人物列伝

あ行

青地茂綱
駿河守 ?〜1570 近江の豪族
蒲生定秀の子で、青地氏へ養子に入る。蒲生氏とともに信長に従うが、1570年9月近江を南下した浅井・朝倉勢と坂本で戦い、森可成・織田信治らとともに戦死した。

目立たないけど、蒲生氏郷の叔父さんである。

 

明智光秀
惟任(姓)、十兵衛、日向守 1528?〜1582 信長重臣、丹波亀山城主
土岐源氏明智氏の出自と伝えられるが不詳。はじめ朝倉氏に寄寓したのち足利義昭配下となって美濃移転や上洛工作に働き、その後義昭・信長間の軋轢にともない織田家へ転仕したとみられる。上洛後外交および京都庶政で活躍したほか武将として近江・伊勢に戦い、功績により近江国坂本城を与えられる。その後も畿内の諸将を与力として越前一向一揆征伐・丹波平定等に功をあげ、政治・外交面でも長宗我部氏の申次をつとめるなど信任厚かったが、1582年夏突如として叛逆、京都本能寺に信長を襲撃する。変後は畿内諸将への誘引工作をはかるも失敗、山崎で羽柴秀吉勢と戦って敗れ、敗走中を土民に襲われて死亡した。
明智光秀=天海説って結構有名だが、最初に唱えたのはどこの誰なんだろう。

 

浅井新八
政澄、政貞 ?〜1581 赤母衣衆
浅井久政の弟の子という。早くから尾張に流れて織田家に仕え、信長の赤母衣衆となる。1568年の上洛戦をはじめ各地の戦いに参加。のち信忠旗下に組み入れられる。

素性がよくわからんままに活躍し、よくわからんままに逝った人。

 

浅井長政
賢政、備前守 1545〜1573 近江国小谷城主
浅井久政の子。六角氏に抗してその影響下を脱し、朝倉氏と友好して北近江に独自の勢力を築く。1568年(または前年)信長の妹婿となり上洛に協力するが、1570年の朝倉攻めを機に信長と断交。以後朝倉氏や一向一揆等と結んで織田勢と激烈な戦いを続け、姉川の戦い・近江志賀の陣等で信長を苦しめる。しかし織田勢の度重なる軍事行動や組下諸将の離反により次第に勢力を後退し、朝倉氏滅亡後の1573年8月小谷城に織田勢の総攻撃を受けて自刃した。

なんと豊臣秀頼と徳川家光のおじいちゃんに当たる。すげえところに血を残したという点では、勝利者といえる。

 

浅井久政
下野守 ?〜1573 近江国小谷城主
浅井亮政の子。京極氏配下から実権を握って北近江に地盤を築いた父・亮政の跡を継いだが、六角氏に圧迫されその影響下に入る。1560年、子長政を擁立しようとする家臣団に迫られて隠居。信長との敵対後は長政を扶けて抵抗を続けるが、1573年8月小谷城小丸において長政に先立って自害した。

「家臣に隠居させられる」この情けなさがステキ。

 

朝倉景鏡
土橋(姓)、式部大輔 ?〜1574 朝倉一族
越前朝倉氏家臣。足利義昭の越前入りに際しては同名衆の一番に挨拶するなど、一族内の重鎮であった。しかし1573年8月織田軍が朝倉軍を追撃して越前に乱入すると、なお遁れようとする主義景を見限って自害に追い込む。その後本領を安堵され、姓を土橋と名乗って信長配下となるが、1574年越前国中に起こった一揆に攻められて死亡した。

因果応報を絵に描いたような末路である。

 

朝倉景健
安居(姓)、孫三郎 ?〜1575 朝倉一族
義景の従兄弟で朝倉氏重臣。主義景に代わって度々朝倉勢を指揮し、姉川合戦では朝倉方の総大将を務めた。1573年江北で朝倉勢が大敗を喫すると主義景の退路を開いて奮戦したが、その義景の自殺を受けて降伏。姓を安居と改めて本領を安堵されたが、1575年の越前国一向一揆平定の際に向背を責められて自殺させられた。

