信長公記

巻七

天正二年

 

1、薄濃  義景・浅井下野・浅井備前三人首御肴の事

 この年の正月元日、岐阜には京都および近国の武将たちがこぞって年賀の礼に訪れた。城では酒宴が催され、参集した諸将はそれぞれに三献の歓待を受けた。

 そして盛大な宴が終わり、外様衆が退出したあと、馬廻だけを残しての内宴が行われた。
その席上、おそらく古今誰も見聞したことのない珍奇の肴が供せられた。

 その肴とは、

朝倉義景首
浅井久政首
浅井長政首

であった。この三つ首を薄濃@にして白木の台に据えたものを宴席に置き、それを肴に酒宴を行ったのである。宴は謡や遊興で盛り上がり、誠にめでたき有様で信長公も満悦の様子であった。

 @漆で固めて金等で彩色したもの

 

2、越前擾乱  前波生害、越前一揆蜂起の事

 正月19日、越前の前波吉継@が国中の諸侍に攻め潰されて死んだとの報が岐阜の信長公へもたらされた。前波は先年より信長公によって越前国守護代に任ぜられていたのだが、地位に溺れるあまり恣意の振舞いが多く、かつての同僚に対しても万事につき無礼な態度をとっていた。そのため国内の地侍たちは憤激し、一揆を結んで前波を攻め殺してしまったのである。地侍たちはその上で国境の地に要害を構えて防備を固めたため、越前国は一揆持ちの国と相成ってしまった。

 これに対し、信長公はひとまず羽柴秀吉・武藤宗右衛門舜秀・丹羽長秀・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利および若州衆を敦賀へ遣わし、備えを固めさせた。

 @前波吉継は別名桂田長俊、前波長俊とも

 

3、明智城赴援  明智の城いいばさま謀叛の事

 さらに正月27日には、武田四郎勝頼の軍勢が岩村@へ侵入して明智城Aを囲んだとの飛報が届いた。この武田勢の来攻に対し、信長公はすぐさま後詰の派遣を決め、2月1日まず濃尾両国の人数を先陣として向かわせた。そして5日になって信長公父子も出馬し、その日は御嵩Bに陣を取った。

 翌6日、信長公は高野Cへ陣を移し、翌日にも武田勢へ戦いを挑もうとした。しかし一帯は険山の連なる天然の節所となっており、織田・武田両勢ともなかなか身動きがとれず、互いに攻撃を開始できずにいた。信長公はそれでも「山々へ移りつつ手遣いせよ」と命じて作戦を続けようとしたが、その間に城中で飯羽間右衛門が謀叛を起こして城が落ちてしまった。

 城が落ちてしまっては是非もなかった。信長公は軍勢を返し、高野に城を普請して河尻秀隆を入れ、また小里Dにも付城を築いて池田恒興に守らせ、両名をして武田勢に備えさせた。
 そして2月24日になり、信長公は嫡子信忠殿とともに岐阜へ引き揚げた。

 3月12日、信長公は上洛のため岐阜を発ち、佐和山へ入って数日滞在した。そして16日永原へ宿泊したのち17日に志那から坂本へ渡った。

 @現岐阜県岩村町内。なお岩村城は元亀3年(1572年)より武田方の城となっていた。 A現明智町 B現御嵩町 CDともに現瑞浪市内

 

4、蘭奢待  蘭奢待切捕らせらるるの事

 上洛した信長公は初めて相国寺に宿を取り、ここから内裏へ南都東大寺に眠る名香蘭奢待を所望する旨の奏聞を行った。すると内裏では3月26日に日野輝資殿・飛鳥井大納言殿の勅使を南都に下し、東大寺へ蘭奢待切り取りの院宣@が下された旨を伝えさせた。勅諚を拝受した東大寺の僧衆は、蘭奢待の開封を認めた。

 信長公は香木切り取りのため27日、原田直政・菅谷長頼・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆・荒木村重・武井夕庵・松井友閑・津田坊らの奉行衆を従えて奈良多聞山城へ入った。

 28日辰の刻、倉Aが開かれた。かの名香は長さ六尺の長持に納められていた。香はすぐに多聞山城へ運ばれ、城中御成の間に据えられた。そして諸将が注視する中、信長公は古法に従い蘭奢待の香木から一寸八分四方を切り取った。信長公は「末代までの物語にせよ」と、切り取った香木を御供の馬廻に披露した。

