信長公記

巻八

天正三年

1、世均  御分国道作仰付けらるる事

 前年末、信長公は諸国の道路を整備する旨を朱印状をもって分国中に布達し、坂井文介・高野藤蔵・篠岡八右衛門・山口太郎兵衛の四名を奉行に任じて造成を進めさせていた。

 その計画が、この年の正月から2月にかけて次々と完成していった。整備の結果、分国中の入江や川には舟橋が設けられ、険路は平らに均されたうえ石も除けられて大道となった。また道幅は三間半と定められ、道の両側には松と柳の木が植えられ、土地の老若が日々掃除をおこなって路上の水と塵を払った。また信長公はこれと並行して諸国に数多く存在していた関銭諸役を免除したため、これまで路次で人々の通行を妨げていたものは一挙に取り払われることとなった。かくして難所の苦労は過去のものとなり、牛馬は労をまぬがれ、万民はおだやかに往還して暮らし安らぎ、家々のかまどの火は消えることがなくなった。人々は一生の思い出よ、有難き次第よと深く感謝し、みな十指をそろえて拝謝した。信長公の治政に対し、だれもが「齢ハ朔母ニ同シク福ハ須達ニ斉シ@」と深く感じ入っていた。

 2月27日、信長公は上洛のため岐阜を発ち、垂井に宿泊した。翌日は雨となったためこの地に連泊し、29日になって佐和山の丹羽長秀居館に入った。そして3月2日に永原へ宿泊したのち翌3日に都へ入った。今回の宿所は相国寺に定められた。
 そして在京中の3月16日、信長公のもとへ珍客が出仕した。

 それは今川氏真殿であった。氏真殿は百端帆Aを持ってあらわれ、これを信長公へ進上した。なお氏真殿は以前にも千鳥の香炉と宗祇の香炉を信長公へ進上しており、そのとき信長公は千鳥の香炉のみ受け取って宗祇の香炉は返却してやっていた。
 会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き、見物を望んだ。かくして3月20日相国寺内において蹴鞠が催され、信長公の見物するなか氏真殿ほか三条殿父子・藤宰相殿父子・飛鳥井殿父子・広橋殿五辻殿・庭田殿・烏丸殿が技芸を披露した。

 @朔と母は中国の長寿者の名で、須達は釈迦在世時に慈善事業を行った人の名だそうである。 A香炉または何らかの宝物と思われるが、不明

 

2、威を飼う  公家領徳政にて仰付けられ候事

 先年来、信長公は荒廃著しかった禁中に大補修を加えて往時の姿に復させていた。しかし公家衆はその間も窮乏したままに置かれており、その所領も方々に売却されてしまっていた。そこでこの年の4月朔日@、信長公は村井貞勝・丹羽長秀に命じて徳政を発し、人手に渡っていた公家衆の本領を持主に還付する措置をおこなった。これにより信長公は主上・公家・武家ともに再興したことになり、その名誉は天下無双といえた。

 なおこれに先立つ3月の下旬、武田勝頼の軍勢が三河国足助口に攻め入った。織田家ではこれに対応すべく、嫡男信忠殿が尾張衆を率いて東下した。

 @正しくは3月。なお同月信長は摂関家の二条家に養女を嫁がせるなど、朝廷政策に意を注いでいる。

 

3、南風凪ぐ  河内国新堀城攻め干され並に誉田城破却の事

 4月6日、信長公は都を出てそのまま南方へ出陣し、当日は八幡@、翌日は若江に陣を取った。そして若江に差し向けられていた大坂方の付城の萱振城Aには目をくれず、まっすぐ奥へ進んで4月8日三好笑岩康長の籠る高屋城Bに攻め寄せた。織田勢は町を破って進み、不動坂口で支える三好勢との間で押しつ押されつの戦いが展開された。
 この渡り合いの中、伊藤三右衛門の弟の伊藤三介が討死した。数度にわたり先懸けし、体中に手傷を負ったすえの死であった。この日信長公は旗下の働きを駒ケ谷山Cの山上より見守っており、戦場はまさに晴れの舞台であった。

 この日織田勢は誉田の道明寺河原まで進み、ここに陣を幾段にも連ねて野営した。信長公自身は駒ヶ谷山にあって佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・原田直政に命を飛ばし、四方へ足軽を放って谷々村々を放火させたうえ近隣の田畑を薙ぎとらせた。

 12日になって信長公は住吉へ移り、翌13日には天王寺に入った。信長公のもとへは畿内・若狭・近江・美濃・尾張・伊勢・丹後・丹波・播磨・根来寺四谷の将兵が残らず参集し、野営地の天王寺・住吉・遠里小野D近辺では兵らの焚く篝火の光が天を照らした。
 そして14日には大坂近くまで攻め寄せ、付近の作毛をことごとく薙ぎ払った。このとき信長公に従った軍勢は総勢十万余にも及び、都の貴賎はかつて見及んだこともない大軍に耳目を驚かせるばかりであった。

 4月16日、信長公はさらに遠里小野まで進んで陣を張った。ここでは信長公は兵卒に混じってみずから田畑薙ぎを行った。
 この遠里小野の先、堺近くの新堀Eには三好党の出城があり、十河因幡守・香西越後守が大将として入っていた。信長公はここを攻略すべく4月17日軍勢を寄せ、城を取り巻いて攻撃を開始した。そして19日夜、諸方で揉み合いが続く中を織田勢は城内へ火矢を放ち、堀を埋草で埋め、大手・搦手から切って出た敵を破って城中へ攻め入り、城を落とした。

