人物列伝

か行

金森長近

可近、五郎八

1524〜1608

信長部将、茶人

美濃の産と伝えられる。早くから織田家に仕え、1559年の初上洛にも随行。信長に従い各地を転戦し、長篠合戦や越前一向一揆平定、武田氏討滅戦等に功績を挙げる。1582年本能寺の変が勃発すると、所領の越前大野から秀吉軍に合流して明智軍と戦ったとされる。賎ヶ岳の戦いでは柴田勝家に属すが、戦後赦免される。以後は秀吉政権下で比較的安定した地位を得、飛騨一国を与えられた。関ヶ原では東軍に属して加増を受け、飛騨高山藩祖となる。利休門下の茶人としても有名。

茶の湯や蹴鞠にも通じていた粋人。

 

兼松正吉

又四郎、修理亮

1542〜1627

信長旗下

信長旗下の勇士。桶狭間の戦いに初陣を飾り上洛戦・朝倉討滅戦等で活躍、その武功を愛でられた。本能寺の変後は織田信雄、豊臣秀次、豊臣秀吉に歴仕し、最後は徳川家康のもとで松平忠吉・徳川義直に付属した。

主君運には恵まれなかったが、槍一筋で生き抜いた人。高倉健にでも演じてほしい。

 

蒲生氏郷
賦秀、忠三郎、侍従、左近衛少将 1556〜1595 信長女婿、部将
蒲生賢秀の子。1568年父が信長に服属した際、人質として岐阜に入る。翌年信長の娘を娶り、以後部将として伊勢征伐、浅井・朝倉戦、一向一揆討伐、武田戦、伊賀攻め等、信長軍団の主だった戦に歴戦。1582年の本能寺の変勃発時には安土にいた信長の遺族を保護する。その後は秀吉に従って滝川一益討伐や小牧・長久手の戦いに戦功を挙げ、小田原征伐後会津黒川に四十二万石を与えられる。所領は大崎・葛西一揆の平定後さらに加増され、最終的に九十二万石となった。1595年、肥前名護屋城在陣中にかかった病がもとで死亡。

英雄の風があったとされ、秀吉による毒殺説もある。猿の劣等感を煽ったか?

 

蒲生賢秀
右兵衛大夫 1534〜1584 近江の豪族、日野城主
六角氏の重臣であったが、1568年の上洛時に信長へ従って所領安堵を受ける。その後伊勢攻め等各地の戦に従軍。本能寺の変の際には留守居として安土に在番し、光秀からの誘いを拒否して信長の遺族を保護した。

中々の気骨と情勢判断力である。

 

亀井茲矩
新十郎、武蔵守、琉球守 1557〜1612 尼子氏旧臣、鹿野城主
尼子氏の旧臣湯氏の出自で、尼子氏滅亡後山中鹿之介(鹿介)の薦めにより旧家中の名門・亀井氏を継ぐ。尼子氏勢力の復興をめざす鹿之介に従い各地を転戦し、鹿之介没後は羽柴秀吉に属して鳥取城攻略等に戦功を挙げ、1581年因幡国鹿野城主に任じられた。以後も秀吉に仕えて九州征伐・小田原陣・朝鮮出兵等に従い、関ヶ原では東軍に属して三万八千石の江戸大名となった。海外への意欲も旺盛で、秀吉から琉球守の名乗りを許されたほか江戸幕府の許可を受けてシャム等へ貿易船を送るなどした。

琉球守を名乗った大風呂敷さん。いっそのことオランダの守とかえげれすの守とか名乗ればよかったのに。

 

河尻秀隆
与兵衛、肥前守 1527〜1582 信長重臣、甲斐府中城主
早くから信長に仕え、黒母衣衆筆頭をつとめる。信長の勢力拡大に従って各地に転戦、功績により嫡子信忠付きの重臣となった。その後信忠軍団を統制して荒木村重討伐・武田氏討滅戦に活躍し、褒賞として甲斐一国と信濃国諏訪郡を与えられる。しかし直後に本能寺の変が勃発し、その報が届いた甲斐で一揆が蜂起。1582年6月、一揆勢に攻め潰されて死亡した。

