人物列伝

さ行

斎藤龍興

右兵衛大輔

1548〜1573

稲葉山城主

斎藤義龍の子。14歳のときに父が病死し、その跡目を継ぐ。しかし幼少ゆえ家臣団の支持を得られず美濃三人衆ら有力家臣の離反をまねき、信長の進攻に抗しきれず1567年稲葉山城を開城。その後伊勢長島から畿内、さらに越前を流浪しつつ織田勢へ戦いを挑むが、1573年寄寓していた朝倉氏の滅亡にともない戦死した。

稲葉山は落城したのではなく開城退去。『太閤記』にだまされちゃあいけないぜ。

 

斎藤道三
利政、松波庄五郎、西村勘九郎、長井新九郎、山城守 ?〜1556 土岐氏家臣、稲葉山城主
北面の武士松波基宗の庶子という。はじめ仏門にあったが、還俗して松波庄五郎と名乗り油商を営む。商縁から美濃に移住して守護土岐氏や重臣長井氏の知遇を得、仕官して西村勘九郎と名乗った。のち長井姓を許されて長井新九郎と名乗り、謀計によりその長井氏が有していた小守護代の地位を獲得する。1527年には守護土岐頼武の弟頼芸を擁して頼武を逐い、朝倉氏や六角氏の介入を退けて勢力を高め、守護代斎藤氏の名跡を継いだ。その後入道して道三と名乗り、1542年(年代に異説あり)には擁立していた土岐頼芸をも追放、美濃一国を得るにいたる。その後織田氏と争いつつ勢力維持に努めたが、実子義龍との間に不和が生じ、1556年長良川河畔で義龍勢と戦って討たれた。

これが一代国盗り説。

 

斎藤道三
利政、長井新九郎規秀、山城守 ?〜1556 土岐氏家臣、稲葉山城主
土岐氏家臣長井新左衛門尉の子。一介の油商から長井姓を得るまでに出頭した父の跡を継いで土岐氏に仕える。土岐頼武の弟頼芸を擁して頼武派と戦い、朝倉氏や六角氏の介入を退けて声望を高め、守護代斎藤氏の名跡を継いだ。その後入道して道三と名乗り、1542年(年代に異説あり)には擁立していた土岐頼芸をも追放、美濃一国を得るにいたる。その後織田氏と争いつつ勢力維持に努めたが、実子義龍との間に不和が生じ、1556年長良川河畔で義龍勢と戦って討たれた。

で、こっちが最近有力の親子二代国盗り説。

 

斎藤義龍
高政、新九郎、治部大輔、范可 1527?〜1561 稲葉山城主
斎藤道三の子。弟を偏愛する父道三と不和になり、1555年弟二人を殺害して道三と義絶する。翌年には道三を長良川河畔に敗死させて稲葉山城主となった。以後美濃進出をねらう信長と争いを繰り返し、尾張の反信長勢力を支援して信長を苦しめた。土岐頼芸の子とする俗説もある。

身長2mの偉丈夫だったと伝わる。平均身長の低い当時のこと、誰の種か疑われても無理はないわな。

 

坂井政尚
右近尉 ?〜1570 信長部将
美濃の出自で、斎藤家に仕えたのち織田家に転仕する。信長に従って上洛戦・伊勢平定戦に働き、姉川の戦いでは織田勢の第一陣をつとめた。1570年浅井・朝倉勢が近江を南下して信長と対陣した際、内通してきた国人衆の援軍として入った堅田で敵軍に囲まれ、奮戦のすえ討死した。

信長初期の前線指揮官。生きていれば柴田なみに知名度もあったろうに。

 

坂井大膳
  ?〜? 守護代清洲織田氏重臣
守護代織田大和守家の老臣で、織田信秀死後離散した勢力の統合をはかって活動する信長と対立を深める。1555年信長と通じた織田信光によって清洲城が奪取されると、今川氏を頼って駿河へ亡命した。その後の消息は不明。

なんとなく陰湿そうな顔した親父をイメージするが、生没年は不詳。

 

酒井忠次
左衛門尉、左衛門督 1527〜1596 徳川家老臣、三河吉田城主
徳川四天王の一人。家康の叔母を妻とし、今川氏の人質時代から家康に近侍した。桶狭間合戦後家康が独立を果たすと家老格として主君を補佐し、吉田城主となって東三河諸侍の旗頭に任じられる。その後外交および諸戦で活躍し、1575年の長篠合戦の際には敵勢後方の鳶の巣山を襲撃して陥落させる戦功を挙げた。その後も北条氏との交渉や小牧・長久手戦等の戦役において功績を挙げる。1588年隠居して子家次に跡目を譲ったのち、1596年に死去した。徳川家中にあっては常に家臣団の筆頭核にあったが、家康からは信康事件の際に信長に対し申し開きを十分にしなかったことを密かに恨まれていたとも伝えられる。

戦場や外交の場での進退は絶妙。子孫の中にはその腕を受け継ぎ、引越業者をやってるのもいます(嘘)。

 

佐久間正勝
信栄、甚九郎 1556〜1631 佐久間信盛子息、信長部将
佐久間信盛の子。1580年父とともに追放されるが、1582年(本能寺の変以前)赦免されて織田信忠に付属する。本能寺の変後は織田信雄に仕え、信雄改易後は秀吉に仕えて御伽衆となった。豊臣氏滅亡後はさらに徳川氏に仕えて三千石を与えられた。