 この攻防で香西越後守が織田勢の捕虜となり、本陣に軍兵が居並ぶ中を縄目をかけられ、視線を落とし唇をゆがめて引き立てられてきた。時はすでに夜中であったが、信長公は捕らえられたのが香西と知ると、日頃の不届きなる行状に照らし合わせて即刻処刑を行わせた。この香西に十河因幡守・十河越中・十河左馬允・三木五郎大夫・藤岡五郎兵衛・東村大和・東村備後らを加え、この戦で屈強の侍百七十余が討ち取られた。

 新堀陥落後、高屋城で抵抗を続けていた三好康長は松井友閑を通じて降伏を申し出た。信長公はこれを赦し、そののち原田直政に命じて高屋城をはじめとする河内国中の城をことごとく破却させた。河内が平定されたことにより、もはや大坂落城も時間の問題かと思われた。

 4月21日、信長公は京都に凱旋し、数日滞在して諸政をとりおこなった。そして27日に京を出、岐阜をめざした。予定では坂本から明智光秀の調達した船に乗って佐和山へ渡るはずであったが、思いのほか風が激しかったため経路を変更して常楽寺に上がり、そこから陸路を佐和山に入った。そして翌4月28日辰の刻に無事岐阜へ帰城した。

 @現京都府八幡町 A現大阪府八尾市内 BC現羽曳野市内 D現大阪市住吉区内 E現堺市新堀町

 

4、長篠  三州長篠御合戦の事

 5月13日、信長公は嫡男信忠殿とともに大兵を率いて東へ向かった。目的は、三河国長篠@を後詰することにあった。

 岐阜を出た織田勢は、その日は熱田に陣を取った。ここで信長公は熱田社の八剣宮が見る影もなく荒廃しているさまを目にし、大工頭岡部又右衛門に社殿の造営を命じた。翌14日は岡崎まで進んで宿陣し、次日もここに陣をとどめた。そして16日になって牛窪城Aへ移り、ここに城番として丸毛長照・福田三河守を置いた。そして自身は城を出、17日野田原Bに野陣を張り、18日にはさらに進んで設楽の郷C極楽寺山Dに陣を取った。同時に信忠殿は新御堂山Eへ陣を張った。

 設楽原は周囲を丘陵に囲まれた窪地の野となっており、約三万の織田・徳川勢は、この設楽原を前面に臨む西方の山々へ敵方から陣容が見えないよう警戒しつつ段々に陣を構えていった。先陣は当地の国侍が務めるという慣例に従い徳川家康がつとめ、ころみつ坂上の弾正山Fに陣を取った。それに続いて織田勢からは滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀の三将が有海原に上り、東向きに陣して武田勝頼に差し向かった。そして徳川・滝川の陣前には馬防のための柵が設けられた。

 設楽原を包む有海原の一帯は、左手は鳳来寺山Gから西に太山Hが連なり、右手は鳶の巣山Iから西に延々と山塊が続く深山の地となっていた。また太山と鳶の巣山のあいだには大野川Jが山並を縫って流れており、両山の間は南北に三十町ほどしか離れていなかった。そして北の鳳来寺山脇から流れてきた寒狭川Kがこの付近で大野川に合流しており、長篠はこの二川が城の南西を流れる平地に位置していた。

 この川を前に当てて鳶の巣山に陣を張っていれば、勝頼はその後の惨劇を見ることはなかったはずであった。しかし勝頼は長篠へは七手の攻衆を残し、みずからは寒狭川を越えて有海原へ三十町ほど踏み出してきた。その軍勢は甲信の兵に西上野の小幡党や駿河衆・遠江衆・三河の作手衆・田峯衆・武節衆らを加えて総勢一万五千を数え、設楽原を前に西向き十三ヶ所に分かれて布陣した。両陣の間は、わずかに二十町ほどをへだてるのみであった。

 信長公はこのように武田勢と指呼の距離に相対したことを天佑ととらえ、敵勢をことごとく討ち果たすことを決意した。さらには味方を一人として失わぬようさまざまに叡智を働かせた。

 まず信長公は酒井忠次を召し寄せ、彼を大将として徳川勢のうち弓・鉄砲の精兵二千と信長公馬廻の鉄砲五百挺、それに検使として金森長近・佐藤六左衛門・青山新七子息・賀藤市左衛門らを添えた都合四千ばかりの軍勢を率いさせた。信長公の命を受けたこの軍勢は20日戌刻に大野川を越え、南の深山を迂回し、翌5月21日辰刻長篠東南の鳶の巣山に攻めかかった。

 酒井勢は旗頭を押し立て、鬨の声をあげて山上へ攻め上がった。そして数百挺の鉄砲を轟然と発射して敵衆を追い散らし、攻囲の中にあった長篠城への入城を果たした。酒井勢はさらに城中の兵と一手となって敵中へ討って出、敵陣の小屋々々をことごとく焼き払った。これにより長篠の城兵は運を開き、また逆に七手の攻衆は思いもかけぬ襲撃に散々に敗北して鳳来寺をさして逃れていった。

 そのころ設楽原では、信長公が家康陣所の弾正山にある小高い山に上って敵方の動きを凝視していた。その下には佐々成政・前田利家・野々村三十郎・福富秀勝・原田直政らの奉行衆に率いられた、下知に従い自在に進退するよう固く命じられた鉄砲衆千挺がひかえていたL。

