は「五条」だが、油小路は三条 A結局出陣は延期された。 B現滋賀県大津市内 C現草津市内

 

8、戦塵  播磨神吉城攻めの事

 6月26日、播州に展開する織田勢のうち、滝川・明智・丹羽の各勢は敵方への備えとして三日月山@へ上り、同時に羽柴秀吉・荒木村重は高倉山の手勢を払って書写山まで引き揚げたA。そして翌27日には中将信忠殿の軍勢が神吉城を取り囲み、城北から城東の山へかけて信忠殿・織田信孝・林秀貞・細川藤孝・佐久間信盛らが前後左右に段を連ねて布陣したのであった。

 また志方城に対しては織田信雄が攻囲の陣を据え、同時に丹羽長秀・若狭衆が城西の山に陣を布いて敵に備えた。そしてこれらの備え手を除く滝川・稲葉・蜂屋・筒井・武藤・明智・安藤・氏家・荒木の諸勢は、神吉城めがけ怒涛のごとく押し寄せた。寄せ手はまたたく間に外構えを攻め破って城を裸城にし、そのまま本城の堀を越えて城壁を突き崩し、数刻にわたって猛攻を加えた。このとき織田信孝は足軽と先を争って奮闘した。

 戦は激戦となり、手負い・戦死者あまたを出した。織田勢は一気に城を抜くことは難しいと考え、その日は一旦攻撃の手を緩めた。そして翌日になって竹束をつらねて本城塀際まで詰め寄り、堀を草で埋め、築山を盛って城攻めを続けたのだった。

 このように播磨で戦闘が続く中、羽柴秀吉は但馬国へ出兵していた。そして以前のごとくに国衆を服属させ、竹田城に羽柴秀長を入れ置いたのち、自身は書写山へ軍勢を返した。

 その後神吉では戦局が動き、まず手薄となっていた南の攻め口に織田信包が陣を移して攻撃を開始した。また敵方に増援の動きが見られないため備えの人数も不要となり、丹羽長秀と若狭衆が陣を解いて攻囲に加わった。丹羽勢は城東の攻撃を請け負い、井楼を二つ高々と組み上げて城内へ大鉄砲を打ち込み、堀を埋め築山を築いて攻めたてた。さらに滝川一益は南から東の攻め口を担当し、金堀衆を入れ、井楼を組み、大鉄砲で塀・櫓を打ち崩し、櫓へ火を放って焼き落とす成果を上げた。
 その他の諸勢もそれぞれに井楼・築山を築いて日夜攻撃を続けた。このため城方はさまざまに詫言をして降伏を申し入れるようになったが、信長公は検使を遣わして寄せ手を固く統制し、降伏をすべてはねつけさせた。

 6月29日、兵庫・明石間および明石・高砂間は距離が遠く、海手の水軍への警固が必要であると考えた信長公は、織田信澄に山城衆を加えた人数を現地へ派遣し、あわせて万見仙千代も遣わした。信長公はしかるべき場所を見計って軍勢を置くよう指示しており、これを受けた信澄と仙千代は現地で適良な山を見つけ、それを足がかりに城砦を築いて軍勢を入れ置いた。命を果たした仙千代は信長公のもとへとって返し、その様子を復命した。このほか行路には信忠殿の指令のもと、林秀貞・市橋長利・浅井新八・和田八郎・中島勝太・塚本小大膳・簗田広正が交替で警固に当たっていた。

 そして7月となった。このころ洛中では7月8日巳刻に四条道場Bの寮社から出火するなど、火事の頻発する時節となっていた。

 7月15日、滝川一益・丹羽長秀の両勢は夜に入って神吉城東の丸への突入に成功し、16日には中の丸まで攻め込んで城主神吉民部少輔を討ち取った。天守には火が放たれ、その下で両軍が混乱するうちに火は広がり、やがて天守は焼け落ちて城兵の過半が焼死してしまった。
 また西の丸は荒木村重の攻め口であった。城方では神吉藤大夫が守っていたが、これに対しては佐久間信盛・荒木村重の両人が降伏を取り持った。藤大夫は赦免され、志方城へ退去していった。