父子追放の原因の一つは、この息子の茶狂いと怠慢にあったらしい。

 

佐久間信盛
定盛、右衛門尉 ?〜1581 信長重臣、近江永原城主
織田家の重臣。早くから信長に従い、桶狭間合戦時には善照寺砦を守備する。1567年信長息女の五徳が松平信康に嫁いだ際には道中の供奉役を務めた。信長上洛後は南近江にあって六角氏との戦いに戦功を挙げたほか、長島攻め・三好義継攻伐・越前一向一揆討伐等に活躍するが、援軍に赴いた三方ヶ原の合戦では惨敗を喫した。その後1576年からは石山本願寺攻めの総指揮官となり、畿内近国七ヶ国の与力を付属されて四年間にわたり包囲戦を続けつつ、その間松永久秀討伐等にも従う。しかし1580年本願寺との和睦が成立すると、信長から包囲戦での無策等を譴責した十九ヶ条の折檻状を突きつけられ家中を追放された。その後は剃髪して高野山・熊野と移り、1581年7月大和十津川で病没した。

織田家中の重鎮。働きは決して悪くなかったが、信長大旦那から見れば不満だったのでしょう。

 

佐久間盛重
大学助 ?〜1560 織田家部将
信秀の代から織田家に仕える。信秀死後は信行から信長に従い、稲生の戦いでは信長方として名塚を守備する。1560年桶狭間の戦いの際には前哨基地の丸根砦を守ったが、今川方の松平元康に攻められ戦死した。

今川勢の先手が丸根・鷲津砦に分散したことも桶狭間の勝利の一因となった。その意味では戦略的玉砕。

 

佐久間盛政
玄蕃允 1554〜1583 信長部将
柴田勝家の姉の子。叔父勝家に属して北陸に戦い、加賀平定後功績により加賀半国の支配を任される。本能寺の変ののち賎ヶ岳の戦いが起こると、緒戦で羽柴方の中川清秀を討ち取る功を挙げた。しかし直後に秀吉の巻き返しを受けて大敗し、敗走中を捕縛されて京で処刑された。

この人の場合、「猪武者」は誉め言葉かもしれない。

 

佐々成政
内蔵助、陸奥守 1539?〜1588 信長部将、越中富山城主
尾張国比良の出自。黒母衣衆の一人として美濃攻めや伊勢征伐に参加したほか、鉄砲隊を率いて対浅井・朝倉戦に活躍する。1575年越前国一向一揆征伐で功績を挙げ、戦後前田利家・不破光治とともに二郡を与えられて越前府中の支配を任された。その後柴田勝家の与力として北陸平定に働き、1581年には功績により越中富山城を与えられた。本能寺の変後は織田信雄・徳川家康と結んで羽柴秀吉方の前田利家と戦ったが、1585年秀吉の遠征を受けて降伏。その後秀吉から肥後国を与えられたが、領内で国人一揆が蜂起したため責任を問われて切腹した。

アルプス越えを敢行して家康に会いに行った経歴の持主。登山家は信奉したほうがいい。

 

柴田勝家
権六、修理亮 ?〜1583 信長重臣、越前北ノ庄城主
織田家中随一の戦場指令官。はじめ織田信行(信勝)の老臣として信長と争うが、のち信長に通じる。織田勢の中核として上洛戦や近江における六角氏との戦い、対浅井・朝倉戦、長島一向一揆征伐、越前国一向一揆征伐等信長の主立った戦に歴戦、功績により1575年越前一国の進退を任された。その後は前田利家・佐々成政らを与力として北陸経略を行い、1580年に加賀を平定、越中へも勢力を伸ばす。しかし本能寺の変時に上杉氏と対陣して動けず、結果秀吉に変後の主導権を握られることとなる。清洲会議後は織田信孝と結び信長妹の於市を妻として巻き返しをはかるが、1583年北近江賎ヶ岳を中心とする戦いに敗北し、追撃を受けて居城の北ノ庄で自刃した。享年は57歳から62歳まで諸説ある。

キングオブひげ。でも信行の遺児を養育してたりする。根はいい奴?

 

斯波義銀
岩龍丸、治部大輔 1540〜1600 尾張国守護斯波氏嫡流
尾張国守護斯波義統の子で、1554年父義統が織田信友に殺害されたのち信長を頼る。しかし1561年吉良氏と結んで信長排斥を企て、露見して尾張を追放された。その後各地を流浪し、1600年死亡した。

実権のない人ってのは色々たくらみたがるものらしい。

 

斯波義統
左兵衛佐、治部大輔 ?〜1554 尾張国守護
尾張国の守護で、守護代織田信友に擁されて清洲に居住する。しかし信友と不和となって1554年信長に内通をはかったが、露見して殺害された。

同上。

 

島田秀満
秀順、所之助 ?〜? 信長近臣
早くから信長側近として働き、1568年には不破光治らとともに足利義昭の迎えに立つ。上洛後将軍邸や信長邸の普請奉行をつとめたほか、義昭との講和の使者に立つなど土木・外交面で活躍した。

エリート吏僚。渋いぜ。

 

 

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