途中まではダメ殿に尽くす忠臣ぽくて格好いいのにねえ。

 

朝倉義景
延景、左衛門督 ?〜1573 朝倉氏五代当主
越前の戦国大名。早くから戦国大名化を果たした越前朝倉氏の当主として越前から加賀南部に至る版図を築く。1565年足利義昭を本拠一乗谷に迎えるが、上洛に難色を示したため織田家へ移られる。1570年義昭を擁した信長が義景へ上洛命令を発するとこれを無視、織田勢の攻撃を受ける。しかし浅井氏の味方を得て撃退し、以後浅井氏とともに足利義昭・武田信玄と結んで信長と争った。しかし次第に信長に主導権を奪われ、1573年援軍に赴いた北近江からの撤退中を信長に追撃され大敗、大野郡へ逃れようとするところを一族朝倉景鏡の裏切りにあい自害した。

御曹司にゃあ辛い時代だった。

 

足利義昭
一乗院覚慶、義秋、参議、大納言 1537〜1597 室町幕府十五代将軍
室町幕府十二代将軍足利義晴の子。興福寺一乗院に入り覚慶と名乗る。1565年兄義輝が殺害されると寺を脱出して近江に逃れ、還俗して義秋、次いで義昭と改めた。近江から若狭・越前を流寓したのち織田氏を頼り、1568年信長に擁立されて帰洛、将軍に補任される。しかしまもなくして独自権力の確立をめざす信長との間で対立が生じ、周辺諸勢力や本願寺に働きかけて打倒信長を画策するに至った。1573年、浅井・朝倉勢が江北で激闘を続け、東で武田勢が織田・徳川勢を圧倒する中、自らも二度にわたり挙兵するが敗れ、都を追放される。その後は河内から紀伊、さらに備後へ移り、毛利氏や上杉氏へ工作して信長討滅を叫びつづけるが、信長が本能寺に倒れたのちも政権が帰すことはなく、豊臣政権下で一万石を与えられて京都槙島に隠棲した。

「陰謀将軍」のイメージが強いが、その行為は将軍としての正当な権力奪還活動だった。

 

足利義輝
光源院、参議、左中将 1536〜1565 室町幕府十三代将軍
足利義晴の子。はじめ細川氏・三好氏と対立し、出京と入京を繰り返す。1558年三好長慶と和睦して京都に定座。以後は諸大名間の調停や守護職補任を通して将軍権威の復活に努める。しかし長慶死後ふたたび三好党と対立し、1565年5月三好義継らに二条御所を襲撃され死亡した。

剣豪将軍として知られる。弟よりはるかにイメージは良い。

 

阿閉貞征
万五郎、淡路守 ?〜1582 信長部将、山本山城主
北近江伊香郡の土豪で、はじめ浅井氏配下。1573年信長へ通じて所領を安堵され、浅井氏滅亡後秀吉の与力となる。1577年秀吉の中国征伐開始以降は信長の直属部将となった。1582年本能寺の変が勃発すると明智方に与して長浜城を占拠したが、山崎合戦後秀吉勢に捕らえられて一族もろとも処刑された。秀吉とは与力時代に竹生島の知行をめぐり訴えを起こしており、確執があったことが窺える。

本能寺では明智方につくという゛勇み足"で一族滅亡。子の貞大は相撲上手として知られてたんだけどねえ。

 

荒木村重
弥助、摂津守、道薫 1535〜1586 信長重臣、有岡(伊丹)城主
はじめ摂津の豪族池田勝正の被官。池田氏の内訌の中から勢力を拡大させ、1571年には対立する和田惟政を摂津糠塚に破って敗死させた。1573年信長へ属して摂津一国の進退を任される。1575年伊丹氏から伊丹城を奪取して有岡と改称し、この地を拠点とした。その後は信長配下の有力部将として各地に戦い、本願寺攻囲や中国攻めに従ったが、1578年本願寺・毛利氏と通じて信長に叛旗を翻す。以後十ヶ月にわたり有岡に籠城して織田勢の攻囲に耐えたが、状況は次第に悪化。1579年重臣・家族を残して城を脱出し尼崎に移るが、それにより有岡城は落城、一族は惨殺される。自身も織田勢の攻撃を支えきれず、1580年毛利氏を頼って西国へ逃れた。その後剃髪して道薫と名乗り、本能寺後に畿内へ戻って堺に居住した。茶人としても高名で利休門下七哲の一人に数えられる。

