人物列伝

ま行

前田利家

犬千代、又左衛門

1538〜1599 信長部将、七尾城主、豊臣大名
尾張国荒子の土豪前田利昌の子。14歳で信長に仕える。1559年同僚を殺害して一時出仕を止められたが、その後の合戦に重ねて武功を挙げて許された。以後馬廻将校として姉川合戦・朝倉氏討滅戦等に活躍し、1575年柴田勝家の目付を命じられて越前に知行を与えられた。その後は柴田与力として北陸平定に働き、1581年能登七尾城主となる。本能寺の変時には越中にあり、賎ヶ岳ではそのまま柴田方に与したが、のち秀吉に下る。その後は秀吉に従って全国平定に活躍し、知行を増大させて加賀百万石前田家の礎を築いた。秀吉晩期には五大老に列して秀頼後見となり、徳川家康を牽制しつつ秀吉死後の政権運営に尽力したが、1599年3月死亡した。

かつての荒武者が上司のお目付や後見のじいやに。人間揉まれて丸くなる。

 

前波吉継

桂田(姓)、長俊、九郎兵衛

?〜1574 朝倉家臣、信長部将
朝倉氏の臣で、1572年朝倉勢が大嶽で織田勢と対陣した折に信長へ通じた。翌年の朝倉氏討滅戦では越前への先導役をつとめて功を挙げ、戦後越前国守護代に任じられて名を桂田長俊と改めた。しかし同年眼病を患って盲目となる。さらに翌1574年富田長繁の扇動した一向一揆に攻められて戦死した。

どっかの腐れ儒者が「天罰」とかいって喜びそう。

 

松井友閑

宮内卿法印

?〜? 信長側近
尾張清洲の出身で、早くから信長に仕えたとみられる。信長上洛後側近の一人として奏者や諸奉行に任じ、堺の代官となった。1574年には蘭奢待切り取りの奉行の一人となる。その後も堺代官を務めつつ本願寺退去の目付を命じられるなど活躍した。本能寺後は秀吉に仕えるが、1586年堺の代官を罷免された。没年は不明。

国際都市堺のお代官さま。今でいえば横浜市長あたりか。

 

松永久秀
弾正忠、弾正少弼、霜台 1510?〜1577

三好氏家臣、信長従属者、大和信貴山城主

出自不詳。生国は山城・摂津から阿波まで諸説ある。はじめ右筆として三好長慶に仕えたが、実弟の長頼とともに次第に軍事・行政両面で頭角を現した。長慶の京都進出後は庶政に関与して在京諸勢力との結びつきを深め、1560年には幕府御供衆に任じられて一層権力を伸張させた。その後長慶嗣子の毒殺(久秀関与とされる)や長慶弟の謀殺を通して主家を凌ぐ勢力を築き、長慶死後は対立する将軍義輝を三好三人衆と結んで殺害するなどして一時畿内の実権を掌握する。のち三人衆とも対立したが、上洛した信長にいち早く降って鎮定側に身を置くことに成功、大和一国の支配を任された。その後1572年に一時背くも赦免され、信長配下として本願寺包囲などに加わった。しかし1577年上杉謙信ら反織田勢力の活況に乗じて再び背き、信貴山城に織田勢の攻撃を受けて自殺した。

ベスト梟雄ィストランキング、400年間不動の1位(推定・anan調べ)。

 

丸毛兼利

丸茂(姓)、兼頼、三郎兵衛

?〜1647 信長旗下、豊臣家臣、前田家臣
長照の子。父とともに信長に従い、浅井・朝倉戦、一向一揆討伐戦等に戦う。本能寺後は秀吉に仕えて九州・小田原に参陣し、父の跡を継いで美濃福束二万石を領した。関ヶ原では西軍に属して美濃国内の東軍方と戦ったが敗れ、城を捨てて逃亡した。その後加賀前田家に仕え、1647年まで長命した。

器量は父親(↓)のほうが上か?

 

丸毛長照

丸茂(姓)、光兼、兵庫頭

?〜? 信長旗下、多芸城主
美濃国多芸郡の土豪。はじめ斎藤氏に仕えて織田勢の侵攻を防いだが、のち信長に従う。織田勢にあっては旗本先手衆の一人として各合戦に参加したほか、後方の要地や本拠安土城の留守居役を度々任せられるなどした。本能寺後は秀吉に仕え、美濃福束城を与えられた。

「毛」のつく名といい、お留守番が多かったことといい、なんか犬っぽい。

 

万見仙千代
重元 1549〜1578 信長側近、小姓
信長の小姓。父は神子田長門守という士とされるが、詳細は不明。1575年(史料上の初見)以前から信長に近侍し、戦地への検使や諸奉行職および添状発給等の職務に重ねて携わる。1578年荒木村重に謀叛の風聞が流れた際には、糾問使の一人として荒木と接触した。しかし風聞通りに荒木が叛逆、その鎮定戦に参加するが、有岡城攻防戦の最中に城際で戦死を果たした。

信長秘書室のエリート。蘭丸君の大先輩です。

 

水野信元

藤七郎、下野守

?〜1575 三河の土豪、刈屋城主
水野忠政の子で、徳川家康の伯父に当たる。はじめ今川氏に属したが、のち織田氏に転じて桶狭間以後各地の戦いに従う。1572年武田軍が三河へ進攻した際には織田家の援軍として三方ヶ原へ赴いた。しかし後になって武田氏への通謀を疑われ、1575年信長の意により自殺させられた。背景に佐久間信盛との確執があったとされる。

