信長公記

首巻1〜20

1、国内分立  尾張国かみ下わかちの事

 尾張国は八郡からなっていた。うち上四郡は織田伊勢守家@が支配し、岩倉に居城を構えていた。また下四郡は織田大和守家Aが従えており、清洲城に武衛様Bを住まわせ、みずからも城中にあって仕置を行っていた。

 この大和守の家中には三家の奉行があった。織田因幡守家.・織田藤左衛門家・織田弾正忠家がそれであり、この三家が諸沙汰を取りしきっていた。このうち織田弾正忠家は国境近くの勝幡に居城を構えていた。家は月巌良信殿・西巌信定殿とつづき、現在の当主は備後守信秀殿で、弟に与二郎信康殿・孫三郎信光殿・四郎二郎信実殿・右衛門信次殿とがあった。代々武功の家柄であったが、なかでも信秀殿はとりわけ秀でたお方で、家中の実力者たちと知遇を結び、次々と味方に組み入れていった。

 その後信秀殿は那古野に移り、ここを本拠とした。このとき嫡男の織田吉法師殿に家老として林新五郎秀貞・平手中務丞政秀・青山与三右衛門・内藤勝介を付けた。平手は城の賄方も兼務した。しかし那古野では諸事不便があったので、信秀殿はほどなくここを吉法師殿に譲り、熱田近くの古渡に新たに城を築いてそこに移ったC。賄方は山田弥右衛門が担当した。

 @織田信安、次いで信賢。守護代 A織田達勝、次いで信友。守護代 B守護の尊称。守護は斯波義敦、次いで義統。 C対今川・松平戦略のためか徐々に東へ移転している。古渡は名古屋市東南の中区。

 

2、小豆坂の合戦  あづき坂合戦の事

 天文11(1542)年8月上旬、駿河衆が三河の正田原へ進出して七段に陣を構えた。当時三河安祥は織田方の城であった。駿河勢は由原衆が先陣となり、小豆坂まで兵を繰り出してきた。信秀殿は安祥から矢作に出、御舎弟の信康殿・信光殿・信実殿らの一門衆を中心にして小豆坂で合戦に及んだ。
 信秀殿、信康殿、信光殿、信実殿はいずれも勇戦し、織田造酒は奮闘の末槍傷を負った。内藤勝介は敵の名高い武者を討ち取り功名をなしたが、反面清洲衆の那古野弥五郎はむなしく討死した。そのほか佐々隼人正・山口左馬助らのつわもの達が、三度四度と掛かり合い小休止してはおのおの手柄を立てた。駿河勢は由原衆が那古野を討ち取る活躍を見せたものの、たまらず人数を納めた。 

 

3、信長元服  吉法師殿御元服の事

 御歳十三の折、吉法師殿は林・平手・青山・内藤らを伴に古渡城にて元服をとりおこない、名を織田三郎信長と改めた。祝いの宴や祝儀の品はたいそうなものであった。翌年、信長公は武者始めとして、平手を介添えに紅筋の頭巾・馬乗羽織・馬鎧といった軍装で出陣した。場所は三河の吉良大浜で、自ら指揮をとって戦い、各所に放火し、その日は野陣を張って翌日那古野に帰陣した。

 

4、美濃崩れ  みのの国へ乱入し五千討死の事

 天文16(1547)年の信秀殿は、先月には国中の兵を語らって美濃へ出陣したと思うと、また今月には三河へも兵を出すという忙しさであった。
 この年の9月3日、信秀殿は尾張勢を率いて美濃へ乱入し、攻撃・放火を繰り返し、22日には斎藤山城守道三の居城稲葉山城下の村々を焼き払い、ついに町口まで至った。しかし夕刻となったので、信秀殿は軍勢をまとめてひとまず引き下がろうとした。そこへ道三の軍がどっと押し寄せた。尾張勢も奮戦したが、支えきることができずに総崩れとなり、御舎弟の信康殿をはじめ五千もの勇士が討死した@。

 @五千はともかく、非常な大敗だったようで戦死者はのちに織田塚とよばれる塚に葬られた。

 