責めるべきではありません。生きて己を全うする芸術家肌の人だったんでしょう、アラーキーなだけに。

 

安藤守就
伊賀(姓)、定治、範俊、伊賀守 ?〜1582 信長部将、北方城主
美濃国本巣郡の豪族で、西美濃三人衆の一人。はじめ斎藤氏に属し、1554年には斎藤道三の命により尾張に赴いて信長の援軍を務めるなどした。1567年稲葉氏・氏家氏とともに織田氏へ通じて信長の美濃支配に協力する。以後信長配下の有力部将として上洛戦・姉川合戦等の各戦役に従軍したが、1580年武田氏内通の嫌疑により家中を追放された。1582年本能寺の変が勃発すると、一族とともに旧領の北方に拠って再起を図ったが、稲葉一鉄の攻撃を受けて敗死した。

別名を伊賀伊賀守といいます。伊賀上野の皆様、彼を名誉市民にする署名活動をぜひ。

 

池田恒興
信輝、勝三郎、勝入 1536〜1584 信長重臣、摂津国伊丹城主
信長の乳兄弟。早くから信長に仕え、桶狭間・姉川をはじめ尾張統一戦以来の主だった戦いのほとんどに従軍する。1580年の荒木村重討伐戦でも活躍し、戦後その旧領を宛行われて伊丹を居城とした。1582年本能寺の変が勃発すると、中国より返した羽柴秀吉に合流して山崎の戦で戦功を挙げる。その功により戦後の清洲会議では四宿老の一人に数えられた。その後も秀吉に属して美濃大垣城主となるが、1584年4月小牧・長久手の戦いで徳川勢に敗れて戦死した。

信長股肱の臣だが、いまいち影が薄く感じるのはなぜだ。

 

池田輝政
照政、三左衛門尉、幸新、侍従 1564〜1613 信長部将、豊臣大名、江戸大名
池田恒興の次男。父とともに信長に仕え、荒木村重討伐では兄の元助とともに戦功を賞された。本能寺の変後は父に従い秀吉に属す。1582年小牧・長久手の戦いで父と兄が戦没すると、その跡を受けて美濃大垣城主・次いで岐阜城主となった。その後秀吉政権下では九州征伐や小田原征伐等に従い、三河国吉田に転封されて吉田侍従と称される。秀吉没後の関ヶ原合戦では東軍につき、岐阜城攻略等の功績により播磨姫路五十二万余石の大封を得た。1613年姫路で死去。なお継室は徳川家康の娘督姫。

信長時代は父恒興、兄元助とともに父子三人で活躍。高島忠夫・政宏・政伸で演じると良いかも。

 

池田元助
勝九郎、紀伊守 1559〜1584 信長部将
池田恒興の長男で、父に従い信長へ仕える。1579年の荒木村重謀叛の際には伊丹表に在番して攻囲陣の一翼を担い、有岡城・花隈城の攻略で戦功を挙げた。以後は父から半ば独立した形で池田勢を率い、淡路侵攻や武田氏征伐に従う。本能寺の変後は秀吉に属し、1584年の小牧・長久手の戦いでは父とともに長駆三河攻撃を目指すが、その途中を徳川勢に襲撃され戦死した。

名前に共通性がないのがここんちの特徴。みな個性強かったのかな?