 やがて、戦が動いた。織田・徳川勢の動きに反応し、武田勢が突撃を開始したのである。一番に攻め寄せたのは山県三郎兵衛昌景の率いる精兵だった。山県勢は押し太鼓を鳴らして猛然と攻めかかってきたが、織田勢の鉄砲の前に散々に打ち立てられて引き退いた。かわって武田逍遥軒信廉が突撃してきたが、織田・徳川勢は敵がかかれば引き、退けば食い下がって密着し、下知通りの鉄砲射撃によって過半を討ち取った。三番手に寄せてきた西上野小幡党の赤武者も、馬上巧者として名高い関東衆の名にかけて騎馬で突撃をしかけてきたが、身隠しの胸壁の間から射撃を加える織田・徳川勢の前に兵の大半を討たれて退いたM。四番手には黒一色の軍装に身を包んだ武田典厩信豊勢がつづいたが、これも同様にして討ち果たされた。

 このように武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず鉄砲のみで応じた。そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、そのあとで人数を突入させていった。五番手には馬場美濃守信春勢が押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、結果は上と同様であった。

 5月21日日の出の刻から始まり、織田勢が東北東をさして戦ったこの戦は未刻Nまで続いた。その間武田勢は諸卒を突入させたが、そのたびに織田・徳川勢に討ち果たされて次第々々に無人となっていった。それでも生き残った将兵は武田勝頼の旗の下に集まり、敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、これを追撃した。

 この戦で討ち取られた首は、よく見知られた分だけでも山県昌景、小幡信貞、横田備中、川窪備後、真田源太左衛門信綱、土屋惣造昌次、甘利藤蔵、杉原日向、名和無理介、仁科、高坂又八郎昌澄、奥津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場信春など多数にのぼった。なおこのうち馬場信春の働きは比類のないものであった。この者達をはじめとして武田勢はこの一戦で数多の将兵を失い、討死した者の数は一万にも達したO。その中には山に逃げ入って飢え死にした者や、橋から川へ落とされて水死した者も多く含まれていた。

 総退却していった武田勢の陣所の虎口には、勝頼秘蔵の駿馬が置き捨てられていた。この名馬は乗り心地の良さから信長公の気に入るところとなり、以後信長公の厩舎に入れ置かれることとなった。

 こうして戦は終わった。信長公は三河国内の処置を行ったのち、5月25日になって岐阜へ帰還した。

 戦ののち徳川家康は余勢を駆って駿河に乱入し、国内諸所を焼き払って帰陣した。遠州高天神城はなお武田勝頼の手にあったが、これも落去は時間の問題と思われた。また美濃岩村城Pには秋山信友・座光寺為清・大島杢之助を大将とする甲信の兵が籠っていたが、これに対しては嫡男信忠殿が戦後ただちに馬を寄せて攻囲を開始した。

 この戦によって織田・徳川勢は大利を得、武田勢の手から三・遠の地を回復した家康は年来の愁眉を開いた。味方の損害を出すことなくしてこれほどまでに完璧に強敵を打ち砕いた例はかつてなく、その武勇は冥加の至りといえた。ここに辿り着くまでの数年間で信長公が弓矢に生きる者として味わい続けてきた、山野海岸を棲家に甲冑を枕とする辛苦の数々は、言葉に表しがたいものがあった。

 @現愛知県鳳来町長篠 A現豊川市牛久保 B現新城市野田 C設楽原をさす DEともに鳳来町内で、新御堂山は極楽寺山の北方に位置 F原文では「高松山」と表記。弾正山上にある古墳を高松山と呼んだと思われる。 GH長篠北方の山 I長篠南西の山 J原文「のりもと川」。大野川の別名 K原文「滝沢川」。同じく別名 L一般には織田・徳川連合軍の鉄砲三千挺とされるが、原文でははじめ千挺と記載されたものが後になって三千挺に修正されている。 M長篠の勝因は、鉄砲の火力にあったというよりはむしろ効率的な鉄砲運用を可能にした陣城構築にあったようである。さらにいえば、鳶の巣山襲撃と長篠城解放により、武田軍がその陣城に自ら攻撃を仕掛けざるを得ないような切迫状況に追い込まれたことも大きな要因となった。 N午後二時過ぎ O武田軍の実数は六千から一万と言われているので、この数はやや誇大。しかし武田軍が多くの兵と重臣を失う大損害を受けたことは間違いない。 P現岐阜県岩村町

 

5、山中の猿  山中の猿御憐愍の事

 このころ、憐情あふれる出来事があった。

 美濃と近江の国境に山中@という所があり、ここを通る街道の道端で一人の不具者が雨露に打たれて乞食をしていた。信長公は京都への往還の路次でたびたびこの乞食を目にしており、常々その様子に不憫を覚えていた。それに加えて信長公は、あるときこの乞食について「惣別乞食というものは住所も定まらず流れ歩くものである。然るにこの者だけはいつ見ても変わらずこの地にいる。これはいかなる仔細によるものか」と不審を覚えた。

 信長公は土地の者を呼び寄せ、事の仔細を尋ねた。すると土地の者からは「むかし、当地山中の宿で常盤御前を殺し奉った者がおります。その者の子孫が代々報いによって不具者に生まれつき、あのように乞食をして暮らしているのです。人はあの者を山中の猿と呼んでおります」との答えが返ってきたA。

