人物列伝

は行

羽柴秀吉

木下(姓)、豊臣(姓)、藤吉郎、筑前守、関白太政大臣

1536〜1598

信長重臣、長浜・姫路城主、豊臣政権樹立者、太閤

尾張中村の足軽木下弥右衛門の子。天文末頃より信長に仕えて諸般に能力を発揮し、奉行の一人となる。1568年の上洛戦では部将として戦功を挙げ、上洛後は京都庶政にも関わった。元亀年間には北近江にあって浅井氏攻略の前線指揮を務め、功績により浅井氏滅亡後その旧領を与えられる。またこの頃羽柴と改姓し、筑前守を名乗った。その後有力部将の一人として各地を転戦、1577年には中国征伐の総指揮官に任じられて毛利氏攻略にあたった。1582年本能寺の変報がもたらされると中国路を素早く畿内へとって返し、明智光秀を山崎に討って主の仇を討つ。戦後処理のための清洲会議を経て旧家中の主導権を握り、柴田勝家ら敵対勢力を滅ぼして旧織田勢力を糾合した。その後東海・四国・九州・関東・東北の諸勢力を次々と討伐・臣従させ、応仁ノ乱以来120年振りの全国統一政権の樹立に成功する。またこの間関白・太政大臣に任じられ、朝廷より豊臣姓を賜って政権固めを行った。統一後は検地・刀狩・兵農分離等の諸政策を行い一元的統治体制の確立に努めたが、一方で大陸への進出を考え二度にわたり朝鮮に出兵する。その戦況が泥沼化する中、1598年8月伏見城で死去した。

辞世「つゆとをちつゆときえにしわがみかな なにはの事も夢のまたゆめ」。この心境はいつ生まれたものか。

 

長谷川宗仁

刑部卿、法眼

1539〜1606 信長側近、茶人
京都町衆の出自とされる。信長に仕えて奉行・代官職を務めた。信長死後は秀吉・家康に仕えて一万石を領する。茶人として茶会に度々出席した。

安定した生涯だねえ。

 

長谷川秀一

竹、藤五郎、侍従

?〜1594 信長側近、小姓
信長の小姓。1578年前後から奉行職や戦地への検使の任に当たり、1579年には安土宗論の警固・調停役を務めた。1582年の本能寺の変勃発時には徳川家康の歓待役として堺にあり、家康の伊賀越えに同行して難を逃れる。その後京都へ戻って秀吉に属し、賎ヶ岳・小牧長久手・九州征伐・小田原陣に歴陣して越前東郷十五万石を得た。また功績により秀吉から羽柴姓を与えられ、従五位下侍従に叙せられて羽柴東郷侍従と称された。その後文禄の役にも従軍したが渡海先で発病し、1594年2月に病死した。

なんか現代人ぽい名前でほっとする。

 

波多野秀治

千熊丸、左衛門大夫

?〜1579 丹波の豪族、八上城主
丹波の国人領主。はじめ畿内を掌握する三好・松永氏の服属下にあり、1560年には上洛して朝儀に参列するなどしている。しかし1566年に父祖の地である八上城を奪回し、ここを拠点として丹波国内に勢力を伸ばした。1575年信長の命を受けた明智光秀が丹波に入ると、一旦はこれに従ったものの後になって背き、明智勢を撤退させる。しかし再度侵攻した明智勢に攻囲され、長期にわたる籠城戦の末に捕らえられて1579年6月安土で磔に処された。落城に際しては光秀の母を人質とする代わりに投降した(そのため光秀母は秀治処刑後に殺害)とも、調略された城兵に捕縛されたとも伝わる。

けっこうやり手です。あとついでに、“光秀怨恨説”界ではちょっと知られた存在です。

 

蜂須賀小六

正勝、彦右衛門、修理大夫

1526〜1586 信長部将、秀吉与力、豊臣大名
濃尾国境の土豪の出自。定まった主を持たず美濃斎藤氏・犬山織田氏・岩倉織田氏に相次いで属したが、のち信長に従い、木下(羽柴)秀吉の組下となる。以後は秀吉与力として美濃攻略・対浅井氏戦・長島一向一揆討滅戦等に活躍し、中国征伐でも三木城包囲・鳥取城攻略等に功績を挙げて播州竜野城主となった。本能寺後は秀吉直臣となって小牧・長久手戦や四国征伐に従い、戦功により子家政に阿波一国を与えられた。1586年上方で死去。

「はちすか・小6」ではありません。ランドセルはしょってません。念のため。

 

蜂屋頼隆

兵庫助、兵庫頭、出羽守

1534?〜1589 信長部将、岸和田城主
美濃の産とされる。信長に仕えて黒母衣衆となり、1559年の初上洛にも参加する。信長に従って各地に戦い、上洛戦・近江での戦い・一向一揆征伐・荒木村重討伐等に活躍し、功績によって近江国肥田と和泉半国を与えられる。1582年の本能寺の変勃発時には四国渡海軍の一人として住吉にあり、中国から返した羽柴秀吉に合流して山崎の戦に参加した。その後秀吉に従って賎ヶ岳、小牧・長久手、九州征伐に従い、越前敦賀城主となって羽柴姓を与えられた。1589年死亡。継嗣不在のため家は断絶した。