 かくして神吉は落ち、落去した城は羽柴秀吉の手に委ねられた。攻め手はそのまま近接する志方城の攻略に向かったが、志方では城兵が防戦かなわじと見て降伏し、人質とともに城を明け渡した。この城も神吉とともに羽柴秀吉に委ねられるところとなった。その後軍勢はさらに別所長治の籠る三木城へも攻め寄せ、周囲に近々と付城を築いて在陣したのであった。

 @現兵庫県三日月町内 Aこの戦線縮小により尼子氏と山中鹿之介の籠る上月城は織田勢から見捨てられ、落城することとなる。 B時宗金蓮寺

 

9、鉄甲船  九鬼大船の事

 信長公は九鬼嘉隆に命じ、鉄装の大船六艘を建造させていた。またそれとは別に滝川一益にも大船を作らせており、こちらは白舟に仕立てさせていた。

 そして6月26日、これら七隻を中心とした船団は順風を見計って熊野浦へと押し出した。目指す先は大坂沖であった。

 するとこれを淡輪@海上で迎え撃つべく、雑賀・淡輪の浦々から大坂方の小船が数をも知れず出航してきた。敵船は大船へ次々に矢を射掛け、鉄砲を発射して四方から攻め立ててきた。これに対し、九鬼嘉隆は山のごとくに重装を施した七隻の大船と小船からなる船団を率い、敵船を間近に引き寄せてはあしらうように応戦した。そして機を見て大砲を撃ちかけ、敵船数多を撃沈させた。

 海戦は、鉄船の勝利に終わった。この海戦ののち敵方は鉄船へ寄りつくこともためらう有様となり、船団は7月17日に難なく堺へ着岸した。岸には見物人が集まり、その耳目を驚かせた。そして翌日、船団は大坂表へ乗り出して要所々々に船を配置し、海上の通行を封鎖して攻囲を固めたのであった。

 ところで、このころ中将信忠殿は岐阜で庭飼いの鷹四匹を育てていた。いずれも近来まれにみる羽根振りで、ここまで育て上げた鷹匠の名誉はこれに過ぎたものはなかった。
 このため7月23日、信忠殿は鷹匠の山田・広葉の両人を安土へ遣わし、鷹を信長公のもとへ持参させた。すると信長公はそのうちの一匹を手元に召し置き、残りを信忠殿に返し、鷹匠には辛労への報酬として銀子五枚と御服をそれぞれに与えた。両名は様々に報奨を受けたのち、岐阜へと帰っていった。

 また8月5日には奥州津軽の南部氏より南部宮内少輔が鷹五匹を進上してきた。これに対し、信長公は8月10日南部の使者を万見仙千代邸に迎え、かれらを饗応して返礼をおこなった。

 @現大阪府岬町淡輪

 

10、安土相撲  小相撲の事

 8月15日、信長公は近州・京都の相撲取りら千五百人余を安土へ召し寄せ、かれらに相撲を取らせて観覧した。安土山で辰の刻から始まった取組は酉の刻まで行われ、諸将たちもそれぞれ家中から腕自慢を引き連れて参列していた。なお当日奉行の任に当たったのは織田信澄・堀秀政・万見仙千代・村井作右衛門・木村源五・青地与右衛門・後藤喜三郎・布施藤九郎・蒲生氏郷・永田刑部少輔・阿閉孫五郎貞大で、行事は木瀬蔵春庵と木瀬太郎大夫の両人が務めた。
 また参加した力士は、

小相撲五番打
 京極家中 江南源五  木村源五家中 深尾久兵衛
 布施藤九郎小者 勘八  堀秀政家中 地蔵坊
 後藤家中 麻生三五  蒲生中間 藪下

大相撲三番打
 木村源五家中 木村伊小介  瓦園家中 綾井二兵衛尉
 布施藤九郎家中 山田与兵衛  後藤家中 麻生三五
 長光  青地孫次
 づかう  東馬二郎
 たいとう  円浄寺源七
 大塚新八  ひしや

 以上であった。

 取組がおおかた終了したとき、辺りはすでに薄暮となっていた。ここで信長公はかねてより強力の評判を耳にしていた永田刑部少輔と阿閉貞大の働きを見たく思い、相撲を差配していた奉行衆へ取組を所望した。奉行衆はこれに従い、まず堀秀政・蒲生氏郷・万見仙千代・布施藤九郎・後藤喜三郎が、次いで永田・阿閉の両名がしばらくの間適当に組み合わせを作って取組を行った。なかでも阿閉は特に秀でて器量骨柄すぐれ、力の強さは隠れなきものであったが、運か実力か勝利を得たのは永田刑部少輔のほうであった。