5、景清太刀始末  景清あざ丸刀の事

 美濃大垣城は、織田播磨守が城主として入っていた。道三は9月22日の合戦に大勝した後、尾張勢の足腰立たぬ間にこの城を奪ってしまおうと、近江勢の加勢を得て霜月上旬大垣へと攻め寄せた。

 このとき珍事があった。去る大戦で討死した千秋紀伊守は伝来の景清の太刀を所有しており、千秋戦死ののちその刀は陰山掃部助の手に渡っていた。そして今回の城攻めで、陰山はその景清の太刀を腰に差して出陣していた。この陰山が牛屋山の寺内に陣を張って床几に腰掛けていたところ、城中から矢が殺到し、一本が陰山の左目に当たった。その矢を引き抜いたところへさらに二の矢が当たり、今度は左目を射つぶしてしまった。

 その後この刀は廻りめぐって惟住五郎左衛門長秀@のものとなった。すると長秀は眼病を患ってしまった。あとになって長秀は、この刀の所持者は必ず眼病になるという風聞があることを知った。人々が熱田神宮へ寄進するとよいのではと勧めるので、長秀はそれにしたがって熱田へ納めた。すると間をおかずに目が回復したということである。

 @丹羽長秀。のちに信長の推挙で朝廷から惟住姓を賜ったためこのように表記される。以後は丹羽長秀で通します。

 

6、大垣救援  大柿の城へ後巻の事

 大垣に道三攻め来たるとの報に接し、信秀殿は後巻として木曽川を越え、美濃へ入って竹が鼻・茜部を攻撃した@。道三はこれに驚き、攻囲を解いて稲葉山城に引き上げた。このような迅速な行動が信秀殿に度々功名をもたらしたのであった。
 しかしこの留守の間に、清洲衆が古渡の城に攻め寄せ、城下に放火するという敵対行為をとった。信秀殿は帰城するとただちに清洲に対する軍事行動に入った。
 その後、平手政秀と清洲の坂井大膳らとの間で数度にわたって和平の交渉がもたれた。双方条件の折り合いがつかず紛糾したが、翌年秋の末に講和が成立した。この時平手は相手方に和睦成立を祝う書状を送り、その中に一首の歌を折り込んだ。まことに風雅な人物であった。

 @大垣―稲葉山間の国境から入り、稲葉山方面を突く勢いを示した。

 

7、信長の日々  上総介殿形儀の事

 その平手の才覚により、天文16(1547)年、信長公を道三の婿とし、道三息女を尾張に迎える縁談がまとまった。この時期、国内は静謐を保っていた。
 信長公は十八頃までは特別の遊びはせず、朝夕馬を責め、3月から9月までの間は川で泳ぎ、水練の達人であった。この頃、竹槍を使った仮戦を御覧になり、槍は短くてはいかぬと考えて、自軍の槍を三間柄や三間間中柄などの寸法に改良した。
当時の信長公は、湯帷子の袖をはずし、半袴をはき、火打ち袋などをぶらさげ、髪は茶筅に結い、紅や萌黄の糸で結び、太刀は朱鞘のものをもちいていた。配下は全員赤武者とし、市川大介に弓、橋本一巴に鉄砲、平田三位に兵法を学び、鷹狩を好んだ。行儀は悪く、町では人目も憚らず柿や瓜をかじり、餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって歩いていた。その頃城下は穏やかで品のよいものであったから、この有様は大うつけとよばれるほかなかった。

 

8、犬山の動向  犬山謀叛企てらるるの事

 信秀殿は古渡の城を破却し、末盛@という地に築城して居城としていた。天文18(1549)年正月17日、犬山の織田信清らが兵を起こし、春日井原Aから井口に出、放火を繰り返した。信秀殿はただちに出陣して一戦に及び、切り崩して数十人を討ち取り、犬山勢を敗走させた。戦の後、犬山勢の弱さを嘲弄する落書が各所に掲げられたということである。この戦いで活躍した信秀殿の弟の孫三郎信光殿は格別の武辺者で、守山城を本拠としていた。

 @古渡の北、名古屋市千種区 A名古屋市の北、春日井市あたり

 