 そのような受け答えがあったあとの6月26日、信長公は急用あって上洛の途に着いた。その途上、信長公は普段諸用に取りわずらわされる身でありながら、ふとかの猿のことを思い出した。すると信長公は供の荷物の中から木綿二十反を手ずからつかみ出し、それを持ったまま山中の宿まで進んで馬を止め、「当宿の者は男女を問わずまかり出よ。申し付けたき儀あり」と呼ばわった。土地の者たちは、いかなる事を仰せ付けられるのかと緊張の面持ちで集まってきた。

 信長公は集まった者たちを前に手にした木綿二十反を乞食の猿に与えた。そして現物は土地の者に受け取らせ、「この反物のうち半分をもって近くの家に小屋をこしらえ、この者が飢え死にせぬようよく情をかけて入れ置いてやれ」との言葉を添えた。重ねて信長公は「近郷の者達は、毎年麦ができれば麦を一度、また秋には米を一度、あわせて年二度ずつこの者に施しを与えてやってくれれば、信長にとってこれほど祝着なことはない」とも口にした。あまりのかたじけなさに、当の乞食猿は言うに及ばず山中宿中の者たちも落涙して袖をしぼらぬ者はなかった。

 御供の者たちもみな感涙にむせんだ。信長公はこのあとで供の者達にも扶持を加えてやったので、そのありがたさはもはや言葉にも尽くしがたかった。信長公にこのような慈悲深さがあったゆえに、諸天の加護あって家門の繁栄がもたらされたのであろうと感じ入ったものである。

 この日信長公は佐和山まで進んで休息し、そこから早舟に乗って坂本へ渡った。そして翌27日に御小姓衆五、六人のみを供に京へ入り、相国寺に寄宿した。

 7月1日、信長公のもとへは摂家・清華家の面々が参礼に訪れた。また播州の別所小三郎長治・孫右衛門重宗や三好康長・武田孫犬元明・逸見駿河・粟屋越中・熊谷伝左衛門・山県下野守・内藤筑前・白井某・松宮某・畑田某といった面々もそれぞれ在洛して信長公へ参礼し、塩河伯耆守国満は馬を拝領した。在洛中、信長公のもとへは他にも畿内隣国の面々が続々と出仕してきた。

 @現岐阜県関ヶ原町山中 A常盤御前は源義経の生母だが、実際は殺害されていない。何かの拍子でそういう伝承ができあがったものらしい。

 

6、御蹴鞠  禁中二おいて親王様御鞠遊ばさるるの事

 7月3日、禁中において誠仁親王様による蹴鞠の儀が催された。儀式の盛大さは申しようもないもので、信長公も馬廻を引き連れて参会した。

 鞠の見物は清涼殿の御庭で行われた。衆人が注視する中で儀式に当たった人々の名は、

誠仁親王様 立烏帽子に御直衣姿、色は紅と藍。下は指貫の袴。後で傍続@に着替えられ、その色は紅。
三条西大納言実枝殿    白の直衣に指貫の袴
勧修寺大納言晴右殿    檜皮の狩衣に指貫の袴
飛鳥井大納言雅教殿    紫の狩衣に葛袴
庭田新大納言重保殿    萌葱の狩衣に葛袴
甘露寺中納言経元殿    玉虫の狩衣に葛袴
高倉藤宰相永相殿      紫の狩衣に葛袴
山科左衛門督言経殿    紫の狩衣に葛袴
庭田源宰相中将重通殿     紫の狩衣に葛袴
勧修寺左大弁宰相晴豊殿  蜥蜴の狩衣に葛袴
三条西宰相中将公明殿   萌葱の狩衣に葛袴
中山左頭中将親綱殿     御冠束帯
飛鳥井中将雅敦殿      玉虫の狩衣に葛袴
烏丸弁光宣殿         紫紋紗の狩衣に葛袴
竹内右兵衛佐長治殿     萌葱の狩衣に葛袴
中院通勝殿          染紫の狩衣に葛袴
水無瀬兼成殿         萌葱紋紗の狩衣に葛袴
転法輪三条侍従実綱殿   地絵有り紺の狩衣に葛袴
日野輝資殿          紫の狩衣に葛袴
広橋兼勝殿          紺地紋紗の狩衣に葛袴
高倉永孝殿          金紗の狩衣に葛袴
万里小路権右少弁充房殿  緑青絵の狩衣に葛袴
薄以継殿            蘇芳の狩衣に葛袴
五辻新蔵人元仲殿      柳の狩衣に葛袴

この通りで、みな立烏帽子を着け、白洲に敷いた猫掻Aの上で蹴鞠を行った。

 御鞠の終了後、信長公は黒戸御所Bの置き縁まで伺候し、内侍所の官女よりかたじけなくも天盃を拝領した。同日信長公へは官位昇進の勅諚があったが、信長公はこれを斟酌して受けなかった。しかし内々思うところがあったのか、かわりに家老衆のうち松井友閑を宮内卿法印に、武井夕庵を二位法印にそれぞれ任官させ、また明智光秀には惟任日向守名を、簗田広正には別喜右近名を、丹羽長秀には惟住姓を授からせた。