 現世の思出としてこれに過ぎたるものはなく、またこれほど威光に満ちた出来事はなかった。そもそも蘭奢待の名香は寛正の昔に東山殿が切り取りを許されて以来B、将軍家の内で所望する御方が跡を絶たなかったものの、今に至るまで結局誰一人として許されることのなかった秘宝であった。その秘宝が、このたび仏天の加護あって信長公へ下されたのである。三国に隠れなき名物を手にしたその栄誉は、何事にも換えがたいものであった。

 4月3日、大坂の石山本願寺がふたたび敵対の狼煙を上げた。信長公はすぐさま兵を大坂へ向かわせ、田畑薙ぎと放火を行わせた。

 @「綸旨」の誤記か、「院宣の形式を取った勅諚」の意のどちらか A正倉院 B寛正6年(1465年)、東山殿足利義政が切り取りを許される

 

5、寒雨  佐々木承禎石部城退散の事

 4月13日、甲賀口の石部城@に拠っていた六角承禎が、夜間雨に紛れて城を退散した。後には佐久間信盛の人数が入れ置かれた。

 @現滋賀県石部町。元亀以来、六角父子は甲賀地方を基盤に信長へ抵抗を続けており、この石部がその最後の拠点となっていた。

 

6、賀茂の御神事  賀茂競馬御馬仰付けらるるの事

 5月5日は賀茂の例祭で、競馬の御神事に天下が祈祷をささげる日であった。この時期幸いに在洛していた信長公のもとへは、神事に競わせる馬を出してほしいとの要請があった。信長公はそれを了承し、数々の合戦に乗りまわした蘆毛・鹿毛の馬二頭に馬廻の駿馬十八頭を加えた都合二十頭、番数にして十番分を出すことを決めた。信長公はそれだけでなく二十頭分の鞍・鐙・轡をすべて名物の馬具で完装させ、おびただしい進物をつけて送り出した。随行した近習たちの装束の美々しさも、また上古に例のないほどであった。

 神事では黒装束の禰宜十人と赤装束の禰宜十人とが二十頭の馬にまたがり、一番ずつ馬を走らせて勝負を競った。信長公の蘆毛・鹿毛の乗馬は元来が駿馬であったため、いずれも勝ち馬となった。集まった群集は老若貴賎とも一代の盛事に歓喜した。

 その後信長公は京にあって天下の諸色を沙汰し、5月28日@になって岐阜へ下った。

 @正しくは5月16日、武田氏へ対応するため岐阜に帰還

 

7、要陥つ  高天神城小笠原与八郎謀叛の事

 6月5日、武田勝頼の軍勢が小笠原氏の拠る遠州高天神城@へ攻め寄せたとの報が入った。これに対し、信長公はみずから後詰に赴くべく6月14日嫡男信忠殿とともに濃州岐阜を発った。そして17日に酒井左衛門督忠次居城の三河国吉田城に入った。
 しかし19日、信長公父子が今切の渡しAに差しかかったとき変報が届いた。城中で小笠原与八郎が逆心し、惣領家を追放して武田勢を引き入れてしまったというのである。これを聞いた信長公は致し方なく馬首を返し、吉田城に引き返した。吉田城には遠州浜松から徳川家康も下ってきていた。

 @現静岡県城東村 A浜名湖の渡し

 

8、一城万金  黄金家康公へ進ぜられ候事

 徳川家康は信長公に、今回の後詰に対する謝礼を申し述べた。しかし信長公は自身が援軍に赴きながら合戦に至れなかったことを無念とし、兵糧代として黄金入りの皮袋二つを馬につないで家康へ贈った。

 贈られた徳川家では、ためしに袋を家中の者に持ち上げさせてみた。すると袋は二人がかりでやっと一つを持ち上げられるほどの重量があった。人々は贈られた黄金のあまりの量に驚き、上下を問わず見物に集まっては「このようなことは、昔にも聞き及んだ事がない」といって耳目を驚かせた。
 これにより人々は信長公の威光をあらためて感じたのであった。これほどの財物を贈られた家康の心中は、計りしれないものがあった。

 そして6月21日になり、信長公父子は濃州岐阜へと帰陣した。

 