9、信秀の死  備後守殿病死の事

 信秀殿は疫病に罹り、祈祷や療養を繰り返しても回復に向かわず、ついに天文21(1552)年3月3日、42歳の若さで亡くなられた。露は風に散り、雲は月光を隠す。生死は無常の世の習いである。供養のため一寺が建立され、万松寺と名づけられた。葬儀には国中の僧や、諸国往来中の僧らを数多招き、その数は三百人にのぼった。
 信長公は林・平手・青山・内藤の家老を伴い出席した。一方弟君の勘十郎信行殿には柴田権六勝家・佐久間大学盛重・佐久間次右衛門信盛らの家臣が付き従った。

 信長公の焼香の時間となった。その時の出で立ちと言えば、長刀と脇差を縄で巻き、髪は相変わらず茶筅にたて、袴もはかずにいた。その格好で仏前へ出、抹香をわしづかみにして投げかけ、すたすたと帰ってしまった。これに対し、信行殿は折り目正しい服装・作法で威儀を正していた。
 その場のだれもが「やはり大うつけであるよ」とささやき合ったが、その中で筑紫から来た客僧のみは、「あれこそ国持の器よ」と評したそうである。
 この後、信長公は上総介信長と名乗った。末盛城は信行殿に譲られ、柴田・佐久間らが付けられた。

 ところで、平手政秀には五郎右衛門・監物・甚左衛門の三子がおり、総領の五郎右衛門は評判の駿馬を所持していた。信長公がそれを求めたところ、「それがしも武者でござる。御免候え」と憎体に断り、進上しなかった。信長公はこれを遺恨とし、主従不和となった。
 そのような中、平手は信長公の領主にあるまじき行いようの数々を悔やみ、これまで守り立ててきた甲斐もなく、このうえは生きていても仕方無しと思い、腹を切ってしまった。

 

10、正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事

 4月下旬のことであった。斎藤道三より、富田@の正徳寺にて織田殿と対面いたしたいとの旨を申し送ってきた。かねて人々は道三に、信長は大たわけにて候、と口々に言上していたが、道三は「万人にたわけといわれている場合は、案外たわけの逆であるものだわ」と言っていた。そして今回、信長公がはたして本当に大たわけなのか否かを自ら判断してやろうと、今回の対面を申し入れたのだった。
 信長公はこの申し入れを快諾し、木曽川を越えてやってきた。この富田という所は家七百軒ほどもある大集落で、本願寺から代住持を招き、濃尾両守護から不輸不入の印判を得ていた。

 さて道三は抜け目なしと評判の人物であった。この時もひとつ信長公を仰天させてやろうと考え、八百人の重臣たちに肩衣・袴を着せて威容を整え、寺前に整列させ、その前を信長公の行列が通るようにした。そして道三自身は町屋の家に隠れ、やって来る信長公の行列を覗き見しようとした。
 信長公は茶筅の髪に湯帷子の袖をはずし、大小は差していたものの荒縄で腰に巻き、芋縄を腕輪にし、腰には猿使いのように火打ち袋や瓢箪を七つ八つぶらさげ、下は虎革と豹革の半袴、といった格好でやってきた。供の者は七百人ばかりが連なり、足軽を先に立て、三間間中柄の朱槍五百・弓鉄砲五百ほどをかかげていた。

 しかし信長公は寺に着くと四方に屏風をめぐらせ、その中で髪を整え、いつの間にか用意した褐色の長袴をはき、これもいつの間にか作らせていた見事な拵えの小刀を差した。家中の者どもはこの有様を見、日頃のうつけぶりはわざと作っていたものであったかと肝を潰し、以後おのおのが次第に信長公のことを見直すようになっていった。

 信長公は御堂へするすると歩みだした。縁にのぼったところで春日丹後と堀田道空が「早くおいでなされ」と注意したが、そのまま知らぬ顔をして諸侍の前を通り抜け、縁の柱にもたれてすわった。しばらくして、屏風をどけて道三があらわれた。道三もまた知らぬ顔をして端座した。道空が脇から、山城殿にござる、と声を出した。信長公はであるか、とのみ答え、敷居の内に入り、道三に挨拶を述べた。対面は湯漬けを食し、盃をかわし、無事終了した。道三は苦虫をかみつぶしたような表情で別れの口上を述べ、二十町ばかり見送っていった。そのとき美濃衆の槍は短く、尾張衆の槍は長大であった。道三はその対比を見、面白くもない様子で帰途についた。途中、猪子兵助が道三に向かい、「どうみても、上総介はたわけでござりましたな」といった。道三はこれに対し、「無念である。わが子どもは、かならずそのたわけの門前に馬をつなぐことになろう」とのみ答えた。以後、道三の前で信長公をたわけと言う者はなくなった。

