人物列伝

や行

簗田広正

別喜右近太夫(賜名)、左衛門太郎

?〜? 信長部将、大聖寺城主
尾張の士で、桶狭間以前より信長に仕える。浅井・朝倉戦や一向一揆討伐戦に活躍し、1575年信長の奏請により朝廷から別喜(戸次とも)右近太夫の名を与えられた。1575年の越前一向一揆討伐では加賀南部まで侵入し、戦後功績により加賀一国の進退を任される。しかし翌1576年勢力を盛り返した一向一揆の鎮圧に失敗し、加賀国を放棄して尾張に蟄居した。その後まもなくして病死したと伝えられる。

ドロップアウト組。

 

山岡景佐

対馬守

1531〜1589 近江の豪族、膳所城主
山岡景之の二男。信長上洛後他の兄弟とともに信長へ降って各地に戦った。本能寺の変時には領国へ還る徳川家康の退路を援助したとされる。変後は秀吉に属したが、1583年賎ヶ岳で兄とともに柴田勝家に内通したため戦後所領を没収された。その後徳川家康の元に身を寄せ、1589年駿府で死亡。なお山岡氏は江南に広く力を張った名族で、織豊時代には一族各人がそれぞれ勢力を持って活躍した。

山岡戦隊その1。

 

山岡景隆

美作守

1526〜1585 近江の豪族、瀬田城主
山岡景之の一男。はじめ六角氏に属したが、信長上洛後に織田氏へ通じる。その後伊勢征伐や足利義昭追放戦等に歴戦したほか、1575年信長の命により瀬田(勢多)大橋の再架を行うなど要衝瀬田の番人としての役割も果たす。1582年本能寺の変が勃発すると明智光秀からの誘いを拒否し、瀬田橋を焼き落として安土への進路を阻んだ。その後は秀吉に従ったが、賎ヶ岳で柴田勝家に内通したため戦後所領を没収された。1585年甲賀で死亡。

山岡戦隊リーダー。

 

山岡景猶

玉林斎

?〜1599 近江の豪族、石山城主
山岡景之の三男。兄景隆・景佐とともに信長へ従う。本能寺の変後は秀吉に従ったが、1583年兄らとともに所領を没収された。その後は加藤清正、次いで結城秀康に仕えた。

山岡戦隊その3。でも実はもっといる。

 

山岡景宗

孫太郎

?〜? 信長部将、豊臣家臣、瀬田城主
山岡景隆の子。父に従って信長に仕える。本能寺後は豊臣氏に仕え、大坂の陣後は徳川氏に仕えた。

山岡戦隊ジュニア。

 

山口教継

左馬助

?〜? 鳴海城主
織田信秀の臣で、小豆坂合戦に活躍する。信秀死後いち早く今川氏に通じて信長へ敵対したが、まもなくして駿河で今川義元に誘殺されたと伝えられる。

「短気は損気」って言葉もあるしねえ。

 

山崎片家

秀家、源太左衛門

1547〜1591 近江の土豪、信長部将
近江国山崎城主。はじめ六角氏に属していたが、1568年の信長上洛時に織田氏へ転仕した。織田家では江州衆の一人として足利義昭追放戦等に参加。本能寺の変後は秀吉に仕えて摂津三田二万石を与えられ、小牧長久手・九州征伐・小田原陣に歴参した。1591年死亡。

支配者の交替激しい近江にあって身代を保ったのは立派。

 

山中鹿之介

幸盛、鹿介

1545?〜1578 尼子氏家臣
出雲尼子氏の家臣で、史書類には「鹿介」と記される。尼子氏部将として毛利氏の侵攻に抗するが、1566年尼子氏の月山富田城開城を受けて京都に退く。しかし1569年尼子一族の勝久を擁して再び中国に還り、毛利氏へ対抗して出雲回復をねらった。その後吉川元春ら毛利勢の前にたびたび敗れたが、1577年信長を頼って再々起し、羽柴秀吉勢の先手として尼子勝久とともに播磨上月城へ入る。しかし翌年毛利勢に城を囲まれ、また信長の戦線縮小方針を受けた織田勢からも見捨てられて孤立。毛利氏へ降伏し、護送中に殺害された。

お月様に「我に七難八苦を与え給へ」と祈った苦労好き。念願かなって苦労しまくったのが悲劇。

 

 

 

 

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行

 

 

戻る