 

磯野員昌
丹波守 ?〜? 浅井家臣、信長部将、佐和山城主
近江の土豪。はじめ浅井氏に属し、佐和山城主として対六角氏・対織田氏の最前線に立つ。1570年の姉川合戦にも参戦、先鋒を務めて織田陣営を次々に切り崩したと伝えられる。姉川敗戦後もしばらく佐和山城にあって織田勢へ抗戦を続けたが、次第に孤立して1571年に開城した。その後は信長に従って高島郡を安堵され、一向一揆征伐戦等に従う。しかし1578年突如として高島を逐電し、高野山に入った。出奔の原因は不明。

どうしたのよー、何があったのよイソノくーん。(←花沢さん風にお読み下さい)

 

市橋長利
九郎左衛門、一斎、壱岐守 1513〜1585 信長旗下、福束城主
美濃の土豪で斎藤氏旧臣。1563年以前から織田氏に通じて美濃諸豪族の誘降に働き、信長の美濃平定後は浅井氏との同盟交渉にも関与する。その後は馬廻将校として伊勢進攻・長島一向一揆征伐などに従い、1578年には有力部将らとともに正月の茶会に列席するなど織田政権下で安定した地位を得た。本能寺の変後は羽柴秀吉に従い、入道して一斎(壱斎)と名乗った。

初期の名脇役。料理で言やあ、みりんみたいなお人。

 

稲葉一鉄
良通、伊予守 1515〜1588 信長部将、曽根城主
西美濃の豪族で、美濃三人衆の一。はじめ仏門にあったが、1525年父と兄の戦死を受けて家督を継ぐ。1567年安藤氏・氏家氏とともに信長へ通じ、以後織田家の有力な戦力として姉川合戦・一向一揆征伐・本願寺戦等に歴戦して大功を挙げる。天正初年頃に入道して一鉄と名乗り、本能寺の変後は羽柴秀吉に従って所領を安堵された。1588年11月死去。族孫に徳川家光の乳母春日局がいる。

星一徹と並ぶ、日本二大いってつの一人。「一徹者」の語源ともいわれる。

 

今井宗久
兼員、彦右衛門、大蔵卿法印 1520〜1593 堺町衆、茶人
堺の豪商で、金融・倉庫業および火薬業を営む。1568年に信長が上洛を果たすと、いち早くこれに接近して信任を得た。その後堺への矢銭要求をめぐり信長と堺会合衆が対立した際には、和睦の方向に会合衆を説得して両者の衝突を回避した。以後は信長政権下で堺五ヶ庄の代官職や但馬生野銀山の経営権などを与えられて商権を拡大したが、信長没後秀吉政権からは冷遇された。武野紹鷗の女婿で茶人としても知られる。

商いに人を見る目は欠かせまへん。

 

今川氏真
刑部大輔 1538〜1614 戦国大名今川氏当主
義元横死後に勢力を引き継ぐ(家督承継は義元生前か)が、まもなくして徳川氏に三河・遠江を、武田氏に駿河を攻め取られる。1572年に最後の拠点の掛川城を失ってからは北条氏・徳川氏に寄寓し、1575年には上洛して信長に蹴鞠を披露する。その後も長命し、子孫は高家として残った。

ケマリスト。サッカー王国静岡の源流。

 

今川義元
梅岳承芳、治部大輔 1519〜1560 戦国大名今川氏当主
今川氏親の第三子で、1536年長兄氏輝の死にともなう異母兄との家督争いに勝利して家を継ぐ。1537年武田氏と同盟して北条氏勢力を駿河から駆逐したのち、東へ進出して三河を領国化する。その間国内では検地を強化して軍役・税収の確定をはかるなど国力増強に努め、また1554年には今川・武田・北条の三国同盟を実現させて西方の憂いを断つなど、政戦両面で実力を発揮した。織田信秀死後は尾張へも勢力を伸ばすが、1560年尾張国桶狭間において信長の急襲を受けて討死した。

単なるやられ役ではない。歴とした名将。

 