 @愛知県一宮市。両勢力の境界近くにあたる。

 

11、鳴海城離反  三ノ山赤塚合戦の事

 天文22(1553)年、信長公十九の御歳のことである@。鳴海城主Aの山口左馬助・九郎三郎親子はかねて信秀殿に目をかけられていたが、信長公に代が移ってほどなくして謀反を起こし、駿河衆を引き入れ笠寺・中村Bに砦を築いた。
 この報に接し、信長公は4月17日兵八百Cを率いて出立し、小鳴海の三の山に陣を構えた。これに対して敵勢千五百は三の山から15町先の赤塚に繰り出してきた。この様子を見た信長公も前進し、赤塚に兵を展開した。
 はじめ五・六間を隔てて矢戦が行われ、屈強の射手があまたの矢を放った。このとき荒川与十郎が兜の庇の下を射ち抜かれて戦死し、敵味方の間で遺体の引き合いとなったが、無事味方が遺体を収容することができた。その後乱戦となり、双方互いに譲らず、痛み分けの戦となった。この戦で織田方の死者は三十人に及んだ。捕虜になった者や敵方に捕まった馬も多かったが、このころの戦は敵味方互いに顔見知りでもあったから、馬は返還し、捕虜は交換した。信長公はその日のうちに帰城した。

 @信長19歳の年は前年の天文21年であり、誤記と推定される A現名古屋市緑区。那古野城から東南に10キロほど B現瑞穂区。那古野方面へ北上した。 Bこの頃の信長は、七百や八百といった兵数で戦をしていることが多い。総動員力がこれだけということではなく、進退自在の直轄兵のみを率いて戦っていたということだろう。

 

12、萱津合戦  深田松葉両城手かはりの事

 この前年、清洲の坂井大膳らは松葉城@を攻め、信長公に敵対を示していた。これに応じて、この年深田Aの織田右衛門尉が清洲方についてしまった。
 これに対し、信長公は8月16日払暁に那古野を立ち、稲葉地の庄内川Bまで進軍した。ここで織田信光殿の援軍と合流し、兵を分けて松葉・深田を攻めさせ、みずからは川を渡って海津Cへと進んだ。
 海津は清洲から三十町の位置にある。ここで信長勢と清洲勢とが激突した。数刻の戦いののち清洲勢が敗れ、坂井甚介ら五十人が討死した。松葉・深田の両城も降伏した。信長公は撤退した敵を追い清洲に至り、田畑薙ぎをして引き揚げた。

 @Aともに海部郡。清洲の南、那古野の西 B那古野と清洲とのちょうど中間を流れる川。 C萱津

 

13、清洲城分裂  簗田弥次右衛門御忠節の事

 武衛様の家来に、簗田弥次右衛門という小身の者があった。この簗田は、清洲の那古野弥五郎という人数三百余りを抱える若い大将と衆道関係にあり、あるとき彼に「信長公へ通じて清洲を分裂させよう」ともちかけた。さらに他の家老たちにも工作してみたところ、みな欲にかられて承諾した。簗田は信長公のもとへ参上し、内々忠節の旨を言上した。信長公は御満足の様子であった。そして言葉の通り、簗田は織田勢を清洲に引き入れ、城下を焼き払って裸城にしてしまった。
 信長公も出馬し、清洲の城に迫ったが、守備は堅固で武衛様も城中にあったため城攻めは控え、以後乗っ取りの策を練ることに苦慮した。ともあれこの間の巧妙な立ち回りにより簗田は信長公に取り立てられた。

 