9、長島殲滅  河内長嶋一篇に仰付けらるるの事

 7月13日、信長公は河内長島を討滅すべく息子信忠殿とともに軍を発し、同日津島に着陣した。

 尾張国河内から伊勢長島に及ぶ一帯は隠れもない節所であり、美濃より流れ出る川々が幾条とも知れず流れ集まっていた。それらの河川のうち大なるものとしては岩手川・大滝川・今洲川・牧田川・一之瀬川・杭瀬川・山口川・飛騨川・木曽川・養老の滝で知られる養老川などがあり、これらの大河に加えて周辺の山々から流れ出る谷水もこの地で合流して一個の大流を形成していた。そしてこれらの流れは長島の北・東・西三〜五里の内を幾重にも囲みつつ南の海にそそいでおり、その中に位置する長島はまさに四方を節所に囲まれた難攻の地であった。

 このような特性を持つ長島には、いつの頃からか地の利を嗅ぎ取った近隣の奸賊・凶徒が参集し、願証寺@を崇敬して団結していた。その願証寺は本願寺の念仏修行の道理を基とせず、学問無智ゆえに栄華に溺れ、乱行のうちに日を暮らし、数ヶ所に城砦を築いて国方・公方に逆らい、あまつさえ諸国の罪人をも抱えて兵力を蓄えてはその武力で近隣各所を押領していた。
 元亀元年、河内郡小木江に在城していた御舎弟の彦七信興殿が、浅井・朝倉と対陣中の信長公の隙を衝いて攻め寄せた一揆勢のために割腹して果ててから今に至るまで、信長公は長島の一揆勢に苦渋を舐めさせられつづけてきた。信長公の憎悪の念はつのる一方であったが、変転する天下の情勢がこれまで信長公に復讐のすきを与えずにいた。

 その機会がついに訪れたのであった。信長公はこの一戦で長島に盤拠する一揆勢を討滅し尽くすことを決意し、7月14日長島に通ずる諸口へ旗下の大軍勢を進軍させた。

 織田勢のうち、東からは御嫡男勘九郎信忠殿が市江口Aを進み、織田信包・津田半左衛門秀成・津田又十郎長利・津田市介信成・津田孫十郎信次B・斎藤新五・簗田広正・森勝蔵長可・坂井越中守・池田恒興・長谷川与次・山田三左衛門・梶原平次・和田新介・中島豊後守・関小十郎右衛門・佐藤六左衛門・市橋伝左衛門C・塚本小大膳が従った。

 西は香取口Dから佐久間信盛・柴田勝家・稲葉一鉄・同貞通・蜂屋頼隆が進み、松之木Eの渡りを渡河して対岸で防備を固めていた一揆勢を馬上より蹴散らした。

 主軍の信長公は中筋の早尾口Fへ向かい、木下小一郎秀長・浅井新八・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・飯沼勘平・不破光治・同勝光・丸毛長照・同兼利・佐々成政・市橋九郎左衛門C・前田利家・中条将監・河尻秀隆・津田大隈守信広B・飯尾隠岐守が先陣に立った。

 一揆勢は小木江村を封鎖して中筋の織田勢を防ごうとしたが、すぐに突破されてしまった。また篠橋Gにも人数を出して防備していたが、こちらは木下秀長・浅井新八の両名が攻撃に当たった。一揆勢はさらにこだみ崎Hの河口に船を取り集め、対岸から進んでくる織田勢を堤上で迎え撃とうとしたが、丹羽長秀の攻撃の前にもろくも打ち崩された。このほか前ヶ洲・海老江島・加路戸・いくいら島Iの一揆方拠点も同日のうちに焼き払われた。信長公はこの日五明Jまで進軍し、ここに野営した。

 翌15日には海上より九鬼右馬允嘉隆の安宅船と滝川一益・伊藤三丞・水野監物らの安宅船、および島田秀満・林秀貞の囲船を中心とした大船団が到着し、蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・細頸Kの兵を乗せて一揆勢を攻め立てた。また国司御茶筅殿も垂水・鳥屋尾・大東・小作・田丸・坂奈井Lの兵を大船に満載して参陣した。諸方より参じた兵たちの指物が船上に所狭しと林立するさまは、あたかも綺羅星雲霞を見るがごとくであった。兵力を増強した織田勢は長島へ通ずる諸口から攻め上がり、四方より取り詰められた一揆勢は妻子を引き連れて長島へ逃げ入った。