 7月6日、上・下京の衆が妙顕寺において能を催し、信長公の御目にかけた。この会で桟敷の内に入ることが許されたのは、信長公のほか摂家・清華家の面々、ならびに武井夕庵・松井友閑・楠木長安正虎・長雲坊ら側衆のみであった。能は八番あり、観世与左衛門と観世又三郎が特に所望されて太鼓打をつとめた。

 このように盛事が続いたのちの7月15日、信長公は出京して下りの途に着いた。なおこれより前に信長公は江州瀬田の大橋の再建を命じており、山岡景隆・木村次郎左衛門の両名に若州神宮寺山Cや朽木山中Dから材木を切り出させていた。橋の建造は7月12日の吉日を選んで柱立の儀が行われ、この時すでに作業の真最中であった。建造される大橋は広さ四間・長さ百八十間余Eで、両側に欄干を設け、末代までも役立つようにせよとの信長公の命に従い堅牢無比な造りに築かれる予定になっていた。信長公が橋の建造を決めたのは広く天下の御為を考えてのことであったが、往還の旅人の利便を慮ってのことでもあったF。

 15日は常楽寺まで進んで宿泊し、翌16日は垂井に泊まった。そして17日には岐阜に着く路程であったが、途中行列をとどめて曾根Gに立ち寄った。稲葉一鉄はこの来訪をよろこび、孫たちに能をさせて信長公をもてなした。信長公は褒美として差していた腰の物を稲葉貞通の子に与え、曾根を出て17日のうちに岐阜へ帰着した。

 @狩衣の一種 Aむしろ B御所の御殿の一つ C現福井県小浜市内 D現滋賀県朽木村 E広さ約7.2m・長さ約324m F橋はこの年10月に完成 G現大垣市曾根町、稲葉一鉄の本拠地

 

7、血河行  越前御進発、賀越両国仰付けらるるの事

 8月12日、信長公は旗下の大軍勢とともに越州へ進発した。そして当日は垂井に宿陣し、翌13日は小谷の羽柴秀吉館に宿泊した。なおこの日、小谷では宿陣の総人数へ羽柴秀吉から兵粮が馳走された。14日には敦賀へ入り、武藤舜秀の居館へ宿陣した。

 このとき越前国内において一揆勢が抱えていた主な城塞は、

一、板取城@ 堅固に補修し、下間和泉法橋を大将として加賀・越前の一揆勢が在城
一、 木目峠  石田西光寺を大将として一揆勢を率い在陣
一、 鉢伏城A 専修寺・阿波賀三郎兄弟および越前衆が抱える
一、 今城B
一、 火燧城C 今城とあわせて堅固に固め、往古の木曽義仲のごとく能美川・新道川合流点の堰を切り、水を湛えて守る。下間筑後法橋大将
一、 大良越D・杉津城E・大塩Fに円光寺衆ら加賀衆を加えて在城
一、 海の手に新城を築き、若林長門・甚七郎父子を大将として越前衆が固める
一、 府中Gの竜門寺を補強し、三宅権丞が在陣

 これらに加えて各城塞を結ぶ足がかりの砦も各地に築かれ、一国が厳重に守備されていた。

 8月15日、殊の外の風雨を衝いて織田勢の先手が動きだした。その軍容は越前牢人衆を先陣として前波吉継父子・富田長繁H・毛屋猪介・佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・簗田広正・細川藤孝・原田直政・蜂屋頼孝・荒木村重・稲葉一鉄・稲葉貞通・氏家直通・安藤守就・磯野員昌・阿閉貞征・阿閉貞大・不破光治・不破直光・武藤舜秀・織田信孝・織田信澄・織田信包・織田信雄および伊勢衆ら総勢三万余を数え、大良越口から諸勢先を争って越前国内へ乱入していった。

 また海上からは粟屋越中・逸見駿河・粟屋弥四郎・内藤筑前・熊谷伝左衛門・山県下野守および白井・松宮・寺井・香川・畑田各氏の水軍が攻め寄せた。丹後から加わった一色満信殿・矢野・大島・桜井各氏の水軍もあわせて都合数百艘となった船団は、船旗をなびかせて津々浦々へ押し上がり、諸所へ火焔を立ちのぼらせた。これに対し越前衆からは円光寺党および若林長門父子が応戦に討って出たが、迎撃した明智光秀・羽柴秀吉勢により簡単に破られてしまった。明智・羽柴両勢は潰走する敵勢を追い崩して二、三百人を討ち取り、敵方両将の城まで押し入って完全に焼き払った。討ち取った首は15日中に敦賀へ届けられ、信長公へ披露された。

 この日夜に入って織田勢は府中竜門寺の三宅権丞の砦を夜襲して奪い、さらに近辺へも放火した。これにより後背を衝かれたことを知った木目峠・鉢伏城・今城・火燧城の一揆勢は狼狽し、我先に府中へと退いていったが、逆に待ち受けた羽柴秀吉・明智光秀の両勢に一網打尽に捕捉され、府中の町で加賀・越前の一揆勢二千余が一挙に斬り捨てられる結果となってしまった。この戦果をまねいた羽柴・明智の手柄のほどは申しようもないものであった。なお一揆勢のうち阿波賀三郎・与三兄弟は信長公へ赦免を願い出たが許されず、命を受けた原田直政の手によって処刑された。