14、武衛生害  武衛様御生害の事

 天文23(1554)年7月12日、武衛様の若君は家中の若侍を伴に川狩りに出、城中にはわずかな老臣たちだけが残った。坂井大膳らはこれを奇貨とし、兵を催して守護館を取り囲んだ。守護勢は懸命に防戦したが多勢に押され、ついに館に火をかけて斯波義統様をはじめ一門衆数十人ことごとく自害した。上臈たちは堀に飛び降りて溺れ、まことに哀れな様であった。
 若君義銀様は川狩り先でこの変事を知り、那古野の信長公のもとへ駆け込んだ。信長公は義銀様に二百人扶持をあたえ、天王寺に住まわせた。主筋とはいえ清洲に対し無謀な謀反を思い立ち、案の定仏天の加護なくこのように零落してしまった。まったくの自滅ではあるが恐ろしいものである@。武衛様に近侍していた家臣たちも拠る辺を失い、衣食にも困る有様となった。

 @ この頃守護斯波義統と守護代織田彦五郎信友とは守護の実権をめぐって不和になっており、義統は清洲に信長を引き入れる策動をしていた。これを察知した信友が先手を打って義統を襲撃した。

 

15、安食・成願寺の戦い  柴田権六中市場合戦の事

 変事の後の7月18日、柴田勝家が清洲に攻撃をかけた@。清洲勢は山王口から攻め入った敵に対し、安食村で防いだがかなわず、成願寺@でも支えられず、ついに清洲の町口まで追い詰められた。反撃を試みたが敵の長槍の前にいかんともしがたく、歴々三十騎が討死した。武衛様の臣で由宇喜一という十七ばかりの若者が鎧も着けず敵中に討ち入り、見事武衛様仇の織田三位の首を挙げた。信長公の感心はなみなみならぬものであった。武衛様の逆心がもととはいえ、重代の主君を害した因果で七日も経たぬうちにみな討死してしまった。天道とはおそろしいものである。

 @この戦に、僧から転身した『信長公記』筆者の太田牛一が参陣している。 A名古屋市北区。那古野北方、清洲の東方。

 

16、村木攻め  村木ノ取出攻めらるるの事

 この頃、駿河衆は岡崎に在陣しており、重原城を落としてここを根城に小河の水野金吾忠政を牽制し、村木にも城を構えて兵を入れていた@。これに応じて近在の寺本城も駿河方につき、小河への道を絶ってしまった。信長公は後巻として出陣することを決したが、留守中清洲勢が那古野を急襲するおそれがあり、このため信長公は舅の斎藤道三へ城番の兵を要請した。道三はこれを受け、那古野留守居として安藤伊賀守守就を大将とする兵一千を派遣した。

 天文23(1554)年正月18日、安藤は尾張に入ると那古野の近在に陣を取り、信長公に対面した。信長公は丁重に礼を述べた。翌日には出陣となったとき、宿老の林佐渡・美作兄弟が不意に荒子城へ退転してしまった。家老の面々が取り騒いだが、信長公は「そのようなこと、かまわぬ」とのみ言って出立した。そして熱田から風雨を衝いて船を出し、23日小河に到着した。
 24日、信長公は払暁に出陣し、村木城を囲んだ。城南を信長公、西の搦手を織田信光殿、東の大手を水野忠政が担当し、一挙に攻めたてた。城兵も果敢に抵抗し、死体の山を築いたが、しだいに動ける者も少なくなり、夕刻には開城した。翌日には寺本に進んで城下を焼き、那古野に帰陣した。
 26日、信長公は安藤の陣を訪れ、重ねて礼を述べた。翌日安藤は美濃へ帰陣し、強風豪雨を冒しての村木攻めの顛末をつぶさに語った。これに対し、道三は、
「おそろしき者よ。隣にはいてほしくなきものだわ」と語ったという。

 @いずれも知多半島根元の尾三国境地帯。村木は現在の大府市あたり

 