 この日信長公は取組の賞品に珍物の数々を取りそろえ、終日の間かわるがわる力士達へ与え続けた。また数度にわたって良い相撲をした者達は信長公に召し出されることとなり、

東馬二郎・たいとう・づかう・妙仁・ひしや・助五郎・水原孫太郎・大塚新八・あら鹿・山田与兵衛・円浄寺源七・村田吉五・麻生三五・青地孫次

 以上十四名の相撲取りが取り立てられ、のし付きの太刀・脇差・御服上下をたまわった上に所領百石と私宅まで与えられたのだった。まことに面目の至りといえた。

 また8月17日には播磨より中将信忠殿が帰陣した。これを受けた信長公は9月9日ふたたび安土で相撲を催し、信忠殿と織田信雄殿に見物させた。

 9月15日、信長公は大坂表の城砦群に入る番衆たちの目付として小姓衆・馬廻・弓衆を派遣することを決め、かれらを二十日勤番で各砦に遣わしはじめた。また信長公自身は22日に上洛の途につき、その日は瀬田の山岡景隆居城に宿泊した。そして翌日になって二条御新造へ入ったのだった。

 なおこれに先立つ9月14日には、越中で斎藤新五が行動を開始していた。越中では太田保@の津毛城Aに敵方上杉勢の椎名小四郎と河田豊前守長親が軍勢を入れていたが、尾張・美濃勢近付くの報を耳にしてたちどころに退散してしまった。労せず津毛を手にした斎藤新五は神保長住勢を城に入れ置き、みずからは三里ほど進んだ場所に陣を構えて各所へ出陣を繰り返していった。

 @現富山県富山市〜大山町の諸地域 A現富山県大山町内

 

11、観艦  大船堺津にて御見物の事

 9月27日、信長公は九鬼嘉隆の鉄船を観覧するため京を出て八幡まで下り、翌28日は若江に宿泊した。そして29日には早朝より天王寺を訪れて佐久間信盛の陣所でしばし休息し、そののち住吉大社の社家に座を移した。なお、この天王寺から住吉までの道中、信長公は道々で鷹狩を行いつつ歩を進めていた。

 そして30日晦日、信長公は払暁より堺湊へ入った。このとき信長公には近衛前久殿・細川昭元殿・一色満信殿らが大船見物のため同行していた。
 やがて、その一行の前へ九鬼の大船が現れた。大船はさまざまに飾り立てられて幟・指物・幔幕を船上に林立させ、浦々の武者舟もそれぞれに兵具で装飾して周囲を漕ぎまわしていた。また堺は南庄・北庄@一つとなって御座船を仕立て、おびただしい唐物で船を飾り立てた上に進物の数々をわれ劣らじと信長公へ献じてきたのであった。
 このとき堺の僧俗男女は信長公を拝み奉るべく盛装し、芳香・焼香の香りを四方に薫じさせて陸に群れ集まっていた。信長公はその中をただ一人九鬼の大船に乗り移り、船内を見物してまわった。

 そののち信長公は今井宗久のもとへ足を運んだ。過分な名誉であり、宗久にとってはまことに後代の面目といえた。信長公は宗久宅で茶の湯を行ったのち帰りの途につき、道中で紅屋宗陽・津田宗及・道巴宅に立ち寄りつつ住吉の社家に戻った。

 住吉に着いた信長公は九鬼嘉隆を召し寄せ、黄金二十枚と御服十着・菱喰の折箱二行を下賜した。そしてその上に九鬼と滝川一益へそれぞれ千人扶持を与え、さらに滝川の白船に乗船していた犬飼助三・渡辺佐内・伊藤孫大夫の三名にも黄金六枚に御服を添えて与えたのであった。いずれの者もこの褒賞をありがたく頂戴し、その恩恵に浴した。

 そして10月1日、信長公は住吉を出て帰洛の途につき、途中安見新七郎の居城で休息したのち無事二条御新造へと帰り着いた。
 ところがその翌日、信長公は留守をおろそかにしていた住阿弥という者を成敗してしまった。さらには長らく召し使っていた、さいという女をも同罪に処したのであった。