岩成友通
主税助 ?〜1573 三好三人衆
三好氏家臣。三好長慶の死後三好一族の政康・長逸とともに宗家三好義継の後見となる。以後義継を擁して松永久秀らと争うが、やがて義継とも対立して抗争を激化させた。1568年以後信長の勢力が畿内へ及ぶと、六角氏や浅井・朝倉氏と結んで抵抗する。1570年野田・福島の挙兵後に一時信長へ帰順したが、1573年足利義昭と通じて再び敵対。淀城に籠ったが、織田方の細川藤孝らに攻められて戦死した。

みよしだらけでややこしい中、こいつだけは別姓でほんと助かる。

 

宇喜多直家
三郎左衛門尉、和泉守 1529〜1581 備前・美作の大名、岡山城主
備前国砥石城主宇喜多能家の孫。6歳のとき祖父能家が敗死し、窮乏したのち浦上氏に出仕する。浦上宗景家臣として戦功を重ねる一方、謀略によって妻の実家中山氏や祖父の仇島村氏らを滅ぼし家中での勢力を増大させた。1566年備中の中心勢力であった三村家親を暗殺、その後侵攻してきた子の元親を破ったのち、備前の有力国人松田氏らを滅ぼして主家を凌ぐ勢力に成長する。1577年には主宗景を讃岐に逐って戦国大名としての地位を確立した。その後は毛利氏に属して中国征伐途上の織田氏と戦ったが、1579年羽柴秀吉を通じて織田氏に帰服。一転して毛利氏攻撃に当たったのち、1581年2月14日(別説もあり)本拠の岡山城中で病没した。

謀略続けてン十年。バレンタインデーに死亡したのがなんとも不似合いな生涯。

 

氏家ト全
直元、常陸介 ?〜1571 信長部将、牛屋城主
美濃三人衆の一。はじめ土岐氏に仕え、主家衰亡後は斎藤氏に仕える。1567年稲葉一鉄、安藤守就とともに信長へ通じ、以後織田軍の中で戦力を発揮して上洛・伊勢征伐戦等に活躍した。1571年長島一向一揆攻めに参加した際、退却するところを一揆勢に追撃・包囲されて戦死。勢力は子の直通らが引き継いだ。

ところで美濃三人衆って、いつ結成?されたんだろう。

 

太田牛一
又助、和泉守 1527〜? 信長近臣
尾張国安食の住人で、柴田勝家家臣から信長直臣となる。本能寺の変前に近江で代官となり、変後は秀吉側室松の丸殿の老職を務めた。文字の素養があり、信長・秀吉に近侍しながら彼らに関する覚書の類を書き留め、晩年にそれらを編修して『信長公記』『大かうさまくんきのうち』等の軍記を著した。1610年過ぎまで長命したとみられる。

偉大なる記録者。これで自画自賛がなければ…

 

大津伝十郎
長昌 ?〜1579 信長側近
有力側近の一人で、1568年以前から信長に近侍する。上洛後京都庶政に携わり、租税や知行関係等内治上の重要事項について文書発給や信長への取次を行った。1578年の播磨神吉城攻めでは検使の任を務め、同年の荒木村重謀叛の際には佐久間信盛らとともに村重配下の高山右近の説得に当たる。その後高槻城に在番して村重攻囲軍に加わったが、翌1579年同城で没した。

惜しまれる病没。過労がたたったんだろうか。

 

織田長益
源五、有楽斎如庵 1547〜1621 信長弟、茶人
信長の弟。1581年の京都馬揃に連枝衆の一人として参加したほか、部将として武田氏征伐等にも従う。本能寺の変時には織田信忠とともに二条御所にあったとされるが、変後延命して織田信雄に仕えた。その後有楽斎如庵と号し、秀吉の御伽衆となって茶道で名を高める。関ヶ原では東軍について大和で三万石を与えられ、また大坂の陣の際には大坂城内にあって徳川方の間者をつとめるなどの活動をし、江戸大名として存続することに成功した。1621年京都で没。江戸の屋敷跡は今も有楽町として名が残る。

行いには当時から非難の声あり。「二条から脱出、大坂では秘密の諜報活動」と書けば一見格好良いが。

 