 16日信長公は馬廻ほか一万余の兵を率いて敦賀を出立し、木目峠を越えて府中竜門寺の三宅権丞砦跡へ陣を寄せた。ここで信長公は福田三河守を今城に置いて路次の警備を固めさせ、また山中に遁れていた下間筑後・下間和泉・専修寺住持を捜し当てさせて首を斬った。下間らを捕らえ、それを手土産に赦免を願い出てきたのは一揆勢に降っていた朝倉景健であったが、それで信長公の怒りが解けることはなかった。信長公は向駿河守に命じて景健を自害させた。
 しかしここで奇特なる働きがあった。上の顛末を知った景健家来の金子新丞父子・山内源右衛門の三名が、主に殉じて追腹を切ったのである。これには執行に当たった向駿河守も肝を潰して感じ入った。

 18日には柴田勝家・丹羽長秀・織田信澄の三将が鳥羽城へ攻めかかり、これを破って敵勢五、六百を討ち取った。また金森長近と原彦次郎長頼は美濃口から根尾I・徳山Jを越えて大野郡へ侵入し、付近に散在する一揆方の小城を落として敵勢数多を斬り捨て、その後協同して諸口へ放火した。

 これにより国中の一揆勢は壊乱し、右往左往しながら取るものも取りあえず山中へ逃げ入っていった。
 しかし信長公は殲滅の手をゆるめず、「押し進みつつ山林を尋ね探り、男女を問わず斬り捨てよ」と厳命したのであった。

 織田勢が進撃を開始した8月15日から19日の間に諸方から捕縛され引き立てられてきた男女の数は、記すところによれば一万二千二百五十を数えたという。そして信長公は御小姓衆に命じ、これら搦め取った男女を余すところなく誅戮したのであった。このほか国外へ奪い去られた男女もその数を知れず、生捕・誅殺された人々の数は合わせて三、四万にも上ると思われた。

 8月23日、信長公は一乗谷へ陣を移した。在陣中、信長公のもとへは稲葉一鉄父子・明智光秀・羽柴秀吉・細川藤孝・簗田広正らの参陣諸勢が加賀への乱入を果たしたとの報がもたらされた。
 28日には豊原Kへ移った。ここでは堀江景忠や小黒西光寺らの面々が陣所を訪れ、赦免の御礼を申し述べた。

 この間、加賀では能美・江沼の二郡がまたたくまに織田勢の手に属していた。信長公は両郡のうちに檜屋城L・大聖寺城Mの二城を築城し、簗田広正・佐々権左衛門に堀江景忠を加えた人数を入れ置いた。

 9月2日、信長公は豊原を出て北の庄Nへ行き、この地で縄張りを行って堅城を築くよう命じた。
 この北の庄の普請場において、信長公は近江高島郡打下の林与次左衛門を誅殺した。理由は先年志賀の陣において浅井・朝倉勢と対陣した際、林は早舟に乗っておきながら敵勢へは渋矢を射かけるのみであった等、数々の懈怠があったためと考えられた。

 かくして越前国は平定され、国内のうち八郡は柴田勝家に与えられた。また大野郡の三分の二は金森長近に、残り三分の一は原長頼に宛行われ、以後両人とも大野郡に在城することとなった。さらに府中には拠点の一城塞が築かれ、不破光治・佐々成政・前田利家の三名が付近の二郡を与えられて在城した。また敦賀郡は武藤舜秀の在地として留め置かれた。

 戦後、明智光秀にはただちに丹後出陣の命が下された。この出兵ののち丹後国は一色満信殿に与えられ、丹波国のうち桑田郡・舟井郡は細川昭元殿に下されることとなった。また荒木村重にも越前より直に播州奥郡へ出兵してかの地の人質を取りかためるべしとの命が与えられた。

 9月14日になり、信長公は豊原本陣を引き払って北の庄へ入った。ここでは滝川一益・原田直政・丹羽長秀の三名が奉行となって足羽山Oに陣屋が築かれたが、完成した陣屋が馬廻・弓衆の歴々衆に前後を囲まれて山上に屹立するさまは、まことに豪壮極まりないものであった。足羽山の陣には加賀・越前両国の諸侍が帰参の礼に詰めかけ、門前に市をなすがごとき盛況となった。

 この間、信長公が近々帰陣するとの噂を耳にしたものか、加賀奥郡の一揆勢が人数を催してきた。これに対し、織田軍中の羽柴秀吉は「天ノ与フル所」とばかりに敵勢を迎えて一戦に及び、見事屈強の敵首二百五十余りを討ち取った。この一揆勢撃退の報を受けたのち、信長公は越前を後にした。

 越前を出るにあたり、信長公は以下のような国掟を定めた。

掟 条々 越前国

一、 国中へ不当なる課役を申し付けるべからず。もし火急の用あって課役いたしたき場合には、必ず信長方へ相談してその指示に従うべきこと。

一、 国内に立て置いた侍達を我意に扱うべからず。彼らに対しては十分に懇ろにすべきであるが、さりとて帯紐を解いて油断してもならない。気遣いが肝要であり、とりわけ新領の給付についてはくれぐれも厳密に行うべきこと。

一、 公事の規定は道理に従い公正たるべし。ゆめゆめ贔屓偏頗をいたさず裁定すべきこと。もしその裁定において双方納得せざる場合には、雑掌をもって信長方へ伺いをたて解決すべきこと。