励んで国持ちになった途端に破滅。不運としか言いようがない。

 

河田長親
禅忠、豊前守 ?〜1581 上杉氏家臣、魚津城主
近江国守山の出自で、1559年上洛した長尾景虎(上杉謙信)に見出されて上杉氏へ仕える。以後謙信の側近として関東出兵等に従い、永禄後期から天正初期にかけては越中魚津城にあって一向一揆や椎名氏らの在地勢力と戦闘を繰り返した。その後も上杉氏の北陸経営に尽力し、天正以降越中まで勢力を伸ばした織田氏へ対抗する。1578年謙信が没した際には、信長側からの誘いを退けて上杉景勝を支持した。1581年越中松倉城で病没。

上杉家には珍しい?近畿出身者。旅先でゲッツたあ、謙信さんも結構やり手ですな。

 

木曾義昌
伊予守、左馬頭 ?〜1595 信濃の豪族、武田親族衆
信濃国木曾谷の領主で、源平時代の武将・木曾義仲の後裔とされる。1555年武田氏へ降り、信玄の娘を娶って親族衆に列せられた。その後武田勝頼の衰勢を受けて1582年に織田氏へ通じ、武田氏滅亡後安曇・筑摩の二郡を与えられる。本能寺後は徳川氏・豊臣氏に属したが、1590年徳川氏の関東移封に伴い木曾を接収され、子の義利に下総阿地土一万石が与えられたため同地へ赴いた。1595年死亡。

はるかご先祖の代からのミスター木曾。木曾以外で没する気持はいかばかりだったろう。

 

北畠具教
中納言 1528〜1576 伊勢国司、多芸・大河内城主
北畠親房の子顕能に始まる伊勢国司北畠氏の第八代。長野氏らと争って伊勢中南部に勢力を広げる。1569年信長が伊勢進攻の兵を起こすと大河内城に籠って抵抗したが、のち講和。信長の子信雄を嫡子具房の猶子に迎える。その後1575年に家督を信雄へ譲って隠居したが、翌1576年11月、信長の内意を受けた家臣の手にかかり暗殺された。塚原卜伝に学んだ剣豪と伝えられる。

暴れん坊国司。剣豪将軍義輝とのタイマン歴あり、という事実は、もちろんない。

 

吉川経家
小太郎、式部少輔 1547〜1581 石見吉川氏、鳥取城将
吉川元春の支族で、石見国福光城主吉川経安の嫡子。織田氏に降った鳥取城主の山名豊国が城兵により追放されると、1581年城兵の要請を受けて毛利氏より守将として派遣される。同年羽柴秀吉勢二万の包囲を受け、「鳥取の渇殺し」と称される兵粮攻めに耐えたが、城内の飢餓が極まるに及び降伏を決意。同年10月、城兵の助命と引きかえに鳥取城内の真教寺で自刃した。

「武士は食わねど高楊枝」という言葉はこの経家の奮闘から生まれた…というのはウソです。でも武士の鑑。

 

京極高次
小法師、若狭守、侍従 1563〜1609 北近江守護京極氏嫡流
近江の名族。元亀初年に信長と足利義昭との対立が深まる中、義昭に近かった父高吉が蟄居したあとを受けて信長傘下となる。本能寺の変の際には明智光秀に与して長浜を攻撃したが、妹が秀吉側室となった関係で赦免される。秀吉死後は徳川家康に接近し、関ヶ原では西軍の一部を決戦前日まで居城の大津城に引きつける功績をあげた。妻は浅井長政の娘常高院(於初)。

閨閥の申し子といえる。ちょっとうらやましい。

 

