人物列伝

た行

高倉永相

侍従、右衛門督、参議、権中納言

1531〜1585 公卿、藤原北家流
大納言永家の子。1538年従五位下に叙し、侍従・右衛門督・参議・権中納言・権大納言と官を重ね、信長ら有力武家と交流する。1585年死亡。なお高倉家は服装礼式の家として知られる。

おくげさん(ほかに何も思いつかない)。

 

高倉永孝

侍従、右衛門佐、参議、権中納言

1560〜1607 公卿、藤原北家流
永相の子。1562年従五位下に叙し、侍従・右衛門佐・右衛門督・参議・権中納言と官を重ね、信長ら有力武家と交流する。1607年死亡。

おくげさん二世(ほかに何も思いつかない)。

 

高山重友

友祥、右近、大蔵少輔

1552〜1615 摂津高槻城主、切支丹大名
摂津の豪族。1564年父友照とともにキリスト教に入信、父子で布教に専心する。信長上洛後荒木村重とともに信長へ通じて勢力を拡大し、1573年和田氏を逐って高槻城主となった。1578年には村重の叛逆に一時同調したが、信長の命を受けた宣教師の説得によって帰順。以後は織田勢の戦力として各地に働き、本能寺の変後は羽柴秀吉に属して山崎の戦・賎ヶ岳の戦をはじめ秀吉の統一戦の多くに参加した。しかし1587年改宗を拒否したため改易、各地を流浪する。1614年幕府の禁教政策によりルソンに追放され、翌年マニラで死亡した。

キリシタンかつ利休七哲の一人でもある。国際人たあこういう人のことだいね。

 

滝川一益

左近将監、伊予守

1525〜1586 信長重臣、長島・厩橋城主
近江国甲賀の出自と伝わる。美濃攻めの頃から信長に仕えて北畠氏討伐や一向一揆平定に活躍し、北伊勢五郡に所領を与えられて信長宿老の一人となる。その後も各地に戦い、1582年の武田氏討滅戦では信忠を補佐して先鋒を務めた。戦後信長から信濃・上野に所領を与えられて関東の経略に着手するが、間もなくして本能寺の変が勃発。与力衆が動揺する中を北条氏に攻められ、大敗して伊勢に退いた。その後柴田勝家や織田信孝と結んで羽柴秀吉に対抗したが、討伐を受けて降伏。小牧・長久手の戦いには秀吉配下として参陣し蟹江城を攻略したが、のち奪回される失態を犯す。そのため戦後越前大野に隠退し、1586年死亡した。

抜群の将器だったが、信長死後は完全に焼きが回ってしまった。

 

武井夕庵

爾云、二位法印、肥後守

?〜? 信長右筆
斎藤氏旧臣で、稲葉山城陥落前後から信長に仕える。1567年頃から右筆として文書発給に当たり、上洛後は奉行職や奏者役も務める。1575年には他の重臣・側近団とともに叙官し、二位法印を授けられた。その後も信長側近として政務に活躍したが、本能寺後の動向や没年は未詳。

秘書検定とか受けさせてみたい。

 

武田勝頼

諏訪(姓)、四郎

1546〜1582 戦国大名
武田信玄の四男。信濃の豪族諏訪氏の娘を母とし、はじめ諏訪氏を名乗る。1562年伊那郡代となって高遠城に入ったが、兄武田義信の死後しばらくして甲斐に戻った。1573年信玄が病死すると、その領国を引き継いで織田・徳川勢へ対抗する。東美濃や遠江方面へ出兵を繰り返して諸城を攻略するが、1575年長篠の戦いで大敗を喫した。その後は織田・徳川勢の攻勢や譜代重臣層の不支持、上杉氏の内紛(御館の乱)から生じた北条氏との対立などによって次第に勢力を失い、1582年木曽氏の反逆を契機として織田氏の本格的侵攻を受ける。防戦を試みるも一門・重臣の離反が相次いで進退窮まり、同年3月甲斐国田野で自害した。その武勇と積極的攻勢から、「強すぎる大将」と評されたと伝えられる。

