信長公記

巻九

天正四年

1、安土築城  安土御普請の事

 この年の正月中旬、信長公は丹羽長秀に命じ、江州安土山の築城を開始させた。そして2月23日には信長公自身が安土に座を移した。普請の進行ぶりを実検した信長公はひとまず満足し、褒美として丹羽長秀に名物珠光茶碗を与えた。まことにかたじけなき次第であった。またこのとき馬廻の衆は信長公より山下に屋敷地を与えられ、それぞれ自邸の普請を開始することを命じられた。

 4月1日からは大石をもって山内の塁壁地に石垣が築かれはじめた。また「城内に天主を築くべし」@との信長公の命に従い、安土には尾・濃・勢・三・越五州に若州・畿内の諸侍、および京都・奈良・堺の大工諸職人が参集し、おのおの技巧のかぎりを尽くした。瓦焼には唐人の一観が加えられ、唐様に仕上げるよう申し付けられた。
 近接する観音寺山・長命寺山・長光寺山・伊場山Aからは大石が数多く引き出され、千・二千・三千とまとめられて安土山へ上げられていった。引き上げられた石は石奉行の西尾小左衛門・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某によって吟味され、小石は退けられて大石のみ選りすぐられていった。

 これらの石の中で、津田坊が運んできた蛇石と呼ばれる石はまた格別のものであった。すぐれた名石であったが、並はずれた大石でもあり、山麓までは運べたものの山上には一切上げられずにいたのである。結局この蛇石は羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の助勢一万人の手によって昼夜三日がかりで引き上げられることとなったが、このとき信長公は巧妙な手でB人足たちを囃し立て、いとも簡単に天主台へ引き上げさせることに成功したのであった。このように普請は昼夜の別を問わず、山も谷も動かんばかりの勢いで進められた。

 安土の普請が進む中、信長公はまた京都にも座所を造ろうと考えた。そして安土の監督は御息信忠殿に任せ、みずからは4月晦日に京都に入って二条妙覚寺に宿泊した。

 @安土城の場合、天守には「天主」の字を当てていたことが知られている Aいずれも安土周辺(現近江八幡市〜能登川町あたり)の山 B原文「御巧を以って」。足利義昭邸建造(巻二第二段)のときのように石を飾り立てて笛や太鼓で囃したものか

 

2、都屋敷  二条殿御構御普請の事

 京都では幸いにも二条晴良殿の屋敷地が空地になっていた。信長公はここの泉水・大庭の眺望に興を覚え、この地に普請することを決めて村井貞勝に普請の細目を申し聞かせた。

 

3、本願寺咆哮  原田備中、御津寺へ取出し討死の事

 4月14日、信長公は荒木村重・細川藤孝・明智光秀・原田直政の四名に上方の人数を加え、大坂の石山本願寺へ攻め寄せさせた@。四将のうち荒木村重は尼崎から海上へ攻め寄せ、大坂の北野田Aの地に三ヶ所の砦を築いて川手の通路を封鎖した。また明智光秀と細川藤孝は大坂東南の森口B・森河内Cに砦を構えた。そして原田直政は天王寺Dまで進出し、ここに要害を築いた。

 この攻囲勢に対し、敵方は楼岸Dと木津Eを抱えて海上を難波口から通行していた。この木津さえ押さえれば敵方の通路のすべてを閉ざすことができたため、信長公は攻囲勢にかの地を攻略させようと考えた。そして天王寺砦を佐久間甚九郎信栄と明智光秀に守らせ、その上で猪子兵介・大津伝十郎を現地へ検使に遣わして木津攻略の方針を伝えさせたのであった。攻衆は、この指示に服した。