織田信興
彦七郎 ?〜1570 信長弟、小木江城主
織田信秀の子。長島対岸の尾張国小木江に城を構えるが、1570年11月信長が浅井・朝倉勢のために近江に釘付けとなっている間に一揆勢に攻められ自刃した。

初出が死亡記事な人。

 

織田信雄

北畠(姓)、茶筅、三介、信意、具豊、常真

1558〜1630 信長二男
信長の子で、母は生駒氏(吉乃)。1569年信長が伊勢に進攻して北畠氏を降した際、北畠具房の猶子となって伊勢国司となる。信長在世中は伊勢の国衆を率いて各地に従軍したが、独断で行った伊賀攻めで敗れるなど軽率な振舞も多かった。本能寺の変後は秀吉と結んで織田信孝を攻め、さらに秀吉と対立して徳川家康と結んだが、のち単独講和。1590年徳川家康の関東移封に伴い秀吉から徳川氏旧領への転封を命じられると、これを拒否して改易された。その後赦されて秀吉相伴衆となり、秀吉死後は家康に通じて五万石を与えられた。

頭はあまり良くなかったらしい。ただし舞の名手。変なとこだけ親父の血を受け継いだ。

 

織田信包
上野介、老犬斎 1543?〜1614 信長弟、上野城主
織田信秀の子で、信長とは同腹とも。1568年に長野氏の養子とされ、伊勢進攻後河芸郡上野城を与えられる。その後も兄信長に従って各地で戦い、一向一揆征伐等で活躍。本能寺の変後は秀吉に属し、一時勘気を蒙るがのち復帰、秀吉晩年は御伽衆となった。大坂冬の陣前夜の1614年7月死亡。

戦歴のわりに評価・知名度ともいまいち。名前が読みにくいからか。

 

織田信澄
津田(姓)、七兵衛尉 1558〜1582 信長甥、高島城主
信長に誅殺された弟勘十郎信勝(信行)の遺子で、柴田勝家に養育される。成人後信長連枝として起用され、越前一向一揆討伐等に参加したほか奉行や外交使者に重ねて任じられた。その功績により1578年近江国高島郡を与えられ、前後して明智光秀の女婿となった。その後も有力連枝として活躍し、1582年には織田信孝率いる四国渡海軍の一員に加えられたが、その間に本能寺の変が勃発。舅である光秀との関係を疑われ、大坂で織田信孝・丹羽長秀に殺害された。

親父も舅も謀叛人という、謀叛人界のサラブレッド。だから殺害されてしまったんだろうが。

 

織田信孝
神戸(姓)、三七 1558〜1583 信長三男
信長の第三子。実は信雄よりも早く出生したが、生母の身分の差から三男と定められたと伝えられる。伊勢進攻後神戸氏に養子に入り、神戸姓を名乗った。以後部将として各地に従軍し、1582年には四国征討軍の総大将を命じられる。しかし本能寺の変の勃発により軍勢が四散、中国より返した羽柴秀吉に合流して山崎の戦に参加する。光秀討滅後は柴田勝家と結んで織田家の跡目を望むが、清洲会議では三法師の補佐役として美濃と岐阜城を得るにとどまる。結果秀吉・織田信雄との対立が深まり、1583年4月信雄に岐阜城を攻められ、開城後自刃させられた。

それなりの能力だったためにかえって命を縮めてしまった。信雄と好対照。

 

織田信次
津田(姓)、孫十郎 ?〜1574 信長叔父、尾張守山城主
織田信秀の弟。守山城主とされるが、1555年家臣が誤って信長の弟を射殺してしまい、報復を恐れて逐電する。しかし翌年赦免されて守山城主に復した。1574年7月長島一向一揆攻めの終末時に一揆勢の逆襲を受けて戦死。

情けないエピソードのみ残ってしまった人。哀れである。

 

織田信友
広信、彦五郎 ?〜1555 守護代、清洲城主
尾張国下四郡守護代。老臣坂井大膳と組み、織田信秀死後勢力を盛り返してきた信長と戦う。1555年4月、信長と謀った織田信光に清洲城を奪取され、切腹に追い込まれた。