17、清洲城奪取  織田喜六郎殿事御生害

 清洲の家老坂井大膳は味方の諸将が次々に戦死してしまい、自分一手では劣勢を克服しがたいと考え、守山の織田信光殿を味方につけようとした。彦五郎信友殿と信光殿とで守護代を務めることを条件に交渉したところ、あっさりと承諾を得、起請をかわした。
 弘治元(1555)年4月17日、信光殿は清洲城内に移った。実はここまでの信光殿の動きはすべて信長公と通じた上での行動であり、城内に信光殿を送り込むことによって内から清洲を攻め取ろうという謀略であった。信長公は信光殿に下四郡のうち二郡の割譲を約束していた。
 4月20日になって大膳が信光公のもとへ御礼に参上しようとしたところ、信光勢がものものしく軍装して待ち伏せているとの報を耳にした。身の危険を感じた大膳は城から逃亡し、そのまま駿河に亡命し、今川義元を頼った。信友殿は信光勢に押し寄せられて自殺し、ここに清洲城は落ちた。信光殿は清洲城を信長公に渡し、みずからは那古野城に引き揚げた。
 ところがその年の月11月不慮の事態が発生し、信光殿はお亡くなりになった。信長公のためとはいえ、誓紙を破った罰が当たったのであろう@。

 この年の6月、守山城主織田孫十郎信次殿Aが庄内川で川狩をしていたところを、信長公・信行殿の御舎弟喜六秀孝殿が供を連れずに一人、騎馬で通りかかった。これを見た信次殿家中の侍が騎馬での乗り打ちに激昂し、弓を射かけた。運悪くその矢が当たり、秀孝殿は馬から落ちた。川から上がった信次殿は、射た相手が信長公の弟君と知り、季節が変わったかと思うほどに肝を寒くした。身の破滅を感じた信次殿は守山にも戻らず姿を消し、何処へともなく逃げ去った。
 秀孝殿は当時15・6歳で、美貌の声が高かった。末盛の信行殿はこの報せを聞いて守山に攻め寄せ、城下に放火した。信長公は遠乗り中にこのことを聞いたが、「わが弟ともあろう者が、供も連れず下郎のごとくに一騎で出歩くとは何事か。そのような弟、たとえ存生なりとも許すまじ」と言ったのみであった。

 @家臣坂井某に殺害された。背後に信長の影あり、とする説も A信秀五弟で信長の叔父

 

18、稲生の合戦  勘十郎殿・林・柴田御敵の事

 信長公は朝夕馬に乗り、乗り方は激しかった。供をする者たちは信長公ほどには馬を鍛錬していなかったので、お供のたびに彼らの馬は疲れ果て、それがために早死にする馬もあった。

 守山城@には信次殿の家臣たちが立てこもっていた。信長公はこれを飯尾近江守らに囲ませた。信行殿からも柴田勝家らが遣わされ、木が崎口を固めた。そのような中で佐久間信盛が城衆の説得にあたり、信長公の御舎弟で器才のある安房守秀俊殿を城主に迎えることで開城が成立した。この功により、佐久間は守山領内で百石を与えられた。

 この頃から、宿老の林佐渡守秀貞・弟の林美作守と柴田権六勝家とが結び、信長公に叛いて信行殿を立てるべく画策しているとの風聞が取沙汰されるようになった。
 信長公は弘治2(1556)年5月26日、何を思われたか突然秀俊殿ただ一人を連れて林秀貞の屋敷にあらわれた。よき機会と弟の美作が殺害をすすめたが、秀貞は主君を直接手に懸けるのはさすがにためらわれ、この日は危害を加えずに帰し、一両日してからあらためて敵対を表明した。これに応じ、林を寄親としていた荒子城・米野城・大脇城がつぎつぎと敵方にまわった。
 この間、守山では秀俊殿が若衆を重用したことで家老と不和になり、殺害されてしまった。この事件を受けて信長公は浪人していた孫十郎信次殿を赦免し、守山城主とした。信次殿はのちに伊勢長島で戦死する。

 弘治2(1556)年8月、信長公と信行殿の対立は深まり、ついに信行殿は信長公の直轄領である篠木Aを押領して砦を構えた。信長公はこれに対し、8月22日佐久間大学盛重に命じ名塚に砦を築かせたB。敵方の人数は柴田勝家の兵一千に、林兄弟の兵七百が加わっていた。24日になり、信長公も清洲を出陣し、庄内川を渡った。
 両軍は稲生の村外れで対陣した。稲生Cの西に七段に陣を構えた信長勢に対し、柴田勢は海道の南東に位置し、林勢はそれより南に陣を取った。信長公の軍勢は七百に満たなかった。
 正午頃、信長公はまず南東に向かい、柴田の軍と対戦した。激戦となって山田治部左衛門が戦死し、信長公の馬前まで敵が押し寄せたが、織田造酒ら旗本勢が奮戦してもちこたえた。そこへ信長公が敵勢に対し大音声を上げた。敵もかつての身内の者である。信長公の威光を目にして士気を萎えさせ、ついに崩れたった。信長公は敵の崩れに乗って南へ進み、林美作の陣になだれ込んだ。信長公はみずから美作を突き伏せて首を挙げ、勢いに乗じて敵勢を追い崩した。信長勢は大勝して多くの首級を挙げ、その日のうちに清洲に帰陣した。翌日首実検をしたところ、取った首級は林美作をはじめとしてその数四百五十にのぼった。信行勢は末盛・那古野に篭城し、信長公は両城の城下を焼き払った。