 そして5月3日早朝、織田勢は先陣に三好康長と根来衆・和泉衆、二段に原田直政率いる大和衆・山城衆という陣容をもって木津へ攻め寄せた。ところが大阪方は楼岸から一万余もの一揆勢を出勢させ、織田勢を逆に押し包んで数千挺の鉄砲をもって散々に撃ち立ててきた。このため織田勢は上方の人数から一挙に崩れ立ってしまった。これを原田直政が危ういところで支え、敵勢と数刻に渡って激戦を繰り広げたが、やがて敵の猛勢に取りこめられるに至ってしまった。ここに原田直政をはじめとして塙喜三郎・塙小七郎・蓑浦無右衛門・丹羽小四郎といった士が一同に枕を並べて討死を遂げたのであった。勝ちに乗じた一揆勢は天王寺砦まで押し寄せ、佐久間信栄・明智光秀・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らの守勢を囲んでひた押しに攻め立ててきた。

 この時、信長公は京都にあった。そこでこの敗報を受けた信長公は、すぐさま諸国へ陣触れを発した。

 @前年10月に和睦を申し入れた本願寺であったが、この年春再び挙兵していた。 A現大阪市都島区・福島区(前出) B現守口市か C現交野市か D現大阪市東区 E現大阪市浪速区

 

4、天王寺  御後巻再三御合戦の事

 陣触れ後、信長公は軍勢の参着を待たずしてみずから後詰に出馬した。5月5日、明衣の軽装にわずか百騎ばかりの供廻りのみを率いて出京した信長公は、同日のうちに若江に到着した。そして次日も若江にとどまり、先手の様子などを聞きつつ人数が揃うのを待ったが、急な陣触れのこととて軍勢は待てども集まらなかった。下々の兵や人足たちが遅々としてなかなか到着せず、将領のみが先に着陣しているといった有様であった。

 しかしながら状況は猶予を許さず、現地からは「三日五日は抱えがたし」との注進が矢のように届いていた。ここで信長公は「かの者等を攻め殺させては、世上の非難は必定たるべし。それは無念である」と言い、5月7日わずか三千ばかりの兵で出撃し、一万五千もの敵勢へ打ち向かっていったのであった。
 信長公は三千の兵を三段に備え、住吉口から突入していった。

 先手第一段は佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝と若江衆であった。なおこのとき荒木村重は信長公から先陣をつとめるようにとの仰せを受けたが、村重は「我々は木津口の押えを仕る」といって受けなかった。このことを後になって信長公は、荒木に先をさせず正解であった、と回顧したということである。
 続く第二段は滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就が務め、最後の第三段は馬廻が固めた。そして信長公自身は先手の足軽に混じって戦場を駆け巡り、各所に下知をくだして総軍を指揮したのであった。そのさなかで信長公は薄手を負い、また足に鉄砲を受けたが、天道の照覧あって致命傷には至らなかった。

 この戦場において大坂方が織田勢へ数千挺の鉄砲を放つさまは、降りしきる雨のごとくであった。しかし織田勢はその中を懸命に防ぎつつ敵勢を切り崩し、血路を開いて天王寺へ駈け入り、砦衆と一手になることに成功した。しかし敵は大軍であり、引き揚げることもなく人数を立て直して攻囲の態勢を固めつつあった。

 これに対し、信長公は諸将へ重ねて一戦に及ぶ旨を告げた。将たちは味方の無勢を考え、「合戦は御遠慮なされるが最上」と口々に諌めたが、信長公は「か様に間近く寄合わせたるは天の与うる所である」といってこれを退けた。そして軍勢を二段に立て備えると、そのまま城外へと討って出たのであった。


 そして、織田勢は敵を追い崩した。だけでなく大坂本願寺の城戸口まで追撃し、敵首二千七百余を討ち取ることに成功したのであった。

 この戦ののち信長公は石山本願寺の四隅に十の付城を築かせ、天王寺には佐久間信盛・同信栄・進藤山城・松永久秀・同久通・水野監物・池田孫次郎・山岡景宗・青地千代寿らを定番に入れた。また住吉の浜手にも要害を設け、海上の警固として真鍋七五三兵衛と沼野伝内を入れ置いた。
 信長公は6月5日になって帰陣の途につき、当日は若江に泊まった。そして翌日帰洛前に槙島へ立ち寄り、この地を井戸若狭に与えた。かたじけなき次第であった。その日信長公は入京して二条妙覚寺に入り、翌日になって安土へ帰城した。