一、 公家領について、応仁ノ乱以前より知行の分についてはその家へ還付すべきこと。これには信長の朱印状を必要とする。これは従前の法理に従う。

一、 分国諸関廃止のことは、当国も同様とすること。

一、 大国を預け置かれた以上は、万端に気を遣いくれぐれも油断があってはならない。なによりも武辺が肝要である。日頃より武具・兵粮をたくわえ、五年も十年も確実に維持する分別が必要なことは勿論である。要は欲を捨て去りつつ、収めるべきものは確実に徴収して知行するよう覚悟すること。寵童を用いたり、手猿楽・遊興・見物等に耽ってはならない。

一、 鷹狩を行ってはならない。城地の地形を見きわめる目的でするものは例外とするが、それ以外は禁止とする。子女達が行うについては例外なく禁止のこと。

一、 知行高にもよるが、領内のうちまず二、三ヶ所は給人を設けずに直轄しておき、忠節の共輩に功労によって与える土地の用意があることを知らしめておくこと。武辺を励んでも恩賞に扶持する所領も持たぬ者よ、と諸人に思われては折角の勇も忠も浅くなってしまうので、この分別は肝要である。なお給人を付けぬ間、その地は信長の蔵入地とすべきこと。

一、 以上新例として申し付けたが、まず何事においても信長の申し付けに従う覚悟が肝要である。さりとて信長の申し様に無理・非法の儀があるのを承知しながら、うわべで巧言を使っていてもならない。何か差し障りがある場合には申し出ること。こちらも聞き届けてそれに従うであろう。とにかくも信長を崇敬し、陰後にも仇に思ってはならない。わがほうには足をも向けぬ心持ちが肝要である。そのようにしていれば必ずや侍の冥加に恵まれ、武運長久たりうるであろう。分別に励むこと。

天正三年九月日

 以上であった。またこれと同時に不破光治・佐々成政・前田利家の三名にも以下の文書が発給された。

越前国の儀、大部は柴田勝家に申し付けた。両三人には柴田目付として二郡を与えるにつき、信長へ柴田方の善悪を告げ来たるべきこと。互いに練磨するようよく分別し、容赦手加減があってはならない。

天正三年九月日

不破河内守殿
佐々内蔵助殿
前田又左衛門尉殿

 このように申し付けたのち、9月23日信長公は北の庄を出て府中に入った。そして翌24日椿坂、25日垂井と宿泊し、9月26日岐阜へと帰還したのであった。

 10月3日、かねてより奥州で求めさせていた鷹五十匹が岐阜に届いた。信長公はそのうち二十三匹を自分の所有とし、残りは家臣たちに与えた。そして10月10日、信長公は手に入れた鷹のうち上鷹十四匹と端鷹三匹を連れて上洛の途につき、その日は垂井に宿陣した。次日は柏原で三条実綱殿・水無瀬兼成殿の御迎えを得たのち、佐和山に宿泊した。

 翌12日は永原に入った。なおこれに先立って瀬田では以前より申し付けていた大橋の再建が完了しており、信長公はできあがった橋を一見するためここから先も陸路を進んだ。瀬田で目にした橋の出来は申し分なく見事なもので、だれもが耳目を驚かせたものであった。
 かくして行列は京へ進んだ。途中瀬田・逢坂・山科・粟田口の辺には摂家・清華家および近国諸侯の人衆が満ち満ちて行列を迎え、その崇敬ぶりは並々ならぬものであった。

 10月19日、奥州の伊達氏よりがんぜき黒・白石鹿毛の名馬二頭に鶴取りの鷹二匹が献上された。このうち鹿毛の馬の乗り心地は奥州でも比類のないもので、以後信長公のいたく気に入るところとなって秘蔵され、「龍の子」ともてはやされることとなった。
 この日信長公は清水まで出、そこで伊達氏の使者の鷹居P菅小太郎・馬添Q樋口某らを引見した。そして会見ののち、村井貞勝に命じてかれらに返礼の品々を持たせた。品は虎皮五枚・豹皮五枚に緞子十巻・志々羅綾二十反で、このほか使者の二名にも黄金二枚が下された。

 翌10月20日には播州の赤松・小寺・別所ほか多くの遠国衆が参洛し、信長公へ謁見した。

 @現福井県今庄町板取 A現今庄町・敦賀市間 BC現今庄町内 D現河野村内 E現敦賀市杉津 F現武生市大塩町 G現武生市 H前波吉継・富田長繁はこれより以前に死亡している。その遺臣という意味か I現岐阜県根尾村 J現岐阜県徳山村 K現福井県丸岡町豊原 LM現石川県加賀市内 N現福井市 O現足羽町内 P鷹匠 Q馬の世話人

 

8、和戦両輪  大坂三軸進上の事

 10月21日、信長公は三好康長・松井友閑の両名を使者に立て、大坂の石山本願寺と和睦した@。これに対し大坂からは平井越後・八木駿河・今井某の年寄衆が和睦の御礼に参上し、信長公へ小玉潤・枯木・花の絵の三軸を献じた。また三好康長からは天下に隠れなき名物の三日月の葉茶壷が進上された。

 10月23日には飛騨国司姉小路頼綱卿が上洛し、信長公へ参礼して栗毛の馬を進上した。献じられた馬は一段の駿馬で、以後信長公の愛蔵するところとなった。

 @原文「御赦免なり」。長島・越前の殲滅を受けて本願寺側から和睦の申し入れがあった。

 

