人物列伝
な行
隼人佐 |
?〜1571 | 斎藤氏家臣 |
斎藤道三の弟または庶子といわれる。道三・義龍・龍興三代に仕え、龍興の美濃落去後も主君に随従して畿内を流浪した。しかし1570年の南方挙兵後に龍興と決別、足利氏に仕える。1571年和田惟政が摂津で池田知正と戦った際、和田方の援軍に赴いて戦死した。 | ||
どう評価したものか… |
虎之助、瀬兵衛 |
1542〜1583 | 信長部将、茨木城主 |
摂津の土豪。はじめ池田勝正に仕え、1572年荒木村重らとともに和田惟政を討ち取る功を挙げる。その後信長に属し、村重与力として四万石余を与えられた。1578年の村重謀叛の際には一時村重へ同調したが、説得を受けて帰服する。以後は部将として働き、本能寺の際には羽柴秀吉勢に属して山崎合戦で功を挙げた。その後も秀吉に従ったが、1583年賎ヶ岳の戦いで江北大岩山砦に佐久間盛政の攻撃を受けて戦死した。 | ||
顔に似合わず(いえ顔は見たことありませんが)熱心なキリシタンだったそうです。 |
八郎右衛門尉 |
?〜? | 信長部将 |
織田一族とされる。黒母衣衆から部将格となり、元亀年間に安土に配置されて南近江防衛の一翼を担った。しかし1573年弟の津田盛月が領地に関する紛糾から柴田勝家の代官を斬殺したため、みずからも連座して失脚した。その後は徳川家康の元で蟄居・剃髪した。 | ||
賢弟に恵まれた秀吉とは対照的な没落ぶり。 |
仁科盛信 | ||
五郎、薩摩守 |
1557?〜1582 | 武田一族、高遠城主 |
武田信玄の五男で勝頼の弟。1561年信玄によって滅ぼされた信濃国安曇郡の名族・仁科氏の名跡を継ぐ。信玄没後高遠城主に任じられて勝頼を助けたが、1582年織田勢が信濃へ侵攻。武田信廉ら周辺の味方が撤退して戦線が崩壊する中を高遠城に籠って抗戦したが、織田信忠の攻撃の前に落城、自害した。 | ||
叔父さんたちが撤退する中で決死の抗戦。よそんちの養子になったけど武田氏最後の華。 |
日乗 | ||
日乗朝山(朝山日乗) |
?〜1577 | 法華僧侶、信長側近 |
出雲の産で、天文年間に上京。荒廃著しい皇居の修築を志して活動し、御奈良天皇より上人号を授けられた。1568年の上洛後から信長側近として起用され、念願の御所修築の奉行を務めるなど内政・外交に活躍する。しかしキリスト教を憎悪して宣教師やキリシタン大名和田惟政と対立。信長の前で宗論を戦わせたが、敗れて信頼を失った。 | ||
“猛僧”。眉毛とか太そう。 |
庭田重保 | ||
権大納言 |
1525〜1595 | 公卿(羽林家)、宇多源氏 |
権中納言庭田重親の子。諸官を歴任したのち1558年権中納言に任じ、信長ら有力武家と交流する。1575年権大納言に就任、1582年辞職。1595年に死亡した。 | ||
大したエピソードもなし。 |
丹羽長秀 | ||
惟住(姓)、万千代、五郎左衛門尉 |
1535〜1585 | 信長重臣、佐和山城主 |
信長股肱の臣。1550年15歳のとき信長に仕え、尾張国内の戦に歴戦する一方で敵方への誘降工作にも能力を発揮する。1563年信長養女(織田信広の娘)と結婚。1568年の上洛後は各地を転戦しながら行政や建築事業にも参画し、功績により佐和山城を与えられる。1574年の安土築城に際しては普請総奉行を命じられ、1575年には信長の奏請により朝廷から惟住姓を与えられた。1582年摂津に在陣して四国征討の準備を進めるが、その最中に本能寺の変が勃発。やむなく中国から返した羽柴秀吉勢に合流し、明智勢を破った。続く清洲会議・賎ヶ岳の戦いでも秀吉と共同歩調をとり政権掌握に貢献、柴田勝家滅亡後秀吉からその遺領を譲られて越前・加賀のうちに大領(百二十万石余とも)を領した。1585年越前北の庄において死亡。晩年は悶々として楽しまず、病を嫌って自刃したとも伝えられる。 | ||
幼友達信長に付き添っての天下統一の旅路。楽しかったか辛かったか。 |