 7月1日からは安土普請の命が重ねて下された。命を受けた者達はいずれも粉骨の働きをしたため、或いは御服、或いは金銀・唐物と、下された褒美の品々はその数を知れなかった。なお、この時期丹羽長秀は信長公の意によって名物市絵を所持しており、また羽柴秀吉は同じく名物の大軸の絵を求めて所有していた。両人がそろって名物を所持していたというのも、信長公の威光の賜物であるといえた。

 

、木津川口海戦  西国より大船を催し木津浦船軍、歴々討死の事

 7月15日のことであった@。中国安芸の内に拠る能島・来島・児玉大夫・粟屋大夫・浦兵部らの水軍衆が、七、八百艘もの大船からなる大船団を催して大坂の海上へ現れた。船団の目的は、水路より本願寺へ兵粮を入れることにあった。

 この船団に対し、織田方からは真鍋七五三兵衛・沼野伝内・沼野伊賀・沼野大隈守・宮崎鎌大夫・宮崎鹿目介・尼崎の小畑氏・花隈の野口氏らが応戦に出、舟艇三百余艘で木津川口を固めた。しかし敵は大船八百艘の大群であり、その大戦力をもってまっすぐ織田水軍の中へ打ち入ってきた。ここに両軍相乗りかけての水戦が展開されたのであった。
 一方陸でも大坂の楼岸や木津の穢田城Aから一揆勢が出勢し、足軽を先頭に住吉浜手の城へ攻めかけてきた。これに対しては天王寺から佐久間信盛が出撃して一揆勢の横手を衝き、双方押しつ押されつの激戦を数刻にわたって繰り広げた。

 しかし、その間にも海上の織田勢は敗亡の色を深めつつあった。敵方は多勢を活かし、織田方の船を囲んでは焙烙玉や火矢を投げかけて船を焼き崩していったのである。織田方は多勢の前に抗うこともできず、真鍋七五三兵衛・沼野伊賀・沼野伝内・野口・小畑・宮崎鎌大夫・宮崎鹿目介らをはじめ数多の将兵がつぎつぎに討死を遂げていった。

 西国衆は大勝を得た。かれらは目的通り大坂への兵粮入れを果たし、西国へ引き返していった。信長公はみずから後詰に出馬すべく準備を急いでいたが、その前に味方の敗報が届き手立てを失った。城将らが討死した住吉浜の城には、新たに保田久六・礚井因幡守・伊知地文大夫・宮崎二郎七が番手として入れ置かれた。
 
 一方、安土山の普請はこの間にも着々と進められていた。
このうち天主の造りは以下のごとくになっていた。

一重
 石垣の高さ十二間余。石垣の内は土蔵として使用。天主はこれを一重目と数えて全七重からなる。

二重
 石垣上に広さ南北二十間、東西十六間半余り。柱数は二百四本。本柱は長さ八間、太さ一尺五寸・六寸四方木と一尺三寸四方木を用いる。座敷内の柱はことごとく布で飾り黒漆を塗る。
西側十二畳敷の間は狩野永徳の描いた梅の墨絵で飾り、絵の上下にはすべて金の装飾を施す。間内には付書院が設けられ、そこには遠寺晩鐘の風景画が描かれて前に盆山が置かれた。次室の四畳敷には棚に鳩の絵。その向こうの十二畳敷には鵞鳥の絵が描かれたため、この間は鵞の間と呼ばれた。十二畳敷の次の間は八畳敷、奥の間は四畳敷で、四畳敷の間には雉の子を愛でる図柄の絵が描かれた。
南側には唐の儒者の襖絵を飾った十二畳敷の間があり、これに八畳敷が続いた。
東側は十二畳敷の間に三畳敷、八畳敷の間が続き、この八畳敷が御膳拵えの間として使われた。八畳敷の隣にはもうひとつ八畳敷の間があり、こちらも同じく御膳の間に使われた。その向こうには六畳敷の間が二つ続いており、納戸として使用された。二つの部屋はいずれも金絵で装飾されていた。
- 北には土蔵があり、その隣の座敷は二六畳敷の納戸となる。二六畳敷の西側には六畳敷・十畳敷・同じく十畳敷・十二畳敷の間が続き、いずれも納戸として使われた。納戸の数は合わせて七つ。また階下には金燈籠が置かれた。