9、名物茶席  御茶の湯の事

 10月28日、京・堺の数寄者を集めて二条妙覚寺で茶会が催された。茶席は、

一、 床間に遠寺晩鐘の絵、三日月の茶壷を飾る
一、 違棚の置物に七台の茶碗、白天目の茶器、内赤の盆、九十九茄子の茶入れ
一、 下に合子の建水@を締め置き、乙御前の釜を用いる
一、 松嶋の茶壷
一、 茶頭は千宗易

というもので、参会した面々にとっては生前の思出となるかたじけなき一席となった。

 @水入れ(水こぼし)の茶器

 

10、右大将信長  信長御昇殿の事

 このころ信長公は右大将への任官が定まり@、その拝賀の儀式をとり行うため10月初旬より木村次郎左衛門を奉行に命じて禁中に陣座Aを築かせていた。

 その陣座が完成したのちの天正3年11月4日、信長公は昇進して大納言の位にのぼった。そして同7日に拝賀御礼のため参内し、大納言三条西実枝殿を名代として帝に御礼を言上した。このとき警固として禁中に供奉していたのは弓衆百人であったが、かれらには天子よりかたじけなくも天杯が下賜された。上古末代に未聞の栄誉であり、御威光これに過ぎたるものはなかった。

 さらに同日、信長公は定め通りに重ねて右大将に任ぜられた。これらの昇進・任官に対する御礼の品は砂金・反物など数と贅を尽くしたもので、天覧に供せられたのち公家衆にもそれぞれ分与されることとなった。また同時に公家衆には信長公より知行も加えられた。まことに名誉の次第であった。

 @朝廷からは以前より昇進の打診があったが、信長はこれまで辞退し続けていた。右近衛大将は源頼朝以来武家の重職。 A儀式のための式場

 

11、四郎重来  武田四郎岩村にて勝利を失ふの事

 都が盛事に沸く中、美濃から武田勝頼が甲斐・信濃の土民百姓までをも動員し、攻囲の中にある岩村城を後巻するための兵を催してきたとの報がもたらされた。この一報を耳にした信長公は11月14日戌刻に京を出、夜に日を継いで行軍し、翌15日には早くも岐阜へ到着していた。

 しかしそれに先立つ10日の夜に、武田勢は岩村の攻衆が陣を構える水晶山@へ夜討ちを仕掛けてきた。だが織田勢は素早くこれに応じ、河尻秀隆・毛利秀頼・浅野左近・猿荻甚太郎らが各所で敵を支え、逆襲して敵勢を山から追い崩すことに成功した。

 @現岐阜県岩村町内

 

12、岩村落城  菅九郎殿岩村御存分に仰付けらるるの事

 夜討ちが失敗に終わったことを知った岩村の城兵は柵を破って夜討ちの衆を収容し、かれらと一手になろうとした。しかしそこへ嫡男信忠殿の先懸けのもと織田勢が一気に突き入った。その働きようは全く比類のないものであり、織田勢は山々へ逃げ散った賊徒たちを尋ね出しては討ち倒し、甲斐・信濃の兵のうち大将二十一名に屈強の侍衆千百余を斬り捨てることに成功した。
 岩村の城衆はこの敗戦に精根を使い果たし、塚本小大膳を通じて織田勢へ降伏助命を願い出てきた。ここに塚本小大膳を目付として塙伝三郎が添えられ、城衆の降伏が認められた。

 しかし11月21日になって城将の秋山信友・大島杢之助・座光寺為清が赦免の参礼に訪れたところ、彼らは織田勢の手によって捕縛されてしまった。そしてそのまま岐阜へ連行され、長良川の河畔で磔に処されてしまった。

 一方岩村では城に残っていた諸卒が寄せ手に追われ、遠山市丞丸へと追い込められた。追い詰められた遠山二郎三郎・遠山市丞・遠山三郎四郎・遠山徳林・遠山三右衛門・遠山内膳・遠山藤蔵らは時を移さず覚悟を固め、郭外へ切って出て寄せ手を散々に切り崩し、数多に傷を負わせたすえに見事討死を遂げた。残った残党は織田勢によってことごとく焼殺されてしまった。

 武田勝頼はこの報せを聞き、本国へ詮なく馬を返した。戦後の処置は信忠殿の御存分に嘱され、岩村城には河尻秀隆が入れ置かれた。そして信忠殿は11月24日に岐阜へと帰陣したのであった。

 

13、秋田城介  菅九郎殿御位の事

 今般信忠殿はかねてよりの比類なき働きにより忝くも天帝より院宣を賜り、秋田城介に任官する運びとなった@。まことに冥加の至りであった。

 @11月7日任官

 

14、家督移譲  御家督御譲の事

 11月28日、信長公は織田家の家督を嫡男信忠殿へ譲り渡した@。織田家家督となった信忠殿には尾張・美濃の与奪進退が任せられたほか、長年の粉骨の賜物である金銀散りばめた城館、曽我五郎所用の星切の太刀など、これまで信長公のもとに集め置かれていた三国の重宝の数々がこぞって譲り下げられた。そして信長公自身は茶道具のみを携え、佐久間信盛の館へ座を移したのであった。まことに親子ともども御果報大慶の至りであり、珍重のかぎりといえた。

 @この家督移譲は信長が信忠の力量を認めたという意味のほか、信長自身が織田家家督から離れることにより自らを織田家や分国諸大名から一段上がった「公儀」(公権)の立場に位置付けようとする意味をも持っていた、と説明される。

 

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