「弱すぎる大将」とか救いのないこと言われるよりはよっぽどマシだろう。

 

武田信玄

晴信、信濃守、大膳大夫

1521〜1573 戦国大名
甲斐の戦国大名。1541年父信虎を追放して家中の指導権を得る。治水事業・交通網の整備や分国法の制定を行って領国経営に力をそそぐ一方、信濃に進攻して諏訪氏・小笠原氏・村上氏などと戦い、これらを制圧して信濃中南部の支配権を固めた。しかし信玄に駆逐された信濃諸豪族を擁護した上杉謙信との対立が深まり、1553年以降北信濃川中島を中心に幾度にわたって激戦を展開する。1564年以降は西上野にも進出して勢力を広め、1568年には今川氏との同盟関係を破棄して駿河を攻め、これを領国化した。1571年北条氏と和睦したのちは足利義昭や本願寺ら中央の反織田勢力と連絡をとりつつ西上の道を模索し、1572年三河へ進攻して徳川・織田連合軍を三方ヶ原に撃破した。しかし行軍中に病を発し、1573年甲斐へ帰陣する途中信濃国駒場において死去した。

名門の子だが、やることは豪腕かつ的確かつちょっとあくどい。大器量である。

 

武田信廉

信綱、刑部少輔、逍遥軒

?〜1582 甲斐武田氏一族
武田信虎の子で、信玄とは同腹の弟。信玄死後に剃髪して逍遥軒と号した。元亀年間より信濃高遠城主を務め、1582年織田氏の信濃侵攻時には大島に在城して防御の一翼を担ったが、抗戦することなく撤退。その後甲斐で捕らえられて処刑された。絵画に堪能で父信虎像・母大井氏像などの作品が残る。

ちなみに父信虎像はなんか妖怪的な顔をしている。写実主義か、親に含むところでもあったのか。

 

武田元明

孫八郎、孫犬

1552〜1582 若狭守護武田氏
若狭守護武田義統の子。1575年有力家臣の逸見氏・粟屋氏とともに上洛して信長に好を通じる。1580年父の死により家督を継ぐが、信長の若狭支配が強まるに伴い間もなくして蟄居させられた。1582年本能寺の変が起こると、明智光秀に与して佐和山城を落とす。しかし山崎合戦後秀吉勢に逐われ、同年7月丹羽長秀の手によって殺害された。なお妻は京極高吉の娘竜子で、のち秀吉の側室となり松の丸殿と呼ばれた。

↑の甲斐武田さん家に劣らぬ名門。しかも影の薄さと運のなさでは勝っている。だから哀れなんだけど。

 

竹中半兵衛

重治、重虎、水徹

1544〜1579 信長部将、秀吉与力
美濃国不破郡の豪族で、美濃三人衆安藤守就の娘婿に当たる。はじめ斎藤龍興に属したが、1564年安藤や弟久作とともにクーデターを起こして稲葉山城を占拠した。その後信長から再三城引渡しの誘いを受けるもこれを拒否し、城を龍興に返還して浅井氏へ寄寓する。1567年信長が美濃を平定すると、織田氏に属して羽柴秀吉の与力となった。その後は秀吉付属の有力部将として朝倉攻め・横山城在番・浅井氏攻略・中国征伐に従うが、1579年播磨三木城攻略の陣中で病没した。温厚清廉な人物であったと伝えられる。

城占拠の手順を記した「完全乗っ取りマニュアル」でも記してたら、武将達の間でベストセラーとなってたろう。

 

長連竜

好連、九郎左衛門、万松

1546〜1619 信長部将、前田氏家臣
能登畠山氏の重臣・長続連の二男。はじめ僧籍にあったが、のち還俗して畠山家中に入り父や兄とともに家中の親織田派を形成する。1577年能登に侵攻した上杉謙信が七尾城を攻囲すると、城を脱出して信長に救援を求めたが、その間に城は落城。一族を殺害される。以後信長に従い能登回復に努め、1580年その功績により羽咋郡福水城を与えられた。その後前田利家の与力となり、本能寺の変後はそのまま前田家に臣従して老職を務めた。