三重
 十二畳敷の間を花鳥の絵で飾る。これをもって花鳥の間と呼ぶ。一段上がって四畳敷の御座の間があり、同じく花鳥の絵を描く。
南は八畳敷の間があり、賢人の絵と瓢箪より駒の画題の絵で飾る。
東には麝香の間と呼ばれる八畳敷の間と十二畳敷が御門の上に位置する。次室の八畳敷には呂洞賓という仙人と「ふゑつ」Bの説話を題材にした絵が描かれた。
北は二十畳敷の間に駒の牧場の絵を飾る。隣には十二畳敷が続き、西王母Cの図が描かれる。
西側には絵はなく縁二段の広縁となる。このほか二四畳敷の納戸があり、納戸の口には八畳敷の座敷が位置する。柱数は一四六本。

四重
 西側十二間の板間に岩に木々色々の絵を描き、岩の間と呼ぶ。同じく西側の八畳敷には龍虎争闘の図。
南側十二間の板間に色々竹を描いて竹の間となす。次室十二間の板間には松ばかりを描き、こちらは松の間と名付ける。
東の八畳敷には桐に鳳凰の絵。次の八畳敷には「許由耳を洗えば巣父牛を牽いて帰る」Dの故事を、許由・巣父両人の出た故郷を背景に描く。その向こうの七畳敷の小座敷には絵は描かれず、金泥のみで装飾された。
北にも十二畳敷。ここには絵はなし。次室は同じく十二畳敷で、室内西二間のところに手鞠桜の図が描かれた。続く八畳敷の間は庭籠に入った鷹の子を描いた風景画で飾られたため、御鷹の間と呼ばれた。柱数は九十三本。

五重
 絵はなし。南北の破風口にそれぞれ四畳半の座敷があった。ここは小屋の段といった。

六重
 四間の八角堂となる。外柱は朱で塗り、内柱はすべて金で装飾された。内部は釈門十大御弟子や釈尊成道御説法Eなどの仏絵で飾り、縁には餓鬼や鬼の図が描かれた。縁輪の鰭板には鯱や飛龍を描き、高欄には擬宝珠の彫物が飾られた。

七重
 三間四方。座敷内は皆金で、外側もすべて金。四方の内柱には昇り龍・降り龍、天井には天人御影向図Fを描く。座敷内は三皇・五帝・孔門十哲・商山四皓・七賢などの絵が描かれ、十二個の火打ち金と宝鐸で飾られた。狭間戸は鉄製で数は六十ほどもあり、すべて黒漆で塗り上げられていた。柱は座敷の内も外も漆と布で飾られ、その上に黒漆が重ねて塗られた。

 最上層の金具類は後藤平四郎の手によるもので、京及び周辺の職工たちが手を尽くして細工した。二層目以下には京の躰阿弥の金具が用いられた。築造にあたったのは大工の岡部又右衛門、塗師頭の刑部、白金屋の大工宮西遊左衛門で、瓦は唐人の一観の指導に基づいて奈良衆が焼いた。普請奉行は木村二郎左衛門がつとめた。

 @正しくは7月13日 A現大阪市浪速区内 B殷の宰相の名 C仙女の名 D許由・巣父とも中国古代の隠者 E釈迦が悟りを得て説法を行うまでの説話 F神仏の現世出現の図

 