 @堺は南庄と北庄に分かれていた。

 

12、越中陣  越中御陣の事

 10月4日、斎藤新五は越中国太田保の本郷@に陣を構え、ここから河田長親・椎名小四郎の籠る今和泉Aの城下まで押し寄せて放火を働いた。そして未明に軍勢を返そうとしたところ、敵方が兵を出して追尾してきた。

 この動きを見た斎藤新五は節所を選んで軍勢を退かせてゆき、月岡野Bという地に至ったところで軍勢を立て備えて一戦に及んだ。そして見事敵勢を追い崩し、首数百六十を討ち取る勝利を挙げたのであった。
 勝ちに乗じた斎藤勢はそののちも勢いを休めず駆けまわり、各所の土豪たちから人質を取り固めていった。そして人質を神保長住に引き渡したのち帰陣の途についたのであった。

 10月5日、信長公は五畿内・江州の相撲取りを集めて二条御新造坪の内Cで相撲を取らせ、摂家・清華家の面々に見物させた。そして翌6日になって坂本から乗船して安土へ下り、14日には長光寺山で鷹狩を行った。この狩では岐阜で育てられた庭子の鷹が見事獲物を仕留めたため、信長公はひどく上機嫌であった。

 @AB現富山県富山市内 C殿舎と殿舎の間の区画、中庭

 

13、村重謀叛  荒木摂津守逆心を企て並に伴天連の事

 10月21日、信長公のもとへ荒木村重が逆心を企てているとの報が各所よりもたらされた。しかし信長公はこの報を疑い、村重方へ松井友閑・明智光秀・万見仙千代を遣わして「いずれの不足ありや。存分を申せば、望みを与えよう」と問わせしめた。すると村重は「野心など、少したりともありませぬ」と答えてきた。信長公はこの返答に安堵し、人質として御生母を差し出すことを約束した上で、「別儀なくば出仕すべし」と命じた。

 しかし村重は来なかった。彼はすでに謀叛を決していたのであった。そもそも荒木村重は一僕の身にすぎぬ者であったが、先年公方様が信長公へ敵対したみぎりにまっさきに信長公へ忠節を誓い、その功により摂津国の一職支配を任されるまでに出頭したものであった。しかしそのような身にもかかわらず村重は身のほどを知らず厚遇を誇り、ついに別心を抱くまでに至ったのである。

 もはや村重の叛意は明らかであった。信長公は「この上は是非に及ばす」といって安土に織田信孝・稲葉一鉄・不破光治・丸毛長照を残し、11月3日みずから出馬して二条御新造へと着陣した。信長公はここでも明智光秀・羽柴秀吉・松井友閑らに再三説得を試みさせたが、村重が応じることはなかった。

 このとき大坂表の各所に築かれた織田方の付城には、信長公のもとより目付として小姓衆・馬廻の歴々が派遣されていた。このため村重は大坂への土産として、これら側近衆を殺しにかかるに違いなしとの風聞が流れた。この噂は信長公の耳にも届き、信長公は彼らを思って不憫に感じたが、もはや手の打ちようがなかった。
 しかしいかにして察したものか、側近衆はいずれも付城の番将たちによって無事保護され、信長公のもとへ送り届けられてきた。信長公はこれに喜び、彼らを召し出して「雑説の数々に怖じぬこと見事であった。まことに家の面目、その身の神妙である」と感じ入って各々に御服を与えた。かたじけなき次第であった。

 そのような中の11月6日、西国毛利の兵船六百余艘が木津川口に乗り出してきた。これに対し織田勢からは九鬼嘉隆の船団が立ち向かったが、西国勢は逆に九鬼水軍を包囲して攻撃をしかけてきた。ここに6日辰刻から午刻までの長きにわたる船戦が木津川口南方の海上で繰り広げられたのだった。

 はじめ、九鬼水軍が敵勢を支えることは到底不可能に思われた。しかし九鬼の船団には六艘の鉄船と数多の大鉄砲が備わっていた。九鬼勢は敵船を間近まで引き寄せ、その中から大将船とおぼしき船を見つけて大鉄砲をもって打ち崩した。すると敵船団は一様にひるみ、その後は近付くこともできなくなったのであった。
 かくして九鬼水軍は敵船数百艘を木津沖へ追い返すことに成功した。陸でこの様子を見物していた者で、九鬼の手柄に感じ入らぬものはなかった。