 信長公の御生母は末盛城で信行殿と一緒に住んでいた。御生母は清洲から使いを招き、此度の出来事の謝罪を述べ、信行殿の赦免を求めた。信長公は赦免を認め、信行殿は柴田らを伴い清洲へ赦免御礼に赴いた。林秀貞もこのとき一緒に赦免された。

 @名古屋市守山区 A現春日井市 B佐久間盛重は信秀の死の直後には信行に随従していたが、この頃には信長の配下として重用されている。盛重もこれによく応え、のち桶狭間では戦略的玉砕を遂げる。
C名古屋市西区。今度は信長が清洲から進軍し、東南の信行勢とぶつかった。

 

19、信広蠢動  三郎五郎殿御謀叛の事

 信長公の庶兄三郎五郎信広殿も謀反をくわだてた。当時の信長公は、美濃勢動くとの報あれば公自身がすかさず兵を率いて城を出ていた。そのような時は信広殿も後詰として出陣していたが、その際必ず清洲の町を通行し、城からは留守居の者が応対に出るのが常であった。信広殿はこれを利用し、挨拶に来た留守居役を殺して清洲の城を乗っ取り、しかるのちに美濃勢と連絡を取って信長公を前後から挟み撃ちにしようという計画を立てた。美濃衆もこの計画を了承し、人数を繰り出した。

 信長公はこの計画を察知した。留守居役には城から出ることを禁じ、町の者には公の帰陣まで木戸を閉ざして外部の人間を一切入れないよう触れを出し、その上で出陣した。信広殿はそうとは知らず、信長公出陣と聞いてすぐさま手勢を率いて清洲に向かった。清洲に着いた信広殿は計画通り留守居を待ったが、待てども留守居は出てこず、入城も拒否された。やがて謀反が露見したかと不安になり、あわてて引き返した。美濃衆も引き揚げ、信長公も無事帰陣した。
 信広殿はこののち信長公への叛意をあらわにし、小規模な衝突が繰り返されたが、この間信長公に助力する者はほとんどいなかった。このように孤立無援の状態にあっても、信長公は旗下の精強七百を率いて合戦に際しては一度たりとも不覚を取らなかった。

 

20、四方悉く敵  おどり御張行の事

 このような中で、7月18日信長公は津島@で盆踊りを盛大に催した。旗本の士たちが赤鬼青鬼・地蔵や弁慶といった仮装をし、信長公は天人の格好をして小鼓をうち、女人踊りを踊った。思わぬ楽しみにあずかった津島の村々の者たちは、清洲まで御礼の踊りを見せにやってきた。信長公は大層満足し、一人一人に言葉をかけてやり、茶などをふるまった。皆感涙して帰っていった。

 鳴海城には山口左馬助教継が配されていた。ところが左馬助は駿河に内通してしまい、近在の大高城・沓掛城も調略によって落とされてしまった。そして鳴海城には駿河から岡部五郎兵衛元信が新たに城主として入り、大高・沓掛にも駿河の大軍が入った。山口親子は駿河へ召還されたのち、内通の褒美の代わりに腹を切らせられてしまった。

 この頃の信長公は尾張下四郡の支配者のはずであったが、河内郡Aは服部左京という坊主に押領され、知多郡は今川勢に占領されてしまっており、残りの二郡も乱世のことゆえはなはだ危うい状態で、まことに不安定な立場にあった。

 @現津島市。当時は一大商業都市で、信長の財源地 A木曽川河口地域

 

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