6、安土遠景  安土御普請首尾仕るの事

 安土城は広々とした深山の内に築かれ、麓には城館が歴々と甍を並べていた。家屋敷が軒を継ぎ、陽光に照らされて光り輝くその壮麗さは、まことに申し尽くせぬものがあった。

 城の西北は湖水漫々として舟の往来は殷賑をきわめ、湖上に浮かぶ遠浦帰帆・漁村夕照・浦々の漁火といった光景は瀟湘八景の絵を見るがごとくであった。湖上には名高い竹生島が浮かんでいたほか、竹島という名の厳々とそびえ立つ岩島なども浮かんでいた。暁夕には奥島@・長命寺観音の晩鐘の音が湖上を伝って人々の耳に触れ、湖水の向こうには比良の嶽A・比叡の大山・如意嶽Bの山々が浮かんで見えた。
 南は郷村の田畑が平々と広がり、その中に姿を富士にたとえられる三上山Cが横たわっていた。また東には観音寺山Dが連なり、山の麓には街道が延々と伸びて人々の往還が昼夜絶えなかった。山南には湖から入江が伸びて果てもなく広がり、城壁・城館が山下まで門を並べ、建物をかすめて吹き抜ける湖風の音がかまびすしかった。

 城の造作も絢爛をきわめていた。御殿は唐様に仕立てられて将軍の御所を模し、玉石・瑠璃を散りばめ、諸職人の美のかぎりがつくされていた。まことに花の都を移したがごとき美々しさで、御威光・御威信のほどは計りしれようもなかった。

 この時期信長公へは松花の壺・金花の壺といった名宝の品々が進上され、その機嫌を良からしめていた。また同時に六角承禎の家に代々伝わっていた真鳥羽根付き節無しの矢軸という名宝も布施三河守によって探し当てられ、信長公に献上されるところとなった。このように信長公のもとへは諸方から古今稀なる名宝の数々が集まり来っていた。

 ところで先年Eに佐和山で製造された大船は、このときまだ作り上げられたままに残されていた。この大船は以前に公方様が謀叛を起こしたみぎりに一度使用されたことがあったが、信長公は「この上は、大船は必要なし」と判断し、猪飼野甚介に命じて船体の解体を行わせた。そうして新たに早舟十艘に作り変えさせたのであった。

 その後11月4日になって信長公は上洛の途につき、陸路をとって瀬田を抜け、二条妙覚寺に入って宿泊した。上洛中の12日には中国より赤松広秀・別所小十郎長治・別所孫右衛門重宗・浦上遠江守宗景・浦上小次郎らが参礼に訪れた。

 @現近江八幡市沖島 A現大津市〜高島町間の群峰 B現京都市左京区内、大文字山 C現野洲町内 D現安土町内、安土山に隣接 E1573(元亀四)年、巻六第五段〜六段

 

7、以徳報官  御官を進められ御衣拝領の事

 この年天正4年丙子の11月21日、信長公は重ねて内大臣に官を進められた。このとき信長公は摂家・清華家などの公卿へ知行を加えたほか、禁中へも黄金二百枚・沈香・巻物など数と贅を尽くした名宝の品々を献上した。禁中からは報礼としてかたじけなくも御衣が下賜され、名誉・面目これに過ぎたるものはなかった。

 その後信長公は昇官の吉例によって石山寺世尊院にのぼり、ここで山岡景隆・景猶兄弟の祝賀の膳を受けた。石山では二日のあいだ放鷹を楽しみ、11月25日になって安土へ戻った@。

 @なお同月信長の内意により前伊勢国司の北畠具教が殺害されている。

 

8、御鷹野  三州吉良御鷹野の事

 12月10日、信長公は吉良で鷹野を行うため東下し、佐和山へ宿泊した。そして11日に岐阜へ入り、翌日まで逗留した。13日には尾張清洲まで下り、22日になって三河国吉良に到着した。吉良には三日間滞在し、その間鷹野で数多くの獲物を得た。

 信長公は26日になって帰着の途につき、同日清洲まで返した。そして12月晦日になって美濃へ入り、そのまま岐阜で越年した。

 

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