 11月9日、信長公は摂津表へ出馬して山崎に陣を取った。そして翌日になって滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄を芥川@・糠塚A・大田村B・猟師川C沿いに着陣させて敵城の茨木城へ差し向かわせ、大田郷北方の山に付城を普請するよう命じた。

 また中将信忠殿・織田信雄・織田信包・織田信孝、越前衆の不破直光・前田利家・佐々成政・原長頼・金森長近、日根野備中・日根野弥次右衛門も到着し、摂津国天神の馬場に陣を張った。信長公はかれらを高槻へ差し向かわせ、天神山砦を普請して固めるよう指示した。そして信長公自身は安満Dという地に入り、山手の四方を見下ろせる丘陵上に陣を構え、麓につなぎの砦を設けて在陣したのであった。

 ところで高槻城主の高山右近はキリシタン門徒であり、それに目をつけた信長公は一案を廻らした。陣中へバテレンの宣教師を召し寄せ、「右近に忠節を働きかけよ。さすれば何処にキリシタン寺を建設しようとも許可する。しかしもし請けぬというなら、その時は宗門を断絶する」と申し渡したのである。宣教師としては請けざるを得なかった。

 かくして宣教師は佐久間信盛・羽柴秀吉・松井友閑・大津伝十郎に同道されて高槻に入り、理をわけて右近を説得した。このとき右近は当然ながら荒木方へ人質を差し出していたのだが、右近はこのさい小鳥を殺して大鳥を助けることがキリシタンの繁栄につながると考えた。そうして伴天連の説得に応じ、高槻城を開城することを承諾したのであった。信長公は大いに喜んだ。

 そのような中、茨木への付城として普請を進めさせていた大田郷の砦が完成した。信長公はここに越前衆の不破・前田・佐々・原・金森勢および日根野勢を入れ置いた。
 そして11月14日になり、この大田砦の普請衆であった滝川・明智・丹羽・蜂屋・武藤・氏家・安藤・稲葉・羽柴・細川は先陣を切って伊丹へ攻め寄せ、足軽を出して攻撃を加えた。また武藤舜秀の手の者も出撃して敵中へ駆け入り、馬上で組み討ちして敵首四つを挙げる功をたてた。武藤は首を安満の信長公のもとへ送ったのち近辺に放火して伊丹を押さえ、敵城ほど近くの刀根山Eに陣を取って対陣したのであった。

 またほかにも摂津の地には織田勢によって各所に砦が築かれており、見野Fの郷には道から南に入った山手に砦が築かれ、蜂屋・丹羽・蒲生および若狭衆が在陣していた。さらに小野原Gにも中将信忠殿・織田信雄・織田信孝が陣を構えていた。

 11月15日、信長公は安満から郡山Hへ陣を移した。すると翌11月16日になって郡山へ高山右近が伺候し、信長公へ帰服の御礼を言上してきた。信長公はこれを喜び、着ていた小袖を脱いで右近に与えたほか、埴原新右衛門献上の秘蔵の名馬もあわせて下賜した。かたじけなき次第であった。信長公はさらに帰服の褒美として右近に摂津国芥川郡を与えた上で、「いよいよ忠節を励むがよし」と御使衆を介して申し諭したのであった。

 11月18日になって信長公は惣持寺Iに出、ここから織田信澄勢に命じて茨木城の小口を押さえさせた。そして寺内の要害構築を越前衆の不破光治・前田利家・佐々成政・金森長近・日根野備中・日根野弥次右衛門・原長頼らに命じ、同時に大田郷の砦を引き払わせて攻囲の輪を縮めたのであった。

 その後信長公は23日にふたたび惣持寺を訪れたのち、翌24日には年寄衆のみを引き連れて刀根山の砦を閲兵に訪れた。
 この日24日は亥刻に雪が降り出し、夜通し時雨が吹き荒れた。時雨の向こうに浮かぶ茨木の敵城には、石田伊予・渡辺勘大夫・中川瀬兵衛清秀の三名が立てこもっていた。