不穏な動きをする守護を殺すなどなかなかのやり手だったが、大うつけにはかなわなかった。

 

織田信治
九郎 ?〜1570 信長弟
織田信秀の子。1570年9月、近江国坂本に攻め寄せた浅井・朝倉軍を森可成とともに防戦し、討死した。

元亀年間は信長の一族の何人もが討死を遂げており、織田勢の苦闘のほどがうかがえる。

 

織田信秀
弾正忠、備後守 1510?〜1552? 信長の父
尾張国勝幡、那古野、古渡、末森城主。はじめ下四郡守護代織田大和守家の奉行の一人だったが、実力により国内の諸侍の旗頭的存在となる。西三河に進出して松平氏・今川氏と争ったほか美濃の斎藤道三とも干戈をまじえ、勢力の拡大を目指すが、1547年の大敗をはじめ道三には度々苦杯を舐めさせられる。そのため1548年道三と和睦し、息女を信長の嫁に迎えた。その後も拡大方針を守って今川氏などと果敢に戦うが、1552年(諸説あり)流行病にかかり死亡。なお信秀は内裏や神社へ度々寄進を行っており、その名は京都にも聞こえていた。

この子にして、この親あり。

 

織田信広
津田(姓)、三郎五郎、大隈守 ?〜1574 信長庶兄
織田信秀の子だが、信長とは異腹。早くから合戦に参加し、1548年三河安祥城の守将として今川勢と戦い、敗れて捕らえられる。その後松平竹千代との人質交換により帰国。信秀死後は信長に従いながら内々で謀叛を企むが、露見して未遂に終わる。以後は信長に服従して各地に戦い、1573年義昭との和睦に際しては信長名代として義昭と会見した。1574年長島一向一揆討滅戦に参加するが、最終局面で一揆勢の突入を受けて戦死。

自分と交換された小せがれが三河の太守になったのを見た気分はどんなもんだっただろう。

 

織田信光
孫三郎 ?〜1555 信長叔父
尾張国守山城主。小豆坂七本槍の一人に数えられるなど、武辺者として知られた。信秀死後は信長に協力し、1555年には信長と謀って清洲城を奪取、守護代織田信友を死亡させる。しかし同年家臣の手にかかり殺害された。

信長にとって都合の良い死。しかしだからといって、本能寺の真因同様「断定」することはできない。

 

織田信安
伊勢守 ?〜1591 守護代、岩倉城主
尾張国上四郡守護代。織田信行を支援して信長と争ったが、次第に劣勢となる。1558年浮野の戦いで自軍が大敗したのち子の信賢に追放され、その後は斎藤氏に寄寓する。斎藤氏滅亡後は京都に隠棲し、のち信長から一荘を与えられて余生を過ごした。

いろいろあっても天寿をまっとうできた人。

 

織田信行
信勝、勘十郎 ?〜1557 信長弟
織田信秀の子で、信長とは同腹の弟。実名は一般に信行と呼称されるが、文書類には信勝の名で記載される。信秀死後家臣団の支持を得て信長と対立、1556年信長直轄領を押領して稲生で信長と戦うが大敗した。その後生母・老臣のとりなしで赦免されたが、翌1557年再び謀叛を企てたことが柴田勝家の密告により発覚したため、清洲城で信長に誘殺された。

信長と対照的に品行方正とされるが、そのわりにゃあ色々やらかしてる。一人前の男だ。

 

織田秀孝
喜六郎 ?〜1555 信長弟
織田信秀の子で、信長・信行(信勝)の弟に当たる。1555年7月、庄内川上流を一人で騎行していたところを守山城主織田信次の家臣に謝って射殺された。齢15、6にして容貌人にすぐれた人物であったと伝えられる。

夭折が惜しまれる、一族中のジャニーズ系。乱世の一人歩きは大変危険ですので注意しましょう。

 

 

 

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行

 

 

戻る