古豪だけど、後年はなぜか猿に飼い馴らされてしまった。

 

林員清

与次左衛門

?〜1575 近江の土豪
高島郡打下の土豪。信長に従い浅井・朝倉戦などに従軍するが、1575年叛意が発覚して殺害された。

四つ↓の樋口の例もあるが、背いた在地勢力に対する処置は苛烈なものだった。

 

林秀貞

新五郎、佐渡守、(通勝)

?〜? 信長宿老
織田信秀の代からの重臣で、信秀が那古野城へ移転した際に信長付きの宿老となる。1556年織田信勝(信行)を擁して信長へ叛旗を翻すが、敗れて罪を許された。その後は信長重臣として上洛後の京都庶政に関与する一方、長島一向一揆征伐等の戦役にも従う。1578年正月には他の重臣とともに信長から点茶をふるまわれるなどの厚遇を受けたが、1580年突如として家中を追放された。その後京都に移ったが、まもなくして没したと伝えられる。なお実名を「通勝」とするのは松永久秀家中の同姓人物と混同して伝えられたもので、同時代の文書・日記等には「秀貞」と記される。

つまりこの人を林通勝と呼ぶのは、加藤剛をつかまえて加藤茶と呼ぶようなものらしいです。

 

原田直政

塙(姓)、九郎左衛門尉、備中守

?〜1576 信長重臣
はじめ塙姓。赤母衣衆から部将に引き立てられて伊勢征伐・江北出兵・越前一向一揆制圧戦等に従う。一方で京都諸政にも関わるなど吏僚としても活躍し、功績により1574年から75年にかけて山城・大和の守護に相次いで任ぜられた。また1575年には信長の奏請により明智光秀・丹羽長秀・簗田広正らと並んで朝廷より姓を賜り、原田備中守を名乗った。1576年本願寺攻囲の主力となって大坂を囲むが、同年4月一揆勢の反撃を受けて戦死した。

なんか1575年の賜姓組ってみんな悲惨な末路を辿ってる気が…

 

原長頼

政茂、彦次郎、隠岐守

?〜1600 信長部将
美濃の人。信長に仕えて越前国一向一揆征伐や荒木村重討伐に戦功を挙げ、越前国大野郡に所領を与えられる。本能寺の変後は柴田勝家に属して賎ヶ岳に戦い、勝家滅亡後は前田利家に従った。その後秀吉に仕えて伊勢、三河、美濃太田山と所領を移される。1600年関ヶ原で西軍に与して戦ったため、戦後窮して自害した。

転勤族。

 

樋口直房

 

?〜1574 豪族堀氏家老
近江坂田郡の豪族堀氏の家老で、幼少の主堀秀村に代わって家中を取りしきる。1570年主家とともに浅井氏を去って信長に従い、羽柴秀吉の有力与力となった。浅井・朝倉氏滅亡後は越前木目峠に駐屯するが、1574年一揆勢と単独講和して退転しようとはかったため、秀吉の追跡を受けて殺害された。

「裏切者には死を」というやつ。

 

平手汎秀

甚左衛門

?〜1572 信長部将
平手政秀の嫡孫または三男と伝えられる。1572年三方ヶ原の戦いに佐久間信盛らとともに織田家の援軍として参加し、戦死を遂げた。

珍しい名前なのだから長生きしてほしかった。

 

平手政秀

中務丞

1492〜1553 織田信秀家臣、信長宿老
信長初期の宿老。家中きっての文化人として知られ、外交や下向公卿の接待などに活躍する。1549年には対立関係にあった美濃斎藤家と和親し、信長と斎藤道三息女との縁談を取りまとめることに成功した。しかし信秀死後の1553年突如として自殺。理由は信長の行状を諌めるためとも、信長に反発する一族と信長との間で板ばさみになったためとも伝えられる。

うつけのじいやは苦労が絶えなかったことだろう。

 

フロイス

ルイス・フロイス

1532?〜1597 イエズス会宣教師
ポルトガル人宣教師。1563年来日して九州で伝道を行ったのち、翌々年に京都へ入る。1569年信長と対面してその保護を受け、以後畿内を中心に活発な布教活動を行った。その後1576年に都を離れて九州に入り、豊後臼杵や長崎で活動を続ける一方で日本副管区長コエリョの命により大著『日本史』を執筆する。1592年一時マカオに渡るが、1595年に再度来日。長崎で活動したのち、1597年同地で没した。『日本史』中における信長の描写は、信長の人物像をよく表すものとして知られる。

帰化してたら「風呂椅子」とか漢字当てられてたんだろうか。(この人公記には出ませんが、特別に掲載です)

 

不破光治

河内守

?〜? 美濃の豪族、信長部将
西美濃の豪族で、氏家・稲葉・安藤三氏と並んで西美濃四人衆とも称される。斎藤氏の美濃退去後(それ以前とも)信長に臣従して浅井氏への婚姻工作に尽力し、1568年には足利義昭迎え入れの使者をつとめた。その後織田家の有力な戦力として各地に戦い、1575年前田利家・佐々成政とともに越前のうちに二郡を与えられた。以後も越前衆の一人として子の直光とともに働いたと見られるが、没年は不明。

外様なのに外交使者や奉行に任じられている。人格を見込まれたか?