 ところが、この日24日の夜半頃になって茨木城は織田勢を城内へ引き入れ、石田・渡辺勘大夫両人に加勢する者を城中から追いやって開城してしまった。これは中川清秀の内通によるもので、調略に当たった古田佐介・福富秀勝・下石彦右衛門・野々村三十郎四名の知略の成果であった。

 かくして茨木城も開城し、調略に功あった四名はそのまま茨木城の警固役として入れ置かれることとなった。これにより信長公は摂津の過半を制したことになり、人々はその戦果に上下を問わず安堵の息をついたものであった。

 11月26日、信長公は中川清秀に黄金三十枚を与え、さらに使いに立った中川家中の者三人にも黄金六枚に御服を添えて下賜した。また高山右近に対しても金子三十枚が下されたほか、家老二人にも金子四枚と御服が与えられた。

 11月27日になり、信長公は郡山から古池田Jに陣を移した。この日は朝から風が吹いてひとかたならぬ寒気であったが、その中を晩になって中川清秀が古池田本陣へ伺候してきた。清秀は大いに歓待され、
 信長公から太刀拵の腰の物と皆具揃えの馬
 中将信忠殿から長光の腰の物と馬
 織田信雄から秘蔵の名馬
 織田信孝から馬
 織田信澄から腰の物
以上の品を拝領し、かたじけない思いにあずかりつつ帰っていった。

 11月28日、信長公は敵地にほど近い小屋野Kまで陣を寄せ、四方より攻囲の輪を縮めさせて要所々々に陣を築かせた。
 なおこのとき近在の百姓たちはことごとく甲山Lに登り、山上に小屋を構えて退避していた。しかし信長公はこの百姓たちが何も断りを入れなかったのを曲事と感じたのか、堀秀政・万見仙千代に諸手の狼藉人を付けて山々を探索させ、かれらを切り捨てては兵粮その他を際限なく奪い取って来させた。

 信長公は滝川一益・丹羽長秀を兵庫方面へ遣わし、西宮・茨住吉・芦屋の里・雀が松原・三陰の宿・滝山・生田の森Mに陣を取らせた。両名の軍勢は荒木志摩守の籠る花隈Nに押さえの人数を置き、その上で山手を通って兵庫へ入り、僧俗・男女の別なく撫で切りに斬殺してまわった。そして堂塔・伽藍・仏像・経巻その他を一字も残すことなく灰燼に帰させた上で、須磨・一の谷Oまで進出して近辺を放火してまわったのであった。

 また大和田Pといって、尼崎に隣接する地があった。大坂からは尼崎へも伊丹へも抜けられる交通の要衝であり、安部二右衛門という者が城主をつとめていたのだが、この安部も芝山源内と相語らって信長公へ忠節を申し出てきた。

@現大阪府高槻市内 AB現茨木市内 C茨木川の別称 D現高槻市内 E現豊中市内 F現川西市内 G現箕面市内 H現茨木市内 I現茨木市内 J現池田市内 K現兵庫県伊丹市内 L現西宮市内 Mそれぞれ現西宮市・現神戸市東灘区・現芦屋市・現神戸市東灘区・現神戸市東灘区・現川西市・現神戸市中央区 N現神戸市中央区 O現神戸市須磨区 P現大阪市西淀川町

 

14、攻囲  安部二右衛門御忠節の事

 蜂須賀彦右衛門正勝の仲介によって信長公へ通じた安部・芝山の両人は、12月1日夜に小屋野の信長公陣営を帰服の御礼に訪れた。信長公はこれに満足して黄金二百枚を与え、両人はかたじけない思いにあずかりつつ退出していった。

 ところが、帰服は簡単にはいかなかった。知らせを聞いた安部の親と伯父が「大坂門跡と荒木に対し不義はならず。われらは断じて同心しかねる」として承知せず、大和田城天守に籠ってしまったのである。

 安部はこのままでは帰服は不可能と察し、親と伯父の申し分を聞き入れてなだめた。そして忠節なくして信長公からの黄金を手にしたと言われる前に金子を返上し、その上で改めて敵対の色を立てることを表明したのであった。かくして安部は芝山源内を使者として小屋野へ送り、与えられた金子を信長公へ返上した。これを受けた信長公は、「是非に及ばす」と口にした。
 安部はさらに蜂屋・阿閉両人の陣へ足軽を出勢させ、鉄砲で攻撃をさせるという織田方への敵対作戦も立てた。安部の親と伯父は、事態がこのように進んだことに満足しきっていた。