長さんです。気性が激しかったので、「いかりや」と呼ばれてたそうです。というのはもちろんウソです。

 

塚本小大膳

(実名不詳)

?〜? 信長旗下
尾張国赤目村の士。信長に仕えて北畠氏討伐、浅井・朝倉攻めなどに従軍する。のち嫡男信忠付きとなって伊勢長島一向一揆討伐、美濃岩村城攻め、武田氏討滅戦に参加。本能寺の変時および変後の動向は不詳。

小さいのか大きいのかはっきりしてほしい名前である。

 

津田宗及

天王寺屋宗及

?〜1591 豪商・信長茶頭
堺の豪商。武野紹鷗に学んだ父の津田宗達から茶の湯を伝授され、信長に接近してその茶頭となる。本能寺の変後は引き続き秀吉の茶頭をつとめ、1587年の北野大茶会にも参与した。

金持ちは思う存分趣味ができていいなあ。

 

筒井順慶

藤勝、藤政、陽舜房順慶 1549〜1584 信長部将、大和郡山城主
興福寺衆徒で大和国の国人。父の死により2歳で家督を継ぐ。1560年松永久秀に居城を追われて堺へ逃れたが、のち大和に戻り久秀へ対抗する。1571年久秀が信長へ叛逆したのち明智光秀の仲介によって信長の信任を得、1576年戦死した原田直政の後任となって大和守護を任された。その後1577年には再度叛逆した久秀の討伐に加わって戦功を挙げるなど、諸戦で活躍して信長政権下での地位を安定させた。1582年本能寺の変が勃発した際には、去就に迷ったのち光秀の誘いを拒否して秀吉に与する。秀吉政権下でも大和を安堵されたが、1584年小牧・長久手の戦いに従軍したのち病を得、郡山で死亡した。

「洞ヶ峠」の逸話を残す、ミスター日和見。でも意外に苦労人なんだね。

 

徳川家康

松平(姓)、竹千代、元康、三河守、内大臣、太政大臣、征夷大将軍

1542〜1616 岡崎・浜松城主、信長同盟者、豊臣大名、江戸幕府創業者
松平広忠の子。今川・織田両勢力下で人質生活を送ったのち、1560年今川義元敗死後に自立を果たす。翌年信長と同盟を締結。国内の一向一揆を鎮圧し、今川氏を攻めて遠江へも勢力を伸ばした。以後は武田氏へ対抗しつつ信長の統一事業に協力し、姉川合戦等に参陣する。1572年には領内に進攻した武田信玄と三方ヶ原に戦い大敗を喫するが、信玄の死により窮地を脱した。以後も武田氏と攻防を繰り返し、1582年の武田氏滅亡に際して信長から駿河国を与えられる。しかしその参礼のため上洛した際に本能寺の変が勃発、伊賀越えの難を経て領地に帰還する。その後混乱状態にあった甲斐・信濃を収めて勢力を拡大し、中央に台頭した羽柴秀吉に対抗して小牧・長久手で戦火を交えるが、のち和睦・臣従。小田原の陣後関東に移封されるも豊臣政権における最大実力者として勢力を維持する。秀吉死後は五大老筆頭として政務を司る一方で政権への意欲を沸かせ、1600年石田三成ら対立大名を関ヶ原に破って全国支配権を手中にする。1603年征夷大将軍に補任して政権基盤を固め、1615年大坂夏の陣において豊臣氏を滅亡させ乱世に終止符を打った。翌1616年死亡。

「普段は堅実で実直。でも好機が来たら、そんときゃやるぜ」という人生。「狸親父」とはちょっと違う気がする。

 

富田長繁

長秀、弥六郎

1552〜1575 朝倉家臣 
朝倉氏旧臣。主家滅亡ののち信長に仕えるが、早くから織田氏に通じた前波吉継(桂田長俊)に比べて冷遇されたため、1574年一向一揆を扇動して前波を攻め殺させる。しかし自らも加賀一向一揆の標的となり、1575年一揆勢に攻められて死亡した。

しょぼい。

 

 

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行

 

 

戻る