 

不破直光

彦三

?〜? 信長部将、越前衆
光治の子。父とともに信長へ降り、各地に転戦する。1575年父光治の越前府中入封に伴い柴田勝家指揮下に組み込まれ、北陸経略に携わる。本能寺の変後はそのまま柴田勝家に属して賎ヶ岳に戦い、敗戦を喫する。その後は前田利家に仕えた。

生真面目そう。

 

別所長治

小三郎

?〜1580 播磨の豪族、三木城主
播磨守護赤松氏の支族で、東播磨一帯に勢力を張る。はじめ信長と好を通じて雑賀征伐等に従い、中国経略に当たっては先鋒を任せられたが、1578年突如として離反する。以後毛利氏や同じく信長に叛いた荒木村重との連携を図りつつ織田勢に抗したが、神吉・志方等の支城を攻略され、さらに秀吉によって本城の三木城を囲まれるに及び完全に孤立。「三木の干殺し」と呼称される兵粮攻めに耐えた末の1580年1月、城兵の助命を条件に降伏して弟友之とともに切腹して果てた。享年は二十三とも二十六とも伝わる。

三木城はこの人が責を負って城兵助命、有岡(荒木)は城主が脱出して一族郎党処刑。対照的。

 

細川昭元

信良、六郎、右京大夫

1548〜1592 細川京兆家当主
管領細川京兆家の末流。一族や三好氏との相克によって勢力を失った父晴元の跡を継ぐ。信長上洛後三好氏の影響下を脱して織田家に通じ、1576年信長の妹婿となった。本能寺後は秀吉に従う。

細川氏はこの人の家が本流。

 

細川藤賢

右馬頭、典厩(右馬頭唐名)

1517〜1590 細川典厩家当主
細川氏支流典厩家の裔。1568年信長が足利義昭を擁して上洛すると、その幕下となった。1573年義昭が信長に対して兵を挙げた際には義昭方についたが、のち赦されて近江坂本に入った。

この人は支流。

 

細川藤孝

長岡(姓)、幽斎、兵部大輔

1534〜1610

足利氏家臣、信長部将、豊臣大名

室町幕府奉公衆三淵晴員の子で、1540年伯父の細川元常の養子となる。1565年将軍足利義輝が殺害されると、弟の義昭を南都から脱出させて将軍擁立に尽力した。1568年以降義昭を奉じた信長に従って畿内各地に戦い、1573年山城国長岡を与えられる。両者が決裂したのちは義昭を離れて信長に仕えた。織田家にあっては丹後宮津城を与えられて明智光秀与力として働いたが、本能寺の変時には光秀からの勧誘を拒否して剃髪した。その後は秀吉に仕えて豊臣大名中屈指の文化人として声望を得た。関ヶ原では子の忠興とともに東軍に属し、丹後田辺城に籠って西軍と戦った。その後京都に隠棲し、1610年死亡した。

傍流だが、すべてにおいて本流を凌いだ。あらゆる権力者の間で生き残った“乱世の狂言回し”。

 

細川忠興
長岡(姓)、与一郎、三斎、侍従 1563〜1645 信長部将、豊臣大名、江戸大名
細川藤孝の子。父とともに信長に従い、1577年の松永久秀討伐に戦功を挙げたほか各戦に参加する。翌年明智光秀の娘玉子(ガラシャ)を妻に迎えたが、本能寺の変の際には光秀からの誘いを拒否し、父から家督を譲られて羽柴秀吉に属した。その後は秀吉配下として小牧長久手・九州征伐・小田原攻め・朝鮮出兵に従うが、秀吉死後は徳川家康に接近し、関ヶ原合戦ののち功績により豊前(はじめ中津、のち小倉に移封)に三十九万石を与えられた。文化人としても知られ利休七哲の一人に数えられる。

家柄良し、武功大で教養人。でも相当短気だったらしい。なんかこう、靴に画鋲でも入れられそうな経歴だ。

 

堀秀政

久太郎、左衛門督

1553〜1590 信長側近・部将、豊臣大名
美濃の出自で、幼少から信長に近侍する。信長側近として文書発給や諸奉行職に携わる一方、旗本馬廻として浅井・朝倉戦、一向一揆制圧、武田氏討滅戦等に従軍した。本能寺の変時には信長の先払いをつとめて秀吉陣中にあり、そのまま羽柴勢に加わって明智光秀と戦った。その後は秀吉配下の有力大名として賎ヶ岳、小牧・長久手に戦い、秀吉から越前北の庄を与えられた。1590年小田原攻めの陣中で病没。

戦巧者で人使いに長け、通称を「名人久太郎」。Q太郎とはえらい違いだ。

 

 

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行

 

 

戻る