 ところが、これらはすべて安部の謀りごとであった。安部はこのようにして親と伯父を存分に欺いた上で、まず伯父を尼崎の荒木新五郎と大坂への使者に立てて今後も変節なく味方する旨を伝えさせた。そして親がこのことに喜んで天守から降りてきたところを捕らえて刀を奪い、そのまま人質として京へ護送してしまったのである。

 安部はその上で12月3日の夜に再び小屋野の陣へ伺候し、帰服への辛苦の数々をつぶさに言上した。これを聞いた信長公は最初の忠節を上回る安部の神妙な働きぶりに感じ入り、かたじけなくも腰に差していた左文字の脇差を与え、また皆具の馬も下されたのであった。
 信長公はさらに太刀代として安部へ黄金二百枚を贈り、あわせて摂津川辺郡の一職進退を任せた。また芝山源内にも馬が与えられた。

 12月4日、滝川一益・丹羽長秀は兵庫一の谷を焼き払った軍勢を返し、伊丹を押さえて塚口の郷@に在陣した。

 そして12月8日申刻より織田方諸勢は伊丹へ詰め寄せ、有岡の攻城戦を開始した。その中で信長公は堀秀政・万見仙千代・菅屋長頼の三名を奉行として鉄砲衆を率いさせ、町口へ押し寄せて鉄砲で攻撃を行わせた。またそれに続いて弓衆の平井久右衛門・中野又兵衛・芝山次大夫にも、三手に分かれて火矢を射入れ町を放火するよう命令を下した。
 織田勢は酉の刻から亥刻まで城へ近々と押し寄せて攻撃を続け、城方は塀際でこれを支え続けた。そしてこの中で万見仙千代が討死を遂げたのであった。

 12月11日、信長公は諸所に付城の構築を命じ、みずからは古池田に陣を移した。このとき付城への在番を命じられたのは、以下の諸将であった。

一、塚口郷 丹羽長秀・蜂屋頼隆・蒲生氏郷・高山右近・織田信孝
一、毛馬村A 織田信包・滝川一益・織田信雄卿・武藤舜秀
一、倉橋郷B 池田恒興・池田勝九郎元助・池田幸親輝政
一、原田郷C 中川清秀・古田佐介
一、刀根山 稲葉一鉄・氏家直通・伊賀平左衛門・芥川氏
一、郡山 織田信澄
一、古池田 塩川伯耆守
一、賀茂D 中将信忠殿
一、高槻城番手衆 大津伝十郎・牧村長兵衛・生駒市左衛門・生駒三吉・湯浅甚介・猪子次左衛門・村井作右衛門・武田左吉
一、茨木城番手衆 福富秀勝・下石彦右衛門・野々村三十郎
一、中嶋E 中川清秀
一、ひとつ屋 高山右近
一、大和田 安部二右衛門

 このように番手を命じた上で、信長公はさらに羽柴秀吉の助勢として佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶を加えた軍勢を播磨へ派遣した。そして有馬郡三田Fの敵城に対して道場河原G・三本松の二ヶ所に砦を築かせ、そこに羽柴秀吉の人数を入れ置かせた。軍勢はそののち播磨へ入り、別所長治の籠る三木城へ差し向かう付城群に兵粮・鉄砲・弾薬の補給や普請等を行ったのち帰陣したのであった。

 @A現尼崎市内 BC現豊中市内 D現川西市内 E現大阪市東淀川区内 F現兵庫県三田市内 G現神戸市内

 

15、丹波入り  丹波国波多野館取巻きの事

 播磨から戻った明智光秀はそのまま丹波へ攻め入り、波多野秀治の館を取り巻いた。光秀は館の周囲三里四方を自身一手の軍勢でもって囲み、堀を作り、塀・柵を幾重にも設け、さらに堀際には隙間なく諸卒の陣屋を連ねさせ、町屋のごとくに仕立て上げた。光秀はその上に廻番を設けて警固を厳重に行わせ、まさに獣の這い出る隙間もないほどに包囲をかためて在陣したのであった。

 一方信長公は、12月21日に小雪のちらつく中を古池田から京都へ馬を納めていた。そして12月25日になって安土へ帰城した。

 

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