九鬼嘉隆
右馬允、大隈守 1542〜1600 水軍衆、志摩田城城主
はじめ北畠氏に属すが、信長上洛後は織田氏に従う。水軍の将として長島征伐・本願寺攻め・木津川口海戦等に活躍し、志摩七島および摂津の地に加増を受ける。秀吉時代に水軍大将としての地位を確立し、小田原征伐や朝鮮出兵に船団を率いた。関ヶ原の際には西軍に与して東軍に属した子の守隆と戦ったが、西軍敗北を受けて蟄居する。守隆の嘆願により助命されるところだったが、1600年10月その知らせを待たずに自害した。

名だたる海賊大将。苗字が格好いい。

 

楠長諳
正虎、式部卿法印、河内守 1520〜1596 信長右筆
世尊寺流の一流書家。はじめ足利義輝・松永久秀に仕えたが、永禄末頃から信長に転仕する。右筆として本願寺宛起請文など重要文書の発給に携わる一方、側近として使者の応対や部将の督励といった役割にも任じた。本能寺後は秀吉に仕えて引き続き右筆を務める。なお長諳は楠木正成の子孫を称しており、朝廷へ正成らの赦免を願い出て許されたほか、みずからも正成の任じた河内守に叙任されている。

書家として一流、ご先祖マニアぶりも超一流。ああ、一流って素晴らしい。

 

朽木元綱
信濃守、河内守 1549〜1632 近江朽木谷領主
佐々木氏の流れで、幕府奉公衆を務める。1570年信長の金ヶ崎撤退を救け、翌年より信長に従属した。本能寺の変後は秀吉に従い、秀吉直轄領の代官となる。関ヶ原の合戦では西軍につくが、小早川秀秋の内応に連鎖して東軍に応じ、所領を安堵された。

関ヶ原裏切り君の一人。

 

黒田官兵衛

小寺(姓)、孝高、如水円清、ドン・シメオン(洗礼名)

1546〜1604 播磨小寺氏家老、信長傘下、秀吉与力、豊臣大名、中津城主
はじめ播磨国赤松氏の一族小寺氏の家老。天正初期に主家を織田氏の傘下に属させ、みずからも中国征伐途上の羽柴秀吉に協力する。1578年荒木村重が謀叛を起こすと帰順の説得に向かうが、捕らえられて幽閉された。その後救出され、秀吉旗下にあって淡路平定・備中高松城攻略等に活躍。1582年の本能寺の際には秀吉に素早い転進を促し、山崎の合戦にも戦功を挙げた。以後秀吉を補佐して四国征伐・九州征伐等に参加、1587年豊前中津十二万石を与えられる。1589年に子の長政へ家督を譲ったが、その後も小田原陣、文禄・慶長の役等に歴戦した。1600年の関ヶ原合戦時には北九州にあって一軍を催し、瞬く間に西軍諸大名を圧倒するが、関ヶ原本戦の決着を受けて活動を終息。以後は京都(筑前とも)で隠居生活を送ったのち、1604年死去した。秀吉・家康からその才知を賞賛される一方、警戒もされていたと伝わる。

歴代天下人に恐れられた「最強のご隠居」。世直しどころか天下狙います。黄門様なんかメじゃないぜ。

 

近衛前久
晴嗣、前嗣、龍山 1536〜1612 五摂家筆頭、前関白・太政大臣
関白近衛稙家の子。幼少から位官を重ねて1554年関白・左大臣に任ぜられる。1559年上洛した上杉謙信と親交を結び、翌1560年から2年間を越後で過ごして謙信の関東出兵にも同行した。その後京都へ帰ったが足利義昭と対立し、関白職を停止されて各地を流寓する。しかし1573年信長によって義昭が追放されたのち中央への復帰を果たし、以後は信長に密着して対朝廷政策や薩摩島津氏等への外交交渉に尽力した。1582年には武田氏討滅戦にも従軍したが、その数ヵ月後に本能寺の変が勃発すると謀叛荷担の嫌疑を恐れて剃髪した。その後は徳川家康のもとに一時寄寓したのち京へ戻り、東山に隠棲した。

お偉いさんだけど血が熱く、しかも子分体質。頼れるアニキを求めて北へ南へ。

 

 

 

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