あやしい性格してたんだろうか。

 

溝口秀勝

金右衛門、竹、伯耆守

1548〜1610 信長部将、豊臣家臣、新発田藩祖
初め丹羽長秀の家臣。1581年信長から力量を認められて直臣に取り立てられ、若狭高浜に五千石を与えられる。本能寺の変後は秀吉に属して賎ヶ岳合戦等に従い、加賀大聖寺四万六千石、次いで越後新発田六万石余の領主となった。その後関ヶ原では東軍に属して所領を安堵され、江戸大名新発田藩溝口氏の藩祖となった。1610年新発田で没。

陪臣から直臣、そして大名。波乱を乗り切って出世してます。金ちゃんだけあってサラリーマンの鑑です。

 

宮部継潤

善祥坊、中務卿法印

1528?〜1599 信長部将、秀吉属将、鳥取城主
比叡山の出身。僧兵団の頭目から浅井氏家臣となり、1571年羽柴秀吉の誘いに応じて織田勢に降った。以後秀吉の属将として働き、中国征伐では先鋒をつとめて鳥取城を与えられた。本能寺後も秀吉に属し、1587年の九州平定戦では島津氏の大軍を撃退する。秀吉の信任篤く蔵入地の代官や伏見城の普請奉行などを歴任し、晩年は御咄衆に列した。秀吉死後の1599年3月死亡。

半兵衛や小六と比べて遜色ない秀吉創業の功臣なのだが、なぜか陰は薄い。

 

三好康長

山城守、笑岩

?〜? 三好一族、信長部将、高屋城主
三好長慶の叔父で、長慶死後三好三人衆とともに畿内に勢力を張る。1568年の信長上洛に際しては四国に退去し、翌年三人衆とともに京へ返して足利義昭を襲ったが失敗した。その後河内国高屋城に拠って織田勢に抵抗したが、1575年攻囲を受けて降伏。以後部将として働き、1582年には四国遠征軍の先懸けとなって四国に渡ったが、本能寺の変が勃発したため引き返した。その後は秀吉に従い、羽柴秀次を養子とするなど豊臣家と親密度を深めたが、晩年の動向は不明。

入道名を「笑岩」。どういうセンスだ。

 

三好義継

熊王丸、左京大夫

?〜1573 三好宗家、若江城主
三好長慶の弟十河一存の子で、1564年伯父長慶の跡を継いで三好氏宗家となる。三好三人衆に擁されて長慶死後の三好氏勢力を継承したが、のち三人衆と対立。松永久秀と結んで三人衆と戦った。1568年信長が上洛すると松永久秀とともに信長へ降り、若江城と河内半国を得て足利義昭の妹婿となった。しかし1572年周辺の親織田勢力を攻めて信長に敵対したため、翌1573年佐久間信盛の攻撃を受けて自刃した。

三好宗家としての権益と誇りが、この男の首を締めつけた。

 

武藤舜秀

宗右衛門尉、弥兵衛

?〜1579 信長部将、敦賀城主
越前の土豪で、元亀年間頃より信長へ帰順したとみられる。越前一向一揆の牽制・討滅に活躍し、1575年功績により越前国敦賀郡を与えられた。以後は織田家中にあって遊撃軍的な役割を果たし、雑賀征伐・加賀出陣・播磨神吉城攻め等に歴戦する。1579年には荒木村重包囲戦に従軍して攻囲陣の一翼を担ったが、その最中に陣没した。軍略に優れた将であったと伝えられる。

主演インド映画『ムトゥ踊る土豪』近日公開予定。

 

毛利秀頼

河内守

1541〜1593 信長部将
斯波氏一族で、桶狭間以前より信長に従う。各地の戦いに参加したのち織田信忠付きの部将となり、1582年の武田氏討滅後に信濃国伊那郡を与えられた。しかしまもなくして本能寺の変が勃発したため領国を放棄し、羽柴秀吉に従う。その後小牧長久手・九州征伐・小田原陣に参加し、1592年功績により旧領の伊那を与えられた。

ちなみに死後遺領の九割を京極家に持っていかれている。名家恐るべし。

 

森長可

勝蔵、武蔵守

1558〜1584 信長部将
可成の子。戦死した父可成の跡を継ぎ元亀年間より信長に仕える。織田信忠の付属部将として武田氏討滅戦等に活躍し、1582年信濃四郡を与えられて海津城に入った。本能寺の変後は本領の美濃に戻って一時織田信孝に属したが、のち秀吉に従う。1584年小牧・長久手の戦いで徳川軍に敗れ、池田恒興とともに討死した。

この時期、森一族の歴史は討死の歴史。

 

森可成

三左衛門尉

1523〜1570 信長部将、金山城主
信長初期の股肱。美濃の産で、早くから信長に仕える。尾張統一から美濃侵攻、上洛に至るまでの主要な合戦の多くに参戦して戦功を重ね、上洛後は奉行として京都諸政にも参画した。1570年宇佐山城将となって南近江に在番したが、同年9月浅井・朝倉氏の大軍の来襲を受け、奮戦のすえ討死した。

創業の武臣。その最期も背負ってきた戦歴に相応しい華々しさだ。

 

 

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