 信長公父子は殿名Mへ移り、前線にほど近い伊藤屋敷に本陣を構えた。そしてみずから馬を駈け回して周辺の地形を見、諸勢の陣割りを行った。

 敵勢は篠橋・大鳥居N・屋長島O・中江P・長島の五所に立てこもっていた。これらに対し、織田勢からは津田信広・津田信成・津田長利・氏家直通・安藤守就・飯沼勘平・浅井新八・水野信元・横井雅楽守が篠橋口へ向かい、大鳥居には柴田勝家・稲葉一鉄・同貞通・蜂屋頼隆が今島Qに陣を取り、川手から大船を寄せて攻め立てた。また坂手の郷Rには押えの人数として佐久間信盛父子が江州衆とともに陣を張った。さらに長島の東推付の郷Sには市橋長利・不破勝光・丹羽長秀が布陣し、加路戸島口には織田信包・林秀貞・島田秀満ほか尾張衆の船団百艘が海上を埋めて攻め寄せた。また南の大島口からも御本所信雄殿・神戸三七信孝殿と桑名衆が伊勢の大船団を率いて攻め上がった。

 大鳥居・篠橋へ寄せた諸勢は大鉄砲をもって塀・櫓を打ち崩し、間隙を与えず猛攻を加えた。観念した一揆勢は降伏赦免を求めてきたが、信長公は断固として許さなかった。信長公はかれら奸悪の徒を干し殺しにすることで、年来の乱妨狼藉の報いを受けさせようとしていた。
 そのような状態が続く中、8月2日夜大鳥居に籠城していた一揆勢が夜間風雨に紛れて脱出を図った。しかし織田勢はそれを見逃さず、追撃して男女一千ほどをなで斬りにした。また8月12日には篠橋の一揆勢が砦を払って長島の本城に退きたい旨を申し出てきた。信長公はこれを許し、一揆勢を長島へ追い込んだ。

 @現三重県長島町杉江に所在 A現愛知県佐屋町・弥富町間 B津田秀成・長利・信成・信次・信広はいずれも織田一族で、織田家の傍流は津田姓を称する場合が多かった。 Cいずれかが市橋長利か、市橋利尚 D現三重県多度町香取 E現長島町松之木 F現愛知県佐織町早尾 G現長島町、木曽川敷内 H現弥富町大字コタミ Iいずれも長島東方に位置する一揆方拠点 J現弥富町五明 Kいずれも尾張・伊勢の湾岸地域 L伊勢中南部 M現長島町殿名 N現三重県多度町大鳥居 O現三重県桑名市内 P現桑名市福島 Q現桑名市今島 R現長島町上坂手・下坂手 S現長島町押付

 

10、死働き  樋口夫婦御生害の事

 この頃、木芽峠@には一向一揆に備えて織田方の砦が築かれ、樋口直房が入れ置かれていた。しかしこの8月、いかなる理由によるものか樋口は突如として砦を出奔してしまい、妻子を引き連れ甲賀へ退転しようとはかった。しかしその跡を羽柴秀吉の追手が追跡し、道中で夫婦もろとも討ち果たした。二人の首は長島の陣所まで運ばれ、信長公の実検を受けた。

 長島の陣は、一揆勢の思いもよらぬ長陣となった。7月13日に貴賎数知れぬ男女が長島・屋長島・中江の三ヶ所に逃げ入ってからすでに三ヶ月が経過し、過半はその間に餓死していた。もはや抵抗する力も尽き果てた一揆勢は、9月29日ついに降伏開城した。

 降伏を許された一揆勢は、めいめい船に乗って城砦を出ようとした。しかし織田勢は彼らに鉄砲を掃射し、逃げた者は白刃をもって追い、際限なく川へ斬り落としていった。

 織田勢の違背を知った一揆勢は怒り狂って死を忘れ、心ある者七、八百ばかりが裸体に抜身一本のみをたずさえて織田勢の中へ突入していった。かれらは大軍の中を死兵となって荒れ狂い、陣所を切り崩し、御一門衆をはじめ数多の将兵を討死に追い込んだA。彼らは大軍の中を切り抜けて無人の陣小屋に駈け入り、そこで支度を整え、川を越えて多芸山・北伊勢口へ散り、そこから大坂へ逃れた。この失態をみた信長公は、残る中江・屋長島の両砦に対しては周囲に柵を幾重にも廻らして砦の男女二万人を取り籠め、四方より火をかけて焼殺してしまった。

 年来の苦しみを晴らした信長公は、29日岐阜へ帰陣した。

 @現福井県敦賀郡・南条郡境の峠 A庶兄信広、叔父信次、弟秀成ほか一門衆の多くが討死した。

 

戻る   次へ